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日本は東海姫氏の国?

2018.11.11 (Sun)
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今回はこういうお題でいきます。日本史のカテゴリなんですが、
たいへん地味な話で、しかもオカルトにはほとんど関係がないので、
古代史とか、こういうのに興味がある人以外はスルー推奨です。
さて、何から話しましょうかね。

みなさんは、日本が古代において「倭国」と呼ばれていたのは
ご存知だと思います。『後漢書』の東夷伝には、
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」と出てきます。
「西暦107年、倭国王の帥升等が奴隷160人を献上して、謁見を願った」

「帥升等」の部分は、3文字の人名なのか、それとも「帥升たち」という
意味なのかははっきりしません。倭に関しての記述はこれ以前にもありますが、
「帥升等」は、倭国の人物名が歴史書に現れる最初なんですね。
160人の奴隷という内容が本当ならば、
かなりの権力を持っていたと見るべきでしょう。

倭人
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なぜ、日本が「倭」なのかについてもわかっていません。
倭は「環 わ」のことで、環濠集落を表しているという説もありますが、
なんとも言えないですね。ただ、倭という漢字を選んだのは古代の中国人です。
倭には、「性質が従順 おとなしい 体が小さい」などの意味があるようですが、
一国の国名としては、あまりいい字とは言えないと思います。

中国には古来「中華思想」があり、中国が世界の中心であって、
その四方は蛮夷の住む場所と考えられていました。ですから、
周辺国に対して、例えば、「匈奴」とか「濊」 「鮮卑」など、
卑字、つまり、あまりよい字義ではない字をわざと使っていたんです。

倭という名称が「日本」に変わったのは、7世紀、天武天皇の治世とみる
意見が多いですね。これについては前に書きましたが、
壬申の乱において、天智朝から天武朝に交代したのを契機に、
卑字である倭から、国号を変更したものだろうと考えています。

さて、日本を表す呼称として、この他にも「秋津島」 「扶桑国」 「大和」などと
いわれますが、その中の一つに「東海姫氏(きし)国」というのがあります。
これ、聞いたことがあるという方は多くないと思いますけど、
以前に記事にした「野馬台詩」に出てきますし、
中国でも日本でも、この語は日本の別名として通用していました。

関連記事 『野馬台詩と足利義満』

平安時代に編纂された『日本紀私記丁本』、これは『日本書紀』の内容に
ついての問答集なんですが、天皇の「なぜ日本のことを東海姫氏国と言うのか」
という質問に対し、宝誌という僧が、「日本の皇祖神が天照大御神で女性、
神功皇后などの女帝も輩出しているため、
『東海姫氏の国』と呼ばれているのでしょう」と答えます。

まあ、中国では珍しい、女帝がいた国という意味も多少はあるのかもしれませんが、
自分は、この答えは大筋では間違っていると考えてます。
じゃあどういう意味かというと、姫氏国は「姫氏がつくった国」
なんじゃないかと思うんですね。「姫」は中国にある姓です。

さて、三国時代の『魏略』逸文には、「聞其旧語自謂太伯之後」と出てきますが、
これは、「(倭人に)昔のことを尋ねると、我々は太伯の子孫であると答えた」
ということです。『普書』や『北史』の倭国の記述にも同じ内容が出てきます。
太伯というのは、紀元前11世紀ころの人物で、
周王朝の祖先である、古公亶父(ここうたんぽ)の息子です。

呉の太伯
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古公亶父には太伯・虞仲・季歴の3人の息子がいましたが、季歴の子の昌
(周の文王)が優れた子であり、産まれるときにさまざまな瑞兆があったため、
古公亶父は昌に王位を譲りたく内心は思っていました。
そこで、王の気持ちを察した太伯と虞仲の兄弟は、季歴に後をつがせるため、
自分から国を離れ、蛮夷の地へと出ていったんですね。

古公亶父は、2人の息子に帰ってくるよう迎えを出しましたが、
2人はすでに髪を切り、全身に文身(いれずみ)をしていて、
「われわれはもう、王になるにはふさわしくない」と言い、
太伯は、その地域の人々を集めて呉の国を興したと『史記』に出ています。

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この呉はもちろん、三国時代に孫権が興した国とは別物です。
また、王となった昌は、太公望呂尚を軍師に迎えて周の国を開き、
その子の武王の時代に、商(殷)を攻め滅ぼすことになります。
で、古公亶父や太伯は周王朝につながる人物ですので、名字は「姫」です。

顔面への文身
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『三国志』魏志倭人伝の「男子無大小 皆黥面文身(中略)今文身亦以厭大魚水禽」
「男子は老若みな文身をしている。それによって水に潜ったときに大魚の害を
避けることができる」・・・この記述は、倭人が、文身をした太伯の子孫であると
称していることを意識して書かれているというのが定説です。
では、倭人はほんとうに呉の太伯の子孫なんでしょうか。

太伯の子孫が大陸から海を渡ってきて、日本に入って弥生人となった?
これはなんとも言えませんが・・・遺伝子のハプロタイプというのがあります。
ここでくわしい説明はしませんが、男系のY染色体に注目してみると、
現代の日本人の一部は、中国の揚子江流域の人々が北上してきた
子孫だという可能性は否定できないんです。

さてさて、この地味な話に最後までつきあっていただいたみなさん、
どう思われたでしょうか。まあ、古代から人の移動は珍しくはありませんでした。
弥生人の前にいた縄文人だって、やはりユーラシア大陸から狩りをしながら
移り住んできた人々なんですよね。では、今回はこのへんで。

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新田義貞と3本の刀

2018.10.28 (Sun)
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今回はこういうお題でいきます。日本史のカテゴリですね。
あんまり怖い話にはならないと思います。さて、新田義貞は、『太平記』に
登場する武将の中で、楠木正成、足利尊氏と並ぶ3本の柱の一人ですが、
他の2人に比べるとマイナーというか、歴史的評価もあまり高くないですよね。

『太平記』は戦前、天皇に忠義をつらぬく物語として皇国史観に利用され、
その反動から、戦後はあまり読まれなくなりました。
中学校の古典教材に『平家物語』は出てきても、『太平記』が出てこないのは、
『平家物語』のほうが文章が優れてるためだと思いますが、
そのあたりの事情もあるんじゃないでしょうか。

足利尊氏
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その分、実証的な歴史研究が進み、戦前は悪逆非道呼ばわりされていた
足利尊氏が、武士階級の利益の代弁者としてやむなく戦わざるを得なかったとか、
忠義の鏡とされた楠木正成は、「悪党」という、商業にも関わった
反体制的な集団の一員であった、などというように再評価されてきています。

ただ、新田義貞についてはあまり評価は変わらないんですね。
もちろんヒーローの一人ではありますが、育ちのよいぼんぼんだったとか、
戦いが下手だったのに、源氏の正嫡だったために総大将にされたとか、
そういう内容が多いんです。

まあこれは、鎌倉幕府を滅ぼすまでは破竹の勢いだったのが、
その後の足利高氏との戦いではいいところがなく、
湊川で楠木正成を自害させてしまったことや、最期も、流れ矢にあたるという
あっけないものだったことから、そう言われてもしかたがない面があるでしょう。

さて、この新田義貞ですが、3本の名刀を持っていたとされます。
ただし、どれも史実かどうかは疑わしい話です。まず一本目の刀は、
前にも記事に書いていますが、「鬼切安綱」と呼ばれるものです。
これは新田が、戦いに出た最初から持っていたと見られます。

鬼切安綱は、もとは坂上田村麻呂が伊勢神宮に奉納したものを、
源頼光がもらい受け、さらに配下の四天王の一人である渡辺綱に与え、
それが八幡太郎義家から新田家に伝わり、代々家宝として受け継いできたとされます。
渡辺綱がこの刀で、酒呑童子の一の家来、茨木童子の腕を斬り落とした話は有名で、
そこから「鬼切」の名前がついたわけです。

茨木童子と戦う渡辺綱
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この刀は、藤島の戦いで新田の首を上げた斯波高経の手に渡り、
足利尊氏がその刀を求めたところ、高経は偽物を渡し、
あとで尊氏がそのことを知ってたいそう悔しがった、という話が残っていますね。
高経の後は最上家に渡り、現在は北野天満宮に奉納されているようです。

もう一本の刀は「鬼丸国綱」、新田が、倒した鎌倉幕府の北条家から
奪い取ったものです。この刀にも鬼に関わるエピソードがあり、
鎌倉幕府の初代執権、北条時政が毎晩夢の中で小鬼に苦しめられており、
その後、別の夢に白ひげの老人が現れて、「私は太刀国綱である。刀身が錆びて
鞘から抜け出せないので、小鬼を退治したければ錆をぬぐってくれ」と言った。

時政がそのとおりにして、寝所の壁に立てかけておくと、夜中に倒れて
刀身が鞘からするすると抜け出し、近くにおいてあった火鉢の足を斬った。
見るとそれは銀で作られた鬼の形をしており、それ以来、
夢の中で子鬼に苦しめられることがなくなった、という話があります。

鬼丸国綱
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あと、二刀流といえば宮本武蔵が有名ですが、『太平記』には、
新田義貞は戦いに際し、この「安綱」 「国綱」の2本を両手に振り回して、
飛んでくる矢をすべてなぎ払った、と出てきます。国綱のほうは、
上記の斯波高経から尊氏の手に渡り、足利家で代々伝えられた後、
織田信長、豊臣秀吉を経て、現在は天皇家の御物になっています。

さて、最後の1本。これが最も有名でしょうが、どんな刀なのか、
名前もわからないんですね。1333年、鎌倉に大群を率いて迫った新田義貞は、
三方が山で囲まれる天然の要害である鎌倉を攻めあぐね、
海側から入ろうとしましたが、なかなか潮が引かない。
そこで、稲村ヶ崎において、腰に差していた黄金拵(こしらえ)の太刀を

龍神に祈りを捧げて海中に投じると、たちまちに潮が引いて進軍することができ、
この翌日の戦いで、鎌倉幕府と北条氏一門は滅亡することになります。
これは、『太平記』中の前半のハイライトシーンですが、
海に投じられた刀については、よくわかってないんですね。
安綱や国綱ではないことは確かです。

鎌倉 稲村ヶ崎
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まあ、史実ではないのだから、わからないのは当然と言われればそれまでですが、
それも夢のない話ですので、少し考えてみると、まず黄金拵というのは
鞘や柄のことで、刀身そのものが金でできていたわけではないでしょう。
金はやわらかく刃もつけにくいので、実用にはなりません。

それと、絵などには通常の太刀が描かれることが多いですが、それだと、
その後の戦いに困りますよね。脇差、あるいは懐刀のようなものじゃなかった
でしょうか。たしか、NHKの大河ドラマ『太平記』でも、
短い刀として考証されていたような記憶があります。

さてさて、ということで、なかなかスポットのあたりにくい新田義貞に
ついて書いてみました。もし、南朝側の総大将が、源氏の嫡流の新田ではなく、
身分の低い楠木正成になっていたら、その後の歴史は変わっていたかもしれません。
では、今回はこのへんで。






首を取る話

2018.10.10 (Wed)
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今回はこういうお題でいきます。カテゴリは日本史ですね。
みなさんは、「首狩り族」という言葉を聞くとどう思われますでしょうか。
ああ、未開の地の野蛮な風習だと感じられるかもしれません。
ですが、日本には古来から敵の首を取る作法がありました。

ただ、首狩り族などの場合とはちょっと違います。首刈りは、
ほとんどが宗教的な意味を持っていて、人間の頭部に霊的な力が宿るという
信仰によるものです。それに対し、日本の場合は主に、
討ち取った相手を確認・識別するために行われました。

「首級を上げる」という言葉がありますが、これは、中国の戦国時代、
秦の国の法で、敵の首を一つ取ると兵士の階級が1つ上がったことからきています。
この風習が日本に伝わったのだと考えられますが、じゃあいつから始まったか
というと、古代の戦争の様子はあまりよくわかってないんですね。

吉野ケ里遺跡の首なし人骨
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九州の吉野ケ里遺跡などでは、弥生時代の戦闘で死んだ首なし人骨が
発掘されていますが、これはおそらく、上記の首刈りに近いものでしょう。
また、処刑として首を斬ることも古くからありました。
『日本紀略』では、802年、東北遠征に赴いた坂上田村麻呂が、
蝦夷のアテルイとモレを捕虜にして、近畿地方まで連れてきました。

田村麻呂はこの両名の助命を願いましたが、平安貴族の反対にあって、
河内の国で首を落とされています。この場合は明らかに処刑ですね。
940年、関東で乱を起こした平将門は、藤原秀郷らの連合軍に破れて
首を取られ、その首が長期間かけて京都まで運ばれました。

獄門にされた平将門の首


これは、将門に影武者がいたこともあり、朝廷が確実に死んだことを
確認したかったからです。将門の首は京都で晒されることになりますが、
これが歴史上で、獄門が行われた初の事例なんですね。この様子が
恐ろしかったためか、後代に、将門怨霊説がささやかれることになります。

晒されていた将門の首は突如宙に飛び上がり、故郷の関東をめざして
消えていったとするものです。その首が落ちたとされる場所はいくつもあり、
東京の千代田区にある首塚は、騒がすと祟りがあるとされています。
荒俣宏氏の小説、『帝都物語』の影響もあって、
将門は日本最大の怨霊とまで言われるようになりました。

さて、源平の合戦の頃には、首を取ることが作法として始まっていたようです。
『平家物語』では、一ノ谷の戦いで、熊谷次郎直実が、波打ち際で平家の
武者を組み伏せ、鎧の様子から高貴な武将であると見て首を取ろうとしたが、
顔を見ると自分の息子ほどの若さ。逃してやろうとしても、
味方が近くまで来ており、泣く泣く首を斬ったという話が出てきます。

平敦盛と熊谷直実
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この武将は、首実検で、清盛の甥の平敦盛15歳とわかり、遺体の腰に
「青葉の笛」が挿されてあったことから、その風雅の心に感じて、
源氏方もみな泣いたとされます。あと、斎藤実盛という人物が、
木曾義仲追討のための北陸の戦いで討ち死にしますが、
首実検で首を洗うと、墨が流れ白髪頭が現れました。
老齢とあなどられることがないよう、髪を黒く染めていたんですね。

また、平泉で討ち取られた源義経の首も、酒に浸して鎌倉に送られました。
道中、43日間もかかったため、腐敗して判別がつかなかったと考えられます。
ここから、義経が東北を北へ落ちのびた、北海道へ渡った、
大陸でジンギスカンになった、などの話が出てくるわけです。

さて、鎌倉時代の元寇では、日本軍は多くの蒙古兵の首を討ち取りましたが、
これは敵の首が即、恩賞につながったからです。
1467年には応仁の乱が起こり、戦国時代が始まりました。
このとき以来、農民出身の者も雑兵として戦闘に参加するようになったため、
軍規が厳しくなり、首実検の作法も固まっていきました。

戦国時代の首取りの様子 首を取っている人がさらに取られている
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取られた首は、武家の婦女によって死化粧が施されました。
これは、見るに堪えない無念の形相の首が多かったためとも言われます。
武将の首は髪を結い直し、お歯黒もつけました。このとき、
「諸悪本末無明 當機実検直 義何處有南北」という呪文?を唱えると、
その首は祟らないとされたようです。

これ、いまいち意味がわからない文章です。「諸悪は本来、無明である。
機にあたり直に首実検する。義は南北のいずこにありや。」うーん、
善悪ではなく、運が悪くて死んだんだよ、くらいの意味でしょうか。当時、
戦場での死者は祟らないなどとも言われましたが、実際には怨霊は怖れられていて、
取った首を自分の城に持ち込むのはよくないとされました。

ですから、首実検は近くのお寺などを借りて行われたんですね。
実検が終わった首は、獄門にさらされる場合も、相手方に返される場合もありました。
雑兵の首などは捨てられたようですが、そのときも祟りがないよう、
北の方角に持っていきました。これは「北」を「にげる」と読むためです。

これは展示物で、本物ではありません
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織田信長は、討ち取った浅井久政・長政父子と朝倉義景の3つの頭蓋骨を磨いて、
箔を貼ったものを酒宴で披露しましたが、これは極めて異例で、
仏法を信じず、霊を怖れることがなかった信長の性情がよく表れた話です。
秀吉の朝鮮出兵では、日本軍は多くの朝鮮、明兵の首を取りましたが、
日本への輸送が困難なため、かわりに鼻や耳を削いで箱に詰めて送りました。

さてさて、大急ぎで「首を取る」歴史をふり返ってみました。
武士の歴史は残忍なものですが、切腹なども含めて、
様式化され 美化されていきました。坂口安吾の小説、『桜の森の満開の下』は、
斬られた生首の持つ魔力に魅入られた女の話です。では、今回はこのへんで。

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盗人の系譜

2018.09.23 (Sun)
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今回はこういうお題でいきますが、これ、書く気になれば、
ぶ厚い本の何冊分にもなるような内容を含んでるんですよね。ですから、
ほんのさわりを紹介するという形にしかならないと思います。
さて、「売春は世界貴古の職業」という言葉がありますが、盗みというのも、
人間の歴史が始まったごく初期からあったものと考えられます。

古代日本についての、最初のまとまった資料である『三国志』「魏志倭人伝」には、
不盗竊少諍訟 其犯法 軽者没其妻子 重者没其門戸及宗族」と出てきます。
(倭人は)盗みをせず、訴訟は少ない。法を犯した者については、
軽い場合は妻子を没し(奴隷とし)、重い者は一族を没する。

ここでは、当時の倭国は犯罪の少ない社会であったように書かれています。
中国の史書が他の蛮夷の国について記述する場合、その道徳性を評価した
内容が記載されることが多いんですね。ただまあ、
これが実際の当時の様子を表しているかどうかは、はっきりしません。

さて、やや時代が下って、古墳時代の528年、九州の地方豪族が
ヤマト王権に反旗を翻した「磐井の乱」が起こります。
この磐井の墓と見られる岩戸山古墳は全長約130m、北部九州最大の前方後円墳で、
墳丘上に多数の石人・石馬が立てられていました。討伐された磐井の墓が
残っているのは、おそらく生前から造られていたためでしょう。

岩戸山古墳の石人
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奈良時代に編纂された『筑後国風土記』には、「イノシシを盗んだ裸の罪人が
裁かれる場面を石人で現していた」と書かれています。磐井は国造(こくぞう)で、
その土地出身の裁判権・警察権を持った豪族でした。これがだんだんに、
中央集権の官である国司(こくし)に変わっていくのが、ヤマト王権の歴史です。

さて、個人として名前が通った盗賊は平安時代に出ます。袴垂(はかまだれ)
保輔ですね。この人物、藤原氏に連なる下級貴族ではなかったかと
見られています。公的な宴で傷害事件を起こして逃げ、その後も強盗を重ねて、
朝廷から、捕らえたものには恩賞を与えるという賞金首となりました。

袴垂保輔
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『今昔物語』には、袴垂のエピソードがいくつか出てきますので、
ご紹介しましょう。袴垂が金がなくなって、裸になって道で死んだふりをしていたところ、
馬にまたがった立派な武士が、大勢の家来をつれてやってきたが、
横たわった袴垂の姿を見ると、まず従者に様子を見に行かせた。

従者が戻ってきて「死人でございます」と答えると、武士は馬から下り、
弓をつがえて寝ている袴垂に向け、狙いをそらすことなく、そろそろと通り過ぎていった。
これを見た往来の人々は、「なんて臆病な武士だ」とあざ笑った。
そこへまた別の武士が騎馬でやってきて、「何で死んだのか、哀れなものだ」
と言いながら、弓の先で袴垂をちょんちょんとつついた。

すると急に袴垂は起き上がり、弓をつかんで相手を馬から引きずり落とし、
武士の刀を抜いて刺し殺し、着物や武器を奪うと、馬にまたがってどこへともなく
逃げていったという話が載っていて、最初に通りかかった武士は、
武名高い源頼光四天王の一人、碓井貞光だったということになっています。

で、この袴垂保輔ですが、捕らえられた後、牢獄の中で自殺を図り、
自分の腹を刀で突いて内臓を引きずり出し、翌日に死んだとされます。
これが、日本での最初の切腹だったという話があるんですが、
真偽のほどはよくわかりません。

石川五右衛門
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さて、日本で最も有名な盗賊というと、石川五右衛門じゃないでしょうか。
安土桃山時代、豊臣秀吉の治世の頃の人物で、辞世の句として、
「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」と詠んだとされます。
石川の浜の砂がすべてなくなったとしても、いつの世になっても盗みや盗人が
なくなることはないだろう、という意味ですが、もちろん後世の偽作と考えられます。

石川五右衛門は、歌舞伎や講談で有名になりましたが、実態はよくわかっていません。
ペドロ・モレホンという宣教師が「石川五右衛門という盗賊が、家族10人あまりと
釜茹での刑になった。その他20人ほどの仲間が磔になった」と書き残しています。
これが史実のすべてで、伊賀忍者の総帥、百地三太夫の弟子だったとか、
秀吉の持つ千鳥の香炉をねらって伏見城に忍び込んだとか、

釜の中で油が煮えてくると、自分の子を頭上にさし上げていたが、
熱くなって油に引火し釜が火につつまれると、子を沈めて死なせてしまった。
観衆が、「命が惜しくて自分の子を下にするのか」とあざ笑うと、
「馬鹿者が、子どもが苦しまないよう早く死なせてやったのよ」と答えた・・・
などなど、これらはみな、根拠のない作り話なんですね。

鼠小僧次郎吉
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あとは、鼠小僧次郎吉が有名ですか。江戸時代後期の盗賊で、
義賊伝説が残っています。盗んだ金を貧しい人に分け与えたというものですが、
そういう公的な記録はありません。これも歌舞伎で創作されたものでしょう。
ただ、次郎吉は徒党を組まず、つねに単独犯だったこと、

人を殺傷しなかったこと、盗みに入ったのは武家の屋敷だけで、
合計3000両以上を盗んだと見られることなどから、義賊としての
話ができあがったものと考えられています。次郎吉は捕らえられ、市中引き廻しの上、
打ち首、獄門となりましたが、多数の野次馬が押しかけた記録が残っていますね。

さてさて、やっぱり長くなってしまいました。こうして見ると、
袴垂保輔、石川五右衛門、鼠小僧次郎吉、3人とも捕まって刑死(自死)しています。
昔から、日本の警察力は なかなかたいしたものだったんですね。
ということで、今回はこのへんで。







江戸の隠居パワー

2018.09.19 (Wed)
今回はこういうお題でいきます。オカルトとはあまり関係のない内容です。
スルー推奨かもしれません。前に少し書いたんですが、
自分は最近、「江戸学」というのを勉強していまして、
その関係の本が目についたら買って読むようにしてます。

なぜこれを始めたかというと、江戸の絵師、鳥山石燕の「妖怪」を読み解くにあたって、
江戸時代全般に関する知識がどうしても必要だと気がついたからです。
で、少しずつうんちくが増えていくと、これが妖怪やオカルトを
抜きにしても面白いんですね。江戸時代には、それ以前を全部合わせた
何十倍、何百倍もの文献資料が残されているんです。

さて、「隠居」といえば、落語の長屋物で住人の八五郎や熊五郎が、
何か困ったことがあれば相談に行くのが、「裏のご隠居」です。ご隠居は、
知恵者だと思われてましたが、どこかズレたところもあって、
だんだん話がおかしくなっていくというのが、定番の筋ですよね。

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ところで、明治から戦前までの旧民法に「隠居」という公式な制度があったのを
ご存知でしょうか。これは戸主が生前に、自分の意志で家督を他の者に
譲ることで、原則として満60歳以上でしたが、
戦後になって、戸主制とともに廃止されました。

さて、江戸時代にはさまざまな文化が花開きましたが、その担い手の多くが
「ご隠居」によるものだったんですね。ご隠居には裕福な町人もいましたが、
大部分は武士身分だった人物でした。当時の武士のほとんどは、
早く隠居することが念願だったんです。

江戸時代の平均寿命は、はっきりした統計は出ませんが、30歳から40歳の間
くらいだったと考えられます。現代から見ればずいぶん短いですが、
これは乳幼児死亡率が高かったためと、定期的に疫病の流行があったこと、
結核が不治の病だったことなどのせいで、
50歳を超えてしまえば、それから長生きする人も多かったんです。

戯作者の井原西鶴は52歳で亡くなっていますが、『日本永代蔵』の中で、
「45歳くらいまでに、一生困らないだけの財産を溜め込み、
その後は面白おかしく遊び暮らすのが、理想の人生ってもんだ」みたいなことを
書いています。ただ、西鶴の場合、45歳からの時間はあまりなかったようですが。

井原西鶴
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さて、当時の幕臣あるいは藩士でも、お役目(仕事)はなかなか大変でした。
例えば「お畳奉行」という役職についていたとして、仕事はまあ畳替えのとき
しかありません。畳替えなんて、そう頻繁にやるもんではないので、
基本的にヒマでしたが、仕事がないからといって家で休んでいるわけにもいかず、
毎日ではないものの、お城に出仕して座っていなくてはなりません。

勝手にタバコを吸ったり、足を崩したりなんてできないんですね。
で、お城勤めをしてると、上役や同僚の冠婚葬祭、盆暮れのつけとどけ、
回り番で開催する慰労会など、けっこうな金と時間がかかり、
気づかいも多かったんです。しかも、大きな落ち度があれば切腹です。
なんかこれ、現代のお役所と似ている気がします。

ですので、後継ぎの心配のない武士は、とにかく早く家督を譲って隠居したいと
考えてました。俳人の松尾芭蕉は、36歳で隠居し俳諧の選者を始めました。
弟子たちには、40代でもう「芭蕉翁」 「翁 おきな」などと呼ばれてたんですが、
まあこれは、尊敬の意味もあるんでしょう。
今の40代なんて中堅バリバリですので、隔世の感があります。

葛飾北斎の「於岩」
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ただ、人間、自分が何歳まで生きて死ぬかはわからないので、
隠居前に「これで十分だ」と思えるだけの金を貯め込むのは至難でした。
ですから芭蕉のように、自分の好きなことをやって、しかも人に尊敬され、
金も入ってくるというのは、理想の隠居生活だったんです。

現代でも、「貧困老人」なんて言葉があり、週刊誌を見れば、
老後の資産運用などについての記事がたくさん出ています。
悠々自適の生活というのは、今でもなかなか難しいものです。ですから、
江戸の隠居たちは、現役時代よりもはるかに頑張って、
歴史に残る仕事をした人が多いんです。

例えば、伊能忠敬は49歳で隠居した後、千葉から江戸に出て晩学で測量を学び、
日本各地を歩いて72歳まで測量を続け、「日本全図」を完成させています。
また、浮世絵師の葛飾北斎は90歳まで生きて亡くなりましたが、
最期の言葉が、「あと5年生きられたら、真の画工になれたのに」だったそうです。

伊能忠敬
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この他、長生きした人では、読本作家の滝沢馬琴が82歳、
医師・蘭学者で『解体新書』を翻訳して名を上げた杉田玄白が85歳、
『養生訓』で有名な儒学者の貝原益軒も85歳。
益軒なんかは、今でいう健康法の元祖みたいな人ですが、
自分が書いた「腹八分目」などの訓戒を、しっかり守っていたんでしょうね。

貝原益軒
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また、彼ら隠居は、年取っても子どもの世話になることを潔しとしませんでした。
『翁草』という、200巻を超える膨大な随筆を、京都町奉行所を引退してから
書いた神沢杜口という人は、89歳まで生きましたが、
子どもたちと同居することはせず、雑踏の中でひとり暮らすのを楽しみました。
孤独死なんて怖れてはいなかったんですね。

さてさて、年金の支払いが基本65歳からとなり、その分、再雇用や、
定年延長の話が出てきています。ですが、日本人男性の健康寿命って
72歳くらいなんですね。65歳で定年して、あと7年しかありません。
自分は自由業なので まあ関係ないですが、みなさん、65歳まで働きたいですか?
このあたりのことも、江戸時代から何か学べるんじゃないかという気がします。
では、今回はこのへんで。

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