食の奇譚

2017.10.18 (Wed)


さて、今回は食の奇譚がお題です。前に書いた「カニバリズム小考」
の続きみたいなもんです。あ、その前に、この項は完全なネタバレになりますので、
ご注意ください。ネタバレさせないと作品の魅力を伝えにくいんですよ。

「奇妙な味」の短編で、人肉食をあつかったものとしては、
スタンリイ・エリンの『特別料理』とロード・ダンセイニの『二瓶のソース』が、
双璧として賞賛されていますね。まずは『二瓶のソース』からご紹介。
ちなみに作者のダンセイニは貴族で、ロードというのは名前ではなく称号です。
ダンセイニ卿と訳されたりもしますね。

ある男が小金を持つ婦人と暮らし始めたが、婦人はいつのまにか失踪してしまう。
警察は捜査をするが婦人の姿はどこにも見つからない。
ここで警察は男が婦人を殺したと考えるものの、死体が発見されない。
男は行商人から肉料理のソース2瓶を買い、
家の近くの森で木を伐り倒して薪をたくさん作る。
警察は当然、薪で婦人の死体を燃やしたのだろうと考える。

しかし、周囲に火を燃やした跡はなく、そもそも薪はまったく使われず
小屋に積み上げられている。ここで男にソースを売った行商人が探偵役に変わり、
男は菜食主義者を自称しているのに、
肉しかおいしく食べられないソースを買ったのは変だと言う。
・・・もう真相はおわかりですね。男は婦人の死体をすべて食ってしまったんです。
最後に、警察は行商人に「あの薪はなんのためにこさえたんだろう?」と尋ね、
行商人は「なあに、腹を空かせるためですよ」と答える・・・

次はエリンの『特別料理』。ある男が会社の上司からとあるレストランに誘われる。
そこは有名ではないが上品な店で、男はたちまちレストランの料理のとりこになる。
レストランの壁には実在した作家アンブローズ・ビアスの写真が飾られてあり、
彼にレストランの厨房を公開したのだと料理長は言う。
ちなみに、ビアスがメキシコで謎の失踪をとげたのは有名な話です。
それを聞いて、男は自分もレストランの厨房を見学したくてしかたなくなる。

ある日、レストランの特別料理が出る。これがメニューに出るのは年に何回もない。
特別な場所で注意深く育てられたアミルスタン羊を使った肉料理で、
魂の奥底をのぞき込むような味する。男は料理を堪能し、あたりを見回して、
毎日のようにレストランに来ていた常連客がいないのに気がつき、
せっかくの特別料理の日なのにと気の毒に思う。
男はレストランのおかげで、痩せていた体にふっくらと肉がつきはじめる。
やがて遠くに出張する前日、上司は料理長から厨房を見学しないかと誘われる。
男もいっしょに見学したかったのだが、自分はまだその資格がないとあきらめる・・・

まあこんな話です。筋だけ書いてもあまりぴんとこられないかもしれません。
自分は前にこの話を翻訳したことがあるのですが、
日常まず使われない単語がたくさん出てきて、実に精緻に組み立てられています。
レストランの厨房を見たものは肉にされてしまう、という真相はすぐにわかりますが、
雰囲気で読ませる作品なんですね。日本の作家が、
この作品へのオマージュを書いていて、米澤穂信氏の「儚い羊たちの祝宴」や
綾辻行人氏の「特別料理」。どっちをご紹介しましょうか。

同じ題名の綾辻作品は、ある夫婦がゲテモノ食いレストランの常連になる。
そこで出される料理は虫とか排泄物とか、だんだんにエスカレートしていき、
最後には自分の指を切り取って食べるところまで行き着きます。
満足した夫婦が「そろそろ子どもがほしいわね」という会話をして話は終わり。
これ、子どもも食べてしまうんでしょうね。
このテーマの作品として、平山夢明氏の『Ωの正餐』、
阿刀田高氏『わたし食べる人』などがあります。

あとはそうですね、日本の推理小説の黎明期に出ていた「新青年」という
雑誌がありますが、人肉を食べる話もいくつか掲載されていて、
夢野久作氏の『人間腸詰』、水谷準氏の『恋人を食べる話』など、
どちらもなかなかの傑作です。

最後に、これは食人ではありませんが、食に関する異常な話を集めたのが、
田中啓文氏の『異形家の食卓』。自分はなんか波長が合う感じがして、
この作家は大好きです。中でも代表作になるのは、
『新鮮なニグ・ジュギペ・グァのソテー。キウイソース掛け』
ぜひご一読ください。

関連記事 『カニバリズム小考』








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猫の怪談

2017.10.15 (Sun)


猫の怪談というのも、一つのジャンルを形成できるほど多いですね。
これが犬だとそうはいきません。犬はひたすら飼い主に忠実な場合が多いですし、
それに対して猫は気まぐれで、ときおりふっと野生の表情をかいま見せたり
するからでしょうか。ちなみに、犬の骨は縄文時代から確認できますが、
猫のほうはもっと後代にならないと出てきません。
そういえば『枕草子』には、宮廷で飼われていた犬と猫の話が載ってますね。

さて、猫の怪談といえば、日本では『鍋島猫騒動』が有名です。
肥前国佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の時代。光茂の碁の相手を務めていた
臣下の龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたために斬殺され、
又七郎の母も飼っていたネコに悲しみの胸中を語って自害。
母の血を嘗めたネコが化け猫となり、城内に入り込んで。
毎晩のように光茂を苦しめるが、光茂の忠臣、小森半佐衛門がネコを退治した。

Wikiにはこんなふうに出ていて、話ができた背景には、
鍋島家と竜造寺家の実際の確執があったようです。

これを元にして昭和の時代、化け猫映画がたくさん作られました。
化け猫女優といえば、入江たか子さんが有名ですが、
猫のまねをして口のまわりを何度も舌でペロッとなめる演技をしたところ、
当時のベンガラに含まれていた鉛で急性中毒を起こして、
撮影中に倒れ、死にかけたというエピソードが残っています。

あと、猫は年を経ると猫又という妖怪になると言われます。
この「又」の部分は、しっぽが二又(ふたまた)に分かれるからというのの他、
いろんな説があるようです。鳥山石燕も、手ぬぐいを頭にかぶって、
立ち上がって踊る猫又の姿を描いていてます。(下図)

さて、西洋だとポーの『黒猫』が有名ですね。黒猫を虐待した男は、
まず猫の片目をつぶし、さらに首に縄をかけて吊るしてしまう。
さらに男は妻も殺し、壁にぬり込めてしまうのだが・・・
かなりゴシック色の強いお話でした。

西洋では、黒猫は魔女と結びつけて語られることが多く、
映画の『魔女の宅急便』でも、キキという黒猫が出てきていました。
黒猫は不吉の象徴として見られたり、
そこがまた魅力的だとしてわざと飼っている人もいるようです。
あと、これはホラーではなくファンタジーなのですが、
ポール・ギャリコの『ジェニイ』なんかも印象的な作品でした。

さて、詩人の萩原朔太郎に『猫町』という散文の短編がありまして、
これは麻薬中毒から回復中の男が、ふと猫の町に迷い込んでしまう話なのですが、
ホラー小説の大家、アルジャノン・ブラックウッドが書いた
『いにしえの魔術』という話によく似ています。
書かれたのはブラックウッド作品が十数年早いのですが、
朔太郎が参考にしていたかはよくわかりません。
ただ、朔太郎作品が散文詩的なのに対し、ブラックッドのは本格ホラーです。

ちなみに、ブラックウッドには原始的な恐怖を描いた作品が多く、
秘密結社「黄金の夜明け団」に属して魔術師を自称していました。
余談ですが、自分はこのブラックウッドの諸作品が、
スピリチュアルの「シルバーバーチの霊訓」などに強い影響を与えた
と考えており、そのことは機会があれば書きたいと思っています。

あとそうですね、ホラーアンソロジー『異形コレクション』の32巻「魔地図」に、
多岐亡羊氏の「わたしのまちのかわいいねこすぽっと」という短編があり、
ちょっと作り込まれすぎてる感もありますが、読んでうならされました。
これはたいへんな傑作ですので、ぜひご一読をお勧めします。

映画だと、強い印象があるのはスティーブン・キング原作の、
『ペット・セマタリー』です。ペット霊園の裏山には不思議な土地があり、
愛猫が事故で死んだ主人公は、幼い息子にそのことを説明できず、
その土地に埋めてしまう。すると猫は帰ってきたが、
凶暴で腐臭を発する別の何かになってしまっていた。
さらに、男はその息子までも事故で失ってしまい・・・
カメラワークがなんとなくB級映画みたいな感じで、
それが逆に怖さを増していたと思います。

鳥山石燕 『猫また』








アート怪談

2017.10.14 (Sat)
スジスワフ・ベクシンスキー


art、芸術といっても言語芸術はのぞきます。陶芸や書道を含む美術、
音楽、あと舞台とか舞踏などの総合芸術・・・骨董品なども含めて、
これらを題材とした怪談、ホラーはいろいろありますよね。

まず美術だったら、絵の中の人物が動くとか、魂が宿って抜け出す、
絵柄がだんだんに変わっていくなどというのは定番です。
見る人が絵の中に閉じ込められてしまうなんて話もあります。
彫刻だと、ギリシャ神話のピグマリオン。現実の女性に失望したピグマリオンは、
理想の女性の裸像を彫刻するが、やがて裸では恥ずかしいだろうと服を着せ、
いっしょに食事をするようになる。しかし彫刻はあくまで彫刻であり、
ピグマリオンは恋わずらいのためにどんどんやせ細っていく・・・

世界的に有名なのは、やはりオスカー・ワイルドの、
『ドリアン・グレイの肖像』でしょう。
若く奔放な美青年ドリアン・グレイは、友人の画家が描いた自分の肖像を見て、
「絵のほうの自分が年をとればいい」と言う。そして官能に溺れた生活を続ける。
すると絵のほうのドリアンだけが、どんどん汚れて醜くなっていく。
肖像を描いた画家を殺したドリアンは、絵を破壊しようと試みるが・・・
世紀末のデカダンな雰囲気がよく出ていたと思います。

音楽だと、あるミュージシャンが出したCDにありえない変な声が入っている。
『暗い日曜日』というハンガリーの歌謡を聞くと自殺したくなる。
ある曲がかかると勝手に足が動いて踊りがとまらなくなってしまう・・・とか。
呪われた曲というのもホラーのジャンルの一つになっていますね。

これはまず、芸術家には奇矯な性格で、異常な生涯を送った人が
多いということもあるでしょう。そういう人たちが執念を込め、
長時間かけて創ったものですから、不可思議な力が宿るのも当然かもしれません。
また、絵だったら構図や色彩、音楽なら旋律やリズム、
それらがなんらかの呪術的な効果を持ってしまうなんてことも、
考えられなくはないと思います。

さて、クトゥルー神話の生みの親、H・P・ラブクラフトは芸術好きであり、
美術と音楽をモチーフにした話をどちらも書いています。
音楽では、代表作の一つである『エーリッヒ・ツァンの音楽』
主人公の私は、同じ下宿に住むドイツ人の老音楽家、
エーリッヒ・ツァンの部屋から聞こえてくるヴィオルの調べに魅了される。
ぜひ目の前で演奏を聞きたいと申し出るが、激しい拒絶にあう。
ヴィオルの演奏はだんだんにこの世のものとは思えないほどになっていき、
それとともにツァンは日ごと憔悴の度をまして・・・
絵のほうは『ピックマンのモデル』という作品ですが、
こちらは『エーリッヒー』ほど評価は高くありません。

日本だと、作家の井上雅彦氏が編集するテーマ別ホラーアンソロジー、
「異形コレクション」の34巻で、
『アート偏愛(フォリア)』というのが出ていて、
折原一氏、竹河聖氏、菊地秀行氏、平山夢明氏などが作品を寄せています。

最後に『今昔物語』から、絵師と細工師が勝負する話をご紹介します。
これには百済の川成という絵師と、飛騨の匠という工匠が出てきますが、
どちらも当時評判の名人で、腕比べ合戦をします。

ある日、飛騨の匠が一間四面のお堂を建てたというので川成が見にいき、
西の面から入ろうとすると、そこが閉じて南の戸が開く。
ではと、そっちから入ろうとするとまた閉じて、今度は北の戸が開く。
いつまでもそういう具合で、川成はとうとう入れずに戻ってきてしまった。
自動仕掛けになっていて、わざと入れないように造ってあったんですね。
後に、飛騨の匠が陰から見て大笑いしていたという話を聞いた川成は、
仕返ししてやろうと匠を家に招待します。

匠が警戒しつつ出かけていき、家に入って戸を開くと、
腐りかけた死人が転がっていた。たちまち死臭が漂ってきて、
これはたまらんと退散しかけたところ、川成が出てきて、
「絵ですよ」と言う。見ればなるほど屏風絵で、死臭はかけらもなかった。
あまりに出来栄えが真に迫っていたので、
匠はありもしない臭いまで嗅ぎ取ってしまったのです。
このように両人とも比類のない腕を持った名匠でした。









機械の怪談

2017.10.13 (Fri)


えー今回のネタはこれです。機械の怪談、これって難しいんですよね。
なんでかというと、SFになってしまいやすいからです。
例えば、機械人間という語があって、これを「ロボット」と訳してしまうと、
それはSFの世界です。ホラーだったら、ここはどうしても「オート・マタ(自動人形)」
としたいところです。オート・マタはヨーロッパでは12世紀ころから長い歴史があり、
都市の広場の時計台で鐘を鳴らしたりする人形もオート・マタの一種です。
これは日本ではからくり人形といって、
お茶くみする子どもの人形などが有名ですよね。

ロボットとオート・マタの違い。自分の独断と偏見でいえば、
それは動力にあるのではないかと思います。ロボットは電力や原子力で動きますが、
オート・マタはぜひともゼンマイで動いてほしい。
ゼンマイ動力は長時間持ちませんので、切れたらまたキリキリと巻く。
そのあたりが古きよきオカルト世界を感じさせるのです。
あと、ロボットは作られた目的を果たすことができれば、
人間に似てなくてもいいわけですが、オート・マタは人間を模したもの
でなくてはなりません。そういう意味で、アンドロイドの概念のほうが近いかもです。

さて、自動人形が出てくる作品といえば、E・T・ホフマンの『砂男』です。
ちなみに砂男というのは西欧の伝説で、子どもを眠らせるために、
夜、目の中に砂を入れにやってくる妖精のようなものです。
そして砂を入れられた目はゴリゴリして目玉が取れてしまう場合もある。
ホフマンの砂男には、目玉が取れるモチーフがくり返し出てきますね。
で、その登場人物の一人が自動人形オリンピア。
主人公のナタナエルはオリンピアの姿を望遠鏡で見て恋に落ちるものの・・・
でもこれ、怪奇小説なんでしょうかねえ。たしかに怪奇小説集に入ってたりしますが、
幻想文学に近いものだと思います。

あと、オート・マタについては、ポーが『メルツェルの将棋差し』
という短編を書いていて、これも怪奇小説ではなく、
18世紀に実在したチェスを指す自動機械人形「トルコ人」を見て、
ポー自身がそのしくみを推理して論評を加えたものです。
ポーは、チェスの指し手は機械が選ぶのではなく中に人が入ってるのだと見抜き、
人がどこに隠れているかを考えます。
チェスの場合、現在、人間はAIにまったく勝てなくなってしまいましたが、
そんな未来をポーは予想できていたのでしょうか。

日本の作品にもオート・マタは出てきて、荒俣宏氏の『帝都物語』には、
「学天則」というのが登場します。地下で怪物相手に大活躍しますね。
これは、昭和3年、昭和天皇即位を記念した
大礼記念京都博覧会に大阪毎日新聞が出品したものです。
「東洋初のロボット」という評価がありますが、腕を動かしたり、
表情を変えたり、字を書いたりするなどの仕組みはオート・マタに近いものです。

機械の怪談というと、あとはそうですね、
スティーブン・キングの原作で映画になった『マングラー』。
B級なんでしょうが、自分は面白く見ました。
マングラーとは何かというと、クリーニング工場にある巨大プレス機です。
これが、ふとしたことで人間の血や胃薬の成分のベラドンナを吸い込んでしまい、
悪魔がとり憑いて人を食い始めるという破天荒な内容でした。
最後のほうで、マングラーは自分で動き出し暴れ狂います。

『マニトウ』という映画もありましたね。『エクソシスト』の大ヒットで、
それ系の映画がたくさん作られたのですが、その中では一味違ってました。
ある女性の首の腫瘍が動き出し、中にはネイテイブ・アメリカンの悪霊、
ミスカマカスが入っている。この復活を阻止するため、
主人公らは善の精霊マニトウを集めて戦うのですが、
その中には、当時出はじめたばかりのコンピュータの精霊も入っていて、
B級はB級ですが、かなり斬新な内容になってました。

なんか作品を羅列して紹介するだけになってましまいました。
日本のホラーだと、小林泰三氏がこのあたりのテーマにこだわりを持っており、
機械と人間、物と心の違いを考えさせるような作品が多いです。
短編で『少女、あるいは自動人形』というのを書かれていますが、
これは、人間とまったく変わらないほどの精巧なオート・マタを、
試験で見抜くことができるか、というお話でした。









水の怪談

2017.10.12 (Thu)


うーん、けっこう難しいテーマですが、これでいってみましょうか。
まず1つめは『今昔物語』から「水の精が人の顔をなでる話」
前に一度ご紹介したんですが、興味深い内容なので再録します。

もと冷泉院の邸宅のあったあたりが庶民に解放され、
池のほとりに人が住むようになったが、縁側などで昼寝していると、
身の丈3尺ほどの老人が現れて顔をなでて消える。
不気味なことであり評判になったが、ある度胸自慢の男が、
「俺が退治してやろう」と言って、わざわざそこにいって寝た。
すると夜半になって、話のとおりの老人が現れたので、
跳び起きてつかまえ、縄でぐるぐる巻きに縛りつけた。

そこで人を呼ぶと見物が大勢集まってきたので、老人に何者か問いかけると、
老人は目をしょぼしょぼさせ、憐れな声で「たらいに一杯水を汲んでくれ」と言う。
まあ逃げ出せはしまいと、言ったとおりにしてやると、
老人はたらいの前でぶるっと身をふるわせ、「自分は水の精である」と一言。
ざぶんと水の音がして、老人の姿はかき消え、
たらいの水が増して、縄がその上に浮いていた。
一同はこれで恐ろしくなり、たらいの水をこぼさないようにして、
池まで運んで捨てた・・・という話。


水そのものが怪異というのはたいへん珍しいと思います。
西洋には、四大精霊の一つ、水の精ウンディーネなどというのがありますし、
妖怪の河童なども一種の水の精霊と考えられなくもないでしょうが、
これは面白いですよね。怪談というか、むしろSFの液体人間みたいな感じです。
これって元になるような話が中国にあるんでしょうか。

水辺が怪異の舞台になるというのは怪談で多いですよね。
「置いてけ堀」なんかがそうです。これは本所(現在の東京都墨田区)
あたりの水郷で釣りをして、大漁大漁とばかりに帰ろうとすると、
水の中から「置いていけ~」と不気味な声が響く。そこで魚を逃してやれば何もないが、
無視して持って帰ると怪異が起こる。
びくの中の魚がいつのまにかなくなっていたり、道に迷ったり、
水の中に引きずり込まれたりします。
この正体は狸であるとか、河童であるとか諸説あるようです。

実話怪談の本でも、釣りに行って怪異に遭うという話は一つのパターンになっています。
みなさんにお薦めしたいのは、『水辺の怪談ー釣り人は見たー』のシリーズで、
第3巻まで出てるんじゃなかったかな。これを出しているのは「つり人社」という、
釣り専門の出版社で、たんたんとしつつも臨場感のある体験談が多いです。
ホラー小説だと、鈴木光司氏の『仄暗い水の底から』。
水をテーマとした短編7編が収められ、「浮遊する水」は日米で映画化されています。

さて、ではどうして「霊は水辺に集まりやすい」などと言われたりするのでしょうか?
よくわからないので、ネットで検索してみたら、
① 不浄な霊は渇きをおぼえているから
② 水そのものに陰の気が宿っているから
③ 川は海につながり、海の向こうにはあの世があるから
④ 不慮の事故で亡くなった人などは「死に水」をとらせてもらってないから
⑤ 水の事故で死んだ人が仲間を呼ぶから

ざっとこんな見解があげられていました。このうち①と④は近いのかもしれません。
②はどうでしょう。中国の陰陽五行説だと、水にも陰と陽の両極が備わっていて、
たしか「壬(みずのえ)」が陽、「癸(みずのと)」が陰だったはずです。
昼なお暗い森の中の沼とかなら陰の気が集まってるというのは理解できますが、
さんさんと太陽がふり注ぐ真夏の海とかはどうなんでしょう。

③は、日本神話だと死者の国は「根の国」つまり木の根がある場所で、
地下世界と解されています。また、海の向こうには「常世の国」があって、
これは一種の理想郷として、永久不変や不老不死、
若返りなどと結びつけて語られることが多いですね。
⑤は、たしかに水難事故の死者は多いですし、戦時中、
空襲の火に巻かれた人々が逃げ場を求めて川に入って死んだ、などという話も聞きます。
まあ、水辺はそうでない場所よりも死の危険が多いのは確かでしょうし、
人間、濡れたりジメジメしたりするのは嫌なものなので、
そういうネガティブなイメージで語られているのかもしれません。

ちなみに平成28年度の水難事故は、事故発生件数が1505件 で、
死者・行方不明者の総数は816人 。
もちろん自殺者や交通事故の死者よりは少ないですが、
こうしてみるとけっこうな数ですね。

そろそろしめましょう。日本最大の海難事故といえば、
これは1954年の青函連絡船「洞爺丸」の事故ですね。
死者・行方不明者あわせて1155人。これだけの死者が出ているので、
数々の幽霊話が残っています。有名なのが、
駅の職員が宿直室で寝ていると、「トントン、トントン」となにやらノックの音がする。
どうやら、誰かが待合室の窓ガラスを叩いているようであった。
「こんな夜中に誰がノックしてるんだ?」眠い目を擦りながら、職員が見にいくと…
窓ガラス越しに、ずぶ濡れの手が見える。それは1人のものではなく、
まるでたくさんの人々が助けを求めているように、
ガラス窓をノックする無数の手があった。


あと、洞爺丸事故の翌年に起きた「橋北中学校水難事件」では、臨海学校中の
女子生徒36人が溺死していますが、ここでも心霊話が語られています。
詳しくお知りになりたい方は関連記事で。   関連記事 『心霊事件簿4(橋北中水難)』