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大奥の開かずの間の話

2020.07.10 (Fri)


今回はこういうお題でいきます。カテゴリは妖怪談義で、さすがに
これは怖い日本史には入れられません。さて、大奥とは江戸城内に
存在した徳川将軍家の正室、側室、奥女中らの居場所です。
基本的に男子禁制とされましたが、将軍家の男の子はいたはず
ですし、修理や物品の搬入でも男性は入ってました。

一般に、武士の家屋は表と奥の区別があって、これは場所の区別で
あるとともに役割の区別でもあります。江戸城の場合、表は儀礼や
政治を行うところで、奥が将軍家の日常性格のための場所。ちなみに、
大奥という呼称が定まったのは第5代将軍綱吉の頃とされます。
今でも、ここからきた「奥さん」という言葉を使いますよね。

テレビドラマだと、大奥の女中たちの複雑な人間模様が
描かれることが多いですよね。女中たちは最盛期で1000~
3000人もいたとされ、大奥の最高権力者である
「御年寄」から下働きの下女にいたるまで、
厳しい身分の上下がありました。

江戸城大奥の間取り
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それに春日局のような御乳母という存在もからんできます。
女性だけでその人数が暮らしているわけですから、
さぞやドロドロしたものがあっただろうと想像がつきます。
あ、また筆が滑ってますね。大奥については、いろんな
サイトで解説がありますので、

怪異にしぼって話を進めていきます。まず、身投げする
井戸。ある武家の娘が大奥に奉公に出されましたが、
仕えていた御年寄にさんざんにイジメられ、実家に
戻ろうとしても、家にいる継母がそれを許さない。
そのため、女中は井戸に身を投げて死んでしまいます。



それからなんと、短期間のうちに12人もの女中が身投げを
したんです。大奥がある江戸城本丸には17ヶ所、
西の丸には10ヶ所もの井戸があるのに、女中たちが
身を投げたのはすべて同じ井戸だったんです。

いったん身投げしたものの助け上げられた女中がいて、
話を聞くと、その井戸のそばに寂しそうにたたずんでいる
女性がおり、どうしたのかと近づいていくと、いつのまにか
井戸に落ちていたと話します。このため、その井戸は夕刻に

徳川家慶
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なると蓋をするようにしたんですが、それでも身投げは
おさまらない。で、ついにはその井戸はつぶされてしまいます。
女中たちは、最初に身を投げた女の怨霊が仲間を呼んでいるのだ
と噂し合い、たいそう気味悪がったということです。

さて、ここからの内容は、明治から昭和初期にかけての
江戸文化、風俗の研究家である三田村鳶魚の著作から取り上げた
ものです。まあ、眉唾な話だと思って聞いて下さい。
幕末の1853年、第12代将軍家慶が大奥の廊下を歩いて
いると、「宇治の間」と呼ばれる部屋の前に、

三田村鳶魚
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黒紋付を着た老女が平伏しています。不審に思った家慶は、
おつきの中臈たちに、「あれは何者か」と問いますが、中臈には
その女は見えません。ですが、将軍に向かって「何もいません」
とは言えず、てきとうに答えたんですが、それからまもなくして、
家慶は熱中症によるとみられる心不全で急死してしまうんです。

年齢は60歳でしたので、江戸時代では長命なほうです。
では、この家慶が見たという老女はいったい何者なのか。
じつは宇治の間は、ある事情があって閉鎖されていた、
いわゆる開かずの間だったんです。家慶から150年ほど前、
上で少し名前が出た、第5代綱吉の時代のことです。

徳川綱吉


綱吉と言えば、生類憐れみの令を敷いたことで有名ですよね。
それと、側用人である柳沢吉保を重用し、吉保は異例の出世を
重ねていきます。吉保には染子という側室がいましたが、
綱吉はその女性にたいそう目をかけていました。

綱吉の正室、御台所である(鷹司)信子はそのことを気にして
いましたが、染子は大奥外にいてどうにもなりません。
そうしているうち、綱吉は継嗣として決定していた綱豊を廃嫡し、
なんと、表向きは柳沢吉保の子である吉豊を継嗣にすると
言い出します。吉豊は将軍家の血筋ではないので、

開かずの間のイメージ
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ありえない話なんですが、後を続けます。信子は何度も綱吉を
説得するものの埒が明かず、ついに綱吉を宇治の間に呼んで
懐剣で刺してしまいます。綱吉は逃げ出そうとしたものの、
その間に控えていた御年寄(伊豆局)に抱きとめられ、さらに
刺されて絶命。その後、信子も御年寄も後を追って自害します・・・

そんなわけはないですが、世間がこの噂を信じてもてはやした
のも記録に残っています。おそらく、生類憐れみの令などの
悪法が民衆の恨みを買っていたせいでしょう。幕府の発表では、
綱吉は成人麻疹によって亡くなったとされ、64歳でした。

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ただ、信子が綱吉の死後ひと月もたたないうちに亡くなったのは
事実で、やはり流行中の麻疹だったとされます。まあ、
さすがに綱吉が正室に殺されたというのは信じがたいですよね。
家慶が見た老女は、宇治の間にひそむ御年寄の亡霊なんでしょうか。

さてさて、ということで大奥の怪異を見てきましたが、
この他にも、大奥の床下には「おたん狸」という狸が棲んでいて、
(おたんは「お頼み申します」の略)さまざまな形で女中たちを
化かしたとも言われます。では、今回はこのへんで。





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蓑火と貧困

2020.07.01 (Wed)
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天明の大飢饉で人肉を食べる様子

今回はこういうお題でいきます。妖怪談義になります。
うーん、これ、かなり難しそうです。おそらく、わかったような
わからないような内容になるような気がしますので、
スルーされたほうがいいかもしれません。

蓑(みの)は昔の雨具ですよね。稲わらを束ねたものなので、
日本全国どこでも使われていたはずですが、この妖怪は
Wikiには、近江国(滋賀県)の彦根、琵琶湖畔に伝わる怪異と
出てきます。そのことに何か意味があるんでしょうか。

どんな怪異かというと、5月の梅雨の夜などに、琵琶湖を人の
乗った舟が渡ると、その者が雨具として身に着けている蓑に点々と、
まるでホタルの光のように火の玉が現れる。蓑をすぐに脱げば
蓑火も消えてしまうが、うかつに手で払いのけようとすると、
どんどん数を増し、星のまたたきのようにキラキラと光る。

鳥山石燕「蓑火」
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これだと何かの自然現象のようにも思えますよね。現代だったら
静電気という説が出てくるんでしょうが、雨の日の野外で静電気が
起きるというのもどうでしょう。ガス説というのもあって、明治の
哲学者で、妖怪研究家であった井上円了博士の著書に出てきます。

ですが、井上博士の考察はそこで止まっていて、ガスならば
何のガスなのか、どうして自然発火するのか、なぜ熱くないのか
などの疑問に答えてはいません。ちなみに、人魂は土葬の死体から
しみ出したリン成分が燃えるものであるという話もありますが、
化学的にはちょっと考えられないと思います。

井上円了博士
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さて、この妖怪、幸いにして詞書がありますので、読んでみましょう。
「田舎道などに夜な夜な火が見ゆるは多くは狐火なり。
この雨に着る田蓑の島と詠みし蓑より火の出しは陰中の陽火か。
または耕作に苦しめる百姓の臑(すね)の火なるべし」
ね、わけわかんないですよね。「田蓑の島」って何ですか?

「詠みし」とあるからには歌の一節だと考え、調べてみたら
世阿弥が改作した謡曲『蘆刈 あしかり』に出てくる地名のようです。
『蘆刈』の筋は、ある男が貧困のために妻と離別した。妻はその後、
京都の貴人の乳母となり、裕福になった。その妻が車でもと住んで
いたあたりを通りかかると、泥まみれで蘆を刈っている男がいる。

それが零落した昔の夫であることに気づき、2人は歌を詠み交わす・・・
といった話です。「雨に着る 田蓑の島も あるなれば 露も真菅の笠は
などかかるらむ」これが引用されてるんでしょう。「田蓑の島」は現在の
大阪北区の地名で、歌枕(歌の題材とされる土地)の一つになっており、

蓑笠をつけた人
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蓑という言葉から、雨を詠んだ内容が多いようです。この話はもともと
『今昔物語』などに出てきていて、原話では、再会した夫婦は
身分違いのためふたたび別れてしまうんですが、世阿弥は、2人が
もとの鞘に収まるというハッピーエンドにつくり変えています。

ただ、上記したように、蓑火は近江の国の怪異であって、大阪とは 
場所が違います、うーん。ここでヒントとなるのが「臑(すね)の火」の
部分です。現在では使われなくなりましたが、「臑から火を取る・
臑から火を出す」という慣用句があって、「火打道具がなくて、
臑を打ちつけて火をつけるほどの貧乏」こんな意味です。

ですから、蓑火は『蘆刈』に出てくる夫のような、貧乏を象徴した妖怪
なんだろうと思います。蘆はどこにでも生えてますよね。
大阪の難波潟にもあれば、琵琶湖畔にもあったでしょう。
そう考えて石燕の絵を見ると、これは田んぼの情景のようです。

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田んぼの畦道に蓑笠、それと農具の鍬が置いてあり、火が出ています。
後ろのほうには鳥を追う仕掛けのようなのが見えますね。
この絵は、1781年の『今昔百鬼拾遺』に出てきますが、これは、
江戸の四大飢饉のうちの天明の大飢饉が始まる前年にあたります。

ということで、蓑火とは冷害による不作、そして重い年貢に
苦しむ百姓の怨念がこもった火の妖怪と読み解きます。
あ、少しスペースがあまりました。詞書にある「陰中の陽火」に
ついて解説しましょう。中国の陰陽五行説から来たものです。

五行とは「火・水・木・金・土」で、それぞれ陰陽が決まって
るんですが、火だけは陰火と陽火の2種類があります。陽火は
ふつうの火のことです。陰火は、中国の薬学書『本草綱目』に、
「陰火は草木を焼かず、鉱物を清める。湿気があるとさらに燃え、
水に出会うとますます盛んになる」と出てきます。

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狐火、鬼火、それにこの蓑火、あるいは金銀の輝きなども
陰火の仲間であるとされます。色は青白かったり金色だったり
しますが、赤になることは稀です。大きさはロウソクの火程度から、
人間の大きさにまでなることがあり、現れる時期は春から秋にかけてで、
特に蒸し暑い夏、どんよりとした天気の日に現れやすいということです。

さてさて、この内容でほぼ間違いない気がします。『封神演義』に
商の紂王と妲己が、面白半分に貧しい百姓の老人と孫の男の子の
足を切って臑の骨を見たという話が出てきていて、石燕ならその
逸話も知っていただろうと思います。では、今回はこのへんで。

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中国の悪い妖怪

2020.06.01 (Mon)

古代中国の牛身の神、蚩尤

今回はこういうお題でいきます。妖怪談義です。過去記事で、
中国の幽霊、悪神、僵尸(キョンシー)などについて
取り上げてきましたが、妖怪については今回が初めてです。
では、中国の妖怪にはどのような特徴があるでしょうか。

まず、たいへんに数が多いということ。ざっとみても、千ちかくは
あると考えられます。日本も妖怪の数は多い国なんですが、
その何倍もあるでしょう。理由は簡単で、中国は歴史が古く、
国土も広く、少数民族もいますよね。各時代、各地域、
各民族の伝承が渾然一体となったのが中国の妖怪です。

次に、これは日本もそうなんですが、神、妖怪、幽霊、仙人の
区別がひじょうにありまいであること。例えば、黄帝と戦った
蚩尤(しゆう)という存在がいますが、神と見ればいいのか、
妖怪なのかはっきりしません。また、仙人の中にも、鳥のような
姿で翼があったり、両目が飛び出しているようなものもいます。

仙人、楊任
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さて、現代の中国は共産党支配下ですので、基本的に、
映画やテレビドラマに幽霊を出すことは禁じられています。
死後の世界や死者の怨念など、はっきりした根拠のないものは
国民に悪影響を与える悪い文化というわけです。

そのかわり、歴史劇で妖怪を出すのはかまわないんですね。
孫悟空などは、中国文化のヒーローとなっていて、
北京オリンピックのプロモーションにも登場しました。
ところで、孫悟空って妖怪なんでしょうか。もともとは
そうですよね。悪い猿の妖怪。

孫行者、別名、斉天大聖
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それが、三蔵法師の弟子にされて仏教修行者となりました。
そのため、中国では「孫行者」と呼ばれることが多いんです。
それにしても、もったいないと思うのは、中国には才能ある
映画監督が多数いるのに心霊映画がつくれないこと。もし
やれば、きっと怖いものができると思うんですが。

さて、こんなことを書いていると終わってしまうので、
「悪い妖怪」に話を進めたいと思います。妖怪のでき方には
いろいろあるんですが、一つは、人間に害をもらたす存在を
妖怪の姿で現したもの。具体的には、疾病や自然災害ですが、
今回は特にこれを取り上げていきます。

縊鬼 この絵は女性のようです
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まずは縊鬼(いき)。中国では人は死ねば冥界に行きますが、
冥界の人口は一定数に定められているので、死者が別の者に
生まれ変わろうと思った場合、現世に出て代わりのを一人
連れてこなくてはなりません。そこで、生者にとり憑いて首を吊らせる。

自殺の原因は、病苦、借金苦、人間関係などさまざまですが、
特にこれといった理由がないのに、ふっと首を吊りたくなる。
そういうときは縊鬼にそそのかされたと考えられます。まあ、
実際には心身症や鬱病などが多いんだと思いますが、妖怪の
せいとされました。縊鬼は別名、吊殺鬼とも言います。

疫鬼(えきき)、疫病を流行らせる鬼です。古代中国の帝の
一人である顓頊(せんぎょく)の子どものうち、3人が
疫鬼になったと古い書物に出てきます。日本の節分は、
もともとは中国から伝わった追儺(ついな)という行事で、
豆をぶつけられるのは疫鬼なんです。

瘧鬼をこらしめる鍾馗様 現代の絵なのでマスクをしています
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また、鍾馗様という道教系の神がいますが、唐の玄宗皇帝が
瘧(おこり)の病にかかったとき、夢の中に剣を持った
大男が現れ、疫鬼を退治しました。玄宗皇帝の病はすっかり
癒え、その者のことを調べると、科挙に不合格になったため
自殺した鍾馗という人物であることがわかります。

ここで、瘧の病を起こしていたのは瘧鬼(ぎゃくき)です。
瘧は間欠的に熱が出る病気で、おそらくマラリアのことだと
推定されています。中国では、瘧にかかった者は、発作が
起きる前に道観や廟などに避難して、瘧鬼が家を訪れるの
から逃れる「避瘧」という風習が行われていました。


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自然災害もまた悪い妖怪としてとらえれられます。
例えば、魃(ばつ)というのは旱魃の妖怪と考えられました。
黄帝の娘で体に大量の熱をたくわえており、その現れるところ、
たちまち大旱魃になってしまいます。

また、魃のために死んだ人間は、体がカラカラに乾いて
腐らず、そのまま埋葬すると殭屍となって蘇るため、
必ず火葬にする。もし殭屍が現れた場合は、黒犬の血や、
男児の尿をかける、生の餅米をぶつけると退散するとされ、
この設定は映画の『霊幻道士』で使われています。

キョンシー 実体があるのでゾンビに近いものです
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あ、もうスペースがなくなってきました。暴風雨の害は
雨師、風伯が起こすとされ、蚩尤の配下で暴れましたが、
これを倒したのが、上記の魃なんです。これらの中国の妖怪は
日本に伝わり、その過程で日本的に変化して今に
残っているものが多いんですね。

例えば、産鬼(さんき)は中国の妖怪で、難産で死んだ女がなり、
産婦の出産を妨げたり殺したりします。これと、やはり中国の
姑獲鳥(こかくちょう 子どもをさらう鳥の妖怪)が結びついて、
日本の妖怪産女(うぶめ)になったという具合です。
では、今回はこのへんで。

雨師と風伯
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化鯨とオオムカデクジラ

2020.05.24 (Sun)
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今回は妖怪談義です。取り上げるのは化鯨(ばけくじら)。
これは骨鯨とも言い、かの水木しげる御大も描いています。
ただこれ、結論の出る話ではないので、あっちこっちを
さまよったあげく、まとまったことは言えないで終わると思います。

まず、伝承を見てみましょう。出雲の国とありますから、
現在の島根県で、神話の里として有名ですよね。
当時はまだ日本海でもクジラ漁が行われており、
島根半島沖は漁場として知られていました。

ある雨の夜、沖合いから大きくて白い何者かが海岸へと
近づいてきた。漁師たちが眼を凝らして見ると、どうやら
それはクジラらしいとわかったので、みなこぞって
舟を漕ぎ出していつもの漁にかかったが、いくら銛を
投げ込んでもその獲物はビクともしない。

スコロペンドラ、一説にはガレー船の比喩とも言われます
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不思議に思ってよく見れば、獲物と映っていた大きな
体はただ白い骨ばかりのヒゲクジラで、皮や肉はどこにも
見当たらなかったという。そのうち、あたり一面は奇妙な
姿の魚で満ち溢れ、さらには妖しげな鳥までが
目の前に現れたが、潮が引くにつれ、

それらははるか沖の彼方へと去って行った。漁師たちはこの怪を、
死んだクジラが怨霊となって現れたものだろうと噂し合った。
だいたいこんなお話です。クジラ目はヒゲクジラとハクジラに
分けられるのはご存知だと思います。ヒゲクジラは歯がなく、
そのかわりにプランクトンを濾し取るヒゲを持っています。

マッコウクジラとナガスクジラの骨格
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シロナガスクジラ、セミクジラ、ニタリクジラ、イワシクジラ
などがいます。生きている骨だけのクジラというのは
信じがたいような話なんですが、普段からクジラ漁を行っている
漁師たちが、他のものと見間違えることはないと思います。

うーん、何から書いていきましょうか。これは妖怪というより
UMAなんですが、「オオムカデクジラ」というのがあります。
側面や背中に多数のヒレがあるとされている海棲生物で、
ムカデのように体がいくつもの体節に分かれ、その両側に
ヒレがついている。クジラの仲間かどうかもわかりません。

ベトナムのUMA コン・リット
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世界各地で目撃例があり、大きなものはシロナガスクジラの
最大個体ほどにもなるという話もあります。
古代ギリシアではスコロペンドラ、ベトナムではコン・リットと
言うようですが、同じ種類を指しているかも不明。

また、日本では、本草学者の南方熊楠が、貝原益軒が編纂した
『大和本草』に出てくるムカデクジラが、スコロペンドラのこと
ではないかと考察しています。ベトナムでは、1883年、
硬い外皮に覆われたシーサーペントの死体がアロン湾で
発見されたという話が残っていますね。

海岸に打ち上げられたクジラの骨
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目撃者のトラン・ヴァン・コンは、死体の全長は18mほどあり、
全体にわたって60センチの間隔で甲殻の体節があったと
証言。それぞれの体節には一対の突起がついていて、
70cmの長さがあった。この話、もし本当ならクジラとは
思えませんよね。体節が30個もあったことになります。

まさにムカデです、うーん。ただ、これが絶滅種の巨大生物
だとしても、それらしい化石は発見されていません。
バシロサウルスやモササウルスの化石は見つかっているのに、
不自然な気がします。半分腐ったクジラが脊椎を
むき出しにして流れてきたもの。

海底のクジラの骨と、それを食べるタコの仲間
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あるいは、海岸に打ち上げられた死体が骨だけになったのを
発見し、やはり脊椎と突起がムカデのように見えた・・・
しかし、これが化鯨の正体とは思えないですよね。
クジラ漁師なら鯨の骨は見慣れたものだったはずです。

次に、恵比須様について。恵比寿は蛭子(えびす)とも書き、
漂着物を表します。日本神話で、イザナギとイザナミの最初の子が
不具の蛭子・蛭児(ひるこ)だったので、葦の船に乗せて
流してしまったことから来ています。で、昔から海岸にクジラ類が
打ち上げられるストランディングは知られていました。

流される蛭子
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そういうクジラは、寄り鯨や流れ鯨と呼ばれ、日本では
海からの恵みと考えられることが多かったんです。
クジラが座礁する原因はいろいろ考えられます。ハクジラ類は
超音波を用いて行動しますが、それが何かの原因で狂った。
近年は軍事用潜水艦のソナーの影響とも言われます。

この寄り鯨が化鯨と何か関係があるのか? でも、寄り鯨は
「寄り神信仰」のもとになっていて、クジラの怨霊とは
正反対のものです。やはり化鯨はたくさん獲られた鯨が
化けた純妖怪なんでしょうかねえ。

古生代の最大種のヤスデ アースロプレウラ この化石は60cmほど
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さてさて、ということで、まったく目処が立たないまま
お時間になってしまいました。自分ながらモヤモヤする内容です。
もしみなさんの中で、化鯨あるいはオオムカデクジラについての
情報をお持ちの方はコメントでご教示いただけたら幸いです。
では、今回はこのへんで。





瀬戸大将と『三国志演義』

2020.05.18 (Mon)
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関雲長

今回は妖怪談義です。取り上げるのは「瀬戸大将 せとたいしょう」。
付喪神、器物の妖怪の一種ですね。この絵が出てくるのは
1788年の『百器徒然袋』で、描かれるのはほとんどが
付喪神。実際の伝承はない石燕の創作妖怪です。

絵を見ると、頭が壺、背中に大きな急須をしょった妖怪が
破損した材木の前に立っていて、体は大皿や小皿、鉢で
できているようです。急須は母衣(ほろ)なんでしょうか。
母衣というのは、背後からの矢を避けるための武具です。

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それにしても全身が瀬戸物なので、ちょっと戦うと割れて
しまいそうですよね。強いんだか弱いんだかよくわかりません。
ただこれ、アルチンボルドの絵のようで、
石燕も描いてて楽しかったんじゃないかという気がします。

詞書は、「槊(ほこ)をよこたへて詩を賦(ぶ)せし
曹孟徳(そうもうとく)に からつやきの からきめ見せし
燗鍋(かんなべ)の寿亭侯(じゅていこう)にや。
蜀江(しょくこう)のにしき手を着たりと、夢のうちにおもひぬ」
うーん、『三国志演義』が引かれているようです。

武具の一つである母衣
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曹孟徳は、曹操と言ったほうがとおりがいいでしょう。
三国時代の魏の王で、『三国志演義』では悪役です。
曹操は武将というだけではなく優れた詩人としても有名で、
中国詩における重要人物ですが、それが最初の
「槊(ほこ)をよこたへて詩を賦せし」なんですね。

「からつやきの からきめ見せし 燗鍋の寿亭侯にや」の部分は、
「からつやき」は唐津焼で、産地名をつけた陶磁器の一種です。
「か」で韻が踏んであるようで、このあたりは冒頭の
漢詩のことと関係があるんでしょう。

アルチンボルド 野菜でできた顔
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寿亭侯(じゅていこう)は三国時代の蜀漢の武将、関羽のことで、
後漢から贈られた封号ですね。関羽はご存知だと思います。
蜀の劉備に仕え、『三国志演義』では義兄弟の契りを交わした
ということになっています。ただ、関羽は美髯公(びぜんこう)
という呼び名があり、長いあごひげで有名ですが、

この絵にひげはありません。身長は9尺(216cm)。
関羽は死後、道教の神の一柱に祀られています。中華街の関帝廟に
行かれたことがある方も多いと思いますが、商売の神様として
信仰されているのは、義理堅く、約束を守る人物としての
評価が高かったからです。

さて、『三国志演義』での曹操と関羽の関係は微妙です。
曹操は関羽を武人として高く評価しており、たびたび自分の配下に
しようと誘っており、1日千里を駆ける名馬、赤兎(せきと)を
与えたりしています。また、関羽もその恩義を感じてか、

曹孟徳
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赤壁の戦いに敗走した曹操を待ち伏せるが、憔悴した曹操を
見かねて見逃してしまいます。このことを諸葛亮にとがめられ、
死罪を言い渡されるものの、劉備のとりなしで事なきを
えます。もちろん、このあたりは創作であって
史実ではありません。

関羽といえば怨霊話もありますよね。関羽は呉の孫権の軍に敗れ、
捕虜となって斬首されます。このとき、関羽捕獲に第一の手柄の
あった呂蒙に酒宴の席で乗りうつり、「我こそは関雲長なり」
と大喝。祝宴に列席していた一同が顔色を変えて平伏すると、
呂蒙はばったりと倒れ、全身の穴から血を流して死ぬことになります。

現代の唐津焼
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さて、石燕の絵では、この関羽が瀬戸焼の大将で、曹操が
唐津焼の大将ということのようです。瀬戸焼は「せともの」の     
一般名称のもとになった焼物で、日本六古窯の一つ。
愛知県瀬戸市とその周辺で生産されています。
5世紀頃からすでに須恵器などが作られていました。

一方、唐津焼はそこまで歴史は古くありません。近世初頭から
肥前国(現在の佐賀県および長崎県)周辺の諸窯で生産された
陶器の総称です。秀吉の朝鮮出兵の後、朝鮮から捕虜として
連れてこられた陶工を中心に始まったというのが通説に
なっていましたが、実際はもう少し前からのようです。

現代の瀬戸焼
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で、この瀬戸焼と唐津焼の戦い、江戸における陶磁器の
シェア争いを風刺しているという説があります。それまで主流で
使われていた唐津物を瀬戸物が打ち倒して広まったというような
話ですが、自分が調べたところでは、そういう事実はないようです。

美濃焼が最も多く使われていたんじゃないかな。それと、
江戸はリサイクル社会でしたので、料理屋などはともかく、
庶民は物を買いませんでした。陶器が割れてしまった場合は、
白玉粉で接着して直す焼き接ぎ屋に頼んでいたんです。

江戸時代の便所紙(浅草紙)
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さてさて、最後に妖怪とは関係ない話ですが、トイレで尻拭きに
紙が使われるようになったのは江戸時代からで、それ以前は
陶器のかけらで こそぎ落としていたという話もあります。
でもそれ、痔持ちにはツラいことだったでしょうね。
では、今回はこのへんで。