仙人になるには

2016.04.22 (Fri)
前に「仙道・道教について」という項を書いて、わりと評判がよかったので、
その続きです。みなさんは仙人というと何を連想されるでしょうか。
やはり「不老不死」と答える方が多いのではないでしょうか。
これ、老衰や病気では死なないということで、
仙人でも事故で死ぬことはあるようですし、殺されることもあります。

あと、仙人は不老なわけですが、これ自体はあまり意味がないようですね。
外見は、白い髭の老人であったり童子の姿であったり、
好みによって自在に変えることができまして、男性は重々しいのが好きなのか、
老人姿が多く、女性の仙人はさすがに老婆姿は好まないようで、
自分が最も美しい時代の容姿をしていることがほとんどです。

さて、仙人はすなわち道教の神として信仰されているわけですが、
特に有名な8人を八仙と言います。これはジャッキー・チェン映画の『酔拳』
に出てくる酔八仙と重なっている場合もあり、下図のような方々です。
なんか見たことがある絵柄ですが、日本の宝船そっくりですね。
女性が(日本では弁財天)が一人混じっているところも似ています。
これは『東遊記』という書物に出てくる、八仙が東海に遊びに出かける場面で、
掛け軸などで見ることが多いです。『東遊記』は『西遊記』と同じような、
荒唐無稽な話で、孫悟空(斉天大聖)も出てきます。

『八仙図』


八仙すべてを紹介している時間はないので、
今回は呂洞賓(りょ どうひん)に登場してもらいましょう。 唐の貞元14年
(794年)永楽鎮生まれ。父や祖父の役職もわかっていて、
わりに新しい時代の人です。仙人の中には、数千年前の中国の神話時代の人もいれば、
宋の時代(12世紀頃)の人もいて、新旧入り交じっています。
「邯鄲(かんたん)夢の枕」あるいは「黄粱(こうりゃん)の夢」
という故事成語はよく似た話で、日本でも有名です。その登場人物には、
さまざまな人があてられていますが、この呂洞賓もその一人です。

彼は幼い頃から聡明だということで評判だったのですが、
中国では官吏になるためには科挙を受けなくてはなりません。
これはまあ公平な制度ですが極めて難しく、二度落第してしまいます。
父親は刺史(警察長官のようなもの)にまでなった人ですので、プレッシャーは大きく、
唐の長安の酒場でヤケ酒を飲んでいると、一人の道士が話しかけてきます。
道士は呂洞賓に才能(仙骨)があるのを見て取り、修行を勧めてきたわけです。
しかし、まだ立身出世に未練があった呂はこれを断ります。

やがて、食事をしようと粥を煮はじめたところで、呂は酔いからうたた寝してしまう。
そしてその夢の中で、科挙に及第し、みるみる出世して嫁も貰い、
時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、
運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信用をとり戻ししたりしながら栄華を極め、
賢臣の誉れを得る。子や孫にも恵まれたが年齢には勝てず、
多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ・・・ここで目が覚めると、
そばには道士がいて、まだ粥の黄粱が炊きあがってはいなかった・・・

こんな話ですよね。わずか数分のうちに自分の一生を、
微に入り細にわたって見てしまったのです。でまあ当然、
人の世の儚さを悟るわけです。そこで道士に弟子入りしたいと頼み込みますが、
道士は自分で話を持ちかけたくせに、呂洞賓に十の試練を与えると言います。
このあたりは『杜子春』とよく似ているのですが、中国にはある仙人が、
どうやって仙人になったか(道心を得たか)という物語がありまして、
杜子春はその中でも失敗談に入ります。最終的に仙人になれなかったわけですから。
ただ呂洞賓の場合は、杜子春とは違って、
日常生活の中でいつ試練が来るかわからない。

この十の試練全部を書くと長くなりますので、興味を持たれた方は、
Wikiの「呂洞賓」を検索してみてください。いくつか抜き出してみると、

第一試 ある日、洞賓が外出し戻ってくると、家族全員が病死していた。
彼は嘆くことなく淡々と葬儀の準備をした。しばらくすると、
死者はみな生き返ったが、呂洞賓は全く怪しまなかった。

第五試 洞賓が山中の道舎で読書をしていると、突然、
妙齢の絶世の美女がやってきた。母の元から帰るところなのだが、
日が暮れてしまったので休ませて欲しいという。夜になると女性は何度も誘惑したが、
洞賓は最後まで心を動かさなかった。女性は三日経った後、去っていった。

第七試 ある日、洞賓は街で銅器を買って帰ったが、見るとそれはすべて
金でできていた。ただちに銅器の売り主を探し、これを返した。

第九試 洞賓は大勢の人々と共に河を渡っていた。しかし中流に至ると河が氾濫し、
風が激しく吹き荒れ、荒波がどっと押し寄せた。人々はみな恐れおののいたが、
洞賓は端坐し動かなかった。


こんな感じです。第一試は家族に対する情愛の念を捨てること。
第五試は色欲を断つこと。第七試は金銭欲をなくす。
第九試は自分の命への執着を捨てる。
なかなかできることではないですよねえ。あと面白いのは、
第二試 ある日、呂洞賓が市へ物を売りに行きその値段を決めたが、相手が前言撤回し、
値段の半分しか払わなかった。しかし、洞賓は何も言わなかった。

というやつで、これは唐の時代の話ですが、
現代でも中国の市場でよく見られるような光景です。あまり変わってないんですね。
これらの試練をはねのけ、呂洞賓は道士の弟子になって修行を開始するのです。

さてさて、これ、自分を捨て欲を捨て、命さえも惜しまないというのは、
仏教の無常観と似たところがあります。ただし違うのは、
仏教では輪廻からの解脱が目的であるのに対して、道教の場合、
あくまでも生きたままこの世にとどまり、
仙界と人界を自在に行ききすることにあります。

これらの仙人は、いまだに雲の上を飛び回っているということですが、
その永劫にも近い時間は、自分という意識や我欲があっては、
耐えることができないのです。日本の久米仙人は若い女のふくらはぎを見て
雲から落ちてしまいましたが、仙人になっても修行を怠るとそういうことになります。
不老不死は、ほぼすべてのことを捨てる見返りとしてあるわけなんです。
関連記事 『仙道・道教について』

『呂洞賓』






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仙道・道教について

2016.03.19 (Sat)
今日の話題はこれでいきます。当ブログでは、これまで、
あんまり仙道には触れてこなかったんですよね。特に理由はないんですが、
やっぱりとっつきにくい感じはありますね。
ところで、日本は中国経由で仏教、中国のものである儒教を受容しているのに、
どうして道教はさかんにならなかったんでしょう。

代わりになるものとして、陰陽五行思想、天文、暦学などをベースとした
陰陽道があったからでしょうか。一説には、唐の時代に、
中国から道教の受容を求められた際、天照大神を中心とする日本神話、
天皇中心の政治体制とは相容れないものであるからという理由で、
拒否したという話があります。この真偽はわかりませんが、
自分はけっこうこれを支持しています。道観(道教寺院)が日本にできなかったのは、
意図的にそれを防ぐ体制が、やはりあったのではないでしょうか。

仙道(神仙思想)と道教の違い。これもかなり難しいですが、
自分的には、完全な個人救済(自分だけが修業によって仙人になる)が仙道。
2世紀に興った、五斗米道や太平道などの教団化したものが
道教というふうにとらえていますが、これには異論もあると思われます。
ただ、道教教団が行うような集団生活や、謝礼を得ての病気治療、魔を払うといった行為
(キョンシーに出てくる道士のような感じ)は、本来の神仙思想にはないものです。
仙人になれば不老不死になりますが、そのかわり我欲が消え失せ、
世俗のこと一切に関心を持たなくなることになっていますから。
ただ雲に乗って高天を浮遊してるだけで、それが楽しいのかどうかもわかりません。

神仙思想は、前述したように個人が仙人になるためのものですが、
その中には選民思想も含まれています。どういうことかというと、素質のないものは、
いくら努力しても仙人にはなれない、なれたとしても高位には登れないということです。
その素質のことを仙骨と言います。「お前は仙骨が短いから仙人にはなれない」
みたいな感じですね。中国の殷周伝説で出てくる「太公望」呂尚は、
一度仙界で修行したものの、素質が足りないので人界に戻され、
周の軍師になって、易姓革命で活躍することになります。

芥川龍之介の『杜子春』、これは中国の古典を童話化したものですが、
原作では、牛馬と化した両親が鞭打たれる場面で杜子春は思わず声を出してしまい、
仙人になれなかったことで、後で師に叱られてしまうのですが、
芥川作品では「あのとき声を出さなかったら私がお前を殺していた」と改作されています。
原作は、杜子春が仙人になるための冷厳さを持ちあわせていなかった、
というだけの話だったのが、人間としての情を主題に、
日本的に変えられているわけですね。

さて、仙人の種別としては、一番位が高いのが「天仙」です。
飛行能力を持ち、つねに雲上を飛び回っていて下界のことには関心がありません。
「羽化登仙」という語は、この天仙を指しているようです。
修行の末に、地上に沓だけを残して、忽然と姿が消え去ってしまうのです。
次が「地仙」これは龍などに乗って飛ぶことはできますが、
常には高山の洞などに住んで修行をしています。
一番地位が低いのが「尸解仙」です。いったん死んで棺に葬り去られたのち、
棺桶の中に剣を残して死体が消え失せ、仙人になるというものです。
尸解仙の中にもまたレベル差があり、宝剣を用いて尸解したものが上位で、
普通の剣や木剣は低レベルといった話もありますね。

また、『封神演義』は仙界を舞台にした空想小説ですが、その中では、
仙道が「闡教(せんきょう)」と「截教(せっきょう)」に二分されていました。
「闡教」は元人間だったものが修行により仙人になったもの。
「截教」は人間以外のもの、大亀とか孔雀、植物、自然現象などが仙人化したもの
として描かれています。お話では「截教」が戦いに負けて、
多くの人間以外をルーツとする仙人が殺され、神として封印されます。
また、仙人は男性が多いですが、女性もいますし、風貌も老人だけではなく、
◯◯童子という子どものような姿形のものもいます。

道教と老荘思想。これも難しいところですが、いつかの時代に、
「老荘思想」が神仙思想に取り入れられ、道教へと変遷していったのだと思われます。
そもそも、老子自体が実在性を疑われている人物ですので、
はっきりしたことは言いにくいのです。ただし、道教の方法論、
神々の像に祈りを捧げ、病気になれば護符を書いて飲むといったことを、
胡散臭い、馬鹿げていると思う知識人は古代でも当然いたことでしょう。

ですから、教義に深みを与える必要があったんですね。
それには、老荘思想の「無為自然」「徳」などの概念は恰好のものでしたので、
現在の道教は「道(タオ)」(宇宙自然の普遍的法則や根元的実在)を、
最高概念として置くようになったと言えるんじゃないでしょうか。
あとまあ、孔子の儒教に対して、老子の道教とすればおさまりがいい
とかもあるのかもしれません。ちなみに、道教では、
老子は太上老君という神仙になっています。
晋代の『抱朴子』の記述によれば、口がカラスのようで、耳の長さは7寸、
額に3本の縦筋 で牛に乗る異形の姿に説明されています。

さてさて、長くなってきましたので、最後に神仙になるための修行法。
これは内丹法と言われるものです。「仙人はカスミを食べる」という話がありますが、
天地自然の気を体内に取り込み、練ることを指します。
自分が自然と一体化すると言ってもいいでしょうか。
じゃあ具体的にどうすればいいんだ、となるでしょうが、
これは難しくてなかなかできないところに妙味があります。

簡単にできてしまったら、富裕層に取り入った道士はイカサマが続けられなくなりますから。
内丹がうまくできないので、外丹法が勧められることになります。
これは食事や仙薬によって仙人化するための方法で、秦の始皇帝の道士、徐福は、
「東方の三神山から神仙になる薬を取ってくる」と財宝をもらって逃げてしまいました。
外丹には、水銀化合物やヒ素化合物なども多くあり、
長命になるどころか、これで命を落とした人も多かったと言われますね。
関連記事 『仙人になるには』

太上老君






平行世界と無限大

2016.03.14 (Mon)
一昨日、時空がずれる、タイムスリップするという話をしましたが、
怪談の時空物のパターンというのはまだありますよね。
子どもの頃とか昔の記憶と現在がつながっていない系の話です。
例えば小学校の遠足で山にいき、不思議な出来事が起きた記憶があるのに、
その頃の友だちも親も「お前はあのとき熱出して休んだだろう」と言う・・・
自分の記憶だけが周囲の人と合わないんですね。
こういうのは、その遠足のときに世界がずれて、並行した別の世界、
遠足に発熱して行けなかった世界の自分と入れ替わってしまった、
と解釈することもできます。

平行世界、パラレルワールドとも言いますが、これも元はSFの小道具でした。
アイデア自体は量子力学、ヒュー・エヴェレットの、
「多世界解釈」から来ているのだと思います。
「シュレディンガーの猫」という話がありますね。量子力学の思考実験です。
ある原子が1/2の確率で崩壊するとして、崩壊したときに毒ガスを出すような装置をつくる。
そしてその装置を入れた箱に猫を一匹閉じ込める。
原子が崩壊しているかどうかは、箱のフタを開けて観測しないとわからないので、
フタ開けない状態では、箱の中の猫は半分死んで半分生きている状態になる・・・
でも、そんなはずはないですよね。
 
ここでエヴェレットは、猫を箱に閉じ込めたときに世界が2つに分かれると考えました。
箱の中の猫が死んでいる世界と生きている世界とです。
そして箱を開けた瞬間に、2つに分かれていた世界がヒュッと収縮して、
どっちかに決まるというわけです。ここで重要なのは、
観測して結果が出たときには、分かれていた世界は一つに戻るということ。
世界が分かれている間、死んだ猫の世界と生きた猫のいる世界は干渉できない
ということになります。これが物理学でいう多世界解釈ですが、
それだとお話をつくるのが難しいですよね。

せっかく別の自分のいる世界がたくさんあるのに、絶対行き来できないのはツマラナイ。
そこで作品に取り入れられる場合は。なんらかの方法で行き来できるようにされています。
また、世界が分かれるきっかけも、量子的なミクロのものではなく、
もっと人間的な選択によることが多いようです。
例えば、進路選択で地元のA大学に入るか、それとも東京のB大学に入るか、
あるいは、Aさんと結婚するBさんと結婚するか。
これは確かに、どっちにするかでその後の人生はだいぶ変わってくるでしょう。
しかし、そういう重大なものだけではなく、日常には無数の選択肢があるはずです。

駅に来てベンチで一休みした。立ち上がって足を踏み出すとき、
右足から出るか左足から出るか。喉が渇いていたので自販機で飲み物を買おうとして、
ダイエットを考えてお茶にするか、疲れているから糖分の入ったものにするか・・・
そういう選択というのはいくらでもあるでしょう。
足を踏み出すのは無意識でしょうが、右からか左からかで結果が変わるかもしれません。
こう考えれば、もし選択によって世界が分かれるのならば、
平行世界というのは無限に枝分かれしていくことになりますよね。

右足から踏み出した世界のお茶を買った自分、
左から踏み出した世界の缶コーヒーを買った自分、という具合にです。
しかし無限の世界があるということは、数学的にはかなり都合が悪いんですね。
無限大の記号は∞ですが、これは「ウロボロスの蛇」自分のしっぽを飲み込んでいる蛇の
モチーフから取られているようです。とにかく無限大が式に出てきてしまうと、
その式は成り立たなくなってしまいます。無限大に何を足したり引いたり
掛けたり割ったりしても、やはり答えは無限大になりますし、
しかも∞÷∞=1ではないし、∞×0=0でもないのです。

ここらあたりは数学的に難しいので、説明は省略しますが、
物理学では、式に無限大が出ると意味をなさなくなってしまいますので、
出てこないよう、だましだまし計算することが多いのです。
朝永博士がノーベル賞を取った「くり込み理論」も、そのだましテクニックの一つでしたが、
あのホーキング博士が、宇宙は特異点から始まるとする、
「特異点定理」を証明してしまいました。特異点というのは、
圧力無限大、温度無限大の状態ということで、そこではあらゆる法則が通用しません。

少し余談をしますと、温度の場合、下限は決まっています。
絶対零度、−273.15℃です。これより温度が下がるということはありません。
ある気体で中の分子が動いている状態が、温度がある状態です。
活発に動いていればいるほど高い温度になります。その気体を冷やして、
どんどん温度を下げていくと、分子どうしがぎゅうぎゅうにくっついていって、
最後には隣とのすき間がなくなって動けなくなります。これが絶対零度ということですね。
逆に温度の上限というのはないようで、無限大まで高くなると考えられています。

さてさて、ある日Aさんが家を出るときに右足から出ましたら、
しばらく歩いた先で車に轢かれて死んでしまいました。別の世界では、
Aさんは左足から家を出て、そしたら庭の敷石につまずいて転び、
家を出るのが遅れてしまいました。このときAさんは「ああ、なんて今朝はついてないんだ!」
と思いましたが、この遅れのために事故に遭って死ぬことはなかったのです。
ただしAさん自身はもちろんそのことを知りません。

仮に、Aさんが右足から家を出る確率と、左足から出る確率を同じ50%としましょう。
ではAさんが事故で死ぬ確率も50%なのでしょうか。
ここは勘違いしやすいところです。一つの世界に限定すればそう言えるでしょうが、
もし平行世界が無限にあるとすれば、∞×0.5=∞ になります。
とすれば、Aさんが生きている並行世界は無限大にあり、
死んでいる世界も無限大にある、ということになってしまわないでしょうかww
関連記事 『時空物について』







湖中のキリスト像とか

2016.03.08 (Tue)
今日も怖い話ではありません。前々回の「羊太夫」の最後で、
フランシスコ・ザビエル来日以前のキリスト教(ユダヤ教)の痕跡について
少し触れましたが、これはオカルトの一つの分野と言っていいかもしれません。
ただし大いに眉唾ですので、そのつもりでお読み下さい。

そうですねえ、自分的には2大キリスト系オカルトと考えるのは、
青森県戸来(ヘライ)村のキリストの墓の話と、
四国剣山中にあるとされるモーゼのアークの話ですね。
ね、嘘くさいでしょう。オカルトというのは、初めて聞いたときに、
「えーありえない」とほとんどの人が思うようなものは、
当然ながらメジャーにはなりませんが、
そのかわりというか、ディープなマニアと言える人を産んでしまうことが多いんです。

■戸来のキリスト墓
『1935年(昭和10年)8月初に、青森県戸来村(現在は三戸郡新郷村)
を訪れた新宗教団体の教祖、竹内巨麿(たけうちきよまろ)は、
2間~3間の長方形の盛り土をみると立ち止まり、それが古文献を一人で調べた結果により、
そこに統来訪神と書いた目標と前の野月の二ツ塚に
「十来塚」と書くよう村長に話したという。』

Wikiにあるこの話が発端ですね。また、同時期(1938年)キリスト者の山根キクは、
著作『光りは東方より』(釈迦、モーゼ、ヨセフ、キリストが修行のため来日したという内容)
で、十和田湖畔の十和利山(戸来岳)にキリストの墓があるとしています。
時期をみればわかるとおり、日本が大戦に突入する直前のことで、
東洋の威厳、日本の神国としての威儀を強調するような内容です。
西欧を支配するキリスト教文化を日本のうちに取り込もうとする意図が感じられますね。

ちなみにキリストの墓の近くには、弟イスキリの墓もあります。
キリストは来日して青森に落ち着いてからは、
「十来太郎大天空(トライタロウダイテンクウ)」wと改名し、
鼻が高い彫りの深い顔貌から天狗と同一視されたりもしてるようです。

戸来説の論点としては、
・戸来の地名がヘブライにつながる。
・ダビデの星(六芒星)と似た紋章を使用する旧家がある。
・この村の方言で、大人の男を「アヤ」「ダダ」、大人の女を「アパ」「アバ」と言い、
 それは聖書に出てくる「アダム」「イブ」が訛ってできた言葉ではないか。
・産まれた子どもを初めて外に出すときには、その額に十字を書く。
・ナニャドヤラという民謡?があり、日本語としては意味がわからないが、
 古代ヘブライ語としてなら読み解ける。

戸来の子ども


かなり噴飯物の内容ですよね。特にアダムとイブのくだりはちょっとどうかと。
母親をアバなどと言うのは北東北各県で共通していますし、ナニャドヤラの歌詞
「ナニャドヤラ、ナニャドナサレノ、ナニャドヤラ」というのは、
「何がどうやら、何をどうしたらいいか、何がどうやら」
・・・東北の方言は詳しくないですが、こう解してもおかしくはないんじゃないでしょうか。
ということで、これはまあ面白話でしょう。

さて、題名に湖中キリスト像と出ていますが、
戸来村の近くではありますが、直接キリストの墓とは関係のない話です。
大渇水した十和田湖の湖畔の岩くぼに、
観音像あるいはキリスト像と言われる構造物が出現したというものです。

下に画像を載せていますが、暗くてわかりにくいです。
興味を持たれた方は、youtubeに動画が出ていますので検索してみてください。
海外からはキリスト教関係の遺跡ではないか?と注目されされていて、
十和田湖の真ん中に渇水期のみ出現する島「御門石」の頂上と
像の標高がほぼ同じなのだそうです。

十和田湖湖中のキリスト像


まあしかし、キリストが亡くなったとされる紀元前後のものかはわかりません。
たぶん違うでしょう。人工物であったとしても、
江戸時代の隠れキリシタンのものかもしれないし、
仏教や神道のものかもしれないんです。
ただ、こういうのはロマンがあるなあとは思います。

■剣山のアーク
1936年(昭和11年)のことです。
上記の戸来の話が出たのと時期が共通していますね。
これはそういう新興宗教ブームもありましたが、
戦争が迫ってきて周囲の風当たりが強くなってきたのに危機感を覚えた
日本のキリスト者の、一種の自己防衛の行動であったのではないかと思います。
そして、この頃に開発されたオカルト話が、今になっても生き残っているわけです。

高根正教(神奈川県の尋常高等学校の校長を務めた名士で、聖書研究家)
そして古神道研究家の内田文吉、角田清彦が、
四国徳島県、剣山山頂部の発掘を行いました。
表向きには「剣山鉱区地質調査」でしたが、本当の目的は、
「ソロモンの財宝」「モーゼの失われたアーク」の発見!だったんです。

困難な登山の末、山頂付近にある「鶴岩」と「亀岩」の間を亀岩の下を数年間かけて
約150m掘り進んだのだそうです。ここで、
・130m付近で巨大な岩のドームが見つかった。
・さらに下には高さ15mほどの大理石の三角ピラミッドがあった。
この後、元海軍大将 山本英輔、この人は歴史に残る有名な軍人ですが、
この穴を特定し奥へと掘り進むと、レンガ作りの回廊の奥に、
100体以上のミイラが無造作に転がっているのが発見された。しかしそれらは、
いたみがひどく土くれのようでもあった。・・・まあこんなお話です。
結果としては、財宝もアークも出てはいません。
この他にも剣山の秘宝に挑んだ者たちはいましたが、みな資金難で挫折しています。

剣山山頂


これは日本ーユダヤ同祖論と言われるものの一部で、
「剣山に古代ユダヤ人の失われた支族が移住し、日本の基礎を確立。
邪馬台国へとつながった」みたいな展開を見せていますが、
残念ながら現在この穴は埋め戻され、再調査はされていないようです。






アリと地球意識

2016.02.21 (Sun)
今日も怖い話ではありません。いや、なんと言うか、
怖い話の内容がスランプ気味なので、少し休んでいるのですが、またいずれ復活します。
さて、どっちからいきましょうか。アリからのほうがとっつきやすいですかね。

『アリの集団が長期間存続するためには、働かないアリが一定の割合で存在する必要がある
との研究成果を、北海道大の長谷川英祐准教授らのチームが16日、
英科学誌サイエンティフィック・リポーツに発表した。
長谷川准教授は「普段働かないアリがいざという時に働いて、集団の絶滅を防いでいる」
と話す。これまでの研究で、アリの集団には常に2~3割、ほとんど働かないアリが存在する
ことがわかっている。働くアリだけを集めても一部が働かなくなり、
働かないアリだけを集めると一部が働き始めるが、その理由はナゾだった。

チームは、様々な働き方のアリの集団をコンピューターで模擬的に作成、
どの集団が長く存続するかを調べた。その結果、働き方が均一な集団よりも、
バラバラの集団の方が長く存続した。働くアリが疲れて動けなくなった時に、
普段は働かないアリが代わりに働き始めるためだ。
実際に8集団1200匹のアリを観察すると、働くアリが休んだ時、
それまで働いていなかったアリが活動し始めることが確認できたという。』
(読売新聞)

なかなか興味深い研究成果ですね。働かないアリが一定数いる集団のほうが効率的であり、
最終的にはコロニーが存続する可能性が高い。
・・・これを人間のニート層などに重ね合わせた論評も見かけましたが、
自分の関心はそういう社会学的な方面ではなく、
どうやってアリが情報伝達しているのだろうか、ということについてです。

一般的には、アリは触覚を触れ合わせることで会話する。
そのときにフェロモンなどの化学物質を伝達している、と解釈されています。
しかしどうなんでしょう。多数のアリが一気に整然と動き始めることを、
はたしてそれだけで説明できるのか。世界的にもこういう疑問を持つ人は多いようで、
アリやハチなどの、集団コロニーで生活する生き物はテレパシーを
持ってるんじゃないか、という仮説を目にすることも珍しくありません。
テレパシーと言ってまずければ、一種の種族全体での同調作用を持っているとか。
こういう話もあります。

『南アフリカの博物学者・ユージーン・マレイ氏は、
ユーメルテスという種のシロアリが作ったアリ塚を用いた先駆的な実験を行いました。
マレイ氏はアリ塚に大きな裂け目を作り、働きアリがその破損した部分を
どのように修復するかを観察したところ、アリたちは破損部の両側から集まり、
中央に向かって修復を始めたとのこと。左右に分かれたアリ同士は互いに触れ合うこともなく、
そもそも目が見えない種だからお互いの姿も見えないはず。
にもかかわらず、アリたちは両側から淡々と修復作業を続け、
最終的には元と寸分の狂いもないアリ塚が再生されたといいます。』


この観察は、アリの左右の集団の間に障害物を入れても同じだったそうです。
まあしかし、視認はできなくてもニオイは伝わりますし、
低周波のようなものでもアリ同士の連絡はできます。
ですから、この結果をして「アリにはテレパシーがある」
と結論づけることはできないとは思いますが、では人間はどうなんでしょう。
人間もアリと比較しても負けないほど、集団に依存して生活している生物と言えますよね。

「地球意識プロジェクト」という超心理学の世界規模の実験があります。
これは、乱数発生器というのを用いるのですが、
乱数というのは「1347849・・・」といったデタラメな数のことです。
ただしこの例は正しい乱数と言えないでしょう。
自分(bigbossman)の脳内から今適当に出てきたものですので、
当然ながら、じゃんけんで最初にグーを出しやすいといった、個人的な偏りが
あると思われます。よい乱数を発生させるにはいろいろ難しい条件があるのです。

乱数発生器を用いて乱数を発生させ続けていると、
出力の偏りが出てくることがあります。これに対し、
偏りは周囲にいる人間の集合的意識の変化を反映しているのではないか、
との仮説が立てられ、プリンストン大学を中心としたプロジェクトが始まりました。
日本では明治大学が協力していますが、世界の多くの地域で測定が試みられています。
その結果、オリンピックやニューイヤー、サッカーのワールドカップなどの
世界的なイベントがあると、たびたび乱数が偏るという観測結果が報告されています。
なかでも2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の日には、
標準偏差の6.5倍に達する極端な変動が観測されたということです。

つまり、世界の多くの人が興奮するような出来事があると、なぜか乱数が偏ってしまう。
これはたくさんの人々の興奮が地球規模で一つに合わさっているということなんでしょうか。
詩的な表現として乱数の偏りが「ガイア(地球)の息吹」などと言われることもあります。
ちなみに「ガイア理論」というのは、地球と生物が相互に関係し合って
環境を作り上げている状態を、ある種の「巨大な生命体」と見なす仮説です。
なかなかロマンのある話ですよね。  地球意識プロジェクト 明治大学

しかしこのプロジェクトには批判もあります。
乱数の偏り、というのは統計的な手法から求められるのですが、
ある統計手法では偏りと言えても、別の手法ではそうでなかったりもします。
実際、テロ時の同じデータを分析しても、
偏りは見られなかったという専門家の意見もあるのです。

また、このプロジェクトを中心となって始めたのは、ディーン・ラディン(Dean Radin)
という人ですが、本国アメリカでは、インチキ臭い人物としてかなりの悪評があります。
右のHPは詳しく参考文献を示してくれています。  Skeptic's Wiki Dean Radin
また、もし偏りがあるのだとしても、「なぜそれが起きるのか」について、
地球意識プロジェクトは答えを出せてはいません。

言葉で情報伝達をしなくても、種族として意識や行動が同調する。
・・・などということがあれば、これはスゴイ話だとは思いますが、
残念ながら「百匹目の猿現象」(ある猿の群れの一頭がイモを洗って食べるようになり、
同行動を取る猿の数が100匹を超えたとき、その行動が群れ全体に広がり、
さらに場所を隔てた、まったく関係のない群れにも広がる)は、
根拠そのものが否定され、現状は疑似科学扱いになっています。
自分としては、テレパシーなどの能力はあってほしいと思うのですが、
前述したアリたちも、きちんと説明のつく方法で情報を伝え合っているのかもしれませんね。
しかし、それはそれで生命の神秘ではあります。

Gaia イメージ