「怖い童話」について

2018.04.20 (Fri)


今回はこういうお題でいきますが、どれだけのことが書けるか、
あまり自信ないです。スルー推奨かもしれません。
さて、桐生操氏の『本当は恐ろしいグリム童話』など、西洋の童話の怖さに
焦点をあてた本が発刊され、童話の持つ怖さというのが知れ渡ってきました。
当ブログの裏テーマには、「恐怖の研究」があるので、
ここはさけて通るわけにはいきません。

たしかに、有名どころの「シンデレラ(灰かぶり姫)」なんかでも
怖いですよね。みなさん知っていると思うので、ここで詳しい筋は書きませんが、
物語の後半、王子が忘れられたガラスの靴の持ち主を探す段で、
シンデレラの義理の姉たちは、ガラスの靴に無理やり合わせようとして、
足の爪先や踵を切り落とします。ですが、靴下に血がにじんでバレてしまう。

さらに、シンデレラと王子の婚礼につき添った姉たちは、
鳩につつかれて目玉をくり抜かれてしまうんですね。ちなみに、
シンデレラの靴は、もともとはリスの毛皮(vair ヴェール 仏語)製
であったのが、転訛してガラス(verre ヴェール)になったという説があります。

ただ、元からガラスだったという説もあって、決着はついていません。
これ以外にも「白雪姫」や「ヘンゼルとグレーテル」なんかも怖い内容です。
では、どうして怖いのかというと、まず、もともとの話は「童話」ではなく
「民話 フォークロア」だったということがあげられるでしょう。

民話から、子ども向けの童話になる段階で、かなり毒が抜かれています。
グリム兄弟は、聞き書きで採集した民話をそのまま本にするのではなく、
性的な描写を取りのぞき、残酷な部分をおさえ、あと、実の母親を
継母に変えるなどして、内容を子ども向けに改変しました。

民話は、日本のものも怖いし、性的な部分も多いですよね。瓜子姫は、
あまのじゃくに裸にむかれて吊るされ、殺されてしまうバージョンがありますし、
カチカチ山では、爺が狸にだまされて「ばんば汁(婆を料理した汁)」
を食べさせられてしまいます。これをモチーフにした、曽野綾子氏の
『暗く長い冬』という恐怖小説の傑作があります。



また、柳田國男の『遠野物語』では、年寄りを山に追いやる「姥捨て」の話が
出てきますし、馬と娘が結婚する話なんかもあります。
娘の父親が怒って馬を殺し、その首を切ると、
馬の首は空に飛んでオシラサマになる。じゃあ、なんで民話は怖いんでしょうか?
いちおう三つの解答を用意してみました。

まず、一つには口承伝承であるということが大きいでしょう。
文字で書かれた原典がなく、口から口へと伝わってきた物語であるという点です。
つまり、話す人が自由に筋や細部を変えることができるわけです。
こうした場合、話の内容はどんどん過激になっていきやすいんですね。

識字率が低かった中世のヨーロッパで、物語のタネが、長い年月、
親から子へと伝えられていくうちに、極端な内容に変わっていく。
主人公の貧しい田舎娘は、王子に見初められて王妃になり、
悪役の継母などは、手ひどい罰を受けて苦しんだあげくに殺されてしまう。
そのほうが、語る側にも聞く側にもカタルシスが大きいからです。

二つ目としては、当時のヨーロッパを精神的に支配していた
キリスト教のらち外の話である、という点です。
厳しい戒律と道徳で信者を縛りつけるキリスト教の教えと教会の権威は、
民衆にとっては窮屈な面もあったんですね。しかし、魔女や魔法が登場する
民話の中では、自由に想像の羽を伸ばすことができます。

そこで、聖書の物語とは違った、残酷で卑猥な内容が盛り込まれて
いったんだと思います。押さえつけられていた土俗的な感情が、
民話の中では開放されているんでしょう。そういう意味では、
民話の研究というのは精神史的にも重要だと考えます。

三つ目として、昔は、死や血が身近なものであったことがあげられるでしょう。
これはヨーロッパでも日本でもそうでしたが、乳幼児の死亡率は高く、
10人の兄弟姉妹がいても、半数以上が子どものうちに死んでしまう
なんてことが珍しくはなかったんですね。

焼かれるペスト死者


ちょっと疫病の流行があれば、村人がバタバタ倒れ、
血膿にまみれて死んでいく。死体は山積みにされて焼かれる。
子どもを売る、間引きをする、そういうことが普通にある時代。
さらに、今のように肉がパック詰めされてスーパーで売られている
わけではなく、家族で動物を殺し、皮をはいで血を絞る・・・
民話は、そういう中でできていった物語なわけです。

さてさて、民話はなぜ怖いのかについて考えてきました。現代で生まれる
都市伝説(アーバン・フォークロア)なんかも、「テケテケ」とか
「カシマさん」とか、残酷で怖いものが多いですよね。時代が変わっても、
共通する点もあるんだと思います。ということで、今回はこのへんで。







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「見るなのタブー」について

2018.04.16 (Mon)
今回は怪談論です。怪談で、「夏休み、少年が祖父母のいる田舎にあずけられた。
優しい祖父母は、屋敷の中はどこにいってもかまわないが、
裏庭にある納屋の戸だけはけっして開けてはいけないと言う。
はじめは言いつけを守っていた少年も、やがて退屈してきて、
ついにある日、納屋の戸をそっと開けてしまう。

すると薄暗い中に明かりがつき、床にはたくさんの血がこぼれていた。
奥のほうから刃物を持った祖父母が出てきて、にこにこ微笑みながら、
少年に、あれほど開けてはいけないと言ったのに・・・」こういう話があります。
たいていはここで終わるので、この後どうなったかわかりませんが、
おそらく少年は殺されたんでしょう。で、そうするとこの話を語る人物が
いなくなるので、これは実話怪談とは呼びにくく、民話に近いものなんですね。

「夕鶴」


さて、「見るなのタブー」とは、Wikiによれば、「何かを、見てはいけないと
タブーが課せられたにもかかわらず、それを見てしまったために悲劇が訪れる、
または恐ろしい目に遭うこと」
」こうなっています。「見るなのタブー」は、
世界各国の神話や民話に見られ、人類共通の普遍的なテーマと言えるでしょう。

これについては、比較文化学、神話学、民俗学などで世界中で研究されていますが、
「なぜあるのか」というはっきりした答えは出ていません。
ですから、自分ごときオカルト人間が何かを言うのはおこがましいんですが、
オカルトブログらしく、最後のほうで超トンデモ解釈をしてみたいと思います。

まず、「見るなのタブー」には、どんなバリエーションがあるのか。
「後ろをふり返ってはいけない」(ギリシャ神話のオルフェウス、日本神話のイザナギ)
「この部屋を開けてはいけない」(西洋の童話の青ひげ、日本の民話、夕鶴)
「この箱を開けてはいけない」(ギリシア神話のパンドラ、日本の民話、浦島太郎)

「見たことを人に話してはいけない」(日本の怪談、雪女)
「この実を食べてはいけない」・・・これは「見るな」とは少し違いますが、
この内容は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教でそれぞれ出てきていて、
人間が原罪を持つことになった原因とされます。
ですから、現代でも社会的に大きな影響を持っているんですね。

「パンドラの箱」


ただ、世界の「見るなのタブー」と日本のものとでは、いろいろ違いがあります。
世界的には、見るなのタブーを破ってしまうのは、男の場合も女の場合もあります。
上記したエデンの園の話は、女であるイブがタブーを破ってしまいました。
これは、キリスト教の神が、まずはじめに自分の姿に似せて男を創り、
さらにその肋骨から女を創ったということと、構造的な関係があるんでしょう。

ところが、日本の場合、見るなのタブーを破るのは圧倒的に男が多いんです。
例えば、浦島太郎は乙姫様の言いつけを破ってしまうし、イザナギはイザナミに
ふり返って見るなと言われたにもかかわらず、死後の腐った醜い姿を見てしまう。
夕鶴もそうですよね。妻が鶴と化して機を織っている姿を
見てしまっては、もう夫婦でいることはできません。

また、日本の場合、見るなのタブーを破った男は、それほど大きな罰は
受けてないんですね。日本神話で、出産の様子を見るなと言われたホオリは、
好奇心に負けて妻の産屋をのぞく。すると妻は巨大なワニ(サメ)の
姿をしていました。妻のトヨタマヒメはそれを悲しんで立ち去ってしまう。

雪女でも、この話を人にした場合はとり殺す、と言われていたのに、
雪女は生まれた子どものためを思い、男を罰せず、ただその場から消える。
こんな形で、タブーを破った男が大きな罰を受けることはなく、
女のほうがその場から去ってしまうケースが多いんです。

この理由について、日本の比較文化学などでは、古代からの歴史的な
男女の立場の違いからきているとする研究が多いようです。(河合隼雄氏など)
まあ、そうなのかもしれませんが、古代の農村の婚姻の形態や、
出産を穢れとする風習など、いろんな要素が混じり合っているんだと思います。

さて、こっからはオカルトトンデモ話です。みなさんは「シュレディンガーの猫」
の思考実験をご存知ですよね。これについては前に書いたので、
ここでは説明しませんが、量子力学の世界では、
観測によって現実の結果が決まってくる、という考え方があります。

「シュレディンガーの猫」


原子核のまわりを回っている電子は、どこにあるのか確率的にしか
予言できないが、観測することによって、場所がある一点に定まる。
これを波の収縮と言います。シュレディンガーの猫にしても、
死んだ猫と生きた猫が重なり合っていたのが、人間が箱を開けたときに、
猫の生死がそのどちらかに決定するんだという説もあるんです。

このことは、前にご紹介した「人間原理の宇宙論」とも関係があります。
われわれ人間は、もしかしたら、世界を決定するための「観測者」としての
役割を持っているのかもしれません。ですから、
閉ざされた箱や扉があれば、未来がどうなるかを決定するために、
どうしても開けなくてはならないよう宿命づけられている・・・(笑)

さてさて、上で書いたように、これはトンデモ話ですので、信用されても困ります
ある地域の、一つの「見るなのタブー」話を読み解くだけでも、
かなりの研究が必要です。文系の学生のみなさんは、卒論のテーマとして
選んでみるのも面白いかもしれませんね。ということで、今回はこのへんで。

「黄泉比良坂」




『今昔物語』の怪談分析

2018.04.12 (Thu)
今回は怪談論でいきます。自分は、怪談にはパターンがあると
考えています。あるいは、構成要素と言ってもいいかもしれません。
もちろん、それはSFにもありますし、ミステリにもあるわけですが、
SFもミステリも近代になってからできたものですから、
古典作品との比較研究はできません。それに対し、
怪談は古くからあるので、考察がしやすいんですね。

さて、『今昔物語集』は、平安時代末期に成立したと見られる説話集で、
全31巻ですが、現存していない巻もあります。天竺(インド)、
震旦(中国)、本朝(日本)の三部構成になっていて、
日本の部分に載っている話は、仏教説話的なものが多いんですが、
中には純怪談としか言いようのないものもあります。例えばこんな話。

「嫉妬心から妻が箱を開ける話」(巻27 霊鬼)
今は昔、京の官吏の家に奉公していた紀遠助という男が、任期を終えて
出身地の美濃の国に帰ることになった。その途中、
瀬田の唐橋にさしかかると、橋の上に女がひとりで立っていた。

女は「どちらまで行かれますか?」と聞いてきたので、遠助は馬から降り、
「美濃の国へ参ります」と答えた。女は「お願いがあります」と、
ふところから、絹で包んだ小さな箱を取り出し「これを、片県郡の某橋のたもと
までお持ちくだされば、女房が待っておりますので、それにお渡し下さい」

遠助は面倒だと思い、「その橋にいる女房の名は何というのですか?
もしいなかったら、どうすればいいのですか?」と聞き返したが、
女はそれには答えず、ただただ頼み込んでくるばかり。
女の様子が不気味だったこともあり、遠助はついに承知してしまった。

このとき、遠助を見送った従者たちが、遠くからその様子をうかがっていたが、
従者たちには、遠助が誰もいないところで一人でしゃべってるようにしか
見えなかった。やがて、遠助は美濃の国へと着いたが、
不覚にも、女の頼みを忘れて橋を通り過ぎてしまった。

家に戻ってそのことに気づいた遠助は、「ああ、申しわけないことをした」
いずれもう一度出かけて渡そうと考え、箱を納戸の棚にしまっておいた。
ところが、遠助には妻がいたが、これがきわめて嫉妬深い女で、
遠助が持ってきたものは愛人への京土産で、自分に知られないように
隠したのだろうと考えて、箱を開けてしまった。

箱は段になっており、一段目には、人の目玉をほじくり出したもの、
二段目には、男の陰茎を切り取ったものが多数入っていた。妻はこれを目にして
悲鳴を上げ、駆けつけた遠助は、「ああ、見てはならぬと言われたものを、
困ったことをしてくれた」と、箱の蓋をしめ、元のようにヒモで結んだ。

遠助が大急ぎで言われた橋に行くと、約束どおりに女房が出てきたので、
箱を渡したが、女房は「開けて中を見ましたね。困ったことをしてくれました」と、
たいそう怒った様子であった。遠助は、「そんなことはありません」と言い、
女に箱を渡して立ち去ったが、家に戻ってすぐに具合が悪くなった。

そして、妻に向かって「ああ、開けてはいけないと約束していた箱なのに、
お前はどうして開けてしまったのか」と愚痴を言い、
そのまま病みついて、まもなく死んでしまった。・・・この話を聞いたものは、
みな、遠助の妻の嫉妬心を憎んだという。



長く引用しましたが、自分が意訳したものです。これには仏教的な要素は
ないので、怪談とみていいでしょう。話のパターンとしては、
「巻き込まれ型怪異」と呼ばれるものです。何も悪いことをしていない人物が、
たまたま、怪異に遭遇して不幸な目に遭うわけですね。
現代の怪談は、ネットで有名になった「八尺様」とか「くねくね」など、
この「巻き込まれ型」怪異が多いんです。

次に、話の構成として「解決しない謎」という形になっています。
遠助に箱を渡した女、箱を受け取った女房が何者なのか最後までわかりません。
また、箱の中になぜ人体の一部が入っているのかもわかりません。
何もわからないまま主人公が死んで話が終わるので、
不条理で不気味な印象が残ります。こういう怪談は現代でも多いですよね。

さらに、怪談らしいギミックがいくつも含まれています。
まず一つは「見るなのタブー」。見てはいけないものを見てしまうことで、
呪いや祟りが発動するんですが、この話の場合、本人ではなく、
嫉妬深い妻が見てしまうという形にひとひねりされています。

あとは、箱の中の目玉や陰茎はスプラッター的な要素にもなっていますし、
遠助が女と話をしていたはずなのに、傍から見ると、
一人でしゃべっているだけだったというのも、
怪談を盛り上げるためのギミックでしょう。

さてさて、ということで、ここまで見てきたとおり、
怪談の諸要素というのは、800年も前の『今昔物語』から、すでにもう
ほとんど出そろっているんですね。それは、怖さに対する感覚が、現代人も昔の人も
それほど変わらないということでもあります。ですから、自分が書いている怪談も、
昔からある要素をこねくりまわしているだけ、ということなんでよすね。

関連記事 『今昔物語から』







器物の怪談とサイコメトリー

2018.03.25 (Sun)
今回は怪談論でいきます。ここでいう器物とは、非生物的な物を指します。
具体的には、古道具や骨董、宝石や武器、古着なんかのことですね。
それらにまつわる怪談というのは、ネットでよく見かけますし、
自分もいくつか書いています。下に「骨董」という話をあげておきます。

関連記事 『骨董』

さて、器物の怪談では、大きく2つの考え方があるんじゃないかと思います。
一つは「付喪神 つくもがみ」ですね。長い年月を経た道具に神や精霊などが
宿ったもののことを言います。付喪神は「九十九神」とも書き、
その道具ができて100年がたつと、心が生まれ、霊性を持つと考えられました。

室町時代の『付喪神絵巻』は、道具は百年経つと付喪神になって
悪さを働くため、人々は「煤払い」と称して古くなった道具を路地に捨てていた。
捨てられた道具たちは、これに腹を立て、節分の夜に集まり、
人間に対して反乱を起こす、といった筋立てです。

『付喪神絵巻』


付喪神は、この頃はまだ一種の神として考えられていたのが、江戸時代までに、
だんだんに妖怪と見なされるようになっていきました。唐傘お化け、
お化け提灯などがそうですね。当ブログでご紹介している鳥山石燕の妖怪画も、
1784年の『百器徒然袋』は、ほとんどが器物の妖怪を描いたものです。
下図は「暮露暮露団 ぼろぼろとん」という古布団の妖怪です。



まあ、日本人はもともと、長い年月を経たものには価値があると考えてきました。
数百年を生きた大木や苔むした大岩などには神が宿るとされ、
注連縄をはって祀ったりしていたわけです。ただ、道具の場合は、
古くなると汚れるし、使い勝手も悪くなります。それで買い替えてしまうんですが、
道具の側には、これだけ人間に役立ってきたのに、無情に捨てられた、
という恨みが残って妖怪化する、ということもあるのかもしれません。

さて、もう一つ考え方は、その器物を作った人間、または代々の所有者の念が
こもっている、といったものです。例えば、宝石や美術品などの場合は、手放すには、
破産したとか、家業が傾いたためにお金に変えざるをえなかったなどの、
不幸な理由が多いでしょう。売りたくないのに売らなければならなかったという、
かつての持ち主の無念がまとわりついているわけです。

また、日本刀などの場合は、争いごとで使われたものもあり、
その刀で殺された被害者の念がのり移っている、
といった筋立ての怪談は、ネットを探せばたくさん出てきます。
実際に人の血を吸っているかもしれない怖さがあるんですね。

あと、人形の場合は上記の2つの考え方が混じっている場合が多いようです。
やはり、顔を持つものは擬人化して考えてしまいやすいんだと思います。
はじめはただの物であった人形に、しだいに心が生まれ、
自分の意志を持つようになる・・・この手の怪談は、外国でも珍しくはありません。



さて、前に書きましたが、最近、「サイコメトリー」という言葉を
スピリチュアル系のブログなどでよく見かけるようになりました。
これは、物に残っている「残留思念」を読み取ることです。
しかし、本当にそんなことができるもんでしょうか。

関連記事 『サイコメトリーって何?』

自分は霊感はゼロですが、今、ちょっとやってみたいと思います。
といっても、骨董品などは持ってないし・・・ああ、そうだ、古着がありますね。
自分はミリタリーファッションが好きで、よく着ています。
新品で買ったのがほとんどですが、中には実際に兵士が着ていたのもあります。

ということで、M65というジャケットを出してみました。
ネット通販で取り寄せたもので、米陸軍で1980年代に使用された本物です。
小さな焼けこげや油染みがあります。胸ポケットの上に「Buchanan」という
タグがついていて、これを支給された兵士の名字でしょう。

うーん、手にとって目をつぶっても、何も思い浮かんできません。
着て歩き回ってみてもダメですね。でも、これは自分にサイコメトラーとしての
才能がないせいかもしれず、サイコメトリーなんてない、とまでは言えないですね。
ただまあ、品物をもとに推理することはできます。

ブキャナンというのは、スコットランドーアイルランド系のアメリカ人でしょうか。
ジャケットは日本のXLにあたるサイズなので、背の高い、
赤毛でソバカスのある人物かなあという気がします。
あと、年代的に実戦は経験していないでしょう。

油染みは袖口にあるので、銃器の手入れをしていたときに
できたかもしれません。焼け焦げは射撃訓練のものでしょう。
ブキャナン氏は、ずっとブートキャンプのビリー隊長みたいな上官に怒られながら、
低い階級のまま除隊し、嫌な思い出のある軍装品はすぐに古道具屋に売った(笑)。

さてさて、このように、物というのはけっこうな量の情報を含んでいるものです。
自分が上に書いたのは、あくまで推理であって、サイコメトリーではありません。
でも、無意識のうちに物の持つ情報を読み取って、
頭の中で再構成しているなんてケースは、けっこうあるんじゃないでしょうかね。







ホラー小説と怪談(怖い話)

2017.12.23 (Sat)
今回はこのお題で。どんな違いがあるのか、あらためて考えてみようと思います。

・フィクションかどうか
ホラー小説は、中には「実話を元にした」なんて惹句がついている場合も
ありますが、基本的にはフィクション、創作です。

これに対し、怪談は「本当にあった話」というのが大前提です。
これ、かなり重要なことで、怪談を掲示板などに投稿する場合、
最初に「創作だ」と明言すると、「じゃ読まない」 「嘘話はいらない」
みたいな反応が返ってくることが多いんです。
ちなみに、自分がこのブログで書いているのは実話風の創作怪談ですので、
ホラー小説、実話怪談のどちらにもあてはまりません。

・人称や文体
怪談というのは体験談ですから、一人称による語りがほとんどですね。
また、プロの先生方が書かれている、竹書房などから出ている実話怪談の場合は、
体験者から取材して書いたという形が多いです。で、どちらの場合でも、
体験者は怪異から生きのびてその話をしているわけですから、
もし人が亡くなったりするような内容なら、
それは体験者以外の人物ということになります。
あと、敬体の「です・ます調」で書かれることもあまりありません。

ホラー小説の場合は、一人称でも三人称でもどちらでもかまわないですし、
二人称でも手紙や日記形式などでも書くことができます。
結末が「そこで僕の意識は途切れていった・・・」で終わっても問題ありません。
また、途中で語り手を変えることもできます。

・長さ
ホラー小説は、長編、中編、短編、ショートショートといろんな長さに設定できます。

怪談の場合は短いものがほとんどですね。
中には2ちゃんねるで有名になった「リゾートバイト」みたいな
かなりの長さの話もありますが、よほど興味を引きつけるような内容でないと、
普通は読んでもらえません。自分が掲示板に投稿した「青いテント」程度の分量でも、
「長い」と言われてしまうことが多いんです。

・情景描写・心理描写
これもホラー小説なら自在に書くことができますね。
情景描写・心理描写が巧みに挿入されたホラーは怖いです。

これに対し、怪談の場合は情景描写で、例えば、
「街灯に照らされたポプラの木が、歩道に不気味な影を落としていた」
などと書くと、「小説ならよそでやれ」と怒られてしまいます。
ですから、話のネタ(素材)で勝負するしかないわけですが、これが難しいんです。
また怪談の場合、人物の心理を長々と書くことも好まれません。

・伏線等
ホラー小説の場合は巧妙に伏線が張り巡らされているものが多いです。
当ブログでも、シャーリー・ジャクスンの『くじ』を分析したりしてますが、
一読しただけでは気がつかないような伏線が、あちこちに埋め込まれています。

関連記事 『「くじ」を読む』

ところが怪談の場合、伏線はどんなにさり気なく入れたとしても、
「あざとい」ととられてしまいます。とにかく、ストレートなというか、
別な言い方をすれば、稚拙な書き方のほうが好まれるんです。

・方言等
ホラー小説の場合は、方言なども雰囲気を盛り上げるための重要な要素です。
岩井志麻子氏の短編『ぼっけえ、きょうてえ』は、
岡山弁が作品を成り立たせる上で重要な役割を果たしていたと思います。

怪談の場合は、方言をそのまま書くと「読みにくい」
「共通語に直して書けよ」と言われてしまいます。
また「わしはそう思うんじゃ」みたいな年寄り言葉、女言葉なども嫌われます。

・会話文
ホラー小説の場合は「」の会話文を続けて話を進めていっても問題ありません。

怪談の場合は、「」が続くと、「話した内容をそんなに詳しく覚えているわけないだろ」
みたいな批判が来てしまいます。かといって、会話を地の文に埋めて書くと、
文章が長くなってしまうんですよね。このあたりも難しいところだなあと思います。

・物語の構成
ホラー小説は、ある程度、起承転結を意識して書かれたものが多いです。
また、結末にオチ(収束)があるものがほとんどで、
作品中に出てくる謎も、ミステリーほどではないにしろ、だいたいは解決されます。

怪談の場合は、構成がゆがんでいても、それがかえって怖さを増したりします。
結末も、何のオチもなく投げ出すように終わってもいいんですね。
謎が解決されないまま残ってしまってもかまいません。
「実話」なので、語り手にはどうしても知りえない部分というのがあるわけです。

○まとめ
ホラー小説は、上記のように様々な面で自由度が高いです。
もちろん、だからといって簡単なわけではありません。
フィクションであることを前提にしつつ、読者を怖がらせなくてはならないわけですから、
たいへん高度な技術が要求されます。
細部を作り込むために書くのに時間もかかります。

怪談は、とにかく「創作臭」が嫌われます。
体験したことをそのまま伝える報告文みたいに書かなくてはなりません。
そのために様々な制約があり、文章のテクニックで怖がらせるというのは、
まずできないと考えたほうがいいと思います。話のネタがすべてなんですね。

さて最後に、自分が書いている創作怪談ですが、ホラー小説と怪談のいいとこ取りを
できないかと考えて始めたものの、イソップ物語のコウモリのように、
どっちつかずの中途半端なものになってしまっているケースも多いようです。
うーん、難しい。