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義民伝説の周辺事情

2020.03.31 (Tue)
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今回はこういうお題でいきます。怖い日本史のカテゴリですが、
すごい地味な内容で、たぶんツマラナイと思います。
さて、どっから話していきましょうか。江戸時代初期、
堀田正盛という大名がいました。けして高い身分ではなかったのが、
義祖母である春日局が乳母をつとめた徳川家光が3代将軍になると、

異例の出世を重ね、下総佐倉藩の初代藩主となります。佐倉藩は
10万石程度ですが、江戸に近く参勤交代も楽です。
で、この正盛、家光の死の後すぐ殉死してるんですね。これは
おそらく、家光と衆道関係にあったためでしょう。そこで、
長男であった堀田正信が家督を継ぐことになります。

堀田正信
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ここからは伝説です。正信は藩主になったものの、後ろ盾であった
家光はすでに亡く、春日局も大奥を出てしまいます。
何もかも一人で裁量しなければならなくなったわけですが、
正信にはその器量はありませんでした。農民に対しては増税、増税、
年貢の取り立ても厳しく、藩内は暗くよどんでいきました。

名主たちが集まって話し合い、藩には何度も訴状を出して
困窮を訴えましたが、正信は聞く耳を持たず、そこで名主の一人であった
佐倉惣五郎は、直接江戸の老中に密書を送ったんですね。しかし、
一月たっても何の音沙汰もなし。ついに惣五郎は直訴の覚悟を決め、
一人江戸へと旅立ちます。1653年のことです。そして機をうかがい、

歌舞伎になった惣五郎


4代将軍、家綱が上野へ参詣する途上に潜み、訴状を掲げて
籠の前に走り出ます。直訴は死罪の定めですが、家綱は刀を抜いた
護衛を止め、訴状を取り上げます。かくして企ては成功し、
惣五郎にはお咎めなし。佐倉藩に年貢減免の命が幕府から
下されました・・・まあ、ありえない話ですがあくまで伝説ですので。

面目を失った正信は激怒、戻ってきた惣五郎の目の前で
4人の男児を惨殺。惣五郎夫妻は磔の刑としたんです。
それから、堀田家に怪異が起き始めます。正信の寝所に磔された姿の
惣五郎が現れ、とうとうと恨みを述べる。しかしお付きの小姓らには
見えません。正信は精神的に追い詰められ錯乱します。

佐倉惣五郎
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惣五郎の死から7年後、正信は江戸城内にて幕政を批判、
その内容は「幕府の失敗のために旗本・御家人、農民が窮乏しており、
自分は領地を返上する」というものでした。これは史実で、
正信は参勤交代を待たずに佐倉へ帰城してしまいます。切腹に
あたいする大きな罪でしたが、老中らは乱心のためとします。

堀田家は自ら述べたとおり領地を没収され、正信は信州の同族に
お預けとなります。うーん、寛大な処分で、何か裏がある気がします。
その後も、狂気の正信は何かと事件を起こしますが、処分から20年後、
将軍家綱の死にともない、正信はハサミで喉を突いて自害します。
お預けの身で切腹が認められなかったからですね。

ということで、惣五郎の死から27年がたって祟りが完了したと
見ればいいんでしょうか。それから90年たち、再興された堀田家は
再び佐倉の藩主となります。このあたりも何か事情がありそうに
思いますが、調べてもよくわかりませんでした。

将門口の宮神社(口の明神)
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1752年、佐倉藩藩主、堀田正亮は、惣五郎の百回忌にあたり、
「口の明神」という神社を創建し、惣五郎の魂を祀っています。
これも史実で、口の明神の御祭神は平将門と佐倉惣五郎。
つまり怨霊鎮めの社と見て間違いはないのではないかと思います。

これでだいたい伝説は終わりです。神社創建で、佐倉藩が
惣五郎伝説を認めた形になったので、その後、義民伝説は芝居や講談、
読本で取り上げられて江戸市中に広まったんですね。
さて、残り字数は少ないですが、少し考証してみます。

まず、惣五郎は実在の人物か? これ、以前は架空説があったんですが、
1715年に成立した『総葉概録』には、佐倉城下近辺に「総五」という
農民がいて、何らかの罪を得て処刑されたこと。冤罪であると主張して
城主を罵りながら死んだこと。堀田家の改易がその祟りと
噂されたことが記されています。

田中正造
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ただ、総五が一揆を企てたり、まして将軍に直訴をしたという資料は
残っていません。いくらなんでも直訴は無理だと思います。
警備が厳しくてできなかったでしょうし、もしそういうことが
あったら、必ず資料として書かれたものが残っているはずです。

総五が罪を得た理由にはさまざまな説があります。千葉氏の再興問題、
隠し田摘発、利根川治水工事・・・しかし確証となる資料は
見つかっていません。惣五郎の訴状なるものが残っていますが、
これは明らかに後代につくられたものです。

直訴する田中正造
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さてさて、ここまで見てきたように、惣五郎伝説は言葉どおり伝説の
域を出ないんですが、後代に影響を与えました。1901年、
衆議院議員を辞職した田中正造は、帝国議会開院式から帰る
明治天皇の馬車に、足尾鉱毒事件について直訴。警備の警官に
取り押さえられますが、狂人がよろめいただけとされ、

即日釈放されて罪にはなりませんでした。ちなみに直訴状は
幸徳秋水が書いたもので、その内容は新聞に取り上げられ、東京市中は
大騒ぎになり号外も出ました。直訴の前に正造の盟友石川半山は、
「君はただ佐倉惣五郎たるのみ」と励ましたと伝えられています。
では、今回はこのへんで。

※ 千葉県の郷土史などを研究されている方で、何かご教示いただければ幸いです。

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鴨島伝説について

2020.03.27 (Fri)
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今回はこういうお題でいきます。日本史の話なんですが、かなり地味な
内容になりそうなので、スルーされたほうがいいかもしれません。
さて、みなさんは柿本人麻呂の名前はご存知だと思います。
『万葉集』を代表する歌人であり、長歌の完成者とされ、
後の時代には、山部赤人とともに「歌聖」と呼ばれました。

生没年や出自などは不明。なぜかというと、当時の歴史書である
『続日本紀』に記載がないからです。定説では、人麻呂は
7世紀後半から8世紀初頭にかけての人物で、
身分の低い(六位以下)の下級官吏とされてきました。ただ、
歌が巧みであったため、宮廷歌人として大きな行事などに参加していた。

正史である『続日本紀』には、五位以上のものの事績については
必ず記載されるので、この説は当然ではあるんですが・・・
じつは謎もあるんです。905年に紀貫之らによって編纂された
『古今和歌集』の仮名序は、貫之が書いてるんですが、そこに、

紀貫之
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「いにしへよりかく伝はるうちにも、ならの御時よりぞ広まりにける。
かの御代や歌の心をしろしめしたりけむ。かの御時に、正三位柿本人麿
なむ歌の聖なりける。これは、君も人も身を合わせたりと
いふなるべし。」と出てくるんです。

要約すると「柿本人麻呂は なら帝(平城天皇)の時代の人で、
正三位であった」ということなんですが、上記したように、まず正三位
ではありませんし、平城天皇の時代からは100年も古い人です。
それなのに、なぜこのようなことが書いてあるのか。

まあ、紀貫之の時代には、人麻呂の正確な情報は失われていて、
言い伝えだけが残っていたというのは考えられるでしょう。
また、君臣一体で和歌が隆盛した時代があったという
貫之の理想が語られているのだろうという説もあります。
正直、自分にもよくわからない部分です。

柿本人麻呂
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で、この謎に食いついたのが哲学者の梅原猛氏で、著書『水底の歌』で、
柿本人麻呂は身分の高い人物であったのが、何かの事件に連座して、
「柿本猨(さる)」と名前を変えられ、石見国(島根県)現益田市の
益田川の河口沖合にあった鴨島という場所で水死刑にされた。また、
柿本猨は猿丸太夫と同一人物である、という説を発表しました。

ちなみに、柿本猨は正史に記述があり、従四位下で死去しています。
まあねえ、人麻呂→猨(猿)という連想は面白いと思います。
後代、道鏡事件で、女帝称徳天皇の不興を買った和気清麻呂が
別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられた例があり、
清麻呂の姉の広虫は狭虫(さむし)とされました。

梅原猛氏
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ただ、この説の一番の弱点は、人麻呂が関与した事件が何か
ということがまったくわからないところです。大事件なら必ず正史に
書かれているはずですが、そういう記述はありません。
もともとそんな出来事はなかったと考えるべきですよね。
それと、水死刑というのも、当時の刑罰にはありません。

さて、では何でこの話が出てきたかというと、人麻呂の辞世の歌とされる
「鴨山の 磐根し枕(ま)ける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ」
の歌によるところが大きんです。この説は梅原猛氏のオリジナルではなく、
刑死ではないものの、石見国の鴨島で亡くなったという話は古くから
伝わっていました。故郷に戻って病気になった人麻呂は、自ら鴨島という
孤島に渡り、そこで死んだ。これだったら可能性はなくもないでしょう。

石見国 鴨山
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では、鴨島はあったのか。そこには人麻呂を祀る神社が建てられていたが、
大地震による津波で水没し、人麻呂の木像は現島根県松江市松崎に
流れ着き、その地に新たに人丸神社が建てられたという地元伝承が残っています。
鴨島が水没したのは、1026年の「万寿地震」で、この地震があったこと、
津波が起きたのは事実であろうと考えられるようになってきました。

鴨島について、1972年に梅原猛氏自らが調査隊を率い、
プロダイバーによって、鴨島の沈んだ跡とされる大瀬と呼ばれる地形の
調査が行われました。また、その20年後の1993年、
地球物理学者の松井孝典氏を団長として海底調査が実施されたんです。

結果としては、海底に地殻変動による横ずれ断層が確認され、
万寿地震があったのはまず確実だろうが、鴨島が実際にあったとまでは
言えないというものだったんですね。もし鴨島あったのだとしても、
ほんとうに島であったのか、砂州地形だったのかもわからない。

法隆寺 救世観音菩薩像
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ということで、鴨島で人麻呂が亡くなったということまでは否定
できないものの、人麻呂が事件に関与して猨と改名させられ、
流刑にされた上で水死刑に処されたというのは、さすがに
根拠のない話であり、学会に受け入れられてはいません。

さてさて、ここまで読まれて、自分が梅原説を批判していると思われる
かもしれませんが、そうではありません。すごい着想だなあと
感心しています。梅原氏には、この他にも聖徳太子は殺害され、
その怨霊を封じるために法隆寺が建てられたのであり、
秘仏、救世観音菩薩像は聖徳太子の姿であるとする

『隠された十字架』の著作もあります。これ、自分は学生時代に読んで
強い感銘を受けました。とにかく論証がスリリングなんですね。
聖徳太子の死の周辺事情についてはよくわからない部分があり、
また法隆寺の建造目的についても謎が多いんです。
では、今回はこのへんで。

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「歴史の謎」について

2020.01.27 (Mon)

本能寺の変

今回はこういうお題でいきます。さて、みなさんは歴史の
謎といえば何を思い浮かべられるでしょう。やはり邪馬台国問題
でしょうか。あるいは赤穂事件の浅野内匠頭の刃傷の理由?
もしかしたら、現代史の3億円事件、グリコ・森永事件などを
あげられる方もいるかもしれませんね。

ただ、現代史の場合、評価が定まるまでにはまだ時間がかかり
ますので、今回は話からのぞかせていただきます。
本屋に行くと、「歴史の謎を考える」みたいな内容の本が
文庫で出ています。日本史と世界史があって、
やはり日本史のほうがずっと多いですね。

3億円事件 犯人のモンタージュ写真


各出版社から出されていますが、取り上げられている謎はどの本も
だいたい同じです。ですから、日本史、世界史、各一冊を
買っておけば十分だと思います。今ちょっと自分の本棚を見てみたら、
「日本人が知らなかった歴史のカラクリ」(歴史の謎研究会編、
青春文庫)というのがありました。

さて、この歴史の謎と言われるものですが、自分は3つくらいの
グレードに分かれるんじゃないかと考えています。
① きわめて重要な意味を持つ謎で、それが解決することにより
 歴史研究が大きく進むもの。 ② 興味深い謎ではあるが、
 あまり歴史的な意味は大きくないと思われるもの。

③ 荒唐無稽でとても謎とは言えないようなもの。
上で例としてあげた邪馬台国問題などは①に入るでしょう。
明治に入って、その所在地について畿内説と九州説に分かれ、
激しい議論が戦わされてきました。また、それ以外の候補地も
名のりをあげています。で、ひとまず畿内と九州にしぼるとして、

邪馬台国はどこに?
キャプチャ2

どちらに邪馬台国があったかは、3世紀の日本の状況を考える上で
きわめて重要です。もし九州だった場合、列島各地に小規模の
政治的なまとまりがバラバラにある状態、逆に畿内だとすると、
かなり統合が進んできていることになります。畿内説では、
このことを「ゆるやかな連合」と呼んでいます。

②については何を例にすればいいでしょうかねえ。あ、そうだ、
歴史フアンに人気の、坂本龍馬暗殺の謎なんかがいいかもしれません。
暗殺の実行は京都見廻組で ほぼまちがいないと思いますが、
実行者に竜馬の居場所を教えた黒幕がいるのではないか、
という説があれこれと出されていますね。

中には、西郷隆盛を中心とする薩摩藩説というのもあります。
ただ、その可能性は薄いですし、もし薩摩藩が黒幕だったとしても、
あまり違和感はありません。西郷は幕府を武力で完全につぶす
つもりで、公武合体論的な竜馬の存在がじゃまだったのは
確かだろうと思います。

近江屋事件 刺客に襲われる坂本と中岡
キャプチャ4

ですから、もしその決定的な証拠が出てきたとしても、
それで日本史の研究が大きく進展するというわけではないでしょう。
最初に書いた内匠頭の刃傷の理由や、今度ドラマになる明智光秀の
謀反の理由なんかもこれに入るんじゃないかな。

③は、荒唐無稽なものはたくさんあります。そうですね、
源義経=チンギスハーン説なんかがわかりやすいかな。
まあありえない話ですよね。検討するのは最初から
ムダなんですが、ただ、義経が衣川の戦いで死なず北方に逃れた
可能性は、わずかながらあるかもしれません。

最近大はやりの「聖徳太子はいなかった説」
キャプチャ

でも、そうだとしても日本史の流れに与える影響はほとんど
ないでしょう。ということで、歴史の謎といったたぐいの本を
読まれる場合は、この謎が解決すれば、それによってどう歴史が
変わるのか、教科書は書きかえられるのか、などのことを
頭に入れておくといいんじゃないかと思います。

あとはそうですね、解決した謎というのもあるかな。
東洲斎写楽別人説なんかはそうですね。江戸中期の浮世絵師、
写楽は活動期間が短く、忽然と画業を絶って姿を消して
いるので、別人が姿を秘して描いていたのではないかという説です。

義経はチンギスハーン?


写楽の候補としては、初代歌川豊国、葛飾北斎、喜多川歌麿、司馬江漢、
谷文晁、円山応挙、山東京伝、十返舎一九、版元の蔦屋重三郎など、
同時代の有名人が数多くあげられています。ですが、信頼性の高い
文献に「写楽斎は俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」
と出ていて、斎藤十郎兵衛が実在していた証拠も出てきました。

文献史学的には一定の結論が出た形で、これを覆すには、
新たな有力証拠を持ってこなければなりません。とは言っても、
いまだに写楽別人説を見かけることもあります。歴史の謎というのは
一部のライターや出版社にとっては飯のタネで、
簡単に解決されても困るんですね。

きわめて独特の装飾的な感覚です
キャプチャ3

最後に、誤解されてほしくないので言っておきますが、自分は、
こういう歴史の謎の研究に、アマチュア歴史愛好家の方がこつこつ
取り組まれることを否定するものではありません。キャバクラとかに
通うよりは、ずっと品もよく、お金のかからない趣味だと思います。

さてさて、ということで、今回は歴史の謎の話でしたが、邪馬台国問題
なんかは、これに取り憑かれると家財が傾き、友人を失い、
家族が愛想を尽かして最後には目が見えなくなる、
なんて冗談もあります。十分お気をつけください。では、このへんで。






「獅子王」伝説

2020.01.08 (Wed)
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「獅子王」東京国立博物館 蔵

今回はこういうお題でいきます。自分は刀剣を鑑賞する趣味が
ありまして、当ブログでも「刀剣シリーズ」というのを書いて
るんですが、これはどちらかというと地味な話なので、
興味のない方はスルーされてください。

さて、みなさんは「獅子王」という刀について聞かれたことが
あるでしょうか。例えば、源頼光が酒吞童子を斬ったとされる
「童子切安綱」などは有名ですけど、これはあんまり知られて
ないんじゃないかと思います。この刀の伝説には、二人の武人、
1匹の妖怪、そして一人の女妖が登場します。

どっから話していきましょうか。まず「獅子王」そのものについて。
これは現存する刀で、国の重要文化財です。平安時代末期の
大和の国の刀工作と見られており、刃長二尺五寸五分(約77cm)
やや小ぶりな刀ですが、元は長かったのが、研ぎ削られて
短くなったという説もあります。作者は不詳。

坂上田村麻呂
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次に、坂上田村麻呂の話をしていきたいと思います。
この人物はご存知でしょう。平安時代の武官で、桓武天皇の時代に
征夷大将軍を2度務め、蝦夷征伐をしたことで有名ですね。
田村麻呂については、「田村語り」と呼ばれる説話伝承が
各地に残ってるんですが、これがじつに混乱をきわめていまして。

できた場所や、伝わった時代によって内容がバラバラなんです。
ですから、ここから書く話には異説があります。そのことは
ご承知おきください。さて、次に出てくるのが女妖、鈴鹿御前
(すずかごぜん)です。伊勢国と近江国の境にある鈴鹿山に
住んでいたとされる伝説上の女性で、2つの顔を持っています。

田村麻呂の佩刀として有名な「ソハヤノツルギ」
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一つは、天より使わされた女神としての顔。もう一つは、
別名、立烏帽子(たてえぼし)という名の悪鬼、女盗賊としての
ものです。第六天魔王の娘とも言われます。正と邪の2面性が
あるんですね。で、前述のように、ここから話がごちゃごちゃに
なるんですが、大きく3つに分けられるかなと思います。

① 鈴鹿御前こと盗賊立烏帽子は田村麻呂によって討伐された。
② 鈴鹿御前と立烏帽子は別人で、田村麻呂は鈴鹿御前と協力して
  女盗賊立鳥帽子を倒した。③ 鈴鹿御前は立鳥帽子なのだが、
  本当の悪人は立烏帽子の夫で、田村麻呂は立烏帽子と
  ねんごろになり、その夫の大嶽丸を倒した。

ね、わけわかんないですよね。鈴鹿御前の伝説は、平安時代末頃には
できていたと考えられますが、残っている文献ごとに内容が
違うんです。ですから、鈴鹿御前が現代の作品やゲームに登場
する場合でも、そのキャラクターはバラバラになっています。

鈴鹿山の悪鬼、鈴鹿御前、田村麻呂 これは③の説
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長い話なので先を急ぎましょう。ともかく、田村麻呂は鈴鹿御前から
3本の宝刀を授けられ、それをもとにして大和の国の鍛冶に
作らせたのが、獅子王です。田村麻呂の佩刀としては「ソハヤノツルギ」
が有名で、この獅子王は朝廷に献上されました。

さて、時代は下って源平争乱の少し前、近衛天皇の御世。天皇は
体が弱く病気がちでしたが、その頃、毎夜黒雲が御殿をおおい、
その中で不気味な鳴き声をあげるものがいる。そこで退治を命じ
られたのが、源氏の長者、源頼政です。頼政が先祖、源頼光から
伝わる名弓「雷上動」で雲の中心を射ると、大きなものが落ちてきた。

妖怪 鵺(ぬえ) 実際は鵺という名前ではないと思われる
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これが、猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇の妖怪、
鵺(ぬえ)です。ただし、『平家物語』によれば、この怪物の
名前は不明で、鳴き声が鵺(トラツグミと考えられる)に似ていた
と出てくるだけなんですが、後世に鵺という妖怪になってしまいました。

頼政の家来、井早太がとどめをさし、怪物は死んで、帝の病気も
すっかり癒えます。近衛帝はこの褒美として、頼政に太刀、
獅子王を与えるんですね。この後、頼政は平氏全盛の世にあって
源氏最高の従三位の位にまで昇ります。

平安時代に鵺と呼ばれていたトラツグミ
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ですが、76歳で以仁王の令旨を受け、平氏追討に立ち上がるものの、
宇治平等院前の宇治橋で平知盛・重衡らと戦って戦死します。
このあたりのことはご存知と思います。で、獅子王は、頼政の
子孫である但馬国竹田城城主、赤松広秀へと受け継がれましたが、

赤松が関ヶ原の戦いにおいて、鳥取城下を焼き払ったのを徳川家康に
とがめられ切腹を命じられた際、家康に没収されます。
家康はこの刀の由来を知っていたので、自分のものにはせず、
頼政の別系の子孫、土岐頼次へと下賜されることになります。

従三位 源頼政
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土岐家に代々伝えられた獅子王は、明治維新後に皇室に献上され、
現在は東京国立博物館に所蔵されています。やっと最後まで
説明することができました。長い話でしたね。
ただ、現存する刀は、頼政に与えられた獅子王ではないという
説を唱える研究者もいます。

さてさて、ということで、獅子王伝説を見てきましたが、
どこまでが史実で、どこまでが伝説や脚色なのか、まったく判別
できません。歴史ってこういう例が多いんです。ただ、平安末期の
特徴を備えたこの名刀が存在していることだけは
間違いのない事実です。では、今回はこのへんで。

頼政が戦死した宇治橋合戦
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神功皇后の謎(序論)

2019.11.23 (Sat)
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今回はこういうお題でいきます。序論と書いてますが、
本論はやりません(笑)。それを書こうとすると、このブログが
古代史一色になってしまいます。ほんのさわりだけお話します、
という意味での序論なんです。神功皇后には、実在、非実在説が
ありますが、それを超えたところで、きわめて謎に満ちた存在です。

・神功皇后の事績
『古事記』と『日本書紀』で記述の違いがありますので、ここは
『日本書紀』のほうを主にして話を進めます。神功皇后は
第14代仲哀天皇の后で、天皇に随伴して熊襲征伐におもむきますが、
九州で神がかりし、熊襲ではなく朝鮮半島を攻めよと天皇に進言します。
しかし天皇はこれを聞かず、神の怒りにふれて病死。

このとき皇后は子を身ごもってましたが、熊襲を討った後、海を越えて
新羅へ攻め込み、百済、高麗をも服属させます。俗にいう三韓征伐ですね。
帰国して応神天皇を出産。忍熊皇子らが反乱を起こすものの
これを平定、以後70年にわたって摂政として政治を行います。
ごくごく大ざっぱに書くとこんな感じです。100歳まで生きたと
計算できます。さて、こっからは箇条書きで謎を見ていきましょう。

神功皇后の1円札
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・『日本書紀』は干支2まわり(120年)年代操作されているか?
神功皇后はもし実在したとして、さまざまな根拠から、
300年代の人だと考えられるんですが、
『日本書紀』は200年代の人として記述しています。誰が見ても
この部分は不自然で、年代操作説は古く江戸時代からあります。

これは、中国史書に出てくる邪馬台国の女王、卑弥呼および台与を
『日本書紀』の撰者が神功皇后に比定しているためであり、
それで年代操作がなされている、と説明されることが多いですね。
登場する人物の寿命が異様に長かったりなどですが、
自分は年代操作自体は、おおむね間違いないと思っています。

五社神古墳(伝 神功皇后陵)奈良県奈良市山陵町
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・熊襲征伐で討った田油津媛(たぶらつひめ)とは?
仲哀天皇が始めた熊襲征伐を、神功皇后がやり遂げるわけですが、福岡の
山門郡にいたとされる土蜘蛛族の女王、田油津媛を討ち取っています。
田油津媛は邪馬台国卑弥呼の後継者とする説もあり、神宮皇后自身が
卑弥呼に擬されてもいるわけで、このあたり不思議な感じがします。

老松神社 福岡県みやま市 周辺に田油津媛の墓と言われる古墳がある
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・三韓征伐はあったのか?
『日本書紀』の記述はおとぎ話のようです。神功皇后が船を出すと、
潮が満ち、大魚がたくさん集まってきて背中に倭国の船団を乗せ、
新羅の王城まで押し寄せます。これを見た新羅の王はおそれおののき、
戦わずして降伏し、皇后の馬飼になると言って朝貢を約束します。
まったく具体的ではないんですね。

ただ、朝鮮の正史である『三国史記』には、倭国がたびたび朝鮮半島に
侵攻し、新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが記されて
いますし、高句麗の広開土王碑には、391年、倭国が新羅、百済を
臣従させたと出てきます。ですから、倭国からの遠征が頻回に
行われていたのは間違いないところです。

七支刀
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・七支刀にはどういう意味があるのか?
奈良県天理市の石上神宮に伝来した古代の鉄剣で、『日本書紀』には、
百済の肖古王から「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが皇后に献上
されたと出てきます。(七子鏡は現在アメリカ、ボストン美術館にあり、
その経緯はたいへん面白いので、いつか記事に書きたいと考えてます。)

その銘文から、百済王が倭王に届けたのは間違いないんですが、
両国の関係については議論があります。常識的な解釈としては、
高句麗の圧迫を受けていた百済が、倭との同盟を求めたしるしと
考えられると思いますが、中国王朝の東晋が倭に授けたもので、
百済はその仲介をしただけという説もあります。

・忍熊王はどういう人物なのか?
仲哀天皇の王子で、血統的には正統な天皇後継者ですが、神功皇后が
産んだ子(応神天皇)に皇位が移るのをおそれ、兄の麛坂(かごさか)王と
ともに皇后に対する乱を起こしますが、敗れて川に身を投げて
死亡します。(麛坂王は占い中に猪に食われて死亡?!)

神功皇后と武内宿禰(たけしうちのすくね) この2人の関係も謎の一つ
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忍熊王らは、それまでのヤマト王権の基盤を受けつぎ、奈良県北部の
佐紀古墳群周辺に勢力を張っていたが、戦いに敗れたことにより、
神功皇后、応神天皇らによってヤマト王権の中心が大阪に移った
とする意見があります。実際、これはそう見るしかないんですね。

あと、考古学的には、この忍熊王らの反乱とほぼ同時期に、
九州、関東、丹後などで政変が起きていることがわかっていて、
全国を巻き込んだ大きな体制の変化があったとみる意見もあります。
応神天皇は、じつは朝鮮半島出身の渡来人であるという話もあり、
自分は、この部分の謎が最も興味深いと思ってます。

武内宿禰と応神天皇
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・応神勢力と西都原との関係は?
男狭穂塚(おさほずか)古墳は、宮崎県西都市にある全長176mの
帆立貝形古墳で、5世紀前半のものとみられ、被葬者は諸説あるものの、
応神天皇に臣従した、この地出身の諸県君牛諸井(もろかたのきみ
うしもろい)とする説が最も有力で、自分もそう考えてます。

また、隣接する女狭穂塚(めさほずか)古墳(176m)の被葬者は、
仁徳天皇の妃になった牛諸井の娘、髪長姫にあてる説があります。
で、前述した忍熊王の反乱のあたりで、この地の勢力が
生目(いきめ)地方から西都原に移ってるんですよね。生目といえば、
イクメイリヒコ(垂仁天皇)が思い起こされます。

男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳
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さてさて、ほんとうにざっと列挙しただけなんですが、
これほどたくさんの謎が詰まっているのが神功皇后です。
明らかに古代日本の画期となる出来事があったはずですが、
イマイチ研究が進んでいない印象があります。たんなる実在、
非実在の論では片づけられないんですね。では、このへんで。

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