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「魏志倭人伝」を読む1

2018.02.03 (Sat)


「魏志倭人伝を読む」という新カテゴリを立ち上げました。
表題のとおり、「魏志倭人伝」を少しずつ読んでいこうというわけです。
自分は考古学出身なので、その話も文献にからめて書いていきたいと思います。
で、今回は最初として、「魏志倭人伝」とは何かについて、
Q & A方式で述べていくことにします。

Q:「魏志倭人伝」という書物があるの?
A:ありません。これは『三国志』という大著の中の一部分で、
 「三国志 魏書 第三十巻 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」を略したものです。
 「魏志倭人伝」は古代の漢文で書かれた、およそ2000字の文章です。

Q:へー、じゃあその『三国志』って誰が書いたの?
A:陳寿(ちん じゅ 233~297年?)という人が書きました。
 陳寿は初め蜀漢に仕え、その後、西晋に仕えました。

Q:『三国志』はいつ書かれたの?
A:280年代に完成したと推定されています。
 いつから書き始められたかはわかりません。研究者によっては、
 呉が滅亡した280年から書き始めたという意見もあります。
 たしかに、中国の史書は前王朝が終わってから書かれるものではあるのですが、
 『三国志』は計65巻の大著なので、それ以前から書いていた可能性もあるでしょう。

Q:『三国志』って史書としての評価はどうなの?
A:中国の正史というと普通、「二十四史」を指しますが、
 『三国志』はその中でも評価が高いものの一つです。
 評価が高い理由は、魏・呉・蜀の三国が興亡した時代から
 それほど時を経ずに書かれたこと。それと内容が簡潔なことです。
 簡潔というのは、事実かどうかわからない怪しげな逸話(エピソード)を排し、 
 史実を中心にして書き進められているという意味です。

Q:『三国志』はどうやって書かれたの?
A;中国の史書というのは、基本的に文献資料を集めて編纂したものです。
 『三国志』も、先行する書、王沈の『魏書』、魚豢の『魏略』、
 韋昭の『呉書』などを参考にして書かれたと考えられています。
 現代のルポルタージュみたいに、陳寿自らが、
 関係者にインタビューして回ったなんてことはないと思いますよ。

Q:編者の陳寿は日本に来たことがあるの?
A:いいえ。陳寿は四川省で生まれた内陸、中国南部の人です。
 日本、当時の倭国に来たとは考えられません。
 
Q:『三国志』は皇帝の命令で書かれたの?
A:違います。中国の史書には官製のものもあるんですが、
 『三国志』の場合は、陳寿が独自に書いたものが後に正史として採用されたんです。
 『晋書』の陳寿伝では、陳寿が病のため65歳で死去した後、
 群臣の勧めにより、皇帝の命で陳寿の家に遺されていた三国志が筆写され、
 後世に伝えられたことになっています。

Q:「魏志倭人伝」以外に、邪馬台国の時代の倭国の様子が書かれたものってあるの?
A:邪馬台国と同時代の資料はこれが唯一と言ってもいいでしょう。
 他に比較検討できるような文献はありません。
 そのことが邪馬台国問題を難しくしているんです。これ以降に書かれた文献はみな、
 「魏志倭人伝」の内容をほぼ踏襲していると考えられます。
 
Q:「裴松之注」って何ですか?
A:これは、裴松之(はい しょうし)という人が『三国志』につけた注釈のことで、
 略して裴注と言います。『三国志』があまりに簡略であることを惜しんだ宋の文帝が、
 429年、裴松之に命じて作らせたものです。『三国志』本文が37万字に対し、
 この注は36万字もあります。陳寿が採用しなかった、
 信頼性の薄いエピソードなどもこれには書かれていますね。

Q:『三国志』の編集で、陳寿はどっかをひいきにしたりしてないの?
A:これはいい質問ですね。陳寿は始めに蜀に仕え、その後に西晋(魏)に仕えたため、
 どちらの君主も皇帝として書いていますが、呉に関してはそうではなく、
 一段落ちる扱いになっています。このことは頭に入れておいていいかと思います。

Q:『三国志』の編集方針はどんなものなの?
A:前に説明したように、史実性の高い内容のみを簡潔に書くことです。
 あと、三国時代には、儒教がどの国でもほぼ国教となっていました。
 ですから「○○は生前、私財を蓄えず清貧のうちに過ごしたので、
 その死後、妻子が金銭に困った」などという儒教的な価値観に基づいた話
 がいろいろ出てきます。これも重要なことですね。

Q:「魏志倭人伝」はどうして、「倭国伝」や「倭伝」じゃないの?
A:それは・・・私見を述べれば、倭国と名乗っている国は「魏志倭人伝」には
 出てきません。卑弥呼はあくまで邪馬台国の女王なんですね。
 また、卑弥呼は魏から倭王の称号を受けましたが、
 「魏志倭人伝」の中には卑弥呼に従わない国も出てきています。
 ですので、それらを総称して「倭人」としたのではないかと思います。
 
Q:最後に『三国志』ってネットで読めるの?
A:読めます。自分がよく参照させてもらっているのは、「中國哲學書電子化計劃」
 というホームページで、中国の多くの古典が原文(句読点あり)で読めます。
 さらに全文検索もできるので大変に便利です。
 右にリンクを貼っておきます。      中國哲學書電子化計劃   







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「魏志倭人伝」小考

2018.01.12 (Fri)
※ 邪馬台国問題の比較的上級者向けの内容ですが、
これから邪馬台国を研究してみたいと思われる方にも、
ぜひとも読んでもらいたいです。

「魏志倭人伝 (紹煕本)」


自分は5年ほど前、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の日本史板で
コテハン(固定ハンドル)をやっていて、邪馬台国問題についても
よく議論を戦わせたものですが、九州説を主張する人の中には、
「魏志倭人伝の記述は一字一句、すべてが正しい」などと言う人がいまして、
これにはずいぶん閉口したことを覚えています。

さて、卑弥呼や邪馬台国について書かれている「魏志倭人伝」ですが、
『三国志』という中国の史書の中の一部分で、
正確には「三国志・魏書 東夷伝 倭人の条」というのがよいでしょうか。
WIKiには「『三国志』は、中国・西晋代の陳寿の撰による、
三国時代について書かれた歴史書。後漢の混乱期から、
西晋による三国統一までの時代を扱う。二十四史の一。」
とあります。
撰者は陳寿(ちんじゅ)という人で、中国の西晋の時代、
280年代に完成したと考えられています。

では、この「魏志倭人伝」、どこまで信用できるものなんでしょうか。
自分はこれ、かなり危ういのではないかと考えています。
その理由の一つは、文献資料というもの全体に言えることですが、
ある程度以上の分量の文献資料というのは、必ずと言っていいほど、
何かしらの間違いが含まれているものだからです。

例えば、中国の清の時代1735年に完成した『明史』。
これも二十四史の一つですが、明の時代には豊臣秀吉の朝鮮出兵
(文禄・慶長の役)がありました。そこで『明史』には、
「日本伝 豊臣秀吉の条」が立てられています。
みなさん、これ読まれたことがあるでしょうか。
内容ははっきり言ってムチャクチャ、日本人からみれば噴飯物です。
明からすれば秀吉は戦った相手の親玉なのに、
その記述はまったく正確さを欠いているんですね。

これは何も『明史』だけのことではなく、他の時代の中国の史書でも、
日本について書かれている部分だけ見ても、
はっきりした間違いがいくつもあるんです。
それは、日本の文献資料でも同じです。例えば江戸時代に起きたある事件を、
目の前で見ていた人が文章化した資料でさえ、他の文献と比較すると、
やはり多くの齟齬が見つかるんです。ということで、ある文献について、
「書かれていることはすべて正しい」とするのは、最初から無理なんですよ。

まして「魏志倭人伝」の場合、撰者の陳寿が日本に来たわけでもありませんし、
内容のほとんどは伝聞、あるいは別資料を引き写したものです。
当時の日本(倭国)は辺境であり、中国人に知識はありませんでした。
現代のような正確な地図もない時代です。ですから、当然、
その情報には多くの誤謬が含まれているはずです。そしてそのことが、
邪馬台国の問題を複雑にし、これまでに多くの論争を生んできたんですね。

さて、もう一つ。現在目にすることができる『三国志』は、
「百衲本(ひゃくのうぼん)二十四史」に納められているものが一般的で、
これは、宋代(1190年代)に刊行された「紹煕本」が元になっています。
陳寿が『三国志』を書いてから900年もの年月がたっているものです。
この間、『三国志』は代を重ねて多くの人に筆写され続けてきました。

ですから、もともと陳寿が書いたものからは、
かなり内容が変わってしまっているんです。
「古本(こほん)三国志」というものがあります。これはごく古い時代の
『三国志』の写本の一部分で、現在までに6編ほど見つかっています。その中に、
「吐魯番(トルバン)出土 三国志 巻五七(呉書一二)虞翻伝・陸績伝・張温伝残卷」
というのがあり、陳寿が書いた直後の晋代の写本と見られています。

姚李農氏という学者が、これを現代 目にするものと比較した研究がありまして、
それによると、全1192字中、画数の同じでない文字が416字。
全体の1/3を越えます。また、用語から見て、
「紹煕本」と異なるものが40句にのぼる・・・となっているんです。
どう思われますか? これは一部分の話ではありますが、
全体としてみても、この傾向はあまり変わらないと考えられます。
ですから、みなさんが目にする「魏志倭人伝」も、陳寿が書いたものからすると、
1/3は画数の違う漢字が使われている可能性があるんです。

これはしょうがないことです。長い年月の間には、
文章の用字や語法が違ってくるのは当然です。
日本だって、江戸時代と平安時代の文章はかなり違いますよね。
さらに、誤写ということもあります。実際「魏志倭人伝」には、
誤写を疑われる部分が何ヶ所かあります。

さてさて、ということで、「魏志倭人伝」の内容が正確かどうかには、
大きな疑問符がつきます。ですが、邪馬台国について書かれた同時代資料は
ほとんどこれだけなので、他の資料と比較検討することもできません。
そこで、邪馬台国問題では考古学資料が重視されるようになってきているんです。

でも、考古学重視というふうに書くと、
「考古学の出土物に、ここが邪馬台国と書いているわけじゃないだろ!
文献をないがしろにするな、邪馬台国は文献史学の問題だ、ムキー!!」
と怒る人が、特に九州説の中にはたくさんいまして、
困ったもんだなあと自分は思っているんです。

三国志を書く陳寿の像(中国 四川省 南充)