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キュリー夫人とゴーストガールズ

2018.07.14 (Sat)
福島第一原子力発電所


今回はこういうお題でいきます。東日本大震災にともなう福島第一原発の
事故により、私たち日本人は放射能の危険性を改めて認識させられましたが、
では、放射能って、いつから危険だと考えられ始めたんでしょう?
これ、じつはそんなに古い話ではないんですね。

さて、キュリー夫人はご存知でしょう。こないだエジソンについて書きましたが、
彼と同じくらい伝記でとりあげられている人ですよね。
ポーランド出身の科学者で、ノーベル物理学賞、化学賞をともに受賞しています。
1903年の物理学賞は、放射能の発見によるもので、
放射能(radioactivity)と名づけたのも彼女です。

マリ・キュリー


で、1911年の化学賞は、新元素ラジウムの発見などの業績によります。
さて、1920年代、彼女はキュリー・ラジウム研究所を立ち上げましたが、
研究員が数名、白血病、再生不良性貧血などで亡くなっていて、
その中には日本からの研究員、山田延男も含まれます。

ただ、その頃はまだ、これらの疾患と放射能の因果関係は
明らかではありませんでした。キュリー自身も、1932年に手首を骨折し、
それがなかなか治らず、さらに原因不明の体調不良に苦しむようになります。
そしてその2年後の1934年、再生不良性貧血で亡くなるんですが、
現在では長期の放射能被爆が原因であることがわかっています。

ですが、生前の彼女は、けっして研究員や自らの体調不良を、
ラジウムによるものとは認めませんでした。
それだけ、自分が発見したラジウムに対する思い入れが深かったんでしょう。
彼女の遺体は、夫のピエールと並んで埋葬されました。

現在、パリののラジウム研究所は博物館となっていますが、
実験室は、除染が行われるまで立入禁止でした。
また、彼女の自筆の論文なども、閲覧するためには防護服の着用が
義務づけられているそうで、研究所にある彼女の指紋からも放射能が検出されます。

さて、話変わって、ゴーストガールズについて。
米国イリノイ州オタワ市(カナダの首都とは別)では、1920年代、USラジウム社、
ラジウム・ダイアル社などの工場で、10代、20代の女性が、
時計の文字盤にラジウムを塗る作業をしていました。オタワ市はラジウム・シティ
とも言われ、彼女らの待遇はよく、当時の女性のあこがれの職業の一つでした。

ラジウム塗料を塗るアメリカ人女性


彼女らは「ゴーストガールズ」と呼ばれました。
なんでこんな不気味な名がついたかというと、彼女らの体は、
暗闇でぼうっと光を放ったからだと言われます。で、この若い女性らの間で、
原因不明の疾患が広がっていることがわかってきました。

病態はいろいろですが、骨が溶けたり、骨に腫瘍ができたりするケースが
多かったんですね。また、手足や腰の骨も骨折しやすくなりました。
これは、ラジウムの元素的な性質がカルシウムと似ているため、
骨に集まりやすいのが原因なんです。

ラジウム発光時計


また、アゴの骨が主にやられたのは、まだラジウムの危険性が知られておらず、
作業に使う筆の先をなめるなどして、口腔内から体内にとりこまれたためです。
若い女性にとって顔は命だと思うんですが、下アゴが完全に溶けてなくなって
しまったケースもあったようです。

下アゴに巨大な腫瘍ができた女性


合計200名ほどの女性がこのために亡くなり、さすがにおかしいと気づき始めた
被害者たちは、会社を相手に裁判を起こします。
これには長い長い年月がかかり、最終的にラジウム・ダイアル社などが、
全責任を認めたのが1938年のことです。

ということで、最後までラジウムをかばったヨーロッパのキュリー夫人のケース、
裁判で争ったアメリカのケースを考えると、放射能の危険性が知られ始めたのが
1920年代の後半、そして危険性が確定したのが、
1930年代の前半ころと考えるのがよさそうです。

ただし、このことは一般的にはなかなか広まらず、ラジウム入りの歯磨き、
ラジウム入りチョコレート、ラジウム入り座薬(男性用精力剤のようです)
などが1950年ころまで、主にヨーロッパで売られました。
また、アメリカではラドン(ラジウムからできる気体元素)入の健康飲料水が
大々的に発売され、大きな健康被害をもたらしています。

ラジウム・ラドン入り製品の数々


このことを教訓とし、現在のアメリカでは、ラジウム・ラドンを飲料に入れて
発売した場合には厳しい刑事罰が科されることになっています。それと、
上記のゴーストガールズの話は、1987年『ラジウム・シティ』という
ドキュメンタリー映画となって公開されています。

さてさて、こうしてみると、放射能が人体に及ぼす危険性が認知されたのは、
わずか90年前のことなんですね。そして、その有害性が明らかになった後、
原子爆弾が開発されて広島・長崎に投下されたんです。
では、今回はこのへんで。

原爆投下後の広島






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エジソン対テスラの戦争

2018.07.07 (Sat)
今回はこのお題でいきます。なんか怪獣映画のタイトルのようですが、
そうではなく、どちらも高名な発明家である、トーマス・エジソンと
ニコラ・テスラのことです。年齢的にはテスラが10歳ほど若く、
彼はエジソンにあこがれてエジソン電灯会社に入社していますが、後に対立し、
晩年にはエジソンの名が冠せられた「エジソン勲章」の受賞を拒否しています。

エジソンとテスラ


まずエジソンですが、ご存知でない方はいないでしょう。歌にも、
「♪ エジソンは偉い人、そんなの常識~ パッパパラリラ」とあるとおりで、
子どものころに、伝記を読まれたという人も多いんじゃないかと思います。
その発明には、電話機、蓄音機、電球、映画、トースターなどがあります。

いっぽうのニコラ・テスラには、その発明品として、ラジコン、
蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどがあります。この2人、
どちらも晩年にはオカルト研究に没頭したことでも知られています。
エジソンは、当時アメリカで大流行していた降霊会を信じていて、
スピリチュアル団体に研究資金を寄付したりしているんです。

テスラコイル


エジソンは、人間の魂を一種のエネルギーと想定し、
エネルギー保存の法則にしたがって、その力は死後も保存されると考えていました。
そこで、空気中に漂う魂のエネルギーをとらえるための
「霊界通信機・霊界ラジオ」の研究に何年も時間を費やしています。

テスラも、同じく晩年には霊界通信の研究に没頭しましたが、エジソンとともに、
成果らしい成果は出せていないのが現実的なところです。あと、
テスラの発明したテスラコイルは、アメリカのカルト団体で疑似科学的に使われ、
オカルトフアンの間で有名な、あの「フィラデルフィア実験」でも使用された
ことになっています。ただ、この話には実体がないですけどね。

フィラデルフィア実験


さて、なぜこの2人に対立が起きたかというと、
主な原因は「電流戦争 War of Currents」によるものです。エジソンは、
直流電流がアメリカのインフラとして送電されるよう推し進め、
それに対しテスラは、自分が考案した交流電流が採用されるよう画策しました。
これ、どちらが採用されるかで莫大な金額が動きますので、
まあ戦争になるのも当然です。

直流と交流の違いはおわかりだと思います。みなさんの家の壁にある
コンセントは交流電源ですし、乾電池やバッテリーは直流です。
直流は電圧は常に一定ですが、交流の電圧は波として変動しています。
下の図がわかりやすいんじゃないかと思います。

交流と直流の違い


結果からいうと、アメリカで採用されたのは交流で、テスラ側の勝ちです。
現在の日本もそうですね。なぜ交流が勝ったかの原因はいろいろあるんですが、
ここでは割愛させてください。で、この電流戦争では、エジソン側から
交流電流に対するネガティブ・キャンペーンが数々仕掛けられました。

次の動画をよろしければご覧ください。(象が感電死する閲覧注意動画です。)
出てくるのは、コニーアイランドの遊園地で飼われていたトプシーという象で、
調教師を3人殺してしまったため、薬殺処分される予定でしたが、エジソン側は、
交流電流の危険を訴えるため、公開の場で電気ショックで殺すことを提案しました。



そして、数秒で煙を出して死ぬ様子が撮影され、エジソンはその場面を
自分が発明した映画にして、全米各地で公開したんですね。
この他にも、エジソンは自分の研究所で、
犬や猫を、交流電流によって多数 殺処分しているんです。

でも、これはどう考えても非科学的だし、そもそもアンフェアですよね。
直流だって電圧が大きければ死ぬはずです。
これに対抗して、テスラ側は人体に交流電流を流し、
その安全性を人々に示すショーを企画して、全米各地を巡業して回りました。

さて、アメリカの死刑方法では電気イスが有名ですが、もちろんこれは、
電気製品が実用化されてからのもので、それ以前は絞首刑が多かったようです。
で、エジソン側は、電流戦争のネガティブ・キャンペーンの一環として、
交流電流が用いられた電気イスでの死刑を提案しました。

史上初の電気イスでの死刑は、1890年、ニューヨーク州のオーバーン刑務所で、
内縁の妻を斧で殺害したウィリアム・ケムラーに対して執行されたんですが、
悲惨きわまる結果になりました。最初17秒間通電しましたがケムラーは死に至らず、
2回目は1分以上通電され、発電機が電圧2000ボルトに上昇するまで

ウィリアム・ケムラーの死刑


ケムラーは叫び続け、肉が焼ける臭いが部屋に立ち込め、頭部から煙が上がり、
最終的には体から炎が上がりました。吐き気を催した見物人が何人も、
部屋から逃げ出したと言われています。この結果について、
「斧を使ったほうがまだましだった」とまで、後に論評されました。

さてさて、みなさんは今、さまざまな電気製品を使われていると思いますが、
その陰には、このような歴史があったんですね。あと、日本では現在、
オウム真理教の松本智津夫の死刑の話題でもちきりですが、
アメリカでの電気イスによる死刑には、こんな興味深い裏話があったんです。
ということで、今回はこのへんで。





波乱万丈の人

2018.05.25 (Fri)
変な題名ですが、「怖い世界史」のカテゴリに入る内容です。
比較的 地味な内容なので、スルー推奨かもしれません。
さて、近代(日本の明治維新から第2次世界大戦まで)で、最も波乱に富む
生涯を送った人を一人あげろと言われたら、自分は迷わず、
ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝、ニコライ2世と答えます。

ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ


この人は、すごいトラブル・メーカーなんですよね。
ただし、自分から好んでトラブルを起こすわけではなく、
トラブルのほうから、この人物に向かって寄ってくるという感じです。
しかも、オカルトめいた話題にも事欠きません。

まず、最初にあげられるのは、皇太子時代に日本で起きた「大津事件」
でしょうか。1891年、ニコライ2世の世界旅行の最後の訪問地として、
日本に寄港。長崎から京都に向かう途中の大津で、警察官 津田三蔵が
サーベルで斬りかかり、頭蓋骨にヒビが入る重傷を負わせました。

これが大津事件です。津田は、2人の車夫によって取り押さえられます。
大国ロシアに配慮した明治政府は、津田を、日本の皇族に対する罪である
大逆罪で死刑にしようとしましたが、
大審院院長、児島惟謙は、一般人に対する謀殺未遂罪を主張します。

津田三蔵
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結局、議論の末、それが認められ、最高刑である無期懲役に処されました。
これにより、日本政府による圧力から司法権の独立が守られたと
評価する人もいます。で、津田三蔵がなぜニコライを襲ったのか。
これは、日本に干渉するロシアに対する反感が、最も大きな動機でしょう。

ただ、一説には、西南戦争で自決したはずの西郷隆盛が、
じつはロシアに逃れており、ニコライとともに帰国するというデマが
日本中に流れていて、西南戦争で勲章を授与されていた津田は、
もし西郷が帰還すれば、自分の勲章も剥奪されるのではないかと
おそれていたため、という話があります。

この事件のため、ニコライは終生、傷の後遺症と頭痛に苦しむようになり、
日本人に嫌悪感を持ち、ことあるごとに「猿」
と呼ぶようになります。そして、この蔑視が。
後の日露戦争につながっていったのは間違いのないところです。

さて、その後、ニコライはアレクサンドラと結婚し、1896年、
皇帝の戴冠式を行うわけですが、そこで「ホディンカの惨事」と呼ばれる
事件が起きます。モスクワ郊外のホディンカの平原に設けられた即位記念会場を
訪れた50万の大群衆の中で、順番待ちの混乱から将棋倒し事故が発生し、
1400人を超す死者が発生したんですね。

ホディンカの惨事


しかし、新皇帝と皇后は何ごともなかったかのように祝賀行事に出席するなど、
事件への対応は、国民からは「冷淡」「無関心」とも取れるもので、
ロシア国民、特に貧困層の反感を買うこととなり、
後のロシア革命の遠因になったとも言われています。

トラブルはまだまだあります。兵士が武器を持たない10万の群衆に発砲し、
2000~3000人の死者を出した「血の日曜日事件」、
映画になった「戦艦ポチョムキンの反乱」事件などです。もちろん、
東洋の島国に、バルチック艦隊が壊滅させられて敗戦した日露戦争もそうです。

さて、ニコライの末子、皇太子アレクセイは血友病患者であり、当時は
有効な治療法がありませんでしたが、その祈祷にあたったのが、
帝政ロシア最大の怪物とも言われる、グリゴリー・ラスプーチンです。
皇帝一家が、ラスプーチンを「我らの友」と呼び、絶対の信頼を寄せたことから、
ラスプーチンは政治に口をはさむようになり、陰で大きな権力をふるいました。

グリゴリー・ラスプーチン
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もちろん、周囲がそれをそのままにしておくはずがなく、
ラスプーチンは暗殺されるんですが、毒を飲ませ、ピストルで撃ち、
首を絞め、さらに氷の張った川に投げ込んでも、
まだ生きていたというオカルト話が残っていますね。

さてさて、そうこうしてるうちにロシア革命が起き、ボルシェビキによって,
皇帝一家は捕らえられ、幽閉されます。ウラジーミル・レーニンは、
皇帝一家の殺害命令を出し、皇帝、皇后、5人の子女は殺されて
しまうんですが、ここで、最後のオカルト話になります。

皇女アナスタシア


皇女アナスタシアの生存説です。何人もの女性が、自分がアナスタシアであると主張し、
その証拠の品を示しているんですね。これは、ソ連が「ニコライ2世は処刑されたが、
他の家族は安全な場所に護送された」という噂を流し続けたせいが大きいようです。
しかし近年、皇帝一家全員の遺骨が確認され、
生存説には終止符が打たれることになりました。

かなり端折って書いたつもりですが、だいぶ長くなってしまいました。
ここで書いたのはほんの一部分で、ニコライ2世のいくところ、
トラブル、トラブルの連続で、たくさんの血が流れています。
いくら共産主義革命のさなかと言っても、こんな人は珍しいですよ。
では、今回はこのへんで。






電気とフランケンシュタイン

2018.05.22 (Tue)
今回はこの話題でいきます。ルイージ・ガルヴァーニ(Luigi Galvani)
という人をご存知でしょうか。18世紀、イタリアの医師、物理学者で、
生体電気と、それから発展した化学電池の研究に、
大きく貢献した人なんですが、日本ではあまり知られていません。

ルイージ・ガルヴァーニ


さて、医師であったガルヴァーニは、カエルを料理して、
彼の患者のスープにするため、医療用メスを使って切り刻んでいましたが、
別々の金属でできたメスをカエルの体にさし入れたところ、
足の筋肉がピクピク痙攣することを発見しました。

それまでは、筋肉が動くのは、体内をめぐる何らかの液体が
筋肉を膨張させるためだと考えられてきましたが、
ガルヴァーニは、その力が生体内の電気によって引き起こされたと推論し、
動物電気と名づけました。

ガルヴァーニの実験


でも、この仮説は間違っていたんですね。ガルヴァーニは、
電気が起きるのは化学反応によると考えた同時代の物理学者、
アレッサンドロ・ボルタと論争になり、ボルタは、カエルの体を介さなくても
電気が化学反応で起きることを実験で示しました。
現在、ボルタ電池と呼ばれるしくみです。

カエルの体は一種の触媒の役割を果たしたのであり、それがなくても、
うすい塩酸に亜鉛板と銅板などを入れれば電気が発生します。
しかし、電気によって筋肉が動くことも間違いありません。
そこで、同時代の学者は、こぞってその研究に着手しました。

さて、ガルヴァーニの甥に、ジョバンニ・アルディーニ(Giovanni Aldini)
という人物がいて、この研究について知ると、
カエルよりももっと大きな動物で実験を始めました。
しかも、それを研究室内で行うのではなく、公開デモンストレーションとして、
ヨーロッパ各地を巡回しながら実施していったんですね。

ジョバンニ・アルディーニ


まるで見世物ショーのようですが、この公開デモンストレーションが行われた
のは、1789年に始まったフランス革命の真っ最中であり、
ご存知のように、ルイ16世やマリー・アントワネットが処刑されています。
銃を持った市民があちこちにうろうろしていた、血なまぐさい時代にあって、
アルディーニの実験は大ウケし、大喝采を博しました。

実験は、具体的には、屠殺されたばかりの牛や犬、羊などの死体に
高圧の電流棒をふれさせ、体を痙攣させたり、脚を動かしたりせてみせるものでした。
これは首のない死体にも行われたので、観衆はただただ驚くばかり。
で、ここまでくれば、当然人間の遺体でもやってみたくなりますよね。

アルディーニの実験
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世紀がかわった1803年、アルディーニはイギリスにおもむきました。
これは、当時の英国では、犯罪者は遺体も罰せられなくてはならない、
という法律があり、実験体が手に入りやすかったからです。
そこでアルディーニが入手したのは、妻と子を溺れさせて殺した罪で
死刑になった、ジョージ・フォスターという男性の遺体です。

実験は王立医師アカデミーの施設で、皇太子立ち会いのもとに行われ、
アルディーニが電気棒をあてると、死体は目を開き、アゴを動かしたと言われます。
さらに、アルディーニが電気棒を遺体の肛門に突っ込むと、
遺体は拳を突き上げ、足をバタつかせたとされ、観衆に大きな感銘を与えました。

さて、『フランケンシュタイン』はご存知だと思います。
イギリスの小説家、メアリー・シェリーが1818年に匿名で出版した
ゴシック小説で、多くの映画化作品があります。フランケンシュタインは、
吸血鬼、狼男と並んで、世界の3大モンスターなどとも言われます。

メアリー・シェリー
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誤解が多いのは、フランケンシュタインは怪物の名前ではなく、
それを創った科学者の名前なんですね。怪物の名前は作中には出てきません。
フランケンシュタイン博士は、自ら墓を暴き、死体を集めて継ぎ合わせ、
それに高圧電流を流して、生命を蘇らせました。

作者のメアリーは、詩人のパーシー・シェリー、バイロン卿らと、
スイス・ジュネーヴ近郊のレマン湖畔に滞在していましたが、夕食の議論の後、
「皆でひとつずつ怪奇小説を書こう」という話になりました。
このときの議論の話題の中心になったのが、ガリバリズム(galvanism)で、
これは、最初に出てきたガルヴァーニによる、一連の発見のことです。

さてさて、ということで、あの名作の誕生エピソードとして、
なかなか面白い話だと思われませんか。現代になっても、電流を流すことによる
死者の蘇生には成功してはいませんが、ガルヴァーニの考え方は、
救命器具のAEDや、脳ニューロンの発火などにつながっているわけです。
では、今回はこのへんで。







洪水と反閇

2018.05.20 (Sun)
中国の黄河(Yellow River)で4000年前に大洪水が起きたことを示す
初めての証拠を発見したとの研究結果が発表された。
この大洪水は、夏(Xia)王朝とその後の中国文明の誕生につながったとされる。

米科学誌サイエンス(Science)に発表された研究結果によると、
大洪水が発生したのはこれまで考えられてきたよりも数百年早い紀元前1920年。
これは、禹(Yu)王による夏王朝樹立の時期が通説よりも早かったことを意味し、
この発見により歴史が書き換えられる可能性がある。
(AFP)

前に「蠱術」について書きましたが、
今回も、中国由来の呪術についての内容です。
さて、どっから書きましょうかね。まず、夏(か)王朝のことからいきますか。
夏は、中国最古の王朝で、紀元前19世紀ころに始まったとされます。

よく「中国4000年の歴史」などと言いますが、その元になった王朝です。
夏というのは、後世の呼び名で、自称が何であったかよくわかってはいません。
また、夏に文字があったかどうかもはっきりはしていません。
ちなみに、中国の古代王朝、「夏・殷(商)・周」を三代と言います。

夏が文献に出てくるのは、ずっと後代のことであり、
伝説上のものに過ぎない、という人もいれば、紀元前19世紀は、
ちょうど中国が新石器時代から青銅器時代に切りかわる頃であり、
何らかの勢力が起こったのではないかと考える人もいました。

それが、1959年、中国河南省偃師(えんし)市の二里頭村から、
大規模な都市、宮殿遺構が発見され、二里頭遺跡と呼ばれます。
殷(商)の遺跡に先行することから、これを夏王朝の都とみる説が有力になりました。
下は、南北100m、東西108の方形の基壇の上に建てられた、
一号宮殿跡の復元図です。

二里頭遺跡 一号宮址


さて、この夏王朝の始祖とされるのが、帝 堯(ぎょう)です。
堯は、中国の「五帝」の一人であり、「その仁は天のごとく、その知は神のごとく」
と賛美される人物です。堯は自分の子孫には帝位を継がせず、
有徳の噂の高い舜(しゅん)に、自分の娘を嫁がせて譲位しました。

ご存知の方も多いと思いますが、このように、自分の血縁者ではない人物に、
その地位を譲ることを「禅譲」と言います。禅譲は、治世の理想とされましたが、
長い中国の歴史において、禅譲らしき出来事は何度かあるものの、
そのほとんどは、実質的には、後継者が地位を簒奪したものです。

さて、この堯・舜2代の皇帝に、治水の能力によって仕えたのが、
第3代皇帝の禹(う)です。黄河の大洪水の後、その復旧をまかせられたとされます。
初めは、禹の父の鯀(こん)が工事を行っていましたが、
失敗して死に、その後継に任じられました。そして治水に成功した功績により、
舜から帝位を禅譲されることになります。

皇帝 禹
ダウンロード (1)

後代の文献『莊子』には、「禹は偏枯なり」という言葉が出てきていて、
この「偏枯」は、片足が萎えた人と解される場合が多かったんです。
体が不自由なのに、大規模な工事を行ったのがすごいということで、
中国で伝えられてきたものと考えられます。

で、禹は足が不自由だったため、よろめきながら歩くわけですが、後代、
その歩法に呪術的な意味がつけ加えられ、「禹歩 うほ」として伝えられました。
道教の儀式において、道士が禹歩を行うことにより、
日照りに雨を降らせたり、岩を動かすことができるなどと伝えられています。

禹歩


禹歩は日本にも伝わり、「反閇 へんばい」という儀式になりました。
土御門などの陰陽師が、天皇や高位の貴族の外出の際に、
大地を踏み鎮め、悪霊を祓うために行われたんですね。みなさんの中には、
テレビで放送した『陰陽師』で、安倍晴明が反閇を行っているのを
ご覧になった方もおられると思います。

反閇は、相撲の四股や、歌舞伎の足さばきに影響を与えたなどとも言われます。
また、反閇を行うときには、松明に火を灯し、水、米、大豆,ゴマ、粟、麦、
酒などを、行く道に撒き散らす「散供 さんぐ」をあわせて行いました。
反閇は現代にも伝わっていますが、厳密に古代と同じものかははっきりしません。



さて、「禹は偏枯なり」の話に戻って、偏枯は足が不自由という意味ではなく、
魚の神を表しているのではないかという説があります。
言語学者の白川静氏は、禹という漢字が、もともとはワニや竜を表す象形文字であり、
中国の博物誌『山海経』に、偏枯という魚神が描かれていることから、
禹は洪水神ではなかったかという説を述べています。

『山海経』の「偏枯」
ダウンロード

うーん、もしこれが本当だとすれば、禹は自分で洪水を起こし、
自分で治めたということになるんでしょうか。それも不思議な話ではありますが、
洪水神は、世界各地の神話に出てきますので、
そういうこともあるのかもしれません。

さてさて、引用記事に戻って、黄河の大洪水は、紀元前1600年ころと
考えられてきましたが、洪水で崩壊した建物の瓦礫の中から見つかった、
3人の子どもの骨に対する放射性炭素年代測定によって、
前1920年ころと推定され、夏王朝の開始した時期も早まることになったんですね。

でも、どうなんでしょう? 洪水があったことは事実として、
それが夏王朝の伝説とほんとうに結びつくのか。その時代に、
大規模な治水工事などができたのか。禹は実在の人物なのか、謎は尽きないんですね。
では、今回はこのへんで。  関連記事 『蠱術って何?』 『夏の法』