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江戸の隠居パワー

2018.09.19 (Wed)
今回はこういうお題でいきます。オカルトとはあまり関係のない内容です。
スルー推奨かもしれません。前に少し書いたんですが、
自分は最近、「江戸学」というのを勉強していまして、
その関係の本が目についたら買って読むようにしてます。

なぜこれを始めたかというと、江戸の絵師、鳥山石燕の「妖怪」を読み解くにあたって、
江戸時代全般に関する知識がどうしても必要だと気がついたからです。
で、少しずつうんちくが増えていくと、これが妖怪やオカルトを
抜きにしても面白いんですね。江戸時代には、それ以前を全部合わせた
何十倍、何百倍もの文献資料が残されているんです。

さて、「隠居」といえば、落語の長屋物で住人の八五郎や熊五郎が、
何か困ったことがあれば相談に行くのが、「裏のご隠居」です。ご隠居は、
知恵者だと思われてましたが、どこかズレたところもあって、
だんだん話がおかしくなっていくというのが、定番の筋ですよね。

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ところで、明治から戦前までの旧民法に「隠居」という公式な制度があったのを
ご存知でしょうか。これは戸主が生前に、自分の意志で家督を他の者に
譲ることで、原則として満60歳以上でしたが、
戦後になって、戸主制とともに廃止されました。

さて、江戸時代にはさまざまな文化が花開きましたが、その担い手の多くが
「ご隠居」によるものだったんですね。ご隠居には裕福な町人もいましたが、
大部分は武士身分だった人物でした。当時の武士のほとんどは、
早く隠居することが念願だったんです。

江戸時代の平均寿命は、はっきりした統計は出ませんが、30歳から40歳の間
くらいだったと考えられます。現代から見ればずいぶん短いですが、
これは乳幼児死亡率が高かったためと、
定期的に疫病の流行があったことなどのせいで、
50歳を超えてしまえば、それから長生きする人も多かったんです。

戯作者の井原西鶴は52歳で亡くなっていますが、『日本永代蔵』の中で、
「45歳くらいまでに、一生困らないだけの財産を溜め込み、
その後は面白おかしく遊び暮らすのが、理想の人生ってもんだ」みたいなことを
書いています。ただ、西鶴の場合、45歳からの時間はあまりなかったようです。

井原西鶴
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さて、当時の幕臣あるいは藩士でも、お役目(仕事)はなかなか大変でした。
例えば「お畳奉行」という役職についていたとして、仕事はまあ畳替えのとき
しかありません。畳替えなんて、そう頻繁にやるもんではないので、
基本的にヒマでしたが、仕事がないからといって家で休んでいるわけにもいきません。

毎日ではないものの、お城に出仕して座っていなくてはなりません。
勝手にタバコを吸ったり、足を崩したりなんてできないんですね。
で、お城勤めをしてると、上役や同僚の冠婚葬祭、盆暮れのつけとどけ、
回り番で開催する慰労会など、けっこうな金と時間がかかり、
気づかいも多かったんです。なんかこれ、現代のお役所と似ている気がします。

ですので、後継ぎの心配のない武士は、とにかく早く家督を譲って隠居したいと
考えてました。俳人の松尾芭蕉は、36歳で隠居し俳諧の選者を始めました。
弟子たちには、40代でもう「芭蕉翁」 「翁 おきな」などと呼ばれてたんですが、
まあこれは、尊敬の意味もあるんでしょう。
今の40代なんて中堅バリバリですので、隔世の感があります。

葛飾北斎の「於岩」
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ただ、人間、自分が何歳まで生きて死ぬかはわからないので、
隠居前に「これで十分だ」と思えるだけの金を貯め込むのは至難でした。
ですから芭蕉のように、自分の好きなことをやって、しかも人に尊敬され、
金も入ってくるというのは、理想の隠居生活だったんです。

現代でも、「貧困老人」なんて言葉があり、週刊誌を見れば、
老後の資産運用などについての記事がたくさん出ています。
悠々自適の生活というのは、今でもなかなか難しいものです。ですから、
江戸の隠居たちは、現役時代よりもはるかに頑張って、
歴史に残る仕事をした人が多いんです。

例えば、伊能忠敬は49歳で隠居した後、千葉から江戸に出て晩学で測量を学び、
日本各地を歩いて72歳まで測量を続け、「日本全図」を完成させています。
また、浮世絵師の葛飾北斎は90歳まで生きて亡くなりましたが、
最後の言葉が「あと5年生きられたら、真の画工になれたのに」だったそうです。

伊能忠敬
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この他、長生きした人では、読本作家の滝沢馬琴が82歳、
医師・蘭学者で『解体新書』を翻訳して名を上げた杉田玄白が85歳、
『養生訓』で有名な儒学者の貝原益軒も85歳。益軒なんかは、今で言う健康法の
元祖みたいな人ですが、自分が書いた「腹八分目」などの訓戒を
しっかり守っていたんでしょうね。

貝原益軒
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また、彼ら隠居は、年取っても子どもの世話になることを潔しとしませんでした。
『翁草』という、200巻を超える膨大な随筆を、
京都町奉行所を引退してから書いた神沢杜口という人は、89歳まで生きましたが、
子どもたちと同居することはせず、雑踏の中でひとり暮らすのを楽しみました。

さてさて、年金の支払いが基本65歳からとなり、その分、再雇用や、
定年延長の話がでてきています。ですが、日本人男性の健康寿命って
72歳くらいなんですね。65歳で定年して、あと7年しかありません。
自分は自由業なので まあ関係ないですが、みなさん、65歳まで働きたいですか?
このあたりのことも、江戸時代から何か学べるんじゃないかという気がします。
では、今回はこのへんで。

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地震あれこれ

2018.09.12 (Wed)
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今回はこのお題でいきます。ただ、地震とオカルトというと、
「人工地震説」というのが出てきますよね。ある国が、秘密裏に開発された
特殊兵器を使って、実験的に地震を引き起こしているみたいな。
オカルトの中でも陰謀論というカテゴリに入る内容ですが、今回は取り上げません。

さて、地震が最初に史書に出てくるのは、『日本書紀』の允恭紀です。
允恭天皇の5年(416年?)に、ただ「地震があった」という記述が出て、
すぐに別の記事になっています。次が、推古天皇7年(599年)4月27日。
ここには「地動 舎屋悉破 則令四方 俾祭地震神」と書かれています。

推古天皇
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「地が揺れ、建物はことごとく壊れ、全国に勅令を出して、地震神を祭らせた」
注意しなくてはならないのは、日本神話では地震の神というのは、
名前が特定されていないことです。ここに出てくる「地震神」というのは、
海の神や山の神と同じく、一般的な名称なんですね。

古くは地震のことを「なゐ」と言ったので、「地震神」は「なゐのかみ」と
読まれるんだと思います。で、面白いなあと思うのは、この記事の直後に、
「秋に百済の使節が来日し、ラクダ、ロバ、羊、白い雉を献上した」
と出てくることです。『日本書紀』は中国の「天命説」の影響を受けているので、

天変地異が起きるのは、その天皇の徳が至らないため。また、外国から
使節が来て珍物を献じるのは、天皇の徳が周囲に満ちていることを表すことになります。
ですから、相反する内容が続けて出てくるんですよね。
これには何か意味があるのか、それともたんに事実を列挙しただけなんでしょうか?

あと、天武紀には地震の記事が十数回出てきます。
小さな地震も、すべて細かく記録されているようです。これは一つには、天武天皇が
中国式の天文遁甲に通じていて、自ら式盤をとって占いを行っていたため、
特に地震などの天変地異が重視されているんだと思います。

また、天武13年(684年)には、「白鳳地震」と呼ばれる巨大地震が起きていて、
これは、マグニチュード8~9クラスの南海トラフ地震と考えられ、
甚大な被害があったことが記されています。ですから、天武紀に地震の記述が
多いのは、地殻変動の活性期に入っていたためかもしれません。

さて、古代において地震はどのように捉えられていたのか?
これがよくわからないんですね。日本では、地震は「地中にいる巨大なナマズが
暴れ動くため地震が発生する」という話もありますが、
天武天皇の頃に、そういう考え方があったとは、自分は思いません。 

香取神宮の要石
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話変わって、現在の茨城県には鹿島神宮、千葉県には香取神宮があり、
両者は中央構造線をはさんで向かい合うようにして建っていますね。
鹿島神宮の主祭神は武甕槌神(タケミカズチ)、香取神宮は経津主神(フツヌシ)です。
どちらも、国譲りの際に活躍した武神で、剣を擬人化した神格と言われます。

で、この両神宮には「要石(かなめいし)」があります。これは、もともと、
日本列島を「金輪(こんりん)」につなぎとめておくためのものと考えられていました。
金輪は仏教の宇宙観で、この世界の底となる部分のことで、
「金輪際(こんりんざい)=地の底の底」という語の語源になっています。
この話は、神仏習合した平安時代以降に出てきたものでしょう。

仏教的宇宙観


それがいつからか、鹿島神宮の要石は地中の大ナマズの頭を押さえ、
香取神宮の要石はしっぽを押さえているというように伝承が変化していきました。
余談ですが、水戸藩主の徳川光圀が、鹿島神宮の要石の下を掘らせてみたところ、
7日7晩掘っても、石は地下に広がっていたという話があります。

さて、では、いつから「地震は大ナマズが起こしている」という考えが出てきたのか。
これはおそらく、室町後期頃ではないかと思います。豊臣秀吉の手紙に、
「なまつ大事=ナマズ大事」と出てきますが、天正13(1585年)
の大地震を受けて、部下に地震対策を指示したもので、
地震とナマズが結びつけられている最古の文献です。

豊臣秀吉
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この後、江戸時代には、地震とナマズの関係が一般庶民にも広がり、
「鯰絵」が大流行しました。鯰絵は地震から身を守るための護符ですが、
天然痘を防ぐためのものに変化していきます。下図は、鹿島神宮の武甕槌神が、
ナマズの頭に剣を突き刺して押さえている様子を表しています。

「鯰絵」
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ここまでをまとめると、古代には、地震は地震神(なゐのかみ)によって、
起こされるものと考えられていたのが、中世には、仏教や中国からの影響で、
地中にいる竜などが暴れ、金輪を揺るがして起きるものとなり、さらに江戸時代以前に、
ナマスが地震を引き起こすというように変化した、ということのようです。

さてさて、ナマズが地震を起こすというのは俗信ですが、ナマズは地震の発生を
予知できるんでしょうか。ナマズは水中の泥に潜んでいるので、
微弱な振動や電気的な変化を感知できる可能性はあります。かといって、
ナマズが暴れたから近々地震が起きる・・・と、そこまでは言えないようですね。
ということで、今回はこのへんで。





日本の未来予言

2018.09.06 (Thu)
台風に引き続き、北海道の大きな地震・・・被災者の方々にお見舞い申し上げます。
今回はこういうお題ですが、オカルトフアンの方なら、
「預言」「予言」「予測」の違いはおわかりでしょう。
「預言」は、神の霊感を受け、神託、つまり神の言葉そのものを述べることです。

預言者 イザヤ
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また、「予言」は、普通なら見通せない未来の出来事・ありさまを言うこと。
「予測」は、一般的には、何らかの根拠をもとに将来を推し量ることです。
さらに日本語には「予知」という語もありますが、
これは予言と意味が似ていると思います。経験則や情報による
確定的な予測と異なり、超能力などの神秘的な力で未来を見通すことですね。

さて、西洋では「ノストラダムスの大予言」が有名ですが、
日本には、未来を予言した書ってあるんでしょうか。これについては、
聖徳太子が記したとされる、『未来記』という本の内容が「ムー」などの
オカルト雑誌で取り上げられることが多いですね。

聖徳太子が書き、大阪市天王寺区の「四天王寺」に収められたとされます。
その内容は、さまざまに言われていますが、「2021年に聖徳太子が復活する」
「2068年、人類が滅亡する」などと記されているという説があります。
そして、四天王寺では、この書を門外不出にして誰にも見せないとも。
あれ、変ですね。誰も見ていないのになんで内容がわかるのか?

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『未来記』の名前が日本史上に現れるのは、室町時代に編纂された
軍記物語『太平記』においてです。楠木正成が天王寺合戦で鎌倉幕府軍を破った後、
四天王寺の「未来記」を閲覧しました。そこには、「後醍醐天皇は、
いったん敗れて流罪となるが、やがて幕府が倒れて天皇による統一が実現し、
その政権も三年で尊氏に倒される」という未来が予見されていたそうです。

じゃあこれ、史実なんでしょうか。まず考えられませんよね。『太平記』は、
同じ軍記物の『平家物語』と比較すると、荒唐無稽、怪力乱神が語られる場面が
多いという評価があります。さらに『太平記』には、その主人公の一人である
楠木正成が、朝廷への忠義を立てて、負けるとわかっている戦いへ
突き進んでいくという大きなストーリーの流れがあります。

おそらく、この一節も、その流れの上に立って書かれたものと考えられます。
正成は足利尊氏に負けるのを承知で天皇の命を受け、湊川で散ることになります。
さらに、四天王寺の所蔵する文化財は、重要文化財、大阪府指定の文化財として
ほとんど網羅されており、また寺院側でも、そのような書物の存在を否定しています。
ですから、この話には実体がないんですね。



さて、次に予言書として知られるのは、『をのこ草子』です。みなさん、
ご存知だったでしょうか。TV番組「たけしの禁断の超常現象(秘)Xファイル」で
取り上げられて有名になりました。江戸時代、将軍、徳川吉宗が享保の改革を
行っているころ(1730ころ)に書かれ、世間に流布したとされます。

内容は、「今から5代も時が過ぎると、世の中の様子も変わり果て、
キリスト教圏の思想が日本に流入し、空を飛ぶ人もでてくる。地に潜る人もでてくる。
風雨を動かし雷電を利用する者もいる。死んだ人を生き返らせる手術も成功する・・・」
などなど。うーん、一部あたっている部分もあります。

『をのこ草子』
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ただこの本、現存していないんです。また、江戸の当時に、この本の書名や
内容にふれた資料も見つかりません。じゃあ、どこで出てきたかというと、
この写しが「神道天行居」という復古神道的な新興宗教の教祖である、
友清歓真が書いた宗教書、『神道古義地之巻』に一部引用されているだけなんです。

これは誰でも怪しいと思うでしょう。実際には『をのこ草子』などというものはなく、
新興宗教の教祖が、あたかも古書から引用したように見せかけて、
自分の考えを述べたものであるとみて問題ないと思います。
『神道古義地之巻』が書かれたのが1905年、第一次世界大戦の10年前です。
ですから、その時代から見た未来予知ということでしょう。

東郷元帥の死を報じる明治の「報知新聞」号外
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さて、では、日本に未来予言はなかったのか? 確実なところは、
1901年(明治34年)、新世紀を記念して「報知新聞」に載ったものです。
ただし、「予言」ではなく「予測」です。全部で20項目あり、スペースの都合、
全部は無理ですが、その一部をご紹介しましょう。
① 無線電話で海外の友人と話ができる。② 野獣が滅亡する

③ 機械で温度を調節した空気を送り出す ④ 電気の力で野菜が成長する。
⑤ 写真電話で買い物ができる ⑥ 人の身長が180cm以上になる
⑦ 葉巻型の列車が、東京ー神戸間を2時間半で走る。
⑧ 台風を1か月前に予測して、大砲で破壊できる

東海道新幹線
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①は国際電話、③はエアコン、④は温室栽培、⑤はアマゾンなんかのネット通販、
⑦ これはすごいですね。新幹線じゃないですか。時間もほぼぴったり。
②は外れですが、明治のころは、野獣は人に害を与える悪いものとされていました。
ですが、現在では野生動物保護、生態系保全という考えが浸透しています。
⑥も外れ、明治時代は日本人の平均身長は男性で160cm以下でしたが、
それからはだいぶ伸びたものの、180cmを超えることはなさそうです。

さてさて、ここで特筆したいのは⑧です。台風を予測し、人為的に破壊する。
つい先日、自分が住む大阪は大型台風により甚大な被害を受けましたが、
人類が、地震や台風などの自然災害を制御するには、まだまだ時間がかかりそうです。
では、今回はこのへんで。




事故物件と平賀源内

2018.09.03 (Mon)
今回はこういうお題でいきます。日本史のカテゴリです。
もう1ヶ月以上過ぎてしまいましたが、みなさんは、土用の丑の日の
ウナギを食べられたでしょうか。この日にウナギを食べると夏バテしない
という俗信の始まりを作ったのが、平賀源内という説がありますね。

平賀源内
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ウナギ屋から頼まれて、宣伝として広めたということですが、
その真偽ははっきりしません。ただ、日本初とされる歯磨き粉のCMソングを
作ったり、餅菓子の広告コピーを作ったりしているのは、史実として
確認されています。今でいうイベント屋みたいな仕事もしていたんです。

源内には、本草学者、蘭学者、医師、戯作者、蘭画家など、さまざまな顔があり、
その多才を生かして、いろんなことにかかわって生計を立てていました。
源内は、讃岐高松藩の足軽身分の家の三男として生まれましたが、
そのままでは一生はたかが知れています。

そこで、江戸で本草学(博物学、薬草学)を学んだり、長崎に留学したりして、
学問で身を立てようと志したわけですね。当時の武士は、旗本などでも、
家を継ぐことができる長男でなければ生活はたいへんでしたので、
医者になったり、私塾を開いたりする人が多かったんです。
戯作者の十返舎一九や曲亭馬琴なども、身分の低い武家の出身です。

さて、源内がさまざまな形で活躍できたのは、もちろん本人の才気の賜物
なんですが、鉱石や植物標本などのブローカーとして、
物産博覧会をたびたび開いていたおりに、当時、老中として
権力の絶頂にあった田沼意次の知己を得たことも大きかったようです。

田沼意次
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田沼は、賄賂政治を展開した悪徳政治家としての評価もありますが、
新進の気に富んだ産業振興者としての面も持っていました。
ですから、多方面にわたる源内の才能を高く評価し、
何かにつけて便宜を図ってやったことが知られています。

ここで、話変わって、事故物件というのはご存知でしょう。
いわくつき物件、訳あり物件、心理的瑕疵物件などとも言い、当ブログでも、
何度か取り上げている、怪談には欠かせないアイテムの一つです。
ただこれ、じゃあどういうのが事故物件かというと、なかなか難しいんです。

事故物件公示サイト「大島てる」
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例えば、ある部屋があって、そこで住人が自殺した、あるいは殺人があった、
これは明らかに事故物件ですが、自然死ならどうでしょう。あるいは老衰でも、
孤独死で長く発見されず、遺体がぐずぐずに傷んでいた場合など。
あと、ベランダから飛び降りをしたのなら、
その部屋で死んだということにはならないですよね。

ということで、様々なケースが考えられるため、部屋を借りた人側の、
「そのことを知っていたら契約はしなかった」という判断が、
一つの告知の基準になっているようです。
まあでも、今は、事件・事故があったことを隠す不動産屋は少ないですし、
また、賃貸料が安くなっている立地条件のいい事故物件を、
積極的に借りようとする人も多くなってきています。

事故物件
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さて、源内ですが、その死について、はっきりしたことが伝わっていません。
1780年に52歳で死んだことになっていますが、
その事情がよくわからないんですね。一説には、ある家の普請をめぐって、
大工の棟梁2人と争いになり、源内が斬りつけて大工側に死者が出たため、
切腹したものの死にきれず、獄内で破傷風で亡くなったとされます。

ただ、他の説もあって、それでは、源内は一生妻帯しなかった男色家であり、
男色のもつれから殺人を犯してしまったということになっているんです。
で、源内は引っ越し好きで、生涯で十数回転居しているんですが、
最後に住んだ家が、幽霊が出るという評判の事故物件だったようです。

源内が借りたのは、もともとは旗本の屋敷だったのが、
その旗本が屋内で切腹死し、さらにその後を借りた検校
(盲人の最高位で、金貸しを営むことが許された)が、法規違反で追放され、
その家の娘が井戸に落ちて亡くなったといういわくつきの家で、
さらに源内が獄死したことで、江戸市中は大評判になったとされています。

エレキテル
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ただ、源内自身は、長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を
修理して復元するなど、近代的、合理的な考えの持ち主であったため、
幽霊などの噂はまったく信じていなかったと思われます。
まあ、たまたま不幸が重なったということなんでしょうねえ。

さてさて、最後に、これほどの有名人である源内の死のいきさつが、
はっきりと伝わっていないのは、不名誉な死に方であったためなんだと思いますが、
じつは、獄中の源内を、田沼意次が助け出したという話があるんですね。
まあ、ときの老中ですから、やろうと思えばわけはないでしょう。

その後の源内は、越後三条に隠棲したとも、田沼の領地である遠州根良で
医者をやっていたとも、長崎から大陸に渡ったなどとも言われます。
もちろんどれも確証のない話ですが、源内のあふれる才能を惜しむ声が、
このような噂となったのかもしれません。では、今回はこのへんで。

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幕末の2人のスパイ

2018.08.22 (Wed)
今回はこういうお題でいきたいと思います。
カテゴリは「怖い日本史」に入りますが、特に怖い話ではありません。
時期は幕末、登場する人物は、間宮林蔵とフランツ・フォン・シーボルト。
1825年、幕府により異国船打払令が出され、日本と外国の間で、
緊張が高まっていた時代です。

間宮林蔵は偉人として知られ、伝記も出ていますし、茨城県つくばみらい市には
間宮林蔵記念館がありますが、これは彼が同地出身のためです。
農民の家庭に生まれましたが、幕府の利根川干拓事業に参加し、
ここで地理や算術の素質を見込まれて、幕府の下役人に採用されました。

間宮林蔵
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さて、俳人・松尾芭蕉には幕府隠密説がありますよね。
紀行文から推測できる芭蕉の健脚ぶり、伊賀出身であること、
日本各地に弟子がいて活動拠点となっていたことなどから、
隠密として各藩の動静を探っていたのではないか、などと言われます。
しかしこれはあくまでも噂で、客観的な証拠はありません。

それに対し、間宮林蔵ははっきりと公儀隠密、御庭番であることがわかっています。
おそらくですが、幕府の下役人として採用されたときから、
隠密としての訓練を受けたのではないかと思います。林蔵は、測量による
はじめての日本全図を完成させた伊能忠敬に測量技術を学びます。

その後、幕府の命により西蝦夷地を探検し、ウルップ島までの地図を作製。
さらに、1808年から翌年にかけて樺太島を探検し、
樺太が島であることを確認しました。樺太と大陸の間の海峡は「間宮海峡」とも
呼ばれますが、世界地図に日本人の名が記されるのはこれが唯一の事例です。

間宮海峡
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また、林蔵はこのとき、海峡を渡って大陸に上がり、
アムール川下流域を調査しています。本来、日本人が許可なく海外に出ることは
厳しく禁じられており、死罪に相当するんですが、隠密である林蔵には何の咎めもなく、
後に林蔵は、幕府にこのときの報告書を提出してるんですね。

このあたりの行程を調べてみると、短期間にかなりの距離を移動しており、
極寒の中での活動だったことを考えると、林蔵には超人的な体力があったようです。
また、林蔵は変装の名人としても知られていて、乞食、商人、アイヌ人など、
何にでも化けることができたと記録に残っています。

林蔵の隠密活動は研究によってかなり明らかになっていますが、
島根県の浜田藩の密貿易を暴いたときには、商人に変装して廻船問屋に潜入。
隠密に厳しく対処していた薩摩藩でも、経師屋の弟子に化けて
城内まで入り込み、詳しい城内見取り図を作成しています。
スパイとしては、実に有能な人物だったんですね。

さて、フォン・シーボルトですが、オランダ人だと思っている人が
多いんじゃないでしょうか。じつはドイツ人で、医師の資格を持っており、
博物学者としても知られていました。オランダ政府に雇われ、
オランダ商館の医師として、1823年に初来日しています。

シーボルト
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翌年、出島内において鳴滝塾を開設し、西洋医学の講義をしました。
主な門下生には高野長英などがいます。まあ、このあたりまでは歴史の教科書に
書いていることですが、シーボルトには日本の内情を調査するという役目もありました。
これもスパイの一種と言ってもいいでしょう。博物学とは関係のない、
日本沿岸の水深を測量したりしてますので、まず間違いないところです。

シーボルトと林蔵は交流がありました。シーボルトが、林蔵の樺太探検を
高く評価し、大々的にヨーロッパに喧伝したことで、
地図に「間宮海峡」の名が載るようになったんですね。シーボルトは樺太の
植物に興味を持ち、林蔵に標本を要求したりしています。

で、シーボルト事件が起きるのが1828年です。
シーボルトは帰国直前、林蔵に手紙を送りますが、林蔵はそれを幕府に提出。
その中に、幕府天文方の高橋景保と交流していたことなどが書かれており、
シーボルトの船から日本地図が見つかったことで、
景保をはじめとする多くの日本人が捕らえられました。シーボルト自身も、
帰国は中断され、一時軟禁状態となります。

高橋景保
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この後、高橋景保は獄死。その子どもらも遠島になりましたが、
景保の父、高橋至時は林蔵にとって伊能忠敬と並ぶ師であり、
恩人の息子を密告したとして、林蔵は「幕府の犬」 「冷血な忍者」と、
日本の蘭学者の中で忌み嫌われるようになったんですね。
このあたり、実情はわかりませんが、日本とオランダの2人のスパイの
運命が交錯したと見れば、なかなか面白いなあと思います。

さてさて、この後、シーボルトは日本への再入国を禁じられ、
1830年、オランダに帰国。この事態を予測していたため、
日本地図はとうに写しが作られており、
彼が採集した数々の標本とともに、持ち出されることになりました。

帰国後のシーボルトは、日本関係の著作を多数ものにして、
ヨーロッパの日本研究の第一人者となります。日本は1854年に開国。
1858年に日蘭修好通商条約が結ばれた翌年、
シーボルトは30年ぶりの再来日を果たすんですね。

また、林蔵は農民出身であるにもかかわらず、その才能が高く評価され、
老中大久保忠真に重用され、水戸藩主徳川斉昭の招きを受け、
水戸藩邸で講義を行ったりしています。晩年は病により体が衰え、
隠密としての仕事もできなくなり、1844年、シーボルトの再来日を
待たずして亡くなりました。では、今回はこのへんで。

「伊能図」
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