FC2ブログ

賢治と狐と密造酒

2021.02.17 (Wed)


今回はこういうお題でいきます。何のジャンルに入るのか
難しいですが、いちおう「怖い日本史」にしておきます。さて、
みなさんはお気づきになられたと思いますが、狐と密造酒、
どちらも宮沢賢治の作品に出てきます。『雪渡り』は大正10年に
発表された童話で、生涯に賢治が唯一の原稿料を手にした作品。

狐の幻燈会に招待された子どもたちと子狐たちの交流を
描いた内容です。雪渡りは、積もった雪が低温で固くなり、
どこまでも歩いて渡れる状態のこと。雪の降り積もった日、
四郎とかん子の兄妹が野原に遊びにいき、森で狐をからかう
歌を歌っていると、ほんとうに狐がやってくる。



狐の紺三郎が二人に黍団子をすすめるが、かん子がつい、
狐の団子は兎のくそと失言する。それを聞いた紺三郎は
気を悪くし、嘘つきは人間の大人のほうであると主張して、
それを説明するための幻燈会に二人を招待する。
幻燈会はスライドを使った今の映画会のようなもので、

学校の行事としてあったようです。スクリーンに
「お酒のむべからず」と字が映し出され、村人2人が酔って
野原で変な物を食べている2枚の証拠写真が映し出される。
それから幻燈会が中休みになり、かわいい狐の女の子が
黍団子を二人の前に持ってくる。



2人は団子を食べるのをためらい、また気まずい雰囲気となるが、
四郎は紺三郎がだますはずがないと結論し、2人は団子を
平らげる。団子はおいしく、狐たちは信用してもらえた事に
感激し、狐の生徒はどんなときでも嘘はつかず、盗まないという
歌を歌って聞かせてくれる・・・こんなお話でした。

いっぽう、『税務署長の冒険』は宮沢賢治の作品の中では異色で、
中編に近い長さがあり、内容も童話とは言いにくいものです。
賢治が大正12年頃に書いたものとみられており、
サスペンスタッチが取り入れられていて、



村ぐるみで酒の密造を行う村人たちと、それを摘発しようとする
税務署長の攻防が描かれます。長くなるので筋は書きませんが、
賢治の作品は著作権が切れており、ネットの青空文庫などで
ほとんど読めるので、興味を持たれた方は探してみてください。

で、この作品、最初は完全なフィクションとみられていたんですが、
研究家により、1923年(大正12年)に、岩手県湯田村
(現 西和賀町)で濁密の取り締まりにあたっていた花巻税務署の
税務属が、住民に半殺しに会う事件が起きていたことがわかります。
賢治の作品は、この事件をタイムリーに反映したものだったんです。

摘発された密造酒
キャプチャddd

当時の密造酒は、どぶろくを自家用につくるくらいは見逃されて
いましたが、さすがに村ぐるみで清酒の製造まで行っては
摘発の対象になります。1875年(明治8年)に日本初の
近代的な酒税法が策定された後、酒税法の整備にともなって、
自家製像酒に対する制限が強化されるようになっていきます。

ただ、密造酒摘発は警察ではなく税務署の仕事とされ、日本各地で
農民の抵抗は大きく、あちこちで税務署員が殉職・遭難するなどの
トラブルが起きています。賢治が書いた花巻の事件も、
そんな中の一つだったわけですね。

現在は制限がゆるくなったドブロク
キャプチャsd

さて、狐や狸が人を化かすという話がありますね。奈良時代ころから
文献に出てきますので、古くからそう信じられていたのは確かですが、
明治になって「村人は狐や狸によく化かされるのに、政府のお雇いで
来た外国人は化かされることがなかった」と言われました。

これ、どういうことなんでしょうか。自分は、上記した密造酒と
関係があるものと見ています。明治時代に日本に来た外国人は
クラーク博士のような指導的な立場の人で、一定の知識技術と
教養を持っていました。まして発展途上中の異国の地で、
酒を勧められても、泥酔するようなことはなかったでしょう。



これに対し、村人が密造酒を飲んで酔っ払う、それでふらふらと
村内をさまよって肥溜に落ちたり、山中に迷い込んでいったりする。
また、団子と思って馬糞を食べてしまう。しかし、密造酒で酔った
とは言えず、狐や狸に化かされたとする。

それで八方が丸く収まるわけです。自分の考えでは、酒類の製造が
自由だった明治以前はともかく、酒税法公布以降は、
酒を飲んでの失態が、狐や狸のせいにされたという側面が大きかった。
賢治も、もちろんそのことは知っていたわけです。

キャプチャddddf

ですから、『雪渡り』と『税務署長の冒険』にはつながりがあります。
『雪渡り』の中で、狐の幻燈会で「お酒のむべからず」が
映されるのは、おそらく賢治の皮肉なんでしょう。その後、密造酒の
実際の事件が起き、それをテーマに『税務署長の冒険』が書かれた。

さてさて、ということで、昔から化かすという言い伝えがあった
狐と狸が、村人が泥酔して起こす珍事件の隠れ蓑にされていたと
考えることができそうですよね。賢治は、密造酒にというより、
狐のせいにされているのが不満だったんでしょう。
では、今回はこのへんで。




スポンサーサイト



孝謙天皇は阿修羅だったか?

2021.01.02 (Sat)
c (3)

今回はこういうお題でいきます。日本史の分野なんですが、
この記事はまあ、面白歴史読み物と考えていただければいいかと
思います。内容に、推測とこじつけが含まれているからです。
さて、何から説明していきましょうかね。

やはり最初は阿修羅についてかな。阿修羅は八部衆(仏教を守護する
8体の闘神)のうちの一体です。バラモン・ヒンドゥー教の神
アスラが仏教に取り込まれたもので、もともとは天界の神でした。
それが天帝である帝釈天と戦い、天界を追われて阿修羅道に生きる
ことになります。阿修羅道は果てしない戦いの世界です。

一般的な阿修羅像
c (8)

阿修羅の体は戦いに特化し、三面六臂(頭が3つに腕が6本)と
なっています。それがあるとき、お釈迦様の教えを聞いて
仏教に帰依することになるんですが、もともとが闘神でしたので、
一般的な阿修羅像の3つの顔は、怒りで頬をこわばらせ、

目をむき、牙をつき出し、髪を逆立てた荒々しい姿で表現されます。
また、6本の手には、刀剣や盾、弓矢を持っています。
ところが、日本で最も有名な興福寺の阿修羅像は少し違います。
眉根を寄せた少年のような顔、体も腕も細く、女性的であり
武器類を手にしていません。

c (2)

この仏像は日本製と考えられますが、写実的な顔は誰かをモデルに
したものでしょうか。で、この阿修羅像、じつは若き日の孝謙天皇
(後に重祚して称徳天皇)ではないかとする説があるんです。
まずは興福寺の歴史から。もともとは、藤原鎌足の病気平癒を
願って、夫人の鏡大王が山背国山階に建てた山階寺でした。

奈良時代になり、鎌足の子、藤原不比等が、平城遷都に際し、
平城京左京の現在地に移して興福寺と名づけます。以後、興福寺は
藤原氏代々の氏寺として帰依を受けてきました。興福寺には多数の
仏像があることで知られていますが、この阿修羅像を含む一群は、

興福寺の八部衆像 他の仏像はみな鎧を着ており、阿修羅像だけが異質
c (1)

初めて王族以外から立てられた、聖武天皇の后である光明皇后が
つくらせ、734年、母親(橘三千代)の一周忌供養のために
興福寺に寄進されたと考えられています。聖武天皇が奈良の
大仏を国家鎮護のために造立したことはよく知られていますが、
その夫人であった光明皇后も仏道に深く帰依しており、

東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられます。で、
この阿修羅像、それまでに見られない特異な表現であり、モデル
となったのは、そのただ一人の子であった(男児は生まれたものの
育たず)阿倍内親王ではないか、という説があるんですね。

c (5)

日本の歴史において、天皇に男子の跡継ぎがないのは大変に
危険な状態で、乱がしばしば起きています。阿倍内親王は738年に
立太子して史上唯一の女性皇太子となり、749年、父である
聖武天皇の譲位により、孝謙天皇として即位します。
聖武天皇は756年、病をえて崩御。

孝謙天皇は独身であり、その次の天皇をどうするかの見通しが
立たないことを心配しながら、母の光明皇后は760年に
亡くなります。この後の歴史はみなさんもよくご存知だと思いますが、
光明皇后の危惧のとおり、次々と騒乱が起きることになります。

橘奈良麻呂
c (4)

まず、757年、次代天皇に道祖王を押していた橘奈良麻呂が、
孝謙天皇に道祖王を廃されたことでクーデターを計画。しかし
事前に察知され、捕縛されて過酷な拷問を受けます。
道祖王は拷問死。『続日本紀』には首謀者である奈良麻呂の名が
出ていませんが、同じく拷問死、あるいは暗殺されたと考えられます。

この乱をうけ、孝謙天皇は退位し、太上天皇となります。
もめていた次の天皇位には大炊王がつきます。しかし実権は孝謙上皇
が握っていました。この頃、藤原南家の出身である藤原仲麻呂が
勢力を伸ばし、孝謙上皇の寵愛を受けて大納言に昇進し、
上皇から「恵美押勝」の名を賜ります。

藤原仲麻呂
c (6)

これが仲麻呂の絶頂期でしたが、760年に光明皇太后が没すると、
孝謙上皇と仲麻呂の関係は微妙になっていきます。その理由の一つが、
病になった孝謙上皇が、自分を看病した道鏡を側に置いて寵愛するように
なったことです。危機感を抱いた仲麻呂は、764年、反乱を計画し、
藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)が起きます。

琵琶湖の周囲での戦いで仲麻呂は敗北し、家族とともに船で
逃れようとしたところを捕らえられ斬首。一家も皆殺しにされます。
仲麻呂側についていた現天皇である大炊王は淡路島に配流。
翌年に暗殺されたとみられます。これ以後、大炊王は諡号もなく
淡路廃帝と呼ばれ、淳仁天皇の号が贈られたのは明治になってからです。

c (7)

あ、もう字数がなくなってきました。この乱の後、孝謙上皇は
ふたたび天皇位に重祚して称徳天皇となり、次の天皇位を道鏡に
譲ろうと画策しますが、宇佐八幡宮の神託により それはかなわず、
770年病没。道鏡はすぐさま失脚し、下野国薬師寺別当として
追放されることになります。

さてさて、この他にも、孝謙ー称徳の治世には、不破内親王の呪詛事件
なども起きており、争いが続きました。まさに戦いの中でしか生きられない
阿修羅のような生涯だったわけですが、もし興福寺阿修羅像のモデルが
幼い日の孝謙天皇だったとすれば、因縁めいた話だなあと思います。
母、光明皇后は、そのような生き方を娘に求めたのか?

この後は、次々と皇子、内親王が粛清されていく中、いつも酒を飲んで
日々を過ごすことで、凡庸・暗愚を装って難を逃れていた白壁王が、
光仁天皇として位を継ぎます。すでに62歳になっていました。
では、今回はこのへんで。

関連記事 『陰陽剣と光明皇后』







銭形平次は成り立つか

2020.12.16 (Wed)
xxxxx (5)

今回はこういうお題でいきます。直近に座頭市のことを書いたので
その流れですね。さて、江戸時代の犯罪事情はどのようなものだったか。
まとまった資料はなく、裁判記録などの断片的なものが多いんですが、
人口に比例して多かっただろうと考えられます。

江戸の人口、これにも諸説あって論争になってるんですよね。
まあ中間的な説で、最盛期には武家寺社旅人が100万人、町人が
50万人の計150万といったところでしょうか。そのわりには
凶悪犯罪は少なかったという見方もできるかもしれません。
あと、犯罪より、火事による死者がひじょうに多かったんです。

xxxxx (1)

で、この江戸の町人社会の治安を担当するのが南北の町奉行所ですが、
人口50万に対して役人の数があまりにも少ない。両奉行所合わせて
与力は50人、その配下の同心が200人です。しかも、北と南の
奉行所で一月交代の月番制でした。月番でない奉行所も、訴訟などの
審理、処理を行っていて、休んでいるわけではなかったんですが。

「必殺シリーズ」に出てくる中村主水は同心で、「八丁堀」と
呼ばれていたのは、そこに官舎があったからですね。与力と同心は
はっきりと身分の違いがあり、与力は寄騎とも書くとおり、
騎馬が許されました。仕事は行政や司法業務。その配下が同心で、
雑務や市中の見回りを担当。検死や拷問などの汚れ仕事あり。

xxxxx (4)

これらの与力・同心は事実上ほぼ世襲であったため、数を増やすのが
難しかったんですが、幕末の混乱期には多少増やされています。
でも、この人数ではとてもやっていけませんよね。そこで、
同心が私的に雇っていたのが岡っ引きです。岡っ引きは、
目明かし、御用聞きなどとも言いますね。

岡っ引きの人数はだいたい500人ほどと考えられ、さらにその手下の
下っ引きを入れても1000人くらいだったでしょうか。もちろん
幕府公認の役職ではなく、お役目料も同心の私費から支払われて
いたんです。ですから、岡っ引きだけを職業とするのは難しい。
テレビの『銭形平次』は、原作が野村胡堂が書いた『銭形平次捕物控』。

南町同心だった中村主水、岡っ引きは使ってなかったようですね
xxxxx (2)

トレードマークの投げ銭は原作から登場し、重さ3.5gの
寛永通宝を悪人の急所に投げつけます。だいたい現代の5円玉くらい
ですね。ちなみに、このアイデアを、胡堂は『水滸伝』の投石が
得意な登場人物、没羽箭の張清を参考にしたと書いています。
(没羽箭は弓矢いらず、といった意味)

ただ、テレビドラマですから脚色があります。岡っ引きはつねに
十手を持っているわけではなく、実際は事件に加わるたびに
奉行所に十手を取りに行っていたようです。また、十手を携帯する
際も、見えるように帯に差すのではなく、懐などに隠し持つよう
指導されていました。

十手 岡っ引きのものは房はついていません これで刀を持った相手を取り押さえるには特殊な技が必要
xxxxx (6)

もともと岡っ引きは「放免」と言って、一度犯罪を犯して許された
者がなる場合が多かったんです。そのほうが犯罪者仲間の動静に
詳しく、密告や内偵がしやすいからです。上記したような事情から、
岡っ引きだけで食っていくのは難しく、その地域の顔役、いわゆる
「親分」が二足のわらじで務めていることが多かったんですね。

また、家人に髪結いや小間物屋、飲食業をやらせている場合も多かった。    
で、こういう実情だと、岡っ引きの中には奉行所の威勢を借りて
威張るものや、犯罪者を見逃して金を取るもの。商家からワイロを
巻き上げるものなどがいて、弊害も大きく、幕府はたびたび
「目明かし禁止令」を出していますが、守られませんでした。

南町奉行所のセット
xxxxx (7)

さて、では、この少ない人数と怪しげな岡っ引きで、どうやって
江戸時代の治安が守られていたかというと、町人は何かの被害に
遭っても、まず奉行所には訴えません。面倒なことになるからです。
江戸時代の職業の一つとして、「行き倒れ屋」(笑)というのがあり、
大きな商家などの前で倒れて死ぬ真似をする。

そういった場合、商家では何がしかの金を与えて済ませる。
それと、江戸時代の刑罰が厳罰主義だったことも大きいですね。
ですから、町方はできるだけ奉行所には知らせず、示談で済ませて
しまいます。特に罰が厳しかったのが姦通関係。

密通罪で生き晒しされる男女 この後死罪
xxxxx (1)

江戸幕府の定めた「御定書百箇条」には「密通いたし候妻、死罪」
とあり、「密通の男(不倫相手)」も死刑でした。武士の場合を
そのまま町人にあてはめたんでしょうが、あまりに厳しすぎますよね。
そこで、発覚した場合はほとんどが示談で済まされ、金額の相場も
だいたい決まっていたようです。

この他に、交通事故というのもあり、例えば大八車で人を引っ掛けて
殺した場合は死罪。風にあおられてぶつかった事故でも遠投。でも、
それだと被害者には1銭も入らないので、示談になったりしています。
また、10両盗むと首が飛ぶとも言われますが、被害者が犯人の
極刑を望まず、被害を少なく報告するなどのこともあったようです。

自身番 火の見櫓つき
xxxxx (3)

さてさて、ということで、江戸時代の犯罪事情を見てきましたが、
テレビの『銭形平次』や『半七捕物帳』のように、岡っ引きが颯爽と
活躍するシーンは多くはなかったでしょう。ただ、江戸幕府自体は、
町方に過度に介入することを避けており、町々には「自身番」が
置かれました。そこに勤めたのは地主・大家に雇われた町人で、

暴れている者などがいれば刺股などを持って駆けつけて取り押さえ、
捕縛して自身番に留め置き、奉行所に連絡して同心に引き渡す。
ですから、そういうときには、テレビで見られるようなシーンが
あったかもしれません。軽犯罪であれば町内で解決する自助努力が
求められていたわけです。では、今回はこのへんで。

xxxxx (8)




『古事記』の謎

2020.11.28 (Sat)
33334 (4)

今回はこういうお題でいきます。日本史の内容ですね。さて、
当ブログでは歴史の謎をめぐる話もあれこれ書いてるんですが、
資料としては、できるだけ『日本書紀』のほうを使うようにしてます。
理由はもちろん『日本書紀』が正史だからです。

『古事記』と『日本書紀』では、固有名詞の用字がほとんど違っていて、
例えば、スサノオノミコトは『古事記』では「須佐之男命」、
『日本書紀』だと「素戔男尊」になります。「ミコト」を「命」に
つくるのが『古事記』、「尊」とするのが『日本書紀』と
覚えておけば わかりやすいかな。

33334 (8)

当ブログでは、特に事情がないかぎり『日本書紀』のほうの
表記を用いるようにしてます。さて、『古事記』の謎として
大きく3つが取り上げられることが多いですね。まず一つめは、
編纂者の一人である稗田阿礼(ひえだのあれ)について、
どのような人物だったか、というもの。

『古事記』の序文には、「時有舎人 姓稗田 名阿礼
年是二十八 為人聡明 度目誦口 払耳勒心 即 勅語阿礼
令誦習 帝皇日継 及 先代旧辞」と出てきます。
ここからわかるのは、舎人の身分で年齢が28歳だったこと。
たいへん聡明だったため「帝紀」 「旧辞」を暗唱させられていたこと。

太安万侶と稗田阿礼
33334 (2)

この稗田阿礼については、① 架空人物説 ② 女性説 
③ 語り部集団説などがあります。まず、名前がひじょうに疑わしい
ですよね。「雑穀の畑で生まれた(卑しい人物)」という意味に
解釈でき、なんか おざなりだなあという気がします。

このうち②の女性説は、民俗学者の柳田國男氏などが唱えていますが、
明確な根拠があるとは言えないものです。舎人とありますが、
これは皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた身分で、
基本的に男性です。ただ、舎人だったとすれば他の資料にも名前が
みえてよさそうなのに、それはないんですね。

太安万侶
33334 (9)

まあ、結論の出るようなことではないですが、あえて言うなら
自分は①の架空人物説を取りたいと思います。つまり、そんな人は
いなかった。理由は後述します。ちなみに、稗田阿礼の誦習する
『帝紀』『旧辞』を筆録した太安万侶は実在の人物で、1979年、
奈良県奈良市此瀬町の茶畑で墓と墓誌が見つかっています。

さて、2つめの謎は、『古事記』はなぜ編纂されたのか? 
というもの。同時期に『日本書紀』が成立しており、同じような
内容のものが別々につくられた意味がわかりません。ここで
『古事記』編纂の経緯をみてみましょう。

太安万侶の墓 最終官位は民部卿従四位下
33334 (3)

その序文によれば、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた
『帝皇日継』と『先代旧辞』を、711年9月、第43代元明天皇から
筆録して史書を編纂するよう太安万侶が命じられ、翌712年1月、
『古事記』として天皇に献上したとなっています。

645年、天智天皇らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)が起こり、
入鹿の父である蘇我蝦夷は、邸宅に火をかけ自害しました。このとき、
朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したとされ、
『天皇記』など数多くの歴史書はほとんどが失われ、『国記』は難を
逃れて天智天皇に献上されたとされますが、どちらも現存していません。

女帝であった元明天皇
33334 (7)

自分の考えでは、おそらく、白村江の戦いなどで史書編纂どころでは
なかった天智天皇から天武天皇へと権力が移行したとき、
天武天皇は『天皇記』 『国記』の内容を、自分の政権に都合のいい
形に改ざんしようと目論んだのだろうと思います。蘇我氏を悪人に
仕立て、また壬申の乱での自分の立場を正当化しようとした。

以前記事に書きましたが、天武天皇は日本史上、傑出した人物で、
「天皇号」を初めて使用し、仏教と神道、どちらも天皇家に
都合のいい形で整備し、国家の霊的な支配を試みています。ですから、
前代の史書の内容の改変を計画しても不思議はないと思います。

33334 (1)

その改変のプロジェクトチームが、稗田阿礼ということです。
また、720年の『日本書紀』の完成の前に『古事記』が出されたのは、
いきなり正史でとする『日本書紀』が出て、各有力氏族から内容に
ついて、特に神話部分で異議が上がらないよう、
先触れとして周知させるため。

まあ、このあたりのことは妄想と言われてもしかたないような
ものですが、自分はそんな気がするんですよね。
さて、3つめの謎は、『古事記』偽書説です。じつは後代の作であった
というもので、全体が偽書であるという説と、序文だけが後の世に
つくられたとするものがあります。これは幕末の国学隆盛期に

天岩戸
33334 (6)

賀茂真淵が唱え、明治や昭和の時代にも論じられましたが、はっきりした
根拠はないと言っていいと思います。偽書説の論点の一つが、稗田阿礼の
実在性が非常に低いことなんですが、自分は、これまで書いてきたように、
稗田阿礼とは歴史改変のための機関だったという説を取っていますので、
実在性が低いのは不思議とは考えません。

さてさて、ということで、『古事記』についてみてきました。
いずれにしても、『日本書紀』 『古事記』ともに、壬申の乱の勝者である
天武朝がつくった史書なんですよね。その視点はつねに考慮しておく
必要があるかと思います。では、今回はこのへんで。

関連記事 『霊的巨人 天武天皇』

33334 (5)




退場させられる国津神

2020.11.23 (Mon)
eeeee (1)

今回はこういうお題でいきます。いちおう日本史のカテゴリに
入れておきますが、神話をあつかった内容なので、
眉唾なところもかなりあります。その点はご承知おきください。
さて、どこから書いていきましょうかね。

『日本書紀』などに見る日本神話では、この世界は3層構造に
なっていると考えられていたようです。すなわち、
天津神々がすまう高天原、われわれがいるこの地上である
葦原中国、そして死者の世界である黄泉国。中つ国とは、
高天原と黄泉国の中間という意味なんですね。

キャプチャ

で、高天原にいるのが天津神です。天津神が葦原中国に天下っても、
その立場は変わりません。国津神は、葦原中国にもともといた神の
総称です。では、なぜこういった区別があるのか。一般的には、
大和朝廷によって平定された地域の人々が信仰していた神が国津神に、
大和朝廷の皇族や有力な氏族が信仰していた神が天津神に

なったと言われ、大筋では間違ってはいないでしょう。あと
高天原を追放された素戔嗚命とその子孫も国津神。
ここで余談です。上で「大和朝廷」という語を使っていますが、
自分は、これは神話などを論じるときに使用し、考古学的な
議論のときには「ヤマト王権」の語というように使い分けています。

天孫降臨
eeeee (4)

さて、大和朝廷の歴史を一言で説明しろと言われたら、自分は
「国造(くにのみやつこ)を国司(こくし)に代えていく歴史」と
答えます。この両者の違いはおわかりだと思います。国造は、
その地方に古くからもともといた豪族で、軍事権、警察権、
裁判権などを持ち、実質的にその地方の支配者でした

大和朝廷は中国のような中央集権国家をめざし、これを中央から派遣した
官にとって代えたいと考えていましたが、実際にそれが行われたのは、
大化の改新以降のことです。改新の詔には、東国国司を置いたことが
記されていますが、もちろん全国一律に置けたわけではなく、

eeeee (2)

少しずつ切り替わっていったと考えられます。また、地方でそれまで
国造を務めていた血筋の多くは、国司が置かれて以降は、神社の
宮司など、主に祭祀を司る世襲制の名誉職となっていきました。
このあたりのことを調べていくと、あれこれ興味深い話が出てきます。

さて、お題になっている「退場させられる国津神」というのは、
ここまで記したような歴史的な背景がもとになっているんだと
自分は考えています。退場させられた代表は大国主命ですよね。
高天原にいます天照大神は、「葦原中国はわが子が治めるべき
国である」と宣言し、何柱かの神を送り込みますが、

呪いである天の逆手 手を背後に回し指を下に向けて打つ、
手の甲を打ち合わせるなどの説もあります

eeeee (6)

大国主命は、それらの神を懐柔してしまいます。そこで荒々しい
軍神である建御雷神(たけみかづち)と経津主神(ふつぬし)を
送り、ついに大国主命は「この国を天津神にさし上げます。
そのかわり、私の住む所として、高く大きな宮殿を建てて下さい」
そう言って隠れてしまうんですね。

また、大国主命の息子の一人、事代主神(ことしろぬし)は、
水上に出て船をひっくり返し、「天の逆手」を打ち、船の上に
青柴垣を作ってその中に隠れます。このことから「天の逆手」は
呪いの行為と考えられますが、どういう形なのかは はっきりしません。

諏訪大社
eeeee (7)

もう一人の息子、建御名方神(たけみなかた)は国譲りを承服せず、
建御雷神に力比べを挑みますが、両腕をひしがれて逃げ出し、
長野県の諏訪湖まで追い詰められます。建御名方神は、
「恐れ入りました。どうか殺さないでください。この土地以外の
ほかの場所には行きません」と、そこで引き籠もってしまいます。

大国主命が隠れた場所には出雲大社が、建御名方神が
籠もった地には諏訪大社が造られることになります。
こんな感じで、国津神は物語の途中で退場してしまうんですね。
もちろん、国津神が高天原に上ることはありえません。
このような例は他にもいくつも見られ、わかりやすいのは

猿田彦神
eeeee (5)

猿田彦神の話かな。邇邇芸命が天降りしたとき、高天原から
葦原中国までを照らす異形の神がいました。そこで天照大神らが、
名を尋ねさせ、邇邇芸命を先導してもらうようにしたんです。
こうして華々しく登場した猿田彦神ですが、
やはり役目が終わると退場させられてしまう。

それも、比良夫貝という貝に手をはさまれ、溺れて死んでしまう  
という、ごくあっさりした形でです。ということで、
『古事記』も『日本書紀』も、天津神と国津神の処遇の違いに
たいへんに気を使って書かれてるんです。

後に地震制御の神ともなった鹿島神宮の主神 建御雷神
eeeee (1)

記紀が完成した8世紀の前半は、南九州で隼人の乱が起きていました。
シラス台地は水田耕作には向かず、班田収授の法が適用できません。
そのため、記紀は出雲神話や日向神話を大きく取り入れ、それらの
地方に気を遣いながらも、天孫勢力と地元豪族との違いを
はっきりさせようとも意図したわけです。

さてさて、大和朝廷が設置した国司は、国衙において政務にあたり、
祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、絶大な権限を持ち、
ひと財産をこしらえることができましたが、やがて荘園の発生とともに
その地位を武士に奪われていきます。ですが、記紀に書かれた
天孫降臨の思想はずっと底流を流れ、江戸の幕末に再び、
勤王という形で姿を現します。では、今回はこのへんで。





back-to-top