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「本所七不思議」って何?

2018.08.05 (Sun)


今回はこういうお題でいきます。カテゴリは妖怪談義になるでしょうか。
まず、本所とはどこかということですが、これは、現在の東京都、
墨田区の南半分あたりです。開けてきたのは江戸中期のころからで、
それ以前は湿地の広がる人の住まない場所でした。

つまり、江戸の外れの地として認識されていたわけです。
余談ですが、吉良上野介が松の廊下の刃傷事件の後、市中から本所松坂町へと
屋敷が配所替えになりました。このときに「田舎に追いやられた」と書いた
上野介の手紙が残っています。うがった見方をすれば、
仇討ち騒動が起きてもかまわない場所と、幕府でも考えていたのかもしれません。

さて、この本所で起きる7つの怪異が「本所七不思議」です。
ただこれ、自分が調べたところでは、怪異の種類は倍の14くらいありますね。
ですから、あげる人によって7つの内容が違ってたりもします。
まあここでは、有名なものから見ていきましょう。

まず「置いてけ堀」。これが一番知られているでしょうか。
現在の錦糸町あたりには水路が広がっていましたが、その堀で釣りをすると、
魚籠にあふれんばかりの釣果がある。さて夕方になって帰ろうとすると、
後ろの堀から「置いてけ~」と、男とも女ともわからない不気味な声が聞こえる。

ここで獲物をすべて投げ捨てていけば問題はないが、
持ち帰ろうとすると怪異が起きて、最悪、堀に引きずり込まれてしまう。
そして釣竿と空になった魚籠だけが残っている。こんなお話ですね。
映画『妖怪百物語』に出てくるシーンが有名です。

錦糸堀公園の河童像


この怪異の正体は河童であるという説があります。
河童が釣人の獲物を横取りしようと仕掛けているわけです。
現在の錦糸堀公園の入り口には、河童像とともに「置いてけ堀」のいわれを
書いた札が立てられているようです。

次は「灯りなし蕎麦」。夜道を酒に酔った人が歩いていると、
道端に灯りの消えた蕎麦の屋台が置いてある。主人はいないが、
蕎麦の火種は残っているようだ。そこらに用足しにでも出たのだろう、
と待っていても、主人はいつまでも戻らない。

あきらめて長屋に戻ると全身に寒気がきて高熱を発する。そして朝を待たずに
死んでしまう。だいたいこんな話です。ここで少しうんちくを言わせてもらうと、
まず、二八蕎麦の屋台は車がついたものではなく、
下図のように天秤棒で肩に担ぐ形のものでした。重そうです。



それと、幽霊が出るのは丑三つ時(午前2時ころ)と言われますが、
これはそんなに遅い時間の話ではありません。
江戸市中は町内ごと長屋ごとに細かく区切られていて、
町と町の境には木戸番がいました。それが閉められるのが4つ(午後10時)どき。
そうやって、夜間の徘徊を防いでたんですね。

次「馬鹿囃子」。道を歩いていると、どこからともなく笛太鼓のにぎやかな
お囃子が聞こえてくる。神社の祭礼があるのだろうか?
そう思って探しにいくと、いつのまにかお囃子の音は遠ざかり、
また別の場所から聞こえる。で、いつしか見たこともない林の中に立っている。

狸囃子


「馬鹿囃子」は別名、「狸囃子」とも言い、怪異の正体は狸とされることが多いようです。
平戸藩主で、歌舞伎の『松浦の太鼓』で有名な松浦候がこの怪異にあい、
人に命じて音の所在を捜させたが、本所南割下水あたりで音は消え、
家来に命じて狸狩りをしたものの見つからなかった、という話が残っています。

「足洗い屋敷」。本所三笠町の旗本、味野家の屋敷に出る大きな足の化物のことです。
夜中になると、天井を突き破って血まみれの大きな足が出てきて、
「洗え、洗え」と命じる。そして下女が足を洗うともとに戻っていき、
破れたはずの天井板もいつの間にか直っている。

荒唐無稽な話ですよね。実害はないようなもんですが、味野家の下女はみな
怖がってやめてしまうので困っていたところ、同僚の設楽(したら)
という旗本が、ためしに屋敷を交換しようと言い、
住人が入れ替わったとたんに怪異も収まったとされます。

「送り提灯」。提灯を持たずに夜道を歩く者の前に、提灯のように揺れる明かりが、
あたかもその人を送って行いくように現れ、不思議に思って足を速めると消えてしまう。
そのくり返しで、いつまでも提灯との距離は縮まらない。
特に実害もないようで、これは親切な怪異ですね。

「落葉しない椎ノ木」。上で出てきた平戸藩主、松浦候の屋敷にある椎ノ木で、
落葉する姿を誰も見たことがない。椎ノ木は常緑樹ですが、
それでも葉の寿命がくれば落葉はあるはずですが、一枚も落ちない。
評判になりましたが、松浦公は気味悪がって屋敷を使わなくなったそうです。

シイノキ


さてさて、長くなったので終わります。七不思議の候補は、この他、
「送り拍子木」 「片葉の芦」 「津軽家の太鼓 」 「三つ目橋の火」 「小豆ばばあ」
「埋蔵の堀」 「夜豆腐屋」などがあります。
では、今回はこのへんで。






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「7人みさき」の謎

2018.07.24 (Tue)
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今回は超ひさびさに妖怪談義です。ただこれ、わからないんですよねえ。
いろんな要素がからまっていて、とてもすんなりと結論の出る話ではない。
そのことをご承知の上でお読みください。
さて、では、最初に「7人みさき」とは何か?

日本各地の伝承を合わせると、「7人の集団で行動する怨霊。これに遭遇すると
熱病などで命を取られる場合が多い。犠牲者は7人みさきの一人となり、
そのかわりに元のみさきから1人抜ける(成仏する?)」
こんな感じなんですよね。また、「7人みさき」は、
海や川などの水辺に現れることが多いとされます。

うーん、まず、自分の家にある小学館版「日本国語大辞典」を見ると、
「みさき」は「御先」と書き、3つの意味があります。① 貴人などの先頭に立って
先払いすること ② 神が使者として遣わす動物、特に烏、狐、猿などを言う。
③ 変死した者の霊魂、怨霊。人にとり憑いて引き込んだりするという。

妖怪としての「みさき」は、基本的に③の意味なんだと思いますが、
①②のことも関係してるんじゃないかと自分は考えています。
で、「みさき」伝承としてよく出てくるのが、土佐国(高知県)の戦国武将、
吉良親実(ちかざね)に関するものなんですね。

吉良親実は実在の人物で、伯父が長宗我部元親。この本家の後継者争いに関して
元親に異を唱えたため、切腹させられています。このとき親実の家臣7人も
殉死し、それ以後さまざまな怪異が起き、親実らの怨霊が「7人みさき」として
怖れられたと『老圃奇談』 『神威怪異奇談』などの古書に書かれています。

長宗我部元親
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ただ、これが「7人みさき」の最初の話かというと、自分はそうは思いません。
上であげた③の意味はこれ以前からあり、そこに吉良親実の事件が起きて、
「みさき」の実例の一つとして知れ渡ったんだろうと考えます。
注意してほしいのは、怨霊は吉良親実本人と重臣7人の計8人であることです。

おそらくここには、①②の意味が関係してくるんじゃないかと思います。
吉良親実が怨霊の本体であり、重臣7人の霊はその先触れ、
使い魔のようなものなんじゃないかと考えるんですね。
ちなみに、長宗我部元親は、この話を耳にして供養を行ったが効果はなく、
今に残る吉良神社を建てて、親実を祀ったことになっています。

吉良神社
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で、「みさき」が1人をとり殺すと入れ替わるというのは、
主人である大怨霊、吉良親実はそのままに、家臣が代がわりして
新しく雇われるようなものなのかもしれません。
苦しい説明ですが、これくらいしか言いようがないんですね。もしかしたら、
仏教のほうで、何かこの元になる説話があるのかもしれません。

次に、「みさき」が海や川に関係しているという話ですが、
これは「岬」という語との混同があったためだと考えます。
「岬」も、元々の漢字は「御碕、御先」で、海の先に突き出した陸地の意。
『日本書紀』の神代の部に出てくる古い言葉です。ここから、
水に関する怨霊が「みさき」とされるようになったんじゃないでしょうか。

さて、「みさき」が現代に起きた事件として「渋谷7人みさき」というのがあります。
これは、援助交際をして妊娠中絶をしていた女子高生らが、
水子の怨霊につぎつぎと7人とり殺されたという話ですが、
都市伝説であり、実体はありません。

八丈島火葬場
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ただ、実際に起きた怖い話もあって「八丈島火葬場人骨事件」と呼ばれるものです。
1994年8月11日、八丈島八丈町で、町の火葬場職員が炉を開けたところ、
炉内にぎっしり詰め込まれた人骨を発見しました。八丈島警察の調べにより、
この人骨は子供の骨も混じった約7体分と判明します。

この火葬炉が最後に使用されたのは、発見5日前の8月6日。
そして人骨が発見されたのが11日で、4日間のあいだに何者かによって
無断で使用されたということです。また、警察によって、これらの遺骨は、
死後10~40年を経過した古いものであることが判明しています。

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八丈島には、「改葬」という風習があり、
これは、いったん土葬した遺体を後に掘り出して火葬することですが、
島民が、無断で火葬場の炉を使用することは考えにくく、また、
島内の墓地をすべて調べても、新しく掘り出された痕跡はなかったんですね。

これらのことから、事件について、島に古くから伝わる「7人坊主」の伝承
との関連を言う人もいました。「7人坊主」とは、
その昔、八丈島の海岸に流れ着いた僧侶七人が、
島民に迫害されて死んでいったことが元になり、
その後、夜になると僧たち7人のの霊が島内を歩き回り、農作物が不作になり、

家畜は次々に死に、そこで村人たちは祟りを鎮めるため、
東山の頂上に七人坊主の塚を建てたというものです。
ただし、これが史実かどうかはわかりません。この事件に関しては、
さまざまな説が出され、島内にある新興宗教施設の関係者が
疑われたりもしましたが、結局、未解決のまま現在に至っています。

さてさて、長くなってきたのでいったん終わります。上記の事件に興味を
持たれた方は、「オカルト・クロニクル」さんが詳しくまとめられた
次のリンクを参照してください。「八丈島火葬場七体人骨事件」
あと、現代の「七人みさき」には、「熊取町7人連続怪死事件」というのも
あるんですが、これについてはまた書く機会があるかもしれません。
舌足らずな内容になってしまいましたが、今回はこのへんで。

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百々爺と獣肉食

2018.03.14 (Wed)
またしても妖怪談義です。今回はこいつでいきます、
「百々爺 ももんじい」。石燕の絵を見てみましょう。
枯葉の中に枯れ枝を杖にした老人が立っています。
体は毛深く、その顔はどことなく獣じみているようにも見えますね。



詞書は長く、「百々爺未詳 愚按ずるに 山東に 摸捫ぐは(ももんぐは)
と称するもの 一名野襖(のぶすま)ともいふとぞ  京師の人 
小児を怖(おど)しめて 啼(なき)を止むるに 元興寺(がごし)といふ
もゝんぐはと がごしと ふたつのものを合せて もゝんぢいといふ 
原野 夜ふけて ゆきゝたえ きりとぢ風すごきとき 老夫と化して 
出て遊ぶ 行旅の人 これに遭へばかならず病むといへり」


訳すと、「百々爺についてはよくわからないが、愚考すると、関東で「モモンガ」
と言うものは、別名「のぶすま」とも言うというそうだ。京都の人は、
子どもをおどかして泣きやませるのに「ガゴシ」と言う。ももんじいは、
モモンガとガゴシの2つを合わせたものだ。野原の夜が更けて、
人が通らなくなり、霧と風が激しいとき、老人の姿となって外に出て遊ぶ。
旅人は、これにあうと必ず病気になると言われている。」こんな感じですか。

まず、「モモンガ」と「野襖」は、どちらも同じリス科の動物のことですね。
前脚から後脚にかけて張られた飛膜を広げて滑空することができます。
石燕には、別の妖怪画で「野衾」があり、下図のようなものです。
獣のくせに空を飛ぶのが珍しいので、妖怪のうちに加えられたのでしょうか。



後半は言葉の語源のようなことが書いてあります。京都の人は、子どもが泣くと、
「ガゴシが来るぞ」と言っておどかす。ガゴシは幼児語でお化けを表します。
で、百々爺は、モモンガとガゴシが合わさってできたものだろうか、
というわけです。しかし、自分は、このあたりの記述はあまり意味はないと考えます。
石燕は、本来の意味をごまかすために、あれこれ言ってるような気がしますね。

ずばり、百々爺は「肉食」を表してるんじゃないかと思います。
日本の獣肉食の歴史をざっとふり返ってみますと、仏教伝来までは、
獣肉は貴重なタンパク源として、普通に食べられていました。農耕は不作の年もあり、
狩猟・採集による食物の比重が、まだまだ高かったんですね。

それが、仏教の殺生戒という考えがだんだんに浸透していき、
『日本書紀』によると、675年、天武天皇は、農耕期間である4月~9月の間、
牛、馬、犬、猿、鶏を食べてはならないとする禁令を出しています。
ただし、獣肉食の中心である鹿と猪はのぞかれています。
これは、田畑を荒らす害獣であったせいもあるんでしょう。

鎌倉時代から武士の世になると、武士の間では獣肉は食べられていましたが、
殺生をなりわいにしている猟師が、その罪で地獄に落ちるなどの
仏教説話が広まり、また、屠殺業者、解体業者などへの差別も始まって、
だんだんに、武士の間でも獣肉食は禁忌とされるようになってきました。
 
1587年に豊臣秀吉が出した「バテレン追放令」には、
追放の理由の一つとして、西洋人宣教師が肉食することがあげられており、
牛馬の売買、屠殺、食することを禁止しています。
これは、江戸時代に入っても比較的よく守られていました。

17世紀には、徳川綱吉の、俗にいう「生類憐れみの令」によって、
殺生は厳しく禁じられましたが、それも江戸市中だけのことで、
地方では魚釣りなどは普通に行われていましたし、バカバカしいと思った
徳川光圀(水戸黄門)は、綱吉に、あてつけに犬の毛皮を送ったりしています。
「生類憐れみの令」のほとんどは、綱吉が死ぬとすぐに撤廃されました。

これが石燕の時代の百年ほど前の出来事です。石燕のころには、
表向きは獣肉食禁止でしたが、「薬喰い」と称して、滋養強壮を謳い文句に、
おおっぴらにではありませんが、獣肉を食わせる店もあったんですね。
それを「ももんじい屋」 「山くじら屋」などと言います。



山くじらは猪の隠語です。(ちなみに鯨は魚と考えられ、食べてもよかった)
また、猪は牡丹とも言われますが、これは花札の絵にかけられています。
また、鶏は柏、鹿は紅葉です。鹿の紅葉も花札になっていますが、
これはもともと、「奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」
という『古今和歌集』の猿丸太夫の歌からきています。



さてさて、ということで、百々爺は獣肉を食わせる「ももんじい屋」と
モモンガが合体したものでしょう。もう一度、石燕の絵に戻ってみると、
枯葉の中には、紅葉(鹿)がありますし、柏(鶏)に見えるものもありますよね。
これも、まず間違いがないんじゃないかと思います。

柏の葉


ただ、石燕が獣肉食についてどう考えていたのかはよくわかんないですね。
石燕の同時代人で、仏教が嫌いだった本居宣長は、その著書で、
古代の肉食はあたり前だったと考察していますが、百々爺の寂しげな様子や、
「旅人はこれにあうと病気になる」という詞書の内容から、
石燕は獣肉食には批判的だったのかもしれません。








手の目と博打

2018.03.12 (Mon)
今回も妖怪談義でいきます。取り上げるのは「手の目」。
詞書はないですが、これは、そう難しくないですね。石燕の絵を見てみましょう。
ススキの野原に頭のハゲた、おそらく僧侶が立っていて、
(もしかしたら、目の不自由な座頭なのかもしれませんが)
その顔には目がありません。そのかわり、両手の平に目がついている。



江戸時代の、『百鬼夜行絵巻』によく似た絵(下図)がありますが、
これは、石燕の、手の目が入っている『画図百鬼夜行』より
100年ほど新しいものですので、こちらが石燕の絵を参考にしたのだろうと
思われます。石燕の絵は、背景にも重要な意味があります。



さて、手に目がある人物といえば、思いつくのは、
中国明代の伝奇小説『封神演義』に登場する楊任(ようにん)。
下図を見てもらえばわかりますが、両目から手が生え、
その手のひらにまた目がついた異様な姿です。これでも神像なんですね。



楊任は、殷の紂王に諫言したため、怒りを買って目をくり抜かれたんですが、
仲間の仙人によってこのような姿にされました。この像は台湾のもので、
楊任は道教の学問の神様として尊ばれています。石燕は当然、
『封神演義』は読んでいたでしょうから、参考にした可能性はあると思います。

さて、次に下図を見て下さい。花札の「坊主」です。
ススキの野原に大きな月が出ています。ススキは8月を表していて、
「坊主」は20点の役札。背景の構図が石燕の絵とよく似ています。
自分は、石燕はこの札を元にして「手の目」を描いたんじゃないかと考えます。



花札がいつの年代にできたか、はっきりとはわかりませんが、
花札の前身であるカルタ絵の中に、これがあったんだろうと思うんですね。
石燕の絵の、僧侶の坊主頭が満月にあたるわけです。
で、手の目に隠されたテーマは「博打」。

江戸時代はたいへん博打がさかんでした。もちろん江戸幕府は博打を禁止していて、
何度も禁令を出していますし、博打を訴えでた者には褒美を与えるとまでしています。
博打の主催者や場所を貸したものは流罪、客は家財没収や手鎖、
重叩きなどの刑を受けることになっていました。

博打は、勝負に負けたものが盗みや詐欺を働いて治安が悪くなりますし、
農村で博打のために土地を手放し、江戸に出てきて無宿人になるなど、
その弊害が大きく、幕府はやっきになって取り締まろうとしたんですが、
どうやっても流行を防ぐことはできなかったんですね。

その理由の一つとして、幕府の町奉行所の力がおよぶのは町家だけで、
武家は目付の管轄でしたし、寺社は寺社奉行の管理下でした。
そのため、武家屋敷や寺院などで、副業として賭場を開帳してた例は多く、
もしかしたら、石燕の絵は、そういう胴元になっている僧侶を
皮肉っている面もあるのかもしれません。

江戸時代の博打場の様子


さて、この絵には、たくさんの言葉遊びが含まれています。
まず、坊主頭は月を表していて、これは「ツキがある、ツキがない」にかかっています。
「坊主になる」という語は、「大負けして一文無しになる」という意味で使われ、
釣りで、まったく獲物がなかったことも「坊主」と言いますよね。

それから、目。「目がない」という慣用句は、
「まんじゅうに目がない」など、「とても好きだ」という意味の他に、
「物事のよしあしを識別する力がない」 「勝ち目がない」
などの場合にも使われます。「勝ち目がない」の目は、サイコロの目のことです。

それと、手もそうです。「いい手がくる」というのは、博打用語ですし、
そのものずばり「手目 てめ」というのは、
「いかさまをして自分に都合のよい目を出す」という意味です。
ですので、手に目があるこの妖怪はイカサマを表してもいるんですね。

さてさて、ということで、「手の目」は、博打に手を出して、
ツキがなくてすってんてんに負けた坊主が、今度はイカサマを覚えて賭場で
使ってみたものの、それがバレて袋叩きにあい、
半死半生でススキの生えた野原に捨てられた悲惨な姿、と読み解きます(笑)。
まず間違ってはいないでしょう。ということで、今回はこのへんで。

名称未設定 2







百々目鬼の3つの正体

2018.03.09 (Fri)
さて、今回も妖怪談義をしつこく続けます。取り上げるのは、
「百々目鬼 どどめき」。これ、自分はほぼ完璧にわかりました。
ここまで読み解くことができるのは珍しいんですが、たくさんの内容が
何重にもかけられています。まず、下の石燕の絵をごらんください。



川べりの道のようなところに、布を被った人物が立っていて、顔はわかりませんが、
着物からすると女のようです。左の袖をたくし上げて腕を出していますが、
その左腕にはたくさんの目が並んでいます。あと、画面の左上に鳥が
2羽飛んでいますが、これらにはすべて意味があります。

詞書は、「函関外史(かんかんがいし)云(いわく) ある女 生れて手長くして
つねに人の銭をぬすむ 忽(たちまち) 腕に百鳥の目を生ず 
是(これ)鳥目(ちょうもく)の精也 名づけて百々目鬼と云(いう)
外史は 函関以外の事をしるせる奇書也 一説に どどめきは 東都の地名ともいふ」


訳してみると、「『函関外史』という本には、ある女が、生まれつき手癖が悪く、
いつも人の銭を盗んだので、腕に百も鳥の目ができてしまった、とある。
これは鳥目(江戸時代の銭)の精である。その名を百々目鬼と言う。
この『函関外史』は、箱根の関所の外のことを書いた珍しい書物である。
一説には、東のほうの地名に「どどめき」というのがあるらしい。」

鳥目(寛永通宝)


『函関外史』の「函関」は箱根の関所のことです。この名前の本は現存しておらず、
石燕が、わざわざ「奇書だ」と断っているあたりが怪しいですよね。
他の妖怪研究家もそう思ったようで、この本自体が、
石燕の創作である可能性が指摘されています。
自分も、これは洒落でこしらえた存在しない本だと思います。

さて、「百々目鬼」の正体の一つ目は「盗癖と刑罰」です。だめだとわかっていても、
ついつい人の銭を盗んでしまうのが盗癖。現代でも、お金は十分持ってるのに、
スーパーで万引きしてしまうなどという話はよく聞きます。
一種の精神的な病気で、窃盗症という病名がついています。

江戸時代の銭は、真ん中に四角い穴が空いていて、
それが鳥の目に似ているので、鳥目(ちょうもく)と言われました。
江戸時代の窃盗は、ご存知の方もおられるでしょうが、10両以上を盗むと死罪、
それ以下は、入れ墨の上に追放となる場合が多かったようです。

入れ墨の刑罰


で、この腕の目は、窃盗犯の左腕に入れられた入れ墨を表している可能性があります。
また、わざわざ『函関外史』という本を出してきたのは、盗みをした者は
箱根の外に追放、所払いになるという意味があるのかもしれません。
ということで、人の銭を盗んだらそうなるんだよ、といういましめの内容です。

次に、「百々目鬼」の正体の2つ目は「皮膚病」です。
石燕の絵の上部に飛んでいる鳥は、目=眼(がん)=雁(がん かり)
なんじゃないかと思います。で、そのものずばり
「雁瘡 がんかさ がんそう」という皮膚病があるんですね。

「月に雁」歌川広重


これは湿疹性のもので、治りにくく、ひどいかゆみがあります。
渡り鳥の雁が飛来するころにでき、去るころに治る(癒える)ので、この名が
つけられました。俳句では「雁瘡癒ゆ がんそういゆ」というのは、秋の季語です。
「 雁瘡を 掻いて素読を 教へけり 」(高浜虚子)
腕に鳥の目のように皮膚病ができて、痒くて掻いている様子を表しているわけです。

まだあります。「百々目鬼」の正体の3つ目は「土留 どどめ」。
土留は、江戸時代だと、ゴロタ石を積んで、崖や岸辺などが崩れないように
するためのものでした。石燕の絵で、川べりが舞台になっているのは、
まず間違いなく、この土留を意識してのことです。

下に画像をあげておきますが、土留の丸石が並んでいる様子が、
絵の、腕に並んだ目に似ていると思いませんか。石燕は、詞書の最後に地名の話を
出していますが、「百々目鬼 どどめき」という地名の場所は、
この「土留」があることからきている場合が多いんです。

現代の土留


さてさて、ということで、「百々目鬼」とは、
「盗癖」 「皮膚病」 「土留」が複合した意味を持つ妖怪です。
石燕の妖怪画は、「さあどうだ、お前に これがわかるか?」という謎かけですので、
いわば、江戸の妖怪絵師と時空を隔てた勝負をしてるようなもんです。
ですから、かなり明快に読み解くことができると気分がいいんですね。
こういうことがあるから、石燕の妖怪研究は楽しいんです。では、今回はこのへんで。