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伊賀流と甲賀流

2020.09.13 (Sun)
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今回はこういうお題でいきます。まあ忍者の話なんですが、
日本史の中でも、忍者の存在ほど脚色されているものはなく、
現代のイメージはまったく実体とかけ離れています。
そしてそれが、外国にもジャパニーズ・ニンジャとして
紹介されてるんですね。

これはもちろん忍者自身のせいではなく、講談本や映画、
劇画などの影響です。自分はさすがにやったことは
ありませんが、昔の子どもの中では、口に巻物を咥え、手に印を
結んでドロロンと消えるといった遊びがあったみたいですね。

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ちなみに、敵から逃げる戦法を「遁術 とんじゅつ」と言い、
江戸時代の忍法書には、中国の陰陽五行説からとられた
「五遁の術」が載っています。本題と関係ないですが、
興味深いものですので、ご紹介しておきましょう。

木遁・樹木、材木、草原、稲田、麦畑などに隠れて敵の目を
   ごまかす。木ノ葉隠れ、草葉隠れなどとも言います。
火遁・火や火薬、煙玉などを利用して敵の注意をそらす。
土遁・必ずしも土の中に隠れるということではなく、
   地形を利用して逃げる術。
金遁・敵を買収する術。  水遁・ 水を利用して逃れる術。

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さて、みなさんは山田風太郎の時代小説というか奇想小説、
『甲賀忍法帖』をお読みになられたでしょうか。これ、自分は
日本の娯楽小説の中でも10本の指に入る傑作だと考えて
います。山田忍法帖の第1作で、後年のもののように
エロやナンセンスは強くなく、かなりシリアスです。

あらすじは、甲賀卍谷と伊賀鍔隠れに潜む一族は不倶戴天の仇敵で
あり、家康は第3代の将軍選びを、甲賀対伊賀の忍法争いによって
決めることにした。それぞれが10人ずつの代表忍者を出し、
最後まで生き残ったほうが勝ち。双方の忍者は、
人間とは思えない異常な技を持った者ばかり・・・

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これ以外にも、伊賀と甲賀の対立を描いた作品は多いですが、
史実としては、そこまで仲が悪かったわけではありません。
地理的に近い位置にあったので、ときに協力し、とにきは
対抗するといった関係だったと考えられています。

甲賀流は、「こうが」と読まれることが多いんですが、正しくは
「こうか」で、近江国甲賀の地に伝わっていた忍術流派です。
現在の滋賀県甲賀市(こうかし)、湖南市に拠点がありました。
戦国時代は六角氏に属する形でしたが、自治を認められるなど
独立性が高かったようです。

芥川九郎右衛門
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有名な忍者としては、望月与右衛門、鵜飼孫六、芥川九郎右衛門
などがいます。芥川の逸話として、体を透明にすることができた。
薪割りをしていたとき、刺客が離れた物陰に隠れていたが、
薪に斧をふり下ろしたとたん、刺客の右腕も肩から切り落とされた。

松本藩に仕えていましたが、酒宴で藩主が、座興に何か忍術を
見せよと命じたものの、芥川は平伏したまま。しかし、
そのとき踊っていた十数人の女たちから悲鳴が上がり、見ると、
すべての女は腰巻きを引き下ろされ、それらが投げ上げられて
宙に舞っていた・・・といった話が残っています。

2代目 服部半蔵正成
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伊賀流は、伊賀国の地に伝わっていた忍術流派の総称で、
本拠地は現在の三重県伊賀市と名張市にありました。戦国時代は
伊賀守護、仁木氏に属しながらも、甲賀同様に合議制の
自治共同体を形成していました。有名な忍者としては、
百地丹波、服部半蔵などですが、半蔵については後述します。

この両流派が徳川家に用いられるようになったのは、ご存知の
方も多いでしょうが、本能寺の変からです。そのとき、
家康は少人数で上方を回ってましたが、信長の盟友であったため、
大きな危機に直面しました。

家康の伊賀越えルート(諸説あります)
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しかし、配下の服部半蔵の手配により、大阪の堺から、 
伊賀の険しい山道を越えることで、無事に本国三河に帰り着き
ました。このときに家康を護衛したのが、伊賀衆と甲賀衆
なんですね。これ以降、半蔵は忍者の頭領とされ、江戸幕府に
なると四谷に館を下され、その付近は伊賀町と呼ばれました。

この服部半蔵は、2代目の 服部半蔵正成ですが、
忍者ではなかった(忍術を使わなかった)というのが定説です。
松平氏(徳川氏)の譜代家臣で徳川十六神将、鬼半蔵の異名を持つ、
れっきとした武将だったんですね。その槍と称されるものが

半蔵門
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残っていますが、長大で、おそらく体が大きく体力があったと
思われます。戦場でも、一番乗り、一番槍などの武功を上げており、
忍者のイメージで見られるのは、ちょっとかわいそうでもあります。
江戸城西門の警備を担当し、その外に屋敷を構えたので、
「半蔵門」の名が残っていますね。

さてさて、ということで、今回は忍者のお話でした。
これ以外にも、風魔、根来、真田忍軍などが創作には登場しますが、
それについても、機会があれば書いてみたいと思ってます。
では、今回はこのへんで。

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役小角と修験道

2020.09.03 (Thu)
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今回はこういうお題でいきます。役小角(えんのおづぬ)は、
7世紀後半に生きたと考えられる人物で、役行者、
役優婆塞(えんのうばそく)などとも呼ばれます。
行者も優婆塞も、出家していない仏教修行者のことですが、
役小角がほんとうに仏教者だったかは疑わしいところがあります。

まず最初の議論として、役小角は実在の人物だったのか。これは
間違いないでしょう。正史あつかいになっている『続日本紀』に
記事が出ているからです。「文武天皇3年(699年)、
葛城山に住んでいた役君小角が呪術で人を惑わしたので、
伊豆大島に配流した」となってるんですね。

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仏教者であるという記述はありません。記事には続けて、
「小角は鬼神を使役することができ、水を汲ませたり、
薪をとらせたりした。もし鬼神が彼の命令に従わなければ、
彼らを呪縛した」とあります。式神を使っているようでもあります。

ですから、自分は役小角は民間の陰陽師ようなものではなかったかと
疑ってるんです。仏教というのは後づけなのではないか。
で、この記事がもとになって、後世、役小角に関するたくさんの
逸話ができたんですが、どこまで本当か怪しいものばかりです。

役小角
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『日本霊異記』では、役小角は大和国葛木上郡茅原村の人で、
若くして雲に乗って仙人と遊び、孔雀王呪経の呪法を修め、
鬼神を自在に操ったとなっています。「雲に乗って仙人と遊び」
の部分は道教修行者を思わせますし、「孔雀王呪経」は密教的です。

ただし、空海らが密教を中国から持ち帰ったのは役小角の死後のこと
なんですね。また、役小角が使役していた鬼神は、前鬼、後鬼の
2体で、このうち前鬼は、マンガの『鬼神童子ZENKI』で、
現代によみがえって悪と戦うことになります。

『鬼神童子ZENKI』
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さて、上記の記事に「葛城山」と出てきますが、これが一つの
考えるポイントになるかと思います。葛城は、奈良盆地の
南西部を指す地域の名称で、古墳時代有数の豪族、
葛城氏の勢力圏です。葛城氏は古代から、
大和朝廷と覇権を争っていたと考えられます。

そのことが寓話として出てくるのが、「一言主(ひとことぬし)」
の話ですね。『古事記』の雄略天皇4年(460年)の記事に、
「雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅ひものついた
青づりの衣を着た、天皇一行と全く同じ姿の一行が、
向かいの尾根を歩いているのを見かけた。

一言主神と雄略天皇
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雄略天皇が名を問うと、われは悪事も一言、善事も一言で言い放つ神。
葛城の一言主の大神なり、と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、
官吏たちの着ている衣服を脱がせて一言主神に差し上げた。
一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った」とあります。

これは、葛城に強大な勢力があったことを示すものと解される
ことが多いんです。ただし伝承では、役小角はこの一言主と
争ったことになってるんですよね。役小角は奈良県吉野の金峰山と
葛城山に鬼神を使って山をまたぐ橋をかけさせようとした。

葛城山


これに怒った山の神、一言主が、人間に化けて朝廷を訪れ、
役小角を密告した。そこで朝廷の役人が小角を捕らえようとしたが、
さまざまな術を駆使して逃げられる。しかたなく小角の母親を
人質に取ると、小角は自ら出頭して伊豆に配流されたが、
夜になると富士山に飛んで修行を続けた・・・

おそらくですが、大和朝廷と葛城氏、それと葛城の宗教勢力である
役小角らの複雑な争いがあったことが想像できます。
この後、大宝元年(701年)に大赦があり、小角は故郷へ帰り、
同年6月、箕面山瀧安寺の奥の院にあたる天上ヶ岳で、
68歳で入寂したと伝えられています。

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さて、修験道ですが、役小角は修験道の開祖とされますが、    
これは完全な後づけで、山岳修行をしていたことから、
まつりあげられたのだろうと思います。修験道はご存知でしょう。
いわゆる山伏の格好をして、山地を飛び歩く。

山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを
目的とする日本古来の山岳信仰が、仏教に取り入れられたものです。
ただ、本来の仏教とはかなり考え方も違っています。
修験道は、平安時代のころから盛んに信仰されるようになり、

修験道の荒行
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室町時代に入って、金峰山、熊野山などの諸山では、役行者の伝承を
含んだ縁起や教義書が成立しています。仏教の中では密教と最も
関わりが深いため、江戸時代には、修験道の修行者は、
真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに
属さねばならないことになります。

さてさて、同時代の歴史書にわずか2行だけしか出てこない
役小角ですが、ここまで話が広がりました。日本史にはこの手の
ことがかなりあって、それを読み解くのも一つの醍醐味だと
自分は考えています。では、今回はこのへんで。





植瓜の術と呑牛の術

2020.07.25 (Sat)
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「植瓜の術」を行う藤山新太郎氏

今回はこういうお題でいきます。日本における幻術の話で、
カテゴリは妖怪談義かな。幻術は、言葉どおり他人に幻を見せる
術ですが、中でもこの「植瓜(しょっか)の術」と
「呑牛(どんぎゅう)の術」は、その代表的なものです。
歴史上、いろいろな人物がこれをやったとされます。

どっちから説明していきましょう。「植瓜の術」のほうかな。
これは日本には中国から伝わってきましたが、おおもとはインド魔術
のようです。中国の古典とほぼ同じ話が、平安時代の『今昔物語』に
出てきます。あと、西洋の童話「ジャックと豆の木」とも
関係がありそうです。

夏の暑い日、ある老人が瓜売りに、馬に積んだ瓜を一つくれとせがみ、
断られると、「では、自分で出そう」そう言って、落ちていた種を
地面に植え、するとすぐに種から芽が出て双葉が生えてきた。
みなが不思議に思っていると、瞬く間に葉が茂り、
花が咲き、瓜がたくさん実をつけた。

「ジャックと豆の木」
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老人は、なった瓜をその場の人々に配り、自分も食べて去っていった。
やがて瓜売りが自分の馬を見ると、積んでいた瓜は一つもなかった・・・
この内容はご存知の方も多いと思います。話の教訓として、
瓜売りたちの吝嗇を責めているわけですが、よく考えれば、
この老人のやったことは窃盗か詐欺ですよね。

もとになっているのは、インド魔術の「マンゴーの木」という手品で、
タネも仕掛けもあるものです。現代でも日本の手妻師(和式の手品師)
藤山新太郎氏が再現されています。この内容があまりに不可思議
だったため、昔の人にとっては、まさに幻を見せられたとしか
思えなかったんでしょう。

「散楽」
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日本における幻術の歴史は、奈良時代に唐より伝来した「散楽」
が始まりとされることが多く、最初は中国の宮廷で行われていたん
でしょうが、大道芸として民衆にも広まり、芸が磨かれて
いったようです。では、タネや仕掛けのない幻術はないのか?

日本では、幻術は忍者のエピソードとして語られることが多いんです。
「植瓜の術」 「呑牛の術」は、どちらも飛び加藤という忍者が
行ったとされます。本名は加藤段蔵、16世紀の忍者で
鳶(とび)加藤とも呼ばれました。ただし、講談や時代小説で
有名になったエピソードが、どこまで本当かはわかりません。

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「飛び」という形容がついていますので、さぞや体術に優れて
いたんでしょう。忍者は忍者の家系に生まれ、幼少時から鍛えられると
いうことですから、もしかしたら、高跳びや幅跳び、短・長距離走で
現在のオリンピック級ほどの力があったかもしれません。

この段蔵の有名な逸話として、こんなのがあります。
段蔵は全国を回って仕官先を探していましたが、上杉謙信に仕えるべく、
「呑牛(どんぎゅう)の術」を公道にて披露した。
城下の葉の生い繁る大木の日陰に一匹の大きな黒牛をつなぎ、
自分の口を指さして、集まってきた者に者に言った。

「この大牛をこの口で飲み込んで見せよう」黒牛の尻に段蔵が取りつくと、
どんどんと牛は飲み込まれていき、ついには段蔵の腹の中に収まって
しまった。観衆達は驚き騒ぎましたが、木の上で見ていた男が
一人いて、「それはまやかしだ、段蔵は布をかぶって牛の背に
乗ってるだけだ」と叫ぶと、ここで群衆ははっと気がついた。

武者修行者 夢想権之助、背中に「天下一」の文字が見えます
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腹を立てたであろう段蔵は、しかし笑って、近くにあった夕顔の葉を
扇で仰ぐと、その夕顔の茎がみるみる伸びて花を咲かせ実をつけた。
段蔵が脇差しを出して上にある花をスパリと切ると、
木の上にいた男の首が、血を吹き出しながら落ちてきたんですね。
観衆は怖れ、みな逃げ去ってしまった・・・

この逸話が実際にあったことかはわかりませんが、これは仕官の
ためのデモンストレーションのようです。戦国時代から江戸初期にかけて、
武者修行の武芸者が、羽毛の服を着たり、背中に日本一の旗を挿したり、
奇抜な格好をして自分は強いと公言し、仕官先を求めていました。
漫画の『バガボンド』に出てくるとおりです。

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高名な宮本武蔵などもその一人ですが、忍者もまた同じだったようです。
とにかく俺の腕を買ってくれ、ということですね。
デモンストレーションですから当然、周到な準備をしていたことでしょう。
では、幻術は物理的なタネなしでできるんでしょうか。
自分は、一人に対してならできる可能性があると思いますが、

大勢の集団に対しては不可能と考えます。上の段蔵の話でも、日陰で
黒い布を牛にかぶせたとあり、タネがあるんですよね。これらの術を、
集団催眠と見る向きもあるようですが、現代の催眠術でも、
何のタネもなしに、複数人に同じ幻覚を見せるのは不可能でしょう。
(自分は催眠術を勉強して、けっこうできます)

「塩の長司」
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さてさて、日本の妖怪に「塩の長司」と呼ばれるものがあります。
馬飼いの長者だった長司は、死んだ馬の肉を食べていたが、あるとき
どうしても馬肉が食べたくなり、まだ生きている馬を殺して食べてしまう。
すると、毎日同じ時間にその馬の亡霊が現れ、長司の口から腹の中に
入って散々に暴れまわり、長司は苦しんで死んでしまう。

ですがこれ、上記したように、「呑牛(馬)の術」は手品の見世物
だったわけです。この見世物が評判になり、仏教の殺生戒が加えられて、
後づけで長司の話ができ、妖怪化していった可能性があるんじゃ
ないかと自分はみています。では、今回はこのへんで。

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記紀と考古学、弟橘姫

2020.07.07 (Tue)
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三浦半島の海蝕洞窟

今回はこういうお題でいきます。以前書いた「怖い古代史」に
加筆した内容です。けっこう専門的な話になるので、
興味のない方はスルーされたほうがいいかもしれません。
さて、何から書いていきましょうかねえ。

日本の古代史と言うと、西日本を中心としたイメージを持たれて
いる方が多いんじゃないかと思います。これはしかたないことで、
記紀の記述が西日本に偏っているからです。そもそも神武天皇は
南九州を出発し、瀬戸内の各地に立ち寄りながら熊野から
奈良に入り、日本の初代天皇として即位します。

ですがこれ、あくまで文献から見た場合で、考古学的には、
弥生時代から古墳時代前期にかけての東海、関東、東北の状況は、
地元研究者の努力によってかなり明らかになってきています。
あと、纒向遺跡の発掘調査から、最近は近江や東海の重要性が
強く言われるようになってきました。

弟橘姫の像
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さて、みなさんは倭健命はご存知でしょう。『古事記』では
日本武尊と書かれていますが、正史である『日本書紀』のほうの
表記を使いますね。当ブログでは、他の記事でもだいたい
そうしています。倭健命は、第12代景行天皇の皇子で、
第14代仲哀天皇の父にあたります。

幼い時分に誤って兄を殺したことで父天皇に恐れられ、
大和朝廷の勢力拡大のため全国に派遣されます。まず九州に赴き、
川上梟帥(熊襲建)を討伐。さらに古事記では、出雲の出雲建も
殺してしまいます。それが終わると今度は東国遠征です。
東海から相模、上総、陸奥国へと渡って大活躍しますが、

女装して川上梟帥を殺す倭健命
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その帰路、近江の伊吹山の神との戦いで敗れ、30歳で亡くなります。
全国をまたにかけた大遠征で、まさに超人的ですが、一人の人間が
これをやるのは不可能でしょう。そこで、倭健命は初期大和朝廷で
全国に散らばって王権拡大に努めた皇子たちを象徴した人格で
あるとの説が出されていて、自分も妥当な解釈だと思います。

さて、倭健命には何人かの妃がいましたが、弟橘姫もその一人で、
表現はよくないですが現地妻みたいなものです。上総(千葉県)の
浦賀水道で、倭健命は走水海を船で渡ろうとしますが、
海の神をあなどって罵ったため、海は大荒れに荒れ、
このままでは転覆をまぬがれそうもありません。

そこで、いつか倭健命につき従っていた弟橘姫が、自ら申し出て
海に入水。すると暴風はすぐに止み、無事に船を陸につけることが
できました。弟橘姫の伝説は周辺で言い伝えられ、姫を祀る神社
としては、神奈川県の走水神社などがあります。

現在の浦賀水道の航路
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さて、ここからは考古学の内容です。このエピソードの
舞台となった三浦半島には海に面した海蝕洞窟が多数あります。
そこでは、弥生時代から古墳時代の遺物が発掘されており、
シカやイルカの骨などが多いんですね。これは「卜骨」
(占いに使用された骨)と見られています。

その海蝕洞窟の一つから弥生時代中期(紀元前後)のバラバラに
なった人骨が出土し、近年、東京大学による再調査が行われました。
幼児1体を含む成人男女各5体、計11体の遺骨が出土しましたが、
これは死後に自然にバラバラになったのではなく、
骨に損傷痕(刃物による傷)がついていました。

出土した人骨の傷痕
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その解体の手順を研究してみたところ、シカやイノシシを
解体するのと同じだったんですね。それが、幼児をのぞく10体に
対して行われていた。つまりこの弥生人たちは、何らかの儀式の
ために解体されたのではないかとみられてるんです。

さらには、呪術的な「食人」の風習があったのではないかとの     
推測も出ていますが、損傷痕だけではそこまで言うことはできない
でしょう。このような海にごく近い場所で行われる儀式は、
航海の安全にかかわるものである可能性があると思われます。

入水する弟橘姫
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古くから三浦半島では、航海にかかわる何らかの儀式、生贄が
行われており、その話は古代においても知られていて、
弟橘姫の入水のエピソードとして記紀に取り入れられたと
考えても、そこまで強引な解釈とは言えない気がしますね。

自分は当ブログにおいて、記紀の古い時代の記述はそのまま
信じるのは困難といった内容を何度か書いていますが、
すべてが架空の物語ということではなく、考古学の研究成果と
リンクしているのではないかと考えられる部分も多いんです。

奈良県桜井市 磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)
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例えば、上で少し話が出てきた纒向遺跡ですが、遺跡のある場所が、
記紀に出てくる崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の都地である
磯城瑞籬宮、纏向珠城宮、纏向日代宮と、偶然とは考えにくいほど
合致してるんです。ですから、何らかの、それなりに確かな
伝承をもとにして書かれている可能性があります。

さてさて、このあたりが古代史研究の面白いところで、文献の
記述と考古学的成果が合致すると興奮します。どちらか
片方では、古代史の闇を照らすには不十分なのかもしれません。
同志社大の教授だった考古学者の森浩一氏は、早くから文献と
考古学の統合を唱えておられました。では、今回はこのへんで。

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日本における「王朝」

2020.06.25 (Thu)
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紫式部らの作品は「王朝文学」と呼ばれる

今回はこういうお題でいきます。カテゴリは日本史ですね。
ただ、この内容はきわめて地味でツマラナイいものになると
思われますので、特に興味のない方はスルーされてください。
さて、「王朝」という語をネット辞書で引いてみると、

「同じ王家に属する帝王の系列。また、その王家が
支配している時期。例 ブルボン王朝」というふうに出てきます。
まあ、これでいいと思いますが「同じ王家に属する帝王の系列」
の部分の解釈が難しいですよね。同じ血統が世襲で
続いてなくても王朝と呼べるんでしょうか。

例えば、現在の北朝鮮の体制を「金氏王朝」と言ったりしますよね。
金日成、金正日、金正恩と3代にわたって権力が父子で
継承されています。ちなみに、金正日は長男でしたが
金正恩は三男です。うーん、これねえ、一つの血統が
ずっと続いていくのって、すごく難しいんです。

東アジアの歴史時代区分(部分)
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側室の制度があった明治時代以前でも、ある家系が断絶の危機を迎え、
養子縁組をしてなんとかしのいだというケースは枚挙にいとまが
ありません。江戸時代の徳川家だって、御三家から養子をもらって
将軍にしています。現在の天皇家も継承の問題があり、宮家の復活、
女性、女系天皇を認めるなど、さまざまな形で議論されています。

さて、ここで少し話を変えて、中国の歴史時代区分には国号が
使われています。漢の時代、唐の時代、元の時代、明の時代といった
具合です。これらの国は、基本的に同姓の一族による世襲で
成り立っていました。それが易姓革命で入れ替わる。

初代神武天皇
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ところが日本の場合、みなさんが学生時代に社会の授業で勉強した
ように、古墳時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代など、
各時代の特徴をとらえた区分になっていて、王朝ということは
特に意識されていません。この理由はおわかりのことと思います。

ずっと、天皇家は万世一系の建前できたからです。初代神武天皇以来、
今上陛下に至るまで、連綿と2000年以上一つの王朝が続いてきた。
常識的に考えればそんなはずはないんですが、太平洋戦争以前は、
これに異を唱えるのは不敬とされ、古代天皇の非実在論を
説いた津田左右吉氏は罪を受けました。

第10代崇神天皇
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それが、敗戦により昭和天皇は人間宣言を行い、歴史研究にも
自由な空気が流れ込んできました。そうして、昭和23年、
江上波夫氏により「騎馬民族征服王朝説」が発表されます。ただしこの説、
すべては解釈の難しい状況証拠ばかりで、確実と言える根拠は
ありません。現代の史学では否定されることのほうが多いでしょう。

で、次に出されたのが、昭和27年に早稲田大学の水野祐氏が唱えた
「3王朝交替説」です。概略を説明すると、まず神武天皇から
第9代開化天皇までは架空の存在とします。日本の王朝は
第10代崇神天皇から始まった。神武天皇が「始馭天下之天皇
はつくにしらす すめらみこと」と呼ばれたのに対し、

水野祐氏
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崇神天皇がやはり「御肇國天皇 はつくにしらす すめらみこと」と
記載されています。字は違いますが、どちらも初めて国を
開いた天皇という意味です。さらに、第15代応神天皇のときに
王朝交代があった。王都の地が、大和三輪山の麓から
大阪河内に変わっていますよね。これが第2王朝。

そして第26代継体天皇から今上陛下までを一つの王朝と見る
んです。もしこれが事実だとすれば、日本の皇室はそれでも
1500年以上の歴史を持ち、世界で一番古い王家ということに
なります。あと、水野氏は記紀の天皇の代数は認めていませんね。
半数以上は架空の存在と見ているようです。

第15代応神天皇
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さて、ではこの説、現在の史学界での評価はどうなんでしょうか。
まず最初の、崇神天皇の王朝、もしあったとすれば3~4世紀ころの
ことと考えられますが、考古学的には、その時代に同一血統による
世襲があったとする証拠はありません。大王位は、有力豪族に
よる持ち回り制ではなかったかとする意見が強くなってきています。

それが、応神天皇になると、崇神天皇よりも実在性がぐっと
高まります。みなさんご存知のとおり、大阪には多数の巨大古墳が
あります。それらの被葬者が大きな権力を持っていたのは
間違いのないところですが、かといって、やはり大王たちの血が
つながっていたとする確証はありません。

第26代継体天皇
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最大の問題は継体天皇のところでしょう。その前の武烈天皇の
記事が猛烈に怪しい。人の爪を抜いて山芋を掘らせたり、
髪の毛を抜いて高い木に登らせ伐り倒したり、水の流れる
樋に人を入れて、出てくるところを矛で刺して殺したりという
暴虐記事と呼ばれる、唖然とする内容が『日本書紀』に出てきます。

そうして、武烈天皇は子どもがないまま20歳前に亡くなってしまう。
困った臣下たちは、越前国にいた応神天皇の5世孫である
継体天皇を探し出し、大王位を継承するよう頼み込みます。ですが、
5世孫といえば血が薄まってもう他人も同然。

あの反逆者平将門だって桓武天皇の5世孫ですが、当時の朝廷では
誰も知りませんでした。武烈天皇に跡継ぎがいなかったとしても、
もっと血統の近い皇族はいくらもいたんじやないでしょうか。
このあたり、何から何までおかしいですよね。

さてさて、継体天皇は紆余曲折の末、仁賢天皇の娘である手白香皇女を
后とし入婿の形で天皇位につくことになります。自分は、武烈天皇は架空の
存在で、継体天皇がおそらく現天皇家の王朝の始まりと考えています。
継体天皇は治世に筑紫君磐井の乱もあり、実在性は高いと思いますが、
よくわからない点も多いんですよね。では、このへんで。

宮内庁の比定は間違っており、真の継体天皇陵ではないかとされる今城塚古墳
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