波乱万丈の人

2018.05.25 (Fri)
変な題名ですが、「怖い世界史」のカテゴリに入る内容です。
比較的 地味な内容なので、スルー推奨かもしれません。
さて、近代(日本の明治維新から第2次世界大戦まで)で、最も波乱に富む
生涯を送った人を一人あげろと言われたら、自分は迷わず、
ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝、ニコライ2世と答えます。

ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ


この人は、すごいトラブル・メーカーなんですよね。
ただし、自分から好んでトラブルを起こすわけではなく、
トラブルのほうから、この人物に向かって寄ってくるという感じです。
しかも、オカルトめいた話題にも事欠きません。

まず、最初にあげられるのは、皇太子時代に日本で起きた「大津事件」
でしょうか。1891年、ニコライ2世の世界旅行の最後の訪問地として、
日本に寄港。長崎から京都に向かう途中の大津で、警察官 津田三蔵が
サーベルで斬りかかり、頭蓋骨にヒビが入る重傷を負わせました。

これが大津事件です。津田は、2人の車夫によって取り押さえられます。
大国ロシアに配慮した明治政府は、津田を、日本の皇族に対する罪である
大逆罪で死刑にしようとしましたが、
大審院院長、児島惟謙は、一般人に対する謀殺未遂罪を主張します。

津田三蔵
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結局、議論の末、それが認められ、最高刑である無期懲役に処されました。
これにより、日本政府による圧力から司法権の独立が守られたと
評価する人もいます。で、津田三蔵がなぜニコライを襲ったのか。
これは、日本に干渉するロシアに対する反感が、最も大きな動機でしょう。

ただ、一説には、西南戦争で自決したはずの西郷隆盛が、
じつはロシアに逃れており、ニコライとともに帰国するというデマが
日本中に流れていて、西南戦争で勲章を授与されていた津田は、
もし西郷が帰還すれば、自分の勲章も剥奪されるのではないかと
おそれていたため、という話があります。

この事件のため、ニコライは終生、傷の後遺症と頭痛に苦しむようになり、
日本人に嫌悪感を持ち、ことあるごとに「猿」
と呼ぶようになります。そして、この蔑視が。
後の日露戦争につながっていったのは間違いのないところです。

さて、その後、ニコライはアレクサンドラと結婚し、1896年、
皇帝の戴冠式を行うわけですが、そこで「ホディンカの惨事」と呼ばれる
事件が起きます。モスクワ郊外のホディンカの平原に設けられた即位記念会場を
訪れた50万の大群衆の中で、順番待ちの混乱から将棋倒し事故が発生し、
1400人を超す死者が発生したんですね。

ホディンカの惨事


しかし、新皇帝と皇后は何ごともなかったかのように祝賀行事に出席するなど、
事件への対応は、国民からは「冷淡」「無関心」とも取れるもので、
ロシア国民、特に貧困層の反感を買うこととなり、
後のロシア革命の遠因になったとも言われています。

トラブルはまだまだあります。兵士が武器を持たない10万の群衆に発砲し、
2000~3000人の死者を出した「血の日曜日事件」、
映画になった「戦艦ポチョムキンの反乱」事件などです。もちろん、
東洋の島国に、バルチック艦隊が壊滅させられて敗戦した日露戦争もそうです。

さて、ニコライの末子、皇太子アレクセイは血友病患者であり、当時は
有効な治療法がありませんでしたが、その祈祷にあたったのが、
帝政ロシア最大の怪物とも言われる、グリゴリー・ラスプーチンです。
皇帝一家が、ラスプーチンを「我らの友」と呼び、絶対の信頼を寄せたことから、
ラスプーチンは政治に口をはさむようになり、陰で大きな権力をふるいました。

グリゴリー・ラスプーチン
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もちろん、周囲がそれをそのままにしておくはずがなく、
ラスプーチンは暗殺されるんですが、毒を飲ませ、ピストルで撃ち、
首を絞め、さらに氷の張った川に投げ込んでも、
まだ生きていたというオカルト話が残っていますね。

さてさて、そうこうしてるうちにロシア革命が起き、ボルシェビキによって,
皇帝一家は捕らえられ、幽閉されます。ウラジーミル・レーニンは、
皇帝一家の殺害命令を出し、皇帝、皇后、5人の子女は殺されて
しまうんですが、ここで、最後のオカルト話になります。

皇女アナスタシア


皇女アナスタシアの生存説です。何人もの女性が、自分がアナスタシアであると主張し、
その証拠の品を示しているんですね。これは、ソ連が「ニコライ2世は処刑されたが、
他の家族は安全な場所に護送された」という噂を流し続けたせいが大きいようです。
しかし近年、皇帝一家全員の遺骨が確認され、
生存説には終止符が打たれることになりました。

かなり端折って書いたつもりですが、だいぶ長くなってしまいました。
ここで書いたのはほんの一部分で、ニコライ2世のいくところ、
トラブル、トラブルの連続で、たくさんの血が流れています。
いくら共産主義革命のさなかと言っても、こんな人は珍しいですよ。
では、今回はこのへんで。






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電気とフランケンシュタイン

2018.05.22 (Tue)
今回はこの話題でいきます。ルイージ・ガルヴァーニ(Luigi Galvani)
という人をご存知でしょうか。18世紀、イタリアの医師、物理学者で、
生体電気と、それから発展した化学電池の研究に、
大きく貢献した人なんですが、日本ではあまり知られていません。

ルイージ・ガルヴァーニ


さて、医師であったガルヴァーニは、カエルを料理して、
彼の患者のスープにするため、医療用メスを使って切り刻んでいましたが、
別々の金属でできたメスをカエルの体にさし入れたところ、
足の筋肉がピクピク痙攣することを発見しました。

それまでは、筋肉が動くのは、体内をめぐる何らかの液体が
筋肉を膨張させるためだと考えられてきましたが、
ガルヴァーニは、その力が生体内の電気によって引き起こされたと推論し、
動物電気と名づけました。

ガルヴァーニの実験


でも、この仮説は間違っていたんですね。ガルヴァーニは、
電気が起きるのは化学反応によると考えた同時代の物理学者、
アレッサンドロ・ボルタと論争になり、ボルタは、カエルの体を介さなくても
電気が化学反応で起きることを実験で示しました。
現在、ボルタ電池と呼ばれるしくみです。

カエルの体は一種の触媒の役割を果たしたのであり、それがなくても、
うすい塩酸に亜鉛板と銅板などを入れれば電気が発生します。
しかし、電気によって筋肉が動くことも間違いありません。
そこで、同時代の学者は、こぞってその研究に着手しました。

さて、ガルヴァーニの甥に、ジョバンニ・アルディーニ(Giovanni Aldini)
という人物がいて、この研究について知ると、
カエルよりももっと大きな動物で実験を始めました。
しかも、それを研究室内で行うのではなく、公開デモンストレーションとして、
ヨーロッパ各地を巡回しながら実施していったんですね。

ジョバンニ・アルディーニ


まるで見世物ショーのようですが、この公開デモンストレーションが行われた
のは、1789年に始まったフランス革命の真っ最中であり、
ご存知のように、ルイ16世やマリー・アントワネットが処刑されています。
銃を持った市民があちこちにうろうろしていた、血なまぐさい時代にあって、
アルディーニの実験は大ウケし、大喝采を博しました。

実験は、具体的には、屠殺されたばかりの牛や犬、羊などの死体に
高圧の電流棒をふれさせ、体を痙攣させたり、脚を動かしたりせてみせるものでした。
これは首のない死体にも行われたので、観衆はただただ驚くばかり。
で、ここまでくれば、当然人間の遺体でもやってみたくなりますよね。

アルディーニの実験
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世紀がかわった1803年、アルディーニはイギリスにおもむきました。
これは、当時の英国では、犯罪者は遺体も罰せられなくてはならない、
という法律があり、実験体が手に入りやすかったからです。
そこでアルディーニが入手したのは、妻と子を溺れさせて殺した罪で
死刑になった、ジョージ・フォスターという男性の遺体です。

実験は王立医師アカデミーの施設で、皇太子立ち会いのもとに行われ、
アルディーニが電気棒をあてると、死体は目を開き、アゴを動かしたと言われます。
さらに、アルディーニが電気棒を遺体の肛門に突っ込むと、
遺体は拳を突き上げ、足をバタつかせたとされ、観衆に大きな感銘を与えました。

さて、『フランケンシュタイン』はご存知だと思います。
イギリスの小説家、メアリー・シェリーが1818年に匿名で出版した
ゴシック小説で、多くの映画化作品があります。フランケンシュタインは、
吸血鬼、狼男と並んで、世界の3大モンスターなどとも言われます。

メアリー・シェリー
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誤解が多いのは、フランケンシュタインは怪物の名前ではなく、
それを創った科学者の名前なんですね。怪物の名前は作中には出てきません。
フランケンシュタイン博士は、自ら墓を暴き、死体を集めて継ぎ合わせ、
それに高圧電流を流して、生命を蘇らせました。

作者のメアリーは、詩人のパーシー・シェリー、バイロン卿らと、
スイス・ジュネーヴ近郊のレマン湖畔に滞在していましたが、夕食の議論の後、
「皆でひとつずつ怪奇小説を書こう」という話になりました。
このときの議論の話題の中心になったのが、ガリバリズム(galvanism)で、
これは、最初に出てきたガルヴァーニによる、一連の発見のことです。

さてさて、ということで、あの名作の誕生エピソードとして、
なかなか面白い話だと思われませんか。現代になっても、電流を流すことによる
死者の蘇生には成功してはいませんが、ガルヴァーニの考え方は、
救命器具のAEDや、脳ニューロンの発火などにつながっているわけです。
では、今回はこのへんで。







洪水と反閇

2018.05.20 (Sun)
中国の黄河(Yellow River)で4000年前に大洪水が起きたことを示す
初めての証拠を発見したとの研究結果が発表された。
この大洪水は、夏(Xia)王朝とその後の中国文明の誕生につながったとされる。

米科学誌サイエンス(Science)に発表された研究結果によると、
大洪水が発生したのはこれまで考えられてきたよりも数百年早い紀元前1920年。
これは、禹(Yu)王による夏王朝樹立の時期が通説よりも早かったことを意味し、
この発見により歴史が書き換えられる可能性がある。
(AFP)

前に「蠱術」について書きましたが、
今回も、中国由来の呪術についての内容です。
さて、どっから書きましょうかね。まず、夏(か)王朝のことからいきますか。
夏は、中国最古の王朝で、紀元前19世紀ころに始まったとされます。

よく「中国4000年の歴史」などと言いますが、その元になった王朝です。
夏というのは、後世の呼び名で、自称が何であったかよくわかってはいません。
また、夏に文字があったかどうかもはっきりはしていません。
ちなみに、中国の古代王朝、「夏・殷(商)・周」を三代と言います。

夏が文献に出てくるのは、ずっと後代のことであり、
伝説上のものに過ぎない、という人もいれば、紀元前19世紀は、
ちょうど中国が新石器時代から青銅器時代に切りかわる頃であり、
何らかの勢力が起こったのではないかと考える人もいました。

それが、1959年、中国河南省偃師(えんし)市の二里頭村から、
大規模な都市、宮殿遺構が発見され、二里頭遺跡と呼ばれます。
殷(商)の遺跡に先行することから、これを夏王朝の都とみる説が有力になりました。
下は、南北100m、東西108の方形の基壇の上に建てられた、
一号宮殿跡の復元図です。

二里頭遺跡 一号宮址


さて、この夏王朝の始祖とされるのが、帝 堯(ぎょう)です。
堯は、中国の「五帝」の一人であり、「その仁は天のごとく、その知は神のごとく」
と賛美される人物です。堯は自分の子孫には帝位を継がせず、
有徳の噂の高い舜(しゅん)に、自分の娘を嫁がせて譲位しました。

ご存知の方も多いと思いますが、このように、自分の血縁者ではない人物に、
その地位を譲ることを「禅譲」と言います。禅譲は、治世の理想とされましたが、
長い中国の歴史において、禅譲らしき出来事は何度かあるものの、
そのほとんどは、実質的には、後継者が地位を簒奪したものです。

さて、この堯・舜2代の皇帝に、治水の能力によって仕えたのが、
第3代皇帝の禹(う)です。黄河の大洪水の後、その復旧をまかせられたとされます。
初めは、禹の父の鯀(こん)が工事を行っていましたが、
失敗して死に、その後継に任じられました。そして治水に成功した功績により、
舜から帝位を禅譲されることになります。

皇帝 禹
ダウンロード (1)

後代の文献『莊子』には、「禹は偏枯なり」という言葉が出てきていて、
この「偏枯」は、片足が萎えた人と解される場合が多かったんです。
体が不自由なのに、大規模な工事を行ったのがすごいということで、
中国で伝えられてきたものと考えられます。

で、禹は足が不自由だったため、よろめきながら歩くわけですが、後代、
その歩法に呪術的な意味がつけ加えられ、「禹歩 うほ」として伝えられました。
道教の儀式において、道士が禹歩を行うことにより、
日照りに雨を降らせたり、岩を動かすことができるなどと伝えられています。

禹歩


禹歩は日本にも伝わり、「反閇 へんばい」という儀式になりました。
土御門などの陰陽師が、天皇や高位の貴族の外出の際に、
大地を踏み鎮め、悪霊を祓うために行われたんですね。みなさんの中には、
テレビで放送した『陰陽師』で、安倍晴明が反閇を行っているのを
ご覧になった方もおられると思います。

反閇は、相撲の四股や、歌舞伎の足さばきに影響を与えたなどとも言われます。
また、反閇を行うときには、松明に火を灯し、水、米、大豆,ゴマ、粟、麦、
酒などを、行く道に撒き散らす「散供 さんぐ」をあわせて行いました。
反閇は現代にも伝わっていますが、厳密に古代と同じものかははっきりしません。



さて、「禹は偏枯なり」の話に戻って、偏枯は足が不自由という意味ではなく、
魚の神を表しているのではないかという説があります。
言語学者の白川静氏は、禹という漢字が、もともとはワニや竜を表す象形文字であり、
中国の博物誌『山海経』に、偏枯という魚神が描かれていることから、
禹は洪水神ではなかったかという説を述べています。

『山海経』の「偏枯」
ダウンロード

うーん、もしこれが本当だとすれば、禹は自分で洪水を起こし、
自分で治めたということになるんでしょうか。それも不思議な話ではありますが、
洪水神は、世界各地の神話に出てきますので、
そういうこともあるのかもしれません。

さてさて、引用記事に戻って、黄河の大洪水は、紀元前1600年ころと
考えられてきましたが、洪水で崩壊した建物の瓦礫の中から見つかった、
3人の子どもの骨に対する放射性炭素年代測定によって、
前1920年ころと推定され、夏王朝の開始した時期も早まることになったんですね。

でも、どうなんでしょう? 洪水があったことは事実として、
それが夏王朝の伝説とほんとうに結びつくのか。その時代に、
大規模な治水工事などができたのか。禹は実在の人物なのか、謎は尽きないんですね。
では、今回はこのへんで。  関連記事 『蠱術って何?』 『夏の法』







「聖アントニウスの火」

2018.05.06 (Sun)
今回はこのお題でいきます。けっこうオカルトに関係がある内容です。
カテゴリは「怖い世界史」に入るでしょうか。
さて、まず、聖アントニウスとは何者かについてお話します。
「聖」とあるとおり、アントニウスはキリスト教初期のころの聖人です。
3世紀のエジプトに生まれ、修道士生活の創始者とされています。

聖アントニウス


ただ、その生涯は伝説に彩られていて、どこまでが実際のところなのか
よくわかってないんですね。裕福な両親のもとに、
キリスト教徒として生まれたものの、20歳になったころに両親が次々に亡くなり、
アントニウスは全財産を貧しい者に分け与え、砂漠に入って苦行生活を始めます。

そして、ときおり町に戻っては、辻で説教をする。その言葉に共感した者たちが
弟子となり、砂漠に生活する家を建てて共同生活を始める。
これが、最初の修道院であるとされます。
そして、このアントニウスの行動を悪魔が眼にとめます。

悪魔は、アントニウスの覚悟をためそうと、美しい女に姿を変えて誘惑しますが、
アントニウスは禁欲の誓いをもって、これをはねつけます。
次に、悪魔の一団がアントニウスを襲い、病気などのあらゆる苦しみを与えて、
神を捨てるように迫ります。しかし、アントニウスはこれも退けます。

このときの様子が、宗教画のテーマとして画家たちの興味をひき、
「聖アントニウスの誘惑」の題で、ヒエロニムス・ボス、グリューネヴァルト、
デューラー、ブリューゲル、サルバドール・ダリなどの画家が描いています。
下は、ヨースト・ファン・カースベーク のものです。

「聖アントニウスの誘惑」


さて、ここまでが基礎知識なんですが、では「聖アントニウスの火(業火)」
とは何かというと、中世ヨーロッパに存在した病気のことです。
これは伝染病ではなく、小麦に寄生した麦角(ばっかく)菌を
食べてしまうことによって起こります。
麦角菌は毒性のあるアルカロイドをつくり出すんですね。

症状はかなりきつく、痙攣性の発作に襲われたり、呼吸困難や、
手足の末端に焼けつくような痛みがあります。この段階で、
幻覚を見るとも言われます。やがて症状が進むと、
手足の先端から壊死が始まり、四肢がくずれ落ちていきます。

この病人の様子が、悪魔に苦しめられている聖アントニウスと重なり、
「聖アントニウスの火」がこの病気の名前となったわけです。
医学知識の乏しかった当時は、この病気は伝染病と誤解されました。
原因が麦角アルカロイド中毒にあると判明したのは17世紀のことです。

麦角菌(黒変部分)


で、この病気にかかった者は、聖アントニウスを信仰し、
その遺物にふれると治ると言い伝えられました。
フランス北部のストラスブールにある、聖アントニウスゆかりの修道院には、
この病気にかかった者たちが、たくさん巡礼に訪れました。

そして、その旅の途中で治ってしまうことが多かったんです。これは、
当時は奇跡とも考えられていましたが、現代の目から見れば、
なんのことはない、故郷を離れることによって、
麦角菌におかされた食物(主に粉に挽かれた小麦)を
口に入れることがなくなり、中毒が治まるからです。

「聖アントニウスの火」にかかった人物
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ちなみに、日本では麦角菌を原因とした病気はほとんど見つかっていません。
これは、麦角菌が稲には寄生しないからですが、太平洋戦争中の食糧難時代、
岩手県で、笹の実を食べた妊婦が次々に流産するという事件が起こり、
麦角菌によるものではないかと疑われています。

さてさて、「聖アントニウスの火」は、魔女と深い関係があります。
こっからオカルトの内容になりますので、ご注意ください。
まず、麦角菌アルカロイドは、魔女によって堕胎の薬として使われた
という話があります。ご存知のように、キリスト教では堕胎を禁じています。

そこで、子どもを生むことができない妊婦は、森のなかに住む魔女のところを
訪ね、麦角菌を処方してもらって、子どもを堕ろすわけです。
さらに、麦角菌アルカロイドの幻覚作用は、魔女の宴であるサバトのときに
利用されていたのではないか、という話もあります。

アメリカの開拓時代である1692年、マサチューセッツ州セイラム村において、
200名近い村人が魔女として告発され、19名が処刑、
1名が拷問中に死亡、2人の乳児を含む5名が獄死しています。
この事件を「セイラム魔女裁判」と言います。

「セイラム魔女裁判」


きっかけは、牧師の娘が、友人らとともに親に隠れて降霊会に参加している最中、
急に暴れだしたことからです。この状態は、降霊会に出席した少女たちに、
次々に伝染。そして悪魔憑きと診断されて、騒ぎがどんどん拡大していきました。
この原因が、麦角アルカロイド中毒によるのではないか、という説があるんですね。

ただし、現代の日本でも、コックリさんを行った少女らが、
次々に錯乱して倒れたという話もあり、集団ヒステリーによるものと見ることが
できます。根拠はありませんが、どっちかと言えば、
このほうが正しいんじゃないかと自分は考えます。では、今回はこのへんで。

関連記事 『ココリツトリって何?』

「聖アントニウスの誘惑」 サルバドール・ダリ






歴史を変えた重金属

2018.04.29 (Sun)
今回はこのお題でいきますが、みなさんが世界史で勉強した、青銅器時代とか
鉄器時代のことではありません。もう少し別の角度からのお話です。
さて、重金属とは、「比重が4~5以上の金属元素のことである。
一般的には鉄以上の比重を持つ金属の総称。」
とWikiに出てきています。

で、これらの重金属の多くは強い毒性を持っています。
例えば、抗癌剤のシスプラチンのプラチンはプラチナ(白金)を表します。
強い細胞毒性があり、癌細胞を痛めつけますが、
正常細胞にも大きなダメージを与えます。
髪の毛が抜けてしまう副作用はよく知られていますね。

また、自分は趣味で海水魚を飼育しているんですが、
飼っている魚が白点病という寄生虫病になった場合、銅を使って治療します。
銅には強い毒性があり、魚に影響を与えず、白点病虫だけを殺すには、
銅製剤の量の微妙なさじ加減が必要です。

これらの重金属は、西洋・東洋、日本を含めてさまざまな歴史の場面で登場し、
大きな影響を与えてきたと考えられています。特にそれがとりざたされるのは、
鉛と水銀ですね。どちらも昔から使われ、やはり毒性は強く、
有機水銀が水俣病を引き起こしたのは、みなさんもご存知でしょう。

さて、まず鉛のほうからいきましょう。ネロ・クラウディウスは第5代の
ローマ皇帝で、1世紀の人です。世界史では「暴君ネロ」として知られています。
その治世は、最初の頃は穏健でしたが、母親を殺害したあたりから精神に
異常をきたしはじめたといわれ、親族や臣下を多数 処刑しています。

皇帝ネロ


また、初期のキリスト教徒を迫害したことも有名ですね。
キリスト教徒をとらえると、松明のかわりに火をつけて燃やしたとか、
宮廷で飼っていたライオンと戦わせたとか、さまざまな話が残っています。
これで、キリスト教の広まる勢いはだいぶ弱められました。

余談ですが、ネロは幼少時から、当時は蔑まれていた芸人になりたい
という希望があり、皇帝になってから、無理やり数千人の観客を集め、
自分が歌うワンマンショーを、たびたび開いていたそうです。
まさに、『ドラえもん』に出てくるジャイアンの元祖のような人でした。

このネロが暴君だった原因は、鉛中毒だったのではないかという説があります。
当時のローマでは、貴族の家に通じていた水道管や食器には鉛が使われており、
その毒性が少しずつ体内に蓄積していって、精神に影響を与えたというわけです。
ちなみに、ネロは31歳で自殺しています。

あと、日本でも、徳川幕府の7代将軍、家継は8歳で亡くなっています。
また、13代将軍家定は、34歳で死にましたが、幼少時から体が弱く、
人前に出ることを極端に嫌っていました。
これは、乳母に授乳されるとき、その胸に塗られていた白粉に含まれる、
鉛の中毒だったのではないかという説があるんです。

徳川家継


鉛入りの白粉は、長い間使用されてきましたが、やがて、
その毒性が知られるようになり、だんだんに別の素材に入れ替わって
いきました。ですが、鉛入りのものが法律で禁止されるには、
1934年(昭和9年)まで待たなくてはなりませんでした。

次に、水銀をみてみましょう。これは前にも書きましたが、
中国を統一して初めての皇帝となった始皇帝、政は水銀中毒で死んだという
話があります。当時 信じられていた仙道では、水銀をきわめて重要な
素材とみなし、それでつくった丹は不老不死の妙薬とされていました。

で、水銀をつねづね服用していた始皇帝の命を縮めたというわけです。
始皇帝は50歳で病没していますが、もう少し長生きできれば、
後継者の体制が固まって、秦の治世はもう何代か続いていたかもしれません。
また、西洋でも、水銀は錬金術で重要視され、多くの錬金術師が
水銀中毒で亡くなったんではないかと推察されています。

秦始皇帝 政


さらに、さまざまな妖怪がぞろぞろ練り歩く「百鬼夜行」。
これも、水銀中毒と関係があるんじゃないかという説があるんです。
聖武天皇の発願で752年に開眼した奈良の大仏ですが、アマルガム法で
金メッキをするために、世界で類例がないほど大量の水銀が一度に使われました。

東大寺盧遮那仏


そのため、大仏の開眼後に、平城京には原因不明の病が流行し、
大仏造営に関わっていた工人たちが、水銀中毒で体のあちこちに異常をきたし、
障害者となって集団でさまよっていた姿が
百鬼夜行として表されたのではないかという、ひどい話があるんですね。

さてさて、当ブログはオカルトブログですので、ここまでの内容は、
話半分にして聞いてください。ネロにしても、始皇帝にしても、
その遺体を分析して、鉛や水銀が検出されたというわけではありません。
ただ、これらの重金属の毒性が、世界の歴史にいろいろな形で影響を与えてきた
のは間違いのないところでしょう。では、今回はこのへんで。

関連記事 『秦始皇帝と不老不死』