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飛行士アメリアと東京ローズ

2020.01.17 (Fri)
アーカイブ208

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アメリアの飛行予定コース

今回はこういうお題でいきます。これ、カテゴリはなんでしょうね。
いちおう「怖い世界史」に入れておきますが、どちらかというと
地味な話題ですので、スルー推奨かもしれません。
オカルト陰謀論とも多少関係のある内容です。

みなさんは、アメリア・イアハートという名前をご存知でしょうか。
カメリア・ダイアモンドじゃないですよ。多くの方は知らないと思いますが、
アメリカではすごいビッグネームというか、
歴史的な偉人と考えられていて、伝記等も多数出版されています。

これは余談ですが、アメリカでは知らない人がいないほどの有名人なのに、
日本ではほとんど無名というケースはけっこうあります。自分の仕事に
関係があるところでは、カントリーミュージックのスターなんかが
そうですね。日本ではカントリーミュージックは人気ないですが、
ロックやジャズのスターよりも知名度がある人はごろごろいます。

アメリアと愛機ロッキード・エレクトラ
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さて、アメリア・イアハートはアメリカ人の女性飛行士で、
女性として初めての大西洋単独横断飛行をしたことで知られています。
チャールズ・リンドバーグの初飛行が1927年、アメリアの快挙は、
それから遅れること5年の1932年、35歳のときです。

リンドバーグといえば、最初のうちは英雄としてもてはやされていましたが、
長男が誘拐され殺害された事件のゴタゴタで、たいへん人気を落としました。
それに対し、アメリアは知的でチャーミングな女性で、夫のプロデュースが
成功したこともあり、当時のアメリカでは絶大な人気を誇っていました。

1937年、アメリアは赤道上世界一周飛行に挑戦します。ただこれ、
無給油というわけではありません。当時の航空機は、燃料搭載量の関係から
長時間飛行は不可能だったんです。で、この最中の7月上旬、
アメリアは同乗のナビゲーター、フレッド・ヌーナンとともに、
南太平洋において行方不明になりました。

ニクマロロ島(無人島)
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7月2日、日本の委任統治領(南洋諸島)に隣接したアメリカ領の無人島、
ハウランド島を目指して離陸し、飛行支援していたアメリカの巡視船
「イタスカ」との交信を最後に消息が途絶えます。アメリカ政府は、
巨額の費用を投じてアメリアを捜索、また、大日本帝国海軍にも協力を
依頼し、海軍次官山本五十六がこれに応じました。

1937年といえば昭和12年で、太平洋戦争開戦の4年前です。
ここで旧日本海軍がアメリアの捜索に協力したことが、
戦争をはさんで、後に都市伝説的な陰謀論を生み出すことになりますが、
それについては後のほうで書きます。

アメリアがどうなったかについては、大きく4つの説があります。
一つは予定ルート周辺で海に墜落したというもの。その付近の海域の平均水深は
5500mとされていますので、この場合は跡も残らないでしょう。
2つめは、燃料補給を予定していたハウランド島の南、約560kmの
ニクマロロ島に不時着し、やがてそこで命を落としたという説です。

マーシャル諸島の岩礁での捜索
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1940年、西洋人女性と見られる遺骨が同島から発見され、
フィジーに送られてイギリス人医師の鑑定を受けますが、その後紛失しています。
3つめの説は、マーシャル諸島のミリという小さな環礁に着陸したというもので、
不時着した女性を見たという、現地人の証言が残っているということです。
ただ、マーシャル諸島は飛行コースから数千km離れています。

最近のニュースで、アメリアの捜索をDNA分析を使って行う
というのがありました。アメリアが自宅で書いた手紙から唾液を採取し、
上記のニクマロロ島で発見された骨と比較しようとする試みですが、
昔の唾液からDNAを採集するのは困難でしょうね。
続報がないところをみると、上手くいかなかったのかもしれません。

さて、最後の4つ目の説ですが、アメリアはやはり当時日本領であった
マーシャル諸島に不時着し、日本軍に捕らえれた後、サイパン島を経由して
東京に移送され、太平洋戦争が始まると、「東京ローズ」の一人として、
アメリカ軍に対する反戦放送を強要されていたとするものです。

日本軍に捕らえられたアメリアらとされる画像 しかし様々な考証から日本統治以前のものと見られる
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東京ローズはご存知だと思います。旧日本軍が太平洋戦争中におこなった
連合国向けプロパガンダ放送の女性アナウンサーにアメリカ軍将兵が
つけた愛称で、一人ではなく、複数の女性が存在していますが、
英語のできる日本人女性、強制収容された日系アメリカ人女性らだったと
考えられています。(1名だけ身元がわかっています)

その中の一人がアメリアだったとしたら、これはセンセーショナルな話題です。
そのため、日本が無条件降伏した後、GHQによる統治が行われましたが、
アメリカ人新聞記者が、GHQの制止をきかずに放送局に侵入し、
アメリアの捜索を行っています。もちろんアメリアは見つかっていません。

これは無理な話ですよね。旧日本軍の記録は詳細に調べられましたが、
アメリアに関する記述はいっさいなし。また、日本国内における
目撃証言も一つもないんです。日本を占領していたGHQには
法を超えた強大な権力があり、もし日本にアメリアの痕跡が
残っているのなら、必ず見つかるはずです。

「東京ローズ」の一人、捕虜となった日系アメリカ人
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さてさて、なぜこういう話が広まったのか。敵国日本に対する憎しみ
だけではないと思います。アメリアの人気は絶大でしたが、戦争中の
兵士にとって、東京ローズもまた隠れた人気があったんでしょう。
アメリアの行方については、毎年のように新説が出されています。
どこかで見つかるといいですね。では、今回はこのへんで。

関連記事 『環境DNAって何?』





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「沢野忠庵」って誰?

2020.01.15 (Wed)
アーカイブ207



今回はこういうお題でいきます。この名前、ご存知の方はよほどの
日本史通かなと思います。はっきりしませんが、これは江戸幕府によって
つけられた名前のようで、「忠」の字が入っているところが残酷です。
もとは、クリストヴァン・フェレイラと言いました。
こっちはおそらく、知っている人が多いでしょう。

遠藤周作氏の小説『沈黙』に登場しますが、実在の人物です。
ポルトガル出身のカトリック宣教師でイエズス会士。1609年来日。
1633年、53歳のときに長崎において捕縛され、そこで拷問を受けて
棄教します。その後は、転びバテレン、背教者などとも呼ばれました。

余談ですが、「転びキリシタン」という言葉がどこからきたかというと、
キリシタンに対する拷問に「俵責め」というのがあり、
米俵の中に体を入れ首だけを出させた上で、棒で叩いたり、
何人もを積み重ねたりして苦しめるものです。

ただ、米俵ですから、苦しければ自分の意志で出ることができます。
この拷問の最中、まわりの役人は「転べ!転べ!」と言ってはやし立て、
苦痛のあまり転げ出たものは棄教をしたとみなされました。
一般的に、日本のキリシタンに対する拷問は、自ら棄教を認めれば
中断される形になっている場合が多かったんですね。

さて、ここでいったん話を変えて、「天正遣欧少年使節」について。
1582年(天正10年)、九州のキリシタン大名らが、
その名代として少年たちをローマに派遣した使節団のことです。
伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4名。

「天正遣欧少年使節」


彼らはポルトガル、スペインを経由してローマにたどり着き、
教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられています。
彼らは1590年、長崎に帰国しましたが、そのときに,
グーテンベルク発明の活版印刷機を持ち帰ったことは有名です。

彼らの年齢は、はっきりしませんが、13~14歳で、
中浦ジュリアンが最年長だったと言われます。この後、
千々石ミゲルは棄教、伊東マンショは長崎で布教中に死去、
原マルティノは日本を追放されてマカオで死去、
中浦ジュリアンは正式な司祭となり、1633年、長崎で殉教しています。

中浦ジュリアン像


さて、この中浦ジュリアンですが、フェレイラと同じときに捕縛され、
穴吊りという拷問を受けています。これは、足を縛った逆さ吊りで
体を穴の中に入れるという過酷なもので、
全身の血が頭に溜まって苦しむものの、すぐには死なないよう、
両耳の後ろに穴を空けて血が流れ出るようにしていました。

「穴吊り」


このとき吊るされたのは、ジュリアンと3名の外国人宣教師。
フェレイラは吊るされて5時間後に棄教を表明。中浦ジュリアンは
4日間耐えて死亡しましたが、最期のときに、「私はこの目で
ローマを見た中浦ジュリアン神父である」と言い放ったと伝えられています。

2007年、ローマ教皇ベネディクト16世は、
中浦ジュリアンを福者に列することを発表し、翌年、列福式が行われました。
福者というのは、神に祝福された人という意味で、カトリックでは
聖者(聖人)につぐ序列にあたり、今後、聖人に昇格する可能性もあります。

さて、棄教した転びバテレンがどうなるかというと、まず絵踏みをさせられ、
誓詞に血判を押させられます。この誓詞には、
「デウスやマリアに誓って確かに棄教しました」こう、英文で奇妙な文言が
書かれていたようです。そして、その身柄は幕府に厳しく管理されます。
フェレイラも、70歳で亡くなるまでずっと幕府の監視下にありました。

「踏絵」


フェレイラは同時期に処刑された中国人の妻と同居するように幕府に
命じられ、通訳などを務めていましたが、キリスト教弾圧にも協力し、
キリシタンの墓の破壊を提案したり、反キリスト教文書である『顕疑録』
を著したとされています。フェレイラの棄教とその後の行動は、
イエズス会とヨーロッパのカトリック界に大きな衝撃を与えました。

さてさて、中浦ジュリアンと、沢野忠庵ことクリストヴァン・フェレイラ。
対照的な晩節になってしまったわけですが、ほとんど無宗教の
自分としては、ここでその是非を問うつもりはありません。
まとめとして、遠藤周作氏の『沈黙』から言葉を借りましょう。

「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は
考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に
植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。
我々はこの沼地にキリスト教という苗を植えてしまった。」

これは「キリスト教」のところを他の言葉に変えても通用しそうです。
日本は歴史的に、大陸からさまざまな文化を受容してきましたが、
けっして中国的な思考には染まっていません。
海外から取り入れられたものは、だんだんに、
あまりにも日本的な内容へと変質させられていくんですね。

現在、日本のキリスト教徒は1万人もいないと言われますが、
変質を許さない原理的なものは、なかなか日本では広まりません。
グローバリゼーションには、元来 不向きな国なんだと思います。
では、今回はこのへんで。






アーカイブ 間欠熱の話

2020.01.03 (Fri)
これ、怖い話じゃないんですけど、いいですか。じゃあ話していきます。
ちょうど3週間前ですね。彼女と日曜にデートに行きまして、始まったのは
その夜からです。寝たのは0時前後だったと思いますが、夢を見たんです。
それが、荒れ地に一人で立ってる夢なんですね。日本じゃないと思いました。
土が赤っぽく乾いてひび割れてて、砂ぼこりが舞い、ヒューヒュー風の音が聞こえる、
そんな場所でした。そこに僕がぽつんといて、それだけの夢です。
ええ、なにも起きないんです。目の前の景色も変わらないし、
ただ風が吹いてるだけ。で、たまらない孤独感があったんです。世界の中で
自分がひとりぼっちみたいな。あと、長い長い時間が経過している
感覚がありました。・・・目を覚ましたときには朝になっていて、
タオルケットがびっしょり汗で濡れていました。

僕は電気毛布なんかは使ってないんです。タオルケットに毛布に布団だけ。
ちろん下着もびっしょりで、でももう冬ですから、
そんなに汗をかくわけないですよね。それと、ものすごく喉が乾いてたんです。
それで冷蔵庫から500mlのミネラルウオーターを出して飲み干し、
それだけじゃ足りなくて水道の水をコップで3杯も飲んだんです。
汗をかいたからだろうって?ええ、そうだと思います。いつも朝食は食べないんですが、
出勤まで時間があったので熱を計ってみたら、平熱でした。でね、風邪をひいた
兆候もなかったんです。咳・鼻水はないし、頭が痛くもだるくもない。だから普通に
会社に行きました。ええ、会社でも具合が悪くなることはなかったです。でもこれが、
それから4日間続いたんです。荒れ地の夢を見て目覚めると汗びっしょりで、
喉が渇いてたまらないっていう。でね、金曜の午後に近くの開業医に行きました。

そしたら「外国に行ったりしませんでしたか?」って聞かれまして。
でも僕、生まれてから一度も海外旅行したことがないんです。
そう答えると、その日は血液と尿をとられ、胸のレントゲンをやって終わりました。
検査の結果は来週の火曜日に出るということで、それで帰ったんですが、
その日の夜も同じでした。ええ、その夢です。で、翌日の土曜日に
彼女と会って、その話をしました。彼女は心配してくれて、
「大きな病院で見てもらったらいいんじゃない」
って言ってくれたんですが、とりあえず検査の結果を待とうと思ったんです。
でね、その日は彼女が僕の部屋に泊まっていくことになって、
夜更かしして夜中まで、ソファで2人でビデオを見てたんですよ。
そしたら、1時を過ぎたあたりで、ポタポタ額から汗がしたたり落ちてきて、

体がガクガク震えだしたんです。体温計で計ってみたら39度を超えていました。
で、体の不調よりも気持ちのほうがひどかったんです。
はい、ものすごい孤独感があったんです。自分はこの世でひとりぼっちで、
長い長い時間をずーっとそのまま過ごさなきゃいけないみたいな。
これも変ですよね。たしかに一人暮らしをしてますけど、そのときは彼女が
すぐそばについててくれたんですから。僕はガチガチ歯を鳴らしながら、
怖い、怖い、一人は嫌だって叫んだみたいで、彼女が救急車を呼んだんです。
それで、運ばれたのが市営病院です。病院で熱を計ると、
41度に近くなっていました。肺炎が疑われましたが、レントゲンに影はなし。
大きな病院でしたから血液検査の結果もすぐに出て、
炎症反応などはないが、脱水で血液が濃くなってるって言われました。

でね、熱は3時ころになってだんだん下がってきて、
だいたい4時には平熱に戻ったんです。そのときに、言いようのない
孤独感もおさまっていましたので、ひどい寝汗をかいて
目覚めるのがずっと続いていることを、救急の先生に話したんです。
そしたら入院の手続きをとってくださいました。急に会社を休まねばならず、
いろいろ大変でしたが、それから病院では検査、検査の毎日でした。
でもね、特に悪いところは見つからなかったんです。病院のほうでは、
マラリアなんかの熱帯病を疑ってたみたいでしたけど、さっき話したように、
僕は外国に行ったことはないですし、血液からも病原虫やウイルスの類は
見つからなかったんです。ええ、その間も夜中に熱は出ました。
時間帯は1時から4時まで、図ったように同んなじで、最高で40度を超えました。

でね、寝ている分には夢を見るだけなんですが、その時間帯に起きていると、
さっき言ったように、すごい孤独感があって叫び出してしまうんです。
ですから、夜は鎮静剤を注射してもらって眠らされるようになりました。
彼女は毎日のように見舞いに来てくれてました。でも、彼女が来ている時間は
なんともないんです。熱は平熱だし、精神状態も普通。
・・・病院側はほとほと困り果てているようでした。だって、いくら検査しても
原因がわからないし、熱だけは夜中に命が危険な状態まで上がるし。
それで、県で一番大きな大学病院に転院するって話になったんです。
そこだったら原因がつきとめられるかもしれないって。
で、そのために一旦退院したんです。そのときに、
ずっとついててくれた彼女が、「ねえ、信じないかもしれないけど、

 私、評判がいい気功の先生がいるって聞いてきたの。
 ダメ元で明日行ってみない?」こう言ったので、気功なんてさすがに
信じてはいなかったんですけど、せっかく彼女が探してくれたんだしと思って、
彼女の車で別の市にあるその施療院に行ってみたんです。
すごいたくさん患者さんがいて何時間も待たされ、やっと僕の番になって、
出てきたのは60代くらいの気功師の先生でした。施療台に服を脱いで寝かされ、
先生があちこち体に手をあててましたが、「植物の気を感じる」って言われたんです。
「え、植物ですか?」 「そう、おそらく異国の植物。
 どこかでそういうものに触れませんでしたか?」・・・考えてみると、
この熱が出はじめる前の日、彼女とデートで熱帯植物園に行ってたんです。
はい、そこは火力発電所が地域サービスのために運営しているところで、

発電所の排熱を利用して熱帯植物を育ててるんですね。
デートのコースとしては地味な場所でしたが、彼女は喜んでくれてました。
そのことを話すと、先生は熱心に僕の全身に手をあてたりかざしたり
してたんですが、「あ、ここだ、見つけた」って言われて、
毛抜きのようなものを出して、僕の右のふくらはぎの肉を引っぱったんです。
「あ、痛っ!」でも、それは一瞬だけでした。先生は、毛抜きの先にある
数ミリの白い毛ののようなものを僕に見せ、「植物のトゲだね。
 その熱帯植物園で刺さったんだろう。とても細いので痛みを
 感じなかったんだろうね。サボテンか何か、植物のことは詳しくないから
 わからないけど」こう言ったんですよ。それでですね、その日の夜、
熱が出なかったんです。ええ、それ以来ずっと大丈夫です。

いちおう大学病院のほうには入院して検査をしました。
でもやっぱり何の異常もなく、熱も出ないので3日ほどで退院しました。
それで会社にも復帰しまして普通に仕事をしてます。
まあ、こんな話なんです。ここからのことは付けたりですね。
先日の日曜日、前に行った植物園に、彼女とまた行ってみたんです。
もちろん今回は、絶対にトゲなんかが刺さらないよう、
僕も彼女も十分に気をつけましたよ。もう12月に入ってまして、
植物園の中にもクリスマスのイルミネーションが飾られ、
不思議な熱帯植物の姿とあいまって、幻想的なムードになってました。
お客さんの数は、いつ来てもそんなに多くはないんですが、
そのときは、あるコーナーに十数人ほどの人だかりができていまして。

何でも、アガベという種類の植物、これはお酒のテキーラの原料になる
竜舌蘭の仲間らしいんですが、その一種が、生まれて数十年たって
はじめての花を咲かせたってことが地方新聞に紹介され、
それでお客さんが集まったようでした。僕らも近づいてみましたら、
前に見た記憶がありました。そのときはひょろりとした地味な植物だという
印象しかなかったんですが、それが細い枝の先に、
なんとも奇妙な形の黄色い花を咲かせていたんです。
「これが、何十年も育って初めて咲かせる花か。面白い形だね」僕がそう言うと、
彼女が、「ねえ、葉の一枚一枚の先に針みたいな白い毛が生えてるけど、
 あれ、あなたの足に刺さったのと似てるんじゃない」こう答えました。
そう言われてみると、たしかにそんな感じに見えたんです。







アーカイブ 黄泉返りの話

2020.01.02 (Thu)
これは今から40年も前のことなんだが、それでもいいかい。
じゃあ話していくよ。うちの婆様がまだ生きてた頃のことだ。
婆様は10代の終わりから70歳ちかくまで、地域の拝み屋をやってたんだ。
ああ、婆様の当時は珍しいことじゃなかった。
町々にはそういう拝み屋が一人はいたもんだよ。
何をするかっていいうと、まず一番頼まれることが多いのは、
赤ん坊の疳の虫を封じてくれってやつ。あ、疳の虫ってのは、
赤ん坊が夜泣きをしたり、ひきつけを起こしたりすることだよ。
そういうのを拝んで治すわけだ。まあな、非科学的と言えばそうだが、
当時は医者なんて、よっぽど大きな病気じゃないとかからなかったし、
もしかかったとしても、赤ん坊の夜泣きを治せるわけでもねえだろ。

だから、拝み屋が流行ってたときには、けっこうな数の依頼があったそうだよ。
あとは失せ物探しとか、病気平癒とか、行き遅れた娘の良縁祈願とか、
そんなことだ。家の和室の一つに簡素な祭壇がしつらえられててな、
そこでご祈祷をするわけ。何の神様かって? うーん、よくわからん。
仏教じゃない、日本の神道の何かの神様だろうよ。
俺が高校に上がるころまでやってたんだが、そんなの気にしたことはなかった。
でな、俺は兄姉が多いんだよ。男が3人で俺は次男。それと姉が2人いた。
俺が下から2番目ってことだが、ある日、中学に入ったばかりの一番下の弟、
これが自転車に乗っててトラックにはねられたんだ。
見ていた人の話では、自転車ごと高く飛ばされて、道路に頭から落ちた。
救急車が呼ばれて、すぐに病院に運ばれたが、

強く頭を打ったせいで、脳に血腫ができてるって言われたんだ。
それがあまりに大きくて、とても手術はできない。自然に血がひいて
いくのを待つしかないが、脳の大事な部分がやられてるかもしれない。
医者はそんな話をしたよ。とにかく、今日か明日かもしれない命だってことだ。
だから家族全員が弟のベッドのまわりに集まってたんだ。
で、弟の血圧はどんどん下がって、呼吸もゆっくりになってきてな。
医者が「残念ですが、ご臨終です」って告げたときに、
俺の母親が婆様に向かって「お義母さん、
 なんとかこの子を助けてやってくださいませんか」って叫ぶように言ったんだ。
そしたら婆様は無念そうに首を振って、「いやいや、それはできんことだ」
って答えたんだよ。だけど母親はなおも、

「お義母さんの祈祷はよく効くって評判じゃないですか。
 この子はお義母さんのかわいい孫じゃありませんか。ダメでもいいです。
 なんとか拝んでください、お願いします」って泣きながら食い下がった。
だが婆様は、「それはやってはいかんことなんだよ。死にゆくものに
ご祈祷してはいかん、人には定められた寿命があるのだから」
目をしょぼしょぼさせてこう言うばかりでな。それで、俺ら兄弟も全員で
婆様に頼んだんだよ。「弟のために祈祷してください、拝んでやってください」って。
うちの姉2人が、それぞれ両側から婆様の着物の袖をつかんで、「婆様、婆様、
お願いだ。この子を助けてやってくれ」って揺さぶった。父親をのぞいた家族全員が、
泣かんばかりにして婆様に頼みこむと、婆様は大きな溜息をついて、

「・・・わかった、わかった。わしは何もこの子がかわいくないわけじゃない。
 昔から生き死にに関わるご祈祷はしてはならないことになっとるんだが、
 わしにとっては大事な孫だし、やってはみるけれども、
 道具も持ってきておらんし、上手くいくかはわからんが」
そう言って、ベッドの弟の頭の横にきて、意識のない弟の額に手のひらをあて、
ぶつぶつと口の中で、ご祈祷の文句を唱え始めたんだよ。
医者は黙って家族のやりとりを聞き、婆様のすることを見てたな。
おそらく、何をやっても無駄だろうと思ってたんだろうよ。
婆様は、祈祷の言葉を唱えながら、しきりに弟の頭の上の空に手をやり、
何かを引きずり下ろすような動作をしながら、またひとしきりぶつぶつつぶやく。
それを1時間ちかくもくり返したんだ。

そしたら医者が「あ、血圧が上がってきた。これは持ち直すこともありえるかも」
驚いたような顔をして言った。でな、弟はとうとう死の淵から脱することが
できたんだ。もちろん家族全員が喜んで、婆様に
感謝の言葉を口々に言ったんだが、婆様はあんまり嬉しそうじゃなかった。
そして母親に向かって諭すような口調で、「抜け出しかけていた魂を無理に戻した。
 しかしなあ、死ぬ命運にあるものが黄泉返っても、その後どうなるかは保証はできん」
そんなふうなことを言った。でなあ、弟の脳にできた血腫は少しずつひいていき、
事故から1ヶ月ちかくたって、意識が戻ったんだよ。
そしたら・・・俺はそのとき学校に行ってて病院にはいなかったんだが、
ついていた母親の話だと、目を開けたとたんに「ぎゃおう、いでえ、いでえよう」
大声で叫んでベッドから起き上がろうとした。

だが、弟は頭を動かせないよう、重い砂袋で左右から固定されていたんで
起きられない。そしたらその砂袋をつかんで放り投げようとしたらしい。それで
母親はあわてて看護婦を呼んだ。普通はそんな長い間 意識がない状態にいれば、
目が覚めても、筋力が落ちてて体に力が入らないはずなんだが、
とにかく「いでえ、いでえ」と叫んで、ものすごい力で起き上がろうとする。
そして「体中がいでえええ」そう絶叫して、
頭を押さえつけようとした母親の指に噛みついた。
びょんと跳ね上がるようにしてベッドの上に立つと、
騒ぎを聞いて駆けつけてきた医者や看護婦に次々体あたりをして跳ね飛ばし、
四つん這いになって病室を飛び出し、
ものすごい速さで病院の階段を駆け下りていったんだよ。

もちろん関係者がたくさん出て、俺ら家族も呼ばれて探したんだが、
病院の構内では見つからなかったんだ。
しかたなく警察に連絡したんだよ。それから4時間ほどして、
弟は死んだ状態で発見された・・・見つかったのは、うちの一族の
代々の墓がある墓地。病院からは15kmほども離れた場所だったんだよ。
どうやってそこまで行ったかはわからない。
病院の寝間着を着たままだったし、金も持ってるはずはねえから、
歩いていったとしか考えられないが、さっきも言ったとおり、
1ヶ月も意識がなくて寝たきりになってたんだぜ。
それでな、死に方っていうのがまた酷いもんで、
自分で一家の墓に何度も何度も頭を打ちつけたみたいなんだ。

頭が何ヶ所も割れて、とても見られる状態じゃなかったらしい。
とにかく病院に安置されたときには、顔全体が包帯でぐるぐる巻きに
なっててな。葬式の前に火葬にするしかなかったんだ。
でな、ひととおりのことが済んだ後、婆様が母親にこんなことを言った。
「やはりあの臨終のときに、魂を引き戻したりするんではなかった。
 人はなんぼ辛くても、逝くときに逝かさせないとダメなんだ。
 かろうじて命の火をつなぎとめても、別物みたいになっちまう。
 全身が痛くて苦しくてたまらんかったろう。かわいそうなことをした」って。
・・・まあこんな話なんだ。婆様が力のある拝み屋だっただけに、
かえって無残なことになっちまったってことだな。その後、婆様も
2年ほどで死んだよ。もちろん拝み屋のあとを継いだ家族はいねえ。








アーカイブ 死児を撮る話

2020.01.02 (Thu)
去年の9月の連休のことです。友だちと女2人で温泉に行ったんです。
・・・じつは、その1ヶ月ほど前に彼と別れてしまいまして。
それで、高校のときの友だちをさそって愚痴でも聞いてもらおうと思ってました。
友だちは、奈美って名前にしておきますね。高校のときは同じバスケ部で、
すごく明るい子だったんです。だから、いっしょにいたら少しは
気が晴れるかと思って。それで、旅行を決めたのが3週間ほど前だったので、
近場の有名な温泉地は、どこも予約でいっぱいだったんです。
そしたら奈美が、「県内でもまったく有名じゃないし、宿もボロいんだけど、
 お湯だけはいい温泉があるのを知ってる」って言い出しまして。
そこは田舎で、ネットなどにも載ってないようなところでした。
奈美に電話をかけてもらうと、宿泊できるということだったんです。

それで、土日を一泊二日の予定で予約を入れたんです。
当日は私の車で行きましたが、3時間半ほどかかりました。
国道から県道に入って、さらに山の中の道をずっと走りました。
温泉の住所はカーナビに入れてたんですが、途中でナビが効かなくなって、
あとは奈美の記憶を頼りにして宿を探したんです。
「奈美、よくこんな場所知ってたわね」そう言ったら、
「小学校4年生まで、そこの村に住んでた」ということでした。車は山を
一つ越えて、下りたところに小さな盆地のような集落がありました。「ああ、
 ここ、この場所。覚えてる、懐かしいなあ」奈美がはしゃいで言いましたが、
そこは店一つないような田舎の町だったんです。
ええ、それから30分ばかり走って、山の下にある温泉宿に行き着きました。

建物は古いけど造りはかなり立派でした。「ああ、ここね、昔の名主の家
 だったみたいだよ」60代くらいの女将さんが出てきて部屋に通されました。
畳も障子も日に焼けていましたが、12畳の立派な部屋でした。そのとき
女将さんに聞いた話では、連休中なのに泊まってるのは私たちだけということで、
旅館として生計を立てているわけではなく、たくさんある部屋が傷まないよう、
口コミの紹介を通じて、わずかなお客さんに来てもらっているということでした。
さっそく温泉に入りました。露天風呂はなかったんですが、
かなりの広さの石組みの浴槽で、ふだんは混浴らしかったのですが、
お客さんは私たちしかいなかったので、なんの気兼ねもありませんでした。
乳白色のお湯はかすかに硫黄のにおいがして、完全な掛け流しでした。
お湯はややぬるめだったものの、すごくいいお湯でした。

ああ、すみません。旅行の話ばっかりになってしまって。その夜一泊し、
翌朝また温泉に入って、すごくのんびりした気持ちになりました。奈美が
あれこれと励ましてくれたので、失恋した痛手もかなり癒えたような気がしたんです。
朝食をとった後、奈美が女将さんに、「裏の山、たしか登れましたよね」って
聞きました。「あ、はい。国有林ですが、登山路はついております。低い山ですから、
 1時間もかからず頂上に出ますし、たしか休み屋のようなものがあったはずです。
 ですが、高い木ばっかり生えてて、見晴らしなどはよくないですよ」
女将さんにはこう言われましたが、女2人の気軽な旅行で、普段着に
スニーカーを履いてましたので、お昼までには戻る予定で山に登ってみたんです。
登山路はせまかったですが、ところどころに木の段があり、
傾斜も急ではなく、登山というより軽いハイキング程度のものでした。

頂上には無人のあずま屋があり、そこに座って持ってきた飲み物を飲みました。
登山路は頂上で終わりではなく、下る道がまだずっと続いていました。
「ねえ、ここ下りてくと、どこに出るの?」奈美に聞きましたら、「うーん、
 たぶん別の集落があると思うんだけど、そこって廃村だったような気もする」
「ここまで30分しかかかってないよね。少し下まで行ってみない」
その道を5分ほど下りたところで、ふっと日差しが暗くなりました。
急に天気が変わって、雨がぽつぽつと落ちてきたんです。
2人とも雨具などは持ってきてませんでした。小走りで引き返そうとしましたが、
雨は止む気配はなく、2人ともあきらめて濡れながら歩いていました。
そのとき、横手の林から「おーい、あんたら」と叫びながら人が出てきたんです。
50代くらいにみえる背の低い男の人でした。「はい?」私が答えると、

「あんたらカメラは持ってるか?」私も奈美もスマホを持ってましたし、
私はその他にデジカメも持ってましたので、「ええ、持ってますけど」そう言うと、
「お願いがあるんだ。写真撮ってほしいものがある。金は払うから」
私と奈美は顔を見合わせましたが、雨がますます激しくなってきて、
傘を貸してくれるということだったので、とりあえず行ってみることにしました。
林の中の細い道を下に少し下りた斜面に、ボロボロの家がありました。「ああ、
ここだよ、さあ」私と奈美がその家に入ると、ぷうんとお線香のにおいがしました。
男の人は「じつはなあ、ついさっきうちの子どもが死んだんだ。
 医者にはもう連絡してるから、そろそろ来てくれるはずだ。でなあ、頼みなんだが、
 その子はほとんど写真とかないんだよ。うちには写真機もないし・・・」
 だから今、なんとかあんたらで撮ってくれんかと思って」

私と奈美はまた顔を見合わせました。そんな気味の悪いことはできないと思ったん
ですが、もう家の中に入ってましたし、外はザーザー振りの雨になっていました。
それだけじゃなく、稲光がして遠くで雷が鳴り出したんです。
「・・・・」私たちが黙っていると、男の人は財布から1万円札を出し、
「こんけあればいいだろ、後で住所書くから、写真はそこに送ってけれ」
それで私は、もうすぐ医者さんも来るんだしと思って覚悟を決め、
お札は受け取らず、「わかりました。じゃあ」バッグからデジカメを取り出し、
男の人に奈美といっしょについていきました。廊下を通ってフスマを開けると、
大きな仏壇があり、その前に小ぶりの布団が敷いてあって、小学校低学年
くらいの子どもが寝かされていたんです。顔に白布がかかってました。
「さ、頼んますよ」男の人が布をめくり、はっと奈美が息を飲む音が聞こえました。

女の子でした。固く目をつぶり、真っ白な顔で生気がありませんでした。
私は枕元に立ち、上から見下ろすようにして何枚か、さらに横から何枚か、
その子に向けてデジカメのシャッターを切りました。
ファインダーごしに見る女の子の顔はすごく整っていて、ああ、こんな年で
死ぬなんてと思うと、かわいそうで涙が出そうになってきました。
合計10枚ほど撮ると、男の人は「じゃあ、今、住所書いて持ってくるから」
そう言って部屋から出ていきました。そのとき奈美を見ると、フスマのほうを
向いて小刻みに震えてたんです。私が「かわいそうだけど、怖くないよ」そう言うと、
奈美は「・・・それ、人間じゃない」って絞り出すような声で叫んだんです。
「え?」もう一度女の子のほうを向くと、さっきまで固く閉じられていた目が、
ぱっちりと開いてたんです。「死んだよー」女の子がか細い声で言いました。

「きゃーっ!!」私は悲鳴を上げ、奈美といっしょに転がるようにして部屋の
外に出ました。そのまま廊下を突っ切ってスニーカーをつっかけ、家の外に出ました。
そのとき、まばゆい光で目の前が真っ白になり、少し遅れてドーンという轟音が
響いたんです。「あー!!!」私と奈美は叫びました。・・・そして、気がついたら、
私たちはまばらな林の中に立ってたんです。ええ、雷どころか雨も降ってませんでした。
体もまったく濡れてなかったんです。とにかく、少しでもその場を離れようと、
登山路に出て息を切らして走りました。頂上のあずま屋を過ぎたあたりで2人とも
走れなくなり、立ち止まって膝に手をあててあえぎました。「・・・何だったの、
 あれ?」私がとぎれとぎれに言うと、奈美が「キツネじゃないかな。
 写真を撮ったの、金色の毛をした動物だったよ」奈美がそう答えたんです。
「キツネ???」 「化かされたんだよ私たち、・・・たぶん」

奈美が言うには、あの家の中に入ったときからずっと獣臭いにおいがしてた、
布団に寝かされていたのは小さな金色の毛の動物で、それを見てから、
私が写真を撮っているあいだ中、怖くてずっと目を閉じていたってことでした。
ええ、デジカメは手に持ったままでしたので、おそるおそるモニターを見ました。
・・・写っているのは草の上に横たわった動物だったんです。宿について、女将さんに
山の家のことを聞いてみましたが、そんなものはないと思うと言われただけでした。
ただ・・・化かされたというのとはちょっと違うかもしれないです。というのは、
私のジーンズのポケットからくしゃくしゃの1万円札が出てきて、
それ本物だったんです。後になって木の葉に変わるなんてこともありませんでした。
ですから、今、困ってるんです。はい、プリントした写真をどうすればいいのか。
もう一度あの山に行って置いてくればいいんでしょうか。でも、それも怖いし・・・