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敵討ちの話

2020.05.02 (Sat)
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「伊賀越えの仇討ち」

今回は敵討ちの話で、仇討ちとも言います。テレビの
時代劇では、敵討ちがからむ筋立ては定番ですよね。
主人公の武士が巡礼の姉弟と出会う。若い身空で何か事情が
ありげなので探ってみると、敵持ちであることがわかる。
武士は助太刀を申し出るものの、

見ず知らずの人ということで断られる。その後3人は
江戸に出て、さらに調べると敵は武士身分を捨てて商人となり、
ある藩の江戸屋敷に出入りしている。そしてそこで、
抜け荷などのさらなる悪巧みが行われていることが
判明する・・・陳腐きわまりないと言えばそうですが、

こういうワンパターンこそが時代劇フアンの心をつかむんです。
さて、敵討ちは日本では古来からあったとされますが、
制度として定められたのは江戸時代からです。
鎌倉時代、1232年の御成敗式目では敵討ちは禁止でした。
これについては後述します。

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喧嘩は両成敗であり、成敗するのは当該者の主君の役目でした。
ただ、敵(かたき)が他の領地に逃亡してしまうこともままあり、
そこまでは主君の警察権はおよびません。
このような事例は多数あったようで、しかたなく敵討ちが
制度化されたという側面があるんです。

さて、敵と呼べるのは、自分の父母や兄等尊属の親族が
殺害された場合だけで、卑属(妻子や弟妹等)に対するものは
認められていません。また、家来が主君の敵を討つということも
一般的ではありませんでした。このことにも後でふれます。
手続きとしては、主君がまず敵討ちの認可状を出します。

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多くの場合、敵は他国に逃げているので、藩を越えて移動するには、
江戸の場合は町奉行に申し出、勘定奉行、寺社奉行を含めた吟味で
認められれば公儀御帳に帳付け(記載)が行われます。
で、見事敵を討った後は、役人に捕縛されるか自ら奉行所に出頭、
そこで帳付けに氏名があった場合は無罪放免です。

地方の藩の多くでは、敵討ちがなされない場合は家督を継ぐことが
できなかったので、家は困窮し、敵討ちに出た者は親類などの
援助で旅を続けました。見事敵を討てばお家再興となりますが、
そうでない場合、郷里に帰ることはできません。まあそれでも、
日本は島国で外国へ逃げるまではできなかったので、

こういう制度も成り立っていたんでしょう。あと、敵討ちは
処罰ではなく決闘という面が強く、相手にも自己防衛が
認められていました。そこで討手を倒せば返討ちですね。
また、討たれた側の関係者がさらに復讐をする重敵討は、
どちらが死んだ場合でも禁止です。きりがないですからね。

富士・鷹・なすび
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さて、みなさんは今年の初夢は何だったでしょうか。
見ると縁起がよい夢として「一富士、二鷹、三なすび」などと
言われますが、これは日本三大仇討ちを指しているという
説があります。三大仇討ちは、「赤穂浪士の討ち入り」
「曽我兄弟の仇討ち」 「伊賀越えの仇討ち(鍵屋の辻の決闘)」

富士は曽我兄弟の話の舞台になった富士の裾野の巻狩り、
鷹は浅野家の家紋、なすびは伊賀国の名物からきているのだという
ことになっています。うーん、どうなんでしょう。
自分には真偽のほどはよくわかりません。

元禄赤穂事件
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さて、この中で「赤穂浪士の討ち入り」は、主君の敵というより、
浅野内匠頭の遺恨を家来が果たすという形で、幕府側から見れば
私闘であり喧嘩、浅野家遺臣側から見れば吉良家との合戦という
ことになります。ですから芝居や映画では大石内蔵助は陣太鼓を
打ちますし(史実ではないようです)、浪士はみな切腹となります。
ただ、これを敵討ちとみなすかどうかの論争は続きました。

「曽我兄弟の仇討ち」は、五郎と十郎の曽我兄弟が、1993年、
父の仇、工藤祐経を寝所で討つんですが、相手が酔いつぶれて遊女と
寝ていたところなので、あまり正々堂々とはしていません。祐経を
殺した後、兄はその場で討たれ、弟はなんと源頼朝の屋敷に
押し入り、そこで捕らえられて斬首となります。

曽我兄弟
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御成敗式目の条文はこれを前例として敵討ちを禁じてるんです。
この事件、なぜ弟が頼朝の屋敷に入ったのか。じつは黒幕がいて
頼朝暗殺を指示していたという話があります。黒幕は、頼朝の弟、
蒲冠者範頼、あるいは北条家とされ、事実、この事件を契機として
範頼は失脚し、伊豆の修善寺で殺されてしまうんです。

最後、1634年の「伊賀越えの仇討ち」は、異例ずくめです。
まず弟の敵討ちであったこと。これは上記した敵討ちの基準に合致
しないんですが、藩主から内々の命を受けた上意討ちでもあったため。
兄の数馬は姉婿で郡山藩剣術指南役の荒木又右衛門に助太刀を依頼します。
この決闘、講談などでは又右衛門の36人斬りなどと言われますが、

荒木又右衛門
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又右衛門が実際に倒したのは2名だけです。敵に数馬が手傷を
負わせるまで待って、又右衛門がとどめを刺しました。この4年後、
又右衛門は鳥取藩に移籍した直後に急死してしまうんですが、
あまりに唐突だったため、毒殺説や、死んだことにして身柄を
隠匿した説などが出されています。

さてさて、この他、長谷川伸の『日本敵討ち異相』を読めば、
農民の敵討ちの事例も出てきます。敵討ちは面目を重んじる武士だけの
ものでしたが、実行した農民は孝行者と称賛され、罪には
ならなかったようです。ということで、大急ぎで敵討ちについて
ふり返ってみました。では、今回はこのへんで。

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義民伝説の周辺事情

2020.03.31 (Tue)
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今回はこういうお題でいきます。怖い日本史のカテゴリですが、
すごい地味な内容で、たぶんツマラナイと思います。
さて、どっから話していきましょうか。江戸時代初期、
堀田正盛という大名がいました。けして高い身分ではなかったのが、
義祖母である春日局が乳母をつとめた徳川家光が3代将軍になると、

異例の出世を重ね、下総佐倉藩の初代藩主となります。佐倉藩は
10万石程度ですが、江戸に近く参勤交代も楽です。
で、この正盛、家光の死の後すぐ殉死してるんですね。これは
おそらく、家光と衆道関係にあったためでしょう。そこで、
長男であった堀田正信が家督を継ぐことになります。

堀田正信
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ここからは伝説です。正信は藩主になったものの、後ろ盾であった
家光はすでに亡く、春日局も大奥を出てしまいます。
何もかも一人で裁量しなければならなくなったわけですが、
正信にはその器量はありませんでした。農民に対しては増税、増税、
年貢の取り立ても厳しく、藩内は暗くよどんでいきました。

名主たちが集まって話し合い、藩には何度も訴状を出して
困窮を訴えましたが、正信は聞く耳を持たず、そこで名主の一人であった
佐倉惣五郎は、直接江戸の老中に密書を送ったんですね。しかし、
一月たっても何の音沙汰もなし。ついに惣五郎は直訴の覚悟を決め、
一人江戸へと旅立ちます。1653年のことです。そして機をうかがい、

歌舞伎になった惣五郎


4代将軍、家綱が上野へ参詣する途上に潜み、訴状を掲げて
籠の前に走り出ます。直訴は死罪の定めですが、家綱は刀を抜いた
護衛を止め、訴状を取り上げます。かくして企ては成功し、
惣五郎にはお咎めなし。佐倉藩に年貢減免の命が幕府から
下されました・・・まあ、ありえない話ですがあくまで伝説ですので。

面目を失った正信は激怒、戻ってきた惣五郎の目の前で
4人の男児を惨殺。惣五郎夫妻は磔の刑としたんです。
それから、堀田家に怪異が起き始めます。正信の寝所に磔された姿の
惣五郎が現れ、とうとうと恨みを述べる。しかしお付きの小姓らには
見えません。正信は精神的に追い詰められ錯乱します。

佐倉惣五郎
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惣五郎の死から7年後、正信は江戸城内にて幕政を批判、
その内容は「幕府の失敗のために旗本・御家人、農民が窮乏しており、
自分は領地を返上する」というものでした。これは史実で、
正信は参勤交代を待たずに佐倉へ帰城してしまいます。切腹に
あたいする大きな罪でしたが、老中らは乱心のためとします。

堀田家は自ら述べたとおり領地を没収され、正信は信州の同族に
お預けとなります。うーん、寛大な処分で、何か裏がある気がします。
その後も、狂気の正信は何かと事件を起こしますが、処分から20年後、
将軍家綱の死にともない、正信はハサミで喉を突いて自害します。
お預けの身で切腹が認められなかったからですね。

ということで、惣五郎の死から27年がたって祟りが完了したと
見ればいいんでしょうか。それから90年たち、再興された堀田家は
再び佐倉の藩主となります。このあたりも何か事情がありそうに
思いますが、調べてもよくわかりませんでした。

将門口の宮神社(口の明神)
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1752年、佐倉藩藩主、堀田正亮は、惣五郎の百回忌にあたり、
「口の明神」という神社を創建し、惣五郎の魂を祀っています。
これも史実で、口の明神の御祭神は平将門と佐倉惣五郎。
つまり怨霊鎮めの社と見て間違いはないのではないかと思います。

これでだいたい伝説は終わりです。神社創建で、佐倉藩が
惣五郎伝説を認めた形になったので、その後、義民伝説は芝居や講談、
読本で取り上げられて江戸市中に広まったんですね。
さて、残り字数は少ないですが、少し考証してみます。

まず、惣五郎は実在の人物か? これ、以前は架空説があったんですが、
1715年に成立した『総葉概録』には、佐倉城下近辺に「総五」という
農民がいて、何らかの罪を得て処刑されたこと。冤罪であると主張して
城主を罵りながら死んだこと。堀田家の改易がその祟りと
噂されたことが記されています。

田中正造
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ただ、総五が一揆を企てたり、まして将軍に直訴をしたという資料は
残っていません。いくらなんでも直訴は無理だと思います。
警備が厳しくてできなかったでしょうし、もしそういうことが
あったら、必ず資料として書かれたものが残っているはずです。

総五が罪を得た理由にはさまざまな説があります。千葉氏の再興問題、
隠し田摘発、利根川治水工事・・・しかし確証となる資料は
見つかっていません。惣五郎の訴状なるものが残っていますが、
これは明らかに後代につくられたものです。

直訴する田中正造
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さてさて、ここまで見てきたように、惣五郎伝説は言葉どおり伝説の
域を出ないんですが、後代に影響を与えました。1901年、
衆議院議員を辞職した田中正造は、帝国議会開院式から帰る
明治天皇の馬車に、足尾鉱毒事件について直訴。警備の警官に
取り押さえられますが、狂人がよろめいただけとされ、

即日釈放されて罪にはなりませんでした。ちなみに直訴状は
幸徳秋水が書いたもので、その内容は新聞に取り上げられ、東京市中は
大騒ぎになり号外も出ました。直訴の前に正造の盟友石川半山は、
「君はただ佐倉惣五郎たるのみ」と励ましたと伝えられています。
では、今回はこのへんで。

※ 千葉県の郷土史などを研究されている方で、何かご教示いただければ幸いです。

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鴨島伝説について

2020.03.27 (Fri)
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今回はこういうお題でいきます。日本史の話なんですが、かなり地味な
内容になりそうなので、スルーされたほうがいいかもしれません。
さて、みなさんは柿本人麻呂の名前はご存知だと思います。
『万葉集』を代表する歌人であり、長歌の完成者とされ、
後の時代には、山部赤人とともに「歌聖」と呼ばれました。

生没年や出自などは不明。なぜかというと、当時の歴史書である
『続日本紀』に記載がないからです。定説では、人麻呂は
7世紀後半から8世紀初頭にかけての人物で、
身分の低い(六位以下)の下級官吏とされてきました。ただ、
歌が巧みであったため、宮廷歌人として大きな行事などに参加していた。

正史である『続日本紀』には、五位以上のものの事績については
必ず記載されるので、この説は当然ではあるんですが・・・
じつは謎もあるんです。905年に紀貫之らによって編纂された
『古今和歌集』の仮名序は、貫之が書いてるんですが、そこに、

紀貫之
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「いにしへよりかく伝はるうちにも、ならの御時よりぞ広まりにける。
かの御代や歌の心をしろしめしたりけむ。かの御時に、正三位柿本人麿
なむ歌の聖なりける。これは、君も人も身を合わせたりと
いふなるべし。」と出てくるんです。

要約すると「柿本人麻呂は なら帝(平城天皇)の時代の人で、
正三位であった」ということなんですが、上記したように、まず正三位
ではありませんし、平城天皇の時代からは100年も古い人です。
それなのに、なぜこのようなことが書いてあるのか。

まあ、紀貫之の時代には、人麻呂の正確な情報は失われていて、
言い伝えだけが残っていたというのは考えられるでしょう。
また、君臣一体で和歌が隆盛した時代があったという
貫之の理想が語られているのだろうという説もあります。
正直、自分にもよくわからない部分です。

柿本人麻呂
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で、この謎に食いついたのが哲学者の梅原猛氏で、著書『水底の歌』で、
柿本人麻呂は身分の高い人物であったのが、何かの事件に連座して、
「柿本猨(さる)」と名前を変えられ、石見国(島根県)現益田市の
益田川の河口沖合にあった鴨島という場所で水死刑にされた。また、
柿本猨は猿丸太夫と同一人物である、という説を発表しました。

ちなみに、柿本猨は正史に記述があり、従四位下で死去しています。
まあねえ、人麻呂→猨(猿)という連想は面白いと思います。
後代、道鏡事件で、女帝称徳天皇の不興を買った和気清麻呂が
別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられた例があり、
清麻呂の姉の広虫は狭虫(さむし)とされました。

梅原猛氏
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ただ、この説の一番の弱点は、人麻呂が関与した事件が何か
ということがまったくわからないところです。大事件なら必ず正史に
書かれているはずですが、そういう記述はありません。
もともとそんな出来事はなかったと考えるべきですよね。
それと、水死刑というのも、当時の刑罰にはありません。

さて、では何でこの話が出てきたかというと、人麻呂の辞世の歌とされる
「鴨山の 磐根し枕(ま)ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ」
の歌によるところが大きんです。この説は梅原猛氏のオリジナルではなく、
刑死ではないものの、石見国の鴨島で亡くなったという話は古くから
伝わっていました。故郷に戻って病気になった人麻呂は、自ら鴨島という
孤島に渡り、そこで死んだ。これだったら可能性はなくもないでしょう。

石見国 鴨山
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では、鴨島はあったのか。そこには人麻呂を祀る神社が建てられていたが、
大地震による津波で水没し、人麻呂の木像は現島根県松江市松崎に
流れ着き、その地に新たに人丸神社が建てられたという地元伝承が残っています。
鴨島が水没したのは、1026年の「万寿地震」で、この地震があったこと、
津波が起きたのは事実であろうと考えられるようになってきました。

鴨島について、1972年に梅原猛氏自らが調査隊を率い、
プロダイバーによって、鴨島の沈んだ跡とされる大瀬と呼ばれる地形の
調査が行われました。また、その20年後の1993年、
地球物理学者の松井孝典氏を団長として海底調査が実施されたんです。

結果としては、海底に地殻変動による横ずれ断層が確認され、
万寿地震があったのはまず確実だろうが、鴨島が実際にあったとまでは
言えないというものだったんですね。もし鴨島あったのだとしても、
ほんとうに島であったのか、砂州地形だったのかもわからない。

法隆寺 救世観音菩薩像
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ということで、鴨島で人麻呂が亡くなったということまでは否定
できないものの、人麻呂が事件に関与して猨と改名させられ、
流刑にされた上で水死刑に処されたというのは、さすがに
根拠のない話であり、学会に受け入れられてはいません。

さてさて、ここまで読まれて、自分が梅原説を批判していると思われる
かもしれませんが、そうではありません。すごい着想だなあと
感心しています。梅原氏には、この他にも聖徳太子は殺害され、
その怨霊を封じるために法隆寺が建てられたのであり、
秘仏、救世観音菩薩像は聖徳太子の姿であるとする

『隠された十字架』の著作もあります。これ、自分は学生時代に読んで
強い感銘を受けました。とにかく論証がスリリングなんですね。
聖徳太子の死の周辺事情についてはよくわからない部分があり、
また法隆寺の建造目的についても謎が多いんです。
では、今回はこのへんで。

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「歴史の謎」について

2020.01.27 (Mon)

本能寺の変

今回はこういうお題でいきます。さて、みなさんは歴史の
謎といえば何を思い浮かべられるでしょう。やはり邪馬台国問題
でしょうか。あるいは赤穂事件の浅野内匠頭の刃傷の理由?
もしかしたら、現代史の3億円事件、グリコ・森永事件などを
あげられる方もいるかもしれませんね。

ただ、現代史の場合、評価が定まるまでにはまだ時間がかかり
ますので、今回は話からのぞかせていただきます。
本屋に行くと、「歴史の謎を考える」みたいな内容の本が
文庫で出ています。日本史と世界史があって、
やはり日本史のほうがずっと多いですね。

3億円事件 犯人のモンタージュ写真


各出版社から出されていますが、取り上げられている謎はどの本も
だいたい同じです。ですから、日本史、世界史、各一冊を
買っておけば十分だと思います。今ちょっと自分の本棚を見てみたら、
「日本人が知らなかった歴史のカラクリ」(歴史の謎研究会編、
青春文庫)というのがありました。

さて、この歴史の謎と言われるものですが、自分は3つくらいの
グレードに分かれるんじゃないかと考えています。
① きわめて重要な意味を持つ謎で、それが解決することにより
 歴史研究が大きく進むもの。 ② 興味深い謎ではあるが、
 あまり歴史的な意味は大きくないと思われるもの。

③ 荒唐無稽でとても謎とは言えないようなもの。
上で例としてあげた邪馬台国問題などは①に入るでしょう。
明治に入って、その所在地について畿内説と九州説に分かれ、
激しい議論が戦わされてきました。また、それ以外の候補地も
名のりをあげています。で、ひとまず畿内と九州にしぼるとして、

邪馬台国はどこに?
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どちらに邪馬台国があったかは、3世紀の日本の状況を考える上で
きわめて重要です。もし九州だった場合、列島各地に小規模の
政治的なまとまりがバラバラにある状態、逆に畿内だとすると、
かなり統合が進んできていることになります。畿内説では、
このことを「ゆるやかな連合」と呼んでいます。

②については何を例にすればいいでしょうかねえ。あ、そうだ、
歴史フアンに人気の、坂本龍馬暗殺の謎なんかがいいかもしれません。
暗殺の実行は京都見廻組で ほぼまちがいないと思いますが、
実行者に竜馬の居場所を教えた黒幕がいるのではないか、
という説があれこれと出されていますね。

中には、西郷隆盛を中心とする薩摩藩説というのもあります。
ただ、その可能性は薄いですし、もし薩摩藩が黒幕だったとしても、
あまり違和感はありません。西郷は幕府を武力で完全につぶす
つもりで、公武合体論的な竜馬の存在がじゃまだったのは
確かだろうと思います。

近江屋事件 刺客に襲われる坂本と中岡
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ですから、もしその決定的な証拠が出てきたとしても、
それで日本史の研究が大きく進展するというわけではないでしょう。
最初に書いた内匠頭の刃傷の理由や、今度ドラマになる明智光秀の
謀反の理由なんかもこれに入るんじゃないかな。

③は、荒唐無稽なものはたくさんあります。そうですね、
源義経=チンギスハーン説なんかがわかりやすいかな。
まあありえない話ですよね。検討するのは最初から
ムダなんですが、ただ、義経が衣川の戦いで死なず北方に逃れた
可能性は、わずかながらあるかもしれません。

最近大はやりの「聖徳太子はいなかった説」
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でも、そうだとしても日本史の流れに与える影響はほとんど
ないでしょう。ということで、歴史の謎といったたぐいの本を
読まれる場合は、この謎が解決すれば、それによってどう歴史が
変わるのか、教科書は書きかえられるのか、などのことを
頭に入れておくといいんじゃないかと思います。

あとはそうですね、解決した謎というのもあるかな。
東洲斎写楽別人説なんかはそうですね。江戸中期の浮世絵師、
写楽は活動期間が短く、忽然と画業を絶って姿を消して
いるので、別人が姿を秘して描いていたのではないかという説です。

義経はチンギスハーン?


写楽の候補としては、初代歌川豊国、葛飾北斎、喜多川歌麿、司馬江漢、
谷文晁、円山応挙、山東京伝、十返舎一九、版元の蔦屋重三郎など、
同時代の有名人が数多くあげられています。ですが、信頼性の高い
文献に「写楽斎は俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」
と出ていて、斎藤十郎兵衛が実在していた証拠も出てきました。

文献史学的には一定の結論が出た形で、これを覆すには、
新たな有力証拠を持ってこなければなりません。とは言っても、
いまだに写楽別人説を見かけることもあります。歴史の謎というのは
一部のライターや出版社にとっては飯のタネで、
簡単に解決されても困るんですね。

きわめて独特の装飾的な感覚です
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最後に、誤解されてほしくないので言っておきますが、自分は、
こういう歴史の謎の研究に、アマチュア歴史愛好家の方がこつこつ
取り組まれることを否定するものではありません。キャバクラとかに
通うよりは、ずっと品もよく、お金のかからない趣味だと思います。

さてさて、ということで、今回は歴史の謎の話でしたが、邪馬台国問題
なんかは、これに取り憑かれると家財が傾き、友人を失い、
家族が愛想を尽かして最後には目が見えなくなる、
なんて冗談もあります。十分お気をつけください。では、このへんで。






「獅子王」伝説

2020.01.08 (Wed)
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「獅子王」東京国立博物館 蔵

今回はこういうお題でいきます。自分は刀剣を鑑賞する趣味が
ありまして、当ブログでも「刀剣シリーズ」というのを書いて
るんですが、これはどちらかというと地味な話なので、
興味のない方はスルーされてください。

さて、みなさんは「獅子王」という刀について聞かれたことが
あるでしょうか。例えば、源頼光が酒吞童子を斬ったとされる
「童子切安綱」などは有名ですけど、これはあんまり知られて
ないんじゃないかと思います。この刀の伝説には、二人の武人、
1匹の妖怪、そして一人の女妖が登場します。

どっから話していきましょうか。まず「獅子王」そのものについて。
これは現存する刀で、国の重要文化財です。平安時代末期の
大和の国の刀工作と見られており、刃長二尺五寸五分(約77cm)
やや小ぶりな刀ですが、元は長かったのが、研ぎ削られて
短くなったという説もあります。作者は不詳。

坂上田村麻呂
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次に、坂上田村麻呂の話をしていきたいと思います。
この人物はご存知でしょう。平安時代の武官で、桓武天皇の時代に
征夷大将軍を2度務め、蝦夷征伐をしたことで有名ですね。
田村麻呂については、「田村語り」と呼ばれる説話伝承が
各地に残ってるんですが、これがじつに混乱をきわめていまして。

できた場所や、伝わった時代によって内容がバラバラなんです。
ですから、ここから書く話には異説があります。そのことは
ご承知おきください。さて、次に出てくるのが女妖、鈴鹿御前
(すずかごぜん)です。伊勢国と近江国の境にある鈴鹿山に
住んでいたとされる伝説上の女性で、2つの顔を持っています。

田村麻呂の佩刀として有名な「ソハヤノツルギ」
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一つは、天より使わされた女神としての顔。もう一つは、
別名、立烏帽子(たてえぼし)という名の悪鬼、女盗賊としての
ものです。第六天魔王の娘とも言われます。正と邪の2面性が
あるんですね。で、前述のように、ここから話がごちゃごちゃに
なるんですが、大きく3つに分けられるかなと思います。

① 鈴鹿御前こと盗賊立烏帽子は田村麻呂によって討伐された。
② 鈴鹿御前と立烏帽子は別人で、田村麻呂は鈴鹿御前と協力して
  女盗賊立鳥帽子を倒した。③ 鈴鹿御前は立鳥帽子なのだが、
  本当の悪人は立烏帽子の夫で、田村麻呂は立烏帽子と
  ねんごろになり、その夫の大嶽丸を倒した。

ね、わけわかんないですよね。鈴鹿御前の伝説は、平安時代末頃には
できていたと考えられますが、残っている文献ごとに内容が
違うんです。ですから、鈴鹿御前が現代の作品やゲームに登場
する場合でも、そのキャラクターはバラバラになっています。

鈴鹿山の悪鬼、鈴鹿御前、田村麻呂 これは③の説
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長い話なので先を急ぎましょう。ともかく、田村麻呂は鈴鹿御前から
3本の宝刀を授けられ、それをもとにして大和の国の鍛冶に
作らせたのが、獅子王です。田村麻呂の佩刀としては「ソハヤノツルギ」
が有名で、この獅子王は朝廷に献上されました。

さて、時代は下って源平争乱の少し前、近衛天皇の御世。天皇は
体が弱く病気がちでしたが、その頃、毎夜黒雲が御殿をおおい、
その中で不気味な鳴き声をあげるものがいる。そこで退治を命じ
られたのが、源氏の長者、源頼政です。頼政が先祖、源頼光から
伝わる名弓「雷上動」で雲の中心を射ると、大きなものが落ちてきた。

妖怪 鵺(ぬえ) 実際は鵺という名前ではないと思われる
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これが、猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇の妖怪、
鵺(ぬえ)です。ただし、『平家物語』によれば、この怪物の
名前は不明で、鳴き声が鵺(トラツグミと考えられる)に似ていた
と出てくるだけなんですが、後世に鵺という妖怪になってしまいました。

頼政の家来、井早太がとどめをさし、怪物は死んで、帝の病気も
すっかり癒えます。近衛帝はこの褒美として、頼政に太刀、
獅子王を与えるんですね。この後、頼政は平氏全盛の世にあって
源氏最高の従三位の位にまで昇ります。

平安時代に鵺と呼ばれていたトラツグミ
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ですが、76歳で以仁王の令旨を受け、平氏追討に立ち上がるものの、
宇治平等院前の宇治橋で平知盛・重衡らと戦って戦死します。
このあたりのことはご存知と思います。で、獅子王は、頼政の
子孫である但馬国竹田城城主、赤松広秀へと受け継がれましたが、

赤松が関ヶ原の戦いにおいて、鳥取城下を焼き払ったのを徳川家康に
とがめられ切腹を命じられた際、家康に没収されます。
家康はこの刀の由来を知っていたので、自分のものにはせず、
頼政の別系の子孫、土岐頼次へと下賜されることになります。

従三位 源頼政
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土岐家に代々伝えられた獅子王は、明治維新後に皇室に献上され、
現在は東京国立博物館に所蔵されています。やっと最後まで
説明することができました。長い話でしたね。
ただ、現存する刀は、頼政に与えられた獅子王ではないという
説を唱える研究者もいます。

さてさて、ということで、獅子王伝説を見てきましたが、
どこまでが史実で、どこまでが伝説や脚色なのか、まったく判別
できません。歴史ってこういう例が多いんです。ただ、平安末期の
特徴を備えたこの名刀が存在していることだけは
間違いのない事実です。では、今回はこのへんで。

頼政が戦死した宇治橋合戦
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