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田道間守の話

2019.10.10 (Thu)
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今回はこういうお題でいきます。科学ニュースを見たら、
日本人のリチウムイオン電池開発によるノーベル化学賞受賞の話で
もちきりですね。吉野彰さん、おめでとうございます。
ただまあ、このことはみなさんご存知でしょうから、
歴史の話を取り上げることにしました。

さて、田道間守(タジマモリ)は、記紀のどちらにも登場する人物で、
垂仁天皇の臣です。垂仁天皇は崇神天皇の子で第11代の天皇ですが、
実在性ははっきりしません。『日本書紀』には140歳で亡くなった
(『古事記』だと153歳)と出てきますので、怪しさ爆発なんですが、
垂仁天皇陵(宝来山古墳)とされる227mの大型前方後円墳はあります。

橘の実
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もし実在していたとすると、3世紀後半から4世紀にかけての治世と
考えられています。この垂仁天皇の晩年の即位90年、天皇は
田道間守を常世国へ遣わして、食べると不死になる非時香菓を
探させます。田道間守は苦難の末にこれを持ち帰りますが、

そのときすでに天皇は亡くなっていました。これを知った田道間守は
嘆き悲しみ、半分を大后に捧げ、半分を天皇の陵の前に持っていき、
そこに供えて死んだとされます。『日本書紀』には自殺と書かれていますが、
『古事記』には死因はありません。まあねえ、これを読むかぎり、
神話伝承の類としか言いようがないですよね。

田道間守は、天日槍(アメノヒボコ)の四世孫で、天日槍は
朝鮮半島から渡ってきた新羅系の渡来人とされています。このあたり、
何か意味がありそうな気もしますが、よくわかりません。
上記のエピソードから、田道間守は忠臣の鏡とされ、
国民学校の唱歌にも歌われています。

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さて、どっから話していきましょうか。まず、田道間守が行った
「常世国(とこよのくに)」とは何か。これは日本神話に出てくる異界で、
海の彼方にある理想郷みたいな書かれ方をしており、この話のように
不老不死と結びつけて語られることが多いですね。また、神々がいる
天界である「高天原」とは違うようです。

「不老不死の秘薬を求めて人を派遣する」という話の構造は、
秦の始皇帝と徐福の話と似ています。ですから、これを中国系の
神話とみる説もありますし、また、南方系の話という説もあるんですが、
どっちとも定めがたいですね。複合的なものかもしれません。

田道間守の陪冢とされる土盛、整備されているのがわかります 後ろは宝来山古墳
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次に、「非時香菓(ときじくのかくのみ)」とは何か。これは『日本書紀』に
橘(タチバナ)と出ていて、この話がもとになって、天皇家では
橘の木が尊重されるようになったと言われます。ただ、橘だとすれば
いろいろ不自然ですよね。おそらく橘は日本に自生していたと考えられ、
わざわざ探しに行く必然性がない気がします。

それと、橘の実はミカンに似てるんですが、そのまま食べるには
酸っぱすぎます。ですから、現在知られている橘とは違うんじゃないか
という説も昔からあります。中には、バナナだったという話まで
あるんですね。うーん、バナナだと南方系ですか。

さて、この田道間守、じつは『三国志』魏志倭人伝に登場する「難升米」
ではないかとする説があります。「難升米」は邪馬台国の女王卑弥呼が
魏に派遣した人物で、便宜的に「なんしょうまい」とか「なしめ」
などと読まれています。戦前の東洋史学者、内藤湖南が最初に
唱えたんだと思います。ちなみに湖南は邪馬台国畿内説です。

中国皇帝の会見
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難升米は、238年(239年説あり)、卑弥呼の遣いとして大陸に渡り、
朝鮮半島から魏の都、洛陽まで行って明帝と会見、卑弥呼への制書を
授けられます。難升米は何度か倭地と大陸を往復していたようで、
245年、魏から「黄幢 こうとん・こうどう」を授けられます。

これは戦いの目印になる「はたぼこ」のことで、黄色は魏王朝を表す色です。
陰陽五行説では、赤(火)の次が黄色(土)で、漢王朝が赤、
その次の王朝は黄がイメージカラーになるんですね。
「黄巾の乱」もここからきています。魏の最初の元号は「黄初」です。
黄幢を立てた軍は、魏の支配下にあることになります。

陰陽五行説の概念図
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この難升米が黄幢を受けた話が、長い年月の間に田道間守の逸話に
変化した・・・うーん、何とも評価のしようがないですよね。
根拠が出せるような話ではありません。ただ、もし田道間守が難升米で、
非時香菓が黄幢なのだとしたら、それは奈良県天理市柳本町にある
黒塚古墳で発見されているのかもしれません。

自分は邪馬台国畿内説で、黒塚古墳で出土した用途不明のU字型鉄製品は、
黄幢ではないかと考えています。これについては一本記事を書いてますので
くり返しませんが、興味を持たれた方はぜひ参照されてください。
ただ、黒塚古墳と宝来山古墳はけっこう離れてますし、
そもそも垂仁天皇は卑弥呼ではありませんね。

関連記事 『黒塚古墳のU字型鉄製品』

黄幢はおそらくこういうもの
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ちなみに、田道間守の墓とされるものは、宝来山古墳の周濠内の小島で、
発掘調査はされてないので、はっきりしたことはわかりません。
この近くに、奈良時代に左大臣まで昇った橘諸兄の塚があったとする
話もあり、それと何か関係があるのかもしれません。

さてさて、ということで、忠臣の鏡であるとともに謎の人、
田道間守について見てきましたが、古代は果物が菓子に通じるところから
現在は菓子の神・菓祖としても信仰され、各地の菓祖神社に
祀られているようです。では、今回はこのへんで。

京都 吉田神社の摂社 菓祖神社 御祭神は田道間守他
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心霊スポットと「愛」の人

2019.10.06 (Sun)
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今回はこういうお題でいきます。ひさびさに「怖い日本史」の話題ですが、
最近あんまり歴史の話を書いてないのは、どうも人気がないんですよね。
今回はどうでしょうか。さて、本項で取り上げるのは、
関東でも指折りの心霊スポットとして知られる「八王子城址」です。

現在の東京都八王子市にあり、交通の便は悪くないので、
もしかしたらみなさんの中にも行かれた方がおられるかもしれません。
八王子城は、北条氏康の三男・氏照が1571年頃に築き、
堅牢な山城として知られていました。それがどうして心霊スポットに
なったのか。これは有名な話ですね。

開放された城址公園ですので夜も入れますが、探索の体験談として、
誰もいないはずなのに人の気配がする、赤い光の玉が飛んでいる、
などの報告が上がっています。城主の居住地であった御主殿近くの
滝では自害した子女のうめき声が聞こえ、観音堂には、
武士とその妻女たちの幽霊が出現するとも言われます。

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さて、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、関東の覇者
北条氏を攻め滅ぼすことを決意します。1590年の小田原征伐です。
秀吉は全国の大名に号令をかけ、部隊を大きく2つに分けます。
家康と西国大名による主力部隊と、前田利家を大将とする北国部隊。

北国部隊は、前田軍1万8千、上杉軍1万、真田軍3千など、
総勢3万5千を超える大軍だったと見られています。
これに八王子城が攻められたわけです。当時、城主の氏照らは
小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代とわずかの将兵、
付近から集めた農民など3千人ほどが立て籠もったようです。

北条氏直
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これは圧倒的な兵力差ですよね。のみ込まれるのは時間の問題でした。
戦国時代の籠城戦は、城主が降伏し切腹などの処分を受け入れれば
城兵は許されることが多かったんですが、八王子城合戦は
殲滅戦となります。どうしてそうなったかの理由は、
おいおい述べていきたいと思います。

さて、ここからの話は半分伝説ですので、そのつもりでお読みください。
八王子城で捕らえられた者は、兵士だけでなく婦女子までもが
首を斬られたと言われます。夫や息子などが小田原本城に出向いている
家族が多かったんですね。ですから、小田原城前に運んで首を晒せば、
北条側の戦意が削がれ、士気が下がります。

そのため、どうせ助からないのなら見せしめにはなりたくないと、
婦女子はこぞって自ら喉を短刀で突き、御主殿前の滝に身を投げたと
されます。その数、数百から千人、そのため、滝から流れる川は
彼女達の血で三日三晩赤く染まった・・・まあ、伝説なんですが、
これに近いことはあったんだろうと思います。

御主殿の滝 意外にちゃちい
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麓の村では、その川の水で米を炊けば、うっすら赤く染まるほどで
あったと伝えられ、それが元になって、現在でもその地域では
供養のために「あかまんま 赤飯」を炊いて供えるということです。
そして八王子城址は怨霊の地となったわけですが、では、八王子城の
攻め手の将は誰かというと、上杉軍の直江兼続なんですね。

直江兼続は戦国武将としては近年、たいへんに人気がありますよね。   
米沢藩上杉景勝の家老であり、独立した大名ではないのに
この人気は異例なんですが、これはおそらく、原哲夫氏の漫画
『花の慶次』など、いろんな作品で取り上げられていることが
大きいんだろうと思います。

それと、下図の「愛」を象った前立の兜の印象もあるでしょうか。
では、兼続はどうしてそんな残虐な戦いを行ったのか。
これは兼続と秀吉との深い関係が関わっているものと思われます。
1588年、上杉景勝に従って上洛した兼続は、陪臣であるにも
かかわらず、秀吉と面会して豊臣の姓と従五位下の位を授けられます。

兼続の兜
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秀吉は兼続をたいへん気に入っており、景勝の下から離れて秀吉直属の
仕官を打診しましたが、兼続は角が立たないよう、これをやんわりと
断ってるんです。また、このとき兼続は、将来呼応して関ケ原の戦いを
起こすことになる石田三成とも会っています。

八王子城合戦の話に戻って、北国部隊は埼玉の鉢形城攻略に
大苦戦します。徳川軍から援軍に出た本多忠勝らの助けを借りて
なんとか落城させるものの、手間取ったため、兼続は秀吉から
厳しい叱責を受けてるんです。そして、その次が八王子城でした。

直江兼続
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小田原征伐は最終的に、小田原城が開城し、北条氏政、氏照らが秀吉に
切腹を命じられて終わりを迎えます。当主の氏直は助命されました。
余談ですが「小田原評定」という慣用句は、このときの北条氏
における重臣会議のことで、現在では「いつになっても
結論の出ない会議や相談」という意味で使われています。

この後の八王子城は、家康によって廃城とされたものの、徳川幕府の
直轄地として明治維新まで立入禁止にしていたため、比較的遺構が
よく残っています。麓には2012年にに完成した八王子城
ガイダンス施設があり、展示解説スペースのほか、休憩、
レクチャースペースなどがあります。

さてさて、ということで、義の人、愛の人などと言われる直江兼続
ですが、戦国武将の一人であり、戦いにおいては非情に
行動するのは当然でした。でもさすがに、戦いから400年以上も
たった後、ここが心霊スポット化するとは思いもよらなかった
でしょうね。では、今回はこのへんで。

八王子城址で撮られたとされる心霊画像
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江戸の糞尿事情

2019.08.23 (Fri)


今回はこういうお題でいきます。カテゴリは日本史ですね。汚い話に
なりますので、苦手な方はスルーされてください。さて、かっぽれ節に
こういうのがあります。「♪沖の暗いに白帆が見える」、この後は
「あれは紀の国みかん船~」と続いて、豪商、紀伊国屋文左衛門が嵐の海に
船を出し、みかんを運んで財をなしたときのエピソードが歌われています。

で、これをもじった江戸小咄があるんですね。ある客が吉原へ行って
遊女と同衾した朝方、その遊女が布団の中でオナラをしてしまって臭い。
客は寝ているようだが、気づかれないように臭いを逃がそうと、
足袋をはいた足で布団の裾を持ち上げた。

すると、寝ていると思っていた客が目を開けてそれを見ていたので、
困った遊女は照れかくしに、「♪沖の暗いに白帆が見える」と歌います。
足袋を白帆に見立てたわけですが、すぐさま客のほうが、
「ほんに肥桶(こえたご)積んだのが」と返すんです。
臭いですが、なかなか粋な話だと思います。

江戸時代の汚穢舟と肥桶
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さて、糞尿を入れた桶が肥桶で、どうしてわざわざ舟に積んでいるかと
いうと、これは肥料にするために近郊の農地に運ぶんですね。
江戸時代には、紙、金属、布などすべてのものが
徹底的にリサイクルされていたのはご存知だと思います。

例えば着物は、ぼろぼろになって着られなくなると、赤ん坊のおむつや
雑巾にしました。それにも使えなくなると、細く切って編み、
下駄の鼻緒や紐にし、その後も捨てることはせず、
焼いて灰にして、回ってくる灰の回収業者に売りました。

糞尿もまた例外ではなく、ほぼすべてが回収されていたんです。
江戸の人口は、当時としては世界トップレベルで、
大量の糞尿が出ていました。ヨーロッパでは、これが道にまき散らされ
たので、それをよけるためにハイヒールができたなどと言われますが、

長屋の共同便所
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日本では、完全に回収され、主に野菜栽培の肥料として使われました。
現在、有機栽培の無農薬野菜は高価ですが、昔はそれが普通だったんです。
農業に使われていた肥料は、干鰯(ほしか)、油粕(あぶらかす)、
下肥(しもごえ)の3種が金肥と言われ、その中で下肥(人糞)は
安価で肥料分が多かったので、農家に人気がありました。

江戸初期の農学者、宮崎安貞の『農業全書』には、「草肥を細かく切った
ものに下肥をかけ、天日乾燥させたものを畑に用いる」とあり、
発酵させて使っていたんですね。自分は茨城出身で、昔はそこらに
肥溜があり、冬になって凍ると上に乗ったりしていたなんて話を
聞きましたが、さすがに実際に見たことはありません。

宮崎安貞
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で、この下肥、厳密なランクづけがあったんです。もっとも上等で、
高値で取引されたのが「勤番」、これは大名屋敷などから出たもの。
次が「町肥」、江戸市中の長屋など町人のものです。3番めが
「辻肥」といって、四つ辻などに設置された公衆トイレからのもの。
最も下等が「お屋敷」、牢屋敷から出たものです。

もちろんこのさらに上に、江戸城から出たものがあり、葛西出身の農民、
権四郎という人物がそれに目をつけ、「江戸城御用下掃除人」の役を
いただいて独占し、舟でお堀を経由して江戸近郊の農村に運んで
大きな財をなしたということです。ちなみに、「勤番」の値段は、
「町肥」の5倍程度とされていました。

やはり、食べているものが武士と町人では違うんでしょうね。
町肥の値段は大人1人の1年分が、時期によっても違いますが
だいたい二分くらいで、これは一両の4分の1にあたり、
現在のお金にして5万円以上にはなると思います。

肥取り屋には女性もいた
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さて、「肥取りへ 尻が増えたと 大家言い」という川柳があります。
長屋の住人が共同便所で出した下肥は、肥取りと呼ばれる
専門業者が取りに来て、ついでに掃除もしていくんですが、
その支払はすべて長屋の大家がもらう決まりになっていました。

ですから、もしその長屋に10人が住んでいたとすると、50万円の
収入になります。江戸時代の大家は、その長屋の持ち主ではなく
地主から給料で雇われた者ですので、貴重な現金収入になりました。
「店中(たなじゅう)の 尻で大家は 餅をつき」意味はわかりますよね。
長屋の店子の肥を売ったお金が、正月の餅代になるということです。

ただし、大家は正月は店子の面々に餅を配らなくてはなりませんでした。
「とんだ 可愛お供え 大家くれ」長屋の家々に大家が餅を配ったが、
金がなかったせいで小さいものになってしまったという意味でしょう。
落語では「大家といえば親も同然」というセリフが出てきますし、
そんな感じで、何くれとなく住人の世話を焼いていたんです。

江戸の長屋の構造
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さてさて、最初の話に戻って、隅田川などから張り巡らされた運河には、
肥桶を乗せた舟がつねに行き来していて、「汚穢舟(おわいぶね)」
と呼ばれていましたが、さすがに汚い名前なので、
いつしか権四郎の出身地からとって「葛西舟」と呼ばれるようになり、
遊女が白足袋を立てて布団を持ち上げるところへ つながっていきます。

ということで、江戸の町には上水道はありましたが、さすがに下水までは
整備されておらず、そのかわりに完璧な回収システムができあがっていました。
いろいろ調べてみるとわかるんですが、このことだけでなく、
江戸の暮らしは、世界の同時期の他の都市と比較して、
先進的な部分が多かったんですね。では、今回はこのへんで。

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玄昉の首が飛ぶ話

2019.07.28 (Sun)
今回はこういうお題でいきます。ただこれ、かなり地味な日本史の話で、
人間関係も入り組んでいるので、なるべくわかりやすく書きますが、
興味がある方以外はスルーされたほうがいいかもしれません。
さて、玄昉という人物、みなさんご存知でしょうか。「げんぼう」と読みます。
奈良時代の遣唐使僧で、きわめて優秀な人だったと考えられます。

玄昉の像
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どのくらいかというと、唐の都長安で17年間法相学を学びましたが、
その間、ときの玄宗皇帝から紫の袈裟を賜っているほどです。
日本に帰国するときも、中国に残るよう引きとめられました。
占いで、日本に帰国すると悪いことが起きると出たんですね。
当時の遣唐使船は航海時に難破することも多く、命がけでした。

玄昉は5000巻以上の経典をたずさえて船に乗り、やはり船団は
嵐で遭難したんですが、玄昉と同僚の吉備真備が乗っていた船だけが
種子島に流れ着いて助かっています。これは船の中で玄昉がずっと
「海竜王経」を唱えていたため、仏の加護があったからとされます。
こうして、玄昉が大宰府をへて奈良の都へ帰京したのが735年。

吉備真備
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さて、日本で首が宙を飛んだ人物といえば、平将門が有名ですね。
関東で謀反を起こしたものの討伐され、その首は京都で獄門に
さらされましたが、毎日のように「関東へ戻ってもう一戦やる」と
吠えたて、ついには空を飛んで関東をめざし、その途中で力つきて
落ちた場所が今の首塚である・・・ということになっています。

もちろんこれは伝説ですが、玄昉の首もまた空を飛んだ伝説が残って
るんです。ただ、将門の話と違うのは、将門が自分自身が
怨霊となったのに対し、玄昉の場合は、怨霊によって体をつかみあげられ、
後日、首だけが興福寺に落ちてきたことになっているところです。



これは、正史である『続日本紀』に出てきますので、亡くなった当時から
怨霊のために殺されたと信じられていたことがわかります。
この詳細については、『平家物語』 『今昔物語』などにも出てきますね。
では、玄昉はいったい誰の怨霊に殺されたかというと、
藤原広嗣(ひろつぐ)という人物と信じられました。

怨霊となった藤原広嗣
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さて、ここで少し当時の時代背景をふり返ってみましょう。
まず、藤原氏はご存知でしょう。天智天皇とともに「乙巳の変」を起こした
中臣鎌足が、死の直前に天皇より藤原朝臣姓を与えられ、
代々受けつがれて名門氏族となりました。摂関政治の時代に、
藤原道長が「この世をば我が世とぞ思ふ望月の」と詠んだのは有名です。

ただ、この奈良時代、藤原氏は存亡の危機を迎えています。
鎌足の子が藤原不比等、さらにその子に、藤原4兄弟と言われる、
武智麻呂・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂がいます。
この4人は協力して、大きな権勢を持った皇族、長屋王の屋敷を包囲し
自害に追い込みました。729年の「長屋王の変」ですね。

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その後、藤原4兄弟はそれぞれ高い位に昇り、政治を行ったわけですが、
737年、4人ともが疫病で急死してしまいます。この死は都の人々に、
長屋王の祟りであると噂されました。疫病は天然痘で、735年から
日本で大流行していました。大仏開眼を行った聖武天皇の御代のことです。

聖武天皇
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この735年は大凶作もあり、日本中でおびただしい数の人々が死に、
国が滅ぶのではないかと言われたほどだったんです。
朝廷も疫病の害をまぬがれることができず、藤原4兄弟をはじめ、
たくさんの官人を失ったため、押し出される形で、橘諸兄(もろえ)
という人物が右大臣となって政権の中枢を握りました。

で、橘諸兄が登用したのが、遣唐使帰りの玄昉と吉備真備でした。
どちらも当時世界の最先端であった唐で学んだ知識を身につけ、
吉備真備は日本に陰陽道を持ち帰ったと言われますし、
また、玄昉も不可思議な術を使う、一種の超能力者と見られました。

橘諸兄
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さて、これに危機感を持ったのが、4兄弟の一人、藤原宇合の子である
藤原広嗣です。740年、広嗣は、大災厄の元凶は吉備真備と僧正・玄昉
のせいであるとして、二人を追放すべきとの上奏文を聖武天皇に
送りますが、橘諸兄はこれを謀反とみなします。

大宰少弐に左遷されていた広嗣は、隼人などの九州勢力1万人以上を集め、
大反乱を起こします。「藤原広嗣の乱」です。しかし、広嗣は敗れ、
五島列島まで敗走して、そこで処刑されます。一方、玄昉のほうですが、
聖武天皇が亡くなり、武智麻呂の子、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、
橘諸兄は権勢を失い、玄昉もまた筑紫の観世音寺別当に左遷されます。

そうして、観世音寺が完成した供養の場で、玄昉が経を唱えていると
突然空がかき曇り、大きな鬼の腕が現れて玄昉をつかみあげて消えました。
玄昉の手足と胴体はその場に落ち、首だけが1年後に、
奈良の興福寺の南大門にぽとりと落ちてきたとされ、
その地には、玄昉の頭塔(ずとう)がつくられたということです。

玄昉の頭塔とされる建造物  ピラミッドのようですが、国家鎮護を願ったインド式仏塔と思われます
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人々は当然ながら、これは藤原広嗣の怨霊の祟りであると噂し、
広嗣の怨霊を鎮めるため、唐津に鏡神社が創建されます。
また、吉備真備も陰陽道で広嗣の霊を供養することになります。
長い物語になりましたが、やっと終わりが見えてきたようです。

さてさて、では玄昉について、どうしてこういった伝説ができたのか。
藤原4兄弟の命を奪った天然痘の大流行ですが、始まったのは玄昉が
帰国した735年からです。おそらく、玄昉らが天然痘を持ち込み、
大災害となったことを当時の人は疑っていたのではないかと思います。

これが、恐ろしい伝説が残った一因なんだろうと自分は考えてるんです。
また、わざわざ九州に左遷させられた玄昉は、現地で、
広嗣の残党に殺された可能性も考えるべきなのかもしれません。
ということで、今回はこのへんで。

藤原広嗣の怨霊を祀る唐津の鏡神社 広嗣の首から噴き出した血が
赤い鏡に見えたのでこの名がついたと伝承されます

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関連記事 『野馬台詩と足利義満』 『将門の首』




日本の拷問あれこれ

2019.07.05 (Fri)
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中世ヨーロッパの大量の水を飲ませる拷問

今回はこういうお題でいきます。わりとオカルトブログらしいテーマです。
さて、拷問と一口に言っても、きちんとした定義ってないんですね。
ネット辞書では、「被害者の身体及び精神的自由を奪い、加害者側の要求を
飲ませるために行われる行動の事を指す」みたいな形で書かれています。

大きく3つほどに分かれるのかなと思います。まず一つ目は犯罪としての拷問、
これはもちろん、拷問をするほうが犯罪者です。快楽殺人とか、隠した金の
ありかを吐かせるなど、さまざまな目的で行われるもの。
2つ目は刑罰としての拷問です。体罰と言ったほうがいいのかもしれません。
これが記録に表れるのは奈良時代ころからです。

3つ目は、まだ罪が確定していない者に対して、自白をさせる目的で
行われるものです。一般的には、これをさして拷問と言われる場合が
多いでしょう。現代では、裁判で刑が確定してない者は、容疑者ではあっても
拷問で自白を強要されることはありません。ただ、そうなったのは
日本の歴史全体から見ればごく最近の話なんですよね。

「盟神探湯」現代のものは安全です
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さて、拷問は古代からあったと思われますが、古代の文献には、
占いで罪を決めていたという記述も出てきます。『三国志』魏志倭人伝には
「骨を焼いてさまざまなことを占う」とあります。もしかしたら、
罪があるかどうかを占いで決めていたのかもしれません。

『日本書紀』には、「盟神探湯 くがたち」ということが行われていた
記述があります。これは一種の神明裁判で、容疑者に、神に潔白を誓わせた後、
探湯瓮(くかへ)という釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、
正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされます。
つまり、形式上、審判をするのは人ではなく神なんです。

また、壺の中に毒蛇を入れ、そこに手を突っ込むという形式もあったようです。
ただまあ、普通は火傷しますよねえ。有罪率は高かったんじゃないかと
思います。盟神探湯のことは『隋書』倭国伝にも出てきます。
さて、701年とされる「大宝律令」には、

罪の疑いが濃厚なのに自白しない者に対して「訊杖 じんじょう」という杖で、
背中15回、尻15打つと出てきます。それで自白しない場合、
20日以上間隔をおいてまた実施されました。これは、皇族や朝廷の役人、
16歳以下、70歳以上の子どもや老人、妊娠した女性は免除されていました。
それなりの配慮があったようですが、中国の法令を参考にしています。

司馬遷
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その後の、757年の「養老律令」では、死罪・流罪・笞打(むちうち)・
杖打・徒罪(強制労働)が定められています。これは刑罰としての拷問です。
興味深いのは贖銅(しょくどう)という制度があったことです。決められた
量の銅を朝廷に納めることで刑罰を免じられ、死罪についても行われました。

これも中国由来でしょう。余談になりますが、『史記』を著したことで知られる
司馬遷は、漢の武帝の怒りを買って宮刑(宦官にされる刑)を受けています。
一定の金銭を支払えば許されることになっていたはずですが、
それができなかったようです。このため司馬遷は子孫を残せず、
そのかわりに大著の歴史書を残したわけです。

もう一つ余談、日本では、810年の薬子の変の後、1156年の保元の乱まで、  
約350年間、死刑が実施されていません。死刑判決があっても、天皇が減刑
したりしてたんですね。これは仏教の殺生戒の影響や、
怨霊化を怖れたためと言われます。ただし、地方では死刑はふつうにありました。

江戸時代の「鋸挽」
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さて、史上最も知られているのは、江戸時代の被疑者に対する拷問でしょう。
笞打・石抱(いしだき)・海老責(えびぜめ)・釣責(つるしぜめ)
がありました。正確には、前の3つは責問(せめどい)、
釣責だけが拷問として区別されていました。例えば石抱は、罪人を三角材を
並べた真木という板に正座させ、ヒザの上に石を乗せていきますが、

1枚が50kg、最高は10枚(500kg!)でしたが、普通は5枚も積めば
気絶するので、その場合はまた日を改めて白状するまで行われました。
罪が許された場合も、石抱によって体に障害が残る者も多かったようです。
海老責は、あぐらをかいた状態で両足首を縛りアゴの高さまで引き上げる。
釣責は、両手を後ろで縛って吊り上げるというものです。

こう書くと残酷なようですが、これらはかなりの状況証拠があっても自白しない
者に対して行われたので、意外に冤罪は多くはなかったと考えられます。
それと、目的はあくまで自白させることなので、牢内には医者が用意され、
何かあれば手当を行い、責の後には気つけ薬が与えられました。

同じく「石抱」
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白状しないまま容疑者を死なせてしまうと、立会の与力の責任ではありますが、
それで罰せられることはなかったようです。罪が確定してからの刑は
ほとんどが斬首で、大きな苦痛は感じなかったと思いますが、
放火犯は市中引き廻しの上、火あぶり。主殺しなどは鋸挽(のこぎりびき)。
これは復讐系で、首だけだして土に埋めた罪人の横に切れない竹鋸を準備し、

被害者親族や通行人の希望者に挽かせます。
希望する者はほとんどいなかったようで、その後、槍で突き殺されました。
刑罰は見せしめの意味があり、江戸市民に一般公開されました。
その効果のほどははっきりわかりませんが、川柳には「十両盗めば首が飛ぶ」
みたいに出てきますので、刑法がよく周知されていたのは確かです。

さてさて、ということで、日本の歴史上の拷問について簡単に見てきました。
現在は、拷問等禁止条約もあり、公的に拷問を行っている国は多くないでしょうが、
イスラム教国には石打の刑があり、いまだににこの処刑方法を採用している地域も
存在します。残酷ですが、宗教的伝統と言えばそうなのでしょうし、
なかなか難しいところですね。では、今回はこのへんで。

イスラムの石打
sssd (5)