夏目漱石とオカルト

2018.05.10 (Thu)
今回はこういうお題でいきますが、はたしてどんなことが書けますでしょうか。
さて、夏目漱石をご存知でない方はいないでしょう。
文豪と冠される日本の小説家の一人で、『坊っちゃん』『こゝろ』『三四郎』
などが代表作。その作風は理知的で「余裕派」などとも言われました。



自分は、けっして漱石について詳しいわけではありませんが、
オカルト研究の観点からすると、夏目漱石に対しては、
「オカルトに強い興味を持ちながら、その中に本気で足を踏み入れる
ことがなかった人」というイメージを持っています。

まず、漱石の子ども時代は、たいへん怖がりだったという話が残って
いますね。ただこれは、そう珍しいことでもないでしょう。
漱石が本格的にオカルトと出会ったのは、1900年からの
官費での英国留学時だと考えられます。

この頃、イギリスは心霊主義ブームの真っ最中でした。
漱石の留学は、学費が少なく、苦しいものであったようです。
大学での講義を価値のないものとして、本を読みながら、
下宿を転々と変えているうちに、神経衰弱気味になって帰国しました。

漱石は、留学中にロンドン塔を訪問しています。ロンドン塔は、
テムズ川の岸辺、イースト・エンドに築かれた中世の城塞で、身分の高い者を
収容する監獄としても使用され、現在でも幽霊の噂が絶えない場所です。
霊能者を自称する宜保愛子氏が、TV番組の企画で訪れたことも有名ですね。

ロンドン塔


漱石は帰国後、そこでの体験を『倫敦塔』という短編作品として
発表していますが、作中で、ロンドン塔に幽閉され、おそらく殺されたと
考えられるエドワード4世の2人の男児や、17歳で処刑された
イングランドの「9日間女王」ジェーン・グレイの姿を幻視します。

しかし、これはあくまでも幻視であって、実際に幽霊を見たというわけでは
ありません。漱石は、上で書いたように、そちらの側には踏み込まない人でした。
ちなみに、宜保愛子氏のロンドン塔での霊視は、漱石の書いた『倫敦塔』の
内容とほぼ一致していることが指摘されています。

さて、漱石は催眠術に強い興味を持っていました。これは、大学在学中に、
イギリスの医療ジャーナリストである、アーネスト・ハートの
『催眠術』を翻訳していることからもわかります。
ただし、催眠術への関心は漱石だけの話ではなく、
明治中期に、日本で催眠術の大ブームがあったんですね。

で、催眠術を日本に広めた立役者の一人が、オカルト界ではたいへん有名な、
東京帝国大学助教授の心理学者、福来友吉博士です。
福来博士が文学博士号を取ったのは、「催眠術の心理学的研究」でした。
ただ、福来博士は催眠術にあきたらず、超心理学の領域にまで手を伸ばします。
漱石とは違って、オカルトの闇に踏み込んでいきました。

福来友吉


御船千鶴子や長尾郁子などの透視・念写の研究に没頭し、
いわゆる「千里眼事件」を起こして、大学を追放されてしまうんですね。
漱石と福来博士の間に接点があったかどうかはわかりませんが、
漱石がこの事件に興味を持っていたのは、間違いないと思われます。

漱石の催眠術に対する知識は、『吾輩は猫である』に出てきていて、
胃の不調に悩む苦沙弥先生が、知り合いの医師に催眠術をかけてもらいますが、
かかるふりをして、じつはかかっていないという笑い話として描かれています。
このあたりからも、催眠術の原理や弱点を漱石が熟知していたことがわかります。

さて、漱石は怪談も書いています。『琴のそら音』という短編ですが、
これなんか、漱石のオカルトに対するスタンスがはっきり出ている作品です。
筋は、主人公の書生が、幽霊を研究している心理学者の友人のところで、
出征している夫が持っていった鏡に妻の姿が映り、後になって、
その瞬間に、日本にいた妻が死んでいたことが判明したという話を聞かされます。

そういえば、自分の婚約者がインフルエンザにかかっていたことを思い出し、
主人公は心配になります。友人の部屋をでて夜道を帰る途中、雨がしとしと降り出し、
さらに葬式の一行に出会って、主人公は不吉な気持ちがいよいよ増し、
婚約者のことが気になってしかたがない。まあ、固定電話すらない時代の話です。

このあたりの漱石の描写はじつに巧みで、
読者も、婚約者はすでに死んでいるのではないか、という気になってきます。
主人公が家に戻ると、まかないの婆さんが迎えに出て、
今夜は犬の遠吠えが普段とは違っていると言いはります。

しかし、主人公が翌朝早朝、息せき切って婚約者の家を訪ねると、
婚約者のインフルエンザはとっくに治っていて、
なぜこんな時間に来たのか不審がられる・・・という内容でした。
最後の場面は、そこまでとはうって変わった明るい調子でしめくくられています。

さてさて、漱石はオカルトにのめり込むには、あまりに聡明すぎたのだと思います。
興味は持ちつつも、あくまで客観的・懐疑的なスタンスを崩してはいません。
漱石は、理知的であったがゆえに神経衰弱となり、それからくる胃弱に悩まされ、
最後は胃潰瘍の大吐血で命を落としてしまうんですね。
ということで、今回はこのへんで。

関連記事 『宮沢賢治と相対性理論』







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「こどもの日」って怖い?

2018.05.05 (Sat)


ゴールデン・ウイークたけなわ、みなさんはどうお過ごしでしょうか?
自分は雑文書きなどもしてますので、完全な休みではありませんが、
雑誌の編集部がのきなみ休みになってるので、
編集者に締め切りをせっつかれることがなく、気は楽です。

さて、今日は「こどもの日」。祝日法で、「こどもの人格を重んじ、
こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」という趣旨のもと、
1948年に制定されました。この日は、ご存知のように、
もともとは「端午の節句」と言っていました。

端午とは5月5日のことで、この日を節句として祝うのは、
中国の陰陽五行説からきた風習です。5節句というと、
人日(1月7日 七草粥を食べる日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、
七夕(7月7日)、重陽(9月9日)のこと。
これらの日は、江戸幕府が公式の休日として定めています。

端午の節句が日本でも祝われるようになった歴史は古く、
平安時代の『枕草子』の三十九段には、「節(せち)は、
五月にしく月はなし。菖蒲、蓬などのかをりあひたる、いみじうをかし。」

(節句は五月が一番よい。菖蒲や蓬が香りあっているのは趣がある。)
というように出てきます。当時の貴族社会では、季節の変わり目を
大々的に祝って、単調な日々に変化をつけていたんですね。

現代には「5月病」という言葉があります。これは、進学、
就職などでの環境の変化になじめず、心身の調子が悪くなることですが、
昔も、季節の変わり目であり、また、田植えがある5月は、
災いが起こりやすいとされました。

そこで、「五月(さつき)忌み」として、田植えが始まる頃に、
早乙女と呼ばれる若い娘たちが、仮小屋や神社などにこもって、
田の神のために穢れを祓い、身を清めて田植えに臨んだと言われています。
日本の端午は、中国から来たの風習と、
日本古来の農耕儀礼が結びついたものだったんです。



さて、このあたりのことは、あちこちのホームページに書いてありますが、
当ブログはオカルトのブログですので、
端午の節句に怖い話がないかと考えたら、これがあるんですね。
上で『枕草子』に出てきた、菖蒲と蓬の霊力に関する内容です。

よく見られるのが、「食わず女房」型の説話。・・・あるケチな男が、
飯を食わない女がいたら女房にしてもよいと言います。
それを聞きつけた山姥などが、若い女に化けて男の家にやってくる。
そして、私は飯を食わないから嫁にしてくれと言う。

男は喜んで、女を女房にするが、たしかに男の目の前では
飯を食わないものの、なぜか蓄えてある米の減り方が早い。
そこで、男は野良仕事に出るふりをして、こっそり家の様子をうかがうと、
女が飯を炊いて、米びつのまましゃもじですくって食べている。

しかも、女の後頭部にはもう一つの口があって、
前と後ろでばくばく食っている。これは妖怪「二口女」です。
驚いた男が声を上げてしまうと、それに気がついた女は、
男をひっ抱え、食うために山の中にある自分のすみかに連れていく。



なんとかスキを見て逃げ出した男を、女が追いかけてくるが、
男は菖蒲と蓬が生えた湿地に身を隠し、女は蓬のにおいに負け、
また、菖蒲の葉が剣のように見えることから、
男のことをあきらめて山に逃げ帰っていく。

女の正体が、蛇の精や蜘蛛の精になっているなど、細部は違っていても、
こういう形の民話は日本各地に残っています。
そして、端午の節句に菖蒲湯に入ることや、軒下に蓬を吊るすことの
始まりとされることが多いんですね。



菖蒲と蓬、それと餅にまく柏の葉も含めて、においの強い植物であり、
それらには魔を祓う力があると考えられていました。
西洋でも、ニンニクが吸血鬼に効果があるなどと言われ、
ハーブが珍重されましたが、考え方の根は同じです。

さてさて、ということで、子どものおられる方は、今日はどこぞに
行楽にお出かけになっているかもしれません。
家族サービスはけっこうなことですが、連休が終わるとぐったり疲れていた、
などということがないよう、体調管理にお気をつけください。
では、今回はこのへんで。






『葉隠』の幽霊とUMA

2018.04.13 (Fri)
今回はこういうお題でいきます。『葉隠 はがくれ』はご存知だと思います。
江戸時代中期(1716年)に、肥前国、佐賀鍋島藩士、山本常朝
が口述した言葉を、同藩士、田代陣基が筆録してまとめたものです。
「聞書」全12章で、かなりの分量があります。

山本常朝


口述筆記というところにご注意ください。主君への殉死が許されずに
出家した常朝が、あれこれ思うままを述べているので、
内容はひじょうに雑多なものになってるんですが、
ひとことで言えば、武士として生きるための生活の知恵集でしょうか。

『葉隠』といえば、「聞書一」の冒頭に出てくる、
「武士道といふは、死ぬことと見つけたり」の部分が有名ですが、
ここだけ見て、「武士は主君のために忠義を尽くして死ななければならない」
こういう内容をえんえんと書いていると思われている方も
いるかもしれません。でも、それはかなり違うんです。

『葉隠』の一節には、「丁子(ちょうじ)袋を身につけると寒気風気に
あたらない。落馬したときの血止めには、芦毛馬の糞を煎じて飲めばよい。」
こういった内容も、さも秘伝めかして書いてあるんですね。
丁子は、クローブという香木の花蕾のことですが、うーん、馬糞ねえ・・・
あと、衆道(男色)の心得の話なんかも出てきます。

丁子袋


さて、本題に入ります。この『葉隠』には、幽霊の話、
それからUMA(未確認生物)の話が書かれていて、
なかなか興味深い内容なので、ご紹介したいと思いまして。まず、幽霊の話は、
肥前佐賀藩の藩祖で、戦国武将の鍋島直茂のエピソードとして出てきます。

鍋島直茂


「直茂公の頃、城内三の丸で密通したものがおり、
直茂公は厳しく詮議を行って、男女ともに死罪にした。すると、
その2人は幽霊になり、毎夜出てくるようになった。お女中たちは怖がって、
夜になると部屋から出なくなった。この話を御前様がお聞きになり、
ご祈祷や施餓鬼をさせたが、幽霊は出るのをやめない。

ついに話は直茂公の耳に入り、直茂公は「さてさて、なんと嬉しいことか。
やつらは首を斬っただけでは飽き足らない憎むべき輩なのだが、
死んだ後に成仏することもなく、苦しんでさまよっているのだから、
これは気分のいいことだ。ずっとそのまま幽霊でいろ」とおっしゃられた。
その夜から、幽霊はどちらも出ることがなくなったという。」(聞書三)

わりとありがちな話ではあります。鍋島直茂は、山本常朝が生まれる
50年ほど前に亡くなっていますが、常朝はたいへん尊敬していて、
藩祖の幽霊を怖れない豪胆さをここで書いているんですね。
ただ、これについての常朝自身の感想は述べられていないので、
常朝が幽霊を信じていたのかどうかまではわかりません。

次にUMAの話。これは2つ続けて書いてあって、一つ目が、
「仲間の原田という者が15歳のとき、手に(狩りに用いる)鷹を
すえながら野原を歩いていると、その鷹をねらって大蛇が出てきて、
尾のほうから原田の体を3巻きして締めつけた。原田は怖れず、
鷹を手に乗せたまま、大蛇の頭が近寄ってくるのを待ちうけ、
脇差を抜いて頭を切り落とした。

すると体を巻いていた部分ははらりと落ち、見ると蛇の長さは6m近くあった。
その後、締められた肋骨が痛むのでしばらく養生していたが、
寒中になると今でも痛むと原田は言っている。」こんな内容です。
6mは日本の蛇としてはかなりの長さですが、それでも、
いてもおかしくはないかもしれません。しかし、次の話は完全にUMAですね。

「ある者が猟に出たところ、何とも言えない生き物が前から
口を開けて襲いかかってきたので、猟刀を突き出して、
その口に自分の肘のあたりまで刺し入れた。その生き物はたちまち死んだ。
長さは3mほどの蛇だが、頭は獅子のような形をしており、
胴の部分の1m20cmほどは猫のようだった。

銭のような鱗があり、アゴから腹にかけて白い毛が生えていた。
そして驚いたことに、ネズミのような足が8本生えていた。
また、尾は先にいくほど細くなっていた。
これを塩漬けにして持ち帰ったら、その後、山中が大いに振動し、
山道もなくなってしまった。」(聞書七)

これは、何でしょうね。こういう記述を見ると、UMAフアンの血が騒ぎます。
最初はツチノコかもと思ったんですが、足8本のところが不思議です。
古代の蛇には足がありましたが、トカゲと同じ4本ですし、
巨大なムカデ類? それとも何かの突然変異でしょうか。あるいは、
肥前には南蛮船も来ていたので、外来生物?? と夢が広がります。

足のある蛇


で、この話に続いて、常朝は大蛇に襲われたときの対処法を、
大真面目に話しています。後ろから襲われた場合は体を開くと、
蛇はそのまま突っ込んでいくだろうとか、
蛇が体を立ち上げたところを打てば倒れるだろうとか・・・
まあでも、このあたりの部分を面白がるのは自分くらいかもしれません。

さてさて、ということで、一般的な研究書にはあまり出てこない、
『葉隠』の奇妙なエピソードをご紹介しました。
『葉隠』は、武士道を説いた本というだけのものではないんですね。
あと、『葉隠』は以下のサイトで全文が読めます。現代語訳ではありませんが、
難しくはないです。ということで、今回はこのへんで。
「校注葉隠」


 





人物伝説と天草四郎

2018.04.13 (Fri)
今回はこういうお題でいきます。日本にも世界にも、その生涯に多くの
伝説がまとわりついている人物っていますよね。まず、イエス・キリストなど
宗教的な人物はほとんどそうですし、あとは、いわゆる偉人とされる人々。
アレキサンダー大王、ナポレオン、シェークスピア、科学者にして
錬金術師のアイザック・ニュートンなんかにもありますね。

で、本項では、人物伝説というのは、いつ、どのようにしてできるのか、
どんな形になりやすいか、などについて少し考えてみたいと思います。
さて、誰を例にすればいいですかね。ここは日本の人物でいきましょう。
日本史上、誰でも知ってるほど有名で、なおかつ、
たくさんの伝説を身にまとっている人物・・・

うーん、聖徳太子とか役行者とか、古代の人物はやめておきましょう。
なんでかというと、そもそもの実体がよくわからないからです。
まあ、聖徳太子こと厩戸皇子は実在の人物だとは思いますが、
役行者は、ほんとうにいたのかどうかもはっきりしていません。

ということで、思いついたのが「天草四郎」。有名どころですよね。
これで考えてみます。さて、天草四郎は、江戸時代初期のキリシタンで、
「島原の乱」の主導者の一人。諱は時貞。洗礼名は「ジェロニモ」
から「フランシスコ」に変化。1621年または1623年に生まれ、1638年、
原城陥落とともに戦死します。ここまでは史実として問題はないでしょう。

「島原の乱」


まず、① 人物伝説はいつできるのか? 
これは本人の死後にできるものが多いんですが、
生前から伝説がある場合もあります。宗教指導者を考えてみてください。
オウム真理教の麻原が空中浮揚したとか、ああいった類のものです。
信者が積極的に広めて、布教に役立てようとするんですね。

天草四郎は宗教的なカリスマでしたので、当然その手の伝説があります。
というか、生まれる前から、救世主の預言のもとにあったと言って
いいかもしれません。日本から追放されたママコスという宣教師が、
「26年後に16歳の天童が出現しキリシタンを救う」と言い残した内容に、
風貌・人柄がぴったりあてはまっていたのが四郎だったとされます。

さらに、盲目の少女に手をかざしただけで目が開いた。海の上を渡った。
これ、『新約聖書』にあるキリストの逸話にそっくりですよね。
あと、空から飛んで来た鳩が手にとまり、手のひらに卵を産んだ。
卵を割ってみると、キリスト教の経文を書いた紙が出てきた、などなど。

「天草四郎」


② 人物伝説はどうやってできるのか? これはまず、
資料が少ない人物ということになるでしょうね。生没年や生い立ち、
妻子、死亡時の記録などがはっきり資料に残っている場合は、
なかなか伝説が入り込む余地がありません。

ところが、天草四郎の場合は、出自や幼少期のことがよくわかっておらず、
その死についても、江戸幕府軍は誰も四郎の顔を知らず、
首実検の際に困ったと言われます。そこで、伝記の空白を埋めるために、
面白おかしく作られた内容が挿入されるわけです。源義経が牛若丸だった
ころのエピソードなんかがそうですよね。カラス天狗に剣術を教わったとか、
弁慶と京の五条の橋の上で戦ったとか。

それと、悲運の死を遂げた人物。日本には「判官びいき」という言葉が
ありますが、源義経(九郎判官)、豊臣秀頼、大塩平八郎、
新しいところでは西郷隆盛など、大きな権力と戦って敗れ去った人物に対して、
「じつは生きていた」という伝説が生まれやすいんです。

③ 人物伝説にはどんなパターンがあるのか? これはいろいろですが、
代表的なものをとり上げると、「ご落胤説」 「本当は女だった説」
「死なずに逃げのびた説」などがあげられます。
で、これ、天草四郎には3つとも全部あるんです。

「ご落胤説」は、上で出てきた豊臣秀頼の子だったとするもので、秀頼は
大坂夏の陣で死なず、船で薩摩に逃れていて、その後に生まれたのが四郎。
根拠としては、四郎が豊臣家の「ひょうたんの馬印」を用いていたことが
あげられています。秀吉の孫が、徳川家に対して乱を起こしたとすれば
ドラマチックきわまりないですが、まあ、史実ではないでしょう。

「千成瓢箪」


「女だった説」は、上杉謙信などにもありますね。四郎があまりの美少年だった
ところから出されたものでしょう。島原の乱のおよそ200年前、
ヨーロッパでは、ジャンヌ・ダルクの「男装の女戦士」伝説が
生まれていましたので、もしかしたらそれとかかわりがあるかもしれません。

「逃げのびた説」は、天草四郎にはたくさんの影武者がいて、
(実際にそういう資料はあります)首を取られたのはその中の一人、
本物の四郎は、裏から乱を支援していたポルトガルの船でヨーロッパに渡った
とするものですが、これもありえないですね。もし、ポルトガル船に乗ったら、
そのまま奴隷として売り飛ばされるんじゃないかな。

さてさて、天草四郎の伝説は、現代になっても生まれています。
こういう人物はフィクションの主人公になりやすく、山田風太郎の伝奇小説、
『魔界転生』をはじめ、たくさんの小説やマンガに登場していますが、
そこで面白おかしく描かれた内容が、ずっと時がたってから、
伝説化したりするんです。ということで、今回はこのへんで。

「魔界転生」






大相撲と女人禁制

2018.04.07 (Sat)
不祥事が続いた大相撲界が再び批判にさらされている。
4日に京都府舞鶴市で実施された大相撲春巡業で、
土俵上で倒れた多々見(たたみ)良三市長の救命処置をした女性に対し、
土俵から下りるように場内放送で促したのだ。

土俵の女人禁制という伝統に固執するあまり、
人命軽視とも受け取られかねない結果。日本相撲協会の八角理事長
(元横綱北勝海)が不適切だったと認めて謝罪するなど、
不測の事態への対応の見直しを厳しく迫られることになった。

協会の資料には「土俵は神聖なる場所であるため」と、
女性が土俵に上がれない理由を記している。平成2年の初場所で
森山真弓官房長官(当時)が表彰式で土俵に上がることを求めたほか、
12年に大阪府知事に就任した太田房江氏(現参院議員)が、府内で開かれた
春場所で同様の要請を行ったが、協会は伝統の観点から断っている。

(産経ニュース)



当ブログでは、ふだんは時事的な問題は取り上げないんですが、
この件に関しては興味深かったので、少し書いてみたいと思います。
このニュースを聞いて、まず自分の頭に浮かんだのは、
『日本書紀』に書かれている、雄略天皇の事績です。

雄略天皇(大泊瀬幼武 おおはつせわかたける)は、5世紀後半ころの人物。
ヤマト王権の勢力が全国におよんでいった時期の大王と見られます。
他氏族を滅ぼしたり、随臣を気ままに処刑したことで、
「大悪天皇」の呼び名も持っているような人だったんです。

自ら大猪を殺す雄略天皇
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埼玉県の稲荷山古墳、熊本県の江田船山古墳から、
それぞれ「獲加多支鹵 わかたける 大王」という銘を持つ太刀が出土し
これは異論もありますが、雄略天皇を指しているとする見解が主流です。
古代の天皇の中でも、実在性の高い人物なんです。

この雄略天皇の御代、あるとき、韋那部真根(いなべの まね)という木工が、
巧みに仕事をすると聞いて呼びよせると、石の上に木を置いて斧をふるい、
少しも刃を傷つけることがない。天皇が感心して、
「どんなときでもそのようにできるか」と訪ねたところ、
「もちろんです」と自信たっぷりに答えた。

そこで天皇は、宮中の采女を呼び集め、裸にして相撲をとらせた。
木工はしばし手をとめたものの、仕事を続けたが、集中力を欠いて
ついに手元を誤り、斧の刃を傷つけてしまった。天皇は怒り、
木工を殺そうとしたが、仲間のものが歌を読んで天皇を諌めたので、
天皇は貴重な人材を失ってはいけないと思い直し、処刑は取りやめた。
『日本書紀』には、だいたいこんな話が載っています。

このころは、まだ相撲の土俵はなかったと考えられますが、
女が相撲をとることが禁忌とされている様子はありません。
『天岩戸』で、天鈿女命(アメノウズメ)が陰部を出して踊り、
それを見た他の神々が笑いさざめくなど、もともと、日本神話は、
性に対しておおらかであったことは、『日本書紀』のあちこちに見られます。

さて、現在の相撲協会の前身は、江戸時代初期から始まった勧進相撲ですが、
1768年に両国の本所回向院(お寺)で、最初の大規模な興行が行われました。
ここでの開催が定着したのは1833年からです。
大相撲の歴史は、そう古くまでたどれるわけではないんです。

さらに、初期のころは土俵はなく、「人方屋」という見物人が直径7~8mの
人間の輪を作り、その中で取組が行われました。それが、柱を立てて、
縄を張った格闘技のリングのような四角い競技場に変わり、
現在と同じ丸い土俵になったのは、18世紀始めと見られています。
ただ、その頃でも土俵はまだ一重でしたし、
競技のルールも現在とはだいぶ違っていました。

江戸時代の相撲は興行としての性格が強く、大名や有力旗本が
お抱え力士(家臣に取り立てられ、武士としての身分がある)を持っていて、
この取組によって藩同士の争いが起き、八百長が行われたり、
政治決着として、引き分け、預かり(没収試合)になったりしていたんです。

興行のための子供力士「大童山」 東洲斎写楽


ざっと歴史をふり返ってきましたが、ここまで見るかぎり、
「相撲は神事である」 「土俵は神聖である」 「土俵は女人禁制である」
これらのことには、それほど古い歴史も伝統もありません。
多くは明治になってから、大相撲の権威づけに、明治天皇を中心とする
国家神道を利用してつくり出されたものなんですね。

行司が直垂、鳥帽子など、平安時代を思わせる装束を着用したり、
力士が髷をゆっているのも、横綱の土俵入りなども、
「興行のための演出」の色合いが強いでしょうし、そこまで深い意味があるのか、
と問い詰められると、相撲協会自身が困ってしまうんじゃないでしょうか。

さてさて、現在の大相撲は、「神事」 「興行」 「スポーツ」
「公益財団法人」など、多くの要素が渾然一体となって成り立っています。
それ自体は必ずしも悪いことだとは思いませんが、
そのために起きる矛盾もさまざまにあるんですね。

例えば、相撲協会は「わんぱく相撲全国大会」を主催していますが、
地方大会で女子児童が優勝したとしても、両国国技館での全国大会には、
女性ということで出場できません。これはおかしいですよね。
スポーツとするなら、男女フリーの競技にするか、
あるいは女子だけの大会を別に開くか、どっちかでしょう。
(女子の「新相撲」はありますが、相撲とは別競技とされます。)

ということで、自分は、神道を利用して権威づけする時代はもう終わっている
と考えます。現在の大相撲に必要なのは、いろんなものが渾然一体となって
こんがらかっている部分を、もう少しわかりやすく整理し、現代化していく
ことなんじゃないでしょうか。ということで、今回はこのへんで。

関連記事 『相撲と埴輪の起源』