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海賊の掟とマーローン

2020.04.06 (Mon)
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今回はこういうお題でいきます。これは世界史に入るのかな。
昨日、「デッドマンズ・ハンド」について書きましたが、
あの題材は映画から取ったものです。で、この記事も
元ネタはディズニー映画になります。

みなさんは『パイレーツ・オブ・カリビアン』のシリーズを
何作ご覧になられたでしょうか。ジョニー・デップフアンの
方なら全部見ているかもしれませんね。どの作にも、
海賊にまつわる伝説がうまく取り入れられていました。

一口に海賊と言っても、もちろんどの国のどの時代にも
いました。ただ、ハリウッド映画で海賊映画が作られる場合、
海賊黄金時代(17世紀後半から18世紀初頭)のカリブ海地域の
海賊のことを指します。バーソロミュー・ロバーツなどの名前は
聞かれたことがあると思います。

バーソロミュー・ロバーツ
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さて、『パイレーツ・オブ・カリビアン』の第3作、
「ワールド・エンド」では、「海賊の掟」伝説が登場します。
あの中で、ローリングストーンズのギタリスト、
キース・リチャーズが、強い権限を持った掟の番人になってました。
作中では、掟はすべて分厚い本の中に書かれていて、

あらゆる海賊がそれに従わなくてはならない・・・
もちろん、実際に掟はありましたが、それは船の主である
海賊船長ごとに違っていました。そして、海賊船が水夫を
募集する場合、乗員はかならず掟の一覧を見せられ、
契約書にサインする決まりになっていたんです。

海賊船
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掟は意外にも民主的でした。まず最初に分け前の条項があり、
一般的には船長は平水夫の2倍の取り分。これって意外と少ないと
思われませんか。また、戦闘で後遺症が残ったり、手足を失った場合、
金貨、銀貨何枚が補償されるかなどの決まりもあり、
指一本にまできちんと値段がついていました。

さらに、物事を決める場合は投票で行われ、その投票権は奴隷以外の
全乗組員にあったんです。なぜこうなっているかはおわかりでしょう。
せまい船の中で、船長が最もおそれるのが乗員の叛乱です。
実際、船長に対して反旗を翻していい場合も決まっていて、
それを避けるために民主的にせざるをえなかったんですね。

有名な女海賊、アン・ボニー
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さて、その他の掟は、船内の事故や事件を徹底的に予防する内容です。
まずは船火事、これが起きるとアウトですので、キャップなしのパイプで
タバコを吸う、カンテラに入れず火のついたロウソクを運ぶなどは
笞打ちの刑です。次が賭博、船内でのカード、サイコロ博打などは
死刑の場合もありました。これも理由はわかりますよね。

船内への私物持ち込みはかぎられているので、賭博をする場合、
将来の分け前をやりとりすることになりますが、もし負け続けると
タダ働きになってしまいます。これで叛乱が起きたケースは
歴史的に多数あるので、賭博は厳禁だったんです。
それから船内に密かに女を連れ込んだ場合も死刑。

海賊の掟の本 映画だけの話です
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あと、船内での私闘、ケンカも禁止。ただし当時、決闘は海賊でなくても
法で認められていたので、名誉を侮辱され、決着をつけなければ
ならないと周囲が判断した場合、その2人はもよりの小島に降ろされ、
剣と銃による決闘が行われました。ですが、必ずどちらかが命を
失うというものでもなかったようです。最初に血を出したほうが負け。

あとは、相手の船を略奪した後、船大工などの特殊技能者や腕の立つ
船員は殺されず仲間入りを勧められましたが、そのときに掟に
サインさせられます。これで、もしその海賊船が捕らえられた場合、
掟に署名しているものは全員死刑です。そこで、無理やり
サインさせられたことにしてくれと頼み込む者もいたそうです。

アレキサンダー・セルカーク
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さて、マーローン(Maroon)について。掟に背いた場合の死刑は
基本的に銃殺でしたが、長い間 船で行動をともにした仲間を直接
殺すのがしのびない場合もあります。そこで置き去りの刑(マーローン)
が行われたんです。無人島に、わずかな食事や水の入った容器と、
弾丸が装填されたピストルを渡されて置き去りにされる。

ピストルは鳥などを撃てということではなく、自殺用です。
ただ、無人島といっても、岩礁しかない島もあれば、
森があり、泉が湧いていて食料となる動物がいるような島もあって、
後者の場合は命が助かる可能性があります。

アニメ『宝島』のベン・ガン
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ロバート・スティーヴンソンが書いた冒険小説、『宝島』には、
ベン・ガンという登場人物が出てきますが、彼は海賊フリントに
よって宝島に置き去りの刑にされ、10年間もそこで生き延びてきた
設定でした。ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』の
モデルとなったとされる海賊、アレキサンダー・セルカークは、

その性格が船の仲間すべてに嫌われ、マスケット銃、火薬、
大工道具、ナイフ、聖書、それに衣服だけを与えられて
ファン・フェルナンデス諸島の無人島に置き去りにされましたが、
4年4か月を生きのびて別の海賊船に救出されています。

さてさて、最初の話に戻って、『パイレーツ・オブ・カリビアン』の
第1作、「呪われた海賊たち」で、ジャックとエリザベスは
置き去りの刑を受けてましたが、すぐに救けられ、無人島生活の
詳しい描写はありませんでしたね。まあ、ディズニー映画ですから、
そこはしかたありません。では、今回はこのへんで。







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1796年の免疫学

2020.03.28 (Sat)
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今回はこういうお題でいきます。医学的な記事ですが、
オカルトとも多少関係があります。ただ、いかにも
地味な内容なので、スルーされたほうがいいかもしれません。
さて、1796年にあった画期的な出来事というと、
何だかおわかりになりますでしょうか。

イギリス人の医師、エドワード・ジェンナーが天然痘に対するワクチン
である種痘を実施した年なんですが、ジェンナーの業績にはいろいろ
誤解があります。まず、ジェンナー以前にも種痘(人痘)は
行われていたこと。オリエント世界での話です。

エドワード・ジェンナー
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オスマン帝国駐在大使夫人だったメアリー・モンタギューが
現地で人痘法を知り、イギリスに持ち帰って自分の娘に接種しました。
天然痘に対するワクチンとして、人間の感染者の膿疱から抽出した
液を接種するのが人痘法です。

ただ、これはひじょうに危険で、接種を受けた者のうち2%が
重症化して死亡したとされます。うーん、抗癌剤の副作用死が
そのくらいと言われてますね。ジェンナーは、牛の世話をしていて
自然に牛痘にかかった人間は、その後天然痘にかからないという
農民間の言い伝えに興味を持ち、研究を開始。

牛痘は人痘に比べて弱毒であり、より安全という感触を得ました。
そこで1796年、最初の牛痘が行われたわけですが、
ジェンナーが自分の息子で試してみたというのは間違いです。
ジェンナーの息子はそれ以前に人痘を受けており、
牛痘を始めて受けたのは、使用人の息子の8歳の少年でした。

偏見や迷信との戦いであった種痘法
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結果、少年は若干の発熱と不快感を訴えたものの深刻な症状は出ず、
6週間後にジェンナーは少年に天然痘を接種しましたが、
少年は天然痘にはかからず、牛痘による天然痘ワクチンは
成功しました。いや、でもこれ、使用人の息子を実験台にして
大丈夫だったんですかねえ。失敗した場合のことを考えると怖い話です。

その後、牛痘法は次第にヨーロッパに広まっていきましたが、
「接種すると牛になる」と忌避する傾向もありました。そこで、
「これは神が乗った聖なる牛の液である」と住民に告げてから行うなど
苦心の跡が見られます。牛痘が日本で始めて実施されたのは1823年。

日本での種痘の実施
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ドイツ人医師シーボルトによってですが、このときは成功せず、
1849年、佐賀藩での実施が最初の成功例のようです。
あ、もう半分まできてしまいましたね。じつはメインはこれから書く
話なんです。同じ1796年、ドイツ人の医師、
ザムエル・ハーネマンがホメオパシーに関する論文を発表します。

ホメオパシーとは、その病気や症状を起こしうる薬や物を使って、
病気や症状を治すことができるとする医療体系です。
ハーネマンは、自身がマラリアの治療薬であるキニーネを
試飲したところ、マラリアと同じような症状が出たことから
これを考えついたと言われています。

ザムエル・ハーネマン
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うーん、今の知識では、そんなことはありえないだろうと思うんですが、
その時代の医学は呪術と紙一重のものでした。ハーネマンを擁護
すると、彼は当時一般的に行われていた瀉血(人体の血液を抜くことで
毒素を排出し、症状の改善を求める治療法)に対し、
迷信であり効果のないものだと述べてるんですね。

一般的なホメオパシーの施術法としては、さまざまな物質を大量の 
水で希釈し、それを砂糖玉に染み込ませて(レメディと呼ばれます)
患者に経口で摂取させる。希釈は大量であればあるほどよく、
水の中にもとの物質の分子が1個もなくなってもかまわない
とまで言われています。

ホメオパシーの多種多様な希釈液
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その後、ホメオパシーもヨーロッパ全土に広まっていきます。
これに目をつけたのがナチスドイツで、ハーネマンがドイツ人で
あることから、ドイツ医学の基礎にしようとさまざまな実験を
試みました。ユダヤ人収容所では、わざとマラリアや敗血症に
感染させたユダヤ人に対し、ホメオパシーが実施されたものの、

症状は改善せず多くの者はそのまま死亡し、ホメオパシーに
対する関心は薄れていきました。現代医学の見解では、
ホメオパシーにはブラセボ以上の効果はないとされています。
まあそうですよねえ。ただし、砂糖玉ですから副作用もありません。

レメディ
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ホメオパシーの問題点は、それにより実際に効果のある治療を
受けられなくなってしまうことでしょうね。ホメオパシーでは、
現代医学の治療を受けるのはよいことではない、とされることが多く、
ワクチン接種全般に対しても批判的です。

「山口新生児ビタミンK欠乏性出血症死亡事故」という事件が日本で
ありました。助産師によって出産した女性の女児が、生後2ヶ月で
硬膜下血腫で死亡したんですが、原因はビタミンK不足と考えられました。
助産師は「ホメオパシー医学協会」に所属しており、ビタミンKの代わりに、
「ビタミンKの記憶を持った」レメディを与えていたんですね。

さてさて、ジェンナーとハーネマンの現代での評価は大きく分かれて
しまいました。ジェンナーは「近代免疫学の父」と呼ばれ、
ホメオパシーは現代医学から見れば、うさん臭く危険な代替療法です。
ただ、1796年の当時には免疫という概念もなく、分かれ道は
ちょっとしたものだったんじゃないかという気もするんですね。
では、今回はこのへんで。

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やつの墓を探せ!

2020.03.22 (Sun)
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ギリシアにあるマケドニア王家の墓

今回はこういうお第でいきます。考古学、世界史に関連した内容で、
カテゴリは怖い世界史に入れておきます。日本では、歴史の謎の一つに
邪馬台国問題というのがありますよね。『三国志』に記された
邪馬台国はどこにあったか。

ひところは書店に専門コーナーができるほど、プロの学者、アマチュアを
問わず、多くの本が出版された時期もありましたが、今は下火に
なりました。それでも、所在地論争は、主に九州と近畿地方に分かれて
現在も続いています。で、邪馬台国の女王卑弥呼、あるいはその後継の
台与の墓が見つかれば、論争に決着がつく可能性が高い。

奈良、纒向遺跡の箸墓古墳 卑弥呼の墓の可能性も
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ただ、日本の場合、手あたりしだいに発掘することはできません。
最も大きな問題は、宮内庁により陵墓指定されている古墳は
調査許可が下りないこと。その他にも、文化財保護法によって、
民間による発掘は難しいことなどがあげられます。ですから、計画的な
発掘を行うのは地方自治体になりますが、どこも予算がありません。

これはしかたがないことで、歴史の学問的な興味を、現在生きている
人の生活に優先させることはできないんですね。さて、
このように、所在が不明で、捜索、発掘が期待されている墓
というのは世界史にもいろいろあります。

この下にアーサー王の棺があるとされますが、眉唾です
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そうですね、順不同にあげていきましょうか。まずはイギリス、
「アーサー王の墓」、ただこれ、根本にアーサー王が実在の人物か
どうかという問題があります。伝説の域を出ないんですね。
アーサー王のモデルがもしいるなら、5世紀後半から6世紀初めの
ブリトン人ですが、王ではなく軍の司令程度の人物だという説もあります。

アーサー王伝説は中世になって、王妃や宮廷魔術師、名剣エクスカリバー、
円卓の騎士、聖杯探索などの尾ひれがついて有名になりましたが、
実際はイギリスにキリスト教が入ってくる以前の人物で、それらは
全部作り話です。ですから、アーサー王が亡くなったとされる
アバロン(ケルト語でリンゴ)島についても、きわめて怪しいんです。

映画『ダ・ヴィンチ・コード』
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どんどん行きましょう。「イエス・キリストの墓」世界のクリスチャンに
よってさまざまな議論が行われ、いちおう3つの候補地があります。
これについては過去記事で詳しく書いたので、興味のある方は
参照されてください。ただ、もし『新約聖書』の記述が真実だとすれば、
キリストは復活し昇天したので、そこに遺骸はないことになります。

関連記事 『キリストの墓+3』

一方、キリストの昇天はあくまで神話であるとみる(まあ常識的ですよね)
立場からは、キリストの墓は庶民的なもので、そこには妻や子の
遺骸もあるのではないかという話があり、実際に候補らしきものが
発見されています。で、この説をもとに書かれたのが、ベストセラーに
なったダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』です。

日本の青森にあるキリストの墓(笑)
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次は現実的な話で「アレクサンダー大王の墓」。紀元前4世紀の
マケドニアの王です。当時、強大だったペルシャ帝国を数々の激戦で
打ち破り、インドにも侵攻したことで知られています。
その生涯は32年と短く、死因はてんかん説、マラリア説、
酒の飲みすぎ説、お定まりの毒殺説もあります。

で、その墳墓なんですが、1977年にギリシャのヴェルギナで、
マケドニア王家の遺跡3基が発掘されており、このうち第2墳墓が、
アレクサンダーの暗殺された父親、フィリッポス2世など、
親族のものであることはほぼ確実と見られています。

アレクサンダー大王
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ただ、アレクサンダーの墓はギリシアにはなく、文献には、
その死後、アレクサンダーの遺骸はまずエジプトのメンフィスに埋葬され、
ついで彼の名を冠した都市に移された。この地に作られた大王の墓を
人々が訪れ、神殿のように崇敬した、と出てきます。
つまり、現エジプトのアレクサンドリアにあるということになりますね。

世界の考古学者が情熱的に墓探しに取り組んでいて、もし見つかれば
世紀の大発見ですが、アレクサンドリアはカイロに次ぐエジプト第2の
都市でビルが立ち並んでおり、きわめて困難です。じつは自分は、
もう数十年もアレキサンドリアを調査しているギリシア人考古学者と
個人的に知り合いでして、見つかればいいなあと心から願ってるんですが。

チンギス・ハーン
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もうここまで、だいぶ長くなってしまいました。最後の一人になるかな。
だいたい誰か想像がつくんじゃないでしょうか。アレクサンダー大王とは
時代は違いますが、肩を並べるほど有名なアジアの英雄、
モンゴル帝国初代皇帝の蒼き狼、チンギス・ハーンの墓です。

その偉業については書くまでもないでしょう。大英帝国などといったのは
別にして、個人としては世界史で最も領土を拡大した人物。
その孫のフビライは元の皇帝となり、日本にも遠征してきました。
1227年、ハーンは陣中で病没しましたが、『元史』などによると、
モンゴル高原の「起輦谷」へ葬られたと記されています。

チンギス・ハーン時代のものと見られる遺構
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その墓は大きくはなく、しかも所在地は厳重な秘密とされました。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』では、チンギスの遺体を運ぶ隊列を見た者は
秘密保持のためにすべてて殺され、また、埋葬された後はその痕跡を
消すために千頭の馬を走らせ、一帯の地面を完全に踏み固めさせたと
出ています。秘密にしたのは、墓を暴かれると国が破れると考えたからです。

さてさて、冷戦が終了した後、世界からモンゴルに多数の考古学者が
訪れ、墓探しを行っています。日本の調査隊も行きましたし、
最近、ナショナル・ジオグラフィック誌の調査隊も赴きましたが、
地上構造物はない可能性があり、これも発見はきわめて難しいでしょう。
では、今回はこのへんで。





干将・莫耶と呉越の話

2020.01.30 (Thu)
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今回はこういうお題でいきます。刀剣シリーズの一環ですが、
怖い世界史のカテゴリに入れておきます。ただし、ここで出てくる
内容が史実かどうかはかなり疑わしく、後世の脚色がだいぶ
混じっていると思いますので、そこはご承知おきください。

さて、みなさんは「呉越同舟」という故事成語はご存知でしょう。
ときは紀元前500年頃、中国の春秋時代のことです。
現在の蘇州周辺を支配した呉と、浙江省のあたりにあった
越の国はたいへん仲が悪く、戦いをくり返していました。

この両国の数十人が、国境にある川で舟に乗り合わせましたが、
互いに気まずい様子で押し黙っていました。すると、急に天候が
変わって強い風が吹きすさび、舟は帆を降ろさないと転覆して
しまいますが、波風に激しく揺られてロープがほどけません。

春秋時代の呉と越
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そこで、それまで敵対的だった両国の人が協力し、ロープを
ほどいて助かったという故事から、「本来は、仲の悪い者
同士でも、災害時や利害が一致すれば、協力したり助け合う」
という意味で使われます。『孫子』に出てきます。

では、この呉越の戦い、どっちが最終的に勝ったか。これは
「臥薪嘗胆」の故事で有名です。まず呉が戦いに負け、王は
死に際に後継者の夫差に、「必ず仇を取るように」と言い残します。
夫差は「3年のうちに必ず」と答え、敗北を忘れないよう並べた薪の
上に毎日寝て、兵を鍛え国の軍備を充実させました。これが「臥薪」。

「臥薪嘗胆」
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まもなく、夫差は越に攻め込み、越王勾践の軍を破ります。勾践は降伏し、
夫差によって馬小屋の番人にさせられますが、やがて許されて国に戻り、
屈辱を忘れないため、毎日苦い胆を嘗めます。「嘗胆」ですね。
その後、呉は覇者をめざして各国に兵を出すなど国力を疲弊させ、
ついに越に滅ぼされ、夫差は自殺します。『史記』のエピソードです。

越の勝ちだったんですね。で、この呉越の物語には、2本の名剣が
登場します。干将(かんしょう)と莫耶(ばくや)です。
2本あるのは、陰陽をあらわす雌雄の剣ということで、
現存してないので詳細はわかりませんが、おそらく両刃の片手剣、
短いものだったのではないかと思います。

丹下左膳
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陰陽剣という言葉があります。剣は2本セットでつくられ、
互いに呼び合うという考え方で、これは創作ですが、林不忘の
時代小説『丹下左膳』には、関の孫六作の乾雲と坤龍という
妖刀が出てきて、互いに求め合って血を呼びます。

干将・莫耶というのは、もともとその剣をつくった鍛冶夫妻の名です。
2世紀ころの史書『呉越春秋』によれば、鍛冶夫婦は夫差の先代の
呉王から剣の製作を依頼されますが、どうしたことか鉄が溶けません。
そういった場合、鍛冶師が鉱炉に身を投げれば溶けると言われるものの、
そこまではせず、妻の莫耶が自分の髪と爪を入れるんですね。

そうして2本の剣ができましたが、夫はなぜか雌剣の莫耶のほうだけを
呉王に献上します。剣は宝物として扱われましたが、その後、
呉を訪れた魯国の使者が、剣を見せてもらったときに刃こぼれを
発見し、呉の滅亡を予言することになります。

越王勾践剣
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この他に、この鍛冶夫妻の子どもである赤(せき 眉間尺)が出てくる
話もあるんですが、こちらはあまりに荒唐無稽なので割愛します。
で、不思議なのは、雄剣の干将のほうはほとんど歴史に
登場しないんです。理由はよくわかりません。

さて、なぜこの話が出てきたか。じつは古代中国で青銅器から鉄器に
切り替わるのが、ちょうどこの春秋時代あたり、前600年頃
なんですね。おそらくそれで、こういう逸話になったんだと
思われます。あと、越王の句践は名剣を集めていたと言われ、
8本の剣を所有していたとされます。

特殊な字体で書かれた越王勾践剣の刻字
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伝説と思われてましたが、1965年、その1本であるとされる  
銅剣が湖北省江陵県望山1号墓より出土したんです。ターコイズと
青水晶とブラックダイヤモンドで象嵌された見事なもので、
刀身には「越王勾践 自作用剣」と刻字されていました。うーん、
中国当局は本物と見て、国外持ち出し禁止の国宝扱いになっています。

この剣は、2000年を越えた古いものなのに錆一つなく、
X線回折法で分析したところ、表面を硫化銅の皮膜でおおって
あったとされます。銅剣というところに着目してください。
干将・莫耶は鉄剣とされますが、これはおそらく観賞用でしょう。

呉王夫差矛
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あと、句践の好敵手であった夫差は、「呉王夫差矛 ごおうふさやり」
という矛を持っていたと言われ、じつはこちらも湖北省江陵県
馬山5号墓より出土してるんです。やはり錆は見られません。
これも本物だとしたらすごい話ですよねえ。

さてさて、ということで、あんまりオカルトな内容にはなりません
でした。まだ取り上げてない西洋の剣もいろいろありますので、
刀剣シリーズは今後もぼちぼち続けていくことになると
思います。では、今回はこのへんで。

関連記事 『刀剣シリーズ』

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中国神話と陰陽五行説

2020.01.13 (Mon)
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三皇五帝

今回はこういうお題になります。うーん、古代史研究においては
大切な話なんですが、かなり地味な内容になると思われるので、
特に興味のない方はスルーされたほうがいいかもしれません。
さて、中国4000年とも5000年の歴史とも言われますよね。
その頃の日本は縄文時代です。

縄文時代の始まりは、今から約1万6000年前とみられますが、
日本の歴史が古いとはあまり言われません。
これはどうしてかというと、一番大きな理由は、日本の縄文時代は
小集団がバラバラに生活していて、大きなまとまりがなかった
ためだと考えられます。あと、文化の程度ということもあるでしょう。

中国では、周王朝が紀元前1000年、商(殷)王朝が紀元前
1600年、夏王朝が紀元前2000年頃に成立したと
言われています。ただし、夏については詳しくはわかっていません。
また、これらの王朝は、後代とは異なり、中国の広い地域を
支配していたわけでもありません。

女媧と伏犠
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では、夏王朝以前には何があったかというと、三皇五帝が支配していた
とされます。もちろん、三皇五帝が歴史的に実在していたという
根拠はなく、現代の中国でも、この部分は神話であると考えられて
います。では、三皇五帝とは誰のことを指してるんでしょうか。

これ、いろんな説があってはっきりしないんですよね。いちおう
『史記』の説をとれば、三皇は、「 伏犠、女媧、神農 」。
五帝は、「 黄帝、顓頊(せんぎょく)、嚳(こく)、堯、舜 」
です。ただし、実際に司馬遷が書いたのは五帝の部分だけで、
しかも、存在は疑わしいという注釈までつけています。

最初の神 盤古
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それより古い三皇については、唐の時代に『史記』を補筆した
司馬貞という人物がつけ加えた新しい内容です。
おそらく、司馬遷の時代には、まだ女媧や神農のエピソードが
広まっていなかったと考えられます。

みなさんは、「加上説」という言葉をご存知でしょうか。
神話研究などに使われる用語ですが、簡単に言うと、
古い時代の神話ほど新しい時代に成立し、神話が複雑さを
増していくといった内容で、よく引き合いに出されるのが、
この中国の例なんです。

中国神話では、盤古(ばんこ)が最も古い神ですが、中国人の
研究者によれば、周代に最古の人とみなされていたのは禹であり、
春秋時代に堯と舜、戦国時代に黄帝と神農、秦代に三皇、
漢代以降に盤古が加えられたと論じられています。
これ、自分はおおむね正しいと思っています。

陰陽を表す太極図
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加上説は世界の他の地域の多くの神話にもあてはまり、
日本神話も例外ではありません。なかなか話が前に進みませんね。
さて、中国には「陰陽五行説」があり、大きな影響力を
持っていました。中国にはさまざまな宗教がありますが、
インドから伝来した仏教をのぞいて、

儒教でも道教でも、陰陽五行説は当然の真理として取り入れられて
います。中国のあらゆる思想を横断する概念なわけです。
陰陽五行説が成立したのは、中国の春秋戦国時代頃と考えられ、
陰陽説と五行説はそれぞれ別個に発生し、後代になって
一つに結びついたものであることがわかっています。

封禅の儀
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で、この陰陽五行説が、中国神話の成立にも大きな影響を与えて
いるんですね。中国の最初の神、盤古は体の大きな巨人で、
生まれたとき、天と地とは接していて区別がありませんでした。ところが
盤古が日に日に成長していくと、軽いものが上に押し上げられて
天になり、重いものが下に沈んで地になって陰陽が分かれた。

まあ、世界は最初混沌であったとする神話は各地にありますが、
中国神話の場合は、陰陽という概念から、かなり後代になって
盤古の存在が考え出されたんです。古い書物で、盤古の名前が
出てくるものはないんですね。ちなみに、陰と陽はどちらがより
重要ということはなく、互いに補完しあう関係です。

また、五帝の最初である黄帝も、五行説から生まれたもので
あるという説があります。下の図を見ていただければ
わかりますが、五行は「土、火、金、水、木」で、それぞれ季節や
方角が対応しています。また、色は、土ー黄、火ー赤、金ー白、
水ー黒、木ー青(緑)です。

五行図
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つまり、黄帝が五行説の中央に位置する神なんです。一説によれば、
黄帝は他の4人の帝、炎帝、蚩尤(しゆう)たちを戦いで倒し、
中国で最初の皇帝の座についたとされます。「黄帝」と「皇帝」は
中国でも日本でも、発音がまったく同じなんですね。

帝位についた黄帝は、中国東方の泰山に登り、封禅の儀を行って
帝位についたことを天に報告します。この儀式は、後に中国を統一した
秦の始皇帝も行っていますが、そのときには誰も儀式のやり方を
知らなかったという逸話が残っています。封禅の儀という言葉だけが
つくられて、実体はなかたっということでしょう。

最初の帝 黄帝
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さてさて、ということで、退屈な話にここまでつき合っていただいて
ありがとうざいます。結論として、中国の古い神々は新しい時代に
つくられたもので、その成立は陰陽五行説の影響を強く受けている
ということなんです。自分はこれ、日本の天照大神、神武天皇などにも
あてはまると考えています。では、今回はこのへんで。

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