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記紀と考古学、弟橘姫

2020.07.07 (Tue)
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三浦半島の海蝕洞窟

今回はこういうお題でいきます。以前書いた「怖い古代史」に
加筆した内容です。けっこう専門的な話になるので、
興味のない方はスルーされたほうがいいかもしれません。
さて、何から書いていきましょうかねえ。

日本の古代史と言うと、西日本を中心としたイメージを持たれて
いる方が多いんじゃないかと思います。これはしかたないことで、
記紀の記述が西日本に偏っているからです。そもそも神武天皇は
南九州を出発し、瀬戸内の各地に立ち寄りながら熊野から
奈良に入り、日本の初代天皇として即位します。

ですがこれ、あくまで文献から見た場合で、考古学的には、
弥生時代から古墳時代前期にかけての東海、関東、東北の状況は、
地元研究者の努力によってかなり明らかになってきています。
あと、纒向遺跡の発掘調査から、最近は近江や東海の重要性が
強く言われるようになってきました。

弟橘姫の像
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さて、みなさんは倭健命はご存知でしょう。『古事記』では
日本武尊と書かれていますが、正史である『日本書紀』のほうの
表記を使いますね。当ブログでは、他の記事でもだいたい
そうしています。倭健命は、第12代景行天皇の皇子で、
第14代仲哀天皇の父にあたります。

幼い時分に誤って兄を殺したことで父天皇に恐れられ、
大和朝廷の勢力拡大のため全国に派遣されます。まず九州に赴き、
川上梟帥(熊襲建)を討伐。さらに古事記では、出雲の出雲建も
殺してしまいます。それが終わると今度は東国遠征です。
東海から相模、上総、陸奥国へと渡って大活躍しますが、

女装して川上梟帥を殺す倭健命
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その帰路、近江の伊吹山の神との戦いで敗れ、30歳で亡くなります。
全国をまたにかけた大遠征で、まさに超人的ですが、一人の人間が
これをやるのは不可能でしょう。そこで、倭健命は初期大和朝廷で
全国に散らばって王権拡大に努めた皇子たちを象徴した人格で
あるとの説が出されていて、自分も妥当な解釈だと思います。

さて、倭健命には何人かの妃がいましたが、弟橘姫もその一人で、
表現はよくないですが現地妻みたいなものです。上総(千葉県)の
浦賀水道で、倭健命は走水海を船で渡ろうとしますが、
海の神をあなどって罵ったため、海は大荒れに荒れ、
このままでは転覆をまぬがれそうもありません。

そこで、いつか倭健命につき従っていた弟橘姫が、自ら申し出て
海に入水。すると暴風はすぐに止み、無事に船を陸につけることが
できました。弟橘姫の伝説は周辺で言い伝えられ、姫を祀る神社
としては、神奈川県の走水神社などがあります。

現在の浦賀水道の航路
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さて、ここからは考古学の内容です。このエピソードの
舞台となった三浦半島には海に面した海蝕洞窟が多数あります。
そこでは、弥生時代から古墳時代の遺物が発掘されており、
シカやイルカの骨などが多いんですね。これは「卜骨」
(占いに使用された骨)と見られています。

その海蝕洞窟の一つから弥生時代中期(紀元前後)のバラバラに
なった人骨が出土し、近年、東京大学による再調査が行われました。
幼児1体を含む成人男女各5体、計11体の遺骨が出土しましたが、
これは死後に自然にバラバラになったのではなく、
骨に損傷痕(刃物による傷)がついていました。

出土した人骨の傷痕
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その解体の手順を研究してみたところ、シカやイノシシを
解体するのと同じだったんですね。それが、幼児をのぞく10体に
対して行われていた。つまりこの弥生人たちは、何らかの儀式の
ために解体されたのではないかとみられてるんです。

さらには、呪術的な「食人」の風習があったのではないかとの     
推測も出ていますが、損傷痕だけではそこまで言うことはできない
でしょう。このような海にごく近い場所で行われる儀式は、
航海の安全にかかわるものである可能性があると思われます。

入水する弟橘姫
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古くから三浦半島では、航海にかかわる何らかの儀式、生贄が
行われており、その話は古代においても知られていて、
弟橘姫の入水のエピソードとして記紀に取り入れられたと
考えても、そこまで強引な解釈とは言えない気がしますね。

自分は当ブログにおいて、記紀の古い時代の記述はそのまま
信じるのは困難といった内容を何度か書いていますが、
すべてが架空の物語ということではなく、考古学の研究成果と
リンクしているのではないかと考えられる部分も多いんです。

奈良県桜井市 磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)
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例えば、上で少し話が出てきた纒向遺跡ですが、遺跡のある場所が、
記紀に出てくる崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の都地である
磯城瑞籬宮、纏向珠城宮、纏向日代宮と、偶然とは考えにくいほど
合致してるんです。ですから、何らかの、それなりに確かな
伝承をもとにして書かれている可能性があります。

さてさて、このあたりが古代史研究の面白いところで、文献の
記述と考古学的成果が合致すると興奮します。どちらか
片方では、古代史の闇を照らすには不十分なのかもしれません。
同志社大の教授だった考古学者の森浩一氏は、早くから文献と
考古学の統合を唱えておられました。では、今回はこのへんで。

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日本における「王朝」

2020.06.25 (Thu)
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紫式部らの作品は「王朝文学」と呼ばれる

今回はこういうお題でいきます。カテゴリは日本史ですね。
ただ、この内容はきわめて地味でツマラナイいものになると
思われますので、特に興味のない方はスルーされてください。
さて、「王朝」という語をネット辞書で引いてみると、

「同じ王家に属する帝王の系列。また、その王家が
支配している時期。例 ブルボン王朝」というふうに出てきます。
まあ、これでいいと思いますが「同じ王家に属する帝王の系列」
の部分の解釈が難しいですよね。同じ血統が世襲で
続いてなくても王朝と呼べるんでしょうか。

例えば、現在の北朝鮮の体制を「金氏王朝」と言ったりしますよね。
金日成、金正日、金正恩と3代にわたって権力が父子で
継承されています。ちなみに、金正日は長男でしたが
金正恩は三男です。うーん、これねえ、一つの血統が
ずっと続いていくのって、すごく難しいんです。

東アジアの歴史時代区分(部分)
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側室の制度があった明治時代以前でも、ある家系が断絶の危機を迎え、
養子縁組をしてなんとかしのいだというケースは枚挙にいとまが
ありません。江戸時代の徳川家だって、御三家から養子をもらって
将軍にしています。現在の天皇家も継承の問題があり、宮家の復活、
女性、女系天皇を認めるなど、さまざまな形で議論されています。

さて、ここで少し話を変えて、中国の歴史時代区分には国号が
使われています。漢の時代、唐の時代、元の時代、明の時代といった
具合です。これらの国は、基本的に同姓の一族による世襲で
成り立っていました。それが易姓革命で入れ替わる。

初代神武天皇
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ところが日本の場合、みなさんが学生時代に社会の授業で勉強した
ように、古墳時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代など、
各時代の特徴をとらえた区分になっていて、王朝ということは
特に意識されていません。この理由はおわかりのことと思います。

ずっと、天皇家は万世一系の建前できたからです。初代神武天皇以来、
今上陛下に至るまで、連綿と2000年以上一つの王朝が続いてきた。
常識的に考えればそんなはずはないんですが、太平洋戦争以前は、
これに異を唱えるのは不敬とされ、古代天皇の非実在論を
説いた津田左右吉氏は罪を受けました。

第10代崇神天皇
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それが、敗戦により昭和天皇は人間宣言を行い、歴史研究にも
自由な空気が流れ込んできました。そうして、昭和23年、
江上波夫氏により「騎馬民族征服王朝説」が発表されます。ただしこの説、
すべては解釈の難しい状況証拠ばかりで、確実と言える根拠は
ありません。現代の史学では否定されることのほうが多いでしょう。

で、次に出されたのが、昭和27年に早稲田大学の水野祐氏が唱えた
「3王朝交替説」です。概略を説明すると、まず神武天皇から
第9代開化天皇までは架空の存在とします。日本の王朝は
第10代崇神天皇から始まった。神武天皇が「始馭天下之天皇
はつくにしらす すめらみこと」と呼ばれたのに対し、

水野祐氏
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崇神天皇がやはり「御肇國天皇 はつくにしらす すめらみこと」と
記載されています。字は違いますが、どちらも初めて国を
開いた天皇という意味です。さらに、第15代応神天皇のときに
王朝交代があった。王都の地が、大和三輪山の麓から
大阪河内に変わっていますよね。これが第2王朝。

そして第26代継体天皇から今上陛下までを一つの王朝と見る
んです。もしこれが事実だとすれば、日本の皇室はそれでも
1500年以上の歴史を持ち、世界で一番古い王家ということに
なります。あと、水野氏は記紀の天皇の代数は認めていませんね。
半数以上は架空の存在と見ているようです。

第15代応神天皇
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さて、ではこの説、現在の史学界での評価はどうなんでしょうか。
まず最初の、崇神天皇の王朝、もしあったとすれば3~4世紀ころの
ことと考えられますが、考古学的には、その時代に同一血統による
世襲があったとする証拠はありません。大王位は、有力豪族に
よる持ち回り制ではなかったかとする意見が強くなってきています。

それが、応神天皇になると、崇神天皇よりも実在性がぐっと
高まります。みなさんご存知のとおり、大阪には多数の巨大古墳が
あります。それらの被葬者が大きな権力を持っていたのは
間違いのないところですが、かといって、やはり大王たちの血が
つながっていたとする確証はありません。

第26代継体天皇
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最大の問題は継体天皇のところでしょう。その前の武烈天皇の
記事が猛烈に怪しい。人の爪を抜いて山芋を掘らせたり、
髪の毛を抜いて高い木に登らせ伐り倒したり、水の流れる
樋に人を入れて、出てくるところを矛で刺して殺したりという
暴虐記事と呼ばれる、唖然とする内容が『日本書紀』に出てきます。

そうして、武烈天皇は子どもがないまま20歳前に亡くなってしまう。
困った臣下たちは、越前国にいた応神天皇の5世孫である
継体天皇を探し出し、大王位を継承するよう頼み込みます。ですが、
5世孫といえば血が薄まってもう他人も同然。

あの反逆者平将門だって桓武天皇の5世孫ですが、当時の朝廷では
誰も知りませんでした。武烈天皇に跡継ぎがいなかったとしても、
もっと血統の近い皇族はいくらもいたんじやないでしょうか。
このあたり、何から何までおかしいですよね。

さてさて、継体天皇は紆余曲折の末、仁賢天皇の娘である手白香皇女を
后とし入婿の形で天皇位につくことになります。自分は、武烈天皇は架空の
存在で、継体天皇がおそらく現天皇家の王朝の始まりと考えています。
継体天皇は治世に筑紫君磐井の乱もあり、実在性は高いと思いますが、
よくわからない点も多いんですよね。では、このへんで。

宮内庁の比定は間違っており、真の継体天皇陵ではないかとされる今城塚古墳
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放生会と古代日本

2020.06.07 (Sun)
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筥崎宮の放生会 お祭りになっています

今回はこういうお題でいきます。地味な日本史の内容になるので
スルーされたほうがいいかもしれません。さて、放生会は
「ほうじょうえ」と読み、「捕獲した魚や鳥獣を野に放し、
殺生を戒め、功徳を積む宗教儀式」とネット辞書に出てきます。
放生会で放されるのは、鳥、川魚、亀、海水魚とさまざまです。

放生会は、中国の仏教界で行われるようになったのが日本にも
伝わり、天武天皇が自身の病気平癒を願って、677年、
諸国へ詔を下して放生を行わさせたとなっています。
ただし、これはその時かぎりのもので、儀式として定着したのは、
724年、現大分県の宇佐神宮で行われたものが最初とされます。

で、この放生会、じつは日本史にとって大きな意味があったんですね。
まず、なぜこのときに放生会が行われたのか。8世紀初頭に起きた
「隼人の乱」の鎮魂のためです。隼人の乱については、前に
少しだけ書きましたが、もう一度おさらいしてみましょう。

放生される亀の浮世絵
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7世紀、大和朝廷はちゃくちゃくと全国の支配を進めていましたが、
その支配に抵抗した人々も各地にいました。南九州の阿多・大隅
(現在の鹿児島県本土部分)に居住した隼人族もそのうちの
一つです。大和朝廷は律令制を全国に敷こうとしたんですが、
律令制の班田収授は稲作を中心とした制度で、

シラス土壌の広がる九州南部には合わなかったんですね。
隼人が大和朝廷に帰属したのは7世紀の終わり頃と考えられますが、
たびたび叛乱を起こしています。大きいのは713年にありましたが、
720年、大宰府から朝廷へ大隅国国司が隼人に殺されたという
報告が入ります。隼人側は数千人の兵を集め、

隼人のイメージ 顔に黥があったとも言われます
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7ヶ所の城に立て籠もった。これに対し朝廷側は万葉歌人として
有名な大伴旅人を大将軍とし、九州各地から1万人以上の兵を集めて
進軍、城を次々と陥落させていきます。こう書くと戦国時代の
籠城戦をイメージされるかもしれませんが、この時代は、
城と言っても砦レベルのものです。

戦いは1年半にもわたりましたが、翌721年、隼人の全面敗北で
終わり、隼人側の戦死者と捕虜は、合わせて1400人と
伝えられています。この反乱の影響は大きく、
班田収授の法の適用は延期され、大和朝廷は隼人の地への
移民政策を進めていくことになります。

宇佐神宮 この下に邪馬台国の卑弥呼の墓があるという話も
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さて、日本神話には南九州を舞台にしたものが多いですよね。
海幸彦・山幸彦の話がそうですし、その子孫である神武天皇は
南九州の日向を出発して東征を行い、大和の地に入って
初代天皇となります。つまり、天皇家の祖先は南九州から来た。

なぜそうなのか。それが事実だからだという意見もありますが、
自分は、隼人の乱勃発と同じ720年に完成した『日本書紀』に
南九州の神話が取り込まれたのは、「まつろわぬ隼人」を
懐柔するための朝廷側の配慮だと考えています。・・・これに
深入りすると終わらなくなるので、放生会の話を進めます。

神武東征のルート
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この放生会を最初に行ったのが宇佐神宮ですが、じつは兵を出して
朝廷側について戦ってるんです。また、宇佐神宮の主祭神である
八幡神が「自ら隼人征伐に赴く」と託宣されたので、輿に乗せて
戦場まで運んだのが、日本におけるお神輿の始まりとも言われます。

このとき、宇佐神宮の主力になったのが辛島氏という渡来系の
氏族、また隼人側についた鹿児島神宮の勢力も同じ辛島氏。
同族内での争いという側面もあったんです。で、すべてが終わり、
亡くなった隼人族の鎮魂のために始めたのが放生会です。
宇佐神宮では巻貝を、鹿児島神宮では海水魚を放生するようです。

僧形八幡像
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さて、この事件の影響は大きく2つあります。一つは神仏習合が
進んだこと。放生会の殺生戒は仏教の教義ですよね。
それが神社で行われたのは、八幡神があまりの殺生をしてしまった
ことを悔い、仏教に救いを求めたためとされます。これを契機として、
宇佐では神仏習合という先進的な思想が生まれたんです。

八幡神とは、一般的には応神天皇のこととされますが、
実体は定かではなく、九州土着の神や渡来系の神が入り混じった
複雑なものです。全国の武家から武運の神としての信仰を集め、
仏教のほうでは八幡大菩薩と称されます。本地垂迹説が広まると、
僧の姿で表されるようになり、これを「僧形八幡」と言います。

もう一つは、宇佐神宮が大和朝廷の中で大きな権威を持ったこと。
何を言いたいのかおわかりでしょう。後年に起きた道鏡事件です。
称徳天皇(孝謙天皇)の寵愛を受けた僧、弓削道鏡が769年、
天皇位を得ようとしたとき、和気清麻呂が宇佐神宮に赴いて、
「皇族でない者は天皇位にはつけない」という神託を持ち帰ります。

10円紙幣の和気清麻呂
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これで天皇の不興を買った清麻呂は、別部穢麻呂と改名させられ
大隅国に流されます。やがて翌年、孝謙天皇が崩御すると、
道鏡は下野国の薬師寺別当へ左遷となり、日本史上の天皇家の
危機は回避されることになりました。戦前はこの功が評価されて、
和気清麻呂の10円紙幣なんかがあったんですよね。

さてさて、ということで、放生会が始まった周辺事情を
ざっと見てきましたが、日本古代史の、じつに重要な論点を含んだ
ものなんです。個人的に興味があり、このあたりのことは
かなり深く調べてるんですが、オカルトブログとしては概略だけに
とどめておきます。では、今回はこのへんで。

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天皇キリスト教徒化計画

2020.05.30 (Sat)
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宮中祭祀

今回はこういうお題でいきます。かなり地味な日本史の話題に
なりますので、スルーされたほうがいいかもしれません。
さて、今上陛下の宗教は何か? こう聞かれたら、みなさんは
どう答えられますでしょうか。おそらくですが、大部分の方は
神道と回答されるんじゃないでしょうか。

それで正解です。今上陛下も宮中祭祀をされています。
これは、天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的に
おこなう祭祀で、皇居宮中三殿で行われる祭祀には、
天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭と、
掌典長らが祭典を行い、天皇が御拝する小祭があります。

ただ、太平洋戦争の敗戦後、新憲法やその他の法律には、
宮中祭祀についての明文はなく、現在の宮中祭祀は、
皇室の内廷費によって処理されています。ですので、
多くの憲法学者は現在の宮中祭祀を、
「天皇家が私的に行う儀式」と解釈しています。

歴代天皇の仏塔
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これは以前に記事に書いてますが、そもそも天皇家は
天武天皇以後1000年以上の長きにわたって、熱心な仏教徒
だったんです。御所には仏壇があり、位牌があり、戒名があり、
仏塔式の墓所があり、葬儀をはじめとするさまざまな儀式は、
仏式で行われていたんです。

天皇家が日本神道に回帰したのは明治新以降のことです。
明治新政府は、国の柱として国家神道を打ち立て、
天皇を現人神としてその中心に据えました。では、天皇家と
キリスト教の関係はどうだったんでしょうか。

フランシスコ・ザビエル
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天皇家を、つまり日本をキリスト教国にしようとする試みは
過去に2度あったと考えられます。そのどちらもが、
日本史上の大転換期でした。最初に企てた人物は、
スペイン生まれのイエズス会士、フランシスコ・ザビエルです。

1548年、ザビエルは洗礼を受けたばかりのヤジロウ他
2人の日本人とともにインドのゴアをジャンク船で出発、
日本に向かいます。ちなみにヤジロウについては興味深い
オカルト話を過去記事にまとめていますので、
興味を持たれた方は参照してください。

その船内で、ザビエルはヤジロウに日本の政治情勢について
尋ねます。ヤジロウは「日本には2人の王がおり、第一の王
(天皇)がすべての権限を持っているが、あらゆることを
第二の王(将軍)に任せている」と答えるんですね。
ただ、ヤジロウは九州出身の倭寇であり、京都に行ったことは

ザビエルが面会を試みた後奈良天皇
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ありませんでした。これを聞いたザビエルは、おそらく、
ヨーロッパのローマ教皇と各国王の関係を連想したんでしょう。
まずは京都に行って天皇に会い、キリスト教への改宗を
勧めようと考えました。しかし、実際に踏んだ京都の地は、
長く続く戦乱で荒れ果てており、面会の請願を出したものの、

当時の後奈良天皇、征夷大将軍・足利義輝にも会うことが
かないませんでした。これは、そのとき献上の品を持ってきて
なかったためとされます。この後もいろいろとあり、失意のうちに
日本での布教を断念したザビエルは、日本文化に大きな影響を
与えている中国への布教を、まず最初にしなくてはならないと考えます。

日本最初の正式なキリスト教徒ヤジロウとザビエル
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しかし、中国(明)への入国前に病没してしまうんですね。
46歳でした。この後、織田信長はキリスト教の布教を許可した
ものの、秀吉がバテレン追放令を出します。徳川時代に入って
島原の乱が起き、江戸幕府はキリスト教国の来航とを禁ずる
ことになります。まあ、このあたりのことはご存知でしょう。

さて、2回目は太平洋戦争の敗戦後です。連合国軍最高司令官
ダグラス・マッカーサーは昭和20年、天皇と面会し、
日本統合のため、天皇制の存続を決めます。翌昭和21年、
昭和天皇は国民に向けて「人間宣言」と呼ばれるメッセージを
出します。これはGHQの意向をくんだものです。

昭和天皇とマッカーサーの有名な会見時の写真
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この前後、ローマ法王庁やマッカーサーが、昭和天皇を
キリスト教に改宗させようとした動きがあったとされます。
ただ、これは秘中の秘なので、資料がほとんど残っていません。
ですから、現状では陰謀論の域を出ないんですが、自分は
そういう策動そのものはあったと考えています。

同じ年、昭和天皇はアメリカ教育施設団団長ジョージ・スタッダード
との会見で、自ら「皇太子(今上上皇)の家庭教師として、
教養あるクリスチャンの婦人を紹介していただきたい」と
依頼したとされます。「クリスチャンの」とつくところが
ちょっとただごとではないですよね。

今上上皇とヴァイニング婦人
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まあ、これは日本と皇室が、天皇制を存続させようとする工作
だったとする意見もあります。しかし実際に、厳格なキリスト教の
宗派であるクエーカー教徒のヴァイニング婦人が家庭教師に
ついて英語を教えることになるんです。また、ヴァイニング婦人は
皇太子が学ぶ学習院でも講義を行っています。

さてさて、ヴァイニング婦人は、今上上皇陛下にキリスト教的
価値観に基づく平和主義と温かい家庭主義を教えたとされます。
婦人は勲三等宝冠章を受章し、アメリカに帰国しますが、
後年、ベトナム戦争反対のデモに参加して、ワシントンの
国会議事堂前で逮捕されてるんですね。では、今回はこのへんで。

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『新著聞集』の怖い話

2020.05.06 (Wed)
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今回は趣向を変えて、古典のご紹介をします。当ブログでは、
自分の好みで平安時代の『今昔物語』を取り上げることが多いですが、
表題の『新著聞集』は江戸中期の随筆、説話集で、
紀州藩の学者、神谷養勇軒が藩主の命令で編集したもののようです。
377話が収録されていますが、必ずしも怖い話だけではありません。

一話の分量は掌編程度のものが多く、『今昔物語』よりは全体的に
短いです。長い間言い伝え続けられてきた話の、
エッセンスだけを抜き出したような感じですね。
あと『今昔物語』と比較して、やや仏教色は薄いかなと思います。
さて、何話くらいご紹介できますでしょうか。

・人肉を喰らう僧の話
増上寺塔中の徳水院に、あるとき、埋葬のために死者が運ばれてきた。
沐浴・剃髪も頼まれたので、一人の僧が髪を剃ったが、
どうしたことか失敗して、頭の肉を一寸ばかり剃り落としてしまった。
僧は狼狽し、その場にいる施主に見つかったらまずいと、とっさに
自分の口に入れて隠した。ところが、その味が何ともいえず

美味だったので、ついにそのまま噛んで食べてしまった。
以来、人肉の風味が片時も忘れられなくなった。我慢できずに寺の裏の
墓地に忍び込んで土を掘り返し、埋葬した屍体の肉を喰らうことが
毎晩になった。住職の僧は墓地が荒らされるのを不審に思って、
夜更けまで隠れて見張っていたところ、狐か犬の仕業と思っていたのが、

さにあらず、わが寺の僧だったので、呆れつつもぞっと背筋が寒くなった。
翌日こっそり本人を呼んで子細を尋ねると、僧は涙を流し、「まことに何の
因果でしょうか。どんなに心を押さえても押さえかね、あのような所業
に及んでしまうのです」と懺悔した。「このうえは、人との交わりを断ちます」
と言って暇を乞い、寺を立ち去ったという。元禄年間のことである。

鳥山石燕の「野寺坊」
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これは有名な話ですね。この僧はおそらく、幼少時からしっかり
戒律を守り、飲酒や肉食を行ったことはなかったんでしょう。
それがたまたま、しくじって死人の頭の肉片を削いでしまった。
隠そうと口に含むと、えも言われぬ味のため、思わず咀嚼して飲み込み、
ついには死肉を喰う鬼と化した。

人肉食の話なわけですが、ほぼ同じ頃に書かれた上田秋成の『雨月物語』には、
「青頭巾」という話が出てきます。ある僧が、自分についていた稚児が
死んでしまい、悲しみのあまり遺体に添い寝していたが、ついに気が狂い、
やがてその死肉を食らい、骨をなめ、食い尽くしてしまった。それからは
山に籠もり、夜になると人肉を喰らいに村の墓所に下りてくるようになった。

「応声虫」
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・応声虫の話
京都の油小路二条上町の屏風屋、長右衛門の子で長三郎という12歳の
少年が、元禄16年、5月上旬にひどい熱を出した。いつまでも治らず、
中旬になると腹に腫れものができたが、人の顔に見える。
その口が開き、本人とは違った野太い声で「食い物をくれ」と言う。
ためしに口に入れてみると何でも食べる。

食い物を減らすと高熱を出し、罵りの言葉を吐き散らした。
かわるがわる医者がやってきたものの、どうにもできなかったが、
7月になって、高名な菱玄隆という医師が訪れ、「このような病状は
日本ではまだ知られていないが、外国の本にはあることです」
そう言って、さまざまな薬種を腫れ物の口に入れ、

嫌がって食わないもの6,7種を丸薬とし、「どのような悪口を言おうと
飲ませて下さい」と、これは本人の口から服用させた。すると2日もたつと、
腫れ物の声が枯れ始め、物も食わなくなり、10日ばかりで肛門から
1尺1寸(35cmほど)の、額に一本角がある雨龍のようなものが
出てきたので、それを即座に打ち殺してしまった。

回虫
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これは中国の書物に見られる「応声虫 おうせいちゅう」というものでしょう。
それが腹に人面疽をつくって、そこから食物を取る。腹の中から虫が声を
出すという症状を受け、中国では「自分の意見をもたず付和雷同した
意見のみを言う者」を応声虫とからかって呼んだとも言われます。
おそらく、実在の寄生虫である回虫からきた話だと考えられます。

・猫又の話
江戸の増上寺の脇寺の徳水院に、長いこと飼われていた赤猫がいた。
あるとき梁の上で鼠を追い回していたが、どうしたことか下に落ちた。
猫は何とか着地したが、そのとき「南無三宝!(助けて)」と大きな声を出した。
人々がそれを聞いて、「さては猫又になったか。それにしても下手くそな
化け方だ」と囃すと、いつのまにか姿を消してしまった。元禄年間のことだ。

踊る猫又たち
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最初の話と同じ徳水院が舞台です。江戸時代のお寺では猫を飼っている
ことが多く、これはお供えの品や灯明、経典を鼠にかじれられないため。
猫の寿命は長くても15年でしょうが、それを超えて生きると
「猫又」という妖怪になると信じられていました。

猫又は山奥に住んでいる場合が多いですが、家猫も齢をとるとなります。
しっぽが二又に分かれてくるんですが、猫はそれを隠します。
人語を解し、また自分でもしゃべれるようになり、とっさのときに
ボロが出てしまう。そうなったら、寺の和尚はその猫に手ぬぐい一本を
与えて暇を出します。手ぬぐいは頭にかぶって踊るためのものです。

六道輪廻図
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・牛の前世の話
京都の河原町の牛屋で、あるとき牛が主人の夢の中に現れ、「明日は
私を休ませてください。明後日には死ぬのです。死んだら〇〇の寺に
葬って下さい。じつは私はその寺の三代前の住職だったのですが、
生前の悪行のため牛の身に生まれ変わったのです」と告げた。
起きて不思議に思い、女房にその話をすると、
「じつは私もまったく同じ夢を見た」と言う。翌日は牛を休ませ、

その次の日、夢のとおりに牛は死んでしまった。〇〇の寺に葬らなければ
いけないが、どうやって説明しようか困っていると、なんと
その寺から一人の僧がやってきて、「私は〇〇寺の今の住職ですが、
牛の死骸をいただきたい」と言う。驚いてわけを聞くと、やはり夫婦と
同じ夢を見ていたので、「それでは」と牛の死骸を渡してやったという。

これはよくある転生譚ですね。住職にまでなったにもかかわらず、
何らかの罪を犯して畜生道に落ちていたんでしょう。これらの記事の
文章は自分が意訳したものです。この他にも、女の嫉妬がからんだ
怖い話などもありますので、興味を持たれた方はネットに現代語訳が
出てるので一読してみてください。では、今回はこのへんで。

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