百々爺と獣肉食

2018.03.14 (Wed)
またしても妖怪談義です。今回はこいつでいきます、
「百々爺 ももんじい」。石燕の絵を見てみましょう。
枯葉の中に枯れ枝を杖にした老人が立っています。
体は毛深く、その顔はどことなく獣じみているようにも見えますね。



詞書は長く、「百々爺未詳 愚按ずるに 山東に 摸捫ぐは(ももんぐは)
と称するもの 一名野襖(のぶすま)ともいふとぞ  京師の人 
小児を怖(おど)しめて 啼(なき)を止むるに 元興寺(がごし)といふ
もゝんぐはと がごしと ふたつのものを合せて もゝんぢいといふ 
原野 夜ふけて ゆきゝたえ きりとぢ風すごきとき 老夫と化して 
出て遊ぶ 行旅の人 これに遭へばかならず病むといへり」


訳すと、「百々爺についてはよくわからないが、愚考すると、関東で「モモンガ」
と言うものは、別名「のぶすま」とも言うというそうだ。京都の人は、
子どもをおどかして泣きやませるのに「ガゴシ」と言う。ももんじいは、
モモンガとガゴシの2つを合わせたものだ。野原の夜が更けて、
人が通らなくなり、霧と風が激しいとき、老人の姿となって外に出て遊ぶ。
旅人は、これにあうと必ず病気になると言われている。」こんな感じですか。

まず、「モモンガ」と「野襖」は、どちらも同じリス科の動物のことですね。
前脚から後脚にかけて張られた飛膜を広げて滑空することができます。
石燕には、別の妖怪画で「野衾」があり、下図のようなものです。
獣のくせに空を飛ぶのが珍しいので、妖怪のうちに加えられたのでしょうか。



後半は言葉の語源のようなことが書いてあります。京都の人は、子どもが泣くと、
「ガゴシが来るぞ」と言っておどかす。ガゴシは幼児語でお化けを表します。
で、百々爺は、モモンガとガゴシが合わさってできたものだろうか、
というわけです。しかし、自分は、このあたりの記述はあまり意味はないと考えます。
石燕は、本来の意味をごまかすために、あれこれ言ってるような気がしますね。

ずばり、百々爺は「肉食」を表してるんじゃないかと思います。
日本の獣肉食の歴史をざっとふり返ってみますと、仏教伝来までは、
獣肉は貴重なタンパク源として、普通に食べられていました。農耕は不作の年もあり、
狩猟・採集による食物の比重が、まだまだ高かったんですね。

それが、仏教の殺生戒という考えがだんだんに浸透していき、
『日本書紀』によると、675年、天武天皇は、農耕期間である4月~9月の間、
牛、馬、犬、猿、鶏を食べてはならないとする禁令を出しています。
ただし、獣肉食の中心である鹿と猪はのぞかれています。
これは、田畑を荒らす害獣であったせいもあるんでしょう。

鎌倉時代から武士の世になると、武士の間では獣肉は食べられていましたが、
殺生をなりわいにしている猟師が、その罪で地獄に落ちるなどの
仏教説話が広まり、また、屠殺業者、解体業者などへの差別も始まって、
だんだんに、武士の間でも獣肉食は禁忌とされるようになってきました。
 
1587年に豊臣秀吉が出した「バテレン追放令」には、
追放の理由の一つとして、西洋人宣教師が肉食することがあげられており、
牛馬の売買、屠殺、食することを禁止しています。
これは、江戸時代に入っても比較的よく守られていました。

17世紀には、徳川綱吉の、俗にいう「生類憐れみの令」によって、
殺生は厳しく禁じられましたが、それも江戸市中だけのことで、
地方では魚釣りなどは普通に行われていましたし、バカバカしいと思った
徳川光圀(水戸黄門)は、綱吉に、あてつけに犬の毛皮を送ったりしています。
「生類憐れみの令」のほとんどは、綱吉が死ぬとすぐに撤廃されました。

これが石燕の時代の百年ほど前の出来事です。石燕のころには、
表向きは獣肉食禁止でしたが、「薬喰い」と称して、滋養強壮を謳い文句に、
おおっぴらにではありませんが、獣肉を食わせる店もあったんですね。
それを「ももんじい屋」 「山くじら屋」などと言います。



山くじらは猪の隠語です。(ちなみに鯨は魚と考えられ、食べてもよかった)
また、猪は牡丹とも言われますが、これは花札の絵にかけられています。
また、鶏は柏、鹿は紅葉です。鹿の紅葉も花札になっていますが、
これはもともと、「奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」
という『古今和歌集』の猿丸太夫の歌からきています。



さてさて、ということで、百々爺は獣肉を食わせる「ももんじい屋」と
モモンガが合体したものでしょう。もう一度、石燕の絵に戻ってみると、
枯葉の中には、紅葉(鹿)がありますし、柏(鶏)に見えるものもありますよね。
これも、まず間違いがないんじゃないかと思います。

柏の葉


ただ、石燕が獣肉食についてどう考えていたのかはよくわかんないですね。
石燕の同時代人で、仏教が嫌いだった本居宣長は、その著書で、
古代の肉食はあたり前だったと考察していますが、百々爺の寂しげな様子や、
「旅人はこれにあうと病気になる」という詞書の内容から、
石燕は獣肉食には批判的だったのかもしれません。








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手の目と博打

2018.03.12 (Mon)
今回も妖怪談義でいきます。取り上げるのは「手の目」。
詞書はないですが、これは、そう難しくないですね。石燕の絵を見てみましょう。
ススキの野原に頭のハゲた、おそらく僧侶が立っていて、
(もしかしたら、目の不自由な座頭なのかもしれませんが)
その顔には目がありません。そのかわり、両手の平に目がついている。



江戸時代の、『百鬼夜行絵巻』によく似た絵(下図)がありますが、
これは、石燕の、手の目が入っている『画図百鬼夜行』より
100年ほど新しいものですので、こちらが石燕の絵を参考にしたのだろうと
思われます。石燕の絵は、背景にも重要な意味があります。



さて、手に目がある人物といえば、思いつくのは、
中国明代の伝奇小説『封神演義』に登場する楊任(ようにん)。
下図を見てもらえばわかりますが、両目から手が生え、
その手のひらにまた目がついた異様な姿です。これでも神像なんですね。



楊任は、殷の紂王に諫言したため、怒りを買って目をくり抜かれたんですが、
仲間の仙人によってこのような姿にされました。この像は台湾のもので、
楊任は道教の学問の神様として尊ばれています。石燕は当然、
『封神演義』は読んでいたでしょうから、参考にした可能性はあると思います。

さて、次に下図を見て下さい。花札の「坊主」です。
ススキの野原に大きな月が出ています。ススキは8月を表していて、
「坊主」は20点の役札。背景の構図が石燕の絵とよく似ています。
自分は、石燕はこの札を元にして「手の目」を描いたんじゃないかと考えます。



花札がいつの年代にできたか、はっきりとはわかりませんが、
花札の前身であるカルタ絵の中に、これがあったんだろうと思うんですね。
石燕の絵の、僧侶の坊主頭が満月にあたるわけです。
で、手の目に隠されたテーマは「博打」。

江戸時代はたいへん博打がさかんでした。もちろん江戸幕府は博打を禁止していて、
何度も禁令を出していますし、博打を訴えでた者には褒美を与えるとまでしています。
博打の主催者や場所を貸したものは流罪、客は家財没収や手鎖、
重叩きなどの刑を受けることになっていました。

博打は、勝負に負けたものが盗みや詐欺を働いて治安が悪くなりますし、
農村で博打のために土地を手放し、江戸に出てきて無宿人になるなど、
その弊害が大きく、幕府はやっきになって取り締まろうとしたんですが、
どうやっても流行を防ぐことはできなかったんですね。

その理由の一つとして、幕府の町奉行所の力がおよぶのは町家だけで、
武家は目付の管轄でしたし、寺社は寺社奉行の管理下でした。
そのため、武家屋敷や寺院などで、副業として賭場を開帳してた例は多く、
もしかしたら、石燕の絵は、そういう胴元になっている僧侶を
皮肉っている面もあるのかもしれません。

江戸時代の博打場の様子


さて、この絵には、たくさんの言葉遊びが含まれています。
まず、坊主頭は月を表していて、これは「ツキがある、ツキがない」にかかっています。
「坊主になる」という語は、「大負けして一文無しになる」という意味で使われ、
釣りで、まったく獲物がなかったことも「坊主」と言いますよね。

それから、目。「目がない」という慣用句は、
「まんじゅうに目がない」など、「とても好きだ」という意味の他に、
「物事のよしあしを識別する力がない」 「勝ち目がない」
などの場合にも使われます。「勝ち目がない」の目は、サイコロの目のことです。

それと、手もそうです。「いい手がくる」というのは、博打用語ですし、
そのものずばり「手目 てめ」というのは、
「いかさまをして自分に都合のよい目を出す」という意味です。
ですので、手に目があるこの妖怪はイカサマを表してもいるんですね。

さてさて、ということで、「手の目」は、博打に手を出して、
ツキがなくてすってんてんに負けた坊主が、今度はイカサマを覚えて賭場で
使ってみたものの、それがバレて袋叩きにあい、
半死半生でススキの生えた野原に捨てられた悲惨な姿、と読み解きます(笑)。
まず間違ってはいないでしょう。ということで、今回はこのへんで。

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百々目鬼の3つの正体

2018.03.09 (Fri)
さて、今回も妖怪談義をしつこく続けます。取り上げるのは、
「百々目鬼 どどめき」。これ、自分はほぼ完璧にわかりました。
ここまで読み解くことができるのは珍しいんですが、たくさんの内容が
何重にもかけられています。まず、下の石燕の絵をごらんください。



川べりの道のようなところに、布を被った人物が立っていて、顔はわかりませんが、
着物からすると女のようです。左の袖をたくし上げて腕を出していますが、
その左腕にはたくさんの目が並んでいます。あと、画面の左上に鳥が
2羽飛んでいますが、これらにはすべて意味があります。

詞書は、「函関外史(かんかんがいし)云(いわく) ある女 生れて手長くして
つねに人の銭をぬすむ 忽(たちまち) 腕に百鳥の目を生ず 
是(これ)鳥目(ちょうもく)の精也 名づけて百々目鬼と云(いう)
外史は 函関以外の事をしるせる奇書也 一説に どどめきは 東都の地名ともいふ」


訳してみると、「『函関外史』という本には、ある女が、生まれつき手癖が悪く、
いつも人の銭を盗んだので、腕に百も鳥の目ができてしまった、とある。
これは鳥目(江戸時代の銭)の精である。その名を百々目鬼と言う。
この『函関外史』は、箱根の関所の外のことを書いた珍しい書物である。
一説には、東のほうの地名に「どどめき」というのがあるらしい。」

鳥目(寛永通宝)


『函関外史』の「函関」は箱根の関所のことです。この名前の本は現存しておらず、
石燕が、わざわざ「奇書だ」と断っているあたりが怪しいですよね。
他の妖怪研究家もそう思ったようで、この本自体が、
石燕の創作である可能性が指摘されています。
自分も、これは洒落でこしらえた存在しない本だと思います。

さて、「百々目鬼」の正体の一つ目は「盗癖と刑罰」です。だめだとわかっていても、
ついつい人の銭を盗んでしまうのが盗癖。現代でも、お金は十分持ってるのに、
スーパーで万引きしてしまうなどという話はよく聞きます。
一種の精神的な病気で、窃盗症という病名がついています。

江戸時代の銭は、真ん中に四角い穴が空いていて、
それが鳥の目に似ているので、鳥目(ちょうもく)と言われました。
江戸時代の窃盗は、ご存知の方もおられるでしょうが、10両以上を盗むと死罪、
それ以下は、入れ墨の上に追放となる場合が多かったようです。

入れ墨の刑罰


で、この腕の目は、窃盗犯の左腕に入れられた入れ墨を表している可能性があります。
また、わざわざ『函関外史』という本を出してきたのは、盗みをした者は
箱根の外に追放、所払いになるという意味があるのかもしれません。
ということで、人の銭を盗んだらそうなるんだよ、といういましめの内容です。

次に、「百々目鬼」の正体の2つ目は「皮膚病」です。
石燕の絵の上部に飛んでいる鳥は、目=眼(がん)=雁(がん かり)
なんじゃないかと思います。で、そのものずばり
「雁瘡 がんかさ がんそう」という皮膚病があるんですね。

「月に雁」歌川広重


これは湿疹性のもので、治りにくく、ひどいかゆみがあります。
渡り鳥の雁が飛来するころにでき、去るころに治る(癒える)ので、この名が
つけられました。俳句では「雁瘡癒ゆ がんそういゆ」というのは、秋の季語です。
「 雁瘡を 掻いて素読を 教へけり 」(高浜虚子)
腕に鳥の目のように皮膚病ができて、痒くて掻いている様子を表しているわけです。

まだあります。「百々目鬼」の正体の3つ目は「土留 どどめ」。
土留は、江戸時代だと、ゴロタ石を積んで、崖や岸辺などが崩れないように
するためのものでした。石燕の絵で、川べりが舞台になっているのは、
まず間違いなく、この土留を意識してのことです。

下に画像をあげておきますが、土留の丸石が並んでいる様子が、
絵の、腕に並んだ目に似ていると思いませんか。石燕は、詞書の最後に地名の話を
出していますが、「百々目鬼 どどめき」という地名の場所は、
この「土留」があることからきている場合が多いんです。

現代の土留


さてさて、ということで、「百々目鬼」とは、
「盗癖」 「皮膚病」 「土留」が複合した意味を持つ妖怪です。
石燕の妖怪画は、「さあどうだ、お前に これがわかるか?」という謎かけですので、
いわば、江戸の妖怪絵師と時空を隔てた勝負をしてるようなもんです。
ですから、かなり明快に読み解くことができると気分がいいんですね。
こういうことがあるから、石燕の妖怪研究は楽しいんです。では、今回はこのへんで。







川赤子とヒルコ

2018.03.08 (Thu)
またしても妖怪談義です。前に、「油赤子」を取り上げたので、
今回は「川赤子 かわあかご」でいきたい思います。
さて、どのくらいのことが書けますでしょうか。



石燕の絵は、上部が川の流れ。下部の左側に、水生植物が生えていて、
その中に泣いているように見える醜い幼児がいます。
下部の右側には、筏と釣り竿、魚籠がありますね。
これらにもすべて意味があるはずですが、うーん、どうでしょう。

水木しげる先生によれば、川赤子は「赤ん坊の泣き声を出して人をだます。
可哀そうに思った人間が、赤ん坊を助けようと近づくと、
別の方向から鳴き声を上げ、助けようとした人は、川辺をあちこちさまよい、
最後は足をすくわれて水に落ちる。」という怪異のようです。
ただ、はっきりした民間伝承はないので、
石燕の創作した妖怪である可能性が高いでしょう。

詞書は、「山川の もくずのうちに 赤子のかたちしたるものあり
これを川赤子と いふなるよし 川太郎 川童の類ならんか」

意味はわかりやすいですね。山川のゴミ、塵芥などが集まって、
赤子の形をしたものができることがあると言われる。
川太郎、川童の類いなのだろうか。「川太郎・川童」はどちらも河童の別名です。

まあ、これを子どもの河童とすれば、話は簡単ですが、
もう少し考えてみましょう。まず、左手前にあるのは、
イモ類の水生植物のようです。これ、もしかしたらクワイかもしれません。
クワイはオモダカ科の水生多年草で、漢字で「慈姑」と書きます。

一つの根にたくさんの塊茎がつくその姿が、子供を慈しみつつ哺乳する母(姑)
のように見えることからつけられたと言われています。
もしかしたら、これは「赤子」というのにかけられているのかもしれません。
ちなみに、自分はゆでたクワイはけっこう好きです。

クワイ
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あとは、釣り竿で思いつくのはエビス様です。
エビス様は漢字で「恵比寿様」と書き、七福神の一人で、右手に釣り竿を持ち、
左脇に鯛を抱える姿で描かれることが多いですよね。
関西では「えべっさん」として親しまれ、漁業・商業の神と考えられています。

で、エビスは漢字で「蛭子」と書く場合もあって、
これは「ヒルコ」とも読まれ、『古事記』では、イザナギとイザナミの二神から
最初に生まれたんですが、子作りの際に、女神であるイザナミから先に、
男神のイザナギに声をかけた事が原因で、不具の子に生まれたため、
葦の舟に入れられオノゴロ島から流されたことになっています。

最初に生まれた神が不具であったとする神話は、
東南アジアの各地に見られ、それが日本に伝わってきたのではないかと
考えられています。ヒルコはエビス様と、室町時代頃までに結びついて、
同一視されるようになりました。漂着物の神、水の神とされることが多いようです。

『妖怪ハンター』のヒルコ


では、「川赤子」はヒルコなのか。その可能性はあると思います。
つまり、川に流された赤子ということですね。
自分はインドで、ガンジス河を船で下ったことがあるんですが、
そのとき、何重にも布でくるまれた幼児らしい死体が
川に浮いて流されているのを見ました。江戸時代の石燕の頃にも、
そういうことがあっても不思議ではないと思います。
「エビス様」というのは、水死体の隠語としても使われていますね。

さてさて、川赤子は、何かの事情で川に流された
赤ん坊の死体ということなのかもしれません。ただ、筏がよくわかりません。
もし何かおわかりの方がいれば、コメント欄に投稿していただければ
ありがたいです。で、こっからは無理にこじつけてまとめます。

日本神話には、少彦名(スクナヒコナ)という神がいて、
体はとても小さく、ガガイモの実の船に乗って海の彼方からやって来て、
大国主命の国造りを手伝ったことになっています。
これが何か関係があるでしょうか。まあ、たぶんないでしょう。
でも、大国主命は大黒様とも言いますよね。ということで、
最後に、恵比寿、大黒がそろって、めでたい話の終わりかたになりました。

大国主と少彦名








天井嘗と家の造作

2018.03.07 (Wed)
またまた妖怪談義です。今回取り上げるのは「天井嘗 てんじょうなめ」
ついこの前、「天井下がり」をやったので、その続きみたいなもんですが、
おそらく今回は、妖怪ともオカルトとも関係のない話題になっていくと思います。
ですから、スルー推奨かもしれません。

さて、「天井嘗」は、妖怪絵師、鳥山石燕の作品ですが、石燕には、
『画図百鬼夜行』1776年、『今昔画図続百鬼』1779年、
『今昔百鬼拾遺』1781年、『百器徒然袋』1884年と、
4つの妖怪画集があり、「天井嘗」は最後の『百器徒然袋』に出てくる妖怪です。

『百器徒然袋』は、石燕が亡くなる4年前の作品なんですが、大きく3つの
特徴があります。① 付喪神(つくもがみ)・・・器物の妖怪が多い。
② 「徒然袋」と題にあるとおり、詞書に、兼好法師の鎌倉時代の随筆『徒然草』が
引用されているものが多い。③ 詞書の最後に「夢のうちにおもひぬ」
と書かれていて、石燕が夢で見た、つまり創作した妖怪がほとんどであること。



さて、このことを頭に入れて絵を見てみると、襖絵の前で、上半身裸の
異形のものが、長い舌を伸ばして天井をなめようとしています。
ただこれ、自分は、読み解くのはそんなに難しくないと思っています。
詞書は、「天井の高(たかき)は 燈(あかり)くろうして 冬さむしと言へども 
これ家さくの故にもあらず まつたく此(この)怪のなすわざにて
ぞつとするなるべしと 夢のうちにおもひぬ」

訳すと、「天井の高いのは、灯りが暗く冬に寒いというが、これは家の造作の
せいではなく、この妖怪のせいだと思えばぞっとすると夢の中で思った。」
で、結論から言いますと、この妖怪の正体は「火の明かり」です。
絵をよく見ると、妖怪のまわりに点描で炎の形がまとわりついています。

それと、妖怪の肩や腰のまわりに、ひらひらした紙束のようなものが
たくさんついていますが、自分はこれ、江戸時代の火消しが持っている
纏(まとい)を表していると思います。纏は、屋根に登った火消しが
目印として消火活動を指揮するものであり、
実用的には、火の粉を払って延焼をふせぐ役割もありました。

火消しの纏


ですから、この妖怪は、夜になった暗い家の中で、行灯やロウソクの火が、
天井に伸びていく様子を表しているんだと思います。「嘗 なめ」は「なめ尽くす」
という慣用句からきていて、「(炎を舌にたとえて)建物などを全部燃やす」こと。
これ、けっこう自信があります。さて、この詞書には、上記した『徒然草』の
第55段が引用されています。有名なので、ご存じの方が多いでしょう。

「家の作りやうは 夏をむねとすべし 冬は いかなる所にも住まる
暑き比(ころ)わろき住居は 堪へ難き事なり 深き水は 涼しげなし
浅くて流れたる 遥かに涼し 細かなる物を見るに 遣戸(やりど)は
蔀(しとみ)の間よりも明し 天井の高きは 冬寒く 燈暗し
造作は 用なき所を作りたる 見るも面白く 万(よろず)の用にも
立ちてよしとぞ 人の定め合ひ侍りし」
(『徒然草』第55段)

これも訳すと、「家の造りは、夏を中心に考えるべきだ。冬はどんなところにも
住める。暑い時期によくない住居は、耐え難いものだ。深い水は涼しげではない。
浅くて流れている水のほうがずっと涼しい感じだ。細かな物を見るには、
遣戸は蔀の部屋より明るい。天井が高いのは、冬に寒いし灯りも暗くなる。
家の造作は、特に用もないところを工夫して作っておくと、
見た目にも面白いし、いろいろな役に立つものだと、人々が評し合った。」

蔀戸と遣戸
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さて、この兼好法師流の生活の知恵から、現代でも、「家は夏向きに作ったほうがよい」
と言う人がいます。でもこれ、本当にそう言っていいのか、
自分には大きな疑問があります。というのは、
まず、兼好法師は京都・大阪在住であったということ。

京都は盆地で夏は暑いでしょうが、冬は豪雪地帯でもないし、
それほど気温も下がりません。鎌倉時代でも氷点下になることは
少なかったでしょう。冬が比較的楽な地域に住んでいたから、
こういうことが言えたんじゃないでしょうか。

それと、兼好法師は独り身で、小さな庵に住んでいましたので、
現代の一軒家に家族が住んでいるのとはわけが違います。それこそ、天井の低い
せまい部屋で炭火を起こして、夜具をたくさん重ねてかぶっていれば、
そんなに寒くはなかっただろうと思うんですね。

鴨長明『方丈記』の庵


あと、これは言う人がほとんどいないんですが、自分は、『徒然草』のこの段は、
唐の詩人、白居易(はっきょい 白楽天)の「香炉峰の雪」の詩を
下敷きにしていると考えます。下のとおり、
この詩には、「小 閣 重 衾 不 怕 寒」の一句があります。

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意味は、「小さな部屋で、布団を何枚も重ねて着ていれば寒くはない。」
この詩は、閑職に追いやられた白居易が、その暇を楽しんで風雅に暮らしている
様子を表したもので、兼好法師には、同じく世を捨てた自分の境遇を、
白居易に重ねている面があるんじゃないかと思うんですね。

さてさて、ということで、兼好法師のこの文章を引用して、
「家は夏向きに作るべきだ」とするのは、ちょっと待ったほうがいいでしょうね。
予想どおり、妖怪ともオカルトとも関係のない話になってしまいました。
では、今回はこのへんで。