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天皇退位と怨霊

2019.01.10 (Thu)
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今回はこういうお題でいきます。これもけっこう地味な話になりそうです。
さて、2017年に公布された「皇室典範特例法」にのっとり、
今上陛下は、2019年4月30日に退位し、5月1日に、
皇太子徳仁親王殿下が即位して、新元号への改元を行うことが決定しています。

なんで特例法が必要だったかというと、皇室典範には、
「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」とあるためです。
つまり天皇は、崩御するまで天皇でなくてはならず、生前の退位は認められて
いなかったんですね。これは、1889年(明治22年)に、
大日本帝国憲法と同時に発布された旧皇室典範から続く規定です。

では、どうしてこういう規定ができたのか。これにはいろんな要因があります。
まず、明治期には、富国強兵政策を推し進め、欧米列強国と伍していくため、
権力の一点集中が必要とされました。明治政府は、
絶対的な天皇の権威を背景として、さまざまな改革を行っていきます。

もう少しわかりやすく説明すると、もし、天皇の生前の譲位が認められれば、
先の天皇は上皇となって、権威が分散してしまうことが危惧されたんですね。
中央政府とは別の勢力が、上皇を担いで反乱を起こす可能性があります。
そのてのことは、長い天皇家の歴史の中で、なかったわけではありません。

また、もし生前退位が認められていると、やはり外部勢力が、
現天皇が気に入らないからといって強制的に退位させたり、また天皇自身が、
自分から退位してしまう可能性もあります。江戸時代の後水尾天皇は、
紫衣事件など、天皇の権威を失墜させる江戸幕府の行為に耐えかね、
幕府に対する腹いせで譲位しているんです。

後水尾天皇


そのような事態を防ぐため、明治以来、天皇は、崩御されるまで
ずっと天皇位にいなくてはなりませんでした。今回の生前退位も、
皇室典範そのものの改正も検討されましたが、上記のようなことのため、
特例法で対応することになったんですね。

ちなみに、昭和天皇までの124代の天皇のうち、生前退位は、
半分に近い58回あったとされます。その最初は、645年に35代皇極天皇が、
弟の孝徳天皇に対して行ったものです。また、最後に譲位が行われたのは、
江戸時代後期の1817年で、今回はほぼ200年ぶりということになります。
今上陛下の退位後の称号は「上皇」、退位した天皇の后は「上皇后」です。

さて、みなさんは「院政」という言葉を学校の歴史の授業で勉強されたと
思いますが、院政とは、「天皇が皇位を後継者に譲って上皇となり、
政務を天皇に代わり直接行う形態の政治」のことで、
1086年に、白河天皇が譲位して白河上皇となって始まりました。
上皇のことは「院」とも呼ぶので、院政という言葉ができたんです。

また、「法皇」という言葉もありますが、これは上皇が出家した場合に
用いられます。では、「治天の君」という言葉はご存知でしょうか。院政期には、
頻繁に譲位が行われ、同時に上皇3人に天皇1人がいたときもあります。
それだと世の中が混乱しますよね。そこで、天皇家のトップとして、
実質的に政務を行った人物を、治天の君と呼ぶようになりました。

治天の君は、上皇の1人だったことも、現役の天皇だったこともあり、
上皇が治天の君の場合は院政、天皇だった場合は親政と呼びます。
・・・ここまで長々と説明してきましたが、いったい何人の方が
読んでくださってるでしょうか。やっと怨霊の話に入ることができます。

怨霊と化した崇徳上皇
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保元元年(1156年)、鳥羽天皇が崩御すると、崇徳上皇と後白河天皇の
兄弟が治天の君の座をめぐって争い、後白河天皇が勝利しました。
これが「保元の乱」ですね。戦いに敗れた崇徳上皇は、剃髪して投降しますが、
讃岐国へ流罪となります。上皇が配流されるのは400年ぶりのことでした。

ここからは『保元物語』からの話です。讃岐国での軟禁生活の中、
仏教に深く傾倒した崇徳院は、五部大乗経を写経して、戦死者の供養のため、
写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出しましたが、
弟の後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑って受け取りを拒否、
写本を送り返してよこしました。

後白河上皇(法皇)


崇徳院は激怒し、舌を噛み切った血で写本に、「われ日本国の大魔縁となり、
皇を取って民とし民を皇となさん」 「この経を魔道に回向す」と書き込み、
朝廷を呪って爪や髪を伸ばし続け、生きながら天狗になったとされています。
また、崇徳院の亡骸を収めた棺からは、
蓋を閉めていても血があふれ出てきたともあります。

一説には、崇徳院の死は、朝廷が送った刺客による暗殺だという話もあるんです。
この後、大火や源平の戦いが起きて、世の中は乱れに乱れ、
崇徳院の怨霊のしわざという噂が広まり、ついに後白河院は、
怨霊鎮魂のため、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改めることになります。

経文を血で染める崇徳上皇
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それでも怨霊の猛威はやまず、崇徳院が变化(へんげ)した大天狗は、
『太平記』や、上田秋成の『雨月物語』などの作品に登場しています。
明治天皇は1868年、自らの即位にあたり、勅使を讃岐に遣わし、
崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて、白峯神宮を創建しました。

さてさて、ということで、天皇の譲位、生前退位は、不幸な歴史を背負って、
怨霊まで生み出してしまっているんですね。
まあ、現代の世にそういうことはないとは思いますが、このような背景から、
各方面から危ぶまれていたわけです。では、今回はこのへんで。






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浦島の話

2019.01.04 (Fri)
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今回はこういうお題でいきます。みなさん、浦島太郎はご存知でしょう。
「昔々、浦島は、たすけた亀に連れられて~」の童謡も聞かれたことがあると
思います。ただ、現在知られている浦島太郎の物語は中世にできたもので、
最初の頃の話とは、かなり形が変わっているんです。

書物として残っているものでは、8世紀に成立した『丹後国風土記』、
『日本書紀』 『万葉集』などに登場しますが、
ここでは太郎ではなく、「浦島子 うらのしまこ」という名前になっています。
また、亀に連れられて行く場所も、竜宮城ではなく「蓬山(蓬莱山)」です。

横山大観『蓬莱山』
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また、民話としての構成要素も違っています。まずは『丹後国風土記』の
話を見てみましょう。容姿端麗で評判の若者、浦島子は小舟に乗り釣りに出ましたが、
三日三晩まったく魚が釣れず、五色の亀だけが手に入りました。
そのうち、亀はたとえようもなく美しい女性の姿に変わります。

女は、自分は「天上の仙人の家のものです」と名乗り、浦島子に眠るように言います。
島子が目覚めると、大きな島(蓬莱山)に行き着いていました。
そこには壮麗な宮殿があり、女の両親や兄弟も出てきて島子を歓待します。
島子は女と夫婦になり、3年の月日がたちますが、島子はだんだんに、
郷里に残してきた父母のことが心配になり始めました。

浦島伝説の残る京丹後市の嶋児神社
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そこで、いったん故郷へ帰りたいと申し出ると、女は別れを悲しみながらも、
玉匣(たまくしげ)を渡し、「ここに戻ってくる気なら、これを開けてはなりません」
と言います。故郷に帰り着いた島子ですが、父母の家はなく、
あたりの様子が変わっていたので、郷の者に聞くと、
浦島子は数百年の昔に海に出たまま帰らなかった、ということになっていました。

悲しみのあまり島子が玉匣を開くと、何か美しい姿が雲をともない
天上に飛び去っていきました。そこで島子は女性と再会できなくなったことを
悟ったのでした・・・・ざっと、こういう内容なんですね。
話の骨格がずいぶん異なっていることがわかります。

まず、最も大きな違いは、「動物報恩譚」ではないということです。
動物報恩譚というのは、「鶴の恩返し」などに見られるように、
主人公によって助けられた動物が、何かの恩返しをするものですが、
その要素がすっぱり抜けています。

動物報恩譚「白鶴」
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ここでは、女性は、美しい若者である島子の評判を聞いて、自分から亀に姿を変え、
島子に会いに来たんですね。男女の恋の物語だったわけです。
それから、2つめの大きな違いは、島子が行った先が、
海の中にある竜宮城ではなく、天にそびえ立つ蓬莱山だったこと。

つまりこれ、中国的な神仙譚なんです。仙界は人間界に比べて時間の流れが遅く、
1年が100年にあたるとされます。ただし、浦島太郎の物語では、
玉手箱を開けた太郎はおじいさんになってしまいますが、
ここでは、そうは描かれていません。「見るなのタブー」を破った島子は、
二度と仙界に戻れず、女性に会えなくなって終わるんですね。

関連記事 『見るなのタブーについて』

さて、ここで古代の丹後国について考えてみましょう。
丹後地方(現在の京都府京丹後市辺り)には、大きな墳丘墓がいくつもあり、
鉄の出土量がたいへんに多いんです。また、ガラス製品の生産が盛んで、
全国の弥生時代のガラス製玉のほぼ10分の1が丹後から出土しています。

このことから、弥生時代から古墳時代前期のこの地には、
ヤマト王権や吉備国などと並ぶ「丹後王朝」があったとする説があります。
これはまず間違いないと思われ、研究者によっては、
邪馬台国の女王卑弥呼は、丹後国から擁立されたという説も出されているんです。

そのことはいずれ書きたいと思っていますが、古代の丹後国は、
独自に大陸との交易ルートを持っていたのは確実です。
丹後国からは、ガラス製の腕輪「釧 くしろ」(下図)が出土していますが、
これは中国製のカリ(珪酸塩)ガラスと見られます。つまり、丹後国は、
古い時代から中国の神仙思想を受け入れる下地があったんですね。

京都府与謝野町 大風呂1号墓出土「ガラス釧」
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それがどうして、蓬莱山から竜宮城に変わってしまったのか。
竜宮城で思い出されるのは、日本神話の「海幸彦・山幸彦」の話です。
兄の海幸彦にイジワルをされ、失くした釣針を探しに海にもぐった山幸彦は、
海神の娘、豊玉姫と結婚し、竜宮城で3年を過ごします。
ちなみに、この豊玉姫は神武天皇の祖母にあたります。

その後、山幸彦は地上へ帰らねばならず、姫から霊力のある玉をもらって、
その力で兄の海幸彦をこらしめることになります。
この話は日向神話とも呼ばれ、現在の宮崎県で、南方と交易していた
隼人族の間で伝わっていたものと考えられています。

さてさて、ということで、丹後国に伝わった中国北方系の神仙思想と、
日向国に伝わった南方系の竜神神話が中世までに合体したものが、
現在知られている浦島太郎の物語なんですね。
では、今回はこのへんで。

青木繁『わたつみのいろこの宮』部分 竜宮に降り立つ山幸彦
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正月と暦の話

2019.01.01 (Tue)
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今回はこういうお題でいきますが、これ、ものすごく地味な話なので、
スルーされたほうがいいと思います。さて、今日はおめでたい元旦ですが、
お正月って、いつから祝われるようになったんでしょうか。
これって、けっこう難しい問題をはらんでいるんです。

というのは、日本の古代において、1年間の概念がどういうものであったか、
はっきりとはわからないからです。ここで少し余談になりますが、
日本史の場合、「古代」にあたる時代区分は、飛鳥時代から平安時代まで
とされることが多いですね。それ以前は先史時代、鎌倉幕府の成立後が中世。
ですから、たんに「古い時代」という意味ではないんです。

さて、では弥生時代ころの日本人には、1年間という概念はあったんでしょうか。
これは、あったと考えるのがふつうですよね。日本は四季がはっきりしているので、
春になれば花が咲き、やがて暑くなり、涼しくなって寒くなります。
春には稲の苗を植え、秋になって収穫する。これで1年。

代表的な生物季節である燕
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そのサイクルはわからないほうがおかしいでしょう。では、その時代には
「暦法」が用いられていたか。ここが難しいんですね。
暦法には、大きく分けて「太陽暦」と「太陰暦」があります。
太陽暦は、太陽の動き、つまり地球が1年間で太陽のまわりを1周することを
基準にしたものです。春分、夏至、秋分、冬至で4つに分けられます。

太陽暦
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これに対し太陰暦は、月の満ち欠けの周期を基にした暦で、
1か月が29日のサイクルになります。では、もし弥生時代に暦の概念が
あったとしたら、どっちが使われていたんでしょう。
これ、自分はおおざっぱな太陽暦だと思います。

弥生時代に、「ひと月」という概念があったとは思えないんですよね。
花が咲いたり、渡り鳥が来たり、そういう生物季節で、
1年のうち、種まきと収穫の時期がある程度わかればよかった。弥生人が、
1日1日を数えて、「今日は21日」とか言ってたとは考えにくいんです。

太陰暦
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日本神話では、太陽の神アマテラスは大活躍しますが、
その弟の月の神ツクヨミはほとんど登場しません。これは日本の先史時代に、
月齢を読む習慣がなかったことを表してるんじゃないかと思います。
では、日本で暦法が使われるようになったのはいつからなのか。

月読命
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『日本書紀』には、欽明天皇14年(553年)に、百済に対し、
暦博士の来朝を要請し、翌年2月に来たとの記事があります。このときに伝来したのは、
中国の「元嘉暦」と考えられます。元嘉暦は、太陰太陽暦です。
これは、太陰暦をベースにしながら、それだけだと実際の季節とずれていくので、
二十四節季を入れて調節するものです。

また、同じく『日本書紀』には、持統天皇4年(690年)、
「勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う」という記事が出てきていて、
暦を正式に採用したのはこのあたりと考えらます。ここでやっと、
多くの日本人は「1年が正月から始まる」ということを認識したわけです。

古い時代においては、例えば古代ローマの暦は、1年の長さは304日で、
12月30日と3月1日の間に、日付のない日が約61日間ありました。
農耕暦だったので、耕作ができない冬の間は日を数える意味がなかったんですね。
日本でも、暦が伝わる以前は、冬の間はとにかく食料を食いつないで
耐え忍ぶ時期で、正月という意識はまったくなかったでしょう。

さて、中国の『魏略』という書の逸文に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」
と出てきます。「(倭国の)風俗は、正しい1年間と四つの季節を知らず、
ただ春に耕し、秋に収穫するのをもって1年となしている」この記述は、
上記したような自分の意見を裏付けていると思うんですが・・・

ですが、2ちゃんねるの日本史板でこの話をすると論争になるんですよね。
というのは、例えば『日本書紀』では、「応神天皇の没年 310年 2月 15日」
という具合に、古い天皇の生没年が干支を用いて記載されています。これをもって、
日本の古い時代には暦があったと主張する人がいるんです。

まあたしかに、書かれているのは事実なんですが、変だと思いませんか。
同じ『日本書紀』で暦が伝来したとされる以前から、暦があったということでしょうか。
おかしいですよね。ですから、自分はこれらの記述が史実とは信じていません。
『日本書紀』が作られた時点で、天皇の生没年なども創作されたんだと考えます。
でも、そう書くとすごい反発を受けるんです。

あと、上記の『魏略』逸文から、古い時代の日本では「二倍年歴」が使われていた、
と主張する人もいます。これは、現在の1年を2年として数えるものです。
まあたしかに、古代の天皇には異常に長命な人が多く、
神武天皇は127歳にて崩御したことになっていますが、もし二倍年歴なら、
その半分の64歳になります。その年齢なら常識的です。

ただ自分は、古い時代には暦はなかったとする考えなので、
「二倍年歴」についても、あったとは思っていません。古い天皇の寿命が長いのは、
初代神武天皇の即位を、紀元前660年という大昔に設定してしまったため、
それぞれの天皇の寿命を引き延ばして調節してるんじゃないでしょうか。

さてさて、ということで、ここまで読んでいただけた方は少ないんじゃないかと
思います。これ、大学教授の先生でも、神武天皇は実在していたとか、
二倍年歴があったという人がいるんです。それだけ、古代史には異論・異説が
多いんですね。では、今回はこのへんで。

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「潜水空母」って何?

2018.12.26 (Wed)
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今回はこういうお題でいきます。現在、日本の自衛隊は、
公式には、航空母艦を所持していないことになっています。
これは、憲法の規定によって、日本は交戦権を持たず、自衛隊は、
専守防衛を目的とするものであるため、航空機を遠方まで運用する
必要性がないと解釈されてきたためです。

ただし、2000年代に入って、「いずも型」 「ひゅうが型」などの、
「ヘリコプター搭載護衛艦 DDH」、通称「ヘリ空母」を開発・運用しています。
いずも型のほうが排水量が大きく、19500 tで、
戦闘ヘリ14機を搭載することができます。また、ひゅうが型は11機です。

これらの艦艇は、将来的には、わずかの改造で航空機が搭載可能であるという
議論がありますね。たしかに、「F-35B ライトニングII」戦闘機は、
垂直離陸が可能なため、カタパルトなどの航空機発射機能を持たなくても、
搭載することができます。この議論のゆくえはわかりませんが、
もしそうなれば、日本の空母所持の復活ということになります。

さて、「艦これ」というゲームがありますよね。このせいで最近、
旧日本軍の艦船に詳しい人が増えてきましたが、
アニメになった「大和」や「武蔵」などの大型戦艦に比べて、
昔の空母について知っている人は多いとはいえません。

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旧大日本帝国海軍の空母は、瑞鳳型、翔鶴型などかなりの数がありましたが、
それとは別個に、「潜水空母」と呼ばれるものが存在していました。
これは当時としては、異次元の発想でつくられたものです。
発案者は、連合艦隊司令長官の山本五十六とされることが多いんですが、
確証があるわけではありません。

ただ、山本は、太平洋戦争を、「アメリカ本土に直接打撃を与え、
日本に有利な形で早期に終戦に導く」という構想を持っていましたので、
彼の戦略思想からみて、ありえないことではないと考えられています。
さて、これがつくられた背景として、当時の航空機は、
給油なしに日本から直接アメリカに飛んでいくことができませんでした。

イ400型の特殊ハッチ(模型)
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当然ながら、アメリカも同じです。ですから、日本とアメリカの戦闘は、
ラバウル、硫黄島など、太平洋の島々のとり合いになったわけです。
航空母艦の利点は、もちろん航空機を搭載できることですが、
敵国に近づくとすぐに発見されてしまいます。

また、潜水艦の最大の利点は、敵に探知されずに潜航できることですよね。
この2つの利点をあわせ持つ形で構想されたのが、「伊四百型潜水艦」なんです。
これには、イ400、イ401、イ402の3隻がありましたが、
イ402は実際に戦役には就いていません。

ちなみに、イは「いろは」のイで、排水量1000t以上のものを指しました。
その下は呂(ロ)号潜水艦です。ドイツのUボートを範としてつくられています。
イ400の全長は122mで、Uボートの約2倍。
艦の体積をあらわす排水量は6560tで、Uボートの約8倍。
当時就役した潜水艦の中では世界最大です。

イ400型の安全潜航深度は100メート。約50秒で潜航ができ、
これは大型艦ではかなりの急速です。燃料は重油1667トンを積むことができ、
16ノットで31000海里の航続力があったため、
一度も燃料を補給せずに地球を一周することも可能でした。

これだけの大きさがあったのは、航空機を艦載するためです。
「特潜型」ともよばれたこの潜水艦は、3機の航空機を搭載しており、
世界で唯一の「潜水空母」だったんですね。
3機 艦載された攻撃機「晴嵐」は、このために特別製造されたもので、
主翼が折り畳み式になっていました。

攻撃機「晴嵐」(模型)
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画像をみればおわかりかと思いますが、丸い穴が攻撃機を搭載するための
ハッチです。ただ、欠点もたくさんあり、一番大きいのは、
潜水艦が浮上し、晴嵐を出して翼を伸ばし、人力でフロートをつけなければ
ならなかった点です。晴嵐は帰還する際、せまい艦上に下りることはできず、
海に着水したものを回収するしかなかったんですね。

ですから、兵器としてはたいへんに効率が悪いわけです。
ただし、太平洋戦争の初期において、もし計画されていたサンフランシスコ爆撃が
実行されれば、アメリカはパニックに陥ったと考えられます。
突如、どこからともなく現れた攻撃機が爆弾を落としていくわけですから。

戦果は少なかったでしょうが、心理的な効果は大きかったでしょう。
ですが、同盟国であったドイツが降伏したことで、大西洋方面の米英艦隊が
太平洋に移動してくることが予想されたため、攻撃目標はアメリカ本土から、
パナマ運河のゲートを爆撃して破壊することに変更されました。

ハワイ沖海底のイ400とみられる画像
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そうこうしているうち、太平洋戦争は日本の敗戦に終わり、3隻の潜水空母は、
戦果を出せないまま、イ400、イ401はアメリカ軍に接収され、
ハワイ沖で撃沈処分。未就航のイ402は東シナ海で撃沈処分となりました。
この理由は、第二次世界大戦の戦勝国として一枚加わったソ連が、
潜水空母の構造に興味を示したため、秘密保持としてと言われています。

さてさて、ということで、ほとんど役に立たなかった潜水空母ですが、
潜水艦が敵国の都市を攻撃するという、当時としては異次元の発想は、
現在の「潜水艦発射弾道ミサイル SLBM」となって甦っているんですね。
では、今回はこのへんで。

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孝明天皇と韓国併合

2018.12.11 (Tue)
今回はこういうお題でいきます。日本史のカテゴリです。
孝明天皇はご存知の方が多いでしょう。江戸時代の最後の天皇であり、
明治天皇の父君です。幕末の動乱の最中に在位し、1866年(慶応2年)に、
36歳で崩御されています。朝廷が公的に発表した死因は痘瘡による病死ですが、
これまで、根強く暗殺説が唱えられてきています。

孝明天皇
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次に、日韓併合ですが、1910年(明治43年)に、大日本帝国が大韓帝国を併合。
統治は昭和20年まで続いています。孝明天皇の死から韓国併合まで、
50年近いへだたりがあるわけですが、この2つの出来事には、
深い関係性があるんですね。それについてはいろんな人が書いてるんですが、
当ブログで強調したいのは、巷間に流れる「噂の恐ろしさ」ということです。

朝鮮総督府
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さて、孝明天皇が崩御されてすぐ、世間には、暗殺されたのではないかという
噂が流れ始めました。中には、天皇は厠に入っているところを刺殺されたとか、
天皇に新しい筆が献上され、その筆先をなめたとたんに具合が悪くなって床につき、
そのまま急死したなどというものまでありました。

もちろんこの2つは事実ではありませんが、噂はそうとうに広まっていたようで、
イギリスの外交官、アーネスト・サトウの滞在記録に、
「最初、死因は疱瘡と言われていたが、信用できる日本人から、
天皇は暗殺されたと聞いた」と書かれています。

なぜ、こんな噂が流れたのか。それは世間の目に、孝明天皇は暗殺されてしかるべき
と見える理由があったからですね。孝明天皇の主義主張ははっきりしており、
諸外国に対しては「開国反対、徹底的な攘夷」でしたが、当時の識者はみな、
それが無理なことがわかっていました。むしろ、西洋文明を積極的に受け入れ、
日本の国力を高めていく必要があると考えられていたんです。

もう一つ、孝明天皇は徳川幕府に対し「公武合体、佐幕」政策をとっていました。
第十四代将軍の家茂を信頼しており、妹の和宮を降嫁させています。
この2つは、どちらも薩長の志士、開明派の公家にはじゃまでしかたが
ないものだったんですね。孝明天皇がいなくなれば、
徳川幕府を滅ぼして、改革が一気に進むと考えられていたわけです。

岩倉具視
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ということで、動機は十分です。では、もし暗殺だとしたら誰がやったのか。
これは、名前があがっているのは、薩摩藩士の大久保利通、公家の岩倉具視です。
特に岩倉のほうは、「天皇の存在が世を混乱させている。天皇は世間に対して
謝るべきだ」という過激な発言をした記録が残っています。

じゃあ、ほんとうに暗殺だったのか。これはわかりませんねえ。
天皇が発熱した後、天皇を診る資格を持つ医師団による24時間体制の看護が始まり、
痘瘡の診断が出たものの、その後、一度は回復期に入ったときの「御順症」
という状態になってるんです。それが、あるときを境に容態が急変し、
最期は体中から血を出して亡くなったとされます。

暗殺かどうかについては、昭和、平成にも歴史学者による論争が起きていますが、
結論は出ていません。もし暗殺だとしたら、砒素による毒殺。
やはり最も疑われるのは、公家として天皇の近くにいた岩倉具視なんでしょう。
ちなみにこのとき、長州藩士の伊藤博文は鉄砲の買いつけなどをしており、
暗殺の機会はなかったと考えられています。

あと、孝明天皇とともに、皇太子であった睦仁親王も暗殺され、後の明治天皇は、
すり替えられた、かつての南朝の血を引く大室寅之祐という人物だとする
説があります。これ、自分も興味を持ってあれこれ調べてみましたが、
かなりの無理があり、陰謀論というしかないものです。

明治天皇と大室寅之祐(とされる画像)
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さて、ここまででだいぶ話が長くなってしまいました。先を進めます。
伊藤博文はロシアのハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家、
安重根によって射殺されました。その最期の言葉は「俺を撃ったりして、馬鹿なやつだ」
と伝えられています。この真意はわかりませんが、伊藤はどちらかといえば、
韓国併合には反対の立場だったはずです。

日本はまだまだ国力を充実させる時期で、韓国併合でよぶんな金をかけるゆとりはない
ということです。ロシア官憲はすぐに安重根らの身柄を拘束して日本に引き渡し、
安は死刑になりますが、裁判において、伊藤暗殺の15の理由を列挙し、
これは、当時の新聞で広く日本や世界に公表されています。

伊藤博文と安重根
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で、その14番めのものが、「今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル
御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス。」
つまり、明治天皇の父親(孝明天皇)を伊藤が暗殺したこととなってるんですね。
これも謎な部分で、もし孝明天皇の死が暗殺だったとしても、
どうして安が、犯人が伊藤だと考えたのかがわかりません。

不思議ですよね。ちなみに、安重根は韓国国内では反日の義士とされていますが、
日本の天皇の崇拝者でもあったんです。ただしそのことは、
現在の韓国内では広まっていません。こう書くと問題があるでしょうが、
韓国は、都合のよいことだけが周知され、悪いことは隠され、
歴史的な捏造が横行する、たいへんに幼稚な社会です。

伊藤暗殺の翌年、日本政府は韓国併合を促進し、大韓帝国は消滅します。
ですから、安の行動は、韓国併合を加速させてしまったことになります。
皮肉な話というしかありませんし、
歴史のめぐり合わせの不思議さを実感します。

さてさて、ということで、孝明天皇の暗殺の噂、これが50年近い時を経て、
伊藤博文の暗殺から韓国併合につながっていくわけで、
最初に書いたとおり、噂って怖いなあと思います。ある噂が立てば、
それを利用しようとする人が必ず現れるんですよね。では、今回はこのへんで。

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