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「獅子王」伝説

2020.01.08 (Wed)
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「獅子王」東京国立博物館 蔵

今回はこういうお題でいきます。自分は刀剣を鑑賞する趣味が
ありまして、当ブログでも「刀剣シリーズ」というのを書いて
るんですが、これはどちらかというと地味な話なので、
興味のない方はスルーされてください。

さて、みなさんは「獅子王」という刀について聞かれたことが
あるでしょうか。例えば、源頼光が酒吞童子を斬ったとされる
「童子切安綱」などは有名ですけど、これはあんまり知られて
ないんじゃないかと思います。この刀の伝説には、二人の武人、
1匹の妖怪、そして一人の女妖が登場します。

どっから話していきましょうか。まず「獅子王」そのものについて。
これは現存する刀で、国の重要文化財です。平安時代末期の
大和の国の刀工作と見られており、刃長二尺五寸五分(約77cm)
やや小ぶりな刀ですが、元は長かったのが、研ぎ削られて
短くなったという説もあります。作者は不詳。

坂上田村麻呂
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次に、坂上田村麻呂の話をしていきたいと思います。
この人物はご存知でしょう。平安時代の武官で、桓武天皇の時代に
征夷大将軍を2度務め、蝦夷征伐をしたことで有名ですね。
田村麻呂については、「田村語り」と呼ばれる説話伝承が
各地に残ってるんですが、これがじつに混乱をきわめていまして。

できた場所や、伝わった時代によって内容がバラバラなんです。
ですから、ここから書く話には異説があります。そのことは
ご承知おきください。さて、次に出てくるのが女妖、鈴鹿御前
(すずかごぜん)です。伊勢国と近江国の境にある鈴鹿山に
住んでいたとされる伝説上の女性で、2つの顔を持っています。

田村麻呂の佩刀として有名な「ソハヤノツルギ」
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一つは、天より使わされた女神としての顔。もう一つは、
別名、立烏帽子(たてえぼし)という名の悪鬼、女盗賊としての
ものです。第六天魔王の娘とも言われます。正と邪の2面性が
あるんですね。で、前述のように、ここから話がごちゃごちゃに
なるんですが、大きく3つに分けられるかなと思います。

① 鈴鹿御前こと盗賊立烏帽子は田村麻呂によって討伐された。
② 鈴鹿御前と立烏帽子は別人で、田村麻呂は鈴鹿御前と協力して
  女盗賊立鳥帽子を倒した。③ 鈴鹿御前は立鳥帽子なのだが、
  本当の悪人は立烏帽子の夫で、田村麻呂は立烏帽子と
  ねんごろになり、その夫の大嶽丸を倒した。

ね、わけわかんないですよね。鈴鹿御前の伝説は、平安時代末頃には
できていたと考えられますが、残っている文献ごとに内容が
違うんです。ですから、鈴鹿御前が現代の作品やゲームに登場
する場合でも、そのキャラクターはバラバラになっています。

鈴鹿山の悪鬼、鈴鹿御前、田村麻呂 これは③の説
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長い話なので先を急ぎましょう。ともかく、田村麻呂は鈴鹿御前から
3本の宝刀を授けられ、それをもとにして大和の国の鍛冶に
作らせたのが、獅子王です。田村麻呂の佩刀としては「ソハヤノツルギ」
が有名で、この獅子王は朝廷に献上されました。

さて、時代は下って源平争乱の少し前、近衛天皇の御世。天皇は
体が弱く病気がちでしたが、その頃、毎夜黒雲が御殿をおおい、
その中で不気味な鳴き声をあげるものがいる。そこで退治を命じ
られたのが、源氏の長者、源頼政です。頼政が先祖、源頼光から
伝わる名弓「雷上動」で雲の中心を射ると、大きなものが落ちてきた。

妖怪 鵺(ぬえ) 実際は鵺という名前ではないと思われる
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これが、猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇の妖怪、
鵺(ぬえ)です。ただし、『平家物語』によれば、この怪物の
名前は不明で、鳴き声が鵺(トラツグミと考えられる)に似ていた
と出てくるだけなんですが、後世に鵺という妖怪になってしまいました。

頼政の家来、井早太がとどめをさし、怪物は死んで、帝の病気も
すっかり癒えます。近衛帝はこの褒美として、頼政に太刀、
獅子王を与えるんですね。この後、頼政は平氏全盛の世にあって
源氏最高の従三位の位にまで昇ります。

平安時代に鵺と呼ばれていたトラツグミ
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ですが、76歳で以仁王の令旨を受け、平氏追討に立ち上がるものの、
宇治平等院前の宇治橋で平知盛・重衡らと戦って戦死します。
このあたりのことはご存知と思います。で、獅子王は、頼政の
子孫である但馬国竹田城城主、赤松広秀へと受け継がれましたが、

赤松が関ヶ原の戦いにおいて、鳥取城下を焼き払ったのを徳川家康に
とがめられ切腹を命じられた際、家康に没収されます。
家康はこの刀の由来を知っていたので、自分のものにはせず、
頼政の別系の子孫、土岐頼次へと下賜されることになります。

従三位 源頼政
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土岐家に代々伝えられた獅子王は、明治維新後に皇室に献上され、
現在は東京国立博物館に所蔵されています。やっと最後まで
説明することができました。長い話でしたね。
ただ、現存する刀は、頼政に与えられた獅子王ではないという
説を唱える研究者もいます。

さてさて、ということで、獅子王伝説を見てきましたが、
どこまでが史実で、どこまでが伝説や脚色なのか、まったく判別
できません。歴史ってこういう例が多いんです。ただ、平安末期の
特徴を備えたこの名刀が存在していることだけは
間違いのない事実です。では、今回はこのへんで。

頼政が戦死した宇治橋合戦
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神功皇后の謎(序論)

2019.11.23 (Sat)
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今回はこういうお題でいきます。序論と書いてますが、
本論はやりません(笑)。それを書こうとすると、このブログが
古代史一色になってしまいます。ほんのさわりだけお話します、
という意味での序論なんです。神功皇后には、実在、非実在説が
ありますが、それを超えたところで、きわめて謎に満ちた存在です。

・神功皇后の事績
『古事記』と『日本書紀』で記述の違いがありますので、ここは
『日本書紀』のほうを主にして話を進めます。神功皇后は
第14代仲哀天皇の后で、天皇に随伴して熊襲征伐におもむきますが、
九州で神がかりし、熊襲ではなく朝鮮半島を攻めよと天皇に進言します。
しかし天皇はこれを聞かず、神の怒りにふれて病死。

このとき皇后は子を身ごもってましたが、熊襲を討った後、海を越えて
新羅へ攻め込み、百済、高麗をも服属させます。俗にいう三韓征伐ですね。
帰国して応神天皇を出産。忍熊皇子らが反乱を起こすものの
これを平定、以後70年にわたって摂政として政治を行います。
ごくごく大ざっぱに書くとこんな感じです。100歳まで生きたと
計算できます。さて、こっからは箇条書きで謎を見ていきましょう。

神功皇后の1円札
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・『日本書紀』は干支2まわり(120年)年代操作されているか?
神功皇后はもし実在したとして、さまざまな根拠から、
300年代の人だと考えられるんですが、
『日本書紀』は200年代の人として記述しています。誰が見ても
この部分は不自然で、年代操作説は古く江戸時代からあります。

これは、中国史書に出てくる邪馬台国の女王、卑弥呼および台与を
『日本書紀』の撰者が神功皇后に比定しているためであり、
それで年代操作がなされている、と説明されることが多いですね。
登場する人物の寿命が異様に長かったりなどですが、
自分は年代操作自体は、おおむね間違いないと思っています。

五社神古墳(伝 神功皇后陵)奈良県奈良市山陵町
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・熊襲征伐で討った田油津媛(たぶらつひめ)とは?
仲哀天皇が始めた熊襲征伐を、神功皇后がやり遂げるわけですが、福岡の
山門郡にいたとされる土蜘蛛族の女王、田油津媛を討ち取っています。
田油津媛は邪馬台国卑弥呼の後継者とする説もあり、神宮皇后自身が
卑弥呼に擬されてもいるわけで、このあたり不思議な感じがします。

老松神社 福岡県みやま市 周辺に田油津媛の墓と言われる古墳がある
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・三韓征伐はあったのか?
『日本書紀』の記述はおとぎ話のようです。神功皇后が船を出すと、
潮が満ち、大魚がたくさん集まってきて背中に倭国の船団を乗せ、
新羅の王城まで押し寄せます。これを見た新羅の王はおそれおののき、
戦わずして降伏し、皇后の馬飼になると言って朝貢を約束します。
まったく具体的ではないんですね。

ただ、朝鮮の正史である『三国史記』には、倭国がたびたび朝鮮半島に
侵攻し、新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが記されて
いますし、高句麗の広開土王碑には、391年、倭国が新羅、百済を
臣従させたと出てきます。ですから、倭国からの遠征が頻回に
行われていたのは間違いないところです。

七支刀
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・七支刀にはどういう意味があるのか?
奈良県天理市の石上神宮に伝来した古代の鉄剣で、『日本書紀』には、
百済の肖古王から「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが皇后に献上
されたと出てきます。(七子鏡は現在アメリカ、ボストン美術館にあり、
その経緯はたいへん面白いので、いつか記事に書きたいと考えてます。)

その銘文から、百済王が倭王に届けたのは間違いないんですが、
両国の関係については議論があります。常識的な解釈としては、
高句麗の圧迫を受けていた百済が、倭との同盟を求めたしるしと
考えられると思いますが、中国王朝の東晋が倭に授けたもので、
百済はその仲介をしただけという説もあります。

・忍熊王はどういう人物なのか?
仲哀天皇の王子で、血統的には正統な天皇後継者ですが、神功皇后が
産んだ子(応神天皇)に皇位が移るのをおそれ、兄の麛坂(かごさか)王と
ともに皇后に対する乱を起こしますが、敗れて川に身を投げて
死亡します。(麛坂王は占い中に猪に食われて死亡?!)

神功皇后と武内宿禰(たけしうちのすくね) この2人の関係も謎の一つ
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忍熊王らは、それまでのヤマト王権の基盤を受けつぎ、奈良県北部の
佐紀古墳群周辺に勢力を張っていたが、戦いに敗れたことにより、
神功皇后、応神天皇らによってヤマト王権の中心が大阪に移った
とする意見があります。実際、これはそう見るしかないんですね。

あと、考古学的には、この忍熊王らの反乱とほぼ同時期に、
九州、関東、丹後などで政変が起きていることがわかっていて、
全国を巻き込んだ大きな体制の変化があったとみる意見もあります。
応神天皇は、じつは朝鮮半島出身の渡来人であるという話もあり、
自分は、この部分の謎が最も興味深いと思ってます。

武内宿禰と応神天皇
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・応神勢力と西都原との関係は?
男狭穂塚(おさほずか)古墳は、宮崎県西都市にある全長176mの
帆立貝形古墳で、5世紀前半のものとみられ、被葬者は諸説あるものの、
応神天皇に臣従した、この地出身の諸県君牛諸井(もろかたのきみ
うしもろい)とする説が最も有力で、自分もそう考えてます。

また、隣接する女狭穂塚(めさほずか)古墳(176m)の被葬者は、
仁徳天皇の妃になった牛諸井の娘、髪長姫にあてる説があります。
で、前述した忍熊王の反乱のあたりで、この地の勢力が
生目(いきめ)地方から西都原に移ってるんですよね。生目といえば、
イクメイリヒコ(垂仁天皇)が思い起こされます。

男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳
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さてさて、ほんとうにざっと列挙しただけなんですが、
これほどたくさんの謎が詰まっているのが神功皇后です。
明らかに古代日本の画期となる出来事があったはずですが、
イマイチ研究が進んでいない印象があります。たんなる実在、
非実在の論では片づけられないんですね。では、このへんで。

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文献は信じられるか?1

2019.11.15 (Fri)
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※ この記事は古代史等に興味がある方以外はスルーされたほうがいいです。

今回はこういうお題でいきます。日本史の内容なんですが、
もしかしたらこれを読まれて気分を害される方も
おられるかもしれません。まあ、市井のいち占い師の言うこと
ではありますが、できればこの記事は、史学を志す
学生さんなんかに読んでほしいですね。

自分は今から10年ほど前、2ちゃんねる(現5ちゃんねる)の
日本史板でコテを名のって書き込みをしていました。
そうすると、じつに様々な考えを持ってる人が来るんですよね。
こう言ってはなんですが、歴史の問題よりも人間観察のほうが
面白いと思ってしまいました。

で、それらの人たちとお話をして、最も意見がかみ合わないのが、
「文献史料は信じられるか」という部分なんですね。
一般論としては「信じられる部分も、そうでない部分もある」
ということだと思うんですが、それがなかなか通じないんです。

さて、ある史料について、その正当性や妥当性を検討することを、
「史料批判」と言います。史料批判は文献だけではなく、
考古資料などについても当然行われますが、
本項では主に文献資料についての話をしていきます。



史料批判には、大きく分けて外的批判と内的批判があります。
外的批判は、その資料が後世の偽作ではないか、
記述者本人が直接目撃したものか、それとも伝聞や転写なのか、
その史料に記されている事件の日時や場所はどこか、
そういったことを精査していくものです。

内的批判のほうは、史料の内容を吟味して、捏造や錯誤がないかを
検討します。歴史資料の多くは、戦いで勝ち残った側が
書いてますので、自分たちに都合のいいように事実が捻じ曲げられて
いたりします。その手のことを明らかにしていくわけですが、
これがなかなか難しいんですよね。

史料批判の具体的な方法としては、他の史料と比較検討するという
形が最も多いですが、困ったことに、他の史料が存在しないという
ことがあります。特に、古代史関連の文献は、
それが唯一史料である場合がひじょうに多い。

では、『日本書紀』の場合はどうでしょうか。720年に完成した
日本最古の正史であり、そのことはもちろん尊重していますが、
内容がすべて真実であるとは考えていません。例えば、
8世紀から見た5世紀は300年前、3世紀だと500年前ですよね。

神武天皇


はたしてそんな昔のことが、文字の使用が遅れた日本で
どこまで正確に伝わっているものなのか。常識的に考えて危ういですよね。
ですから、自分のスタンスとしては、6世紀の第29代欽明天皇
以降はまずまず信じられるかな、というものです。それ以前については、
考古資料など他の裏づけがある場合には考慮する。

例えば、第21代雄略天皇については、その名である「ワカタケル」
の象嵌が入った太刀が埼玉と熊本の2ヶ所から出土して、実在性が
高まりました。ただし、ワカタケルという人物は実在したとしても、
『日本書紀』に書かれている治世のエピソードがすべて
事実かどうかは何とも言えないんですね。

第2次世界大戦の敗戦によって、日本の史学は大きく刷新されました。
戦前は、初代の神武天皇が即位して日本の国の歴史が始まり、
紀元は2600年。神功皇后は身重の体で三韓征伐を行い、日本に
戻って応神天皇を産んだ。そういうことが史実として学校で教えられて
きたんですが、今は、どちらも実在性に疑問符がついています。

現在の文献史学では、継体天皇以前の『日本書紀』の記述を
もとにした研究はひじょうに少なくなりました。
例えばですが、仁徳天皇とその治世について詳細な研究を発表した
としても、「仁徳天皇って本当に実在してたの?」という根源的な疑問が、
つねについてまわるからなんですね。実際、仁徳天皇陵(大仙古墳)と、

神功皇后


仁徳天皇が実在したと考えた場合の治世の時期にはズレがあります。
『日本書紀』の内容の特徴として、大きく2つのことがあると考えます。
・壬申の乱の勝者である天武朝側の意向で書かれていること。
・全体をつらぬくテーマとして、天皇家の万世一系があること。
このうち、後者はたいへんな難物です。

どういうことかというと、邪馬台国畿内説では、女王卑弥呼に
箸中山古墳の被葬者とされる倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)
をあてる説があります。ただ、自分は畿内説ですがこの説はとりません。
なぜかというと、上記した万世一系で系図がずっと続いてるためなんです。
倭迹迹日百襲姫命の父親は第7代孝霊天皇ですが、

孝霊天皇はその事績の記述が少なく、実在性の薄い「欠史八代」の一人と
する意見があります。ですが、万世一系なんだから、倭迹迹日百襲姫命が
実在の人物なら、その父親だってそうだろうと言われて反論できません。
他の根拠がない状態で、この人物は実在、これはそうではないというのは、
「恣意的である」という批判をまぬがれることはできないんです。

さてさて、あっという間に字数が尽きてしまいました。自分は何も
アマチュアの古代史愛好家が、自分の意見を組み立てることを批判して
いるわけではありません。それは歴史を学ぶ楽しみの一つなんですが、
史実であると認められるには大きな壁があるんですね。ということで、
近々中国史料について自分の考えを書きます。では、今回はこのへんで。

関連記事 『日本書紀成立の3事情』

倭迹迹日百襲姫命と弟の吉備津彦命(いわゆる桃太郎)
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田道間守の話

2019.10.10 (Thu)
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今回はこういうお題でいきます。科学ニュースを見たら、
日本人のリチウムイオン電池開発によるノーベル化学賞受賞の話で
もちきりですね。吉野彰さん、おめでとうございます。
ただまあ、このことはみなさんご存知でしょうから、
歴史の話を取り上げることにしました。

さて、田道間守(タジマモリ)は、記紀のどちらにも登場する人物で、
垂仁天皇の臣です。垂仁天皇は崇神天皇の子で第11代の天皇ですが、
実在性ははっきりしません。『日本書紀』には140歳で亡くなった
(『古事記』だと153歳)と出てきますので、怪しさ爆発なんですが、
垂仁天皇陵(宝来山古墳)とされる227mの大型前方後円墳はあります。

橘の実
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もし実在していたとすると、3世紀後半から4世紀にかけての治世と
考えられています。この垂仁天皇の晩年の即位90年、天皇は
田道間守を常世国へ遣わして、食べると不死になる非時香菓を
探させます。田道間守は苦難の末にこれを持ち帰りますが、

そのときすでに天皇は亡くなっていました。これを知った田道間守は
嘆き悲しみ、半分を大后に捧げ、半分を天皇の陵の前に持っていき、
そこに供えて死んだとされます。『日本書紀』には自殺と書かれていますが、
『古事記』には死因はありません。まあねえ、これを読むかぎり、
神話伝承の類としか言いようがないですよね。

田道間守は、天日槍(アメノヒボコ)の四世孫で、天日槍は
朝鮮半島から渡ってきた新羅系の渡来人とされています。このあたり、
何か意味がありそうな気もしますが、よくわかりません。
上記のエピソードから、田道間守は忠臣の鏡とされ、
国民学校の唱歌にも歌われています。

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さて、どっから話していきましょうか。まず、田道間守が行った
「常世国(とこよのくに)」とは何か。これは日本神話に出てくる異界で、
海の彼方にある理想郷みたいな書かれ方をしており、この話のように
不老不死と結びつけて語られることが多いですね。また、神々がいる
天界である「高天原」とは違うようです。

「不老不死の秘薬を求めて人を派遣する」という話の構造は、
秦の始皇帝と徐福の話と似ています。ですから、これを中国系の
神話とみる説もありますし、また、南方系の話という説もあるんですが、
どっちとも定めがたいですね。複合的なものかもしれません。

田道間守の陪冢とされる土盛、整備されているのがわかります 後ろは宝来山古墳
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次に、「非時香菓(ときじくのかくのみ)」とは何か。これは『日本書紀』に
橘(タチバナ)と出ていて、この話がもとになって、天皇家では
橘の木が尊重されるようになったと言われます。ただ、橘だとすれば
いろいろ不自然ですよね。おそらく橘は日本に自生していたと考えられ、
わざわざ探しに行く必然性がない気がします。

それと、橘の実はミカンに似てるんですが、そのまま食べるには
酸っぱすぎます。ですから、現在知られている橘とは違うんじゃないか
という説も昔からあります。中には、バナナだったという話まで
あるんですね。うーん、バナナだと南方系ですか。

さて、この田道間守、じつは『三国志』魏志倭人伝に登場する「難升米」
ではないかとする説があります。「難升米」は邪馬台国の女王卑弥呼が
魏に派遣した人物で、便宜的に「なんしょうまい」とか「なしめ」
などと読まれています。戦前の東洋史学者、内藤湖南が最初に
唱えたんだと思います。ちなみに湖南は邪馬台国畿内説です。

中国皇帝の会見
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難升米は、238年(239年説あり)、卑弥呼の遣いとして大陸に渡り、
朝鮮半島から魏の都、洛陽まで行って明帝と会見、卑弥呼への制書を
授けられます。難升米は何度か倭地と大陸を往復していたようで、
245年、魏から「黄幢 こうとん・こうどう」を授けられます。

これは戦いの目印になる「はたぼこ」のことで、黄色は魏王朝を表す色です。
陰陽五行説では、赤(火)の次が黄色(土)で、漢王朝が赤、
その次の王朝は黄がイメージカラーになるんですね。
「黄巾の乱」もここからきています。魏の最初の元号は「黄初」です。
黄幢を立てた軍は、魏の支配下にあることになります。

陰陽五行説の概念図
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この難升米が黄幢を受けた話が、長い年月の間に田道間守の逸話に
変化した・・・うーん、何とも評価のしようがないですよね。
根拠が出せるような話ではありません。ただ、もし田道間守が難升米で、
非時香菓が黄幢なのだとしたら、それは奈良県天理市柳本町にある
黒塚古墳で発見されているのかもしれません。

自分は邪馬台国畿内説で、黒塚古墳で出土した用途不明のU字型鉄製品は、
黄幢ではないかと考えています。これについては一本記事を書いてますので
くり返しませんが、興味を持たれた方はぜひ参照されてください。
ただ、黒塚古墳と宝来山古墳はけっこう離れてますし、
そもそも垂仁天皇は卑弥呼ではありませんね。

関連記事 『黒塚古墳のU字型鉄製品』

黄幢はおそらくこういうもの
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ちなみに、田道間守の墓とされるものは、宝来山古墳の周濠内の小島で、
発掘調査はされてないので、はっきりしたことはわかりません。
この近くに、奈良時代に左大臣まで昇った橘諸兄の塚があったとする
話もあり、それと何か関係があるのかもしれません。

さてさて、ということで、忠臣の鏡であるとともに謎の人、
田道間守について見てきましたが、古代は果物が菓子に通じるところから
現在は菓子の神・菓祖としても信仰され、各地の菓祖神社に
祀られているようです。では、今回はこのへんで。

京都 吉田神社の摂社 菓祖神社 御祭神は田道間守他
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心霊スポットと「愛」の人

2019.10.06 (Sun)
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今回はこういうお題でいきます。ひさびさに「怖い日本史」の話題ですが、
最近あんまり歴史の話を書いてないのは、どうも人気がないんですよね。
今回はどうでしょうか。さて、本項で取り上げるのは、
関東でも指折りの心霊スポットとして知られる「八王子城址」です。

現在の東京都八王子市にあり、交通の便は悪くないので、
もしかしたらみなさんの中にも行かれた方がおられるかもしれません。
八王子城は、北条氏康の三男・氏照が1571年頃に築き、
堅牢な山城として知られていました。それがどうして心霊スポットに
なったのか。これは有名な話ですね。

開放された城址公園ですので夜も入れますが、探索の体験談として、
誰もいないはずなのに人の気配がする、赤い光の玉が飛んでいる、
などの報告が上がっています。城主の居住地であった御主殿近くの
滝では自害した子女のうめき声が聞こえ、観音堂には、
武士とその妻女たちの幽霊が出現するとも言われます。

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さて、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、関東の覇者
北条氏を攻め滅ぼすことを決意します。1590年の小田原征伐です。
秀吉は全国の大名に号令をかけ、部隊を大きく2つに分けます。
家康と西国大名による主力部隊と、前田利家を大将とする北国部隊。

北国部隊は、前田軍1万8千、上杉軍1万、真田軍3千など、
総勢3万5千を超える大軍だったと見られています。
これに八王子城が攻められたわけです。当時、城主の氏照らは
小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代とわずかの将兵、
付近から集めた農民など3千人ほどが立て籠もったようです。

北条氏直
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これは圧倒的な兵力差ですよね。のみ込まれるのは時間の問題でした。
戦国時代の籠城戦は、城主が降伏し切腹などの処分を受け入れれば
城兵は許されることが多かったんですが、八王子城合戦は
殲滅戦となります。どうしてそうなったかの理由は、
おいおい述べていきたいと思います。

さて、ここからの話は半分伝説ですので、そのつもりでお読みください。
八王子城で捕らえられた者は、兵士だけでなく婦女子までもが
首を斬られたと言われます。夫や息子などが小田原本城に出向いている
家族が多かったんですね。ですから、小田原城前に運んで首を晒せば、
北条側の戦意が削がれ、士気が下がります。

そのため、どうせ助からないのなら見せしめにはなりたくないと、
婦女子はこぞって自ら喉を短刀で突き、御主殿前の滝に身を投げたと
されます。その数、数百から千人、そのため、滝から流れる川は
彼女達の血で三日三晩赤く染まった・・・まあ、伝説なんですが、
これに近いことはあったんだろうと思います。

御主殿の滝 意外にちゃちい
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麓の村では、その川の水で米を炊けば、うっすら赤く染まるほどで
あったと伝えられ、それが元になって、現在でもその地域では
供養のために「あかまんま 赤飯」を炊いて供えるということです。
そして八王子城址は怨霊の地となったわけですが、では、八王子城の
攻め手の将は誰かというと、上杉軍の直江兼続なんですね。

直江兼続は戦国武将としては近年、たいへんに人気がありますよね。   
米沢藩上杉景勝の家老であり、独立した大名ではないのに
この人気は異例なんですが、これはおそらく、原哲夫氏の漫画
『花の慶次』など、いろんな作品で取り上げられていることが
大きいんだろうと思います。

それと、下図の「愛」を象った前立の兜の印象もあるでしょうか。
では、兼続はどうしてそんな残虐な戦いを行ったのか。
これは兼続と秀吉との深い関係が関わっているものと思われます。
1588年、上杉景勝に従って上洛した兼続は、陪臣であるにも
かかわらず、秀吉と面会して豊臣の姓と従五位下の位を授けられます。

兼続の兜
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秀吉は兼続をたいへん気に入っており、景勝の下から離れて秀吉直属の
仕官を打診しましたが、兼続は角が立たないよう、これをやんわりと
断ってるんです。また、このとき兼続は、将来呼応して関ケ原の戦いを
起こすことになる石田三成とも会っています。

八王子城合戦の話に戻って、北国部隊は埼玉の鉢形城攻略に
大苦戦します。徳川軍から援軍に出た本多忠勝らの助けを借りて
なんとか落城させるものの、手間取ったため、兼続は秀吉から
厳しい叱責を受けてるんです。そして、その次が八王子城でした。

直江兼続
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小田原征伐は最終的に、小田原城が開城し、北条氏政、氏照らが秀吉に
切腹を命じられて終わりを迎えます。当主の氏直は助命されました。
余談ですが「小田原評定」という慣用句は、このときの北条氏
における重臣会議のことで、現在では「いつになっても
結論の出ない会議や相談」という意味で使われています。

この後の八王子城は、家康によって廃城とされたものの、徳川幕府の
直轄地として明治維新まで立入禁止にしていたため、比較的遺構が
よく残っています。麓には2012年にに完成した八王子城
ガイダンス施設があり、展示解説スペースのほか、休憩、
レクチャースペースなどがあります。

さてさて、ということで、義の人、愛の人などと言われる直江兼続
ですが、戦国武将の一人であり、戦いにおいては非情に
行動するのは当然でした。でもさすがに、戦いから400年以上も
たった後、ここが心霊スポット化するとは思いもよらなかった
でしょうね。では、今回はこのへんで。

八王子城址で撮られたとされる心霊画像
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