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江戸の糞尿事情

2019.08.23 (Fri)


今回はこういうお題でいきます。カテゴリは日本史ですね。汚い話に
なりますので、苦手な方はスルーされてください。さて、かっぽれ節に
こういうのがあります。「♪沖の暗いに白帆が見える」、この後は
「あれは紀の国みかん船~」と続いて、豪商、紀伊国屋文左衛門が
みかんの運搬で財をなしたときのエピソードが歌われています。

で、これをもじった江戸小咄があるんですね。ある客が吉原へ行って
遊女と同衾した朝方、その遊女が布団の中でオナラをしてしまって臭い。
客は寝ているようだが、気づかれないように臭いを逃がそうと、
足袋をはいた足で布団の裾を持ち上げた。

すると、寝ていると思っていた客が目を開けてそれを見ていたので、
困った遊女は照れかくしに、「♪沖の暗いに白帆が見える」と歌います。
足袋を白帆に見立てたわけですが、すぐさま客のほうが、
「ほんに肥桶(こえたご)積んだのが」と返すんです。
臭いですが、なかなか粋な話だと思います。

江戸時代の汚穢舟
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さて、糞尿を入れた桶が肥桶で、どうしてわざわざ舟に積んでいるかと
いうと、これは肥料にするために近郊の農地に運ぶんですね。
江戸時代には、紙、金属、布などすべてのものが
徹底的にリサイクルされていたのはご存知だと思います。

例えば着物は、ぼろぼろになって着られなくなると、赤ん坊のおむつや
雑巾にしました。それにも使えなくなると、細く切って編み、
下駄の鼻緒や紐にし、その後も捨てることはせず、
焼いて灰にして、回ってくる灰の回収業者に売りました。

糞尿もまた例外ではなく、ほぼすべてが回収されていたんです。
江戸の人口は、当時としては世界トップレベルで、
大量の糞尿が出ていました。ヨーロッパでは、これが道にまき散らされ
たので、それをよけるためにハイヒールができたなどと言われますが、

長屋の共同便所
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日本では、完全に回収され、主に野菜栽培の肥料として使われました。
現在、有機栽培の無農薬野菜は高価ですが、昔はそれが普通だったんです
農業に使われていた肥料は、干鰯(ほしか)、油粕(あぶらかす)、
下肥(しもごえ)の3種が金肥と言われ、その中で下肥(人糞)は
安価で肥料分が多かったので、人気がありました。

江戸初期の農学者、宮崎安貞の『農業全書』には、「草肥を細かく切った
ものに下肥をかけ、天日乾燥させたものを畑に用いる」とあり、
発酵させて使っていたんですね。自分は茨城出身で、昔はそこらに
肥溜があり、冬になって凍ると上に乗ったりしていたなんて話を
聞きましたが、さすがに実際に見たことはありません。

宮崎安貞
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で、この下肥、厳密なランクづけがあったんです。もっとも上等で、
高値で取引されたのが「勤番」、これは大名屋敷などから出たもの。
次が「町肥」、江戸市中の長屋など町人のものです。3番めが
「辻肥」といって、四つ辻などに設置された公衆トイレからのもの。
最も下等が「お屋敷」、牢屋敷から出たものです。

もちろんこのさらに上に、江戸城から出たものがあり、葛西出身の農民、
権四郎という人物がそれに目をつけて、「江戸城御用下掃除人」の役を
いただいて独占し、舟でお堀を経由して江戸近郊の農村に運んで
大きな財をなしたということです。ちなみに、「勤番」の値段は、
「町肥」の5倍程度とされていました。

やはり食べているものが武士と町人では違うんでしょうね。
町肥の値段は大人1人の1年分が、時期によっても違いますが
だいたい二分くらいで、これは一両の4分の1にあたり、
現在のお金にして5万円以上にはなると思います。

肥取り屋には女性もいた
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さて、「肥取りへ 尻が増えたと 大家言い」という川柳があります。
長屋の住人が共同便所で出した下肥は、肥取りと呼ばれる
専門業者が取りに来て、ついでに掃除もしていくんですが、
その支払はすべて長屋の大家がもらう決まりになっていました。

ですから、もしその長屋に10人が住んでいたとすると、50万円の
収入になります。江戸時代の大家は、その長屋の持ち主ではなく
地主から給料で雇われた者ですので、貴重な現金収入になりました。
「店中(たなじゅう)の 尻で大家は 餅をつき」意味はわかりますよね。
長屋の店子の肥を売ったお金が、正月の餅代になるということです。

ただし、大家は正月は店子の面々に餅を配らなくてはなりませんでした。
「とんだ 可愛お供え 大家くれ」長屋の家々に大家が餅を配ったが、
金がなかったせいで小さいものになってしまったという意味でしょう。
落語では「大家といえば親も同然」というセリフが出てきますし、
そんな感じで、何くれとなく住人の世話を焼いていたんです。

江戸の長屋の構造
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さてさて、最初の話に戻って、隅田川などから張り巡らされた運河には、
肥桶を乗せた舟がつねに行き来していて、「汚穢舟(おわいぶね)」
と呼ばれていましたが、さすがに汚い名前なので、
いつしか権四郎の出身地からとって「葛西舟」と呼ばれるようになり、
遊女が白足袋を立てて布団を持ち上げるところへ つながっていきます。

ということで、江戸の町には上水道はありましたが、さすがに下水までは
整備されておらず、そのかわりに完璧な回収システムができあがっていました。
いろいろ調べてみるとわかるんですが、このことだけでなく、
江戸の暮らしは、世界の同時期の他の都市と比較して、
先進的な部分が多かったんですね。では、今回はこのへんで。

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玄昉の首が飛ぶ話

2019.07.28 (Sun)
今回はこういうお題でいきます。ただこれ、かなり地味な日本史の話で、
人間関係も入り組んでいるので、なるべくわかりやすく書きますが、
興味がある方以外はスルーされたほうがいいかもしれません。
さて、玄昉という人物、みなさんご存知でしょうか。「げんぼう」と読みます。
奈良時代の遣唐使僧で、きわめて優秀な人だったと考えられます。

玄昉の像
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どのくらいかというと、唐の都長安で17年間法相学を学びましたが、
その間、ときの玄宗皇帝から紫の袈裟を賜っているほどです。
日本に帰国するときも、中国に残るよう引きとめられました。
占いで、日本に帰国すると悪いことが起きると出たんですね。
当時の遣唐使船は航海時に難破することも多く、命がけでした。

玄昉は5000巻以上の経典をたずさえて船に乗り、やはり船団は
嵐で遭難したんですが、玄昉と同僚の吉備真備が乗っていた船だけが
種子島に流れ着いて助かっています。これは船の中で玄昉がずっと
「海竜王経」を唱えていたため、仏の加護があったからとされます。
こうして、玄昉が大宰府をへて奈良の都へ帰京したのが735年。

吉備真備
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さて、日本で首が宙を飛んだ人物といえば、平将門が有名ですね。
関東で謀反を起こしたものの討伐され、その首は京都で獄門に
さらされましたが、毎日のように「関東へ戻ってもう一戦やる」と
吠えたて、ついには空を飛んで関東をめざし、その途中で力つきて
落ちた場所が今の首塚である・・・ということになっています。

もちろんこれは伝説ですが、玄昉の首もまた空を飛んだ伝説が残って
るんです。ただ、将門の話と違うのは、将門が自分自身が
怨霊となったのに対し、玄昉の場合は、怨霊によって体をつかみあげられ、
後日、首だけが興福寺に落ちてきたことになっているところです。



これは、正史である『続日本紀』に出てきますので、亡くなった当時から
怨霊のために殺されたと信じられていたことがわかります。
この詳細については、『平家物語』 『今昔物語』などにも出てきますね。
では、玄昉はいったい誰の怨霊に殺されたかというと、
藤原広嗣(ひろつぐ)という人物と信じられました。

怨霊となった藤原広嗣
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さて、ここで少し当時の時代背景をふり返ってみましょう。
まず、藤原氏はご存知でしょう。天智天皇とともに「乙巳の変」を起こした
中臣鎌足が、死の直前に天皇より藤原朝臣姓を与えられ、
代々受けつがれて名門氏族となりました。摂関政治の時代に、
藤原道長が「この世をば我が世とぞ思ふ望月の」と詠んだのは有名です。

ただ、この奈良時代、藤原氏は存亡の危機を迎えています。
鎌足の子が藤原不比等、さらにその子に、藤原4兄弟と言われる、
武智麻呂・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂がいます。
この4人は協力して、大きな権勢を持った皇族、長屋王の屋敷を包囲し
自害に追い込みました。729年の「長屋王の変」ですね。

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その後、藤原4兄弟はそれぞれ高い位に昇り、政治を行ったわけですが、
737年、4人ともが疫病で急死してしまいます。この死は都の人々に、
長屋王の祟りであると噂されました。疫病は天然痘で、735年から
日本で大流行していました。大仏開眼を行った聖武天皇の御代のことです。

聖武天皇
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この735年は大凶作もあり、日本中でおびただしい数の人々が死に、
国が滅ぶのではないかと言われたほどだったんです。
朝廷も疫病の害をまぬがれることができず、藤原4兄弟をはじめ、
たくさんの官人を失ったため、押し出される形で、橘諸兄(もろえ)
という人物が右大臣となって政権の中枢を握りました。

で、橘諸兄が登用したのが、遣唐使帰りの玄昉と吉備真備でした。
どちらも当時世界の最先端であった唐で学んだ知識を身につけ、
吉備真備は日本に陰陽道を持ち帰ったと言われますし、
また、玄昉も不可思議な術を使う、一種の超能力者と見られました。

橘諸兄
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さて、これに危機感を持ったのが、4兄弟の一人、藤原宇合の子である
藤原広嗣です。740年、広嗣は、大災厄の元凶は吉備真備と僧正・玄昉
のせいであるとして、二人を追放すべきとの上奏文を聖武天皇に
送りますが、橘諸兄はこれを謀反とみなします。

大宰少弐に左遷されていた広嗣は、隼人などの九州勢力1万人以上を集め、
大反乱を起こします。「藤原広嗣の乱」です。しかし、広嗣は敗れ、
五島列島まで敗走して、そこで処刑されます。一方、玄昉のほうですが、
聖武天皇が亡くなり、武智麻呂の子、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、
橘諸兄は権勢を失い、玄昉もまた筑紫の観世音寺別当に左遷されます。

そうして、観世音寺が完成した供養の場で、玄昉が経を唱えていると
突然空がかき曇り、大きな鬼の腕が現れて玄昉をつかみあげて消えました。
玄昉の手足と胴体はその場に落ち、首だけが1年後に、
奈良の興福寺の南大門にぽとりと落ちてきたとされ、
その地には、玄昉の頭塔(ずとう)がつくられたということです。

玄昉の頭塔とされる建造物  ピラミッドのようですが、国家鎮護を願ったインド式仏塔と思われます
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人々は当然ながら、これは藤原広嗣の怨霊の祟りであると噂し、
広嗣の怨霊を鎮めるため、唐津に鏡神社が創建されます。
また、吉備真備も陰陽道で広嗣の霊を供養することになります。
長い物語になりましたが、やっと終わりが見えてきたようです。

さてさて、では玄昉について、どうしてこういった伝説ができたのか。
藤原4兄弟の命を奪った天然痘の大流行ですが、始まったのは玄昉が
帰国した735年からです。おそらく、玄昉らが天然痘を持ち込み、
大災害となったことを当時の人は疑っていたのではないかと思います。

これが、恐ろしい伝説が残った一因なんだろうと自分は考えてるんです。
また、わざわざ九州に左遷させられた玄昉は、現地で、
広嗣の残党に殺された可能性も考えるべきなのかもしれません。
ということで、今回はこのへんで。

藤原広嗣の怨霊を祀る唐津の鏡神社 広嗣の首から噴き出した血が
赤い鏡に見えたのでこの名がついたと伝承されます

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関連記事 『野馬台詩と足利義満』 『将門の首』




日本の拷問あれこれ

2019.07.05 (Fri)
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中世ヨーロッパの大量の水を飲ませる拷問

今回はこういうお題でいきます。わりとオカルトブログらしいテーマです。
さて、拷問と一口に言っても、きちんとした定義ってないんですね。
ネット辞書では、「被害者の身体及び精神的自由を奪い、加害者側の要求を
飲ませるために行われる行動の事を指す」みたいな形で書かれています。

大きく3つほどに分かれるのかなと思います。まず一つ目は犯罪としての拷問、
これはもちろん、拷問をするほうが犯罪者です。快楽殺人とか、隠した金の
ありかを吐かせるなど、さまざまな目的で行われるもの。
2つ目は刑罰としての拷問です。体罰と言ったほうがいいのかもしれません。
これが記録に表れるのは奈良時代ころからです。

3つ目は、まだ罪が確定していない者に対して、自白をさせる目的で
行われるものです。一般的には、これをさして拷問と言われる場合が
多いでしょう。現代では、裁判で刑が確定してない者は、容疑者ではあっても
拷問で自白を強要されることはありません。ただ、そうなったのは
日本の歴史全体から見ればごく最近の話なんですよね。

「盟神探湯」現代のものは安全です
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さて、拷問は古代からあったと思われますが、古代の文献には、
占いで罪を決めていたという記述も出てきます。『三国志』魏志倭人伝には
「骨を焼いてさまざまなことを占う」とあります。もしかしたら、
罪があるかどうかを占いで決めていたのかもしれません。

『日本書紀』には、「盟神探湯 くがたち」ということが行われていた
記述があります。これは一種の神明裁判で、容疑者に、神に潔白を誓わせた後、
探湯瓮(くかへ)という釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、
正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされます。
つまり、形式上、審判をするのは人ではなく神なんです。

また、壺の中に毒蛇を入れ、そこに手を突っ込むという形式もあったようです。
ただまあ、普通は火傷しますよねえ。有罪率は高かったんじゃないかと
思います。盟神探湯のことは『隋書』倭国伝にも出てきます。
さて、701年とされる「大宝律令」には、

罪の疑いが濃厚なのに自白しない者に対して「訊杖 じんじょう」という杖で、
背中15回、尻15打つと出てきます。それで自白しない場合、
20日以上間隔をおいてまた実施されました。これは、皇族や朝廷の役人、
16歳以下、70歳以上の子どもや老人、妊娠した女性は免除されていました。
それなりの配慮があったようですが、中国の法令を参考にしています。

司馬遷
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その後の、757年の「養老律令」では、死罪・流罪・笞打(むちうち)・
杖打・徒罪(強制労働)が定められています。これは刑罰としての拷問です。
興味深いのは贖銅(しょくどう)という制度があったことです。決められた
量の銅を朝廷に納めることで刑罰を免じられ、死罪についても行われました。

これも中国由来でしょう。余談になりますが、『史記』を著したことで知られる
司馬遷は、漢の武帝の怒りを買って宮刑(宦官にされる刑)を受けています。
一定の金銭を支払えば許されることになっていたはずですが、
それができなかったようです。このため司馬遷は子孫を残せず、
そのかわりに大著の歴史書を残したわけです。

もう一つ余談、日本では、810年の薬子の変の後、1156年の保元の乱まで、  
約350年間、死刑が実施されていません。死刑判決があっても、天皇が減刑
したりしてたんですね。これは仏教の殺生戒の影響や、
怨霊化を怖れたためと言われます。ただし、地方では死刑はふつうにありました。

江戸時代の「鋸挽」
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さて、史上最も知られているのは、江戸時代の被疑者に対する拷問でしょう。
笞打・石抱(いしだき)・海老責(えびぜめ)・釣責(つるしぜめ)
がありました。正確には、前の3つは責問(せめどい)、
釣責だけが拷問として区別されていました。例えば石抱は、罪人を三角材を
並べた真木という板に正座させ、ヒザの上に石を乗せていきますが、

1枚が50kg、最高は10枚(500kg!)でしたが、普通は5枚も積めば
気絶するので、その場合はまた日を改めて白状するまで行われました。
罪が許された場合も、石抱によって体に障害が残る者も多かったようです。
海老責は、あぐらをかいた状態で両足首を縛りアゴの高さまで引き上げる。
釣責は、両手を後ろで縛って吊り上げるというものです。

こう書くと残酷なようですが、これらはかなりの状況証拠があっても自白しない
者に対して行われたので、意外に冤罪は多くはなかったと考えられます。
それと、目的はあくまで自白させることなので、牢内には医者が用意され、
何かあれば手当を行い、責の後には気つけ薬が与えられました。

同じく「石抱」
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白状しないまま容疑者を死なせてしまうと、立会の与力の責任ではありますが、
それで罰せられることはなかったようです。罪が確定してからの刑は
ほとんどが斬首で、大きな苦痛は感じなかったと思いますが、
放火犯は市中引き廻しの上、火あぶり。主殺しなどは鋸挽(のこぎりびき)。
これは復讐系で、首だけだして土に埋めた罪人の横に切れない竹鋸を準備し、

被害者親族や通行人の希望者に挽かせます。
希望する者はほとんどいなかったようで、その後、槍で突き殺されました。
刑罰は見せしめの意味があり、江戸市民に一般公開されました。
その効果のほどははっきりわかりませんが、川柳には「十両盗めば首が飛ぶ」
みたいに出てきますので、刑法がよく周知されていたのは確かです。

さてさて、ということで、日本の歴史上の拷問について簡単に見てきました。
現在は、拷問等禁止条約もあり、公的に拷問を行っている国は多くないでしょうが、
イスラム教国には石打の刑があり、いまだににこの処刑方法を採用している地域も
存在します。残酷ですが、宗教的伝統と言えばそうなのでしょうし、
なかなか難しいところですね。では、今回はこのへんで。

イスラムの石打
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江戸川柳は難しい

2019.06.11 (Tue)
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江戸の長屋

今回はこういうお題でいきます。ほとんどオカルトとは関係ない
話ですが、最後のほうで少しだけ出したいと思います。
前にも少し書きましたが、自分は鳥山石燕の妖怪画を研究していまして、
あの絵のそれぞれは、何か洒落や隠された意味が込められた
判じ物になっていて、なかなか謎解きできない。

これはなんでかと考えると、自分に江戸の知識がないからなんですね。
それで悔しいなと思いまして、少し江戸学の勉強をしてるんです。
といっても、市民講座を受けたり、大学の聴講生になったりとか、
そういうことではなく、まあ、本屋に行って、
江戸時代に関する新書が目につけば買うくらいです。

江戸古川柳というのがありますよね。連歌の前句付けが独立したもので、
俳句と同じ五・七・五ですが、季語はありません。
季語がないので自然をよんだ句は少なく、世相や風俗が題材になって
いるものがほとんどですが、これが難解なんですねえ。

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一度読んだだけではまったく意味がつかめず、謎解きをしなくては
ならないものが多く、石燕の妖怪画と共通点があるんです。
江戸当時の商売や物の値段、作法やしきたり、それから、吉原遊廓などの
色ごとに関するもの、時事的な事件、それらについての知識が必要です。

例えば現在でも、少しだけ流行した言葉とか、一発屋で
消えた芸人なんかは、もし100年後にそれをよんだ川柳が
残っていたとしても、おそらく未来の人はすぐには意味がつかめないと
思います。同じことが、現代から見た江戸古川柳にも言えるわけです。

さて、ではここからは、少し難解句をご紹介していきたいと思います。
「こりゃ喜助 小便所までは 何里ある」
まず理解は不可能ですが、ヒントは吉原をよんだもので、
喜助というのは、遊郭で雑用をしている老人のことらしいです。

江戸の職業 リサイクルが発達していました
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これはふられた男のことですね。首尾よく遊女と布団に入ったのはいいが、
女は小便に行くと言い残して逃げてしまう。よほど嫌われたんでしょう。
それで残された男がしびれをきらして、小間使いの爺さんを呼んだ。
・・・まあ、ふられたことがわからないほどの野暮ってことなんでしょう。

これもまず無理ですが、少し考えてみてください。
「大家から 鉄砲玉が 十五くる」 ヒントは15という数です。
江戸の町人はほとんどが長屋に住んでいて、「大家といえば親も同然」と
言われていました。で、大家は家賃を取るかわりに、
住人の世話をなにくれと焼いたものです。

正月には餅、十五夜には団子を配るなどしましたが、大家にも金がない。
そこで月見団子が、当時の丸い鉄砲玉くらいの大きさになった・・・
わかんないですよねえ。次も大家と店子もので、
「店中の 尻で大家は 餅をつき」わかったらすごいです。

吉原の花魁
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ヒントは、尻=ウンコです。江戸の長屋は共同井戸、共同便所でしたが、
長屋の住人が出したものは、権利として大家が下肥取りに売っていました。
野菜栽培などの肥料として使われるんですね。で、大晦日にその
支払いをもらって、大家がやっと正月の餅つきができる。
あと、「尻もち」と言葉が掛けてありますね。

『南総里見八犬伝』を書いた宝井馬琴は、何でも日記につけていましたが、
自宅の下肥の代金にナス250本をもらい、「一人50本なのに
足りないぞ」と文句をつけています。すると下肥取りが、
「15歳以下は一人と数えません」と言い返す。
・・・落語みたいですが、本当にあった話です。

あとは職業ですね。江戸には多種多様な職業があって、これをよんだ
ものもわからない。「焼接屋 夫婦喧嘩の わけを聞き」
さあどうでしょう。焼継屋というのは割れた瀬戸物を鉛ガラスで
接着する仕事で、街中を流していました。

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で、ある長屋の家で夫婦喧嘩があって茶碗を投げて割れた。しかたなく、
その仲裁をしようとするところなんですね。次は世相・事件に関するもの。
「お妾の おつな病は 寝小便」小便組という詐欺行為があって、
田舎侍や大店の商家に妾に入った女が、わざと毎晩寝小便をして
暇を出され、支度金をだまし取る手口で評判になりました。

おっと、まだいくらでもあるんですが、そろそろ字数が尽きてきたので、
オカルト川柳に移ります。「幽霊に なると平家も 源氏なり」
これはわかりやすいでしょう。平家は赤旗が軍の印でしたが、
幽霊になると白装束なので、白旗がシンボルだった源氏と変わらない。

「幽霊は みな俗名で あらわれる」 『四谷怪談』のお岩さんというのは
もちろん俗名で、戒名で出てくることはない。成仏していないからですね。
「幽霊に 応挙画筆の 水を向け」これは足のない幽霊画を描いたと
言われる円山応挙のところに幽霊が出たので、
絵筆に使う水を手向けがわりにしたということでしょう。

さてさて、ということで、自分が難しいなあと思った川柳の
ほんの一部だけですがご紹介してみました。なかなか面白いと思いませんか。
江戸学って深いんです。いつ石燕の絵までたどりつけるかわかりません。
では、今回はこのへんで。

関連記事 『江戸の隠居パワー』

幽霊画
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仏教徒としての天皇

2019.06.10 (Mon)
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京都 泉涌寺

今回はこういうお題でいきます。まあ、あまり面白い話題ではないと
思います。昨今、天皇について「祭祀者である」 「祈りを捧げる人である」
というふうな話をよく見聞きします。たしかに、今上陛下においては
そのとおりだと思いますが、もちろん歴史的にずっと
そうだったわけではありません。

千数百年の長きに渡って天皇は仏教徒であり、中には譲位後に出家して
法皇となり、いわば仏教徒のトップに立たれた天皇も多いんですね。
ところが、明治以来、天皇と仏教とのかかわりが意図的に
報道されなくなって
、これが現在まで続いてるんです。

ですからまあ、一般の方が天皇は神道の祭祀者であると考えるのは
いいんですが、歴史を勉強している学生のみなさんが、
天皇と仏教のかかわりに目を向けないでしまうと、
これは歴史の流れを見誤ってしまう可能性があるかと思います。

泉涌寺にある歴代天皇の陵(仏塔)
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さて、天皇と仏教の関わりを振り返ってみると、『日本書紀』によれば、
欽明天皇13年(552年)百済の聖明王が使者を使わし、
仏像や経典とともに、仏教の功徳を賞賛した上表文を献上した
と記されています。ただ、552年は釈迦入滅後1500年の
翌年にあたり、後世に作為的に入れられた年代だとする意見もあります。

以前の歴史教科書では、これについて「仏教伝来」という語が使われていた
と思いますが、あくまで公的に仏教が日本に伝来した時点で、
それ以前から部分的な仏教の受容はあっただろうと考えられ、
最近は「仏教公伝」という語に変わってきているようです。

最初のうちは仏教に対する反発もありましたが、次第に受け入れられ、
仏教ともに伝わったとされる火葬も増えていきました。
『続日本紀』によるれば、最初に火葬された天皇は、702年に死亡し、
殯の儀礼の後703年に火葬された持統天皇です。
トップダウンで仏教の受容が始まったと言えると思います。

後白河法皇
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ちなみに、夫婦であった天武天皇と持統天皇は合葬されており、
その陵は「野口王墓」とも呼ばれ、墳丘径60mほどの八角墳と
見られています。1235年に盗掘にあった記録が残っており、
その際に副葬品は奪い去られ、天武天皇の遺骨は散乱し、
持統天皇の遺灰が入った骨壷は、無残にも近くに遺棄されたようです。

仏式の葬儀が取り入れられたのは、奈良の大仏開眼供養を行い、
仏教による鎮護国家をめざした第45代 聖武天皇からとされています。
これ以来、 1867年に崩御された第121代 孝明天皇まで、
1000年以上にわたって天皇家の葬儀は仏式で行われ、
また、即位の儀などの国家的儀式も仏式だったんです。

京都東山の泉涌寺の霊明殿には、天智天皇・光仁天皇以後の
歴代天皇・皇后の位牌が置かれており、この泉涌寺で後鳥羽上皇や
順徳上皇などが受戒を授かっています。多くの天皇の陵が仏式の塔として
残されていて、上記した孝明天皇の陵もここにあります。

密教者として描かれる後醍醐天皇
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さらに、明治4年(1871)まで、宮中の黒戸の間に仏壇があり、
歴代天皇の位牌があったんですね。それが明治期の廃仏毀釈により、
宮中の仏像その他は一切撤去されることになります。
では、なぜ天皇家は仏教徒であることをやめたのか。

これはご存知と思います。明治維新の精神的なバックボーンとなった
国学では、仏教は異国渡来のまちがった教えであり、
日本古来の神道に回帰すべきであるという声が強かったからです。
そしてそれを明治政府は国民統合のために利用しました。

仏教で最も上位とされる概念は「仏・法・僧」で、法の前にはみな平等。
たとえ天皇であろうとも、その教えには頭を下げなくてはなりません。
天皇が仏教徒では、絶対者にはなりえないんですね。ですから、
「国家神道」を起こして、明治天皇をそのトップに据えようとしました。
そうして薩長土出身の元勲が、その大権を意のままに動かす。

聖武天皇の悲願、大仏開眼
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もちろん天皇家はじめ、公家においても、それまで信心し極楽往生を
願ってきた仏教を捨て去ることには、大きな困惑があったと考えられます。
また、明治政府が推し進めた国家神道は、古い時代の神道を
正確に再現したものではありません。古神道は文字による記録がほとんど
残っていないため、実体がよくわからないからです。

「復古神道」というのがありますよね。平田篤胤や本田親徳らが大成した
もので、言霊や数霊などを用いて『古事記』などを読み解こうとする
試みですが、これから派生して多くの神道的な新興宗教ができました。
ですが、自分から見れば、その多くは噴飯もののデタラメな内容です。

さて、明治政府によって始められた国家神道により、
天皇は天照大神から続く「現人神」となり、天皇大権をもって
世を治めることになります。で、それが第2次世界大戦の敗戦まで続き、
昭和天皇は人間宣言を出し、新憲法によって
日本国統合の象徴となるわけです。

さてさて、ということで、仏教徒としての天皇家の歴史を
ごく簡単に見てきました。今上陛下を例として「天皇は祭祀者である」
とするのはそのとおりですが、なぜ仏教は捨て去られたのか、
正しく歴史を見るためには、そこをきちんと理解する必要が
あると思います。では、今回はこのへんで。

関連記事 『仏教書としての日本書紀』

国家神道 五十銭紙幣に描かれた靖国神社
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