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モアイをめぐる3つの説

2020.07.28 (Tue)
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今回はこういうお題でいきます。少し前にヘイエルダールの
話を書いたとき、いずれモアイについての記事も出したいと
述べましたが、みなさんの記憶がさめないうちに
やってしまいたいと思います。

さて、モアイですが、現在のチリ領、イースター島にある
巨大な石像のことです。以前も書きましたが、イースター島
という征服者の白人がつけた名称は現在 忌避される傾向があり、
現地語名のラパ・ヌイを使っていくことにします。

このモアイ像、その形がきわめてユニークなため、世界に知れ渡る
とともに模倣され、日本にもいくつかのモアイ像があります。
下図は、香川県高松市女木町(島)にあるモアイ像で、
重さは約10t。クレーンメーカーが、寝ている像を立てる
実験のために作ったということです。本家のモアイ像で

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最大のものは、高さ7.8m、重さ80tにもなります。加工しやすい
比較的軟らかい凝灰岩で作られており、島の、ラノ・ララクと
呼ばれる直径約550mの噴火口の石切場から採石されています。
ラパ・ヌイには歴史的に金属器が存在せず、黒曜石などの硬い石で
切り出し、加工されたようです。また、ラノ・ララクから
モアイ像がある場所までの距離は遠く、どうやって運んだのかが

一つの謎とされてきました。モアイ像は遅くとも10世紀から
作られ始め、形状から4期に分けることができます。最初期の
モアイ像は小さく、人型をしていて下半身もありました。
それが第2期から下半身がなくなり、第4期になって、
現在モアイ像として認識される形になったんですね。

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字数がかぎられてますので、基礎知識はこれくらいで。
さて、モアイ像は、かつて太平洋上にあったムー大陸など、
超古代文明の遺産として説明されてきました。ラパ・ヌイは
ムー大陸と陸続きであった。あるいは、ムー大陸が沈んだ後、
生き残った人々がラパ・ヌイに上陸した。その古代技術を

証明するのがモアイ像というわけです。ですが、科学が進展すると
ともに、太平洋の海底地形がほぼ明らかになり、地球物理学、
地質学などによって、ムー大陸の存在は完全に否定されました。
オカルトを科学が駆逐するという構図ですが、真面目な学説でも、
近年、否定されるようになったものは多いんです。

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モアイ像についてもそれがあてはまり、以前はアメリカ人の
進化生物学者、ジャレド・ダイアモンドの唱えた説が支配的
でした。2005年出版の『文明崩壊』の中で、かつて
ラパ・ヌイは豊かな森林に覆われており、比較的高度な
文明を持つ人々が2、3万人生活していた。

モアイもその人たちが作ったわけですが、その後の人口増加と
モアイ制作の影響で、森林がしだいに破壊され、その結果、
戦争等によりラパ・ヌイの文明は崩壊し、人口は3000人程度
まで減少、人々の生活は石器時代レベルまで後退した。
そこへ、ヨーロッパの征服者たちが大型船でやって来て・・・

ジャレド・ダイアモンド博士
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これ、定説みたいに言われてきたんですよね。自分が中学の
国語の授業で読んだ説明文も、この説をもとに書かれていました。
ですが、この説はリベラル的な内容で、科学的な根拠はあまり
ないものだということが明らかになってきたんです。

2012年、テリー・ハント、カール・リボという2人の
アメリカ人研究者が実地的な調査で、この説をまっこうから否定
しました。ラパ・ヌイでは、ジャレドが言う人口爆発も、
高度で複雑な社会も存在しなかったと言うんですね。

もう字数がなくなってきたので、ここで詳しい説明はしませんが、
自分が見るかぎり、ハントらの説のほうがはるかに現実的に
思えます。そもそもラパ・ヌイは降水量が少なく、農耕には
不向きな気候です。最初から、3000人程度の人口のまま、
海岸沿いに点在する集落で暮らしてきた。

ラノ・カウ火口
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実際、ラパ・ヌイの遺跡の状況がそのことを裏づけています。
モアイ像を作ることによって資源を消費し、文明が崩壊した
という話はドラマチックで、現代人に対する警鐘も含んでいる
ように思えますが、そんな事実はなかったと見るのがよさそうです。
さて、肝心のモアイ像の話。なぜ、モアイ像は作られたのか。

これは諸説あり、モアイは墓碑であったとする説。マナという霊力が
宿る宗教的建造物であったとする説、また、モアイ像の近くには
真水が湧き出ていることが多く、水の守り神であったとする説など。
ただ、最近人骨が台座から発見されたことで、
墓碑説が有力になってきているようです。

「モアイを歩かせる」実験
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次に運搬方法。ジャレド説では、木製のソリに乗せ、コロを置いて
大勢でロープで引っ張ったとされましたが、ハントらは、
現地人のモアイは自ら歩いて移動したという伝承に注目し、
モアイを立たせたまま、両側からロープで引いて移動させる
実験を成功させています。このほうが人数が少なくて済むんですね。

さてさて、ラパ・ヌイは18、19世紀、ヨーロッパ人の苛烈な
奴隷狩りに遭い、また、その後に島に持ち込まれた疫病によって、
人口は100人程度まで減少してしまいました。島の歴史で
何かの教訓があるとしたら、むしろこっちだと思うんですが、
欧米人はこのことにはダンマリです。では、今回はこのへんで。

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アーサー王とアバロン島

2020.06.08 (Mon)
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今回はこういお題でいきます。世界史の話ですが、以前に、
アーサー王の愛剣であるエクスカリバーのことを書いているので、
それと内容がかぶらないようにしたいと思います。
みなさんはアーサー王はご存知だと思います。数々の伝説に
いろどられた大ブリテン島の英雄。

自分がアーサー王を知ったのは、友人から勧められて聞いた、
イギリス人キーボード奏者、リック・ウエイクマンのアルバム、
『アーサー王と円卓の騎士たち』によってです。
これと、同じウエイクマンの『ヘンリー8世と6人の妻』は、
今でもときどき聞くことがあります。

アーサー王のイメージ
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さて、アーサー王伝説はイギリス人なら誰でも知ってる物語で、
上記の作品の他、何度も映画化されています。では、
この話が史実かというと、イギリスの歴史家の多くは
否定的です。信頼できる一次資料がないんですね。

アーサー王がもし実在したのなら、6世紀前半頃の人物という
ことになりますが、その時代の文字資料はありません。
11世紀にウィリアム征服王がイングランドを征服し、
大陸の制度を導入するまでは、イギリスはかなりの
未開の地で、歴史もよくはわかっていません。

王と円卓の騎士たち
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アーサー王の名前が広まったのは、12世紀、ジェフリーのモンマス
による歴史書『ブリタニア列王史』からですが、どこが資料の引用で、
どこが想像による物語なのか判別できないような本です。
それと、12世紀は十字軍遠征によってキリスト教の信仰の気運が
高まり、同時に騎士道物語が隆盛を始めた時期なんです。

ですから、アーサー王伝説のほとんどが、創作された物語である
可能性は否定できません。イギリスの正式な歴史書の多くには、
アーサー王の名前は入ってないんです。さて、では、アーサー王
伝説とはどのようなものなのか。ブリテン島の小貴族の子に

エクスカリバーで英語検索した画像 長剣ではないようです
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アーサーという若者がいた。森の中になぜか鉄床があり、それに
一本の剣が深く刺さり、鉄床には「この剣を引き抜いた者は
全ブリテンの王となる」と書かれていた。なみいる力自慢が挑戦しても
誰も抜けなかったのを、やすやすと引き抜いたのがアーサーだった。
ちなみにこの剣はエクスカリバーではありません。

その後の戦いでアーサーは連戦連勝、美しい娘グィネヴィアを妻とします。
また、小舟で湖を渡っているとき、水の中から白い腕が出てきて一本の
剣を授けられます。これがエクスカリバー。ついにアーサーは王となり、
宮廷魔術師マーリンや数々の勇者を配下とし、勇者たちは、
序列をつけないように円形になったテーブルに座ったので、

8歳の少女が湖で発見した剣 どうやら現代の映画撮影用のもののようです
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円卓の騎士と呼ばれます。あるとき、その円卓上に聖杯(キリストが  
最後の晩餐で用いたとされる杯)が現れて消え、騎士たちは探索の
旅へと出ます。アーサーは537年のカムランの戦いで、宿敵
モルドレッドと一騎討ちをして傷つき、アバロン島へ傷を癒やしに
赴くがそこで亡くなってしまう・・・だいたいこんな話です。

さて、アーサーが実在の人物だったとすれば、上記の話はかなり
おかしいですよね。まず、イギリスがキリスト教を受容したのは
ヨーロッパの中でもかなり遅く、アーサーの死前後のことです。
ですから、アーサーはケルト系土着宗教の信者と考えられ、
聖杯うんぬんの話はすべてでたらめです。

イギリス屈指のパワースポット「グラストンベリー・トー」
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また、映画になったアーサー王は金属製の甲冑に身を固めて
騎馬で戦いますが、考古学的には、アーサーの頃の鎧は簡単な
かたびら程度のものだったことがわかっています。エクスカリバーが
馬上で用いられる片手剣として描かれるのもかなり怪しい。

さて、余白がなくなってきたので急ぎます。アバロンはケルト語で
リンゴを表し、ケルト神話では不死の象徴とされていました。
その名前とったアバロン島は、西方の海に浮かぶ地上の楽園として
語りつがれていたんですね。まず候補にあがったのはレオノイス島。

イングランド西側の地図
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イングランド、コーンワル半島とその沖のシリー諸島との間に
その島はあったが、中世のいつかの時点で海に飲み込まれ、
島民一人だけが生き残った。そういう伝説が残っていて、
この島はイギリスのアトランティスと呼ばれていました。

ところが、1191年、コーンワル半島のつけ根にある小さな町
グラストンベリーで修道院が火事になり、その片づけの最中、
地下から、「ここアバロニアの島に名高きアーサー王眠る」と記された
鉛の大十字架が見つかり、その下から2名の遺骨が発見されたんです。
これはどうしても、アーサー王と王妃グィネヴィアと考えますよね。

グラストンベリーのアーサー王の墓とされる場所
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さてさて、その後、修道院は建て直され、遺骨は大理石の柩に移されて
保管されていたが、16世紀に修道院の撤去とともに地下に埋葬され、
そのまま場所がわからなくなってしまいます。ただ、この話、
みなさんが考えられるように、怪しさ爆発です。

まず、グラストンベリーは比較的海に近いとはいっても、島では
ありませんし、修道院の火事で発見されたのもタイミングがよすぎます。
修道僧たちが、建物を再建する資金を捻出するために
すべてをでっちあげたのではないかという疑惑が持たれているんです。
では、今回はこのへんで。

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「決闘」の周辺事情

2020.04.15 (Wed)
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『デュエリスト/決闘者』

今回はこういうお題でいきます。カテゴリは世界史かな。
さて、みなさんは決闘というと何を思い浮かべられるでしょうか。
『OK牧場の決闘』なんかの西部劇でしょうか。背中を向けて立った
2人の男が互いに10歩歩いてからふり向き、
腰の銃を抜いて撃ち合い、どちらかがバッタリ倒れる。

西部劇の様式美ですよね。ですが、20歩も離れると、
互いに当たらないことも多かったようです。もしこれで相手が
死んでも罪にはなりませんが、確認のための裁判は受けねばならず、
民事賠償などもあったみたいですね。このアメリカの開拓時代の決闘も、
もともとはヨーロッパで行われていたものが持ち込まれたんです。

西部劇の決闘のイメージ
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ヨーロッパでは、主に上流階級の間で、10世紀以前から
19世紀まで、決闘が制度として行われていました。
え、何でそんな野蛮なものが、と思われるかもしれませんが、
これにはいろんな事情がからんでいます。

まず、上流貴族というのは警察や裁判になじまないこと。
ヨーロッパでは、貴族は封建領主でもありますから、国王といえども
簡単に裁くことはできない。もし揉め事があった場合、
当事者同士で決着をつけてもらうのが一番よかったんですね。

もう一つは、キリスト教の影響です。ヨーロッパの歴史は
キリスト教を抜きに語ることはできません。もちろん教会が
決闘を推奨していたなんてことはないんですが、
決闘を行う者の間では、神は正しい方に味方すると
考えられていました。一種の神聖裁判の趣があったわけです。

『三銃士』
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さて、決闘の理由の多くは、名誉を傷つけられたことによります。
例えばある貴族が、自分の妻が別の貴族と密通していると
疑った場合、証拠をつかんだらその貴族のところに行き、
足元に白手袋を投げます。もし相手がこれを拾えば承諾の印と
なりました。拾わなかった場合は罪を認めたことになりますが、

それは死よりも不名誉なこととされたので、16~17世紀頃だと、
ヨーロッパ全体で、毎年1000人以上が決闘で命を落としていた
とみられています。ただ、決闘のルールはさまざまで、どちらかが
死亡するまで戦う場合もあれば、最初に一方がケガをして
血を流した時点で終わりというのもありました。

ロシアンルーレットにはギャンブルと決闘の側面があります
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銃を使った決闘では、決闘の立会人が2丁の銃を用意し、
片方にだけ実弾を入れておき、くじで2人の決闘者に選ばせる
という形もあったんです。これでは、勝敗が運に左右されてしまう
わけですが、上記したように、神に裁きをゆだねるという形です。

さて、では日本では決闘は行われていたでしょうか。これは、
ヨーロッパのような合法の制度としての決闘はありませんでした。
「仇討ち」は公認されていましたが、私闘の場合はあくまで
喧嘩両成敗ということになります。

ロンドンオリンピックの決闘競技 銃を使ったフェンシングとも言えます
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とはいえ、「試合、立合」としての決闘はありました。有名な、
宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の戦いは、小倉藩細川家の
主催で行われています。また、領主の公認がなくても、
武芸者どうしの試合はしばしば行われ、どちらかが死んでも
罪を追求されることは少なかったでしょう。

さて、ここからは有名な決闘の事例を見てみましょう。これは
フィクションですが、フランスの文豪、アレクサンドル・デュマの
『三銃士』では、田舎から出てきた若者ダルタニャンが、
銃士隊員であるアトス、ポルトス、アラミスの3人と1日のうちに
別々のトラブルを起こし、決闘の約束をするところから始まります。

巌流島の戦い 決闘ではなく、あくまで試合
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『三銃士』の連載開始は1844年ですが、作中の舞台は
17世紀です。デュマの時代には、もうほとんど決闘は行われなく
なっていました。とはいえ、1908年のロンドンオリンピックでは、
防具をつけロウの弾丸を用いた決闘が公開競技として実施されて
います。決闘で命を落とした有名人はいろいろいますが、1832年、

フランスの天才数学者エヴァリスト・ガロアが、21歳で決闘で
受けた傷がもとで死亡しています。理由は女に関するいざこざ
だったようで、腕に自信がなかったガロアは、自分の死を覚悟した
心境を書き残しています。ガロアは17歳で画期的なガロア理論を
構築しており、早すぎた死というしかないですね。

エヴァリスト・ガロア
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あと、これもフィクションですが、『ハリー・ポッターと秘密の部屋』
だったかな。ドラコ・マルフォイと「魔法使いの決闘」をする話が
出てきていました。立会人がスネイプ先生で、細長い通路に立ち、
互いに杖を向け合うという、伝統を踏まえた決闘シーンになってました。

さてさて、最後に、『エイリアン』や『ブレードランナー』を撮った
巨匠、リドリー・スコット監督のデビュー作は『デュエリスト/決闘者』
というイギリス映画で、決闘にとり憑かれて生涯を送った人物を
描いた内容でした。では、今回はこのへんで。

『ハリー・ポッターと秘密の部屋』
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海賊の掟とマーローン

2020.04.06 (Mon)
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今回はこういうお題でいきます。これは世界史に入るのかな。
昨日、「デッドマンズ・ハンド」について書きましたが、
あの題材は映画から取ったものです。で、この記事も
元ネタはディズニー映画になります。

みなさんは『パイレーツ・オブ・カリビアン』のシリーズを
何作ご覧になられたでしょうか。ジョニー・デップフアンの
方なら全部見ているかもしれませんね。どの作にも、
海賊にまつわる伝説がうまく取り入れられていました。

一口に海賊と言っても、もちろんどの国のどの時代にも
いました。ただ、ハリウッド映画で海賊映画が作られる場合、
海賊黄金時代(17世紀後半から18世紀初頭)のカリブ海地域の
海賊のことを指します。バーソロミュー・ロバーツなどの名前は
聞かれたことがあると思います。

バーソロミュー・ロバーツ
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さて、『パイレーツ・オブ・カリビアン』の第3作、
「ワールド・エンド」では、「海賊の掟」伝説が登場します。
あの中で、ローリングストーンズのギタリスト、
キース・リチャーズが、強い権限を持った掟の番人を演じてました。
作中では、掟はすべて分厚い本の中に書かれていて、

あらゆる海賊がそれに従わなくてはならない・・・
もちろん、実際に掟はありましたが、それは船の主である
海賊船長ごとに違っていました。そして、海賊船が水夫を
募集する場合、乗員はかならず掟の一覧を見せられ、
契約書にサインする決まりになっていたんです。

海賊船
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掟は意外にも民主的でした。まず最初に分け前の条項があり、
一般的には船長は平水夫の2倍の取り分。これって意外と少ないと
思われませんか。また、戦闘で後遺症が残ったり、手足を失った場合、
金貨、銀貨何枚が補償されるかなどの決まりもあり、
指一本にまできちんと値段がついていました。

さらに、物事を決める場合は投票で行われ、その投票権は奴隷以外の
全乗組員にあったんです。なぜこうなっているかはおわかりでしょう。
せまい船の中で、船長が最もおそれるのが乗員の叛乱です。
実際、船長に対して反旗を翻していい場合も決まっていて、
それを避けるために民主的にせざるをえなかったんですね。

有名な女海賊、アン・ボニー
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さて、その他の掟は、船内の事故や事件を徹底的に予防する内容です。
まずは船火事、これが起きるとアウトですので、キャップなしのパイプで
タバコを吸う、カンテラに入れず火のついたロウソクを運ぶなどは
笞打ちの刑です。次が賭博、船内でのカード、サイコロ博打などは
死刑の場合もありました。これも理由はわかりますよね。

船内への私物持ち込みはかぎられているので、賭博をする場合、
将来の分け前をやりとりすることになりますが、もし負け続けると
タダ働きになってしまいます。これで叛乱が起きたケースは
歴史的に多数あるので、賭博は厳禁だったんです。
それから船内に密かに女を連れ込んだ場合も死刑。

海賊の掟の本 映画だけの話です
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あと、船内での私闘、ケンカも禁止。ただし当時、決闘は海賊でなくても
法で認められていたので、名誉を侮辱され、決着をつけなければ
ならないと周囲が判断した場合、その2人はもよりの小島に降ろされ、
剣と銃による決闘が行われました。ですが、必ずどちらかが命を
失うというものでもなかったようです。最初に血を出したほうが負け。

あとは、相手の船を略奪した後、船大工などの特殊技能者や腕の立つ
船員は殺されず仲間入りを勧められましたが、そのときに掟に
サインさせられます。これで、もしその海賊船が捕らえられた場合、
掟に署名しているものは全員死刑です。そこで、無理やり
サインさせられたことにしてくれと頼み込む者もいたそうです。

アレキサンダー・セルカーク
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さて、マーローン(Maroon)について。掟に背いた場合の死刑は
基本的に銃殺でしたが、長い間 船で行動をともにした仲間を直接
殺すのがしのびない場合もあります。そこで置き去りの刑(マーローン)
が行われたんです。無人島に、わずかな食事や水の入った容器と、
弾丸が装填されたピストルを渡されて置き去りにされる。

ピストルは鳥などを撃てということではなく、自殺用です。
ただ、無人島といっても、岩礁しかない島もあれば、
森があり、泉が湧いていて食料となる動物がいるような島もあって、
後者の場合は命が助かる可能性があります。

アニメ『宝島』のベン・ガン
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ロバート・スティーヴンソンが書いた冒険小説、『宝島』には、
ベン・ガンという登場人物が出てきますが、彼は海賊フリントに
よって宝島に置き去りの刑にされ、10年間もそこで生き延びてきた
設定でした。ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』の
モデルとなったとされる海賊、アレキサンダー・セルカークは、

その性格が船の仲間すべてに嫌われ、マスケット銃、火薬、
大工道具、ナイフ、聖書、それに衣服だけを与えられて
ファン・フェルナンデス諸島の無人島に置き去りにされましたが、
4年4か月を生きのびて別の海賊船に救出されています。

さてさて、最初の話に戻って、『パイレーツ・オブ・カリビアン』の
第1作、「呪われた海賊たち」で、ジャックとエリザベスは
置き去りの刑を受けてましたが、すぐに救けられ、無人島生活の
詳しい描写はありませんでしたね。まあ、ディズニー映画ですから、
そこはしかたありません。では、今回はこのへんで。







1796年の免疫学

2020.03.28 (Sat)
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今回はこういうお題でいきます。医学的な記事ですが、
オカルトとも多少関係があります。ただ、いかにも
地味な内容なので、スルーされたほうがいいかもしれません。
さて、1796年にあった画期的な出来事というと、
何だかおわかりになりますでしょうか。

イギリス人の医師、エドワード・ジェンナーが天然痘に対するワクチン
である種痘を実施した年なんですが、ジェンナーの業績にはいろいろ
誤解があります。まず、ジェンナー以前にも種痘(人痘)は
行われていたこと。オリエント世界での話です。

エドワード・ジェンナー
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オスマン帝国駐在大使夫人だったメアリー・モンタギューが
現地で人痘法を知り、イギリスに持ち帰って自分の娘に接種しました。
天然痘に対するワクチンとして、人間の感染者の膿疱から抽出した
液を接種するのが人痘法です。

ただ、これはひじょうに危険で、接種を受けた者のうち2%が
重症化して死亡したとされます。うーん、抗癌剤の副作用死が
そのくらいと言われてますね。ジェンナーは、牛の世話をしていて
自然に牛痘にかかった人間は、その後天然痘にかからないという
農民間の言い伝えに興味を持ち、研究を開始。

牛痘は人痘に比べて弱毒であり、より安全という感触を得ました。
そこで1796年、最初の牛痘が行われたわけですが、
ジェンナーが自分の息子で試してみたというのは間違いです。
ジェンナーの息子はそれ以前に人痘を受けており、
牛痘を始めて受けたのは、使用人の息子の8歳の少年でした。

偏見や迷信との戦いであった種痘法
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結果、少年は若干の発熱と不快感を訴えたものの深刻な症状は出ず、
6週間後にジェンナーは少年に天然痘を接種しましたが、
少年は天然痘にはかからず、牛痘による天然痘ワクチンは
成功しました。いや、でもこれ、使用人の息子を実験台にして
大丈夫だったんですかねえ。失敗した場合のことを考えると怖い話です。

その後、牛痘法は次第にヨーロッパに広まっていきましたが、
「接種すると牛になる」と忌避する傾向もありました。そこで、
「これは神が乗った聖なる牛の液である」と住民に告げてから行うなど
苦心の跡が見られます。牛痘が日本で始めて実施されたのは1823年。

日本での種痘の実施
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ドイツ人医師シーボルトによってですが、このときは成功せず、
1849年、佐賀藩での実施が最初の成功例のようです。
あ、もう半分まできてしまいましたね。じつはメインはこれから書く
話なんです。同じ1796年、ドイツ人の医師、
ザムエル・ハーネマンがホメオパシーに関する論文を発表します。

ホメオパシーとは、その病気や症状を起こしうる薬や物を使って、
病気や症状を治すことができるとする医療体系です。
ハーネマンは、自身がマラリアの治療薬であるキニーネを
試飲したところ、マラリアと同じような症状が出たことから
これを考えついたと言われています。

ザムエル・ハーネマン
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うーん、今の知識では、そんなことはありえないだろうと思うんですが、
その時代の医学は呪術と紙一重のものでした。ハーネマンを擁護
すると、彼は当時一般的に行われていた瀉血(人体の血液を抜くことで
毒素を排出し、症状の改善を求める治療法)に対し、
迷信であり効果のないものだと述べてるんですね。

一般的なホメオパシーの施術法としては、さまざまな物質を大量の 
水で希釈し、それを砂糖玉に染み込ませて(レメディと呼ばれます)
患者に経口で摂取させる。希釈は大量であればあるほどよく、
水の中にもとの物質の分子が1個もなくなってもかまわない
とまで言われています。

ホメオパシーの多種多様な希釈液
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その後、ホメオパシーもヨーロッパ全土に広まっていきます。
これに目をつけたのがナチスドイツで、ハーネマンがドイツ人で
あることから、ドイツ医学の基礎にしようとさまざまな実験を
試みました。ユダヤ人収容所では、わざとマラリアや敗血症に
感染させたユダヤ人に対し、ホメオパシーが実施されたものの、

症状は改善せず多くの者はそのまま死亡し、ホメオパシーに
対する関心は薄れていきました。現代医学の見解では、
ホメオパシーにはブラセボ以上の効果はないとされています。
まあそうですよねえ。ただし、砂糖玉ですから副作用もありません。

レメディ
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ホメオパシーの問題点は、それにより実際に効果のある治療を
受けられなくなってしまうことでしょうね。ホメオパシーでは、
現代医学の治療を受けるのはよいことではない、とされることが多く、
ワクチン接種全般に対しても批判的です。

「山口新生児ビタミンK欠乏性出血症死亡事故」という事件が日本で
ありました。助産師によって出産した女性の女児が、生後2ヶ月で
硬膜下血腫で死亡したんですが、原因はビタミンK不足と考えられました。
助産師は「ホメオパシー医学協会」に所属しており、ビタミンKの代わりに、
「ビタミンKの記憶を持った」レメディを与えていたんですね。

さてさて、ジェンナーとハーネマンの現代での評価は大きく分かれて
しまいました。ジェンナーは「近代免疫学の父」と呼ばれ、
ホメオパシーは現代医学から見れば、うさん臭く危険な代替療法です。
ただ、1796年の当時には免疫という概念もなく、分かれ道は
ちょっとしたものだったんじゃないかという気もするんですね。
では、今回はこのへんで。

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