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諱(いみな)の話

2019.02.22 (Fri)
今回はこういうお題でいきます。あんまり面白くないと思います。
さて、どうしましょう。最初に歴史クイズでもやりますか。難しくはないです。
① 尾張出身で、安土城を築いた戦国武将は誰か?
② 江戸時代に北町奉行を務め、その背には彫物があると噂された旗本は誰か?
③ 幕末、新選組の局長を務めた天然理心流の剣客は誰か?

①は「織田信長」、③は「近藤勇」ですよね。②もおわかりでしょうが、
みなさんはどう答えられますかね。「遠山の金さん」でしょうか、
それとも「遠山金四郎」、あるいは「遠山左衛門尉(さえもんのじょう)」・・・
「遠山景元」と答えられる人は、あんまりいないんじゃないかと思います。

織田信長
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そう、今日は武士の氏名の話をしていきたいと考えています。
まず、織田信長はフルネームで「織田・三郎・平朝臣・信長」。
読みは「おだ・さぶろう・たいらのあそみ・のぶなが」だと思います。
ここで、「織田」は家名つまり名字のことです。

「三郎」は仮名(けみょう)といって、通称・呼び名ですね。
信長は次男でしたが、家督を継いだため父親の仮名をそのまま継承して三郎。
仮名は人によっては複数あり、信長の場合は「上総介」 「弾正忠」
などとも呼ばれました。これは、戦国の覇者となってからの信長を
「三郎」と呼ぶわけにはいかないですからね。

「平朝臣」は信長の「氏 うじ」を表します。平氏の一門に連なるという意味。
最後の「信長」が諱です。諱は「忌み名」であり、信長が他人から
これで呼ばれることはなかったはずです。諱を使うのは、自分で文書などに
署名する場合や、朝廷での儀式関係のときくらいでしょう。
あと、元服前の幼名もあって「吉法師」ですね。

遠山の金さん
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このように、武士のフルネームは「家名・仮名・氏・諱」の順になっていましたが、
よほどの場合でなければ、氏を名のることはありませんでした。
もう一人、遠山の金さんも見てみましょう。これもフルネームは、
「遠山・金四郎 または 左衛門尉・景元」で、
氏は系図を調べればわかるでしょうが、面倒なのでやめておきます。

仮名が二つあるのは、朝廷から「従五位下左衛門少尉」の官位を受けていたため。
ですから、遠山より目上の者は「金四郎 殿」 、目下ならば「左衛門尉 様」と、
呼び方が違っていたと思われます。ここで、実際の官位と仮名が一致するのは、
江戸時代では珍しい例なんですね。

島津・松平薩摩守・斉彬


例えば、九州の島津家では、仮名として「薩摩守」を名のることが多かったんですが、
これは朝廷から正式に与えられた官職ではありません。また、そこらの浪人でも、
「山田左近」とか「佐々木刑部」などと、一見官職のような偉そうな仮名を
勝手に名のってる場合も珍しくはありませんでした。

③の近藤勇の場合は、勇が仮名で、諱は昌宜(まさよし)です。
ただ、「近藤昌宜」とすると、誰のことだかわからなくなってしまいます。
ですから、教科書に載っている歴史上の人物の名前は、
仮名と諱が入り混じってるんです。統一したほうがいいような気もしますが、
現実的にはどうにもならないんでしょうね。

近藤勇
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さて、諱は日常、ほんとうに使われることがなかったので、
ある武士が亡くなって、まわりの友人、知人の誰も諱を知らず、
郷里のお寺まで確かめに人を行かせたなんて話はいくらもあります。
基本的に、諱で呼んでもいいのは、その武士の主君か親だけでした。

これは、諱は、その人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、
その名を口にすると、その霊的人格を支配することができると考えられたからです。
夢枕獏氏の『陰陽師』シリーズは平安時代の話ですが、敵に諱を知られ、
呪をかけられてしまうシーンが出てきますが、まさにああいう感じです。

他人の諱は、呪詛に使ったり、あるいは仇討ちなどで憎い相手にわざと
諱で呼びかけるとか、そういう場合にしか出てきませんでした。
さて、諱を使う風習は、中国から日本に伝えられたのは間違いありません。
例えば、三国志で有名な蜀の軍師は「諸葛・亮・孔明」です。

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ここで、諸葛が姓、亮が諱、孔明が字(あざな)ですね。
幕末の国学者、本居宣長はその著書で、「諱は中国から伝わってきた
よくない風習で、本来、日本では名前は美称であったはずだ」と述べています。
ただ、宣長は何でもかんでも中国由来のものを否定する傾向が強く、

本名を他人に知らせない習慣は中国だけでなく世界各地に見られ、
日本でも、中国から諱が入ってくる前から、
もともとそういう風習があったのだとする反論もあります。
で、明治になって戸籍法が発布され、仮名と諱を統一することになり、
ここで、日本人の氏名から呪術的な要素はなくなってしまったんですね。

さてさて、ということで、諱を中心に江戸時代の氏名について
見てきたわけですが、呼び名には上記した以外にも、松尾芭蕉の
芭蕉のような「号」、出家した場合の「法名」があって、たいへん複雑なんです。
みなさんも、歴史的な人物の氏名について、以上のようなことを頭に入れておくと
面白い発見があるかもしれません。では、今回はこのへんで。

関連記事 『漢風諡号小考』

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大嘗祭と崇峻天皇暗殺

2019.02.16 (Sat)
皇太子さまが新天皇に即位されるのに伴う大嘗祭(だいじょうさい)について、
宮内庁が平成31年11月に行う方針を決め、具体的な準備に着手することが
分かった。山本信一郎長官は同日の定例会見で、ご即位が政府案の一つである
31年5月1日になった場合でも、同年11月に大嘗祭を行うことに
支障はないとの考えを示した。
(産経ニュース)

大嘗祭の様子
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やや古いニュースになりますが、今回はこの話題を取り上げたいと思います。
また古代史かよ、と思われる方はスルーしてください。
さて、宮内庁によれば、天皇即位の大嘗祭は、11月14・15日のどちらかに
行われる予定のようです。この両日は、ウイークデーの木・金ですが、
休日になるんでしょうか?

平成2年の今上陛下の大嘗祭は、勤労感謝の日に行われましたので、
もともと休日でしたが、昭和3年の昭和天皇の大嘗祭はたしか休日になっています。
ちなみに、平成2年、昭和3年に行われたのは、先代天皇の崩御による
1年間の服喪期間があったためで、今回は退位ですので、
今年すぐに行うということなんですね。

では、「大嘗祭(だいじょうさい)」って何なんでしょう。
これは、「天皇即位の後、初めて行う新嘗祭(にいなめさい)」のことです。
新嘗祭は、毎年11月の中旬に行われ、その年の新穀を天皇が神に捧げ、
天皇自らも食す祭儀です。皇室による収穫祭と言っていいかと思います。

新嘗祭での今上陛下
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古代においては、この毎年の新嘗祭のことを大嘗祭と言っていました。
それが、天皇が即位した最初の新嘗祭を大がかりに行って、
践祚大嘗祭と呼ぶように変化したのは、『日本書紀』によれば、
7世紀の天武天皇のころからのようです。

さて、大嘗祭ではどんな儀式が行われていたのでしょうか。
これは宮中の秘事なので、はっきりしたことはわかりませんが、
大きく2つの儀式があると考えられています。「神人共食」と「神人同衾」です。
神人共食のほうはわかりやすいですね。その年に穫れた五穀を、
神に捧げ、天皇がともに食べること。

神人同衾はわかりにくいですが、神と天皇が一つの衾(ふすま 夜具)で
一緒に寝るんですね。ただし、これは古代の話で、
現在の大嘗祭では、衾は用意されるものの、
それは神のためのもので、天皇はその中には入らないとされています。

天孫の降臨
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この衾のことを、「真床覆(追)衾 まどこおぶすま」とする説があります。
民俗学者、折口信夫が唱えたもので、先帝の霊と同衾することで、
首長霊を受け継ぐという内容ですが、この説には批判もあります。
また、衾は、天皇家の先祖である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)
が地上に降臨するときにくるまっていたものである、と言う人もいます。

折口信夫
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さて、少し話を変えて、日本の歴史で天皇が暗殺された例は2回あります。
一つは、飛鳥時代の崇峻天皇、もう一つが、古墳時代の安康天皇です。
ただし、安康天皇は皇族である眉輪王に暗殺されているため、
臣下によって弑逆されたのは崇峻天皇だけになります。

崇峻天皇は欽明天皇の皇子で、587年に即位しています。
当時は、蘇我氏一族が権勢を誇っており、崇峻天皇も、数ある皇子の中から、
蘇我馬子の推薦によって即位したんですが、傀儡として操られるのを嫌って、
だんだんと馬子に反抗するようになります。

592年、崇峻天皇40歳頃のとき、10月に朝廷に大猪を献上する者が
ありました。天皇は、笄刀(かんざしのこと)を抜いてその目に突き立て、
「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」
と言い、その噂を聞きつけた馬子は、

「天皇が自分を嫌っているのだ」と考え、先手を打って部下に暗殺命令を下します。
天皇を偽って儀式に臨席させ、その席で東漢駒という人物に弑させたんですね。
余談ですが、崇峻という諡は後世につけられたもので、
「崇」の字がついている天皇は、崇道天皇、崇徳天皇など、非業の死を遂げて
怨霊化した天皇におくられるという話があります。

崇峻天皇
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自分は、これは正しいだろうと考えています。 関連記事 「崇と祟」
さて、この崇峻天皇の暗殺ですが、行われたのが大嘗祭(新嘗祭)のときである、
とする説があるんですね。『古事記』では、暗殺は11月中卯
(この場合は11月13日)であり、まさに大嘗祭の当日になります。

では、なぜ大嘗祭に暗殺が行われたのか? 上記した神人同衾です。
衾に入った天皇の体から、数刻、祖先霊が抜け出すと考えることができます。
天皇を弑することは大逆で、天皇と日本の国は一心同体。
日本の国にも大きな災が降りかかることになるわけですが、
このときだけは、それを免れることができる・・・

最初にこの説を聞いたときには、うーんと考え込んでしまいました。
なるほどなあ、そういうこともあるのかもしれないと思ったわけですが、
ただ、日本の正史である『日本書紀』では、天皇暗殺の日は、
自分の干支計算だと11月3日になるんですよね。
ですから、真偽のほどはよくわからないんです。

さてさて、天皇の「即位の礼」は国事行為ですが、大嘗祭は皇室行事であり、
そこに国費を支出するのは、政教分離の原則を定めた憲法違反である
とする意見がありますね。これまでにも裁判になっていますが、自分は、
そう考える人は訴訟を起こせばいいと思います。そして判決が出たら従う。
それが法治国家というものです。では、今回はこのへんで。

関連記事 『天皇退位と怨霊』







奴隷とお金の話

2019.01.31 (Thu)
安寿と厨子王の像
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今回はこういうお題でいきます。前に「金(きん)のオカルト」という
項を書きましたが、あれは金属の話でした。それに対し、
今回はお金、つまりマネーの話になります。マネーの怖い話って
いっぱいあるのはおわかりですよね。
ある意味、幽霊よりもずっと怖いものです。

わずか数千円の金額で人が殺されたりしますから。
ただまあ、あまり現実的な生々しい話はしないようにしたいと考えてます。
さて、日本で通貨として、少しずつ貨幣が使われるようになったのは、
7世紀、律令時代あたりからというのが定説です。

それ以前は物々交換の社会でしたが、古い時代においては鉄や貝殻、
鏡などの威信財、あるいは種籾や米が、交易の中心となっていたと考えられます。
『三国志』魏志倭人伝には、対馬国の記述として、
「無良田食海物自活 乗船南北市糴」と出てきます。

「よい田がないので、海産物を食べて生活している。船で南北に交易している」
おそらくですが、海産物を物々交換で米に代えるなどもあったと思われます。
その後、古墳時代に入り、米、塩、布などが貨幣のかわりをはたしていて、
こういうのを物品貨幣と言います。

さて、同じく魏志倭人伝には、卑弥呼が魏に使者を派遣し、
朝貢品を献じていますが、その中に「男生口四人 女生口六人」が含まれ、
この「生口」というのは、奴隷のことだと考えられます。(異論もあります。)
弥生後期ころの日本には、奴隷がいたと考えて間違いないでしょう。

生口は、戦争での捕虜、犯罪を犯したものなどが考えられますが、
それ以外にも、交易品としての生口がいたんじゃないかと思います。
当時の一つのクニの人口は、吉野ヶ里遺跡から推定すると、
2000人~4000人程度と見ることができます。

で、もしある集落が、天候による不作などで食べるものがなくなった場合、
交易品として、人間を出すしかなかったんじゃないでしょうか。
もちろん、塩や海産物、玉製や銅製の加工品など、
季節にかかわらず交易に出せる特産品を持っている集落は別ですが。

奴隷市場
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世界の歴史を考えてみても、貨幣を持たない物々交換社会では、
人間は重要な交易品でした。アラブでは奴隷が布などと交換されましたし、
メソアメリカでは、カカオ豆100粒で奴隷一人が買えたそうです。
その手のことが日本で ないはずはないんですが、
古代史で、あんまりこういう議論をする人がいないんですね。

日本の考古学は、世界的に見ても精密な学問内容を展開してますが、
宗教的な面、経済的な面が弱いと自分は考えてます。
なかなか、古代の交易の実態も明らかになってきません。
古墳時代から律令時代に入ると、人口のおよそ5%ほどが賤民とされ、
公奴婢(くぬひ)は官有の奴隷、私奴婢(しぬひ)は私有の奴隷で、

どちらも財産として売買の対象となりました。これが中世に入ると、
飢饉や天災などで食えなくなった人が人身売買の対象にされ、
家族や自分自身をも奴隷として売ったという記録が残っています。
いわゆる借金奴隷です。森鴎外が書いた『安寿と厨子王』
のようなことが、普通にあったわけです。

「歴史的に日本には奴隷制度はなかった」などと言う人がいますが、
けっしてそんなことはなく、物を知らないとしか言いようがありません。
戦国時代には各地で乱戦が起こり、戦いに負けた側の領民の多くが奴隷とされました。
一説には、人口の半数程度が奴隷的な身分になったと言われます。

織田信長は、ポルトガルやスペインの宣教師を優遇しましたが、
秀吉の代になって、バテレン追放令が出されました。
これは、ポルトガルの宣教師が仲介者となって、大量の日本人を買いつけて
国外に輸出していることを知り、秀吉が激怒したためです。

ポルトガルの貿易商
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さて、江戸時代になっても人身売買は続きました。
これはオカルトとも関係があるんですが、農村部では、子どもの間引きが行われ、
それがもとになって、「累ヶ淵」という怪談ができました。
女の子の場合は、ある程度まで育ててから人買いに売ることもあり、
多くは遊郭で育てられました。ここでも怖い話はいろいろあります。

葛飾北斎「花魁と禿」
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こういうことは、第2次世界大戦後も、しばらくの間続いていました。
現在、東南アジアで子どもの人身売買が問題になっていますが、
日本でそれがなくなったのも、そんな古い話ではないんです。
童謡の「花いちもんめ」や「通りゃんせ」は、
人買いに売られる子どものことを歌ったものだ、なんて話もありますよね。



さてさて、日韓の間で「慰安婦問題」が争点となって久しいですが、
いわゆる慰安婦には日本人もいましたし、日本国内でも、もちろん朝鮮内でも
人身売買は普通に行われていました。朝鮮人慰安婦のほとんどは、
親から人買いに売られた人たちです。

ですから、その手の人身売買全体が問題化するのならわかりますが、
朝日新聞が、戦争時の朝鮮人慰安婦だけに焦点をあてて取り上げたのは、
自分は、きわめて恣意的で不自然なことだと考えます。
あれ、奴隷の話をしているうち、お金の怖い話までいきませんでした。
では、今回はこのへんで。

昭和初期、東北地方
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戦国三傑と刀剣

2019.01.18 (Fri)
今回はこういうお題でいきます。自分は刀剣フアンで、
当ブログでは、刀剣についてのミニシリーズがあります。
もし興味を持たれた方がおられれば、以下の関連記事を参照されてください。
『新田義貞と3本の刀』  『頼光四天王と3本の刀』 
『妖刀村正の話』  『陰陽剣と光明子』  『名剣の話』
『始皇帝暗殺と2本の剣』  『アーサー王伝説について』

さて、日本の戦国の三傑というと、一般的には「織田信長」 「豊臣秀吉」
「徳川家康」のことを指しますよね。この中で、みなさんは誰がお好きでしょうか?
アンケートを取れば、結果はけっこうバラけるみたいですね。
それは、3人それぞれに人間としての特徴が異なっているからです。
ちなみに自分は、家康が一番好きです。

織田信長
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では、3人それぞれ、刀剣についてのどんなエピソードがあるのか、
みていきたいと思います。まず織田信長ですが、この中では最も怖い人ですね。
癇性という言葉がぴったりで、それまで穏やかだったのが、
ちょっとしたことで瞬間湯沸かし器のように怒る。
これだと、そばに仕えている人間は気が気じゃなかったと思います。

ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスが書いた『日本史』には、
彼が信長と謁見したときのエピソードが出てきますが、中にこんな記述があります。
「信長は築城を指図していたが、建築を見物しようと望む者は、男も女もすべて、
草履をぬぐこともなく彼の前を通ることが許された。

そのとき、一人の兵士が見物人の中の女の顔を見ようとして、
かぶっていた笠を少し上げた。それに気がついた信長は激怒し、
たちまち走り寄って、その兵士の首を手ずから刎ねた」・・・怖いですよね。
こんな人が主人だとしたら、家来は大変です。

国宝 「圧切長谷部」


さて、信長の佩刀と言えば、最も有名なのが「圧切(へしきり)長谷部」。
正宗の弟子の一人、長谷部国重の作刀です。こんな話が残っています。
あるとき、信長の召し抱えていた観内という茶坊主が無礼を働きました。
お茶を信長の膝にこぼしたとかなんでしょうか、そのあたりはわかりません。

信長は怒って刀を抜き、観内を手打ちにしようとしましたが、
観内は城内を逃げまわり、座敷の棚の下に隠れました。信長は長谷部を棚に押しつけ、
少しずつ力を加えていって、棚ごと茶坊主を切断した・・・
それで「圧切」という名がついたんですね。この話、本当かどうか確証はありませんが、
上記のフロイスの記述を見れば、あっても不思議はないように思います。

この圧切長谷部は、後に黒田官兵衛に与えられ、現在は博多市博物館にあります。
次に、豊臣秀吉についてみてみましょう。秀吉といえば、
低い身分から信長に取り立てられて出世したためか、たいへんな派手好きで、
黄金の茶室をつくった話は有名ですね。

豊臣秀吉
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で、秀吉が天下人になってから、各地にある名刀をことごとく召し出しました。
秀吉の所有していた刀・脇差のリストには、350本もの名刀が記録されています。
ただこれ、たんなる物欲だけで集めたわけでもないんですね。
秀吉は、刀の他に鎧や馬具、茶道具なども多数集めていましたが、
これらは、何かの褒美として家来に下げ渡す役割もあったんです。

天下が平定されてしまうと、配下に与えるための土地がなくなってしまいます。
そこで、名物(有名なエピソードを持った武具や茶道具)は、
一国と同様の価値があるとされたんです。また、少し意味合いは違いますが、
秀吉が朝鮮出兵を行ったのも、配下に与える土地を求めてのこととも言われます。

秀吉のもとに集められた刀は、すべて本阿弥光徳によって鑑定され、
本物かどうか、また、本物ならどれくらいの価値があるかを記した「折紙」が
つけられました。今でいう鑑定書です。偽物は廃棄され、刀剣史的には、
これによって日本刀の質がたいへんに向上したとされます。

「郷義弘」


秀吉自身が好んだのは、「相州五郎正宗」 「粟田口藤四郎吉光」 「郷義弘」
とされ、これらを「天下三作」と言うようになりました。
さて、最後は徳川家康です。家康といえば、「鳴くまで待とうホトトギス」
の慎重派と考えられることが多いですが、実際は武を好んでいました。

徳川家康
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柳生宗矩、小野忠明などの剣豪を指南役として召し抱え、自分でもかなり
剣術の稽古をしていたようです。その家康が秘蔵していたのが、
三池典太光世作の「ソハヤノツルギ」という刀です。謎に満ちていて、
詳細が不明なんですが、刀の茎に「ウツスナリ」と刻まれていました。

もともとソハヤノツルギは、日本初の征夷大将軍となった平安時代の武官、
坂上田村麻呂の持っていた刀で、「ウツスナリ」とは、
三池典太光世がそれを模倣して作った刀という意味なんだと思われます。
考えてみれば、田村麻呂と家康には、征夷大将軍になったこと、
死後に神として祀られたことなど、いろいろ共通点があるんですよね。

さてさて、ということで、戦国の3武将、刀に対する好みにも性格の違いが
表れていて、自分なんかには興味がつきないところです。
刀剣の話は、まだ取り上げていない西洋の剣もありますし、
今後も続けていきたいと思います。では、今回はこのへんで。

「ソハヤノツルギ」レプリカ





天皇退位と怨霊

2019.01.10 (Thu)
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今回はこういうお題でいきます。これもけっこう地味な話になりそうです。
さて、2017年に公布された「皇室典範特例法」にのっとり、
今上陛下は、2019年4月30日に退位し、5月1日に、
皇太子徳仁親王殿下が即位して、新元号への改元を行うことが決定しています。

なんで特例法が必要だったかというと、皇室典範には、
「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」とあるためです。
つまり天皇は、崩御するまで天皇でなくてはならず、生前の退位は認められて
いなかったんですね。これは、1889年(明治22年)に、
大日本帝国憲法と同時に発布された旧皇室典範から続く規定です。

では、どうしてこういう規定ができたのか。これにはいろんな要因があります。
まず、明治期には、富国強兵政策を推し進め、欧米列強国と伍していくため、
権力の一点集中が必要とされました。明治政府は、
絶対的な天皇の権威を背景として、さまざまな改革を行っていきます。

もう少しわかりやすく説明すると、もし、天皇の生前の譲位が認められれば、
先の天皇は上皇となって、権威が分散してしまうことが危惧されたんですね。
中央政府とは別の勢力が、上皇を担いで反乱を起こす可能性があります。
そのてのことは、長い天皇家の歴史の中で、なかったわけではありません。

また、もし生前退位が認められていると、やはり外部勢力が、
現天皇が気に入らないからといって強制的に退位させたり、また天皇自身が、
自分から退位してしまう可能性もあります。江戸時代の後水尾天皇は、
「紫衣事件」など、天皇の権威を失墜させる江戸幕府の行為に耐えかね、
幕府に対する腹いせで譲位しているんです。

後水尾天皇


そのような事態を防ぐため、明治以来、天皇は、崩御されるまで
ずっと天皇位にいなくてはなりませんでした。今回の生前退位も、
皇室典範そのものの改正も検討されましたが、上記のようなことのため、
特例法で対応することになったんですね。

ちなみに、昭和天皇までの124代の天皇のうち、生前退位は、
半分に近い58回あったとされます。その最初は、645年に35代皇極天皇が、
弟の孝徳天皇に対して行ったものです。また、最後に譲位が行われたのは、
江戸時代後期の1817年で、今回はほぼ200年ぶりということになります。
今上陛下の退位後の称号は「上皇」、退位した天皇の后は「上皇后」です。

孝徳天皇(軽皇子)


さて、みなさんは「院政」という言葉を学校の歴史の授業で勉強されたと
思いますが、院政とは、「天皇が皇位を後継者に譲って上皇となり、
政務を天皇に代わり直接行う形態の政治」のことで、
1086年に、白河天皇が譲位して白河上皇となって始まりました。
上皇のことは「院」とも呼ぶので、院政という言葉ができたんです。

また、「法皇」という言葉もありますが、これは上皇が出家した場合に
用いられます。では、「治天の君」という言葉はご存知でしょうか。院政期には、
頻繁に譲位が行われ、同時に上皇3人に天皇1人がいたときもあります。
それだと世の中が混乱しますよね。そこで、天皇家のトップとして、
実質的に政務を行った人物を、治天の君と呼ぶようになりました。

治天の君は、上皇の1人だったことも、現役の天皇だったこともあり、
上皇が治天の君の場合は院政、天皇だった場合は親政と呼びます。
・・・ここまで長々と説明してきましたが、いったい何人の方が
読んでくださってるでしょうか。やっと怨霊の話に入ることができます。

怨霊と化した崇徳上皇
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保元元年(1156年)、鳥羽天皇が崩御すると、崇徳上皇と後白河天皇の
兄弟が治天の君の座をめぐって争い、後白河天皇が勝利しました。
これが「保元の乱」ですね。戦いに敗れた崇徳上皇は、剃髪して投降しますが、
讃岐国へ流罪となります。上皇が配流されるのは400年ぶりのことでした。

ここからは『保元物語』からの話です。讃岐国での軟禁生活の中、
仏教に深く傾倒した崇徳院は、五部大乗経を写経して、自らの反省と
戦死者の供養のため、写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出しましたが、
弟の後白河院は「呪詛が込められているのではないか」
と疑って受け取りを拒否、写本を送り返してよこしました。

後白河上皇(法皇)


崇徳院は激怒し、舌を噛み切った血で写本に、「われ日本国の大魔縁となり、
皇を取って民とし民を皇となさん」 「この経を魔道に回向す」と書き込み、
朝廷を呪って爪や髪を伸ばし続け、生きながら天狗になったとされています。
また、崇徳院の亡骸を収めた棺からは、
蓋を閉めていても血があふれ出てきたともあります。

一説には、崇徳院の死は、朝廷が送った刺客による暗殺だという話もあるんです。
この後、大火や源平の戦いが起きて、世の中は乱れに乱れ、
崇徳院の怨霊のしわざという噂が広まり、ついに後白河院は、
怨霊鎮魂のため、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改めることになります。

経文を血で染める崇徳上皇
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それでも怨霊の猛威はやまず、崇徳院が变化(へんげ)した大天狗は、
『太平記』や、上田秋成の『雨月物語』などの作品に登場しています。
明治天皇は1868年、自らの即位にあたり、勅使を讃岐に遣わし、
崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて、白峯神宮を創建しました。

さてさて、ということで、天皇の譲位、生前退位は、不幸な歴史を背負って、
怨霊まで生み出してしまっているんですね。
まあ、現代の世にそういうことはないとは思いますが、このような背景から、
各方面から危ぶまれていたわけです。では、今回はこのへんで。