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ボブ・マーリーと現人神

2020.12.04 (Fri)
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今回はこういうお題でいきます。地味な内容になりそうなので
スルーされたほうがいいかもしれません。さて、みなさんは
1981年に亡くなったジャマイカ出身のレゲエミュージシャン、
ボブ・マーリーはお好きでしょうか。

自分は曲によって聞くものと聞かないものがあります。
ライブバージョンの「ノーウーマン ノークライ」などは大好き
ですが、中には理解しずらい曲もあるんですよね。ですから、
全面的なファンというわけではありません。ボブ・マーリーは、
「ラスタファリ運動」に傾倒し、その象徴として活動してきました。

エチオピア皇帝 ハイレ・セラシエ1世
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で、この「ラスタファリ運動」というのが、ひじょうに不可解な
もので、一言では説明しにくいんです。まず宗教であるのは
間違いありません。それと同時に政治運動でもあります。
ただし、誤解してはいけないのは、ジャマイカではラスタファリ運動が
宗教的に主流というわけではなかったことです。

さて、ここで話を変えて、「現人神 あらひとがみ」は
ご存知でしょう。「この世に人間の姿で現れた神」という意味で、
戦前の日本の天皇がそういう存在でしたね。大日本帝国憲法に、
「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるとおりです。

マーカス・ガーベイ
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では、世界にはこういう存在は他にあるものでしょうか。
チベット仏教におけるダライ・ラマがそれに近いかもしれません。
あとは、ローマ教皇が「神の代理人」とされるくらいかな。
で、ラスタファリ運動には、かつて現人神が存在していました。
それはジャマイカとは直接の関係がないエチオピアの初代皇帝、

ハイレ・セラシエ1世なんです。なぜエチオピアの皇帝がジャマイカで
神と考えられるるようになったかは、きわめて複雑な事情があります。
まず、18世紀、エチオピアニズムというがあって、アメリカの
バプテスト教会の黒人説教師の間で、聖書の断片的な記述から、

ハイレ・セラシエとボブ・マーリー
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「エチオピアがすべての黒人のルーツである」という考えが
広まっていました。ここに登場するのが、1887年にジャマイカで
生まれた社会運動家マーカス・ガーベイです。彼はアメリカに渡り、
黒人の地位向上をめざす活動を始めます。それと同時に、アメリカの
黒人がアフリカに帰る「アフリカ回帰運動」を進めていきます。

また彼は、貿易会社ブラック・スター・ライン社を設立し、
事業家としてのスタートをきります。ジャマイカ出身の黒人としては
大変な活躍ですが、社会活動がアメリカ政府ににらまれ、
会社のささいな違反を告発されて投獄、本国へ強制送還となります。
その後、ガーベイはジャマイカで労働者のための政党をつくり、

ラスタの長老
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1927年、ラスタファリ運動が生まれる重要な発言をします。           
それは「アフリカを見よ。黒人の王が戴冠するとき、解放の日は近い」
というもので、その3年後、エチオピアの初代皇帝に即位したのが
ハイレ・セラシエ1世。ラスタファリ運動では、ハイレ・セラシエを
唯一神ヤハウェの現人神とみなし、ジャー(Jah)と呼びます。

またマーカス・ガーベイは、キリスト教における洗者ヨハネのような
預言者と とらえられます。もちろん、上記したようにハイレ・セラシエは
ジャマイカとは何の関係もなく、即位した当時は、遠いカリブ海の国で
神とみなされているとは思いもよりませんでした。ちなみに、
ハイレ・セラシエの即位前の称号が「ラス・タファリ(タファリ侯)」

帝政時代のエチオピア国旗 この3色と中央の「ユダのライオン」がラスタのシンボルとなった


それがラスタファリ運動の名になっているわけです。不思議な話ですよね。
その後、ハイレ・セラシエはエチオピアに独裁政権を敷きますが、
だんだんに、ジャマイカで自分が神とあがめられていることを知るように
なります。また、アフリカ回帰運動の存在も知り、ジャマイカから
積極的に移民を受け入れ、国の近代化に貢献してくれると期待しました。

ですが、ジャマイカから来た人々は働かず、マリファナばかり吸っていて
納税もしない(笑)。1966年、ハイレ・セラシエはジャマイカを訪問。
神が訪れることを知ったラスタファリアン数万人が空港に押しかけ、
麻薬を吸い、太鼓を叩いて踊り、セラシエは飛行機から降りることが
できなかったんです。(ラスタ指導者のおかげで、なんとか降りることは

ジャマイカで大歓迎を受けるセラシエ ラスタファリ運動の絶頂期
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できましたが、歓迎パーティは中止)このときジャマイカ移民の処遇に
困っていたセラシエは、ラスタ指導者に「ジャマイカ社会を解放するまでは
エチオピアへの移住を控えるように」という私信を送ります。これは神の
言葉なので、「ザイオン(アフリカ)回帰より バビロン(ジャマイカ)解放」
という新しいスローガンがラスタファリ運動に定着してきます。

1974年、エチオピアでクーデターが起き、セラシエは宮殿内で
陸軍により逮捕・廃位され、拘禁中の翌年に暗殺されます。ジャマイカで
ラスタファリアンは、「お前たちの神は死んだぞ」とバカにされますが、
これを受けてボブ・マーリーが、「Jah Live(ジャーは生きている)」
という曲を出します。そのマーリーも1981年、悪性メラノーマの

「ジャー リブ」
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脳転移により死去。これで宗教としてのラスタファリ運動は終わったと
考えていいでしょう。マーリーは死の直前、エチオピア正教会の
洗礼を受け、洗礼名ベラーネ・セラシエとなります。現在もラスタは
存在しますが、それはマリファナをよしとし、ドレッドヘアや
菜食主義などの特徴を持つ文化、ライフスタイルに変わりました。

さてさて、ということで、ジャマイカで奇妙な宗教が生まれ、そして
終わるまでの経緯を見てきました。音楽としてのレゲエはもちろん
現在も盛んで、レゲエは宗教歌ではないとして、ラスタファリ運動と
レゲエ文化を切り離す試みがジャマイカでは行われています。
では、今回はこのへんで。

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アルキメデスの戦い

2020.10.16 (Fri)
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今回はこういうお題でいきます。カテゴリは世界史かな。
さて、みなさん、もちろんアルキメデスはご存知だと思います。
紀元前3世紀を生きた古代ギリシアの数学者、自然哲学者、
発明家・・・と大変な天才だったんですが、軍略家としての
側面は知らない方もおられるんじゃないでしょうか。

さて、アルキメデスと聞けば、ぱっと出てくるのが
「アルキメデスの原理」ですね。「流体(液体や気体)中の
物体は、その物体が押しのけている流体の重量と同じ大きさで
上向きの浮力を受ける」というもの。

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例えば、みなさんが風呂に入ったとします。このとき、当然
風呂の水は増えますよね(あふれないものとします)。
その増えた分の水の重量だけ、みなさんは上向きの浮力を得る
ことになります。もしこれが海だったら、海水は真水よりも
重いので、より浮力は大きくなります。

まあ、ここまでは誰でも知ってるでしょうが、液体だけじゃなく
気体でも成り立つんですね。気体は軽いので、あまり意識
されることはないですけど、ごくごくわずかながら浮力をつくる。
ヘリウムや水素の風船が空気中で上昇するのはこれですね。
で、まずはアルキメデスの原理が発見された王冠のエピソードから。

a eureka moment


当時、ギリシアの植民都市であったシラクサの領主ヒエロン2世が
金細工師に金を渡し、純金の王冠を作らせました。ところが、
金細工師は金に混ぜ物をして王から預かった金の一部を盗んだ、
という噂が広まったんです。そこで、ヒエロンは

知恵者として知られていたアルキメデスに、混ぜ物がしてあるか
どうか調べるように命じました。王冠を溶かしてしまえば
それは簡単ですが、もし純金だった場合、せっかくの美術品は
だいなしになってしまいます。アルキメデスは困り果て、

てこの原理を利用した投石機


くる日もくる日もこの難題を考え続けましたが、あるとき風呂に
入ったところ、水が湯船からあふれるのを見て、その瞬間、
アルキメデスの原理のヒントを発見したんですね。
王冠を水に沈め、あふれた水の体積を記録し、王冠と同じ重量の
純金も同じように水に沈めて比較すればいい。

この時、浴場から飛び出たアルキメデスは「ヘウレーカ Eureka!
分かったぞ」と叫びながら裸で走っていったという伝説も残って
います。ちなみに、アメリカの子どもは学校でこの言葉を
習うので、ほとんどの人は知っていて日常よく使われます。

「アルキメデスの鉤爪」
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例えば、「a eureka moment」というフレーズがあり、これは
今までできなかったことや、まったく理解できなかったことが
突然できるようになった瞬間のことです。それにしても、
この話の王冠は、宝石とかが埋め込まれてなかったんで
しょうかね。取り外したのかな。

さて、アルキメデスは第二次ポエニ戦争(ローマ、カルタゴ間の戦争)
で、3つの画期的な兵器を発明しローマ軍を苦しめたとされます。
1つ目は、「アルキメデスの鉤爪 Claw of Archimedes」と呼ばれる、
てこの原理を応用した大型兵器。上図のようなものです。

「アルキメデスの熱光線」
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孫の手みたいですが、海に面した砦からこれを操り、相手の軍船に
引っ掛けてひっくり返す。動力は人力なのかな。
2005年、イギリスのテレビ番組がこれを検証し、実際に役立つ
力を持っていたことが証明されました。2つ目の兵器は
「投石機 Catapult」ですが、説明は不要でしょう。

3つ目が、「アルキメデスの熱光線 Heat ray」と呼ばれるもので、
太陽光線を集めて照射し、相手の船を燃やす。みなさんも
小学校で虫メガネでやったことがあると思います。ただし、当時は
大きなレンズを作るのは不可能で、金属製の凹面鏡で光を集めた。

複数の鏡を使ったと考えられます
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で、この話、本当なのかどうか、ルネッサンス期のヨーロッパで
議論になり、ルネ・デカルトは否定。当時の学者たちは、
アルキメデスの時代に実現可能な手法で検証を試みたましたが、
その結果、ていねいに磨かれた青銅や銅の曲板を使って、
太陽光線を標的の船に集めることができたんですね。

また、1973年にギリシアの科学者、2005年に
マサチューセッツ工科大学 の学生グループが検証実験を行い、
どちらも、気象条件がよければ実用になるという結論が
得られています。まあねえ、地中海の陽光ですからねえ。

アルキメデスの死
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さてさて、アルキメデスの最期も伝説になっています。
アルキメデスが住むシラクサ(現イタリア、シチリア島の都市)
にローマ軍が攻め入り占領しました。このとき、大天才
アルキメデスを殺すなという通達が兵士の間に出されていましたが、
ローマ兵が入ってきたとき、アルキメデスは砂に描いた図形の上に

かがんで考えこんでいました。アルキメデスの家と知らない
ローマ兵が名前を聞きましたが、夢中になっていたアルキメデスが
無視したので、兵士は腹を立てて彼を殺したとされます。
アルキメデス最期の言葉は「図をこわすな!」だったという
話もありますが、さすがにできすぎでしょう。では、このへんで。





モアイをめぐる3つの説

2020.07.28 (Tue)
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今回はこういうお題でいきます。少し前にヘイエルダールの
話を書いたとき、いずれモアイについての記事も出したいと
述べましたが、みなさんの記憶がさめないうちに
やってしまいたいと思います。

さて、モアイですが、現在のチリ領、イースター島にある
巨大な石像のことです。以前も書きましたが、イースター島
という征服者の白人がつけた名称は現在 忌避される傾向があり、
現地語名のラパ・ヌイを使っていくことにします。

このモアイ像、その形がきわめてユニークなため、世界に知れ渡る
とともに模倣され、日本にもいくつかのモアイ像があります。
下図は、香川県高松市女木町(島)にあるモアイ像で、
重さは約10t。クレーンメーカーが、寝ている像を立てる
実験のために作ったということです。本家のモアイ像で

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最大のものは、高さ7.8m、重さ80tにもなります。加工しやすい
比較的軟らかい凝灰岩で作られており、島の、ラノ・ララクと
呼ばれる直径約550mの噴火口の石切場から採石されています。
ラパ・ヌイには歴史的に金属器が存在せず、黒曜石などの硬い石で
切り出し、加工されたようです。また、ラノ・ララクから
モアイ像がある場所までの距離は遠く、どうやって運んだのかが

一つの謎とされてきました。モアイ像は遅くとも10世紀から
作られ始め、形状から4期に分けることができます。最初期の
モアイ像は小さく、人型をしていて下半身もありました。
それが第2期から下半身がなくなり、第4期になって、
現在モアイ像として認識される形になったんですね。

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字数がかぎられてますので、基礎知識はこれくらいで。
さて、モアイ像は、かつて太平洋上にあったムー大陸など、
超古代文明の遺産として説明されてきました。ラパ・ヌイは
ムー大陸と陸続きであった。あるいは、ムー大陸が沈んだ後、
生き残った人々がラパ・ヌイに上陸した。その古代技術を

証明するのがモアイ像というわけです。ですが、科学が進展すると
ともに、太平洋の海底地形がほぼ明らかになり、地球物理学、
地質学などによって、ムー大陸の存在は完全に否定されました。
オカルトを科学が駆逐するという構図ですが、真面目な学説でも、
近年、否定されるようになったものは多いんです。

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モアイ像についてもそれがあてはまり、以前はアメリカ人の
進化生物学者、ジャレド・ダイアモンドの唱えた説が支配的
でした。2005年出版の『文明崩壊』の中で、かつて
ラパ・ヌイは豊かな森林に覆われており、比較的高度な
文明を持つ人々が2、3万人生活していた。

モアイもその人たちが作ったわけですが、その後の人口増加と
モアイ制作の影響で、森林がしだいに破壊され、その結果、
戦争等によりラパ・ヌイの文明は崩壊し、人口は3000人程度
まで減少、人々の生活は石器時代レベルまで後退した。
そこへ、ヨーロッパの征服者たちが大型船でやって来て・・・

ジャレド・ダイアモンド博士
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これ、定説みたいに言われてきたんですよね。自分が中学の
国語の授業で読んだ説明文も、この説をもとに書かれていました。
ですが、この説はリベラル的な内容で、科学的な根拠はあまり
ないものだということが明らかになってきたんです。

2012年、テリー・ハント、カール・リボという2人の
アメリカ人研究者が実地的な調査で、この説をまっこうから否定
しました。ラパ・ヌイでは、ジャレドが言う人口爆発も、
高度で複雑な社会も存在しなかったと言うんですね。

もう字数がなくなってきたので、ここで詳しい説明はしませんが、
自分が見るかぎり、ハントらの説のほうがはるかに現実的に
思えます。そもそもラパ・ヌイは降水量が少なく、農耕には
不向きな気候です。最初から、3000人程度の人口のまま、
海岸沿いに点在する集落で暮らしてきた。

ラノ・カウ火口
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実際、ラパ・ヌイの遺跡の状況がそのことを裏づけています。
モアイ像を作ることによって資源を消費し、文明が崩壊した
という話はドラマチックで、現代人に対する警鐘も含んでいる
ように思えますが、そんな事実はなかったと見るのがよさそうです。
さて、肝心のモアイ像の話。なぜ、モアイ像は作られたのか。

これは諸説あり、モアイは墓碑であったとする説。マナという霊力が
宿る宗教的建造物であったとする説、また、モアイ像の近くには
真水が湧き出ていることが多く、水の守り神であったとする説など。
ただ、最近人骨が台座から発見されたことで、
墓碑説が有力になってきているようです。

「モアイを歩かせる」実験
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次に運搬方法。ジャレド説では、木製のソリに乗せ、コロを置いて
大勢でロープで引っ張ったとされましたが、ハントらは、
現地人のモアイは自ら歩いて移動したという伝承に注目し、
モアイを立たせたまま、両側からロープで引いて移動させる
実験を成功させています。このほうが人数が少なくて済むんですね。

さてさて、ラパ・ヌイは18、19世紀、ヨーロッパ人の苛烈な
奴隷狩りに遭い、また、その後に島に持ち込まれた疫病によって、
人口は100人程度まで減少してしまいました。島の歴史で
何かの教訓があるとしたら、むしろこっちだと思うんですが、
欧米人はこのことにはダンマリです。では、今回はこのへんで。

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アーサー王とアバロン島

2020.06.08 (Mon)
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今回はこういお題でいきます。世界史の話ですが、以前に、
アーサー王の愛剣であるエクスカリバーのことを書いているので、
それと内容がかぶらないようにしたいと思います。
みなさんはアーサー王はご存知だと思います。数々の伝説に
いろどられた大ブリテン島の英雄。

自分がアーサー王を知ったのは、友人から勧められて聞いた、
イギリス人キーボード奏者、リック・ウエイクマンのアルバム、
『アーサー王と円卓の騎士たち』によってです。
これと、同じウエイクマンの『ヘンリー8世と6人の妻』は、
今でもときどき聞くことがあります。

アーサー王のイメージ
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さて、アーサー王伝説はイギリス人なら誰でも知ってる物語で、
上記の作品の他、何度も映画化されています。では、
この話が史実かというと、イギリスの歴史家の多くは
否定的です。信頼できる一次資料がないんですね。

アーサー王がもし実在したのなら、6世紀前半頃の人物という
ことになりますが、その時代の文字資料はありません。
11世紀にウィリアム征服王がイングランドを征服し、
大陸の制度を導入するまでは、イギリスはかなりの
未開の地で、歴史もよくはわかっていません。

王と円卓の騎士たち
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アーサー王の名前が広まったのは、12世紀、ジェフリーのモンマス
による歴史書『ブリタニア列王史』からですが、どこが資料の引用で、
どこが想像による物語なのか判別できないような本です。
それと、12世紀は十字軍遠征によってキリスト教の信仰の気運が
高まり、同時に騎士道物語が隆盛を始めた時期なんです。

ですから、アーサー王伝説のほとんどが、創作された物語である
可能性は否定できません。イギリスの正式な歴史書の多くには、
アーサー王の名前は入ってないんです。さて、では、アーサー王
伝説とはどのようなものなのか。ブリテン島の小貴族の子に

エクスカリバーで英語検索した画像 長剣ではないようです
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アーサーという若者がいた。森の中になぜか鉄床があり、それに
一本の剣が深く刺さり、鉄床には「この剣を引き抜いた者は
全ブリテンの王となる」と書かれていた。なみいる力自慢が挑戦しても
誰も抜けなかったのを、やすやすと引き抜いたのがアーサーだった。
ちなみにこの剣はエクスカリバーではありません。

その後の戦いでアーサーは連戦連勝、美しい娘グィネヴィアを妻とします。
また、小舟で湖を渡っているとき、水の中から白い腕が出てきて一本の
剣を授けられます。これがエクスカリバー。ついにアーサーは王となり、
宮廷魔術師マーリンや数々の勇者を配下とし、勇者たちは、
序列をつけないように円形になったテーブルに座ったので、

8歳の少女が湖で発見した剣 どうやら現代の映画撮影用のもののようです
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円卓の騎士と呼ばれます。あるとき、その円卓上に聖杯(キリストが  
最後の晩餐で用いたとされる杯)が現れて消え、騎士たちは探索の
旅へと出ます。アーサーは537年のカムランの戦いで、宿敵
モルドレッドと一騎討ちをして傷つき、アバロン島へ傷を癒やしに
赴くがそこで亡くなってしまう・・・だいたいこんな話です。

さて、アーサーが実在の人物だったとすれば、上記の話はかなり
おかしいですよね。まず、イギリスがキリスト教を受容したのは
ヨーロッパの中でもかなり遅く、アーサーの死前後のことです。
ですから、アーサーはケルト系土着宗教の信者と考えられ、
聖杯うんぬんの話はすべてでたらめです。

イギリス屈指のパワースポット「グラストンベリー・トー」
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また、映画になったアーサー王は金属製の甲冑に身を固めて
騎馬で戦いますが、考古学的には、アーサーの頃の鎧は簡単な
かたびら程度のものだったことがわかっています。エクスカリバーが
馬上で用いられる片手剣として描かれるのもかなり怪しい。

さて、余白がなくなってきたので急ぎます。アバロンはケルト語で
リンゴを表し、ケルト神話では不死の象徴とされていました。
その名前とったアバロン島は、西方の海に浮かぶ地上の楽園として
語りつがれていたんですね。まず候補にあがったのはレオノイス島。

イングランド西側の地図
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イングランド、コーンワル半島とその沖のシリー諸島との間に
その島はあったが、中世のいつかの時点で海に飲み込まれ、
島民一人だけが生き残った。そういう伝説が残っていて、
この島はイギリスのアトランティスと呼ばれていました。

ところが、1191年、コーンワル半島のつけ根にある小さな町
グラストンベリーで修道院が火事になり、その片づけの最中、
地下から、「ここアバロニアの島に名高きアーサー王眠る」と記された
鉛の大十字架が見つかり、その下から2名の遺骨が発見されたんです。
これはどうしても、アーサー王と王妃グィネヴィアと考えますよね。

グラストンベリーのアーサー王の墓とされる場所
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さてさて、その後、修道院は建て直され、遺骨は大理石の柩に移されて
保管されていたが、16世紀に修道院の撤去とともに地下に埋葬され、
そのまま場所がわからなくなってしまいます。ただ、この話、
みなさんが考えられるように、怪しさ爆発です。

まず、グラストンベリーは比較的海に近いとはいっても、島では
ありませんし、修道院の火事で発見されたのもタイミングがよすぎます。
修道僧たちが、建物を再建する資金を捻出するために
すべてをでっちあげたのではないかという疑惑が持たれているんです。
では、今回はこのへんで。

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「決闘」の周辺事情

2020.04.15 (Wed)
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『デュエリスト/決闘者』

今回はこういうお題でいきます。カテゴリは世界史かな。
さて、みなさんは決闘というと何を思い浮かべられるでしょうか。
『OK牧場の決闘』なんかの西部劇でしょうか。背中を向けて立った
2人の男が互いに10歩歩いてからふり向き、
腰の銃を抜いて撃ち合い、どちらかがバッタリ倒れる。

西部劇の様式美ですよね。ですが、20歩も離れると、
互いに当たらないことも多かったようです。もしこれで相手が
死んでも罪にはなりませんが、確認のための裁判は受けねばならず、
民事賠償などもあったみたいですね。このアメリカの開拓時代の決闘も、
もともとはヨーロッパで行われていたものが持ち込まれたんです。

西部劇の決闘のイメージ
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ヨーロッパでは、主に上流階級の間で、10世紀以前から
19世紀まで、決闘が制度として行われていました。
え、何でそんな野蛮なものが、と思われるかもしれませんが、
これにはいろんな事情がからんでいます。

まず、上流貴族というのは警察や裁判になじまないこと。
ヨーロッパでは、貴族は封建領主でもありますから、国王といえども
簡単に裁くことはできない。もし揉め事があった場合、
当事者同士で決着をつけてもらうのが一番よかったんですね。

もう一つは、キリスト教の影響です。ヨーロッパの歴史は
キリスト教を抜きに語ることはできません。もちろん教会が
決闘を推奨していたなんてことはないんですが、
決闘を行う者の間では、神は正しい方に味方すると
考えられていました。一種の神聖裁判の趣があったわけです。

『三銃士』
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さて、決闘の理由の多くは、名誉を傷つけられたことによります。
例えばある貴族が、自分の妻が別の貴族と密通していると
疑った場合、証拠をつかんだらその貴族のところに行き、
足元に白手袋を投げます。もし相手がこれを拾えば承諾の印と
なりました。拾わなかった場合は罪を認めたことになりますが、

それは死よりも不名誉なこととされたので、16~17世紀頃だと、
ヨーロッパ全体で、毎年1000人以上が決闘で命を落としていた
とみられています。ただ、決闘のルールはさまざまで、どちらかが
死亡するまで戦う場合もあれば、最初に一方がケガをして
血を流した時点で終わりというのもありました。

ロシアンルーレットにはギャンブルと決闘の側面があります
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銃を使った決闘では、決闘の立会人が2丁の銃を用意し、
片方にだけ実弾を入れておき、くじで2人の決闘者に選ばせる
という形もあったんです。これでは、勝敗が運に左右されてしまう
わけですが、上記したように、神に裁きをゆだねるという形です。

さて、では日本では決闘は行われていたでしょうか。これは、
ヨーロッパのような合法の制度としての決闘はありませんでした。
「仇討ち」は公認されていましたが、私闘の場合はあくまで
喧嘩両成敗ということになります。

ロンドンオリンピックの決闘競技 銃を使ったフェンシングとも言えます
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とはいえ、「試合、立合」としての決闘はありました。有名な、
宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の戦いは、小倉藩細川家の
主催で行われています。また、領主の公認がなくても、
武芸者どうしの試合はしばしば行われ、どちらかが死んでも
罪を追求されることは少なかったでしょう。

さて、ここからは有名な決闘の事例を見てみましょう。これは
フィクションですが、フランスの文豪、アレクサンドル・デュマの
『三銃士』では、田舎から出てきた若者ダルタニャンが、
銃士隊員であるアトス、ポルトス、アラミスの3人と1日のうちに
別々のトラブルを起こし、決闘の約束をするところから始まります。

巌流島の戦い 決闘ではなく、あくまで試合
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『三銃士』の連載開始は1844年ですが、作中の舞台は
17世紀です。デュマの時代には、もうほとんど決闘は行われなく
なっていました。とはいえ、1908年のロンドンオリンピックでは、
防具をつけロウの弾丸を用いた決闘が公開競技として実施されて
います。決闘で命を落とした有名人はいろいろいますが、1832年、

フランスの天才数学者エヴァリスト・ガロアが、21歳で決闘で
受けた傷がもとで死亡しています。理由は女に関するいざこざ
だったようで、腕に自信がなかったガロアは、自分の死を覚悟した
心境を書き残しています。ガロアは17歳で画期的なガロア理論を
構築しており、早すぎた死というしかないですね。

エヴァリスト・ガロア
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あと、これもフィクションですが、『ハリー・ポッターと秘密の部屋』
だったかな。ドラコ・マルフォイと「魔法使いの決闘」をする話が
出てきていました。立会人がスネイプ先生で、細長い通路に立ち、
互いに杖を向け合うという、伝統を踏まえた決闘シーンになってました。

さてさて、最後に、『エイリアン』や『ブレードランナー』を撮った
巨匠、リドリー・スコット監督のデビュー作は『デュエリスト/決闘者』
というイギリス映画で、決闘にとり憑かれて生涯を送った人物を
描いた内容でした。では、今回はこのへんで。

『ハリー・ポッターと秘密の部屋』
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