祐天上人と生類憐れみの令

2018.07.18 (Wed)
歌舞伎で上演された「累が淵」


今回は「怖い日本史」のカテゴリの話です。けっこうこみ入った内容になるかも
しれません。まず、祐天(ゆうてん)上人とはどんな人物なんでしょうか?
祐天上人は、江戸初期の17世紀に活躍した僧侶で、当時、厄払いや
怨霊退散などの加持祈祷を行うのは密教の僧というのが普通でしたが、
祐天上人は阿弥陀仏を信仰する浄土宗の僧なんですね。

祐天上人は、怨霊に襲われていた者達を救済しながら全国を巡り歩き、
念仏の力で悪霊を消滅させたと言い伝えられています。
まあ、江戸時代のスーパー霊能者みたいなものです。
また、彼は難産で苦しむ女たちのもとで念仏を唱え、安産に導いたとも言われます。
このことは後で関係してくるので、覚えておいてください。

祐天上人


さて、祐天上人が解決した最大の怨霊事件として有名なのが、
「累ヶ淵」の事件です。累ヶ淵は、茨城県常総市羽生町の鬼怒川沿岸に
あったとされる地名で、事件の内容はオカルトフアンなら
ご存知とは思いますが、いちおう簡単に説明させてください。

その村に、与右衛門という百姓と、その後妻のお杉の夫婦がありました。
お杉には連れ子の娘、助(すけ)がいましたが、生まれつき顔が醜く、
足が不自由であったため、与右衛門は助を嫌っていました。
このため、夫婦仲がうまくいかず、助が邪魔になった与右衛門は、
助を淵に投げ捨てて殺してしまいます。

翌年、与右衛門とお杉は女児をもうけて累(るい)と名づけましたが、
累は助にそっくりの醜さであったため、村人は助の祟りと噂し、その子は、
「助がかさねて生まれてきたのだ」と「るい」ではなく「かさね」と呼ばれました。
その後、与右衛門とお杉はあいついで病死します。

孤児になり村人に育てられた累は、流れ者の谷五郎を看病し、村人に勧められて
夫婦になります。しかし、つねづね累の醜さを疎ましく思っていた谷五郎は、
別の女と仲良くなり、累を川に突き落として殺してしまいます。
はからずも、これは助が死んだのと同じ場所でした。

その後、谷五郎は後妻を迎えますが、すぐに病気で死んでしまい、
なんとその数は5人にもなります。やっと6人目の後妻、きよとの間に、
菊という娘が生まれましたが、菊は成長するにつれて狂乱するようになります。
菊は、自分は累であると名のり、谷五郎の悪事を訴えて暴れます。

これを、たまたま近くに滞在していた祐天上人が聞きつけ、
苦難の末に累の怨霊を退散させますが、菊の状態はすぐ元に戻ってしまいました。
そして今度は、自分は助であると名のります。土地の古老から事の次第を聞いた
祐天上人は、累と助、両名に戒名を授け、念仏の力で成仏させることになります。

初代 三遊亭圓朝


この話は江戸にまで伝わり、歌舞伎として上演され、また、明治になって、
初代 三遊亭圓朝が、怪談噺 『真景累ヶ淵』を作り上げて世に広まりました。
この内容がどこまで事実なのかははっきりとしませんが、
間引きや子どもを売ることが普通にあった閉鎖的な農村の中で、
起きてもおかしくない出来事と考えられたんでしょう。

徳川綱吉


さて、話変わって、生類憐れみの令はご存知でしょう。幕府の第5代将軍
徳川綱吉が制定したもので、「天下の悪法」とまで言われます。ただ、
いろいろ誤解もあって、「生類憐れみの令」という名前の法令はないんです。
綱吉が出した一連の関係法令をまとめてこう呼んでいるんですね。

で、綱吉は祐天上人に帰依していました。これは、綱吉には跡継ぎの子ができず、
綱吉の生母の桂昌院が、上で書いた、難産に苦しむ妊婦を祐天上人が
何人も助けたことを聞きつけて、江戸城に招いて法話を聞くようになったんです。
そこで、祐天上人は綱吉に対し、ご政道へのアドバイスも行ったようです。

綱吉といえば、「犬公方」と呼ばれ、過度に犬などの生き物を大切にしたことで
知られますが、一連の生類憐れみの令の中で最初に出されたのは、
人間の捨て子に対するものでした。当時、捨て子が都市でも農村でも
横行しており、それを禁止し、保護するためのものだったんです。
それがだんだんに、他の生類にも広がってエスカレートしていったわけです。

4万匹の捨て犬を収容したとされる中野の犬屋敷


この背景には、祐天上人からの影響があるのかもしれません。
また、「累が淵」の事件も、祐天上人への綱吉の帰依が厚かったことから、
生類憐れみの令とからめて子捨て、子殺しの話が作られ、
全国に広まっていったのかもしれないんですね。

大樹寺の位牌 中央が綱吉


さてさて、最後に、徳川綱吉身長124cm説をご紹介して終わりにします。
現在の愛知県にある徳川家の菩提寺、大樹寺(だいじゅじ)には、
徳川歴代将軍の位牌がありますが、この位牌は将軍が亡くなった時の身長と
同じサイズで作られているとされていて、綱吉のものは124cmです。
これはさすがに、いくら江戸時代の平均身長が低いといっても異常で、
もし本当にそうなら、低身長症が疑われます。

ただしこれ、綱吉の墓が発掘されているわけではないので、
はっきりしたことはわかりません。綱吉は母親の桂昌院にべったりのマザコンだった
という話もあり、そういったさまざまなコンプレックスから、
生類憐れみの令が出されたというのは、自分はあってもおかしくない気がしますね。
では、今回はこのへんで。







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『東海道四谷怪談』あれこれ

2018.07.15 (Sun)


今回はこういうお題でいきます。みなさん「四谷怪談」はご存知だと思います。
「皿屋敷」「牡丹燈籠」と並んで日本三大怪談の一つとなっていますね。
(三大怪談には「真景累ヶ淵」が入る場合もあります)
では、歌舞伎の『東海道四谷怪談』についてはどうでしょうか?

まず、作者ですが、歌舞伎作者の四代目 鶴屋南北です。
彼の作風はケレン味にあふれ、舞台装置を工夫して観客をあっと驚かせる
のが得意中の得意でした。それは『東海道四谷怪談』においても十分に発揮され、
後に述べる「戸板返し」のシーンなどにうかがうことができます。

鶴屋南北 なかなかの色男


次に、外題の『東海道四谷怪談』について、なんで「東海道四谷」と
ついているんでしょうか? これ、いろんな説があってはっきりとしないんですが、
東京の、つまり江戸の四谷ではない、ということを強調したいために、
「東海道」がつけられてるみたいなんですね。

今の神奈川県藤沢市あたりに、当時、四谷という地名があって、
そこで起きた話ということのようです。じゃあ、なんで江戸を舞台にできない
のかというと、『東海道四谷怪談』は独立した話ではなく、
『仮名手本忠臣蔵』の外伝、サブストーリーという形で作られたものだからです。
(『仮名手本忠臣蔵』は、浄瑠璃作者の二代目 竹田出雲ら数名の合作)

『東海道四谷怪談』の初演は、文政8年(1825年)に江戸中村座で行われました。
このとき、『仮名手本忠臣蔵』と『東海道四谷怪談』が交互に、
2日間にわたって上演されているんです。で、『仮名手本忠臣蔵』は
赤穂浪人が主君の敵である吉良上野介を討ち取った史実が元になってるんですが、
江戸幕府の手前、そのままの形では上演することができない。

そこで、時代は南北朝時代、場所は鎌倉ということにして話が作られたんです。
劇中では、浅野内匠頭が塩冶判官、吉良上野介が高師直になっています。
これ、どちらも実在の人物で、高師直は『太平記』などでは、
悪逆非道の人物として描かれる、まあ歴史的な大悪役なんです。

さて、では『仮名手本忠臣蔵』と『東海道四谷怪談』がどう関係してるかというと、
お岩さんは塩谷判官の家臣の娘で、伊右衛門はその婿で塩谷浪人です。
本来は討ち入りに加わるべきであったのに、なんと、お岩を捨て、
仇討ちをあきらめて、高師直の重臣の娘と再婚してしまいます。
もうこれだけで、観客に憎まれる要素が十分です。

で、お岩さんにはお袖という妹がいまして、その夫が、『仮名手本忠臣蔵』の
四十七士の一人、佐藤与茂七なんです。最後の場面では、伊右衛門はお岩さんの
亡霊にさんざんに悩まされたあげく、与茂七に討ち取られます。
典型的な勧善懲悪の物語になっているわけです。

円山応挙の幽霊画


さて、ここまででだいぶ長くなってしまいました。
歌舞伎のシーンに話をうつしたいと思います。日本の幽霊は江戸時代に、
足がないというイメージが定着しました。
一説には円山応挙が描いた幽霊画が元になっていると言われます。

たしかに、足がなければ足音がしませんし、宙に浮いたり、滑るように動いたり、
怖さが引き立つ感じがしますね。で、歌舞伎でもこれを踏襲して、
お岩さんの衣装には、「漏斗 じょうご」と呼ばれる特殊なものが用いられ、
腰から足にかけて先がすぼまっています。

「提灯抜け」シーンの漏斗


『東海道四谷怪談』では、「提灯抜け」のしかけでお岩の幽霊が提灯の中から
出てきた後、体が吊り上げられて、漏斗の下まで全部見えるように演出されています。
こうして足のない幽霊の姿が観客に強く印象づけられて、
現代までそのイメージが続いていたんです。

さて、『東海道四谷怪談』の最大の見せ場は、「戸板返し」の場面と言われます。
隠亡掘で、伊右衛門が流れてきた戸板をひっくり返すんですが、
戸板の片側にはお岩の死体、裏面には小仏小平がくくりつけられていて、
どちらも伊右衛門のせいで死んだ被害者です。

「戸板返し」


このシーンは、一人の役者の早変わりで行われ、戸板の両面にそれぞれの
衣装がつけられていて、板にあいた穴から顔と手を出すわけです。
こう書くと簡単そうですが、役者は瞬時にかつらをつけ替えたりしなくてはならず、
かなり大変なんです。さらに小仏小平の着物がはがれ落ち、下から白骨死体が現れる。

これが大変な評判を呼んで、多くの浮世絵にその場面が描き残されています。
このあたりは、舞台装置にこっていた鶴屋南北の面目躍如なんですが、
当時、不義密通を働いた男女の死体が戸板にくくりつけられて流されているのが
見つかって大騒ぎとなっていて、それを南北が芝居に取り入れたみたいです。

さてさて、ということで、今回は歌舞伎の四谷怪談のお話でした。
鶴屋南北はほんとうに才人で、現代でいえばジョージ・ルーカスみたいな
感じですか。これでもかとばかりに、観客を怖がらせるための
ギミックを積み上げています。こういう姿勢は、自分が怪談を書くときに
見習いたいと思いますね。では、今回はこのへんで。







安徳天皇と八岐大蛇

2018.07.03 (Tue)
今回はこの話題でいきます。これまで当ブログでは、
天皇シリーズと呼べる記事を書いてきてて、
「武烈天皇」「天武天皇」「斉明天皇」などを取り上げてるんですが、
どちらかといえば学術的な内容になっています。それに対し、
本項はかなりオカルト色の濃いものですので、その点をご承知おきください。

安徳天皇の入水


さて、安徳天皇はみなさんご存知でしょう。12世紀後半の第81代天皇。
先代、高倉天皇の第一皇子で、母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)ですので、
清盛の孫にあたるわけですね。御年8歳にして、三種の神器とともに
壇ノ浦に沈んだと『平家物語』には記されています。

ではまず、安徳帝の最期の様子を、『平家物語』の名文で見てみましょう。
「小さくうつくしき御手をあはせ、まづ東を伏し拝み、
伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、その後西に向かはせ給ひて、
御念仏ありしかば、二位殿やがていだきたてまつり、
波の下にも都のさぶらふぞ となぐさめたてまつつて、千尋の底へぞ入り給ふ。」




訳すまでもないでしょう。ここで出てくる「二位の尼」は、平時子、
清盛の正室で、安徳天皇の祖母にあたります。このとき、幼帝といっしょに、
宮中に伝わる三種の神器も、波の中に投げ沈められたとされます。
ただし、八咫鏡と八尺瓊勾玉は入っていた箱が浮いたために回収され、
天叢雲剣(=草薙剣)だけが失われたことになっています。

で、同じ『平家物語』の「剣巻」という部分に、じつに面白い記述があるんです。
「草薙剣は風水龍王、八岐大蛇と変じて、素盞鳴尊に害せられ、持つ所の剣を奪はる。
(中略)八歳の帝と現れて、本の剣は叶はねども、後の宝剣を取り持ちて
西海の波の底にぞ沈み給ひける。終に龍宮に納まりぬれば、
見るべからずとぞ見えたりける。」


天叢雲剣はもともと本体が龍王で、八岐大蛇に姿を変えていたときに、
スサノオによって殺され、尾の中にあった剣を奪われてしまったが、
時を経て、8歳の天皇に姿を変えて現れ、宝剣を取り戻して海の中に沈んだ。
天叢雲剣が失われてしまったのは、龍宮の中に収まっているからだ・・・

天叢雲剣イメージ


ここで、「本の剣は叶はねども」とあるのは、本来の天叢雲剣は
名古屋市の熱田神宮にあり、宮中にあったのは、
いわゆるレプリカだったという意味でしょう。ただしレプリカと言っても、
本体から分霊を受けているものです。

つまり、安徳天皇は龍王の化身で、天叢雲剣を取り戻すためだけに転生して
平家が奉じる天皇となり、宝剣を取り戻すために海に沈んだということで、
平家が壇ノ浦で滅亡するのは、天が定めた運命だということになるんでしょう。
それだけ、三種の神器は重要視されていたわけです。

さて、平家を滅ぼした源氏の頭領、源頼朝は、この戦いで安徳天皇と天叢雲剣を
失ったことをずっと悔やんでいたと言われます。頼朝は、落馬した傷がもとで
死んだとされますが、『北條九代記』という資料には、幼くして壇ノ浦の藻くずと
消えた安徳天皇の亡霊が現れ、頼朝は心神を喪失して馬から落ちたと出てきます。

源頼朝


この 「安徳天皇=八岐大蛇=龍王」という話をおそらく知っていて描かれたのが、
諸星大二郎氏の漫画『妖怪ハンター』中の「海竜祭の夜」ですね。
作中、平家の落人の島に「あんとく様」という、巨大な海蛇の体に
幼児の顔がついた怪物が現れます。

「海竜祭の夜」


さて、話変わって、非業の死を遂げた歴史上の人物には「生存説」
がついて回りますが、安徳天皇にもあります。瀬戸内海を秘密裏に脱出し、
鹿児島県の南方海上にある「硫黄島 いおうじま」に逃れたとするものです。
ちなみに、ここは太平洋戦争の激戦地であった「硫黄島 いおうとう」とは別です。

硫黄島は鬼界ヶ島とも言われ、鹿ケ谷の陰謀により、俊寛、平康頼、藤原成経が
流罪にされた島です。このうち、平康頼、藤原成経の2人だけが罪を許され、
一人島に取り残された俊寛が絶望のあまり足摺をした場面も『平家物語』では有名で、
これをもとに、芥川龍之介が「俊寛」という作品を書いていますね。

硫黄島の俊寛像


で、平資盛や時房らとともに南に逃れた安徳天皇は、やがて鬼界ヶ島の
長浜の浦に着き、現地で成人して資盛の娘と結婚し、
68歳まで生きたと言われています。硫黄島には、安徳天皇陵とされる
小さな墓をはじめ、その周囲に一族のものと言われる墓がたっています。

また、終戦直後には、安徳天皇の子孫を自称する人物が島に現れ、
マスコミから「長浜天皇」と呼ばれて話題を集めています。長浜家の家宝には、
「開けずの箱」があり、神器だから見ると目がつれてしまうと
言い伝えられていたという話もあります。

さてさて、最初に書いたとおり、本項の内容はオカルトですので、
本気にされても困ります。ただ、『平家物語』は仏教的な無常観を基調にした
脚色が強く、どこまでが史実なのかよくわからない部分が多いんですよね。
では、今回はこのへんで。

関連記事 『平家物語は鎮魂の書?』

安徳天皇陵?






忍術って何?

2018.07.02 (Mon)


今回はこういうお題でいきます。何から書いていきましょうかね。
みなさんは「忍術」というと、どんなイメージをお持ちでしょうか。
黒装束に身を包んだ忍者が、口に巻物を咥えて指で印を結ぶと、
パッと煙が出て、ドロンと姿が消える・・・こんな感じでしょうか。

でもこれ、ほとんどは江戸時代に書かれた講談本や歌舞伎からきたもので、
実際の忍術は、もっと地味なものでした。有名な忍者には、
「猿飛佐助」や「霧隠才蔵」などがいますが、実在の人物ではなく、
あくまでフィクションの中の登場人物です。
いっぽう、「服部半蔵」や「風魔小太郎」などは実在した証拠があります。

まず、忍術はいつころから存在したでしょうか。
これは、かなり古くからあったという意見もあります。飛鳥時代、
聖徳太子が、大伴細人という人物を「志能備(しのび)」として用いていた、
などという話もありますが、『日本書紀』などの歴史書には、
そのような記述はありません。研究者の間では、いわゆる忍者は、
室町後期ころから始まったとする意見が多いんですね。

手裏剣と撒き菱
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次に、忍者という呼称ですが、これも江戸の講談本から広まったと
見るのがいいようです。戦国時代には、忍者は「乱破(らっぱ)」
「素破(すっぱ)」などと呼ばれていました。報道用語である、
「素っ破ぬく」という語は、ここからきているようです。

さて、では、忍者はどんな役割を果たしていたのか。
これは、平時の活動と、戦時の活動の2つに分けることができます。
平時の活動は、基本的に情報収集です。行商人や僧侶などに化けて
他国の領地に入り込み、穀物の取高や領主が人民にどれほど慕われているか、
城下町の道路事情、城の建築様式などを探るわけです。

これを行うには、まず疑われないことが何より大切なので、
いかに成りすました職業になりきれるかということが重要でした。
あとは、地図を書く能力や、建築についての知識、薬草学など、
要求されるのは地味な能力ばかりだったんですね。

水蜘蛛 しかしどう見ても泳いだほうがはやい
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次に、戦時の役割ですが、まず一つは流言飛語を流すことです。
「敵の援軍がすぐ近くまで迫ってきている」「味方の○○が裏切りをしそうだ」
こういう情報を広めて、敵を疑心暗鬼に陥らせ、混乱させる。
また、忍者は実際に戦闘に加わることもありました。

具体的な戦いの様子を、風魔小太郎の例から見てみましょう。
小太郎は200人ほどの忍者集団の頭目で、小田原の北条氏に仕えていました。
といっても、正式に禄をもらっていたわけではなく、
ふだんは盗賊活動をして暮らし、それが北条氏に黙認されていたようです。

1581年、北条氏直と武田勝頼の軍が、今の静岡県にある黄瀬川をはさんで
対峙していましたが、氏直の命を受けた風魔党は、50人程度の小集団で、
真夜中に武田陣に忍び入り、馬を放したり、火をつけたりの活動を行い、
その一つ一つはたいした被害ではありませんでしたが、毎夜のことに、
武田軍は疲弊して、とうとう兵を引いて退いてしまったんです。

ちなみに、風魔小太郎は、江戸時代が始まってからは完全な盗賊となって、
江戸市中を荒らし回り、ついに密告によって捕らえられ、
磔の刑に処せられたとする資料もありますが、
これは、どこまで信用がおけるかはわかりません。

石垣を登るための鍵つき縄


さて、忍者といえば、手裏剣を投げているイメージもありますが、
忍者に特有の体術や武術はあったんでしょうか。忍術の指南書とか、
奥伝書なるものが現代にも伝わっていますが、
そのほとんどは後世に創作されたものです。
忍者特有の武術などはなかったというのが一般的な見方です。

手裏剣、忍者刀、撒き菱、水の上を歩くことができる水蜘蛛などの武器や
用具のほとんどは、後代に作られたものですし、
それが存在していたとしても、実際に使われる場面はまずなかったでしょう。
忍者の身体能力は、盗賊程度のものだったと考えられます。

さて、歴史上、忍者だったのではないかと疑われている人物には、
俳諧師の松尾芭蕉、浮世絵師の葛飾北斎などがいます。
芭蕉は、伊賀の出身で、『奥の細道』の日程からみる健脚ぶり、あるいは全国各地に
弟子や後援者がいて活動拠点になっていることなどからそう言われるんですが、
自分は、この可能性はけっこうあるんじゃないかと思っています。

松尾芭蕉
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あと、確実なのは間宮林蔵です。忍者というか公儀の隠密ですね。
林蔵は樺太探検をして、間宮海峡にその名を残していますが、
シーボルトが日本地図を国外に持ち出そうとした事件が明るみに出る
きっかけをつくり、これにからんで林蔵の師にあたる高橋景保が獄死しています。
このことから、林蔵は幕府の犬と言われて忌み嫌われました。
このあたりのことは面白いので、いつか書いてみたいです。

間宮林蔵
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さてさて、ざっと見てきましたが、現在の忍者のイメージのほとんどは、
江戸時から明治時代のフィクションでつくられたものです。しかし、
一つの日本を表す文化コンテンツとして、「ハラキリ」 「ゲイシャ」などとともに、
外国では有名になっていますね。では、今回はこのへんで。





気合術と松山主水

2018.06.22 (Fri)


今回はこのお題でいきます。よく「気合をかける」とか「気合を入れる」
と言われますよね。このときの「気合」って何でしょうか?
ネット辞書を見ますと「 1、精神を集中させて事に当たるときの気持ちの勢い。
また、そのときの掛け声。2、 呼吸。いき。」
と出てきます。
では、気合術とは何なのか?

ここでひとまず「気合術」を定義しておくと、「相手に直接ふれることなく、
声や動作を用いて、行動を自由に制御する方法」こんな感じですかね。
では、こういうことは実際にできるんでしょうか?
youtubeには、中国の気功師が、声をかけただけで遠くにいる人を転倒させる
ような動画が出てきていますが、自分から見ればかなり怪しいものなので、
今回、中国関係のものはのぞいて考えてみます。



さて、自分は小学校では道場、中高では部活動で柔道をやっていて、
団体戦ですが、国体に出たこともあります。
柔道だと、声を出して試合することはあんまりないですね。
ただ、小学校のときの道場の師範には、技をかけるときに「ヤー」などと
声を出しながら行うと、そうしないときよりも力が入るというのは教わりました。

これは科学的にも実証されていて、特に重量挙げなどの力を使う種目では、
大声を出しながらバーベルを挙げた場合と、そうでない場合では、
はっきりと数値に違いが表れています。ある研究では、出す声が「うー」
のときが一番 成績がよかったそうです。

ただし、柔道の場合、技をかけるときは相手の道着をつかんでいるので、
上に書いた気合術の定義からは外れています。あと、道場の先生には、
組みながら相手の呼吸をはかって、相手が息を吐いたときに技をかけるとよい
とも教わりましたが、それは、どうやっても自分にはできなかったですね。

気合を入れる松本薫選手


さて、自分が通っていた中学校の道場はひじょうに古い建物で、
平屋建ての右側が柔道場、左側が剣道場になっており、間に壁がなかったんです。
で、柔道部はたんたんと練習してるんですが、剣道部はつねに、
「きえ~~~」とか「あぎょ~~」とか叫びながら稽古していて、
それがうるさくて、練習の後に頭が痛くなることがありました。

これ、剣道部のやつらは防具の面をつけてるので、それが耳栓になって、
横で聞いている柔道部よりうるさく感じないんですよね。
剣道のこの叫び声を「気勢」と言うんだそうです。なぜ声を上げるかというと、
大きな声を出すと、自分の体内でこの声が反響し、特に頭蓋骨内で、
脳が活性化され、集中力が高まるということらしいですね。

ここまで、重量挙げと柔剣道を例にして、「声を上げる効果」について見てきましたが、
あくまで自分の力を十分に発揮するためのもので、相手に対する効果と
いうわけではありません。もちろん、多少は威嚇する効果もあったでしょうが、
それは相手もやってるので同じです。
では、相手を支配する気合術というのはないんでしょうか?

さて、松山主水(もんど)という人物をご存知でしょうか。
あまり知られていないと思いますが、江戸時代初期の剣豪の一人です。
江戸初期は、たくさんの浪人があふれ、その中で、剣技によって身を立て、
名を高めて仕官をめざそうと、全国を武者修行にまわる者がいました。
有名な、二刀流の宮本武蔵もその中の一人です。



松山主水は、めでたく熊本細川藩の江戸屋敷に採用され、
藩主の細川忠利に重用されて、千石という知行を得ます。
主水の剣の流派は「二階堂剣法」といい、
源義経から伝わるものとされ、その奥義は「平兵法」と呼ばれました。
あれ、義経が元祖なのに、平というのは変ですよね。

これは、初伝を「一文字」、中伝を「八文字」、奥伝を「十文字」とし、
これら「一」「八」「十」の各文字を組み合わせると「平」の字になることから
きているようです。また、主水は「心の一方」あるいは「すくみの術」という
技も使い、これが今回のテーマである気合術と関係がありそうなんです。

江戸時代には参勤交代の制度ができましたが、百を超える藩の行列が
江戸城を目指して、たいへんに混み合いました。
そこで幕府の下士が交通整理にあたりましたが、
主水が細川藩の行列の先頭に立ち、列の前に来るものに対して、短く声を発し、
手のひらを下向きに前に突き出すと、みな身がすくんで動けなくなったり、
ひっくり返ったりしたと書き残されています。このため、細川藩の行列だけは、
いくら混雑してても、すいすいと進むことができました。

どうやら、「心の一方」は、瞬間催眠術のようなものだったんですね。
主水の働きを目撃した諸大名家の人々は、「主水はまるで魔法使いのようだ。
細川家はとんだ重宝な術者を持ったものだ」と噂し合ったそうです。
また、主水は気合術だけでなく、体術にも優れ、七尺(2、2m)の塀や、
二十二尺(6、6m)の堀を、助走なしで跳びこえることができたということです。

さて、これほどの力を持った主水ですが、病気で高熱を発して寝込んでいるところを、
恨みを持った刺客に襲われます。布団の上から刺されたものの、刺客に、
「心の一方」をかけて動けなくしてから斬り殺し、その後、
自分も息絶えたと言われます。(動けないところを、主水の小姓が斬ったという説もあり)

さてさて、最後に、細川藩といえば、晩年の宮本武蔵が客分として招かれていましたが、
主水と武蔵には、接点はなかったようです。ただし、主水の一番弟子であった
吉之丞という人物が、細川家に仕官を求めた宮本武蔵に試合を挑んだところ、
武蔵は恐れて逃げたという逸話が残っていますが、どこまで本当かはわかりません。

宮本武蔵


ということで、主水の話が真実ならば、気合術のようなものはあったことに
なりますが、残念なことに現代には伝わっていないようです。
これについては、機会があればさらに調べてみたいと思います。
では、今回はこのへんで。