黄金郷伝説

2018.01.31 (Wed)
今回はこのお題でいきます。世界で有名な黄金郷伝説は2つあります。
そのうちの一つは、この日本、と書けばもうおわかりと思います。
中国大陸の東の海上にあったとされる「黄金の島 ジパング」ですね。
それともう一つが、南米アンデスの山中にあるとされた「エル・ドラード」です。
ただ、この2つの伝承は200年以上時代が離れています。

ジパングについての話が出てくるのは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』ですが、
これが書かれたのは1300年頃と考えられています。
それに対し、エル・ドラードのほうは1500年代。前に「ケツァルコアトル伝説」
で書いた、スペイン人による大航海時代の話です。どっちでいきましょうか。
スペイン人つながりでエル・ドラードのほうがいいですかね。

関連記事 『ケツァルコアトル伝説』

さて、エル・ドラードはスペイン語で、「黄金の人」と訳されますが、
現在では「黄金郷」みたいな意味で使われることが多いようです。
伝承が始まったのはそう古いことではなく、16世紀の始め頃です。
アンデス地方にはチブチャ文化がありましたが、金の採掘技術に優れ、
その土地の首長が、全身に金粉を塗り儀式を行う風習を持っていました。

チブチャ文化の黄金の儀式


この噂がスペイン人たちの間に広まり、話に尾ひれがついて、
アンデス山中には、すべてが黄金でできた都市があるとして流布されました。
これが第一次の黄金郷伝説です。そして、この話を聞きつけた一人が、
スペイン人のコンキスタドール(征服者)、フランシスコ・ピサロです。
ピサロの前半生はよくわかっていません。

フランシスコ・ピサロ


父は軍人で小貴族、母は召使であったとされ、まったく教育を受けず、
幼い頃は豚小屋で豚の乳を飲んで育ったという話があります。
そのため「豚飼いピサロ」なんてあだ名を持ってるんですね。
ピサロは長じて軍人となり、ペルーを探検してインカ帝国を発見しました。
そしてスペイン王カルロス1世から征服の許可をもらい、
1531年ペルー侵攻を開始しましたが、
このとき彼に従ったのは、わずか180人の傭兵と37頭の馬だけでした。

ピサロは各地に植民都市を築きつつ進軍し、ついに第13代インカ帝国皇帝、
アタワルパと対面します。このとき、ピサロに同行した神父が、
アタワルパにキリスト教への改宗を迫り、聖書を見せられたアタワルパは、
「これはなぜ話をしない」と言って聖書を床に投げ捨てました。
ちなみに、インカ帝国には文字がありませんでした。

ピサロは、この行為をキリスト教への冒涜とし、
スペイン国王に代わってインカ帝国に宣戦を布告。このとき、
わずかなスペイン人兵によって、7000人のインカ兵士が殺されたと言われます。
インカが鉄器を持っていなかったため、騎馬で、
甲冑を着込んだスペイン人を傷つけられなかったからだったようです。



ピサロはアタワルパを捕らえ、太陽の神殿に幽閉しました。
ここで第二次黄金郷伝説の幕が開きます。アタワルパは、自分を釈放してくれたら、
部屋一杯の黄金と、2杯分の銀を用意すると申し出て、
ピサロは大量の貴金属を受け取りましたが、アタワルパを生かしておいては
後々まずいと考え、疑似裁判を開いて処刑を決定します。

火炙りの刑を宣告されたアタワルパは、インカの教義で焼死者は転生できないため、
これを大変に怖れました。そこでピサロは、キリスト教に改宗すれば
判決を変えてやると持ちかけ、アタワルパは洗礼を受けた後、ガローテという
鉄の輪とネジで首を絞める処刑具で殺されます。
その死体は一部が焼かれ、キリスト教の形式で埋葬されました。

残ったインカ人たちは、奥地のビルカバンバに立てこもって抵抗を続け、
皇帝マンコ・インカ・ユパンキが、この後も36年間統治しますが、
相次ぐ伝染病の流行で人口が激減し、1572年スペイン人により、
マンコ・インカの皇子で最後の皇帝トゥパック・アマルが捕らえられて処刑され、
ここでインカ帝国は滅亡します。

関連記事 『ココリットリって何?』

一方、ピサロですが、闘いには勝ったもののスペイン本国の支持を失い、
カルロス1世に、アタワルパを無実の罪で処刑したとして死刑を宣告され、
スペイン人同士の仲間割れによって暗殺されてしまいます。
その遺体は埋葬されず、ペルーのリマのカテドラルに、
現在もミイラとして残されているんです。

ピサロのミイラが安置された棺


さて、インカ帝国は滅びましたが、スペイン人たちは、さらにジャングルの奥地に、
インカ人が黄金を運び込んだ隠された砦があると考え、
何人もの探検家がアンデスを訪れたものの、それを見つけることはできませんでした。
その後300年間にわたってこの伝説は信じられ、18世紀後半まで、
ヨーロッパの世界地図には、エル・ドラードの名前が記されていました。
ですが実際には、インカ帝国最後の都市ビルカバンバの場所さえ、
それがどこだったのかが、わからなくなってしまっていたんです。

さてさて、エル・ドラードは19世紀になり、
ドイツ人の地理学者にして探検家、アレクサンダー・フォン・フンボルト
(ペンギンや海流にその名を残す人)によって
アンデス一帯が調査され、地図上から消し去られました。
そして、アメリカの探検家ハイラム・ビンガムが1911年、
標高2300mにある空中都市マチュ・ピチュを発見。

最初、これがビルカバンバかと思われましたが、
そうではありませんでした。上記したように、インカには文字がなかったため、
この高地にある遺跡が何のためのものかは謎に包まれ、
いろいろな説が提示されています。

こうして所在が失われていたビルカバンバですが、1970年代になって、
エスピリトゥ・パンパという遺跡がビルカバンバの地であったことが、
文献の記録から立証され、日本人調査団によって
考古学的にも証明されたんですね。もちろん、マチュ・ピチュとビルカバンバ、
どちらの遺跡からも大量の黄金は発見されませんでした。

空中都市 マチュ・ピチュ








スポンサーサイト

ケツァルコアトル伝説

2018.01.25 (Thu)
ケツァルコアトル神
はんsき

前に「ココリットリって何?」という記事を書きましたが、
その続きみたいな内容です。ただし「伝説」とあるのに留意してください。
まず、ケツァルコアトルというのはメソアメリカ文明で広く信じられていた神です。
アステカ文明ではケツァルコアトル、マヤ文明ではククルカンと呼ばれましたが、
同じ神と考えられています。その姿は羽毛を持つ白い蛇です。
人類に文明を授けた文化神であり農耕神、また風の神、金星の神など、
多様な神格を持っていました。

メソアメリカ文明


メソアメリカは多神教で、この他にもさまざまな神がいるんですが、
ケツァルコアトルのライバルとして登場するのが、テスカトリポカです。
黒いジャガーの姿で描かれ、戦闘、夜、月などを司っていました。
アステカ文明では太陽を信仰して、消滅することがないよう多数の生贄を
捧げていましたが、創世神話ではケツァルコアトルとテスカトリポカが、
交代で太陽を務めたことになっています。

ケツァルコアトルは平和の神ともされ、生贄の儀式を好まず、
人々に人身御供をやめさせたとされます。そのため、
生贄が大好きなテスカトリポカのうらみを買い、呪いのかけられた酒を飲まされ、
大暴れしたあげくに、自分の妹と近親相姦のタブーを犯してしまいます。

そしてアステカの地を追放されてしまうのですが、このとき、
自らの宮殿を焼き払って財宝を埋めた後、「自分は一の葦の年に帰ってくる」
という予言を残し、何羽もの美しい鳥となって空へ舞い上がったと言われます。
一の葦の年はアステカ暦で1519年でした。

ケツァルコアトルの使いとされるケツァール鳥


さて、アステカ帝国はモクテスマ2世の治世。アステカ第9代の君主で、
1502年、テノチティトランにおいて35歳で帝位につきました。
アステカの皇帝はみなそうでしたが、彼もまた優秀な神官でもありました。
その治世は最初のうちは平穏でしたが、1510年頃から、
北の夜空に彗星が現れたり、火山が爆発しテスココの湖が煮えたぎるなどの、
不吉な出来事が起こり、彼を悩ませていました。

そして運命の1519年、一人の男に率いられた軍勢が、キューバを経て
メソアメリカの地へと上陸します。男の名はエルナン・コルテス。
スペイン人のコンキスタドール(征服者)の一人です。
その評判は、母国スペイン以外ではあんまりよくないですね。

エルナン・コルテス


女好き、アステカ帝国を滅ぼした文化破壊者、略奪者、「黄金に飢えた豚」
とまで言われたりします。まあ、これは当たっていなくはないんですが、
コロンブスらがその価値を認めなかったカカオ豆に注目して積極的に持ち帰り、
世界にチョコレートを広めた、などという一面もあるんです。
そして、この時代のスペイン人ならあたり前ですが、
それなりに敬虔なキリスト教徒でもありました。

さて、コルテス軍はアステカと敵対していたトラスカラ王国と戦闘して
これを降伏させ、11月、首都テノチティトランへ到着しました。
これに対し、白い肌のコルテスら一行を、
白い神ケツァルコアトルの化身と考えたモクテスマ2世は、
抵抗することなく、「国をお返しします」と言って歓待し、
神殿を案内して血まみれの祭壇や、生贄の心臓をのせた銀の皿などを見せました。

ところが、コルテスの反応は意外でした。コルテスはモクテスマに生贄のような
野蛮なことはやめるように言い、神殿の祭壇に駆け上ると、
「これは悪魔だ」と叫びながら神像をみな蹴落としてしまったんです。
呆然とするモクテスマに対し、コルテスは神殿に聖母マリアの像を祭るように求め、
モクテスマはただただ困惑するばかりでした。

このあたりは皮肉だなあと思いますね。
長い追放から帰ってきたケツァルコアトル神は、
なぜか、聞いたこともない異国の神を信仰するよう強要してきたんですから。
この後、コルテスの部下がアステカの神官や貴族を虐殺して民衆の反感を買い、
その仲裁を頼まれたモクテスマは、民衆から投げられた無数の石で頭部を負傷して
翌日に死亡。コルテス一行は命からがらテノチティトランを逃げ出します。

アステカでは新しい皇帝クィトラワクを立て、コルテス軍との対決姿勢を強めました。
トラスカラで軍を立て直たコルテスはテノチティトランを包囲。
1521年、病死したクィトラワクに代わって即位していた
皇帝クアウテモクを捕らえ、ここでアステカは滅亡します。そしてこの後、
疫病「ココリットリ」の大流行によって、当時の中央アメリカの
人口の80%にあたる1500万人が命を落とすことになるわけです。

関連記事 『「ココリットリ」って何?』

さてさて、ざっと説明してきましたが、最初に書いたようにこれは伝説です。
「一の葦の年に帰ってくる」という言い伝えによって、
コルテスらがケツァルコアトル神の化身とされ、
そのためにアステカが滅びたという話には大きな疑問符がつきます。
せいぜい初動が遅れた程度だったと思われます。
また、アステカにはケツァルコアトルへの生贄についての記録や遺跡などが多数あり、
生贄に反対する神話が書かれたのはコルテスによる征服後だと推定されています。

最後に、当時のキリスト教は苛烈な一神教であり、
改宗しない異教徒に対して厳しい態度で臨みました。ですから、
ペルーのインカ帝国を滅ぼしたフランシスコ・ピサロなどもそうですが、
征服には、キリスト教の神の勢力版図を広げていこうとする意図があったんですね。
どのみち異教徒は地獄に落ちるんだから、虐待してもかまわないというわけです。

関連記事 『黄金郷伝説』

これと同じ頃、日本にもフランシスコ・ザビエルなどの宣教師が来航していましたが、
多数の日本人子女が、奴隷としてポルトガル商人に
買い取られていったという記録が残っています。
異教の国の全ての領土と富を奪い取り、その住民を終身奴隷にしてもよいという
権利書を、15世紀にローマ教皇ニコラス5世が
ポルトガル王に発行しているんです。ご存知だったでしょうか。

異教徒の地を武力で次々征服し、奴隷貿易にも関わったキリスト教国と、
生贄の心臓を生きたまま抉りとって神に捧げていたアステカ文明と、
どっちがより野蛮で非道だったのか、これはなかなか難しいところです。

関連記事 『パイドパイパー伝説』

じぇかい







ピタゴラスと数秘術

2018.01.20 (Sat)


今回はこのお題でいきます。現代における数秘術(Numerology)とは、
数によって行う占いのことで、生年月日や名前の画数などを
使うものが知られています。この数秘術の一部分は、
自分がやっている占星術にも取り入れられているんです。
古代ギリシアにおいて、あの3平方の定理で有名なピタゴラスによって始められ、
プラトンがその内容を発展させたとも言われています。

『ハリー・ポッター』のシリーズで、ホグワーツで実施される科目の中に、
「数占い(Arithmancy)」というのがあり、ハーマイオニーが、
その内容をとても気に入っているというセリフが出てきていましたが、
この数占いも数秘術から派生したものと思われます。
数秘術はいちおう学問とされますが、宗教や魔術と深いつながりがあります。



さて、ピタゴラスは紀元前6世紀から前5世紀あたりの人で、
その頃日本はまだ弥生時代でした。日本の弥生時代には文字はありませんでしたが、
古代ギリシアは古くから文字と著作が発展していました。
ですが、ピタゴラスについては、その思考や生涯を書いた資料って、
ほとんど残ってないんです。これはわざとそうしていたんですね。
ですから、以下に書くことはあくまでも伝説で、
学問的な根拠はありませんので、そのつもりでお読みください。

ピタゴラスは自分の教団を主催して、数百人の信徒と共同生活を送っていました。
教団は原始共産制をとっていて、入るためにはまず自分の全財産を教団に寄付します。
これは、大事件を起こしたオウム真理教もそうでしたね。
じつはピタゴラス教団って、オウム真理教事件といろいろ共通点があるんです。

まず、教団内で得られた知識は、絶対に外部に漏らしてはいけないとされました。
もし漏らした場合は死刑、船の上から海に突き落として殺したとも言われます。
また、教団の教えを文字に書いて表すことも厳禁でした。
このため、上記したようにピタゴラスの思想はほとんど現代に残っていないんです。
すべては師から弟子に口伝で継承されたんですね。
ピタゴラスの肖像画や彫像のたぐいも、当時のものは一切ありません。

さて、この宇宙は数によって支配されているというのが、
ピタゴラス教団の教えの根源で、「万物は数なり」という言葉で表されます。
何気ない自然の現象も、その裏には数の法則が隠されており、
それを明らかにしていくのが教団の使命と考えられていたんです。

例えば、理性は1、女性は2、理性+女性=1+2=3、3は男性を表します。
逆に言えば、男性から理性を引いたのが女性というわけです。
これはずいぶん失礼な話ですね。そして、3(男性)+2(女性)=5(結婚)
まあ、すべてはこんな感じで数に関連づけて考えられていたようです。

音階を発見したのもピタゴラスである、と言われたりもします。
ギリシアの音楽といえば、竪琴(ハープ)のイメージがありますが、
ピタゴラスは、弦の長さの比が簡単な整数比のときに、
発する音がよく調和することに注目し、音階の概念をつくり出したんだそうです。
ピタゴラス教団では、この世のすべては数であり、
あらゆることが、整数とその比(有理数)で表されると考えていました。

ところが、ピタゴラスの定理において、等しい辺が1である直角二等辺三角形の
斜辺の長さは√2ですよね。(下図)√2は無理数といって、1,41421356・・・
と、分数でも少数でも表すことができない数になってしまいます。
これは教団の根本原理からいって、たいへんにマズイことになるんですね。

皮肉にも、自分が発見した定理により、
教団の思想の根本が否定されてしまうわけですから。
そこで教団では、無理数を発見した弟子を処刑し、
無理数の存在を闇に葬り去ろうとしたということになっています。



さて、ピタゴラス教団は有力者の後援をえて栄えていましたが、
その有力者が政争に巻き込まれて失脚。そこで、かつて教団のテストに
不合格になって恨みを持っていた者に扇動された市民が暴徒化し、
ピタゴラスをはじめ教団員はほとんど殺されて壊滅した・・・
もう一度おことわりしておきますが、これらは後世に広まった伝説で、
実際にあったことかどうかは、はっきりとはしていません。

さてさて、ピタゴラス教団の象徴的なマークは五芒星(pentagram)でした。
これは当時ギリシアで信じられていた、
この世の源ととなる五元素を表しているようです。
五元素とは、「火、空気(風)、水、土、エーテル」などと言われたりしますが、
この他にも様々な説があります。五芒星は後世において魔術の象徴とされましたし、
日本でも「安倍晴明紋」として呪術的な意味を持つものとなっています。
では、今回はこのへんで。

五芒星 と安倍晴明紋(桔梗紋)










「ココリツトリ」って何?

2018.01.17 (Wed)
今回は科学ニュースでいきます。自分の興味を引いたのはこの話題。
「1545年、メキシコのアステカ帝国で伝染病が大流行し、目や口、
鼻からの出血を伴う高熱と頭痛で人々が次々と倒れ、
3~4日のうちに多くが命を落とした。

現地語で「ココリツトリ(cocoliztli)」と呼ばれるこの疫病により、
1550年までの5年間で全人口の約80%に当たる1500万人が死亡したと
考えられているが、その原因をめぐっては500年近く謎のままだった。
ココリツトリは古代アステカのナワトル語で「悪性の伝染病」を意味する。

しかし、15日に発表された研究結果によると、
このアステカ帝国の大惨事を引き起こした疫病は、天然痘、麻疹(はしか)、
おたふく風邪、インフルエンザなどではなく、
腸チフスに似た「腸熱」だった可能性が高いという。
研究チームは当時の犠牲者の歯から見つけたDNAの証拠を調べた。」
(AFP)

ふむふむ、これ、ずっと長い間論争になってた話ですよね。
自分は世界史はあんまり詳しくないんですが、これくらいは知ってます。
アステカは現在の中央メキシコに15世紀頃にあった文明で、
太陽の消滅をふせぐため、人身御供の神事で、
生きたままの人間の心臓を取り出し、神に捧げていたことで有名です。
オカルト界でも、いっとき、写真に不思議な壺のような形の赤い影が写る
「アステカの祭壇」現象が話題を集めました。

アステカの生贄の儀式


それが、エルナン・コルテスらのスペイン人によって征服されたんですが、
アステカ人の「一の葦の年(1519年)、追放された白い肌の翼ある蛇の神
ケツアルコアトルが戻ってくる」という伝説とピタリと重なっていたという、
世界史の中でもドラマチックな出来事でした。

スペイン人征服者たちは、アステカ人が見たことがなかった馬や銃を用いて
暴虐のかぎりを尽くし、金銀財宝を略奪して徹底的に国を破壊しましたが、
本当の悲劇はその後にやってきました。

疫病の最初の流行が1545年、人口2000万人近かったとされる当時のアステカで、
1500万人が死亡。さらに1576年の2度めの流行で200万人が死亡。
1520年代には天然痘の大流行もあって、ほぼ8割の現地人が死に、
ヨーロッパ人にとってかわられることになりました。こんな短期間で、
ある地域の人種が入れ替わってしまうのは他に類例がありません。

で、天然痘はヨーロッパから持ち込まれたものですが、「ココリツトリ」については
その正体がわからず、ヨーロッパ由来か、それとも、もともと現地にあったものなのか、
病理学者の間で100年以上にもわたる議論が続いていたんです。
それがどうやら「腸熱」という感染症だったということのようです。
もしこれが正しいなら、病原菌はヨーロッパから持ち込まれたという結論になります。
現地人は当然ながら、新しい病原菌に対する免疫を持っておらず、
そのために感染が広がってバタバタと倒れていったんですね。

ドイツ・テュービンゲン大学の研究チームは、
ココリツトリ犠牲者の共同墓地に埋葬されていた遺骨29体からDNAを抽出・分析した
結果、サルモネラ属菌(サルモネラ・エンテリカ)の亜種であるパラチフスC菌
(Paratyphi C)の痕跡を発見したと報告しています。これ以外の、
遺伝子情報がわかっている病原菌やウイルスはいっさい発見されていないとのことです。

うーん、「腸熱」ですか。腸チフスは日本でも戦前から戦後にかけて、
かなりの数が発生していましたが、現在では発症は年間100例程度で、
そのほとんどは東南アジアなどの海外から持ち込まれるもののようです。
40度前後の高熱、鼻血や血便もあり、上記引用に書かれた症状とよく似ていますね。
現在でも、O-157などの感染性腸炎がありますが、
それのひどいものと考えればいいのでしょうか。

さて、こういう別の地域からやってきた感染症というのは怖ろしいもので、
14世紀にヨーロッパで大流行したペストは、シルクロード経由でアジアから持ち込まれ、
当時のヨーロッパ人口のおよそ3分の2にあたる、
2000万から3000万人が死亡したと推定されています。

関連記事 『ペストと薔薇』

また、アメリカ大陸に上陸したコロンブスの一行が現地女性と交わって梅毒に感染し、
その後世界的に大流行したという話もありますが、
この説の真偽については、現在も論争が続いています。
最近でもエボラ出血熱やSARS(サーズ)の騒ぎがあり、
けっして昔の話というわけではないのです。

さて、このような話は日本にもあります。それもかなり深刻な事態でした。
「コロリ」という言葉を聞かれたことがあると思いますが、これはコレラのことです。
「コロリと死ぬ」ということと言葉が掛け合わせられているんでしょう。
1822年(文政5年)の流行は世界的な大流行が日本におよんだもので、
感染ルートは朝鮮半島あるいは琉球からと考えられています。

明治初期の『コレラ絵』


2回目は1858年(安政5年)、これはあいつぐ異国船来航と関係し、
コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられました。
江戸だけで10万人以上が死亡したという話もあります。
1862年(文久2年)には、残留していたコレラ菌により3回目の大流行が発生、
56万人の患者が出たと文献に残っています。

オカルト関係では、このコレラの大流行を件(くだん)が予言したとか、
○○の絵を戸口に貼りつければコレラが防げるとか、いろいろな迷信が広がり、
ニホンオオカミの頭蓋骨がコレラ除けに効くなどという話もあって、
乱獲によりニホンオオカミの絶滅につながったなどとも言われます。
オカルトと疫病って、じつは深い関連があるんです。

さてさて、このようなパンデミック(世界流行・汎発流行)はホラーの一つの分野として、
さまざまな映画や小説、ゲームで取り上げられています。
映画だと『アウトブレイク』 『28日後』 『アイ・アム・レジェンド』
『バイオハザード』のシリーズなどと、多数があげられます。
ゾンビや吸血鬼なんかも、一つの感染症として考えることができるんですね。
では、今回はこのへんで。

映画『アウトブレイク』








秦始皇帝と不老不死

2017.12.31 (Sun)


中国で2002年に見つかった大量の木簡の中に、
秦の始皇帝(Qin Shihuang)が国内各地で不死の薬を探すよう命じた布告や、
それに対する地方政府からの返答が含まれていることが最新の調査で明らかになった。

中国国営の新華社通信が24日に伝えたところによると、
3万6000枚に上る木簡は湖南省の井戸の底から発見されていた。
同省の考古学者らが調べたところ、「不老不死の薬」を探せ、
との始皇帝の命令が記されていたものがあった。
布告は辺境の地域や僻(へき)村にも通達されていたという。

また、この指示に当惑した様子がうかがえる地方政府からの
返信が書かれたものも確認された。例えばある村は、
そのような妙薬はまだ見つかっていないが引き続き調査していると報告。
別の村は、地元の霊山で採取した薬草が不老不死に効くかもしれないと返している。
もっとも、不死を求めた始皇帝の願いはかなわず、
始皇帝は即位から11年後の紀元前210年に死去している。
(AFP)

今回はこのお題になります。カテゴリとしては世界史の分野ですね。
それにしても3万6000枚の木簡ですか・・・
自分のように考古学を専攻したものにとっては、
すごい夢のある話だなあと思います。これらを解読することで、
古代の政治や生活の様子をかなり的確に再現できるようになるでしょう。
また、始皇帝時代の文字や語法についても新知識が得られることと思います。

さて、秦の始皇帝とは何か?みなさんご存知でしょうが、いちおうWikiを見ますと、
「始皇帝(紀元前259年 - 紀元前210年)は、中国戦国時代の秦王。
姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)。
現代中国語では、秦始皇帝と称する。紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると、
最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。」


こんなふうに出てきます。49歳で死去というのは、現代からみれば若いですが、
当時としてはそれほど早死にということはなかったでしょう。
始皇帝が不老不死を求めてさまざまな活動をしていたことは、
司馬遷による史書『史記』で有名ですが、
それが今回の木簡の記述で実証されたわけです。

当時の不老不死の霊薬といえば、まず水銀があげられるでしょう。
水銀は常温で凝固しない金属です。このような物質は他にはないので、古代から珍重され、
霊薬として、西洋では錬金術、東洋では神仙術の材料として用いられてきました。
水銀が固体として採取される場合は、辰砂(しんしゃ 硫化水銀)の形を取ります。
辰砂を熱していくと水銀になりますが、それをさらに熱するとまた辰砂に戻ります。
この物質が循環する様子が、不老不死のイメージに重なるという話もあります。

始皇帝は水銀が大好きだったようです。日頃から服用していただけではなく、
生前に築いた自分の墓(秦始皇帝量 中国陝西省西安北東30kmの驪山北側)の地下、
始皇帝の棺の近くには水銀を流した人工の山河がつくられていたと、
前述の『史記』に出てきます。実際に始皇帝陵の土壌調査では、
表土から大量の水銀が検出されているんです。
ですから、この記述も史実である可能性が高いように思えます。

ちなみに、現在の中国では始皇帝陵発掘の計画はありません。
これは、まだ発掘するための技術的な基盤が整っていないと見ているためでしょう。
この判断は自分は正しいと思います。緊急発掘されたあの兵馬俑も、
空気に触れた酸化作用のために短期間で退色してしまいました。
始皇帝陵発掘の準備ができるまでには、まだまだ時間がかかるでしょうね。

水銀のような霊薬を飲んで寿命を延ばすことを、中国の神仙術で「外丹法」と言います。
(これに対し、自分の体の中で「気」を練るのが「内丹法」)
でも、水銀って毒なんですよね。日本の水俣病は、水銀中毒の悲惨な事例の一つです。
秦の始皇帝の死因は、皮肉なことに水銀中毒であったという話もあります。
ただし実証はされていません。その後も、中国の歴代皇帝には水銀薬を服用していた
という人が多く、また日本でも、飛鳥時代の女帝 持統天皇が、
若さと美しさを保つために水銀薬を飲んでいたと言われていますね。

さて、ここで話を変えて、始皇帝は中国全土から不老不死の薬を求めるだけでは
飽き足らず、徐福(じょふく 別名 徐巿 じょふつ)という方士を、
東方の三神山「蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)」へと、
霊薬を探すために派遣しました。

徐福は、3000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、
五穀の種を持って東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、
中国には戻らなかった、と『史記』は書いています。
この徐福がたどり着いたという伝承は日本の各地にありますが、
どれにも、確証と呼べるほどのものはないようです。
この他、徐福が王となった地については、台湾、海南島などさまざまな説があります。

1982年、中国の江蘇省連雲港市贛楡(かんゆ)県にある「徐阜(じょふ)村」が、
以前は『徐福村』と呼ばれていたことがわかり、
現地で徐福伝説が伝承されていることが確認され、徐福の出身地発見と話題になりました。
ただし、村の旧家には「明代に先祖がこの地に移住した」という話も伝わっており、
観光のための村おこしなのではないかという評判もあるようです。

さてさて、最後に一つ苦言を呈しておきましょう。
秦始皇帝といえば「焚書坑儒」と呼ばれる弾圧を行ったことで悪評が高いですよね。
「書を燃やし、儒学者を生き埋めにする」という意味ですが、
現代の中国における共産党による情報統制と言論弾圧はどうでしょうか。
例えば、中国のネットでは「天安門事件」は検索できないようになっているなどですが、
始皇帝の時代から2200年を経て、はたして進歩していると言えるのかどうか、
自分としては疑問を感じずにはいられません。

関連記事 『サン・ジェルマンの憂鬱1』

関連記事 『サン・ジェルマンの憂鬱2』

「兵馬俑」