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江戸川柳は難しい

2019.06.11 (Tue)
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江戸の長屋

今回はこういうお題でいきます。ほとんどオカルトとは関係ない
話ですが、最後のほうで少しだけ出したいと思います。
前にも少し書きましたが、自分は鳥山石燕の妖怪画を研究していまして、
あの絵のそれぞれは、何か洒落や隠された意味が込められた
判じ物になっていて、なかなか謎解きできない。

これはなんでかと考えると、自分に江戸の知識がないからなんですね。
それで悔しいなと思いまして、少し江戸学の勉強をしてるんです。
といっても、市民講座を受けたり、大学の聴講生になったりとか、
そういうことではなく、まあ、本屋に行って、
江戸時代に関する新書が目につけば買うくらいです。

江戸古川柳というのがありますよね。連歌の前句付けが独立したもので、
俳句と同じ五・七・五ですが、季語はありません。
季語がないので自然をよんだ句は少なく、世相や風俗が題材になって
いるものがほとんどですが、これが難解なんですねえ。

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一度読んだだけではまったく意味がつかめず、謎解きをしなくては
ならないものが多く、石燕の妖怪画と共通点があるんです。
江戸当時の商売や物の値段、作法やしきたり、それから、吉原遊廓などの
色ごとに関するもの、時事的な事件、それらについての知識が必要です。

例えば現在でも、少しだけ流行した言葉とか、一発屋で
消えた芸人なんかは、もし100年後にそれをよんだ川柳が
残っていたとしても、おそらく未来の人はすぐには意味がつかめないと
思います。同じことが、現代から見た江戸古川柳にも言えるわけです。

さて、ではここからは、少し難解句をご紹介していきたいと思います。
「こりゃ喜助 小便所までは 何里ある」
まず理解は不可能ですが、ヒントは吉原をよんだもので、
喜助というのは、遊郭で雑用をしている老人のことらしいです。

江戸の職業 リサイクルが発達していました
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これはふられた男のことですね。首尾よく遊女と布団に入ったのはいいが、
女は小便に行くと言い残して逃げてしまう。よほど嫌われたんでしょう。
それで残された男がしびれをきらして、小間使いの爺さんを呼んだ。
・・・まあ、ふられたことがわからないほどの野暮ってことなんでしょう。

これもまず無理ですが、少し考えてみてください。
「大家から 鉄砲玉が 十五くる」 ヒントは15という数です。
江戸の町人はほとんどが長屋に住んでいて、「大家といえば親も同然」と
言われていました。で、大家は家賃を取るかわりに、
住人の世話をなにくれと焼いたものです。

正月には餅、十五夜には団子を配るなどしましたが、大家にも金がない。
そこで月見団子が、当時の丸い鉄砲玉くらいの大きさになった・・・
わかんないですよねえ。次も大家と店子もので、
「店中の 尻で大家は 餅をつき」わかったらすごいです。

吉原の花魁
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ヒントは、尻=ウンコです。江戸の長屋は共同井戸、共同便所でしたが、
長屋の住人が出したものは、権利として大家が下肥取りに売っていました。
野菜栽培などの肥料として使われるんですね。で、大晦日にその
支払いをもらって、大家がやっと正月の餅つきができる。
あと、「尻もち」と言葉が掛けてありますね。

『南総里見八犬伝』を書いた宝井馬琴は、何でも日記につけていましたが、
自宅の下肥の代金にナス250本をもらい、「一人50本なのに
足りないぞ」と文句をつけています。すると下肥取りが、
「15歳以下は一人と数えません」と言い返す。
・・・落語みたいですが、本当にあった話です。

あとは職業ですね。江戸には多種多様な職業があって、これをよんだ
ものもわからない。「焼接屋 夫婦喧嘩の わけを聞き」
さあどうでしょう。焼継屋というのは割れた瀬戸物を鉛ガラスで
接着する仕事で、街中を流していました。

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で、ある長屋の家で夫婦喧嘩があって茶碗を投げて割れた。しかたなく、
その仲裁をしようとするところなんですね。次は世相・事件に関するもの。
「お妾の おつな病は 寝小便」小便組という詐欺行為があって、
田舎侍や大店の商家に妾に入った女が、わざと毎晩寝小便をして
暇を出され、支度金をだまし取る手口で評判になりました。

おっと、まだいくらでもあるんですが、そろそろ字数が尽きてきたので、
オカルト川柳に移ります。「幽霊に なると平家も 源氏なり」
これはわかりやすいでしょう。平家は赤旗が軍の印でしたが、
幽霊になると白装束なので、白旗がシンボルだった源氏と変わらない。

「幽霊は みな俗名で あらわれる」 『四谷怪談』のお岩さんというのは
もちろん俗名で、戒名で出てくることはない。成仏していないからですね。
「幽霊に 応挙画筆の 水を向け」これは足のない幽霊画を描いたと
言われる円山応挙のところに幽霊が出たので、
絵筆に使う水を手向けがわりにしたということでしょう。

さてさて、ということで、自分が難しいなあと思った川柳の
ほんの一部だけですがご紹介してみました。なかなか面白いと思いませんか。
江戸学って深いんです。いつ石燕の絵までたどりつけるかわかりません。
では、今回はこのへんで。

関連記事 『江戸の隠居パワー』

幽霊画
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仏教徒としての天皇

2019.06.10 (Mon)
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京都 泉涌寺

今回はこういうお題でいきます。まあ、あまり面白い話題ではないと
思います。昨今、天皇について「祭祀者である」 「祈りを捧げる人である」
というふうな話をよく見聞きします。たしかに、今上陛下においては
そのとおりだと思いますが、もちろん歴史的にずっと
そうだったわけではありません。

千数百年の長きに渡って天皇は仏教徒であり、中には譲位後に出家して
法皇となり、いわば仏教徒のトップに立たれた天皇も多いんですね。
ところが、明治以来、天皇と仏教とのかかわりが意図的に
報道されなくなって
、これが現在まで続いてるんです。

ですからまあ、一般の方が天皇は神道の祭祀者であると考えるのは
いいんですが、歴史を勉強している学生のみなさんが、
天皇と仏教のかかわりに目を向けないでしまうと、
これは歴史の流れを見誤ってしまう可能性があるかと思います。

泉涌寺にある歴代天皇の陵(仏塔)
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さて、天皇と仏教の関わりを振り返ってみると、『日本書紀』によれば、
欽明天皇13年(552年)百済の聖明王が使者を使わし、
仏像や経典とともに、仏教の功徳を賞賛した上表文を献上した
と記されています。ただ、552年は釈迦入滅後1500年の
翌年にあたり、後世に作為的に入れられた年代だとする意見もあります。

以前の歴史教科書では、これについて「仏教伝来」という語が使われていた
と思いますが、あくまで公的に仏教が日本に伝来した時点で、
それ以前から部分的な仏教の受容はあっただろうと考えられ、
最近は「仏教公伝」という語に変わってきているようです。

最初のうちは仏教に対する反発もありましたが、次第に受け入れられ、
仏教ともに伝わったとされる火葬も増えていきました。
『続日本紀』によるれば、最初に火葬された天皇は、702年に死亡し、
殯の儀礼の後703年に火葬された持統天皇です。
トップダウンで仏教の受容が始まったと言えると思います。

後白河法皇
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ちなみに、夫婦であった天武天皇と持統天皇は合葬されており、
その陵は「野口王墓」とも呼ばれ、墳丘径60mほどの八角墳と
見られています。1235年に盗掘にあった記録が残っており、
その際に副葬品は奪い去られ、天武天皇の遺骨は散乱し、
持統天皇の遺灰が入った骨壷は、無残にも近くに遺棄されたようです。

仏式の葬儀が取り入れられたのは、奈良の大仏開眼供養を行い、
仏教による鎮護国家をめざした第45代 聖武天皇からとされています。
これ以来、 1867年に崩御された第121代 孝明天皇まで、
1000年以上にわたって天皇家の葬儀は仏式で行われ、
また、即位の儀などの国家的儀式も仏式だったんです。

京都東山の泉涌寺の霊明殿には、天智天皇・光仁天皇以後の
歴代天皇・皇后の位牌が置かれており、この泉涌寺で後鳥羽上皇や
順徳上皇などが受戒を授かっています。多くの天皇の陵が仏式の塔として
残されていて、上記した孝明天皇の陵もここにあります。

密教者として描かれる後醍醐天皇
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さらに、明治4年(1871)まで、宮中の黒戸の間に仏壇があり、
歴代天皇の位牌があったんですね。それが明治期の廃仏毀釈により、
宮中の仏像その他は一切撤去されることになります。
では、なぜ天皇家は仏教徒であることをやめたのか。

これはご存知と思います。明治維新の精神的なバックボーンとなった
国学では、仏教は異国渡来のまちがった教えであり、
日本古来の神道に回帰すべきであるという声が強かったからです。
そしてそれを明治政府は国民統合のために利用しました。

仏教で最も上位とされる概念は「仏・法・僧」で、法の前にはみな平等。
たとえ天皇であろうとも、その教えには頭を下げなくてはなりません。
天皇が仏教徒では、絶対者にはなりえないんですね。ですから、
「国家神道」を起こして、明治天皇をそのトップに据えようとしました。
そうして薩長土出身の元勲が、その大権を意のままに動かす。

聖武天皇の悲願、大仏開眼
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もちろん天皇家はじめ、公家においても、それまで信心し極楽往生を
願ってきた仏教を捨て去ることには、大きな困惑があったと考えられます。
また、明治政府が推し進めた国家神道は、古い時代の神道を
正確に再現したものではありません。古神道は文字による記録がほとんど
残っていないため、実体がよくわからないからです。

「復古神道」というのがありますよね。平田篤胤や本田親徳らが大成した
もので、言霊や数霊などを用いて『古事記』などを読み解こうとする
試みですが、これから派生して多くの神道的な新興宗教ができました。
ですが、自分から見れば、その多くは噴飯もののデタラメな内容です。

さて、明治政府によって始められた国家神道により、
天皇は天照大神から続く「現人神」となり、天皇大権をもって
世を治めることになります。で、それが第2次世界大戦の敗戦まで続き、
昭和天皇は人間宣言を出し、新憲法によって
日本国統合の象徴となるわけです。

さてさて、ということで、仏教徒としての天皇家の歴史を
ごく簡単に見てきました。今上陛下を例として「天皇は祭祀者である」
とするのはそのとおりですが、なぜ仏教は捨て去られたのか、
正しく歴史を見るためには、そこをきちんと理解する必要が
あると思います。では、今回はこのへんで。

関連記事 『仏教書としての日本書紀』

国家神道 五十銭紙幣に描かれた靖国神社
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幼帝の話

2019.05.25 (Sat)

壇ノ浦の合戦

今回はこういうお題でいきます。地味な話なので、スルーされた
ほうがいいかもしれません。「幼帝」というのは言葉どおり、
幼くして即位された天皇ということですが、
じゃあ、どこまでが幼いのかというとなかなか難しいですね。

これは歴史の学術的な用語ではないんですが、一般的には、
18歳以前に即位した場合、幼帝と言うことが多いです。
この要件を満たす天皇って、じつはすごくたくさんいるんです。
正確に数えたことはないですが、126代の天皇のうち、
50人くらいいるんじゃないかと思います。

幼帝が多く出たのは、まず平安時代の藤原氏全盛期ですね。
摂政という役職がありますが、天皇が幼少、女性、病弱などの場合、
天皇に代わって政務を執ります。藤原氏の時代は、
幼少の帝を飾り物として、自由に世の中を動かすことが画策されました。

あとは院政の時代と、それから江戸時代ですか。
日本の中心が京都から江戸に移り、政治はすべて幕府が行っていて、
天皇の権力が最も形骸化した時期です。
幕府にしてみれば、天皇は何もしないでいてくれれば一番いい、
そのためには幼帝が好都合というわけです。

さて、日本で最も幼くして皇位についたのは、平安時代後期、
平家の全盛期に即位した、第79代 六条天皇。数え年2歳で、
満にすれば生後7ヶ月です。即位式の途中で泣き出したため、
式を中断して乳母が乳を与えたという記録が残っています。

六条天皇
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この天皇、生まれつき幸が薄かったみたいで、3歳のときに譲位して
上皇になっていますが、これも最年少記録です。
これだと、おそらく天皇になっていた記憶はないと思われます。
そして11歳のときに赤痢で崩御してしまうんですね。
当然、后妃も子もありませんでした。

さて、史上最も有名な幼帝というと、平家に担がれ、
壇ノ浦で入水して亡くなった、第81代 安徳天皇だと思います。
即位が1歳2ヶ月、もちろん政治は外祖父であった平清盛がすべて
とり仕切っています。崩御は1185年4月、満7歳のときです。

安徳天皇
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このときの様子は、『平家物語』にくわしく記されていますが、
ただ、これは物語であり脚色性が強いため、そのまま
史実とみなすのは難しい面があります。安徳天皇の入水のとき、
皇室に伝わる三種の神器もいっしょに水に沈みましたが、
そのことが、後の2人の幼帝の生涯に影を落とすんですね。

三種の神器のうち、神璽(八尺瓊勾玉)と神鏡(八咫鏡)は
源氏側が回収し、宝剣(草薙剣)だけが海に沈んだとされますが、
この宝剣が、熱田神宮にあるとされる本物だったのか、
あるいは形代だったかはよくわかっていません。

いっぽう、平家が西国に逃げだした後の京都では、後白河法皇を
中心として新しい天皇が擁立されます。第82代 後鳥羽天皇ですね。
即位のときは3歳になったばかりでした。このときはまだ、
安徳天皇は存命でしたので、日本の史上初めて、
2人の天皇が同時に存在したとみなされています。

三種の神器(イメージ)
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また、三種の神器が平家方の手にあったため、三種の神器を持たずして
即位するのも初めてのことです。現在から考えれば、そんなのなくても
問題ないだろうという気がするんですが、当時としては大事で、
このことが後鳥羽帝の生涯に暗い影を落とすことになります。

さて、後鳥羽天皇といえば、上皇になった後、鎌倉幕府の執権である
北条義時の追討を図って、「承久の乱」を起こしたことで知られています。
しかし計画は失敗し、退位させられて隠岐島に配流され、
失意のうちに亡くなります。このときに怨霊化したとも言われていますね。

怨霊化したとされる後鳥羽上皇、自筆の遺言状、手形つき


この承久の乱の原因の一つに、三種の神器がそろわないまま
治世を過ごした後鳥羽天皇の「コンプレックス」があるという説があります。
三種の神器がなくても自らの強力な権力の存在を示そうとし、
それが対鎌倉幕府の強硬姿勢につながり、乱が起きたというわけです。

後鳥羽天皇
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そのあたりのことは何とも言えないですが、承久の乱の敗北によって、
権力の中心が朝廷から武士に移ったと見るのが、一般的な見解です。
最後にもう一人幼帝に登場してもらいます。第87代の四条天皇です。
即位は満1歳、満10歳のときに不慮の事故で亡くなっています。

この事故は、まだ幼い天皇が、近習や女房たちを転ばせて楽しもうとして
御所の廊下に滑石をまいたところ、誤って自ら転倒して頭を打ったことが
直接の原因になったと記録されています。不運としか言いようがないですが、
世間の人はみな、後鳥羽上皇の祟りだと噂しました。

四条天皇
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さてさて、ということで、幼帝についてのエピソードを拾って
みましたが、やはり天皇が幼くして即位する場合、
権力の中心が別に存在するということになるので、いろんな弊害が
起きてるんですね。では、今回はこのへんで。

関連記事 『安徳天皇と八岐大蛇』

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仏教書としての『日本書紀』

2019.05.20 (Mon)
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天照大御神と瓊々杵尊

今回はこういうお題でいきます。かなり地味で固い内容になるので、
スルーされたほうがいいかもしれません。「日本神道は宗教としては
特異である」と言われることがあります。一般的な宗教の要件としては、
イエス・キリストのような創始者がおり、聖書のような聖典のあることが
あげられますが、神道にはそのどちらもありません。

それと、守らなくてはならない戒律も、はっきり言葉で定められているという
わけでもないんですね。あえて言えば、『古事記』 『日本書紀』には
日本神話が書かれていますので、これが聖典とみなされることが多いんです。
ただ、『古事記』はともかくとして、自分は、『日本書紀』には
仏教を啓蒙するための書としての意図があると考えています。

もちろん、『日本書紀』の最初は「神代の部」から始まり、
天照大神の孫である「瓊瓊杵尊 ににぎのみこと」が高天原から、
日向の高千穂の峰に天孫降臨します。ここから万世一系で、
現天皇家まで血筋が続いているというのが『日本書紀』の主張です。

これは、一種の「王権神授説」と見てもいいかもしれません。
実際に万世一系で王統がつながっているかどうかはともかく、
政治的に他の豪族の上に立ち、民衆を支配するための理屈が、
日本神道という宗教を軸にして述べられているわけです。

舎人親王像
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では、そういう内容なのに、どうして『日本書紀』が仏教啓蒙的な
側面を持つなどと言うかというと、これはつくられた時代を考えなくては
なりません。『日本書紀』のはじまりは、天武天皇が川島皇子以下
12人に対して歴史書の編纂を命じ、舎人親王らの撰で、
養老4年(720年)に完成したことになっています。

このときは奈良時代で、仏教が精神面を支配する世の中になっていました。
「神仏習合」という言葉がありますが、日本の土着信仰である神道と、
仏教信仰が融合し一つの信仰体系として再構成されたもので、
「本地垂迹説 ほんちすいじゃくせつ」が唱えられました。

本地垂迹による、仏と日本神話の神との対応図
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日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた
権現であるとする考え方のことで、例えば、天照大神の本地は、
宇宙神である大日如来とされます。公式には仏が主体で、神道は従。
この考え方は、明治維新にともなう「神仏判然令」まで続くんですね。

また、編纂者である舎人親王も、深く仏教に帰依していました。
ですから、仏教的な視点に立って『日本書紀』をながめることは
きわめて大切なんですが、自分は、どうもこの視点を軽視している
研究者が多いような気がしているんです。

大日如来(天照大神)
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さて、『日本書紀』には「仏教公伝」の様子がくわしく書かれています。
みなさんも社会の授業で勉強したことを記憶しておられるでしょう。
「崇仏論争」では、欽明天皇が百済から伝来した仏像を群臣に見せて、
「これを礼すべきかどうか」と尋ねたのに際し、古くから日本神道の
儀式を司っていた物部尾輿は、「国神が怒ります」と答えます。

これに対し、開明的な蘇我稲目が、「西の諸国はみな仏を礼しており、
日本だけこれに背くことができません」と受容を勧めました。
この後、崇仏派と廃仏派の対立は激化し、ついに蘇我馬子と
物部守屋の間で戦争が起こって、物部氏が滅ぼされることになります。

つまり、はっきりとした形で仏教側の勝利が書かれているわけです。
この過程で、廃仏派は仏像を川に投げ込んだり、3人の尼をとらえて
裸にし、尻をムチで打つなどの激しい廃仏毀釈を行ったことに
なっています。まあ、実際にそういうことがあったかはわかりませんが、
仏を信じなかった物部側が、罰を受けて滅びたととることもできます。

蘇我馬子と物部守屋
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それから聖徳太子の存在ですね。近年、「聖徳太子の事績の多くは、
後世に付加されたものである」とする研究が増えてきています。
有名な「十七条憲法」なども、使われている字句から、
聖徳太子がつくったという事実が疑われているんです。

これは自分もそうだと思います。厩戸皇子という有力皇族がいたのは
間違いないでしょうが、その人物が仏教の守護者的な「聖徳太子」で
あったという伝説がつけ加えられたのは後世のことで、『日本書紀』の
記述も、意図的に聖徳伝説を広めるため書かれたものでしょう。

このように考察すると、『日本書紀』は、一面から見れば、
古代日本がどのようにして仏教を受容してきたかということを
説いているとも言えるんですね。ただし、仏教国となったからといって、
神道を完全に捨て去らなかったのは、
古代日本人の優れた知恵であったとも思います。

戦いの先頭を走った宇佐神宮の神輿
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さてさて、『日本書紀』が完成した720年は、「隼人の乱」という、
九州南部に住む隼人族が朝廷に対して大規模な反乱を起こしています。
戦いは1年以上も続き、数千人という、当時としてはけた外れの
死傷者を出した上で、隼人側の敗北に終わっています。このとき、
大分県宇佐市にある宇佐神宮に「仏」が降臨し、

その指示に従った神宮では、神輿を戦いの場に走らせて勝利に導いたと
されますが、これが神仏習合が深まる大きなきっかけと
なりました。やがて752年、聖武天皇により東大寺大仏の
開眼法要が営まれ、日本は仏教による「鎮護国家」をめざしていくことに
なるわけです。では、今回はこのへんで。

東大寺毘盧遮那仏
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百舌鳥・古市古墳群について

2019.05.14 (Tue)

大仙古墳(仁徳天皇陵)

政府は14日未明、国連教育科学文化機関(ユネスコ)諮問機関のイコモスが、
世界文化遺産に「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府)を登録するよう
勧告したと明らかにした。アゼルバイジャンの首都、バクーで開かれる
ユネスコ世界遺産委員会の審査で、登録可否が決定される。

登録勧告は尊重されるのが通例で、登録はほぼ確実となった。陵墓が
世界遺産になるのは初めて。登録が正式に決まれば、国内の世界文化遺産は
19件、自然遺産を含めた世界遺産は計23件となる。大阪府では初めて。

百舌鳥・古市古墳群は、百舌鳥エリア(堺市)と古市エリア
(羽曳野市、藤井寺市)の計49基で構成。古墳時代最盛期の
4世紀後半から5世紀後半、大陸と行き来する航路の発着点だった
大阪湾を望む場所に築造され、航路からの眺望を意識したとみられる。

(産経新聞)

今回はこのお題でいきます。科学ニュースに入ってたんですが、
科学ニュースとはちょっと違う気がしますね。
これはユネスコの機関に日本側から諮問していたもので、世界文化遺産に
なるのは確実と見られますが、いろんな問題をはらんでいます。
それにしても、大阪府で初というのは意外です。

百舌鳥・古市(もず ふるいち)古墳群は、5世紀を中心に約230基の
古墳が築かれたとされていますが、戦後復興や高度経済成長に伴う開発で
多くの古墳が破壊され、今は89基に減少しています。
世界文化遺産になれば、しっかりとした保全が求められますが、
これほど都市のどまん中にある世界遺産は類例がありません。

前方後円墳を中心とする古墳群は、それまでは奈良にありましたが、
そこから築造の中心が大阪に移ってきたんですね。
これは引用記事にあるとおり、船がつく大阪湾に巨大な古墳を築いて、
来航者に見せつけようとする意図があったためと推測されています。

民のかまどの煙が立たないのを憂えたとされる、仁徳天皇


さて、まず最も大きな問題ですが、世界遺産として世界に公開していく
ためには、きちんとした調査が求められます。その遺産にどういう歴史的、
文化的意義があるのか、押さえておく必要があるのは当然ですが、
巨大古墳のほとんどは、宮内庁によって調査が禁じられています。

基本的に立ち入りは禁止で、一般公開はされていません。発掘は、
墳丘保護を目的にした範囲にとどまり、被葬者を納めた石室などの
調査は行われてはいません。これは宮内庁の、「陵墓は皇室の祖先の
お墓として祀るべきものである」という見解によります。

井沢元彦氏


このことについて、作家の井沢元彦氏は著書において、
「宮内庁は、古墳の調査は墓を荒らすことになって不敬だと言うが、
そもそもその陵墓に、どの天皇が葬られているのかは宮内庁が
勝手に決めたもので、実際はそうでない可能性が高いものが多い。

墓をとり違えて祀っている宮内庁自体が、最も不敬なのではないか」
こういった過激な意見を述べておられて、それには自分も
賛同する部分もあります。陵墓の被葬者について、
宮内庁と研究者の見立てが異なっているものは多数あるんです。
ですが、宮内庁では名称等を変更する気はないようです。

ですから、以前は「仁徳陵古墳」と呼ばれいた日本最大の陵墓は、
現在、学術的には地名をとって「大山(だいせん)古墳」とされます。
卑弥呼の墓の説がある「箸墓古墳」も、研究書では
「箸中山古墳」と書かれることが多いんですね。

さらに、近年の歴史学の流れとして、『日本書紀』に記されている
王統譜も疑われているんです。どういうことかというと、
かつて、「倭の五王問題」というのがありました。宋の歴史をまとめた
『宋書』に、中国に朝貢してきた倭人の王「讃・珍・済・興・武」の
5人の名前が出てきて、それが記紀の誰にあたるかという研究です。

「倭の五王問題」 『日本書紀』の系譜はどこまで正しいのか?


以前は、「讃が仁徳天皇」 「武が雄略天皇」などと活発に議論が
かわされていたんですが、現在は下火になってしまいました。
なぜかというと、そもそも『日本書紀』の王統譜は信じられるものか、
もっと言えば、本当に仁徳天皇なんて人物はいたのか?
という疑問が出てきてるからです。

自分はこの考えにおおむね賛成です。『宋書』の記述は信憑性が高い
と思いますが、記紀の王統譜は、第26代の継体天皇以前は
そのまま信じるのが難しく、『記紀』に伝えられる干支や系譜を
もとに倭の五王を推定するという試みは意味がない、
という考えが主流になってきてるんです。

さて、応神天皇や仁徳天皇については、その治世の時代が、
大陸から騎馬文化を受容する時期と重なっていることから、もとから
日本に住んでいた人物ではなく、大陸から来た征服王朝の王ではないか、
とする意見があります。たしかに、このあたりの『日本書紀』の記述は
不自然で、年代を操作するなど、疑われてしかたない部分があると思います。

誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の陪塚(丸山古墳)から出土した遺物


ですから、「応神天皇の古墳を発掘すると、日本の皇室にとって不都合な
ものが出てくる可能性が高い、それで発掘が行われないのだ」とする
うがった見方もあるんです。自分はその可能性は少ないと思いますが、
もしそうだとしても、事実を明らかにするのことは大切です。

ただ、もし宮内庁の許可が出て、これらの巨大古墳が発掘されるとしたら、
莫大な費用が必要になります。その費用はいったいどこから出るのか?
また、発掘工事にともない、市民生活にも影響が出るでしょう。
遺跡を発掘する基本は、現在の生活にできるだけ影響を与えないことなので、
そのあたりのからみも難しいんです。

このまま世界文化遺産として認められれば、これまで以上に景観保護も重要に
なります。現在、堺、羽曳野、藤井寺の3市は、古墳周辺にバッファゾーン
(緩衝地帯)を設定し、建築物の高さ規制や景観規制などを行っていますが、
それがますます強化されることになるんでしょう。

さてさて、ということで、百舌鳥・古市古墳群がかかえる諸問題を
見てきましたが、景観を保ち、陵墓としての尊厳を守りながら、
どこまで情報公開が可能なのか、大変難しい話だと思います。
では、今回はこのへんで。