黒塚古墳のU字型鉄製品

2017.11.12 (Sun)
黒塚古墳石室


今回は邪馬台国関連のお話です。邪馬台国問題に関しては、
自分はガチの畿内説ですので、そのつもりでお読みください。
なるべく専門的にならないように心がけます。

まず、黒塚古墳の話をしましょうか。
黒塚古墳は、奈良県天理市柳本町にある、全長約130メートルの前方後円墳で、
これは、同じ大和古墳群にある箸墓古墳のほぼ2分の1の大きさです。
高さ約11メートル、前方部がバチ型で前期古墳の特徴を持っています。
周濠あり、葺石や埴輪は未確認。

1997年、奈良県立橿原考古学研究所が行った発掘調査で、三角縁神獣鏡33面と
画文帯神獣鏡1面が、副葬当時に近い状態で発見されました。
竪穴式石室の木棺内には被葬者の頭のところに画文帯神獣鏡、両脇に刀と剣をおき、
棺外に32面の三角縁神獣鏡が鏡面を内向きにして立てられていました。
このことから、三角縁神獣鏡は量産された葬具であり、
画文帯神獣鏡が被葬者にとって重要なものであったことがわかります。

自分は三角縁神獣鏡国産説をとっていて、
卑弥呼が魏からもらった鏡は、その一つ前の世代の画文帯神獣鏡だと考えます。
ただし、画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡には意匠上の共通点があり、
三角縁神獣鏡は、魏から下賜された画文帯神獣鏡を参考にして、
(もしかしたら鏡の工匠が中国からやってきて)
倭国内、あるいは帯方・楽浪郡内(当時の朝鮮半島)
で作られたと考えたほうが自然なんじゃないかという気がしますね。

さて、今回の本題は鏡の話ではありません。
黒塚古墳からは200点以上の鉄製品が発掘されましたが、
その中にU字型鉄製品と呼ばれる、ひじょうに特異な遺物が出土しています。
(図A)これは、大小2本の鉄棒をU字型に曲げたもので、
それに付随するように、V字型の鉄製の管がいくつも見つかりました。
鉄製の管にヒモを通して、U字型鉄製品に結びつけていたのでしょう。

図A
名称未設定 1

また、全長40cmの棒状鉄製品が近くから8本出土し、
一端には木柄を接続したのか、木材痕跡が確認できます。
これはおそらく、支柱として使われたものでしょう。
さらに、全体に絹繊維が付着していたことが確認されています。
これ、黒塚の調査以前にも以後にも、同様のものは発見されていない、
大変に珍しいものなんです。いったい何なんでしょうか?

自分は、これは卑弥呼が魏よりもらった「黄幢(こうとん・こうどう)」
ではないかと考えます。というか、それ以外のものを想像しにくいんですね。
では、黄幢ってどんなものなんでしょう?
魏志倭人伝の記述にはこうあります。
其の六年 詔して倭 難升米に黄幢を賜い 郡に付して仮授す

「其の六年」というのは、魏の正始6年(245年)。
倭国の使者、難升米(なしめ?)に授けられた黄色い軍旗が黄幢で、
なぜ黄色かというと、これは陰陽五行説で、
魏の国の色が黄(土を表す)だからです。(魏の最初の年号は黄初)

また「其の八年 太守 王頎が官に到る
倭女王 卑弥呼は 狗奴国王 卑弥弓呼と素より和せず
倭 載斯烏越等を遣わし 郡に詣り 相攻撃する状を説く 塞曹掾史 張政等を遣わし
因って詔書 黄幢を齎し 難升米に拝仮し 檄を為りて之を告諭す


邪馬台国の卑弥呼が卑弥弓呼(ひみくこ?)を王とする狗奴国
という国と戦争になったことを知らせてきたので、
ここでも黄幢が授けられています。戦争状態にあって、
邪馬台国には中国の大国、魏がバックについているんだぞ、
と知らしめるための役割が黄幢にはあるわけです。

では、黄幢とはどのような形状のものでしょうか。
現在の旗のようなものなら「旗」という字を使うはずですが、
そうではないので、「幢」とは(図B)のようなものではなかったかと
考える人が多いのです。そしてこれは、上記のU字型鉄製品を組み立てたときの
形(図C これは自分が書きました)によく似ているように思います。

また、高句麗の4世紀の壁画にこのようなもの(図D)があり、
これは「節」と考えられており、軍の指揮に関係したものなんですが、
やはり図Bとよく似た形をしています。さらに、三角縁神獣鏡には傘松文様といわれる、
中国の鏡には見られない独特の文様があり(図E)、
これも図Bと共通した形をしていますね。
自分は、傘松文様は黄幢を記念して鏡の意匠に組み込まれた可能性があると見ています。

っdf名称未設定 1

さて、黒塚古墳の鉄製品が黄幢とするならば、
その被葬者は誰なんでしょうか?魏に使いに出た倭人のうちの誰かなんでしょうが、
自分は、遣使された中で最も活躍している難升米ではないかと考えます。
ただ、難升米は魏の皇帝から率善中郎将(魏のために働く夷狄の武人に与えられる将軍位)
に任命され、銀印青綬を与えられていますが、
残念ながら黒塚古墳からは銀印は出土していません。

さてさて、もし黒塚のU字型鉄製品が本当に黄幢ならば、
邪馬台国論争は畿内説で決着と見ていいと思います。
考古学者で、これが黄幢であると声高に主張する人は多くありませんが、
内心、そうじゃないかと考えている人はかなりいるはずです。
みなさんは黒塚のU字型鉄製品の形を見てどう思われますか。
もし黄幢でないとしたら、これはいったい何なんでしょう???

関連記事 『三角縁神獣鏡と卑弥呼の鬼道』

関連記事 『箸墓古墳と倭迹迹百襲姫』








スポンサーサイト

三角縁神獣鏡と卑弥呼の鬼道

2017.10.12 (Thu)


こないだ「箸墓と倭迹迹日百襲姫」という記事を書いたら、かなりの反響があり、
古代史への一般的な関心は薄れてると思っていたので意外に感じました。
今回はこのお題でいきますが、自分は邪馬台国畿内説の立場で書きますので、
その点をお含みおきください。
まず、三角縁神獣鏡とは何か?ということですが、すべてを書くとなると、
本が一冊できてしまうので、ここでは概要だけにとどめます。

これは古墳時代初期の遺跡から多く出土する鏡です。面径は平均20cm程度。
魏の単位で9寸から1尺にあたります。この時代、中国の鏡は手でつり下げて
化粧などに用いる日用品でしたので小さく、
三角縁神獣鏡はそれよりずっと大きいことになります。葛洪が317年に書いた
神仙書『抱朴子』には、径9寸以上の鏡を用いれば神仙に出会うことができる、
といった記述があり、もしかしたらそのことを踏まえてわざと大きな鏡を
用いていたのかもしれません。多くが凸面鏡であり物を映して見るのには適しません。

三角縁神獣鏡は古墳内部の副葬品として出土することがほとんどで、
明らかに葬具(葬送に用いて墓に埋納するもの)であったと考えられます。
日本全国で現在500枚以上の出土があり、
そのうち半数以上が近畿地方です。ついで多いのが九州地方ですが、
近畿の三分の一以下の数ですね。また、はっきりした三角縁神獣鏡は、
中国では出土していません(最近、発見はありました)。  関連記事 『三角鏡中国で出土?』
そもそも三角縁の鏡自体、中国での出土は数えるほどなのです。

さて、三角縁神獣鏡の「三角」の部分は縁の断面が三角であることからきていて、
上記のように中国鏡には見られない特徴です。「神獣」は神仙界に住む想像上の動物、
その他に仙界の神である、西王母・東王父が描かれています。
三角縁神獣鏡には魏の年号(景初三年、正始元年)を銘文に持つものがあり、
(魏の年号を持つ鏡は他にもあり、景初四年の銘があるのは斜縁盤龍鏡 )
景初三年(239年)は、卑弥呼が魏に遣使したとされる年です
(卑弥呼の遣使は景初二年説もある)。

次に、卑弥呼の鬼道についてみてみましょう。
「其の国、本亦男子を以て王と為し、住(とど)まること七・八十年。
倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。
名づけて卑弥呼と曰ふ。鬼道に事(つか)へ、能く衆を惑はす。
年已(すで)に長大なるも、夫壻無く、男弟有り、
佐(たす)けて国を治む。王と為りしより以来、見る有る者の少く、
婢千人を以て自ら侍せしむ。唯、男子一人有り、飲食を給し、辞を伝へ居処に出入す。
宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す。」

(その国はもとは七〇~八〇年の間、男子を王としていたが、倭国は乱れ、
長い間お互いに戦いあった。そこで一人の女性を共立して王とした。
その名を卑弥呼という。鬼道を用いて民衆をよく惑わし従えた。
年は高齢で夫はいない。男弟がこれを助けて国を治めている。
王となってから卑弥呼の姿を見たものは少ない。
侍女千人を仕えさせている。ただ、男子が一人いて飲食を給仕し、
その言葉を伝えるために王宮に出入りしている。宮室、楼観、城柵が
厳重に整備され、つねに人がいて兵として守護している。)


卑弥呼の鬼道とは何か?説は3つくらいありますね。
① 神が憑依してその言葉を伝える北方的なシャーマニズム
② 先祖の霊、首長の霊を祀る宗教祭祀
③ 初期の道教(神仙思想)

これ、昔は①説が多かったんです。②で「鬼」というのは中国では死者の霊魂
という意味もあります。③は最近、主張する人が多くなってきました。
『三国志』で他に「鬼道」という言葉は、
五斗米道(初期の教団道教)の指導者であった張魯の評伝で出てきますので、
鬼道が道教のことを指しているという意見も、十分根拠はあると思います。

ここからは前回同様Q&Aでいきます。

Q;三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった銅鏡100枚なのですか。

A;そうは思いません。1997年に発掘調査された黒塚古墳では、
画文帯神獣鏡が被葬者の頭のところに1枚置かれ、三角縁神獣鏡32枚は、
壁と棺のわずかな間に立てられていました。このあつかいの違いから、
三角縁神獣鏡の一世代前の鏡である画文帯神獣鏡のほうが、
卑弥呼の鏡にふさわしいと考えます。画文帯神獣鏡はやはり近畿地方で多く出土し、
図像も三角縁神獣鏡と多くの共通点があります。

Q;三角縁神獣鏡は中国製ですか、国産ですか?

A;昔は三角縁神獣鏡のうちでも初期の中国鏡(舶載鏡)と、
後期の国産鏡(仿製鏡)に分ける意見があったんですが、最近の研究から、
全部が中国製か全部が国産であるのではないかという見解が出てきました。
自分としては、卑弥呼の遣使後に中国から日本に渡ってきた鏡作家が、
日本国内で造ったものということもありえるのかなと思っています。
ただし、もし三角縁神獣鏡が国産であったとしても、
その配布の中心が近畿地方であることに変わりはないので、
それによって畿内説が不利になるとは考えていません。
 
Q;卑弥呼の鬼道とは何ですか?

A;これもずっと迷っていたんですが、最近は初期の道教だったのではないかと
考えるようになってきました。上で出てきた画文帯神獣鏡も三角縁神獣鏡も、
道教的な図像を用い、神仙世界的な銘文が刻まれています。
そういう鏡が当時の人々に好まれ、広い範囲に配布されていたことには、
大きな意味があると思うのです。

あと、オカルトブログらしく最後に一つトンデモをつけ加えさせてください。
画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡に見られる西王母はじつは卑弥呼を表し、
また東王父は卑弥呼を助けて政治を行った男弟を表しているのではないか、
ということです。これはもちろん、
卑弥呼らをモデルにして中国で鏡が造られたということではなく、
最初からあった鏡の図像が、倭国の政治形態によくあてはまっていたため、
好んで用いられたのではないかと考えるということです。
ま、最初に書いたようにトンデモなので、
あまり真面目に受け取られても困りますが。

この中に卑弥呼がいるのかもしれませんよ(笑)







箸墓古墳と倭迹迹日百襲姫

2017.10.08 (Sun)
まず箸墓古墳の名称ですが、これは箸中山古墳と書かれることもあります。
史学界では、例えば昔「応神天皇陵」と言われていた古墳について、
そこに葬られているのが応神天皇かどうかの確証はないのだから、
誤解を招きやすいと、地名をとって「誉田御廟山古墳」と呼ぶようになりました。
ただ、箸墓古墳については、箸墓という名称が一般化しており、
またそれは被葬者を直接表すものではないので、
本項では「箸墓古墳」のほうを用いていきたいと思います。

概要を説明しますと、奈良県桜井市箸中にある前方後円墳で、墳丘長278m、
高さ30mです。前方部が途中から撥(ばち)型に大きく開く墳形で、
これは早期に造られた古墳の特徴です。後円部直径が約150m、
後円部は四段に築造され、幅10m前後の周濠と、
幅数10m前後の外堤の一部が発掘で見つかっています。
造られた年代については、周濠の底から布留0式と呼ばれる土器が発見されており、
研究者によって、240年~320年頃と幅のある意見が述べられています。
箸墓古墳は纏向遺跡の中にあります。

さて、ここに葬られているのが誰かというと、『古事記』『日本書紀』で、
倭迹迹日百襲姫(やまとととひ ももそひめ)という女性であるとされます。
第7代孝霊天皇の皇女で、巫女的なことを行っていたと描かれてますね。
まあエピソードを中心にいきましょう。『古事記』には事績はほとんど載っておらず、
『日本書紀』のほうに詳しい記述があります。

崇神天皇の世、四道将軍の1人、大彦命が北陸への派遣途中で、
「天皇はもうすぐ死ぬのも知らずに女遊びしているよ」と、
不吉な歌を歌う少女に出会ったため、大彦命は引き返して天皇にこのことを報告した。
そして天皇の大叔母である百襲姫の占いによって武埴安彦とその妻の謀反が発覚し、
安彦は滅ぼされた。
』これなんかは、百襲姫のシャーマン的性格をよく表している話です。
ただ、この手のは中国に類話があるんですよね。

百襲姫は三輪山の神である大物主と結婚した。大物主は夜に姫の元に通って来るので、
顔がよく見えない。百襲姫は我慢できず、「顔が見たい」と強引に迫った。
すると大物主は「朝になっても帰らずに櫛箱の中に入っている。見ても驚くなよ」
と答えた。朝になり、櫛箱をのぞいてみると、そこには小さな蛇がいた。
それを見て百襲姫が驚くと、蛇は一瞬で若者に変わった。
蛇は大物主だった。大物主は恥をかかされたと怒って三輪山へと帰って行った。
百襲姫は後悔し恥じ、箸で女性器をついて自殺してしまった。


これが百襲姫が亡くなったときのエピソードです。三輪山の神である大物主と結婚した
というのは、その祭祀を専門に司ったことの比喩でしょうか。
「箸で女性器をついて自殺」という部分は、古墳が箸墓と呼ばれる由来なんですが、
百襲姫の当時、竹を2つに折ってピンセット状にしたトングのようなのはありましたが、
はっきりした箸の発掘例はないんですよね。後代に作られた逸話である可能性があります。
また、土器を古墳上に並べていたことから、元は「土師墓(はじはか)」と言ったのが、
箸墓に変化したという説もあります。「女性器をついて亡くなった」の部分は、
子孫がいないことを強調している、と説明する人もいます。

墓は昼は人が作り、夜は神が作った。昼は大坂山の石を運んでつくった。
山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。時の人は歌った。
「大坂に 継ぎ登れる 石むらを 手ごしに越さば 越しかてむかも」

『日本書紀』で、古墳の造営について書かれた記述はこれが最初で、
その後にもほとんどありません。纏向遺跡には、箸墓古墳に先立つ100m級の
前方後円墳が数基ありますが、最初の巨大古墳と考えられる箸墓の
被葬者が女性であるとされることには、何か特別な意味があるような気がします。
これらのことから、倭迹迹日百襲姫を『魏志倭人伝』に登場する
邪馬台国の女王、卑弥呼に比定する研究者も多いのです。

では、こっからはQ&A方式で自分の考えを述べます。

Q:倭迹迹日百襲姫は実在の人物ですか?

A;記紀のこのあたりの人物の実在性を問うのは難しいと思います。百襲姫の父である
孝霊天皇は欠史八代と呼ばれる一人であり、実在の人物ではないとする研究者もいます。
百襲姫よりも後代の日本武尊(やまとたける)は全国を股にかけて活躍していますが、
これを、大和王権の初期に多くいた全国に派遣された皇子的人物の象徴、
と見る研究者は多いのです。百襲姫もまた、
巫女的性格の皇族女性を象徴的に表した人物である可能性があります。
結論として、実在の人物とするには問題が大きいと考えます。

Q;倭迹迹日百襲姫は邪馬台国の卑弥呼ですか?

A;その可能性はあります。というか、邪馬台国と卑弥呼の記憶が残っていて、
その記憶を元にして百襲姫の人物像が作られた、
というのなら十分ありえる気がします。ここでは詳しく書きませんが、
卑弥呼と百襲姫は、占いや神託を行った宗教的指導者である点、
その他にも似ている部分が多いと思うのです。

Q;箸墓古墳は卑弥呼の墓ですか? 

A;これも難しい質問です。卑弥呼の死後、男の王が立ちましたが、
国中がこれに従わず混乱して人がたくさん死んだため、 
台与という13歳の女王が立てられています。箸墓は、
年代的にはその台与の墓である可能性もあると考えます。

現代の日本では卑弥呼の名が有名で、台与はその陰に隠れてしまっている
感がありますが、もしかしたら、当時の人の評価は、
最終的に国の混乱を収めた台与のほうが上だったかもしれないのです。
もちろん、卑弥呼の墓である可能性は否定しません。年代も、
築造にかなりの年月がかかったのなら、なんとか届くのではないでしょうか。
箸墓の発掘がのぞまれますが、これは宮内庁指定の陵墓参考地となっているため、
不可能な現状にあります。

Q; 纏向遺跡は『魏志倭人伝』の邪馬台国ですか?

A;はい、そう思います。だだし、纏向遺跡は邪馬台国の宗教的・政治的な中心地であり、
邪馬台国自体は、大阪、四国東部、吉備、近江、東海などにまたがる
広範な地域ではなかったかと考えています。

※ この問題については、考えていることの十分の一も書けないですね。
  またそのうち続きをやります。

箸墓古墳から三輪山を望む

 
 
 




山田家の二股商売

2017.10.03 (Tue)
変な題名ですが、これが一番この文章の内容をよく表していると思われます。
とりあげる人物は山田浅右衛門で、カテゴリとしては怖い日本史に入ります。
首斬り浅右衛門という言葉は聞いたことがある方もおられるでしょう。
Wikiには、「江戸時代に御様御用(おためしごよう)という
刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名称
」と出ています。

さて、まず山田家の身分ですが、これは旗本でも御家人でもなく一介の浪人です。
旗本と御家人の違いはご存知でしょう。同じ徳川の幕臣であっても、
お目見得(将軍に謁見すること)ができるのが旗本、できないのが御家人です。
山田朝右衛門に関しては、2代目浅右衛門がときの将軍吉宗の前で試し切りを
披露したりしているのに、それでも浪人なんですね。

これは、死の穢れをともなう役目のためにこうした処置が取られた、
と解釈されることが多いようですが、
それ以外にも、山田家を幕臣として世襲にすると、
子孫の中に技の至らないものが出てくる可能性があるから、という話もあります。
山田朝右衛門は初代から9代まで続いていますが、
実際、親が実子を跡継ぎにしたのは一例しかありません。
朝右衛門の名は、弟子の中で技量の高いものに譲られていました。
ですから、山田朝右衛門の名は一種の屋号みたいなものだったんですね。

ただし、浪人だからといって貧乏だったわけではありません。山田家の屋敷は広大で、
一説には、3、4万石の大名に匹敵する収入があったと言われます。
江戸の名士図鑑のようなものにも山田家は大きく取り上げられていて、
庶民からの知名度も高かったようです。ではなぜ、
このような収入を上げることができたかというと、これには表と裏があるんです。

まず表の商売としては罪人の斬首で、これが首切り朝右衛門と言われたゆえんです。
罪人の首を斬るたびに、幕府から公儀御用として金銀をもらっていました。
次は刀の鑑定料です。鑑定といっても浅右衛門が刀を見て、
「いい仕事してますね~」とか褒めるのではなく、実際に試し斬りをしてみるんです。
罪人の死体は山田家に下げ渡されていたので、
それを使ってです。試し斬りの依頼は、幕府からもありましたし、
有力大名、旗本などからもありました。新しく刀を手に入れたら、
まず朝右衛門に試し斬りを依頼、というわけです。

例えば、罪人の死体を2つ重ねて斬った場合を二つ胴、
3体なら三つ胴などと言って、その刀がどのくらいよく切れるかの証明になります。
刀の茎(なかご 柄の中に入り込んでる部分)に、
「三ツ胴、土壇マデ入ル」などと彫り込まれたものがありますが、
これは罪人の胴体を三つ重ねて斬り、
さらにその下の土壇にまで刀が食い込んだという意味です。
試し斬りの依頼はたいへん多く、罪人の死体が足りなくなると、
いったん斬った死体を縫い合わせてまた使ったりしていたようです。
・・・まあここまでが表の商売ということになります。

さて、では裏の商売は何かというと、こっからが怖くなります。
こんな逸話が残っています。
ある人が山田家の宴会に誘われて遅くなり、一晩泊めてもらった。
朝方になって、ぽたぽたと水のしたたるような音がする。
雨かと思って縁側に出てみると、軒下に人間の肝臓やら胆嚢が
たくさん干してあって、そっから液体がしみ出して地面に落ちていたんですね。
そう、山田家では人体を使って薬を製造していたんです。

裏の商売と書きましたが、山田家では別に隠したり恥じたりしていたわけではなく、
江戸時代には、その当時の医療では治らなかった結核や梅毒の薬として、
人体の一部は珍重され、高額で取引されていました。
山田家にはこうした人体の部分を貯蔵しておくための蔵があり、
そこに入った人の話では、たくさんの大きな桶がならんでいて、
なんともいえない臭いが漂い、
中には人間の脳だけを集めた桶もあったということです。

これは、現代のわれわれから考えると薄気味の悪い話ですが、
山田家では代々の家業としてドライにやっていたのだと思われます。
この手の人体を用いた薬は人胆(じんたん)と呼ばれ、
明治になってから発売された口内清涼剤、仁丹はこの名にあやかってつけられた、
という話もありますが、本当かどうかはわかりません。

さてさて、最後に山田朝右衛門に関するおもしろエピソードをいくつか。
これには歴代の朝右衛門のものが含まれています。
朝右衛門を、一部には剣豪の一人として見るむきもありますが、
罪人の首筋に米粒をつけて刀をふり下ろすと、米粒は真っ二つに切れて、
首にはいっさい傷がついていなかったそうです。

また、ある罪人の首を切ろうとしたら、首筋に「東照大権現」と入れ墨がある。
これは家康のことですよね。浅右衛門が役人に相談して、
首が斬れないので、その罪人は死一等を免じられ島送りになりました。
これを聞いた悪党どもは大喜びで、みな首筋に「東照大権現」と彫った。
しかし朝右衛門は、次からはその部分だけ皮をそぎ取り、
その上で首を斬るようにしたということです。
悪党どもは死ぬ前によけいに痛い目にあったわけです。

朝右衛門は、たくさん罪人を斬った後は、屋敷に戻って
酒を飲んでどんちゃん騒ぎをしました。このことを聞いた江戸の庶民は、
さすがの朝右衛門でも怨霊が怖くて寝られないんだろうと噂しましたが、
当の朝右衛門は、「今までいったいどのくらいの首を斬ったと思ってるんだ。
それがみな化けて出るんだったら、命がいくつあっても足りないよ」
と笑い飛ばしたそうです。







飲酒と怨霊

2016.06.30 (Thu)
今日はかなり地味目の話です。読売の科学ニュースを見ていましたら、
日本史に関する内容が出ていて、これはかなり珍しいことです。
『関ヶ原の戦い(1600年)で戦国武将・小早川秀秋(1582~1602年)
が西軍から東軍に寝返った際、決断が遅れたのは過度の飲酒で肝硬変から発症した
肝性脳症による判断力低下の可能性があるとするユニークな説を、
兵庫県姫路市御立東の脳神経外科医、若林利光さん(63)が、
秀秋の当時の病状などを記した史料からまとめた。

戦いで西軍側の秀秋は寝返りを誘われていたがなかなか動かず、
東軍を率いた徳川家康が怒り出すほどだったとされる。戦闘開始から約4時間後、
西軍・大谷吉継を襲ったのをきっかけに西軍の武将が次々に寝返り、
東軍勝利につながった。若林さんは、安土桃山時代から江戸時代初めに活躍し、
秀秋も診た医師・曲直瀬玄朔の診療録「医学天正記」の記述に注目。
秀秋について「酒疸一身黄 心下堅満而痛 不飲食渇甚」
(大量の飲酒による黄だん、みぞおち付近の内臓が硬く痛みがあり、
飲食できずのどの渇きが激しい)の記述から、肝硬変と考えられるという。

飲酒後に嘔吐し、赤い尿が出たともあり、肝性脳症を併発するほど
悪化していた可能性が高いと判断。同脳症では指示への反応や判断が遅くなるため、
若林さんは「関ヶ原での決断の遅れの要因では」と推察する。
国立国際医療研究センター肝炎情報センター(千葉県市川市)も、大量の飲酒は、
肝硬変の原因の一つで「記述にある症状からは肝硬変が疑われる」という。』

(YOMIYRI ONLINE)

これは関ヶ原の戦いのときの話ですね。戦いが始まったのは朝の8時ころでしたが、
午前中はずっと石田三成率いる西軍が有利に戦いを進めていました。
小早川秀秋はこのとき若干19歳で、3才のとき、
実子のいない秀吉の養子として引き取られ、豊臣姓を与えられています。
その後、小早川家を養子相続し、若くして岡山藩主となりました。
このように豊臣家に対する大きな恩顧があったため、西軍に与したのは当然ですが、
実は内々に裏切りを勧められていました。

1万5千の軍を率い山の上に布陣していたため、もし小早川が裏切れば、
これは戦況に重大な影響をあたえるだろうと考えられていましたが、
小早川は西軍の一陣として働くわけでもなく、裏切り行動に出るわけでもなく、
ずっと軍を動かしません。このときのことが、
上記のニュースでは、肝性脳症によって判断がにぶり、
どちらとも決断できずにいたと推察しているわけですね。
しかしこれ、400年も前の人を解剖して調べるわけにもいかず、
確実といえる証拠は出ない話でしょう。

ただし、肝硬変か重い肝臓病であったことは事実のようで、
その原因として、過度の飲酒が取り沙汰されています。
幼少時は聡明であったものの、15歳前から飲酒を覚え、
取り巻き連中と連夜の酒盛りを続けていたということです。
この若さで肝硬変が疑われているので、たいへんな量を飲んでいたのでしょう。

いつまでも動かない小早川軍にしびれを切らした家康は、
秀秋の陣へ鉄砲を撃ちかけ、裏切りの催促をしたという話があったのですが、
これは最近、陣の地理的な条件や当時の鉄砲の音量から、
否定されることが多くなってきました。しかし家康から、
なんらかの指示はあったものと思われます。昼ころにはついに決断し、
松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかりました。
西軍の中心的人物として少人数ながら奮戦していた大谷吉継は、
これによって自刃しています。

さて、この小早川秀秋は2年後、21歳の若さで病没するのですが、
幽霊話があります。吉継が関ヶ原の合戦において自害する際、
秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹し、
この祟りによって狂乱して死亡に至ったという逸話があるんです。
それと、現代の怪談にも見られる「開かずの間」の話もくっついています。

関が原後の秀秋はいっそう飲酒の度が進み、飲む度に狂乱しました。
そして上記の大谷吉継の亡霊が見えると言って、
刀を振り回して暴れたということになっていますが、
このあたりはどこまで本当かはわかりません。
ただ、秀秋に後ろめたい思いがあったと考えるのは自然で、
アルコール依存症による妄想としてそれが出てきたのかもしれません。

さて、小早川には杉原重政という重臣がいまして、
つねづね主君の行動をいさめていたのですが、いっときの感情に支配され、
秀秋は近習の村山越中に、上意討ちとして重政を殺すように命じます。
しかしこれ、すぐに後悔して小姓に村山を止めるように言ったのですが、
小姓が両人を探しているうち、杉原は天守の一画で斬り殺されてしまいます。

そして秀秋には、吉継の亡霊の他に、この杉原の亡霊も見えるようになり、
衰弱に拍車がかかってとうとう亡くなってしまいます。
跡継ぎがいなかったため小早川家は改易です。上記のニュースにある肝性脳症、
それとアルコール依存症のダブルパンチで、
幻覚が見えていたのかもしれませんね。

さてさて、岡山城はもともと宇喜多秀家の居城でしたが、
宇喜多が流罪された後に秀秋が入り、かなりの改築をしています。
杉原が殺された天守の部屋は、いくら畳替えしても血の跡が浮き上がり、
部屋に足を踏み入れた者が何人も変死したという話もあります。
このため、その部屋はとうとう封印され、開かずの間になってしまいました。

このように、怪談のテーマの一つである開かずの間も、昔からある話なんですね。
教訓としては、もちろん過度の飲酒は慎みましょうということなんですが、
裏切りもよくはないですね。きちんと旗色鮮明にして事にあたるべきでしょう。
そうでないと勝っても喜びは少ないし、自責の念から、
このような結果になってしまわないともかぎらないですから。

戦災前の岡山城と小早川秀秋