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従軍する狸と狐

2021.02.17 (Wed)
ここ

変な題名ですが、今回はこういうお話をしていきます。
カテゴリは妖怪談義に入るでしょうか。さて、1994年の
スタジオジブリ映画に『平成狸合戦ぽんぽこ』というのが
ありました。昭和40年代、多くの狸たちが平和に
暮らしていた多摩丘陵に、多摩ニュータウン開発計画による

山や森の破壊が迫っていた。ある日、多摩の狸たちは
結集し、総会を開いて開発阻止を決議する・・・
だいたいこんな内容でしたね。なかなか面白かったと思います。
人間が社会生活を営んでいるのと同様、

金長狸の像


狸や狐にはそれぞれの社会があり、その一部は人間の領域と
重なっている。「阿波狸合戦」という話があります。
これは江戸時代末期、阿波国(後の徳島県)で起きたという
タヌキたちの大戦争の伝説です。金長狸と六衛門狸を
それぞれの長として争いになった。

この場合、狸たち同士での戦いだったわけですが、人間が
起こした戦争に狸や狐が加わることもあったようです。
どっちの話からいきましょうか。まず狐のほうからにしましょうか。
幕末のことです。1853年、アメリカ、ペリー提督が
率いる艦隊、俗に言う黒船が日本に来航しました。



その後、日本は西洋列強国と次々に条約を結ばせられることに
なりますが、この時期、コレラが大流行します。安政五カ国条約が
結ばれた1858年から3年にわたって全国に蔓延し、
「安政コレラ」と呼ばれました。

江戸だけで10万人が死亡したとされます。この流行は長崎から
始まったので、明らかに外国船が持ち込んだものです。
で、このとき、江戸市中には奇妙な噂が流れたんですね。
どういうものかというと、「千年もぐら」という妖怪が
外国からやってきて、コレラをまき散らしている。

キャプチャaaaad

千年もぐらは、アメリカ狐とも呼ばれました。アメリカ国が
日本を征服する加勢として、アメリカの狐千匹が日本に
やってきたというわけです。で、日本の狐たちが一致団結して
アメリカ狐を追い払おうとします。こんな話が残ってます。

浅草に、木綿屋で下働きをしているフユという女性がいた。
このフユが、木綿屋に仕事に出てまもなく、急に背中や脇腹が
痛みだし家に戻ります。夫の音次郎は知らせを聞いて
すぐ医者を呼び、医者は薬を飲ませようとしますが、フユは
飲もうとせず、かわりに何か食べさせてくれと言う。

黒船
キャプaaasd

変に思った医者がわけを聞くと、ふだんのフユとはまったく
別人のような調子で「自分は薩摩からやってきた狐である。
アメリカに加勢してアメリカ狐がやってくるという話を
聞いたので偵察しに来たのだが、遠路旅してきたので
腹が減って動けなくなり、しかたなくこの女にとり憑いたのだ」

さすがに信じられない内容でしたが、飯を与えるとぺろりと
平らげ、その後、深い眠りに落ちてしまった。目が覚めたときには
もとに戻っていた・・・だいたいこんなお話です。興味深い
ですよね。日本の狐とアメリカ狐の戦争、最終的に
どっちが勝ったんでしょうか。

キャプチャ

次は狸の話です。日露戦争は11904年(明治37年)から
翌年にかけて行われました。この戦争には、日本の狸が
自主的に参加していたんです。香川県高松市の「浄願寺の禿狸」や
愛媛県今治市にいた「梅の木狸」などが一族を率いて
ロシアにまで出征していた。

これも奇妙な話です。狸の戦い方はその化ける能力を活用する
もので、たくさんの狸がいっせいに並んで山を作る。で、
そこにロシア兵の隊が登ってくると一気に山をひっくり返す。
また、狸の軍隊は日本兵とは違う軍服を着ていて、

キャプチャwwwwe

それは赤で、胸に「○に喜の字」の紋章がついていた。
この兵隊は弾があたってもまったく平気でどんどん前進してくる。
さらにこの兵隊を狙撃しようとすると目がくらむ。どうにも
戦いようがない、とロシア将兵の手記に出てくるんだそうです。
なかなか面白いですね。

日露戦争は、ロシア革命もあり、多大な犠牲を出して日本が
なんとか勝ちましたが、十分な賠償がとれなかったこともあり、
国内の不満も高まりました。このとき、従軍していた狸たちも
日本に凱旋し、提灯行列をしたという話も残っています。

日露戦争
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ただ、これらの狸や狐は、その40年後の太平洋戦争には
参加しなかったようです。そういう記録は残っていません。
ただし、日本が敗戦し、進駐軍が占領しにくると、
アメリカ兵が夜の街で狐に化かされたといった話はありますね。

さてさて、ということで、狸や狐は、たんに人を化かして
面白がっているだけでなく、国の存亡の危機のときには
立ち上がって戦いに出たわけです。ただまあ、人間への協力
だったのかはわかりません。では、今回はこのへんで。




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野寺坊と金(鐘)

2021.02.05 (Fri)
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今回はこういうお題でいきます。妖怪談義です。この妖怪は比較的
わかりやすかったですね。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』に登場
しますが、詞書はありません。また、全国に「野寺坊」という
妖怪の伝承は見られないので、石燕の創作妖怪の可能性が
高いと言われているものです。

例によって、まずは絵を見てみましょう。背後にお寺の
釣り鐘がありますね。ですが、鐘楼は朽ちてしまって、井桁の
ような木だけが残り、そこから釣り下がっています。
自分はこの井桁の形には意味があると考えます。

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さらに、その回りをつる植物がおおい、からまっていますが、
この植物、自分はヤマノイモと推測します。それを前に、
ぼろぼろの僧衣を来た坊主頭の人物が立っていて、これが野寺坊。
手の形が、指先が下に向いていて、これは芝居の幽霊の相です。
つまり生きた人間ではない。

さて、どこから解読していきましょうか。現在の埼玉県新座市野寺に
満行寺という真言宗のお寺があります。かつては別の場所に
あった寺院で、古来、人々によく知られていましたが、
諸事情があって現在地に移ってきたようです。
このお寺にはさまざまな伝承があります。

平安時代の貴族、歌人、在原業平が、罪を得て東下りをしたとき
この寺の近くに来て詠んだとされる歌が、
「武蔵野の 野寺の鐘の 声聞けば 遠近人ぞ 道いそぐらん」
というものです。解釈しなくても意味はわかりますね。
お寺の鐘は2時間おきにつくきまりでしたが、

在原業平
ss (7)

これは午後4時の鐘なのかな。それを聞いた旅人が、もうすぐ
日が暮れるということで道を急ぐ。ところで、在原業平の
一代記と言われる歌物語『伊勢物語』の中の有名な段に、
「筒井筒」があります。

「筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに」
幼なじみの男女が、井筒(井戸の枠)で背比べをしたりしていたが、
離れ離れになってしまった。しかしその後 再会して結ばれ夫婦になる。
「くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき」
この話、石燕は当然知っていたでしょう。

筒井筒
キャプチャ

ですから、鐘を釣る木枠が井筒の形になってるんだと思います。
さて、では上記の満行寺の伝説に鐘は出てくるのかというと、
出てくるんです。こんな伝説が残っています。ある村人が、
大きなむかごのできた芋づるを見つけ、さぞかし大きなヤマノイモ
だろうと掘ってみると意外と小さかった。

そんなはずはない、もっと大きいだろうと思い、さらに掘っていくと、
驚いたことに古鐘が出てきました。この古鐘は、満行寺の前に
建っていた野寺の和尚が、兵火によって失われるのを恐れて
池の中に埋めた野寺の鐘だったとわかった。上のほうで満行寺は
移転してきたと書きましたが、その前にあったのが「野寺」。

ヤマノイモの葉
ss (2)

この鐘を埋めた池を「鐘ヶ淵」と言ったということです。
ちなみに、東京都墨田区の鐘ヶ淵紡績(カネボウ)社が創業した
場所とは違います。こちらにも水に沈んだ鐘の有名な伝承が
ありますが、スペースの関係で今回は割愛させていただきます。

で、上のヤマノイモの話ですが、これも石燕は知っていて、
絵の中のつる植物として描いてるんでしょう。さらに伝承では、
昔、有名な満行寺の鐘を盗んで村民を恐喝しようとした男がいた。
ところが、楼上から鐘をおろしたところで旅人が来たため、

満行寺の鐘楼
ss (4)

男はとっさに池の中に隠れてしまい、そのときに鐘を紛失して    
しまう。次の日、鐘がなくなっていることに気づいた寺の小僧たちが、
あわてて鐘を探したが、結局見つからなかった。その事件があって、
鐘が隠されている寺の近くの池を「鐘ヶ淵」と呼ぶようになった。
現在そこは釣り堀になっているようです。

さらに、道興(どうこう)准后という室町時代の高僧がいますが、
いろいろあって諸国巡礼へと出て、そのときに関東に立ち寄ったんでしょう。
「音にきく 野寺をとへば 跡古りて こたふる鐘も なき夕べかな」
という歌が残っています。つまり、この地はマイナーな歌枕だったんですね。

全国にある道興の歌碑
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歌枕は、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材で、
現在は和歌の題材とされた日本の名所旧跡のこととしても使われます。
まあ、だいたいこれで読み解けたんじゃないかと思いますが、
そう一筋縄でもいかないでしょう。もう一度石燕の絵に戻って、
この妖怪が恨めしそうにしているのは、

鐘にとり憑いているためだと思われます。お寺の梵鐘は大量の
銅を使った高価なものでした。ですから、廃寺になったりすれば
真っ先に処分されるはずなのに、こうして残っているのは、
妖怪野寺坊が守っているから。この絵全体が「金のなる木
(鐘の鳴る木)」のダジャレなんじゃないでしょうか。

さてさて、ということで、もともと野寺という寺があり、そこの鐘が
在原業平の歌で有名になった。それにさまざまな伝承が付随していき、
博学な石燕が、ダジャレ込みで絵にしたというところでしょう。
では、今回はこのへんで。





「稲生物怪録」って何?

2021.02.02 (Tue)
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今回はこういうお題でいきます。妖怪談義ですね。
「稲生物怪録」はオカルトファンの方ならご存知だと思います。
水木しげる先生や京極夏彦氏なども取り上げています。
ただ、この書名、「物怪」の部分を「もののけ」と読むのか、
それとも「ぶっかい」なのかはっきりしないんですね。

書かれた時代を考えれば「ぶっかい」なのかもしれません。
そのほうが武士の著作らしい感じがします。で、この話、
全体として、現代の実話怪談にそっくりなんです。出だしが、
主人公が祟りのあるとされる場所へ行って肝試しをする
ところから始まっています。

現代の怪談でも、心霊スポット探索から怪異が始まるものは
多いですが、そのはしりと言っていいかもしれません。
しかも、この内容はとうてい信じがたいものですが、
すべて実際に起きたことと言い切ってるんです。

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さて、怪異の体験者は、江戸時代中期の寛延2年(1749年)
備後三次(現在の広島県三次市)に実在した稲生正令(いのう まさよし)、
通称、武太夫という武士です。御歩(おかち)組として
12石4人扶持の広島藩藩士とありますので、
武士としてはそう高い身分ではありません。

で、この人物が16歳、まだ幼名の稲生平太郎と言っていた頃の
体験談です。ただし、「稲生物怪録」には、稲生の同僚が
聞き書きしたもの、平太郎本人が書き留めたとされるものなど、
いくつかの異本があって、微妙に内容が違っています。

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で、この平太郎の境遇がひじょうに複雑なんですね。
平太郎は父親が40歳を過ぎてから生まれた子どもで、人生
50年と言われていた頃ですからね。父親は家督の危機だと
考えて養子を取っていました。それが平太郎の兄にあたる
新八なんですが、新八は病気になって実家に戻ってしまいます。

しかも、両親があいついで亡くなります。そこで、
16歳の平太郎が稲生家の当主となり、後に生まれていた
弟の養育もしなくてはならなくなった。また、武士ですから
格式に合った家臣もかかえなくてはなりません。そういう人生の
転機というか、不安定な時期に起きた怪異なんです。

発端は、1749年、平太郎の隣家に三ッ井権八という    
相撲取りが住んでいて、いっしょに、広島県三次市の比熊山の
祟りがあるとされる場所で肝試しの百物語を行いました。これが
5月のことですが、そのときは特に何事もなかったようですが、

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2ヶ月後の7月1日の深夜から怪異が始まり、怪異は手を変え
品を変えて1ヶ月間続いたんです。そのすべてを書くには
スペースが足りませんので、いくつか興味深いものを抜き出して
ご紹介していきます。まず第一夜、平太郎が寝ていると
金縛りになり、一つ目小僧が枕元に現れた。それと同時に、

家の塀の外から、毛むくじゃらの大男の手が伸びてきて
平太郎をつかまえようとした。第3夜、居間の隅の穴から女の
逆さ生首が現れ、逆さのまま笑いながら飛び歩き、
平太郎をなめ回し始めた。第6夜、老婆の大きな顔が
戸口から平太郎を見つめたので、老婆の眉間に小柄を

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打ち込むが、痛そうな顔もしない。翌朝見ると、眉間に打ち込んだ
はずの小柄が宙に浮き、しばらくして落ちた。第9夜、
まず石臼の化物が現れ、そこに知人の弟に化けた妖怪がやってきて、
名刀で石臼の化け物に斬りつけたが、「刃こぼれし、
兄に申しわけがたたぬ」と切腹し、いつのまにか姿を消した。

第15夜、居間の額から「トントサココニ」(?)と聞こえる。
額の裏にかつて家来がなくした刀の鞘があった。夜になると、
畳もなにもかもが糊でも塗ったかのようにねばつきだし、
平太郎はしかたなく柱に寄りかかって寝た。第19夜、
平太郎は友人の勧めにしたがい、家に罠猟の名人に来てもらって

平太郎を祀る広島市の稲生(いなり)神社
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妖怪に罠をしかけたが、いつの間にか妖怪に奪われ、屋根の上に
投げ捨てられた。罠の名人は「これは狐や狸のしわざではない」
と恐れ入った。第24夜、巨大な蝶が部屋に飛来し、柱に当たると
何千もの小さな蝶になり、飛び回った・・・ざっとこんな感じです。
これだけ見ると、精神に異常をきたした人間の妄想のようですが、

妖怪は平太郎だけでなく、友人の武士や罠師など、他の人間も
見たことになってるんですね。うーん、どういうことなんでしょうか。
で、いよいよ1ヶ月が過ぎる30日目、裃を着た40歳くらいの
武士が部屋に入ってきて、「拙者は山本(さんもと)五郎左衛門と
もうす魔物。そなたのような勇気のある者は知らぬ。

拙者をいつでも呼び出せる小槌を与えよう」と木槌を平太郎に手渡し、
武士は多くの妖怪が担ぐかごに乗り、雲のかなたに消えていき、
これで怪異は終わりです。「山本」は通常「やまもと」と
読むはずですが、「さんもと」となっているところが、
人外の者であることを表しているようです。

平田篤胤
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山本五郎左衛門は自ら魔物と名乗っていますが、天狗や狸の棟梁と
いう説もあります。この話は、江戸後期に国学者であり、怪異事件の
収集家でもあった平田篤胤によって広く流布され、さまざまな形で
展開していきました。昨年5月、絵巻物が発見されていますね。

さてさて、どう解釈したらいいんでしょう。16歳で部屋住みから
いきなり稲生家の当主になってしまった平太郎の妄想? それとも
お家取りつぶしの危機にあった平太郎が、自分に注目を集めるために
こしらえた狂言? ともかく、興味の尽きない話です。
では、今回はこのへんで。

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一つ目小僧の周辺

2021.01.27 (Wed)
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今回はこういうお題でいきます。妖怪談義ですね。
このところ妖怪談義の記事が多くなってきましたが、
当ブログの読者のみなさんは興味を持たれているんでしょうか。
ともかく、日本の妖怪はまだまだたくさんいて、
その半分も取り上げてないんですよね。

さて、「一つ目小僧」ですが、江戸時代にはポピュラーな
妖怪だったようで、江戸後期の戯作者、平秩(へづつ)東作が
書いた『怪談 老の杖』の最初の話に出てきて、これがなかなか
興味深いものです。余談ですが、東作は平賀源内と親しく、
獄死した源内の遺体を引き取ったと言われます。

関連記事 『事故物件と平賀源内』

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こんなお話です。江戸四谷の鳥屋「小嶋屋」の主人嘉右衛門が、
店に来た武士にウズラを売った。武士は、そのときは持ち合わせが
ないので屋敷まで取りに来てくれと言う。そこで嘉右衛門が
麻生にある屋敷を訪れると、座敷に通された。

そこで待っていると、10歳くらいの小僧がふらりと入ってきて、
床の間の掛け軸の軸を上に巻き上げ、ぱらりと下に落とすという
遊びをくり返し始めた。最初は黙っていた嘉右衛門も、あまり
続けるので、「お軸が傷むからおよしなさい」と声をかけた。
すると小僧は「黙っておれ」と言いながらふり返ったが、

「豆富小僧」と合体した一つ目小僧
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その顔には目が一つしかなかった。嘉右衛門はあっと驚いて失神し、
その屋敷から自宅まで駕籠で送り届けられ、代金とともに
見舞いの品が届いた。嘉右衛門はしばらく具合が悪かったが、
20日ほどで元に戻った・・・後にその屋敷の者が言うには、
そのような怪異が年に4、5回はあるが、特に悪さはしない

とのことだった。武家では、このことを嘉右衛門に他言されると
拙いと思ったのか、本復するまで、たびたび見舞いを
よこした・・・『怪談 老の杖』は聞き書きで、まさに理想的な
実話怪談になっています。怪異が起きた場所も、

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怪異に遭った人物の名前もわかるからです。現代の実話怪談は、
プライバシー、個人情報に配慮するという建前で、それらを
出さないものが多いんですが、実話だと信用されるためには、
体験者から許可を得て、出せるものは出すべきだと思いますね。

ここでまた余談ですが、江戸時代は仏教の殺生戒のため、      
獣肉を食べるのはよいこととされなかったんですが、四足ではない
鳥は目こぼしされてたんですね。幕末、坂本龍馬が暗殺される前、
下男に鍋にするためのシャモを買いに行かせた話は有名です。

天目一箇神社
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さて、小僧とはかぎりませんが、一つ目の神の歴史は古く、
正史である『日本書紀』に出てきます。「天目一箇神 あめの
まひとつのかみ」は、天照大神が岩戸に隠れたとき、刀斧や鉄鐸を
造ったため、製鉄・鍛冶の神であるとされました。『古事記』では、
同じ神を「天津麻羅 あまつまら」と書いています。

字は違いますが、「魔羅 まら」は仏教用語で「修行を妨げるもの」
という意味です。また、男性器の隠語でもあり、男性器の先端は
「一つ目」に例えられることもあります。これらのことを考えると、
『古事記』の記述は仏教の影響を受けているのかもしれません。

 「目一つ坊」
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なぜ、鍛冶の神が一つ目なのか。これは、鍛冶は熱した鉄の色で
温度を見分けるため片目をつむっていたこと、あるいは、
鎚で鉄を打つ際、火花が目に入って失明することが多かったため
などと言われますが、どうなんでしょうね。

また、民俗学の柳田國男の説では、山の神は一つ目で
あることが多く、片足の場合も多い。これは、共同体から追放
される者は、片目をつぶされ、片足を切られて山に放たれた
可能性を指摘しています。うーん、そういったことも
あったのかもしれません。一つ目小僧は「小僧」とついているので、

縄文時代の石棒
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仏教とかかわりもありそうです。現代の妖怪画では、
僧衣を着て描かれることが多いですが、小僧は男の子どもを表す
一般名称としても使われてましたので、これもよくわかりません。
ただ、大人の僧侶の妖怪である「一つ目入道」 「目一つ坊」
などの妖怪もいます。

あとは「金精様 こんせいさま」との関係。金精大明神などとも
呼ばれ、男根の形をした御神体を祀った神の一柱です。
縄文時代からある、性器崇拝の信仰から始まったとされ、
子宝、安産、縁結び、下の病や性病などに霊験があり、
他に商売繁盛にも霊験があるとされています。

「金精様」
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金精様信仰は、東北、関東の東日本に多く、縄文時代は
西日本よりも人口が多く、栄えていました。これと関わりが
ありそうなのが、現福島県の『会津怪談集』に出てくる話。
会津若松で、ある少女が8、9歳ほどの子どもに出会い、
「お姉さん、お金欲しい?」と聞かれて、「欲しい」と答えると、

子どもの顔には目が一つしかなく、一つ目ににらまれた少女は
そのまま気絶してしまった・・・ さてさて、ということで、
一つ目小僧は、男性器、そして金銭と深い関係がありそうなんですね。
まだ書くことがありそうですが、ひとまず、今回はこのへんで。




払子守と禅

2021.01.26 (Tue)


今回はこういうお題でいきます。妖怪談義ですね。
さて、「払子守 ほっすもり」とは、仏具の一つである
払子が時を経て付喪神化し、妖怪と見られるようになった
ものです。1784年の『百器徒然袋』に登場します。

この画集は、題名でわかるおり器物の妖怪である付喪神
だけを集めたものです。払子は、もともとはインドで
蚊や蝿などを追い払うために使われた道具です。
仏教では殺生を禁じており、虫であっても打ち殺す
ことはできません。そこで仏教に取り入れられ、

『百鬼夜行絵巻』
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煩悩を払うための道具として、僧が威儀を示すときに
使用されました。ここまでが基礎知識ですね。で、払子は
かなり早くから日本に伝わっており、室町時代の
『百鬼夜行絵巻』で、すでに払子の妖怪が出てきています。
石燕がこの絵を参考にしたのは間違いないでしょう。

ここで余談を少し。『封神演義』は、中国明代に書かれた
通俗怪異小説で、日本では小説家の安能務氏が意訳しています。
マンガにもなってますね。その中で、物語の進行役、
トリックスター的な役割を果たす申公豹(しん こうひょう)

申公豹


という人物がいますが、彼が持っているのが払子型の宝貝
(仙人が作った武器)「雷公鞭」で、これを振ると
雷が発生し、相手を打ち倒します。マンガではピエロのような
姿で描かれていますが、まさにそういう人物なんですね。

さて、石燕の絵を見てみましょう。寺院の蓮華座の上、
天蓋の下に、衣一枚だけで、髪もひげも白くなって
ぼうぼうに伸びた人物が座っています。両手は隠れて
見えませんが、これには意味があり、後述します。詞書は、

キャプチャ

「趙州無の則に 狗子(くし)にさへ仏性(ぶっしょう)ありけり 
まして伝灯をかかぐる坐禅の床に、九年が間うちふつたる
払子の精は、結加趺坐(けっかふざ)の相をもあらはすべしと、
夢のうちにおもひぬ」短いですが、重要な仏教用語が
いくつも入っていて、しかも禅宗の話のようです。

「狗子仏性」は、有名な臨済宗の禅の考案で、以前記事に
書いてますが、ある僧が、趙州禅師に「狗子(犬の子)に仏性は
有るやまた無しや」と問答をしかけます。仏性は仏になるための
素質という意味で、仏教では「一切衆生悉有仏性」との教えがあり、
これは、すべてのものには仏性があるという意味です。

狗子仏性
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問答を仕掛けた僧は、このことを踏まえて、趙州禅師が
有と答えても無と答えても やり込めてやろうと、あらかじめ
考えていたんですが、ところが趙州禅師の答えはただ一言「無」。
この話の解釈として、趙州禅師の「無」は「有」の反対語

としての無ではなく、東洋哲学的な絶対無、つまり「空」であると
言われることが多いです。絶対無を出されてしまっては
どうしようもなく、僧は すごすごと退散せざるをえなかった・・・
この話は大変難しいので、これ以上深入りはしません。

達磨大師
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さて、詞書に戻って、「お寺で9年間もありがたいお経を聞いていた
払子は、命を持って妖怪化したのだろう」と出てきます。
こういう話はよく民話にありますよね。石燕は、同タイプの妖怪
として「木魚達磨」というのも描いてますが。やはりお寺の中で
生気を得た木魚が妖怪化したものです。

器物だけではなく、お寺の裏山に住んでいた狐や狸が、ときどき
庭に来て、隠れてお経を聞いていたが、その功徳により
人間に化けることができるようになったり、成仏したりという
話が残ってますね。あとはそうですね、9年間というのは
禅宗の開祖とされるインド人僧、ボーディダルマ(達磨大師)の

「木魚達磨」


エピソードからでしょう。達磨大師は中国に渡り、嵩山少林寺に
おいて壁に向かって9年間、まったく動かずに坐禅を続け、
その過程で手足がなくなってしまったという伝説が残っています。
でもこれ、何も食べない、トイレに行かないというのは無理でしょう。
この達磨大師にあやかって、日本の縁起物のダルマができました。

詞書には「結加趺坐(けっかふざ)の相」とも出てきますが、
もともとインドのヨーガで行われていた瞑想時の座り方です。
正式には、両方の足を自分の太ももの上に乗せます。仏教における
最も尊い坐り方で、足がしびれそうですが、慣れるとそうでもなく、
むしろ普通のあぐらよりも楽だとも言われます。

結加趺坐
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さてさて、ということで払子守について見てきましたが。
詞書があり、特に謎かけのような部分はなくて、解釈は楽でした。
全体的に、器物の妖怪、付喪神については、石燕も独自解釈を
加えず、素直に書いているものが多いようです。
では、今回はこのへんで。





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