飲酒と怨霊

2016.06.30 (Thu)
今日はかなり地味目の話です。読売の科学ニュースを見ていましたら、
日本史に関する内容が出ていて、これはかなり珍しいことです。
『関ヶ原の戦い(1600年)で戦国武将・小早川秀秋(1582~1602年)
が西軍から東軍に寝返った際、決断が遅れたのは過度の飲酒で肝硬変から発症した
肝性脳症による判断力低下の可能性があるとするユニークな説を、
兵庫県姫路市御立東の脳神経外科医、若林利光さん(63)が、
秀秋の当時の病状などを記した史料からまとめた。

戦いで西軍側の秀秋は寝返りを誘われていたがなかなか動かず、
東軍を率いた徳川家康が怒り出すほどだったとされる。戦闘開始から約4時間後、
西軍・大谷吉継を襲ったのをきっかけに西軍の武将が次々に寝返り、
東軍勝利につながった。若林さんは、安土桃山時代から江戸時代初めに活躍し、
秀秋も診た医師・曲直瀬玄朔の診療録「医学天正記」の記述に注目。
秀秋について「酒疸一身黄 心下堅満而痛 不飲食渇甚」
(大量の飲酒による黄だん、みぞおち付近の内臓が硬く痛みがあり、
飲食できずのどの渇きが激しい)の記述から、肝硬変と考えられるという。

飲酒後に嘔吐し、赤い尿が出たともあり、肝性脳症を併発するほど
悪化していた可能性が高いと判断。同脳症では指示への反応や判断が遅くなるため、
若林さんは「関ヶ原での決断の遅れの要因では」と推察する。
国立国際医療研究センター肝炎情報センター(千葉県市川市)も、大量の飲酒は、
肝硬変の原因の一つで「記述にある症状からは肝硬変が疑われる」という。』

(YOMIYRI ONLINE)

これは関ヶ原の戦いのときの話ですね。戦いが始まったのは朝の8時ころでしたが、
午前中はずっと石田三成率いる西軍が有利に戦いを進めていました。
小早川秀秋はこのとき若干19歳で、3才のとき、
実子のいない秀吉の養子として引き取られ、豊臣姓を与えられています。
その後、小早川家を養子相続し、若くして岡山藩主となりました。
このように豊臣家に対する大きな恩顧があったため、西軍に与したのは当然ですが、
実は内々に裏切りを勧められていました。

1万5千の軍を率い山の上に布陣していたため、もし小早川が裏切れば、
これは戦況に重大な影響をあたえるだろうと考えられていましたが、
小早川は西軍の一陣として働くわけでもなく、裏切り行動に出るわけでもなく、
ずっと軍を動かしません。このときのことが、
上記のニュースでは、肝性脳症によって判断がにぶり、
どちらとも決断できずにいたと推察しているわけですね。
しかしこれ、400年も前の人を解剖して調べるわけにもいかず、
確実といえる証拠は出ない話でしょう。

ただし、肝硬変か重い肝臓病であったことは事実のようで、
その原因として、過度の飲酒が取り沙汰されています。
幼少時は聡明であったものの、15歳前から飲酒を覚え、
取り巻き連中と連夜の酒盛りを続けていたということです。
この若さで肝硬変が疑われているので、たいへんな量を飲んでいたのでしょう。

いつまでも動かない小早川軍にしびれを切らした家康は、
秀秋の陣へ鉄砲を撃ちかけ、裏切りの催促をしたという話があったのですが、
これは最近、陣の地理的な条件や当時の鉄砲の音量から、
否定されることが多くなってきました。しかし家康から、
なんらかの指示はあったものと思われます。昼ころにはついに決断し、
松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかりました。
西軍の中心的人物として少人数ながら奮戦していた大谷吉継は、
これによって自刃しています。

さて、この小早川秀秋は2年後、21歳の若さで病没するのですが、
幽霊話があります。吉継が関ヶ原の合戦において自害する際、
秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹し、
この祟りによって狂乱して死亡に至ったという逸話があるんです。
それと、現代の怪談にも見られる「開かずの間」の話もくっついています。

関が原後の秀秋はいっそう飲酒の度が進み、飲む度に狂乱しました。
そして上記の大谷吉継の亡霊が見えると言って、
刀を振り回して暴れたということになっていますが、
このあたりはどこまで本当かはわかりません。
ただ、秀秋に後ろめたい思いがあったと考えるのは自然で、
アルコール依存症による妄想としてそれが出てきたのかもしれません。

さて、小早川には杉原重政という重臣がいまして、
つねづね主君の行動をいさめていたのですが、いっときの感情に支配され、
秀秋は近習の村山越中に、上意討ちとして重政を殺すように命じます。
しかしこれ、すぐに後悔して小姓に村山を止めるように言ったのですが、
小姓が両人を探しているうち、杉原は天守の一画で斬り殺されてしまいます。

そして秀秋には、吉継の亡霊の他に、この杉原の亡霊も見えるようになり、
衰弱に拍車がかかってとうとう亡くなってしまいます。
跡継ぎがいなかったため小早川家は改易です。上記のニュースにある肝性脳症、
それとアルコール依存症のダブルパンチで、
幻覚が見えていたのかもしれませんね。

さてさて、岡山城はもともと宇喜多秀家の居城でしたが、
宇喜多が流罪された後に秀秋が入り、かなりの改築をしています。
杉原が殺された天守の部屋は、いくら畳替えしても血の跡が浮き上がり、
部屋に足を踏み入れた者が何人も変死したという話もあります。
このため、その部屋はとうとう封印され、開かずの間になってしまいました。

このように、怪談のテーマの一つである開かずの間も、昔からある話なんですね。
教訓としては、もちろん過度の飲酒は慎みましょうということなんですが、
裏切りもよくはないですね。きちんと旗色鮮明にして事にあたるべきでしょう。
そうでないと勝っても喜びは少ないし、自責の念から、
このような結果になってしまわないともかぎらないですから。

戦災前の岡山城と小早川秀秋







スポンサーサイト

諜報者・晴明

2016.06.28 (Tue)
本項はいささかロマンに欠けるお話ですでので、そのつもりでお読み下さい。
日本史上の霊的な能力者で、最も多くフィクション作品に取り上げられるのが、
平安時代の陰陽師、安倍晴明ではないかと思います。映画、テレビドラマを初め、
小説でもいくつもの作品名をあげることができます。
では、安倍晴明の魅力とは何なのでしょうか?

これは様々な見解があると思われますが、
自分としては2つのことを取り上げてみたいと思います。
一つ目は武の人ではないということ。晴明が刀を振り回して暴れるという
話は珍しいですよね。夢枕獏先生の「陰陽師」でも、
武張った役割は相方の源博雅が担当することが多いです。
まあ、博雅は笛の名手でもありますが。
晴明の場合は自ら刀に手をかけることもまずしません。
武力とは異なる力で敵や妖物を鎮めてしまう能力。

二つ目は、低い官位でありながら、当時の王朝社会に隠然たる勢力を
持っていたという点。官位の最終は従四位下・播磨守ですから、
夢枕氏の作品中、人前では晴明はつねに自分よりも身分の高い博雅に
気を遣っているように描かれています。
しかし実際は、当時の摂政や太政大臣でさえも晴明の力を怖れ、
何かあれば助力を仰ごうとしています。

この力はどこから来ているのでしょうか。
陰陽道の呪力と言ってしまえばそれまでなんですが、
果たしてそのようなものが本当にあったのか?これ、安倍晴明は忍者、
さらには、現在の諜報者(スパイ)のような
存在ではなかったかという説があります。

晴明は式神を使うことで有名ですよね。十二神将を式神として使役し、
以前は家の中に置いていたが、彼の妻がその顔を怖がったので、
一条戻橋の下に置き、必要なときに召喚していたとされます。
これらはもしかして生きた人間で、晴明の命を受け、
情報収集や工作に暗躍していたのではないかというような話ですね。

晴明の不可思議な逸話は『今昔物語』をはじめ、
様々な古典に記されていますが、
上記のような仮定に立てば、はああと納得できるものが多いのです。
まず、晴明はかなり広い屋敷に住んでいたのですが、
召使や下男は一人もおかなかったそうです。かといって自分で手ずから
薪割りや剪定、掃除などをしているわけでもない。
しかも人が訪れるとひとりでに門が開いたりする。

でもそんなはずはないですよね。これは見えない形で人を配置していたか、
もしかしたらカラクリ仕掛けなどがあったのかもしれません。
とにかく、不思議な生活をしているという
噂が広まることが重要であったのでしょう。
方違えや物忌などが日常的に行われ、今よりもずっと迷信に支配されていた
平安の世にあって、神秘の人という噂が立つのは重要なことです。

『大鏡』には、晴明が花山天皇の譲位を予言した話が出ていますが、
これなども疑えば疑えそうな内容です。
花山天皇は寵愛していた女御に死なれ、がっくりと気落ちしていましたが、
藤原道兼に譲位を勧められます。
出家して共に仏道に精進しましょうというわけです。
ところが寺に入って得度すると、道兼は「父に一言あいさつしてまいります」
そう言って寺を抜け出し、宮中から神器を持ちだし
7歳の皇太子の部屋に移してしまった。皇太子は道兼の孫にあたり、
後の一条天皇です。これら一連の出来事は完全な秘密裏に行われました。

ところが、花山天皇が寺に向かう途中で晴明の門前を通りかかると、
真っ暗な屋敷の門がひとりでに開き、朗々たる声で、
「ただいま譲位が行われる。まさに門前を通られるのが花山天皇である」
と響いたということになっています。
これ、晴明が星占いで見通したとされているのですが、もし事実だとしたら、
諜報活動である可能性が高そうです。あちこちに手下の間者を潜らせ、
いち早く情報をつかんでいたというわけですね。

さらに工作活動について。晴明と当時の最高権力者であった藤原道長とは
いろいろな因縁話があります。道長はご存知でしょう。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の」と詠まれた人物ですね。
この道長がある日、法成寺の門をくぐろうとすると、
いつも連れている白犬が嫌がって動かなくなった。

怪しんだ道長が晴明を呼ぶと、晴明は「呪詛が仕掛けてあります」と言う。
晴明が占った場所を掘ってみると、
はたして朱文字が書かれた土器が出てきました。
晴明は懐紙を取り出して鳥の形に折り、呪を唱えて空へ投げ上げると、
白鷺に姿を変え、南の方角へ飛び去っていった。鷺の飛んでいった方角に、
呪詛を仕掛けた相手がいるということです。

これ、もしかしたら呪物を埋めたのは晴明自身かもしれません。
犬の嫌がるような臭いを地面につけていたかもしれませんし、
あらかじめ配下の者を藪の中に隠しておいて、白鷺を放たせたのかも・・・
と、疑えば疑えるような内容ですよね。

またこんな話もあります。物忌み中の藤原道長の所に、僧の観修、
医師の丹波忠明、源義家、そして晴明が集まっていた時の話です。
ちょうどその時、奈良から早瓜が献上されてきた。
道長が、「物忌み中に、このような物を取り入れるのはどうであろうか」
と晴明に占ってみるよう命じると、晴明は、「瓜の中に毒があります」と言い、
たくさんある瓜の中から一つを取り出した。

観修が経を唱えるとその瓜が動き出し、丹波忠明が瓜の二ヶ所に針を打ち立て、
最後に義家が腰の刀を抜いてその瓜を真っ二つに割つけた。
すると、中なはとぐろを巻いたヘビが入っおり、
義家の刀はヘビの頭を打ち切り、丹波忠明の針はヘビの両目に突き刺さっていた。
・・・これは時代の名人上手を集めた創作エピソードなのだと思われますが、
あらかじめ瓜を割ってくり抜き、蛇を入れて糊などで閉じることも
できなくはないと思われます。

さてさて、冒頭にロマンに欠ける話と書きましたが、
どうでしょう。徹底的にオカルトを排し、
スパイ小説のような趣向で安倍晴明を描いたら、これはこれで
面白い作品になるのではないかという気がします。
平安時代は貴族間の権力闘争の激しかった時代でもありますし、
どなたかシリアスなタッチでお書きになられませんかねえ。

へいえけおをw





身近な呪具(櫛)

2016.06.22 (Wed)
今日はこのお題です。櫛は男性も使うでしょうが、
どっちかというと女性のイメージが強い日用品です。
今は男性でポマードで髪を固める人が少ないせいもあるでしょうね。
自分はパーマをかけていてブラシ派で、櫛を持ち歩いたりはしてません。

櫛の語源については諸説あるのですが、
櫛と串が同じというのは確かでしょう。どちらも尖端が尖った棒です。
古来、そういうものには霊力があると信じられていたようです。
神道で用いる玉串なんかがそうですよね。
「奇し くし(不思議だ)」という言葉とも通じますが、
先にこちらの意味があったかどうかはよくわかりません。しかし、
不思議な呪力を持つものと考えられていたのは間違いのないところです。

前に取り上げた箒は、考古学的には古墳時代まで出土はありませんでしたが、
櫛は縄文時代にはすでに存在していました。
まあ、縄文人の髪は長く、リンスや整髪料もなかったでしょうから、
現代人よりも必要な物だったかもしれません。

さまざまな形状のものがあるのですが、下の画像は、
細く削った尖った棒をヒモで何重にもからげ、
その上に赤漆を塗って固定してあるようです。
これは割に平べったい形で、髪をくしけずることができそうですが、
細長い形のものは、髪に挿してまとめる かんざしとして使われていたようです。
装飾品の意味もあったのでしょう。

縄文櫛


『古事記』や『日本書紀』を読むと、古代の櫛の呪力に関した話がいくつも
出てきます。一番有名なのはイザナギ、イザナミの黄泉返りの部分でしょうか。
死者の国まで妻のイザナミを迎えに行ったイザナギは、
腐敗したその姿を怖れて逃げるが、イザナミは黄泉醜女など
眷属をつれて追いかけてくる。なんとゾンビ映画の元祖じゃないですか。

イザナギは、髪飾りから生まれた葡萄、櫛から生まれた筍、
黄泉の境に生えていた桃の実を投げつけ、なんとかこの世まで戻ってきます。
この櫛は竹製のものだったんでしょう。
櫛、筍、桃、それぞれに強い退魔の力を持つものとして、
現代でも尊重されていますよね。

あと、クシナダヒメの話もよく知られています。
『古事記』では櫛名田比売、『日本書紀』では奇稲田姫と漢字表記され、
櫛=奇し が同じ意味として考えられていたようです。
スサノオは、八岐の大蛇とあいまみえる前に、
姫を呪法で櫛に変え、自分の髪に挿して戦うことになります。

でもこれ、不思議な話で、なぜスサノオは姫をその両親と同じように
安全な場所に隠しておかなかったのでしょうか。
この疑問は当然持たれていまして、
民俗学的には「妹の力」として説明されています。
戦いの場において、近親者である姉妹、あるいは恋人や妻の持ち物を
身につけることにより、男性の力が増すという考え方ですね。

これは近代まで受け継がれ、太平洋戦争のころも、母親や姉妹など、
近親の女性からやはり髪などを受け取って出征したという話もありますし、
博打場で女性の陰毛を持っていればツクというのもその類でしょう。
また、姫を他のものではなく櫛に変えたのは、
やはり櫛の呪力を信じたんでしょうね。
櫛は魔的なものに対抗する力が強いと考えられており、
イザナギ、イザナミの話からつながっているようです。

次は、ヤマトタケルの妻であったオトタチバナヒメ(弟橘媛)です。
ヤマトタケルの東征の途上、三浦半島ー房総半島間の走水海において、
タケルの暴言により海神の怒りを買って暴風雨になったとき、
船に乗っていた后のオトタチバナヒメが海に身を投げてその怒りを静める、
というお話です。前に少し書きましたが、この走水海に面した洞窟遺跡では、
刃物で解体されたとみられる人骨が出土しており、
なんらかの生贄的な儀式があったのではないかと推測されています。
その事実がこの記述に反映されているのかもしれません。

櫛はどこで出てくるかというと、海に沈んだ姫が持っていた櫛は、
7日後に海岸に流れ着き、その櫛を埋めて御陵を作り治めたのが、
当地の橘樹神社(川崎市)の由来とされています。
橘の木で作られた櫛だったのかはわかりませんが、
海神は姫の身体は受け取ったものの、
呪力を持つ櫛は返してよこしたということなんでしょう。
関連記事 『怖い古代史2(弟橘姫命)』

さてさて、こういう話をしてるときりがないのでまとめますが、
櫛は「九四」、つまり「苦死」に通ずるということで、
いろいろと扱うさいの作法があるようです。
苦死と関連したのはそれほど古い話ではないんでしょうが、

・櫛が折れると悪いことが起きる。その時はすぐ清水で洗うとよい
・櫛は落ちていても拾わない、苦を拾うに通ずるから
 もし拾う場合は一回足で踏んでから
・櫛の歯が欠けたものを男性が贈られた場合は、
 愛想が尽きたという女性からのメッセージ
・櫛を人に贈らない、もし贈る場合はかんざしと言う
などがあるようです。  関連記事 『身近な呪具(箒)』

弟橘媛






2枚の妖怪カード

2016.06.09 (Thu)
2枚の妖怪カード

えー、今日は妖怪談義と怖い日本史が混じったような話です。
まともに書くと1冊本ができてしまいそうな内容なんですが、
そうもいかないので、できるだけすっ飛ばしていきます。
興味を持たれた方はWiki等で検索してみてください。

さて、下に妖怪画を2枚掲げましたが、
左は竹原春泉画、『絵本百物語』より「飛縁魔(ひのえんま)」で、
右が竜閑斎画『狂歌百物語』より「小袖手(こそでのて)」です。
ではここでクイズ、ちょっとこじつけを含みますが、
この2作から連想されるものは何でしょう?



・・・答えは「火事」または「大火」でもいいでしょう。
えーと、どっちからいきましょうか。「飛縁魔(ひのえんま)」のほうが、
まだしも話としては穏当かもしれませんね。この絵を見ればわかるとおり、
とくべつ怖ろしいところもない、美しい女性の絵姿なんですが、
これは実は男の心を惑わし、身を滅ぼさせる魔性なんです。

美人が男を滅ぼし国を傾けるというのは、
中国の易姓革命思想からきているんでしょう。
ある王朝が滅ぶとき、その最後の帝には必ず悪女がつきまといます。
夏の桀王と妹喜、商の紂王と妲己、周の幽王と褒姒・・・
要は魔性の女と縁がつくと身が危うくなるよ、というような意味の妖怪です。

で、この「飛縁魔」という語は「丙午(ひのえうま)」と通じています。
丙午の年の生まれの女性は気性が激しく、
縁を持った男性の寿命を縮めるという話がありますが、その出所は、
「天和(てんな)の大火」にかかわりのある「八百屋お七」が、
1666年の丙午年の生まれだから、と言われることが多いようです。
しかし、これは俗説じゃないかと思いますね。
お七は16歳で火あぶりになったとどの資料にも出てきますが、
もし丙午生まれだとすると18歳になってしまうんです。

古代中国の鉄製品にはよく、銘として「五月丙午の日に鍛えた」と彫られていて、
これは陰陽五行説で、火の勢いが盛んになる時期なんです。
当時の江戸の人々はその手のことに大変詳しかったので、
丙午と火事が結びつけられたのかもしれません。

天和の大火は1683年、死者は最大3500名余とされています。
よく誤解されるんですが、この大火をお七が起こしたわけではありません。
『この火事で焼け出された江戸本郷の八百屋の一家は、ある寺に避難したが、
その娘お七は、寺の小姓と恋仲になる。やがて再建された店へと戻ったものの、
お七はもう一度火事が起きたら、またあの寺小姓に会えるかもと、
恋に目がくらんで自宅に放火した。火はすぐに消し止められボヤにとどまったが、
お七は捕縛され、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられた・・・』


という悲しいお話があるんです。ただし、史実としてははっきりせず、
お七という娘が放火の罪で刑に処せられた、あたりまでが確かなところでしょうか。
井原西鶴の浮世草子『好色五人女』などの創作で、
細部が加えられていったと思われます。

さて、次「小袖手」のほうですが、小袖ではなく「振袖火事」というのがあります。
これは、正式には「明暦の大火」といい、1657年ですから天和の大火より、
26年前のことです。こちらは大災害で、江戸の街の大半が焼失し、
江戸城天守閣まで燃え落ちています。死者は3万~10万。
この火事が起きた原因とされるのはかなりオカルトな話で、

『麻生の裕福な質屋の娘、梅乃が本郷の本妙寺に墓参に行ったその帰り、
すれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れし、恋の病で寝込んでしまう。
その寺小姓に連絡したいが身元はわからず、梅乃は晴れ着につくった振袖を
布団にかけて亡くなってしまう。葬儀の日、
両親はせめてもとその振袖を棺にかけてやる。
寺男たちはそれを当然転売するが、買った上野の町娘も病死し、
奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれる。再度、振袖は売られ、
それを買った娘もまた病死、振袖は三たび棺に掛けられ寺に運び込まれてきた。

さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。
住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに狂風が吹きおこり、
裾に火のついた振袖は人が立ちあがったような姿で空に舞い上がると、
火の粉を振りまいて寺を全焼させ、またたく間に江戸市中を焼きつくした。』

こんな内容です。これも寺小姓と町娘の禁断の恋が出てくるあたり、
当時の世相を表してはいるのでしょうが、
史実としてはかなり怪しいと思われます。これ、実は怖い噂があるんですね。

さてさて、上の話で「本妙寺」という寺名が出てきますが、
幕府の調べで、この火事の火元は本妙寺で決着しています。
ところが、それだけの大惨事を起こして、本来なら廃寺にされて当然なのに、
元の場所に再建を許され、しかも前より寺格が上げられたりしてるんです。
それってちょっとありえないですよね。ですから、
本当は武家屋敷(老中・阿部忠秋の屋敷など)が火元なのが、
それだと幕府の権威が失墜してしまうため、
あえて本妙寺が火元を引き受けたというもの。これはありそうな話です。

さらにもっと怖ろしい説として、幕府がわざと放火したというのがあります。
1657年といえば、江戸時代の初期ですが、
街並みは無計画なまま広がっていき、ごちゃごちゃと過密化していました。
そこで都市計画を一新させるためにわざと放火したのではないかということです。
そんな非道なと思われるでしょうが、これ、わりと唱える人が多いんです。

江戸の冬は、北西の風が吹くため放火計画は立てやすかったでしょうし、
翌日いったん鎮火してから、また別の場所で火の手があがっているのも、
怪しいと見ることもできます。さらに火事の後、幕府は大金をかけて
大名・旗本屋敷の配置換えをし、遊郭を移転したり、道幅を広げたりしているんですね。
みなさんはどう思われますでしょうか。







地獄の冥官

2016.06.05 (Sun)
今日は時間がなく、地獄についてのわりと軽目のお話です。
ただし、キリスト教などにまで踏み込むと長くなってしまいますので、
日本の話を中心にしていきたいと思います。

さて、今の日本人というのは地獄が怖いでしょうか?
これは自分的にけっこう疑問に思っているところです。
うちの父親の話だと、子供の頃は「嘘をつくと閻魔様の前で舌を抜かれる」
と親に言われたそうですし、お寺で年に一度、地獄絵の開帳があり、
そこで「悪いことをすれば地獄に堕ちる」などの説法もあったそうで、
今も行われているところもあるでしょうが、
都会ではあまりそういう話は聞かなくなりました。

これは一つには仏教界の、お釈迦様の説いた本来の仏教に戻ろうとする風潮と
関連があるのかもしれません。もともとインドの原初仏教には、
地獄という概念はなかったと思われます。
日本で地獄のイメージができあがったのはそう古いことではないようです。
極楽往生という考え方はありましたが、
地獄という概念がはっきり出てくるのは、平安時代頃からでしょうか。

たしかに「悪いことをすれば地獄へ堕ちる」というのは、
民衆を教化するためには効果的であったと思われます。
「生前○○をしたものは針の山を登らされる」とかですね。しかし一方、
仏教が戒律で禁じている殺生を生業とする人々に対して、
差別意識が生まれてしまったという面もあると思います。
蛇捕りを職業としている猟師の子どもが鱗を持って生まれてきたとか、
そういう話が中世の文献などに見られるようになります。

さて、地獄といえば、そこを支配するのが閻魔大王ですが、
仏教よりも古くからあるインドの古代思想由来のもののようです。
それが中国を経由して道教の影響を受け、日本に伝わってきました。
ですから、日本にある閻魔大王像は、
中国の官吏のような装束を身につけています。
また、日本では閻魔大王は地蔵菩薩の化身であるという話も加わりました。

それと、面白いのは閻魔大王というのは個人名ではなく、
一つの役職と考えられていたことで、
任期があって交代で務めているという考えが、唐の時代頃にはできていたようです。
優秀・清廉な官吏と考えられていた人物が、死後、
あるいは存命中にも地獄へ召喚され、閻魔大王の役職に任せられるわけです。

日本でも、閻魔大王そのものではありませんが、
地獄の閻魔庁の官吏となって仕事していたとされる人物がいます。
ご存知の方も多いでしょうが、9世紀の小野篁(たかむら)という人です。
Wikiには、「その反骨精神から野狂とも称された」と出ていますが、
遣唐使に任ぜられたものの、乗船を拒否した上に、
時の朝廷を批判する漢詩をつくって隠岐に島流しの刑にあっています。
このときの歌が、百人一首に採られている有名な、
「わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟」ですね。

さて、篁と地獄の話はこんな内容です。
『篁は学生の頃、罪を犯して罰をうけることになったが、
藤原良相という当時の宰相がかばってくれたため、軽い処罰ですんだ。
数年後、良相は重病となり床に伏せっていると、
使が来て地獄に連れていかれた。いよいよ罪を定められる時、
ずらりと並んだ冥官の中に篁がいることに気がついた。
驚いていると篁は目配せをし、閻魔大王に「この方は、正直で人の為になる方です。
今度の罪は、私に免じて許していただきたい」と申し出た。

閻魔大王は「それは本来難しい事だが、篁がそう言うなら許してやろう」と答え、
そこで気がつくと、自分の布団の中に戻っていた。
やがて病気の癒えた良相が参内して篁に会い、このときの話を出すと、
篁は「以前のお礼をしただけです。 ただしこの事は誰にも言わないでください」
と平然と答え、良相は「篁はただの人ではない、閻魔王の官吏なのだ」
と知っていよいよ恐れ、「人は正しくあらねばならない」と、
会う人ごとに説いて回ったという。』
(『今昔物語』などより)

篁が座っていた位置は、冥府の第二席であったという話もあり、
かなり高い地位にいたようです。昼に朝廷で政務をとった後、
六道珍皇寺の境内にある黄泉がえりの井戸から地獄に入り、冥府で二刻ほど仕事し、
嵯峨の清涼寺横、薬師寺境内の井戸からこの世に戻ったと伝えられています。
六道珍皇寺は、京都市東山区にある臨済宗のお寺で、黄泉がえりの井戸も
現存しています。もちろん、この逸話は史実ではないでしょうが、
篁=冥府の官説 は室町時代頃までには定着しているようです。
陰陽師の安倍晴明ほどではないにしても、
篁も現代のいろいろなフィクション作品で取り上げられていますね。

六道珍皇寺『黄泉がえり之井』


さてさて、六道(ろくどう りくどう)というのは、
「天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道」の6つを指しています。
それぞれについての解説はしませんが、これらはすべて、
成仏していない者の姿とされます。天道には天人が住み、
寿命は長く、自由に空を飛べるなど楽しく一生を過ごすのですが、
仏教に出会ってはいないため、最終的な解脱はできない存在です。
よく天の羽衣などと言いますが、これは天人の着るものを指してのことです。

現代の仏教では、この六道というのは、そういう場所があるわけではなく、
その人が今置かれている心の在りようを指す、と説かれるようになってきています。
修羅道にいる人間は、つねに争いの中に身を置き、怒りに身をまかせ、
相手を倒すことだけを考えているような状態。餓鬼道にある人間は、
あれも欲しい、これも欲しいと自分の欲望に溺れている状態。
ですから、地獄道もまた、生きた人間の心のうちにあるものだと
考えてもいいのかもしれません。罪を犯し、
それによってつらい責め苦を受けている状態ということでしょうか。

閻魔大王