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真言立川流と後醍醐天皇

2019.06.20 (Thu)
アーカイブ147

今回は怖い日本史のカテゴリに入る内容です。
立川流(たちかわりゅう)は、オカルトフアンならご存知だと思いますが、
真言系密教の一流派で、淫祠邪教の代名詞のようにあつかわれています。
ちなみに、字は同じですが立川流(たてかわりゅう)と読むと、
故 立川談志師匠が創設した落語団体のことになります。

どっから話していきましょうか。まず、立川流の教義および儀式ですが、
これははっきりわかってはいません。というのは、立川流は徹底的に弾圧され、
独自の経典などは焚書ですべて失われているからです。
現在 残っているのは、みな弾圧した側から見た後代の文書です。

立川流 曼荼羅
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ということで、ここから書く内容は、きわめて不確かで、
後世の脚色が入ったものとしてお考えください。まず、立川流では、
男女の交合を、悟りを得るための最大の儀式としていたとされます。
これは、一般的な仏教で言われる女犯戒(にょぼんかい)にいきなり反してますね。

なぜ、立川流がこのような教義を押し立てるようになったか。
ルーツは2つあると考えられます。まず一つめは、古代インド哲学にある性愛術、
『カーマスートラ』などからの影響。もう一つは、
東洋に古くから伝わる陰陽思想でしょう。
どちらも、根源的な仏教とはあまり関係のないものです。

インド カジュラーホの性愛寺院
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女が陰、男が陽、この2つが揃ってこそ物事は完全なものになる。
だから女犯戒は間違っているというわけです。
これは立川流独自の『理趣経』の解釈とされています。また、立川流では、
邪神とされるダキニ天を拝し、「髑髏本尊」を祀ったという話も知られています。

まず、選りすぐった髑髏を探し出してきて加工する。これを祭壇に据えて、
夜ごとに香を焚き、真言を千回唱える。さらに、毎日山海の珍味を備えて、
その前で僧侶とパートナーの女が昼夜生活をともにし、交合の際の愛液をぬる。
そうして、8年の歳月を経て髑髏本尊が完成する。

こうしてできた髑髏は、人の望みをかなえたり、将来を予言したりするとされます。
また、8年間をともに暮らした男女は、その修業の過程で、
2人とも解脱して悟りをえることができる。つまり、髑髏本尊を作ることは、
目的でもあり、また手段でもあるということなんですね。

ただし、上に書いたように、これらのことが本当に立川流で行われていたかは
わかりません。そうではないだろう、という意見の研究者も多いんです。
立川流は後代、創作物などで興味本位にあつかわれることが多く、
そこでたくさんの不確かな逸話がつけ加わってしまいました。

さて、立川流を大成したのが、14世紀、南北朝時代の僧、
文観(もんかん)です。この名前は、文殊菩薩と観音菩薩の両者から
一字をとってつけたという大仰なものです。
もとは一介の修行僧で、大和や播磨の国で真言律を学んでいました。

その後、文観は師の紹介で後醍醐天皇に取り入り、護持僧として重用されます。
後醍醐天皇は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての
第96代天皇にして、南朝の初代天皇。下に肖像画を掲げましたが、
両手に法具を持った密教者としての姿に描かれていますね。

密教法具を持つ後醍醐天皇
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また、後醍醐天皇に、地方の悪党であった楠木正成を紹介したのも文観
とされますが、これはどうやら間違いのないところのようです。
楠木正成は後醍醐天皇を助けて大活躍し、新田義貞などと並んで、
『太平記』中の一大ヒーローとなります。

楠木正成
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さて、鎌倉幕府に不満を抱いていた後醍醐天皇は、
中宮安産を祈願する祈祷をすると見せかけ、
じつは鎌倉幕府を調伏するための儀式を行いました。この中心となったのが
文観ですが、ことは幕府に露見し、文観は硫黄島に流されてしまいます。
しかし、元弘の変で鎌倉幕府が滅亡すると、京都に戻り、
密教の中心であった東寺の長者、大僧正になります。

これは異例の出世であり、当時の仏教界では反発が強かったんですね。
1335年、突如、高野山の真言僧たちが山を下り、
立川流の僧の多くを殺害、経典をすべて焼き捨てるなどの大弾圧を加えました。
このとき、文観も東寺長者の地位を追われ、甲斐の国へ流されてしまいます。

加持祈祷をする文観
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この弾圧は、建武の新政中に起きたことで、
権力を掌握していたはずの後醍醐天皇にも、立川流が弾圧されて消滅するのを
止めることができなかったんです。このあたり、複雑な事情があるんだろうと
想像できますが、明らかになってはいません。

さて、この後の文観は、足利尊氏に追われて吉野へ逃れた後醍醐天皇に
つき従い、南北朝時代を生きて80歳で没することになります。
また、後醍醐天皇は1339年、満50歳で吉野で亡くなりますが、
『太平記』によれば、このとき、左手に経典、右手に剣を持ち、
自らの身体を使って北朝を呪いながら死んだとされています。

さてさて、立川流の実体はどのようなものだったのか?
なぜ弾圧されて滅んだのか? これらのことは歴史上の謎で、
自分もこつこつ調べてはいるんですが、やはり資料不足でよくわからない
んですね。ということで、今回はこのへんで。

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アーカイブ 小野妹子の冒険

2019.06.19 (Wed)
今回はこういうお題でいきます。けっこう日本史の専門的な内容なので、
なるべくわかりやすく書いていくつもりですが、
あまり興味のない方はスルー推奨かもしれません。
表題の小野妹子は、第2回の遣隋使として中国に赴いた人物ですが、
生没年もよくわからない謎の人なんですね。もちろん男性です。

さて、西暦600年(推古8年)、『隋書』倭国伝に、隋の初代皇帝、
高祖文帝のもとに、倭国からの使者が訪れたとあります。この使者が
妹子かどうかははっきりしていません。このとき、倭国はまだ
国際外交にうとかったようで、使者は国書を持参していませんでした。
そのせいか、『日本書紀』にはこのことは出てきません。

小野妹子
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そこで文帝は、使者にいろいろ質問し、倭王の姓が「阿毎 あま」
名が「多利思北(比)孤 たらしひこ」、号が「阿輩雞彌 おほきみ=大王」
であることを聞き取りました。また、使者は倭国の政治について、
「倭王は天を兄とし、太陽を弟としている。だから、まだ天が明けないうちに
政務につき、弟である太陽が昇ったら、弟にまかせて政務をやめる」と答えます。

「あまのたらしひこ」は、「天垂彦 天から降臨した男性」という意味と考えられます。
また、政治形態については、内容が本当なら夜明けの時間しか仕事をしないことに
なるので、文帝は、「此大無義理 まったく理屈に合わない」とあきれて、
改めるように使者を教え諭します。まあ当然ですよね。

またこのとき、使者は、倭王の妻は「雞彌 きみ=君?」、
皇太子は「利(和)歌彌多弗利 わかみたふり」、王の後宮には女が6~700人いる
などのことを述べています。さらに7年後の607年(推古15年)、
また倭国からの使者が訪れますが、隋の皇帝は、
悪名高い第2代の煬帝にかわっていました。

遣唐使船 大陸への渡航は命がけでした
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このときの使者が、小野妹子だと考えられます。で、妹子が持参したのが、
あの有名な、「日出處天子 致書日沒處天子 無恙 日の出ずる所の天子、
日の没する処の天子に書を致す つつがなきや」で始まる国書なんですね。
この文章は、当時、推古天皇の摂政であった聖徳太子が書いたものと
言われてきましたが、それに確たる証拠があるわけでもありません。

これを見た煬帝は、「蠻夷書有無禮者 勿復以聞 蛮夷の書に無礼があれば、
二度と私に見せるな」と激怒します。ただ、煬帝が怒ったのは、
中国を「日の沈む所」と書いていたからではなく、倭国の王が自称として、
煬帝と同格の天子という語を使っていたためです。
基本的に、中国では天子(皇帝)は一人だけであり、蛮夷である倭国の王は、
中国の冊封体制の下にあるべきと考えていたんですね。

しかしまあ、怒りはしたものの国書には答えねばならず、
煬帝は、裴世清(はいせいせい)という外交官吏に国書を持たせ、
妹子にはおそらく訓令書のようなものを持たせて倭国へ送り帰します。
訓令書の内容は、倭国の無礼をとがめ、天子ではなく王なのだということを
厳しく説いたものだったろうと考えられます。ここまでは『隋書』からの話。

旧壱万円紙幣の聖徳太子
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さて、この続きが『日本書紀』に出てきます。裴世清一行とともに
倭国に帰りついた妹子は、朝廷において、自分が持参してきた訓令書は、
百済の国で盗まれてしまったと述べます。これは大失態なので、
妹子には流罪の刑が与えられますが、なぜか直後に赦され、
さらに昇進までしてるんですね。

ですから、この部分は、妹子が持ってきた訓令書の内容があまりにも
倭国にとって都合の悪いものだったので、推古天皇も、大臣の蘇我馬子も、
聖徳太子もみながナアナアで、盗まれて失くなってしまったことにしたのだろう、
というのが通説になってますね。倭国側では、
見なかったことにすればいいわけです。

裴世清は大歓待され、朝廷の庭に連れてこられて、そこに隋からの答礼品を
ずらりと並べ、煬帝の国書を読み上げることになります。
その内容が『日本書紀』に引用されているんですが、冒頭が、
「皇帝問倭 皇帝は倭の皇に問う」です。この部分は内容が改竄されていて、
本当は、「皇帝問倭」だったのではないかとする説があります。

推古天皇 大変な美人であったと『日本書紀』に出てきます
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自分もその見解には同意です。この後、裴世清は饗応を受け、
小野妹子とともに中国に帰ることとなりますが、ここまでを読まれて、
何か違和感を感じませんでしょうか。このときの天皇は、第33代推古天皇
(炊屋姫 かしきやひめ)で、日本の歴史上、初めての女帝です。

ですから、女帝が珍しい中国では、そのことを知っていたら、
『隋書』の中で特筆されるはずですが、倭王が女だとは一言も出てきません。
さらに、最初で書いた使者の言葉をもう一度ごらんになって下さい。
「倭王は天垂彦、天から降臨した男性」となっていて、妻もいます。

あまりに不自然ですよね。このため、日本史上の謎の部分として、いくつもの説が
立てられているんです。一つは、「天皇が女であることを日本側が極力隠そうとした。
裴世清は、御簾ごしに推古天皇と対面したので、その姿を見ていない」
とするものです。まあ、絶対ありえなくもないでしょう。

蘇我馬子


次は、「聖徳太子が前面に出て、王としてふるまっていた」というもの。
これもありそうな話ですが、『日本書紀』のその部分には、聖徳太子の名前がまったく
出てきてないんですよね。それがちょっと困ります。最後の説は、
「推古天皇はお飾りで、叔父である蘇我馬子が実質的な大王として君臨していた」
とするものです。ただ、蘇我馬子は「天から降臨した」天皇家の者ではありません。

さてさて、ということで、みなさんはどう思われますでしょうか。
どの説も一長一短があるんですが、自分の考えは、
どれかを選べと言われたら、最後の蘇我馬子天皇説ですね。
ともかく、このあたりは日本史のかなり面白い部分で、『日本書紀』には、
いろいろ考えるヒントが隠されているんです。では、今回はこのへんで。

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安倍マリオと地球空洞説

2019.06.15 (Sat)
アーカイブ145



変な題名ですが、今回はこのお話をしてみたいと思います。
早いものでリオ オリンピックはもう一昨年のことになりましたが、閉会式で、
安倍首相がマリオに変身し、ドラえもんが作った土管で地球の中心を抜けて
リオの会場に飛び出してくるというPR映像が出ていました。

あれって、本当にできるんでしょうか?・・・まあ、できませんよね。
できないんですが、考えてみるのは面白そうです。
(自分が計算機片手に思考実験しましたが、もしかしたら
間違いがあるかもしれません。その場合はご指摘ください。)

まず、地球の直径は12742km、これに土管を通すことができるか。
地球の内部の上のほうは、地殻という岩盤になっています。
この厚さが、だいたい30~40kmほど。検索してみると、
青函トンネルの長さは53.85km・・・おお、なんか掘れそうな気もします。

ですが、水平方向にトンネルを伸ばすのとは違って、
下向きに掘れば掘るほど、温度と圧力は高くなっていくはずです。
ちなみに、これまで掘られた最も深い穴はロシアで約12km。
このときの内部温度は180℃だったそうです。



まあでも、なんとか地殻を突破できたとしましょう。
その次にあるのはマントル、どろどろに溶けた岩石と金属の層です。
上図を見てもらえばわかりますが、温度はその上部で1000℃、
地球中心部で6000℃程度になります。(上図は華氏)
これは太陽の表面温度と同じくらいですかね。

うーん、アメリカのスペースシャトルが地球に戻ってくる大気圏再突入では、
表面の耐熱タイルは1500℃ほどになるそうです。また、日本の人工衛星、
「はやぶさ」が帰還したときには、機体の温度は3000℃まで上がりました。
では、6000℃に耐えて、しかも中の人間が無事な土管は作れるのか・・・

次に圧力を見てみましょう。地球の中心部にかかる圧力は360万気圧、
これは途方もない数値です。日本が誇る深海探査船、「しんかい6500」が
耐えられる圧力が700気圧・・・これはダメですね、文字どおりケタが違います。
温度のほうは何とかなる土管が作れたとしても、
圧力で一瞬のうちに消えてなくなってしまうようです。



ま、普通はここまで考えて終わりなんでしょうが、それだと夢がないので、
日本からブラジルのリオまで届く土管が作れたとします。
では、その中に飛び込むとどうなるのか?
これ、内部に空気があると摩擦熱で燃えてしまう上に、

衝撃波も発生するので、中は真空にするしかないでしょう。
真空には熱を伝えない利点もあります。
安倍マリオには酸素ボンベを背負い、宇宙服を着てもらいましょう。
また、地球の自転の影響は無視します。トンネルに飛び込むと、
そのまま地球の重力で自由落下していくわけですが、

1分後にマッハ2、3分後にマッハ5、21分後に地球の中心に到達して
マッハ23ほどになります。およそ秒速8000mです。
これが最高速度で、そこからは地球の重力でだんだんに減速していき、
リオに着いたときは速度0になっているはずです。
日本ーリオ間の到達時間は21分の2倍、42分です。

自由落下の公式
名称未設定 1eeer

ここでまた問題があります。人間の体ってこのスピードに耐えられる
んでしょうか?検索してみましたら、スカイダイビング競技で、
パラシュートを開かないフリーフォール中にマッハ1を超えた人は
いるようです。それでもせいぜい、秒速にすれば350mくらいです。
うーん、まあ、安倍首相は超人なので耐えられることにしましょう(笑)。

ということで、ここまで見てきたかぎり、最大の問題は地球内部の圧力、
これに耐える土管を作るのは、どうやっても不可能でしょうね。
しかし、もし地球の内部が空洞だったとしたら?
これ、昔からオカルトで言われている、
「地球空洞説 hollow Earth theory」というやつです。

地球空洞説


みなさんは、「ハレー彗星」という言葉を聞いたことがあると思います。
イギリスの天文学者、エドモンド・ハレーが回転周期を発見したので、
彼の名がつけられているんですが、このハレーさん、実はオカルトの人で、
「地球空洞説」を大真面目に発表しているんですね。彼によれば、
地球内部は空気の層があって明るく、居住が可能だろうとしています。

また、スイスの数学者、レオンハルト・オイラー。
天才というしかない頭脳の持ち主でしたが、彼も地球空洞説論者でした。
地球の内部の中心には太陽があり、高度な文明が発達している
という説です。フランスの小説家、ジュール・ベルヌは、
『地底旅行』で夢のあるSFを書きました。

現在から考えれば、トンデモの極地のような地球空洞説ですが、
ハレーは17世紀、オイラーは18世紀、ベルヌは19世紀の人です。
当時の科学水準では、これも立派な仮説として認められていました。
空洞説が完全に否定されたのは、20世紀になってからのことなんですね。

さてさて、もし地球の内部が空洞で、気圧も地上と変わらないなら、
安倍マリオはリオに行けるのかもしれません。
しかし、さすがにそうではないので、高速のジェット機で行くなどの
現実的な方法を考えたほうが、費用対効果の面でもよさそうです。

マッハ2の速度の個人用ジェットで、リオまで最短距離で
直行するとすればだいたい15時間ほどじゃないかと思います。
結局は空路が一番安全で早いわけです。
では、今回はこのへんで。

関連記事 『地球平面説について』 『消えるオカルト甦るオカルト』






アーカイブ ヒドゥン

2019.06.11 (Tue)
3年前、小学校のときの話です。うちは港に面した丘の上にある集合住宅でした。
男だけの4人家族だったんです。祖父と父と、僕と2つ下の弟、道男と。
父は客船の船員で、1年のほとんどを船に乗って外国を回ってて、たまに帰ってくるだけ。
母は弟が生まれてすぐ、病気で亡くなったということで、
ほとんど思い出がありません。アルバムのようなのもなく、写真も見たことないんです。
で、ですね、今、弟と言いましたが、ぜったいに僕が小5のときまで弟はいたんです。
これは間違いないです。ないんですが・・・
まあ、これから詳しく話しますので、
会場の皆さんでそういうことなのか判断してほしいです。
その小5の秋頃のことです。普段は60代の祖父と生活をしていまして、
学校のことから何からすべて面倒を見ていてくれました。

といっても祖父は夜になると出かけることが多く、仕事だと言っていました。
だから寝る時間には僕と弟しかいないことが多かったんです。
朝になると帰ってきていましたけど。それと、集合住宅の他の家は、
今から考えると貧しい家庭が多かったんじゃないかという気がしますが、
うちはほしいオモチャやマンガ本など、何でも買ってもらっていました。
集合住宅には同じ小学校に通う友だちも数人いて、そいつらと遊ぶことが多かったです。
ほとんど室内でゲームとかでしたけど。
あるとき、どういうきっかけだったか忘れましたが、外に遊びに出たんです。
僕と弟と仲間2人の計4人で、団地の丘から下りて海のほうへです。
港に行くことは祖父に禁じられていました。
何でかっていうと、車通りが激しくて危険だからです。

いや、車通りが多いというのは違うかな。道がだだっ広くて信号もほとんどなく、
走ってるのは自動車やコンテナを積んだ大型トレーラーばかりだったんです。
普通のトラックの倍以上あるような巨大なやつ。
丘の上から見ている分にはかっこよかったんですが、近くを通るとすごい風圧で、
子どもだと吹っ飛ばされそうな感じがしました。
で、その日は倉庫街でかくれんぼと鬼ごっこの混ざったような遊びをしていたと思います。
倉庫街は、体育館ほどの建物を殺風景なコンクリの高い塀が取り囲んでいて、
日本じゃないような感じがしたんです。
アスファルトに長く影が伸びてきた夕方、そろそろ帰ろうかとなって、
4人で塀の前を歩いていました。鉄格子の門の前を通ったとき、弟が倉庫のほうを見て、
「あ、ロボットがいた」って言ったんです。

それを聞いて、残り3人も鉄格子の中を見たんですが、
何も動くものはありませんでした。「嘘つくなよ、こら」
「ロボットが、んなとこにいるわけねえだろ」こんなふうに言われて、
弟は悔しそうに、「さっき白いロボットが、あのシャッターの中に入っていった」
って言い張りました。
たしかに中の倉庫の一つの建物のシャッターが、半分くらい開いていました。
「俺、見てくる」弟はそう言って、鉄格子の下の部分をくぐりました。
子どもだとくぐって入れるくらいのスペースがあったんですよ。
「ちょ、待てよ」しかたなく僕らも続いたんです。
僕らでも顔を地面にこすりつけるようにすれば入っていけました。
弟はすでに建物のシャッターの前に立って中をのぞき込んでいました。

「怒られるぞ、早く出ろ」そう言いながら近づいていくと、
「兄ちゃん変なもんがある」弟が言いました。それで俺らも中を見ると、
たしかに変なものがあったんです。その建物の中は薄暗い照明がついてて、
小学校の教室3つ分くらいの広さでしたが、床が土になっていたんです。
まずそこが変ですよね。それと、5mほど離れたところに低い鉄柵があり、
その中に石がいくつも立ち並んでいたんです。
人の気配はありませんでした。弟が中から引っぱられるような感じでふらふらと入っていき、
僕らも後に続きました。鉄柵に近づくと、黒い土の上に、
円を描いて1mほどの縦長の石が並んでいたんです。
そして直系2mほどの円の中心にあたる部分に、他よりもやや高さのある石柱。
「これ、日時計みたいだな」と友だちが言い、みなはうなずきました。

そうですね、今なら何かわかる気がします。
東北にあるストーンサークル、あれにそっくりでした。
石は白っぽくて、中に緑っぽい部分が入ってて、どれも同じ種類に見えましたね。
鉄柵を回っていくと、弟が「あ、ほらあれ、さっきのロボット」と叫びました。
見ると突き当たりの壁に、白い人の形のものが3つ並んでいました。
「人がいるなら怒られる」と思ったんですが、それは生きている感じがしませんでした。
近づくと、それは壁から吊り下げられた服だったんです。
宇宙服というか、映画のスターウオーズで帝国群の兵士が着てた、
白い硬質のスーツみたいな。でも、大人のにしては小さく、中に人は入ってませんでした。
ヘルメットの透明な部分の中は何もなく、くたっと壁にかけられていたんです。
「何かの作業のときに着るやつじゃないか」僕が言いました。

「もう見たからいいだろ、早く出ようぜ」友だちの一人がそう言い、
僕らはシャッターのほうへ向かいました。前にいた弟が鉄柵越しに石柱の一つにさわりました、
そしたら根元が埋まっていたわけじゃなかったのか、
ぐらっと傾いて中央のほうに倒れ、中心の石にあたったんです。
「カン」と乾いた音がしました。そのとき急にサイレンが鳴り出し、
天井で赤色の光が点滅を始めました。「バカ、何やってるんだ」僕は弟に言い、
「逃げろ」全員で走りました。シャッターを抜け、鉄格子の門をくぐり、
サイレンの音を背に長い塀の横を走りました。全力疾走で息が切れ、
角を曲がったところでいったん立ち止まったんですが、3人だけ。
弟がいなかったんです。「あれ、道男のやつ」僕がそう言って、さっきの道を覗こうとしたら、
「道男ってだれだ?」って友だちの一人が言ったんです。

「俺の弟だろ、さっきまでいた」・・・2人は顔を見合わせて、
「俺ら3人で来たよな」「だいたいお前に弟なんていないだろ」わけがわかんなかったです。
「何言ってんだよ、さっきロボットが見えたって、あの倉庫に入ってったろ」
「それ、お前だよ」「俺じゃなくて」こう言い合っていると、
「迎えに来たぞ」急に声をかけられてびくっとしました。振りかえると、祖父でした。
「あっ、じいちゃん、道男が・・・」「道男ってだれだ?」「えっ!?」
・・・最初から弟なんていなかったことになってしまったんです。
祖父が「弟なんていない」って言うのでどうにもなりませんでした。
それで、家に戻ったら弟の痕跡がまるでなくなっていました。
机も、布団も、教科書も何もかもです。もちろん祖父には繰り返し話したし。
かんしゃくを起こして新聞を床に叩きつけたりしたんですが・・・

そのうち、祖父は仕事だからと出かけてしまい、
朝になって目覚めてもやっぱり弟はいませんでした。
しかもです、小学校に行っても弟のいた跡というのはまったくなかったんです。
3年生の弟がいるはずの教室に行き、そこの担任に聞いても、
「道男くんという子はこのクラスにはいないよ。君、5年生の子だよね。
 他の学年と勘違いしてるんじゃないか?」雨具かけにも、靴棚にも弟の名前はなし、
すっぱりこの世から消えてしまったんです。
え、ずっと僕のほうが弟がいたっていうニセモノの記憶を持ってたんじゃないかって?
それはないです。弟とやったことの一つ一つをちゃんと思い出せるし。
ただ、ときおり帰ってくる父に聞いても「弟なんていないだろう」って・・・
この2年後、中1のときのことです。朝方、電話が鳴っていて目が覚めました。

祖父はおらず、眠い目をこすりながら出てみると、
父でした。「引っ越すことになったから今日は学校を休め。今、人が来るから」
30分ほどしてチャイムが鳴り、開けると作業服の人が数人入って来ました。
その人たちは黙々と部屋の中のものをダンボールに詰めて、
俺が何を聞いても答えようとしなかったんです。
そうしているうち、外国に出ていたはずの父が入って来て、
「神戸に引っ越すぞ、じいちゃんは後でくるから」こう言ったんです。
先に家の荷物をまとめたトラック、俺は父の運転する乗用車で後に続いて、
何時間も走りました。それで、今住んでる家まで来たんです。
集合住宅から比べればものすごく広くて・・・庭にあれがあったんです。
ストーンサークルですよ。倉庫で見たのと同じものだと思いました。

今の家にきて1年になるんですが、まだ祖父は合流してません。
父はもう船には乗らないようで、ずっと家にいますが、
前に祖父がやってたように夜になると出て行き、朝には帰ってきています。
転校して、新しい学校にはなんとかなじむことができましたが、
なじめないのは家のほうです。部屋数が多くて暗くて不気味で・・・
それと、庭のストーンサークルには近寄ってません。
あの小5のときのことがあるので・・・でも、一人で夜2階の部屋にいるとき、
つい庭のほうを見おろしてしまうんです。そしたらこの間、12時過ころ、
ストーンサークルのまわりを、白いものがふらふら歩き回っていたんです。
あの倉庫にかかってた宇宙服みたいなスーツに見えました。
大人の背丈じゃなく小さかったんで・・・あれ、道男じゃないかと思うんですよね。







宇宙人を探せ1

2019.06.02 (Sun)
アーカイブ142

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今回はこのテーマです。お題を「地球外生命体」にしないで
「宇宙人」としたのは、バクテリアや微生物などではなく、
ある程度以上の知的生命体を対象にしているからです。
「フェルミのパラドックス」という言葉があります。これを簡単に説明すれば、

「宇宙人がいる可能性はかなり高いのに、どうして連絡が来ないのだろう?」
ということ。エンリコ・フェルミはノーベル賞受賞の物理学者で、
1950年、昼食をとりながら、同僚と宇宙人についての議論の中で、
「彼らはどこにいるんだ?」という問いを発したとされます。

エンリコ・フェルミ
dser (1)

宇宙の年齢は、現在のところ137億年くらいと推定されています。
ただし最初のうちは、いろんなものがグチャグチャに混じった暗黒時代で、
ハッブル宇宙望遠鏡ではおよそ130億光年先を見ることができます。
130億年は気が遠くなるような長い年月です。その間に、
われわれの住む地球に何らかのメッセージを発した星はなかったのでしょうか。

多数の科学者にアンケートをとれば、「宇宙人はいるだろう」という答えが、
「いない」とする答えを圧倒します。なぜなら、宇宙は広大で、
地球のように生命が存在するのに適した星は多数あると考えられるからです。
「ドレイクの式」というのがありまして、これは、

「われわれの銀河系に存在し人類とコンタクトする可能性のある地球外文明の数」
を算出するためのものです。詳しい解説はしませんが、
3~10個くらいはあるのではないか、と予想する人が多いようです。
じゃあ、それらの星から何か連絡が来てもよさそうなもんですよね。

「ドレイクの式」
dser (2)

では、宇宙人探しのこれまでの歴史をざっとふり返ってみましょう。
最初に始めたのはドイツの天才的な数学者カール・フリードリヒ・ガウスで、
彼は天文学もたしなんでいました。1820年、ガウスは月に住んでいる
かもしれない知的生命体に、メッセージを送る方法を発表しました。

ただし、まだ19世紀のことですので、地球から電波を送るという
わけではありません。彼は、もし月の住人がいても地球の言葉は
わからないだろうと考え、シベリアの森林地帯を切り開いて
平地をつくり、そこに巨大な直角三角形を描き、

さらに各辺を1辺とする正方形を外側に描くことを提案したんです。
これ、何かわかりますでしょうか。ピタゴラスの定理ですよね。
月の知的生命体が、数学がある程度まで発達しているなら、
この図形の持つ意味に気がついて地球に連絡してくるんじゃないか
と考えたわけです。さすが頭いいですねえ。

カール・フリードリヒ・ガウス
dser (3)

すぐに、この意見には他の科学者から改良案が出され、
サハラ砂漠に幾何学的図形を描いた溝を掘り、
さらにそこに石油を流し込んで火をつけようというもので、
これなら月からでもかなりはっきりと見えることでしょう。
しかし、残念ながらこれらの計画は実行にはうつされませんでした。

さて、1895年、イタリアの技師マルコーニが世界最初の無線通信に成功し、
宇宙からは何らかの形で地球に電波が送られてきているのではないか、
という考えが広まりました。ちょうどこの頃、火星に運河があるという話が
盛り上がっていたんです。

その4年後の1899年、アメリカの科学者、ニコラ・テスラが、
高さ60mの電波塔で宇宙からの奇妙な電波を受信し、
これは宇宙人のメッセージではないかとする考えを発表しました。
またマルコーニ自身も1920年、研究所で原因の特定できない電波を受信し、
火星人からのメッセージの可能性を示唆しています。ただしどちらも、
再受信はできなかったようで、今となっては何だったかはわかりません。

火星の運河?
dser (4)

1924年は、地球と火星がもっとも距離が近づく大接近の年で、
アメリカでは陸海軍が、大接近の前後3日間、すべての通信を停止し、
軍の暗号解読の専門家が多数参加して、
火星からの電波受信につとめたんです。

しかし残念ながら、それらしい電波は一つも見つからず、この失敗によって、
宇宙との通信計画は長きにわたって中断されることになります。
さて、この試みが再開されたのは、1960年の有名な「オズマ計画」で、
天文学者フランク・ドレイクが、アメリカ国立電波天文台 で始めた、
地球外知的生命体探査 (SETI) の初めての取り組みです。

『オズのエメラルドの都』


ちなみに「オズマ」というのは、物語『オズのエメラルドの都』
に登場するお姫様の名前からとっています。
オズマ計画では、宇宙からの電波を約4ヶ月間観測しましたが、
それらしいものをとらえることはできませんでした。

さてさて、ここまででだいぶ長くなってしまったので、
ひとまず終わることにします。今回は宇宙からの電波を受信することを中心に
書きましたが、もちろん地球から宇宙にメッセージを発信する計画も
進められており、次回はそのあたりの事情についても触れていきます。

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