『日本書紀』の中の爆弾

2018.01.26 (Fri)
武烈天皇


変な題名だと思われますでしょうが、『日本書紀』のあちこちには爆弾が
埋め込まれてるんです。そこを突っ込んで研究すると、
爆発してすべてが崩壊してしまう破壊兵器です。その中でも最大のものが、
武烈天皇の存在だと自分は考えます。

日本の古代史で、武烈天皇の詳しい研究ってとても少ないんですよね。
武烈天皇の次代は継体天皇で、その研究がたくさんあるのと対照的です。
なぜ研究が少ないかというと、歴史学者のみなさんは意識的、あるいは無意識に、
武烈天皇の存在が爆弾だということを知ってるんだと思います。
それで嫌がってるというか、怖がってるというか。

武烈天皇は第25代天皇、名前は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)。
年代ははっきりとはわかりませんが、次代の継体天皇の治世、
西暦527年に九州で磐井の乱が起きていることを考えれば、
実在するとすると、だいたい500年前後の頃の人だと思われます。
あと、武烈天皇の陵墓は「傍丘磐坏丘北陵」ですが、グーグルアースで見ると、
前方後円形などの古墳ではなく、自然の山のような形をしていますね。

では、日本書紀で武烈天皇がどう書かれているか見てみましょう。
「長好刑理 法令分明 日晏坐朝 幽枉必達 斷獄得情 又 頻造諸惡 不修一善
凡諸酷刑 無不親覽 国內居人 咸皆震怖」

これ、すごい文章です。訳すと「成長すると裁判を好み、法律をよく知っていて、
一日中座って政務を行い、無実の罪は必ず見つけ出すなど、裁判の審理は見事だった。」
ここまで読むかぎりは、司法に明るい立派な天皇のようですが、さらに続けて、
「いろいろな悪事をしきりになさり、良いことは一つもしなかった。
あらゆる残酷な刑罰を行い、すべて自分で確認した。人々はみな天皇を震え恐れた。」
前半の文章と対立するような内容が後半で出てきます。

ただこれ、中国においては、帝王は「徳」(道徳)によって世を治めるという
儒教的な考え方が主流でした。法は、あくまで徳を補助するためのものだったんです。
ですから、法治は徳治よりもレベルが下と見られましたし、
中国歴代皇帝の中で、法で国民を縛った人物の評価は低いんですね。
『日本書紀』は、これを踏襲しているとも考えられます。

では、どんな悪事を武烈天皇は働いたんでしょうか。
・妊婦の腹を生きたまま裂いて、その赤子を見た。・人の生爪をはいで、芋を掘らせた。
・人の頭髪を抜き、木に登らせてその木を切り倒し、落下させて殺した。
・人を池の樋に入れ、外に流れ出てきたところを矛で刺した。
・女を裸にして馬の交合を見せ、陰部の濡れた者は殺し、そうでない者は奴隷にした。
まあこんな感じです。この部分は「暴虐記事」といって、あまりな内容のため、
戦前の『日本書紀』からはカットされていたという話もあります。

さて、前後の記述から、武烈天皇は若くして亡くなった思われ、
子どもがいませんでした。また男子の近親者も周囲にいなかったことになっています。
後継の天皇に困った群臣は、すったもんだの末に、遠く離れた越前の国から
第15代応神天皇の5世の子孫を探し出してきて、次の天皇になるよう要請しました。
それが継体天皇です。継体というのはずっと後代につけられた諡(おくりな)ですが、
「系統を受け継ぐ」といった意味を持っています。

この『日本書紀』の部分は、中国の王朝交代時の記述によく似ていると言われます。
例えば古代中国で、殷(商)から周に代わるときの殷の王は紂(ちゅう)でした。
『史記』には、紂王が愛姫である妲己の歓心を買うため、
毎日、酒池肉林の宴会を催し、炮烙(ほうらく)の刑などの残虐な刑罰を行い、
妊婦の腹を裂いて胎児を見たり、気まぐれで老人の脚を切って骨を調べた、
などといったことも書かれています。そのため、
殷は天から見放されて、周による易姓革命が起こったわけです。

殷(商)の紂王と妲己
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つまり、上記の暴虐記事は、継体天皇の即位を正当化するため、
中国の故事にならってわざと書かれたものではないか、
という疑惑があるんですね。
まあ、そうなのかもしれません。ちなみに『古事記』の武烈天皇の記事は
わずか一行程度で、子どもいないという他に何も書かれていません。

さて、本項の目的は、武烈ー継体の間で王朝交代が起きたかどうかを明らかに
することではなく、『日本書紀』の信憑性を問題視しているんです。
武烈天皇の存在については、次の3つの場合が考えられます。
① 『日本書紀』の武烈天皇の記事はすべて史実である。
② 武烈天皇は架空の存在で、そういう人物はいなかった。
③ 武烈天皇のモデルになる人はいたが、暴虐記事は架空の内容である。

これ、『日本書紀』に書かれている内容をすべて史実とする立場の
研究者には、②でも③でも困りますよね。
だって日本書紀は嘘を書いていることになるわけですから。
②で、武烈天皇がいなかったとすれば、
その父の仁賢天皇の存在も怪しくなります。

天皇の系譜は万世一系でつながっているので、どっか一人でも架空の存在だと
全体が疑われてしまいかねません。③でも同じです。
この部分は信じ難い内容だから架空の記事だろう・・・しかし、どの部分が架空で、
どの部分が事実であるかを仕分ける根拠なんてないですよね。

ですから、戦前は武烈天皇の研究は不敬にあたるとされて進みませんでしたし、
戦後は、上記のようなことから、
あえて触れようとする研究者は多くなかったんです。
ここに触れるのは不発弾を掘り起こすようなもので、
自分の研究の土台である『日本書紀』の信憑性を問われかねないからです。

さてさて、現在の文献史学では、これらのことを踏まえて、
継体天皇以前の研究はたいへん少なくなってきています。
『日本書紀』の記述を根拠として研究を進めても、その信頼性が担保できない、
という考え方が浸透してきているためだと思われます。

ですが、第21代雄略天皇(大泊瀬幼武 おおはつせ わかたける)のように、
埼玉の稲荷山古墳、熊本の江田船山古墳から、
ともに雄略天皇とも考えられる「ワカタケル」という銘の入った鉄剣が
出土している場合もあります。このように、他の文献や考古学的な裏付けが
できそうな場合にかぎり、研究が進められる状況になってきているんです。

関連記事 『日本書紀成立の3事情』






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「親魏倭王」の周辺

2018.01.23 (Tue)
「親魏倭王」の印影(ただしニセモノ)


今回はまた邪馬台国関連の話ですが、位置論争についてではありません。
ただ、少し専門的な内容なので、興味のない方はスルーがいいかもしれません。
さて、「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼は魏の明帝(第2代皇帝 曹叡 そうえい)から、
西暦238年(239年説もある)金印紫綬を与えられたことになっています。
「制詔 親魏倭王卑弥呼・・・今以汝為親魏倭王 假金印紫綬・・・」

この部分は、皇帝が卑弥呼に与えた制書の全文を引用しているものですが、
ここから、卑弥呼がもらった金印の印面には「親魏倭王」
という文字が彫られていたと推定されています。
「親魏倭王」は魏側からみた卑弥呼の称号です。

文としてみれば「魏と友好関係にある倭国の王」くらいの意味で、
これは、かなりの厚遇を表しています。
近い時代の印で「漢帰義胡長」(銅印)などというのがありますが、
この意味は「漢の国に帰属した胡人の長」で、
「帰義」は「親」よりはだいぶあつかいが低いと考えてもいいと思います。

印の材質は純度の高い金で、紫のひも(綬)がついていました。これにも段階があり、
『漢書』などによると、材質では上から順に「玉・金・銀・銅」
綬の色は「多色・綟(れい 萌黄)・紫・青・黒・黄」。
ですから、金でできた紫の綬の印というのは、かなり位の高いものなんですね。

また、印の大きさにも段階がありましたし、鈕(ちゅう 印のつまみ)の形も、
皇帝は龍、皇后は虎、諸侯は亀・駱駝。中国以外の国に与えられる場合、
北方は羊・馬、西域は駱駝、南方は蛇、東方は亀、
というような細かい決まりがありました。九州で発見された「漢委奴国王」印は、
蛇(螭 みずち)鈕になってますので、当時の中国には、
倭国は南方であるという認識があったのかもしれません。

「漢委奴国王」印


ちなみに、‌印の名称は「璽、章、印」の順。「玉璽(ぎょくじ)」は、
本来は中国皇帝の用いる玉製(主にヒスイ)の璽を指しますが、
とはいえ、後代には日本の天皇の印にも璽という語が独自に使用されました。
漢代には、北方の匈奴に対して「匈奴単于璽(きょうどぜんうのじ)」
が与えられています。これなどは、ほぼ中国皇帝と同格のもので、
いかに当時の匈奴が中国を悩ませていたかがわかります。

さて、ではこの金印、いったい何に使われるためのものだったんでしょうか?
一つには、身分証明証としての役割があります。
この印を持つものが倭国の王であることを証明する機能があったんですね。
ですから、あたり前の話ではありますが、
厳重に保管しておかなくてはならないものでした。

『三国志演義』では、董卓に荒らされた洛陽の復旧にあたっていた孫堅は、
城南の井戸の中から伝国の玉璽を発見します。伝国の玉璽は「皇帝の証」です。
この後、この玉璽をめぐって争いが起き、最終的に孫堅の子の孫権が、
呉の国を起こして皇帝に即位することになります。
まあ、これはフィクションなんでしょうが、
印の持つ身分証明証的な役割をよく表している部分だと思います。

さて、金印の実質的な役割は、「封泥(ふうでい)」に押すことにあります。
現在われわれが使っている判子は、字の部分がとび出るように彫られていますが、
卑弥呼の金印は、逆に字の部分が引っ込んでいるものでした。
(「漢委奴国王」印もそうなっています。)

封泥とは粘土のことで、当時は重要な文書(木簡・竹簡)は、
まとめてひもをかけて巻物状(簡冊)にし、その上に粘土を盛って印を押し、
途中で開けられていないことの保証として用いられてました。
やや専門的になりますが、封泥にはただ粘土を盛りつけるものと、
「検」と呼ばれる木片をくくりつけ、そこに粘土を貼りつけたものの2種があり、
後者は証明書としての役割が重視されていたと思われます。

封泥の用い方


さてさて、また長くなってしまいました。では、この卑弥呼の金印、
はたして日本のどこかにあるのでしょうか。
これは、もしかしたら期待が薄いかもしれません。というのは、本来、
この手の印というのは、中国の王朝が代わると返上しなくてはならないものだからです。
上で「匈奴単于璽」の話を出しましたが、中国が前漢から新に代わるとき、
新を立てた王莽が、前の印を返上させ、「璽」を一段低い「章」に変えようとして、
匈奴と大きなトラブルになっているんです。

ですから、自分は「漢委奴国王」印が日本のどこかに残っている可能性は
かなり低いんじゃないかと思います。もちろん、卑弥呼とその後の倭王が返さなかった
ということも考えられなくはありませんが、『晋書』には、
「泰始初遣使重譯入貢」とあり、266年、倭国から晋への朝貢使節が行ってます。

これはおそらく、卑弥呼の後の倭国王、台与による中国王朝交代に対する朝貢でしょう。
とすれば、このときに「親魏倭王」印は返上され、
新たに「親晋倭王」印?をもらった可能性が高いんじゃないかと思うんですね。
ただ、「親晋倭王」印が発見されたとしても、それはそれでスゴイことですし、
邪馬台国の位置論争に与える影響も大きいでしょう。

あとは、上記の封泥ですね。考古学者の中には、魏からきた中国皇帝の封泥
(または「親魏倭王」印の封泥)が見つかれば、そこが邪馬台国である、
という人もいます。封泥は基本的に、卑弥呼がいた場所で開けられたと
考えられますから、残骸が残ってるかもしれません。
でも、どうでしょう。封泥はあくまで粘土ですので、
そのままではどんどん乾燥して風化してしまうでしょうし、
水に浸かると溶けてしまいます。ですので、自分は難しいだろうなあと思いますね。

清の乾隆帝の玉璽(オークションで約25億7千万円で落札 凍石製 鈕は9匹の龍)







疫病神としてのスサノオ

2018.01.18 (Thu)
前回、疫病のことを書きましたので、それに関連のある話ですが、
まだ自分の中でうまく整理できてないので、どこまで書けるか自信がないです。
いろいろ間違った内容があるかもしれません。そのつもりでお読みください。
まず、「疫病神」は(やくびょうがみ)と読んで、現在では、
「やっかいなトラブルを起こす人・嫌われ者」のような意味で使われますが、
元来は「疫病(えきびょう)を司る神」という意味だったんです。

スサノオ(素戔男尊)はみなさんご存知だと思います。日本神話の主役の一人ですよね。
黄泉の国から帰ってきたイザナミが川原で禊をしたさい、
左目からアマテラス、右目からツクヨミ、鼻からスサノオが生まれたとされます。
この後、スサノオは姉のアマテラスとトラブルを起こして、さまざまな乱暴を働き、
アマテラスが天の岩戸に隠れるなどのことがあり、スサノオは高天原を追放されます。
そして出雲の地に来て、ヤマタノオロチを退治することになります。

素盞嗚命


ということで、スサノオは日本初の疫病神・嫌われ者だったんですね。
神話学では、このような存在を、「トリックスター( trickster)」
(神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者。
みなを引っかき回すイタズラ者)と言ったりもします。
北欧神話の火の神、ロキなどが、典型的なトリックスターですね。

さて、『日本書紀』には、スサノオが高天原を追い出されたとき、
最初に朝鮮半島の新羅国の「ソシモリ」という地に降りたものの、
「ここにはいたくない」と言って、出雲の国へ船で渡ったという記述があります。
「 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地 吾不欲居
遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯 」


また、スサノオは仏教における祇園精舎の守護神である「牛頭(ごず)天王」と習合、
同一視され、どちらも疫病を司る神と考えられています。
朝鮮語で「ソシモリ」は牛頭または牛首を意味しているという説があり、
これは上記のスサノオが降り立った地と関連があるようです。
つまり、スサノオも牛頭天王も朝鮮半島に関係している可能性があるわけです。

素盞嗚命と牛頭天王の習合がわかる御札


牛頭天王は生まれたときから巨体で頭に2本の角があり、
女は誰も恐れて近づきませんでした。そのため酒びたりの生活を送っていたので、
公卿たちが天王の気持ちを慰めようと狩りに連れ出しました。
そのとき一羽の鳩が来て「あなたの妻にふさわしい女性がいます」と告げます。

そこで、牛頭天王は妻をめとるための旅に出ました。その途中のある村で、
長者である弟の古単将来(こたんしょうらい)の家によって宿を求めたところ、
ケチな古単はこれを断りました。それに対し、
貧乏な兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は、天王を歓待して宿をかし、
粟飯をふるまいました。蘇民の親切に感じ入った天王は、
願いごとがすべてかなう牛玉を蘇民にさずけ、蘇民は金持ちになりました。

やがて、めでたく妻を得た天王は、自分を冷たくあしらった古単へ復讐しようと
眷属を差し向けました。このため古単とその一族はことごとく殺されましたが、
天王は古単の妻だけを、蘇民将来の娘であるために助命し、
「茅の輪をつくって、赤絹の房を下げ『蘇民将来の子孫なり』との護符をつければ、
末代までも災いを逃れることができる」と、災厄から逃れる方策を教えました。

・・・これが有名な蘇民将来説話です。
この話がもとになって、全国の神社で行われる厄除けの
「茅の輪くぐり」が始まったとされ、「蘇民将来子孫也」という札を玄関に貼ることで、
疫病を始めとする、さまざまな災厄から逃れることができると言われています。

蘇民将来札


さて、この牛頭天王を祀っているのは、京都の八坂神社です。
八坂神社の祭神は、現在ではスサノオとその妻のクシナダヒメですが、
明治の神仏分離以前は、牛頭天王とその妻の頗梨采女 (はりさいにょ)
を祭っていました。ここからも、スサノオと牛頭天王が、
同一視されていたことがわかります。

八坂神社のご利益としては縁結びが有名ですが、疫病除けというのもあります。
八坂神社の年中行事として行われている「祇園祭」は、
もともとは、平安時代に疫病で亡くなった人々の霊をなぐさめるための
御霊会(ごりょうえ)として始まりました。やがて平安末期には、
牛頭天王の霊験で疫病神を鎮め退散させるため、花笠や山鉾を出し、
市中を練り歩いて鎮祭するようになったんです。

京都祇園祭


さてさて、古代において、疫病は海の向こうから来ると考えられていました。
これはたんなる迷信ではなく、朝鮮半島からの渡来人が、
それまで日本にはなかった疫病を持ち込んで流行させたといったケースは、
あってもまったく不思議はないと思います。

そこで、同じく朝鮮半島に由来のある「牛頭天王=スサノオ」が、
疫病神として、それを鎮める力を持っていると考えられたのではないか・・・
というのが、ここまでで自分が考えた結論ですが、あんまり自信はありません。
どうも、もう少し勉強が必要な気がします。いやあ、民俗学は難しい。

最後に、疫病とは関係ないですが、興味深い話題を一つご紹介します。
中国の史書である『後漢書』に「安帝の永初元年(107年)、
倭国王 帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた」という記述があります。
「 安帝永初元年 倭國王帥升等 獻生口百六十人 願請見 」

ここに出てくる「帥升」とは、名前なのか職名なのかもはっきりしませんし、
どう読むのかもわからないんですが、古代史家の一部に、
「帥升王=スサノオ」という説を唱えられる方がいるんですね。
ただ、この真偽については、自分にはさっぱりわかりません。








逆転日本列島はあったか?

2018.01.10 (Wed)


今回も邪馬台国関連の話題です。長くなりそうなので、
興味のない方はスルーをお勧めします。
上掲の図は「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」
と言いまして、1402年に李氏朝鮮で作られた地図(の写本)ですが、
さらにそれを、わかりやすくするために自分が切り抜いてあります。
地図の右、巨大な朝鮮半島の下に描かれているのが日本列島で、
これは行基図と呼ばれる日本で作られた地図が挿入されていると考えられます。

この日本図を見ますと、まず北海道がないですよね。北海道がないのは、
樺太などと同様に、日本の一部と考えられていなかったためでしょうが、
何だか向きが変だと思いませんか。九州島が一番北にあり、
東北地方が南側になっています。向きが90度回転しているわけです。
この事実は学者たちの興味を引き、
邪馬台国の位置をめぐる論争のタネの一つとなってきました。

「魏志倭人伝」によれば、「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」
邪馬台国は北部九州から南に進んだところにあるはずですが、
畿内説の場合、畿内は北部九州からは東の方角になります。
ここで、畿内説をとる学者の中には、古代の中国人には、九州を最北として、
日本列島は南に伸びているという認識があったのではないか、
という説を述べる人がいるんです。

ただし、この「混一疆理歴代国都之図」は他にも写本がありまして、
他の3つには正しい位置の日本列島が描かれています。
上掲のものだけが例外ということです。
「なんだ、じゃあこれだけ何かの理由で間違えてるんだろう」
と思われるかもしれません。まあ、自分もそう思わないこともないんですが、
それとは別に、古代の中国の日本列島の地理認識が
おかしかったのではないかと考えられる点が、いろいろとあるんです。

そのことを明らかにしたのが、京都大学の地理学者・室賀信夫氏でした。
氏は古地図のコレクターでもありまして、中国の古地図を丹念に分析し、
古代中国には九州を最北とする日本の地理観があっただろうと結論づけました。
下の図をごらんください。



これは「古今華夷区域総要図(ここんかいくいきそうようず)」と言われ、
11世紀はじめに宋でつくられた地図とされています。
日本列島は大陸の東に散らばる島々として描かれていて、
北に「倭奴」とあるのがわかります。「倭奴」は後漢に朝貢した「倭の奴国」で、
北部九州の現在の博多周辺と考えられます。
その南に「日本」があり、これは当時平安京があった京都のこと。
さらにその南の「毛人」は「毛野の国」、群馬県と栃木県南部あたりを
指しているかもしれません。また、その南側に「琉球」 「蝦夷」が続いています。

このあたりは中国人の地理観の混乱を物語っているんですが、
北から南に、「九州→近畿→関東→(琉球)→蝦夷(東北)」
となっていることに注目してください。この地図はほんの一例で、
このような地理観で描かれたものはまだ他に何枚もあり、
それらを元にして、室賀氏は、古代中国には九州を北にして、
南に伸びた日本列島の認識があったと結論づけているんです。

自分も論文を読みましたが、室賀氏の論証はたいへん説得力があります。
もし室賀氏の考えが正しいとすれば、魏から邪馬台国へ向かう使者は
南に進んでいって畿内に着いた、という先入観が当時の中国にあった、
ということも考えられなくはないと思います。

さて、北京の中国社会科学院・日本研究所所長に高 洪氏という人がいて、
「邪馬台国の位置めぐる諸問題」という論文を中国語と日本語で出しています。
上の話とは少し違うんですが、この論文の中で高 洪氏は、
邪馬台国は大和であったという結論を述べ、
魏からの使者が方角を間違えたのは、古代の中国には「天円地方」
という宇宙観があったためと説明しているんですね。

「天円地方」とは、地面は平らで四角形をしており、
天空は円形のドーム状とみるような宇宙のとらえ方です。
魏からの使いは、初めて日本の地に来て、天測しながら進んでいったものの、
その宇宙観のために方角を間違えてしまったのだという論旨でした。
ちなみに、自分が知っている中国人歴史学者、考古学者のほとんどが
邪馬台国畿内説をとっています。

さてさて、ここまでは あくまで地理観の問題でしたが、
以下はオカルト的な内容になります。邪馬台国の時代には、
実際に日本列島の向きが今とは違っていた!と主張する人物がいます。
サイエンス・エンターティナーを自称する、超常現象研究家・飛鳥昭雄氏です。

このことは、『邪馬台国の謎と逆転日本列島』
という氏の著書に詳しく書かれていて、
魏使が北部九州に上陸し、そのまま海を南に進んでいくと
大阪湾に着くという話なんですが、みなさん、これどう思われますか?

2000万年前とかの話じゃなく、邪馬台国はわずか1800年ほど昔の国です。
地球物理学的には、そんな短い時間に日本列島の向きがぐるっと変わるなんて
考えられないですよね。いくらなんでもトンデモだと思うんですが、
飛鳥氏がこのような主張をするのは、氏がモルモン教の信徒であるからと
考えられます。モルモン教はキリスト教原理主義の教団です。

モルモン教などのキリスト教原理主義団体で、旧約聖書の記述から、
約6000年前が天地創造と考えられているのは、
前に当ブログで「創造論って何?」という項目で書いたとおりです。
ですので、飛鳥氏から見れば、2000年もたたない間に
巨大な地殻変動があっても別に不思議ではないんだろうと思います。

この他にも、氏の著書には、恐竜と人間が共存していたなどの、
モルモン教の教義を色濃く反映した内容があちこちに見られるんです。
まあ、面白読み物としてはそれでもいいのかもしれませんが、
このあたりのことは頭に入れてほうがいいと思いますね。

関連記事 『「創造論」って何?』









日本に「殉葬」はあったか?

2018.01.07 (Sun)
前回、埴輪の起源の話を書きましたが、それに関連した話です。
ただねえ、これってすごく難しいテーマなんですよ。
これがもし「日本に殉死はあったか?」というテーマだったらことは簡単です。
答えは「多数の例がある」の一言で済んでしまいます。
森鴎外の『阿部一族』に見るように、武家社会では殉死が近世まで続いてましたし、
明治になっても、乃木大将夫妻が明治天皇に殉じています。

殉死された乃木大将夫妻


じゃあ、それでいいんじゃないの。なんで「殉葬」にこだわるの?
と思われた方も多いでしょうが、これ、邪馬台国問題に関係があるんですね。
『三国志・魏書 東夷伝 倭人の条』通称「魏志倭人伝」には、
邪馬台国の女王卑弥呼の死のいきさつについて、次のように記されています。
「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢百餘人」
いちおうこのように読み下します。
「卑弥呼以って死す 大いに冢(ちょう)を作る 径百余歩 徇葬する者奴婢百余人」

この部分は一字一句に議論がありまして、「以」を「もって」とするか「よって」
にするか、あるいは「すでに」と読むかで意味が違ってきます。
また「歩」という当時の中国の単位の長さや、「径」とは円の直径なのか、
「冢」とは何かということなどについても、いろいろ自説を述べる人がいるんです。

ともかく、卑弥呼の大きな墓を作り、奴婢100人あまりを殉葬(徇葬)した、
という意味のことが書かれているのは間違いないでしょう。
ただし、厳密には、殉葬者が卑弥呼と同じ墓にいっしょに葬られているのか
ということまではわからないのではないかと思います。

さて、邪馬台国の位置問題は、大きく九州説と畿内説に分かれますが、
九州説には「100人の殉葬跡のあるものが見つかれば、それが卑弥呼の墓だ」
と考える人が多いようですし、畿内説では、
「殉葬者100人というのは中国式の誇張表現ではないか。
 蛮夷の国の野蛮な風習として、ことさら強調しているとも考えられる」
と述べる人もいます。

なぜ畿内説にこのような意見があるのかというと、日本ではこれまで、
たくさんの弥生墳丘墓や古墳が発掘されてきましたが、
はっきりした人間の殉葬の跡があるものは、いまだに確認がされていないんですね。
そのことについて、九州説では「火山国である日本の土壌は酸性土であるため、
土中の骨は残りにくい」などと言う人がいます。

これは一理ある意見ではあるんですが、殉葬者の遺体にただ土をかけていった
などならともかく、棺に入れられていたのであれば、見つけることは可能です。
あと、考古学は穴の跡を見つけるのは得意です。
古代の建物の柱穴を写真で見られたことがあるのではないかと思いますが、
もし穴を掘ってその中に殉死者の遺体を入れたのであれば、
その跡を見つけられる可能性はかなりあるはずです。

縄文時代の土坑(狩猟のための陥穴)


実際、古墳時代の5世紀に馬を殉葬した例はいくつか見つかっています。
ただ、古墳の周濠(古墳のまわりの堀状の部分)
にそのまま殉死者の遺体を投げ入れたといったようなケースだと、
見つけるのはまず難しいでしょうね。あと、「追葬」という問題もあります。
これは、墓の被葬者が死んで何年、何十年か後に、
近親者などが死んだのを同じ墓に埋葬することですが、
時間差があって埋められたのかどうかは、なかなかわかりにくいんですね。

馬の殉葬とみられる例


さて、ここで話を変えて、殉死には「自ら望んで死んだ」場合と、
「強制的に殉死させられた」場合とがあります。後者は殺人殉葬などとも言います。
『三国志・魏書 東夷伝 扶餘伝』には、「殺人徇葬多者百数」という語が出てきます。
もちろん、この中間というか、自ら望んではいないが周囲のプレッシャーのために
殉死せざるをえなかった、などの例もあるとは思います。

邪馬台国の場合、倭人伝に書かれている殉葬がもしほんとうにあったとして、
このどちらであったかはわかりません。
奴隷的身分の者が、強制的に首を切って殺されたのかもしれないですし、
卑弥呼の宗教的な権威に心服していたので、
自ら従容として死におもむいたのかもしれないです。

さてさて、そろそろまとめたいと思います。
日本に殉葬はあったのか?というテーマの答えについて、
どっちかを答えなくてはならないなら、これは、あっただろうと言うしかないですね。
弥生時代の墳丘墓や、古墳時代の古墳には、土は盛られているものの、
発掘しても中には何も見つからないというものもあり、
もしかしたら、それは殉葬者のためのものであった可能性もあるでしょう。

また、自分は何度か古墳の発掘調査の手伝いをしたことがありますが、
墳丘上で用途不明な穴の跡が見つかったケースもあるんです。
それは単に古墳造営で出たゴミを埋めたものだったのかもしれないですが、
そのとき自分は、殉葬という言葉がちらと頭をよぎったのを覚えています。

ただし、殉葬があったとして、中国の殷(商)・周の時代に見られるような
大規模なことは行われていなかったのだろうと考えます。
ですから、邪馬台国の「徇葬者奴婢百餘人」については、
やはり中国的な誇張表現の可能性を考えているんです。
まあでも、今後、大規模な殉葬の跡がある墓が見つかったなんてことも
絶対にないとは言えませんからねえ。

関連記事 『相撲と埴輪の起源』

中国、殷墟の奴隷殉葬坑
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