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黄金郷伝説

2018.01.31 (Wed)
今回はこのお題でいきます。世界で有名な黄金郷伝説は2つあります。
そのうちの一つは、この日本、と書けばもうおわかりと思います。
中国大陸の東の海上にあったとされる「黄金の島 ジパング」ですね。
それともう一つが、南米アンデスの山中にあるとされた「エル・ドラード」です。
ただ、この2つの伝承は200年以上時代が離れています。

ジパングについての話が出てくるのは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』ですが、
これが書かれたのは1300年頃と考えられています。
それに対し、エル・ドラードのほうは1500年代。前に「ケツァルコアトル伝説」
で書いた、スペイン人による大航海時代の話です。どっちでいきましょうか。
スペイン人つながりでエル・ドラードのほうがいいですかね。

関連記事 『ケツァルコアトル伝説』

さて、エル・ドラードはスペイン語で、「黄金の人」と訳されますが、
現在では「黄金郷」みたいな意味で使われることが多いようです。
伝承が始まったのはそう古いことではなく、16世紀の始め頃です。
アンデス地方にはチブチャ文化がありましたが、金の採掘技術に優れ、
その土地の首長が、全身に金粉を塗り儀式を行う風習を持っていました。

チブチャ文化の黄金の儀式


この噂がスペイン人たちの間に広まり、話に尾ひれがついて、
アンデス山中には、すべてが黄金でできた都市があるとして流布されました。
これが第一次の黄金郷伝説です。そして、この話を聞きつけた一人が、
スペイン人のコンキスタドール(征服者)、フランシスコ・ピサロです。
ピサロの前半生はよくわかっていません。

フランシスコ・ピサロ


父は軍人で小貴族、母は召使であったとされ、まったく教育を受けず、
幼い頃は豚小屋で豚の乳を飲んで育ったという話があります。
そのため「豚飼いピサロ」なんてあだ名を持ってるんですね。
ピサロは長じて軍人となり、ペルーを探検してインカ帝国を発見しました。
そしてスペイン王カルロス1世から征服の許可をもらい、
1531年ペルー侵攻を開始しましたが、
このとき彼に従ったのは、わずか180人の傭兵と37頭の馬だけでした。

ピサロは各地に植民都市を築きつつ進軍し、ついに第13代インカ帝国皇帝、
アタワルパと対面します。このとき、ピサロに同行した神父が、
アタワルパにキリスト教への改宗を迫り、聖書を見せられたアタワルパは、
「これはなぜ話をしない」と言って聖書を床に投げ捨てました。
ちなみに、インカ帝国には文字がありませんでした。

ピサロは、この行為をキリスト教への冒涜とし、
スペイン国王に代わってインカ帝国に宣戦を布告。このとき、
わずかなスペイン人兵によって、7000人のインカ兵士が殺されたと言われます。
インカが鉄器を持っていなかったため、騎馬で、
甲冑を着込んだスペイン人を傷つけられなかったからだったようです。



ピサロはアタワルパを捕らえ、太陽の神殿に幽閉しました。
ここで第二次黄金郷伝説の幕が開きます。アタワルパは、自分を釈放してくれたら、
部屋一杯の黄金と、2杯分の銀を用意すると申し出て、
ピサロは大量の貴金属を受け取りましたが、アタワルパを生かしておいては
後々まずいと考え、疑似裁判を開いて処刑を決定します。

火炙りの刑を宣告されたアタワルパは、インカの教義で焼死者は転生できないため、
これを大変に怖れました。そこでピサロは、キリスト教に改宗すれば
判決を変えてやると持ちかけ、アタワルパは洗礼を受けた後、ガローテという
鉄の輪とネジで首を絞める処刑具で殺されます。
その死体は一部が焼かれ、キリスト教の形式で埋葬されました。

残ったインカ人たちは、奥地のビルカバンバに立てこもって抵抗を続け、
皇帝マンコ・インカ・ユパンキが、この後も36年間統治しますが、
相次ぐ伝染病の流行で人口が激減し、1572年スペイン人により、
マンコ・インカの皇子で最後の皇帝トゥパック・アマルが捕らえられて処刑され、
ここでインカ帝国は滅亡します。

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一方、ピサロですが、闘いには勝ったもののスペイン本国の支持を失い、
カルロス1世に、アタワルパを無実の罪で処刑したとして死刑を宣告され、
スペイン人同士の仲間割れによって暗殺されてしまいます。
その遺体は埋葬されず、ペルーのリマのカテドラルに、
現在もミイラとして残されているんです。

ピサロのミイラが安置された棺


さて、インカ帝国は滅びましたが、スペイン人たちは、さらにジャングルの奥地に、
インカ人が黄金を運び込んだ隠された砦があると考え、
何人もの探検家がアンデスを訪れたものの、それを見つけることはできませんでした。
その後300年間にわたってこの伝説は信じられ、18世紀後半まで、
ヨーロッパの世界地図には、エル・ドラードの名前が記されていました。
ですが実際には、インカ帝国最後の都市ビルカバンバの場所さえ、
それがどこだったのかが、わからなくなってしまっていたんです。

さてさて、エル・ドラードは19世紀になり、
ドイツ人の地理学者にして探検家、アレクサンダー・フォン・フンボルト
(ペンギンや海流にその名を残す人)によって
アンデス一帯が調査され、地図上から消し去られました。
そして、アメリカの探検家ハイラム・ビンガムが1911年、
標高2300mにある空中都市マチュ・ピチュを発見。

最初、これがビルカバンバかと思われましたが、
そうではありませんでした。上記したように、インカには文字がなかったため、
この高地にある遺跡が何のためのものかは謎に包まれ、
いろいろな説が提示されています。

こうして所在が失われていたビルカバンバですが、1970年代になって、
エスピリトゥ・パンパという遺跡がビルカバンバの地であったことが、
文献の記録から立証され、日本人調査団によって
考古学的にも証明されたんですね。もちろん、マチュ・ピチュとビルカバンバ、
どちらの遺跡からも大量の黄金は発見されませんでした。

空中都市 マチュ・ピチュ








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古本屋のバイトの話

2018.01.31 (Wed)
俺、大学生ですけど、去年の夏休みに短期間、古本屋のバイトをやったんですよ。
といっても、雇い主は親戚のオジサンなんですけどね。
2週間、どうしても外国へ行かなきゃならない用事があるから、
その間だけ店を見てくれって、俺の親父を通じて話が来たんです、
バイト料は30万、これって破格でしょ。1日あたり2万以上って計算になります。
ただ、住み込みで頼むって言われたので、ずっと店にいなくちゃなんなかったです。
オジサンの店は都内でも郊外のほうにあって、築70年にもなる古びた建物でした。
電車を乗り継いで訪ねていくと、珍しくスーツを着たオジサンが待ってて、
「いや、久しぶり。大きくなったな。せっかくの夏休みのところ悪いんだが、
 シリアで貴重な本が発見されたんで、買い付けにいかなくちゃならん。
 向こうでやるオークションに参加するんだ」

「親父に言われてきたんですけど、俺、店番しかできませんよ。
 本のことはまるでわからないんで、買い取りなんてできないです」
「それはいいんだ。本を売るお客さんが来たら、店主は不在だからできません、
 って言ってくれればいい。それに、ここは特殊なものをあつかう店だから、
 本を売るほうのお客さんはまず来ない」
ええ、オジサンの店はマンガや文庫本なんかは置いてなかったんです。
神道に関する分厚い専門書がほとんどで、あとは古文書っていうんですか。
俺なんかには読めない字で書かれた和綴じの本が、
鍵のかかるガラスのケースに数十冊、陳列されてました。
オジサンは「じつは買うほうの客もめったに来ないだろうと思う。
 うちは一般の本は置いてないし、特別な本は、集めてる人の間で、

 どこそこの店に入ったって情報がすぐに回るから」こんなことを言い、
続けて「あとな、住み込みのほうだが、奥の部屋の押し入れに布団が入ってるから、
 それを出して寝てくれ。食いもんは台所の冷蔵庫に大量に買ってあるが、
 自分で弁当を買ってきたりしてもかまわんし。ただ店は、朝の8時から夕方5時まで
 開いててくれ。それから夜もずっと店に詰めててくれな。
 それと、これは大事なことなんだが、赤い着物を着たお客さんがもし来たら、
 必ず携帯に連絡を入れくれ」それで、オジサンと携帯の番号を交換しました。
あと、この他にも細かい指示をいろいろ受けました。
オジサンは、俺に店の鍵と前金の10万円を渡し、空港に向かったんです。
で、翌日、朝の7時半に店に着いて鍵を開けました。一歩中に入ると、
古い本の臭いでむせそうになりました。

なんていうかな、古い紙とホコリの臭いですよ。
前の日に来たときはそれほどでもなかったんですが、そのときは強く感じました。
カーテンを開けて電気をつけ、店の奥のカウンターに座りました。
それからは・・・退屈との闘いでしたね。
なにしろお客さんなんて来ないんです。ただひらすら座ってるだけ。
奥の部屋にはテレビはありましたが、8時から5時までは店にいなくちゃなんないし、
読書しようと思っても、店の中には俺が読めそうな本なんてなかったんです。
そんな具合で、午前中はお客さんは一人もなし。午後になって、
大学の教授みたいな雰囲気の男性が1人来て、3冊揃いの全集を買っていきました。
はい、値段は裏表紙のところに貼った紙に書いてました。
それが40万円だったんですよ。ああ、こういう商売なら、

俺に30万円のバイト料を払っても割に合うんだろうなって思いました。
結局、その日のお客さんはそれだけだったんです。
5時になったんで店の鍵を閉めてカーテンをひき、奥の部屋に入りました。
冷蔵庫から大量に入ってる缶ビールを3本出し、それ飲みながら、
昼に買ってきた弁当を食ってテレビを見て10時ころに寝ました。
でね、いつもはそんなに早寝することはないんで、夜中に目を覚ましたんです。
時計を見たら2時過ぎで、もう一本ビールを飲んで寝なおそうと思って
取りに起きたら、店のほうでパチン、パチンって音がしたんです。
うーん、プラスチックの下敷きに輪ゴムを弾くような音です。
気になったんで店に下りてったら、稀覯本を入れてあるガラスケースの中が、
ぼうっと光ってたんです。黄色い柔らかな光でしたね。

で、近寄って見ると、ケースの中に開いて展示してある本の一冊が、
ひとりでにページがめくれてたんです。不思議な光景でしたよ。
柔らかい和紙の本なのに、ページが開くたびにパチン、パチンって乾いた音がして、
その本から、じわっとにじみ出すようにして光が出てたんです。
いや、怖くはなかったです。前もってオジサンから言われてたんです。
「ここにある本はみな古いものだし、内容も古神道の秘密を書いたものが多い。
 だから店に泊まり込んでいる間に不思議なこともあるかもしれない。
 でも、古い本はそういうもんだから、気にしなくていい」って。
でね、なんか魅了されたようになって、10分ほどもそれを見てたんです。
そしたら、挿絵の入ってるところでページがめくれるのが止まって、
絵に描かれてる神主のような人物が、本からむくっと起き上がったんです。

これはさすがに驚きました。その身長10cmに満たない神主は、
ガラスケースの本の上で俺のほうに向いて正座すると、深々とお辞儀をしたんです。
俺もあわててお辞儀を返しました。そしたらそこで本から出てた光が消え、
店の中が真っ暗になったんで、俺は奥の部屋に戻ったんです。
不思議なことは他にもありましたよ。夜中に店の中が青白くチカチカ光ってたんで、
行ってみると、そこらじゅうで字が乱舞してたんです。ええ、変体仮名っていうんですか、
俺の読めない字が何百、何千も、青く光りながら飛び回っていたんです。
あと、本の間から朗々とした祝詞が聞こえてくることもありましたね。
そんな具合で毎日が過ぎていきました。お客さんはずっと1日数人程度で、
トラブルが起きたりはなかったんですけど・・・
もうあと2日でバイトの期間が終わるって日の午後ですね。

ぼうっと店番をしてると、いつの間にか、すぐ近くに女の人が立ってたんです。
表の引き戸が開く音なんてしなかったのにです。
血の色を連想させる鮮やかな赤の着物を着てました。ええ、それが、
すぐ近くで見たはずなのに、顔を覚えてないんですよ。
日本髪だったことしか記憶がないです。その女の人は俺に向かって、
「○○△△の本がこちらにあると聞いたのですが、ゆずっていただけませぬか」
こんな内容のことを言いました。いや、難しい名前の本だったんで覚えてないです。
でね、あ、これがオジサンに注意されてた赤い着物の女かって気がつきました。
それで「ちょっとお待ち下さい」って言って奥に引っ込んで、
オジサンの携帯に連絡したんです。長い呼び出しの後にオジサンが出たんで、
「赤い着物の女が来て本を売ってくれって言ってます。どうすればいいですか」

って聞きました。オジサンは「・・・そうか、また来たか。じゃあな、
 奥の部屋の神棚に桐の箱が上がってるから、それを女に渡せ。
 たぶんそれで帰るはずだ」神棚に行ってみると、平べったい大きな箱があり、
 持つとかなりの重さだったんです。それを店に持っていき、女の人に、
「店主がこれをお渡ししろと申してます」と差し出しました。
女の人は、カウンターの上で箱にかかった紐をほどいて蓋を開け、
そしたら中から大きな鏡が出てきました。あのほら、古墳時代にあるような昔の鏡です。
ただ、錆びたりはしてなくて金色に輝いてました。女の人は「これはなんと?」
と言いながら両手で鏡を持ち上げ、自分の顔を写すように掲げて・・・
「ギャオ~~~~~~~ッ」て吠えたんです。吠えるとしか言いようがない声でした。
その瞬間、ドロっと女の姿が溶けました。赤黒い泥になってしたたり落ちるみたいに。

で、持ってた鏡が床に落ちてバリンって砕けたんですよ。
俺は呆然としてましたが、まだ携帯はつながってたんでオジサンに報告すると、
「ああ、そうか撃退できたか。よかった。もうすぐ日本に戻るからよろしく頼む」
それから変わったことはなく、オジサンはかなり日に焼けて戻ってきました。
店の鍵を返して、残りのバイト料の20万をもらったんです。
「ご苦労だったね。客は少なかったろうが、いろいろあっただろう」
こう言われたんで「あの赤い着物の女は何だったんですか」と聞き返しました。
「あれは・・・まあ、本のコレクターだな。危険な本というのはけっこうたくさんあって、
 それが何冊か揃うと、日本に災いが起きたりもするんだ。今回は鏡一枚で済んだが、
 もう通用しないだろうから、別の手を考えないといかんな」 まあこんな話なんです。
いや、世の中には不思議な世界があるもんだと思いましたよ。







 


青坊主と青頭巾

2018.01.29 (Mon)
今回は妖怪談義です。とりあげるのは「青坊主 あおぼうず」
という妖怪ですが、これもねえ、わからないんですよ。
下に石燕の絵を掲載しましたが、これを見れば、
家の軒下に墨染の衣を着たでっぷりと太った人物がいて、頭はハゲており、
僧籍にある者なのは間違いないようです。年齢は若くはなさそうに見えます。
また、額の真ん中に目が一つだけあります。
詞書があればいくらか手がかりがつかめたかもしれませんが、それもなし。

クリックで拡大できます


石燕の描いた妖怪には、何らかの伝承が伝わっているものと、
まったく何の言い伝えもなく、おそらく石燕が創作したのだろうと推測される
ものとがあります。この青坊主は前者で、各地に伝承が残っているんですが、
それがみなバラバラなんですね。ほとんど共通点がありません。

例えば、長野県の青坊主は、とある松の木を、息を止めて7回りすると出現し、
「石踏むな、松折るな」と告げる。
山口県では、人間の前に現れて相撲をとろうと誘う。
見た目は小さいので、油断して相撲をとると、すごい力でに放り投げられる。
静岡県では、春の日暮れに、家に帰り遅れた子供が麦畑を走っていると、
麦の中から青坊主が現れてその子をさらう・・・まあこんな具合です。

うーん困った。もう一度、石燕の絵を見ますと、
画面の中に上から吊るされたものが2つあります。
家の中にある土瓶と、軒から下がっている風鐸?で、
この両者が、昔の天秤ばかり(竿秤)に見えないこともないですね。
ちなみに、竿秤に刻んである目盛りを「竿目(さおめ)」と言います。

石燕の絵って、描かれている小道具には何らかの意味があるんです。
ですから、何か「吊す」ことに関係のある伝承がないか探したら、ありました。
香川県の伝承では、ある家で主人が出かけて子守女が留守をしているとき、
青坊主が現れて「首を吊らないか」と言う。女が断ると、
青坊主は手を長く伸ばし、無理矢理に女の首を吊ってしまった。

そのときに守りをしていた赤ん坊が火のついたように泣き出し、
その声を聞いた近所の人が様子を見にやってきて、首を吊っている女を発見し。
縄から下ろしたため、女は一命をとり留めることができた。
こんな話があるようです。もしや、これと関係があるのかもしれません。

あと、青坊主という名称から考えてみると、青という言葉には「未熟な」という
意味があります。でも、この絵の様子は、修行僧という感じではないですね。
青々したヒゲの剃り跡とか、青々した頭などとも言いますが、
それもちょっと違うのかなあという気がします。

で、青で考えていたら、上田秋成の怪異小説 『雨月物語』に、
「青頭巾」という話があるのを思い出しました。「青頭巾」の筋は、
ある山寺に高徳の僧が住んでいたが、寵愛していた稚児が病気で亡くなると、
悲しみのあまりその遺体に何日も添い寝して、ついには気が狂い、
やがてその死肉を食らい、骨をなめ、食い尽くしてしまった。
こうして僧は鬼と化し、里の墓をあばき屍を食うようになった。

里人が恐れているところへ通りかかった旅の僧、改庵禅師(実在の人)
が話を聞き、この僧を救おうと決意し、その棲家へとおもむき一夜の宿を借りた。
真夜中になって、鬼と化した僧は改庵禅師を取って食おうと探し回ったが、
どこにも姿が見えない。鬼は疲れ果てて倒れ、
やがて朝になって正気に戻ると、目の前に改庵禅師が座っていた。

改庵禅師は、飢えているなら自分の肉を食ってもよいと言い、
昨夜はここでずっと坐禅を組んでいたと告げると、
僧は餓鬼道に堕ちた自分の浅ましさを恥じ、禅師に救いを求めた。
禅師は僧を庭の石の上に座らせ、自分がかぶっていた青頭巾を僧の頭にのせ、
一つの禅の公案を授けた・・・こんなお話です。
結末が気になる方は、ぜひ『雨月物語』で読んでみてください。

さてさて、青坊主と青頭巾は関係あるんでしょうか? 
上田秋成と鳥山石燕は同時代の人です。石燕の時代には、
他にも本居宣長や曲亭馬琴、山東京伝などの文化人が活躍していました。
しかも、青坊主が載っている『図画百鬼夜行』と、秋成の『雨月物語』は、
どちらも同じ安永5年(1776年)に刊行されてるんです。

うーん、偶然と言えないものを感じます。
『雨月物語』の序は1768年に発表されているので、
もしかしたら、石燕は1776年以前に書かれた内容を知っていたかもしれません。
まあ、これに特別な根拠はなく、おそらく自分の考え過ぎなんだと思いますが、
もし、いくらかでも関係があるとしたら面白いですよね。

『雨月物語』の青頭巾







中国科学の脅威

2018.01.28 (Sun)
今回はこのお題でいきます。当ブログでは政治的な話題はできるだけ避けてますので、
なるべくそっち方面に話がいかないようにしたいとは思います。
ただ、そうもいかない面があるかもしれません。
さて、自分は科学ニュースが好きでよく見てるんですが、
5・6年前頃から、中国発のニュースが増えているなあと思ってました。
今、各社のニュースをざっと見ても、3つほど話題が上がっています。

学生4人、「月面基地」模した実験室に200日間連続滞在。
中国の首都北京にある大学の学生4人が、月面での生活を模擬実験する施設内で、
200日間の連続滞在を無事完了した。国営メディアが26日、報じた。
中国は、有人月面着陸という長期目標を掲げて準備を進めている。

(1/26 AFP)

中国で“宇宙に穴が開くレベル”のスーパーレーザー(出力5300兆ワット)爆誕!
今月24日の英「Daily Star」によると、このたび世界最強のレーザーを作成したのは、
中国科学院と上海科技大学の合同研究チームだ。
彼らの作った超短パルス・高強度レーザー実験装置SULFは、
チャープパルス増幅法によって超短パルス・高ピーク出力レーザー光を実現、
現在世界最高の5.3ペタワット(5300兆ワット)の出力を得たという。

(1/27 tocana)

霊長類では初、体細胞クローンのサル誕生 中国のチーム。
サルの体細胞から、遺伝的に同じ情報をもつクローン2匹を誕生させることに、
中国科学院の研究チームが成功した。哺乳類の体細胞クローンは羊や牛などで
誕生しているが、霊長類では初めて。ヒトに近いサルのクローンは、
医療研究などに役立つとチームは主張している。
ただ、クローン人間の誕生に近づくことにもなり、議論を呼びそうだ。

(1/25 朝日新聞デジタル)

こういったニュースで、最初のは宇宙科学、2番目は物理工学ですかね、
3番目が生命科学と、それぞれ分野も違います。中国の自然科学が、
各方面で、かなりのスピードで進展を遂げているのがわかると思います。
ネットを見ていると「中国の科学なんてたいしたことはない、
ノーベル賞もほとんど取ってないじゃないか」みたいな論調が目立ちますが、
自分はそんなことはないと思ってます。これ、かなりの脅威ですよ。

中国の科学が伸びている理由はいろいろあるでしょうが、
自分は、次の3つの点が大きいんじゃないかと思います。
① 人口が多く、そのため理系の研究者数も多く、当然、優秀な研究者の絶対数も多い。
② 潤沢な研究予算がある。特に国家プロジェクトに関しては、
  金に糸目をつけずに進めることができる。
③ 「倫理」の壁が低い。

まず、①から考えていきましょう。「世界の研究者数 国別ランキング」
という資料を見れば、これは理系以外の研究者も含まれるでしょうが、
圧倒的第1位が中国で162万人、2位がアメリカで135万人、
日本が3位で66万人です。もちろん中国は総人口の母数が大きいので、
研究者の割合は日本のほうが高いものの、やはり総数が多いほうが、
画期的な研究が出てくる可能性が高まるのは間違いないでしょう。



さらに、日本は少子化、人口減少社会ですよね。
これから、若い研究者の数はどんどん減っていくものと考えられます。
日本が今後も技術立国していくつもりなら、これはマズイですよね。
大学の文系学部の改廃などの議論が出てくるだろうと思われます。

②について、日本の科学技術関連予算は減っているわけではないんですが、
ずっと横ばい状態を続けています。これに対し、中国のそれは右肩上がりに増大し、
現在は米国についで世界2位、日本の2倍以上と考えられます。(下図)
これ、民主党政権時代に予算の仕分けで、蓮舫議員がスパコンの研究開発費に対して、
「世界一になる理由は何があるんでしょうか? 2位じゃダメなんでしょうか?」
と言ったのは記憶に新しいところです。

日本はご存知のように世界でも類を見ない財政赤字国家で、高齢化のために、
これからも大幅な社会保障費の増大が予測されています。
ですから、蓮舫議員の言ったこともわからなくはないですが、
もし潤沢な予算があるのであれば、2位よりは1位のほうがいいに決まってます。
この点、中国は社会主義体制の国ですので、国家が必要と考えたプロジェクトは、
他に優先して予算を配分することができます。

主要国における研究開発費総額の推移


③について、科学研究は倫理的に進められる必要があります。
特に、生命科学の分野では大切なことなんですが、
2016年、中国でヒトの受精卵でDNAを改変したとの報告が出て、
世界中で大きな議論を呼びました。科学者たちが国際会議を開いて対応を協議したほか、
米ホワイトハウスが懸念を表明するなど、全世界に波紋が広がったんですね。

ヒトへの遺伝子操作やゲノム編集は、現時点では禁断の領域と考えられています。
病気の診断や治療に用いられるだけではなく、産まれてくる子どもの、
目や肌の色、身長や知能まで変えられる可能性があるからです。
しかも、それで産まれてきた子が、終生健康に過ごせるという保証もありません。
遺伝子操作した受精卵を母体の子宮に戻すことはタブーなんですね。

この点、日本は世界の中でも慎重なほうで、新しい生命科学技術に対しては、
倫理委員会を設けて長い時間をかけて審議します。
また、キリスト教国もそうですね。人工授精や体外受精に関して、
キリスト教国で導入されるまでには、かなりの論議がありました。

関連記事 『あなたはパーフェクト?』

ですが、中国は基本的に無宗教ですし、全体主義体制です。
ですから、倫理的なタブーが少ない。これは旧ソ連もそうでした。
昨年11月、中国黒竜江省ハルビン医科大学で、脳死者どうしの「ヒト頭部移植」
が行われたというニュースが出てきました。

手術を行ったのはイタリア人医師でしたが、この手術が、
自国では倫理的に認められないため、中国医師団との共同研究という形で
実施されたようです。これからも、あっと驚くような発表が、
中国からは出てくるんじゃないかと予想されます。

さてさて、科学技術というのは、人類全体の幸福のためにあるものだと思います。
たんなる功名心や利益追求、軍事的優位性のために
進められるべきでないのは当然です。
さらに、「何が幸福なのか」という点については、多様な考え方があり、
多くの議論があるはずです。そこで必要になってくるのは倫理学や宗教です。
しかし、現在の中国はどうでしょうか。自分は脅威を感じずにはいられませんね。

関連記事 『倫理学的思考実験』









弟の異変の話

2018.01.27 (Sat)
これ、俺が小6のときの話ことなんだ。ただし、俺自身には何も起きてない。
4つ下で、そのとき小2だった弟がいるんだけど、その弟の話なんだよ。
あれは夏休み中のことだったな。家族で1泊の旅行にいったんだ。
場所は北陸のほうだが、詳しいことは言わないほうがいいだろ。
1日目に海水浴場へいって温泉に泊まり、
2日目に、その地方でけっこう有名な神社にお参りしんだよ。
俺も弟も神社には興味がなかったけど、母親がそういうのが好きで、
どうしてもってことで寄ったんだ。すごく広い参道で神社も大きかったが、
参詣に来てる人はそんなに多くはなかった気がする。そのあたりはよく覚えてない。
で、お参りした後にお神籤を引いたんだ。俺と弟で2枚。
俺は中吉か小吉か、そんなんだったと思うが、弟が引いたやつは凶だったんだ。

そんときは、弟は凶の意味がよくわかってなかったな。
けど、それを見た母親が、もう一度引きなさいって言って、弟だけ引いたらまた凶。
それで3回目引くかってなったときに、親父が「まあ、もういいだろう。
 何事も本人の行い次第なんだから、これを幸運に変えていけばいい」
みたいなことを言って、それで俺と弟は参道から外れたところの松の木の枝に、
お御籤を結びに出たんだよ。俺はすぐ結べたが、
弟は背が低かったんで親父が抱き上げた。それ見てたら、
弟が手を伸ばした先の松の枝に、何か長くて赤黒いものがからみついてたんだ。、
最初それ、ヒモだと思ったけど、弟が結び終えようとしたときに、
するするっと動いて弟の顔にあたった・・・
「あ、蛇か?」親父に知らせようとしたが、そんときはもう見えなくなってた。

だから俺の見間違いかって考えたけど、降りてきた弟の額の真ん中が、
うっすらと赤くなってた。「お前、ここ痛いとかないか」って聞いたら、
首を振ってたんで、たいしたことないだろうと思って忘れてしまったんだ。
その後、昼飯を食って電車で家に戻ったんだよ。それで、その夜のこと。
その頃はまだ、俺と弟は同じ部屋の2段ベッドで寝てたんだよ。
時間は2時ころだったと思うけど、ベッドがガタガタ揺れるんで目が覚めた。
子どもだし、1度寝ると朝まで目が覚めなたりしなかったんだが、
それが起きてしまうくらいすごい揺れ。しかも「イギ~~~、イギ~~」
という声が聞こえて、弟だと思った。それで半分寝ぼけながら、
ベッドの階段を上って弟の布団をのぞき込んだ。そしたら、
弟は両手を天井に向けて伸ばした状態で、「イギ~」って叫んでたんだ。

それに、足を踏んばってベッド全体を揺らしてたんだよ。
俺はびっくりして呼びかけたが返事はなし。ただ「イギ~~~、イギ~~」
と叫ぶだけ。これは大変だって、下に降りて電気をつけ、
それから親を呼びに行ったんだよ・・・両親が来てもそのままの状態で痙攣してたから、
救急車を呼んだ。で、病院についたあたりで弟は正気に戻って、
「どうしたの?」とか言い出した。結局、その日と翌日もあれこれ検査したが、
特に異常はなしってことだったんだ。うーん、いや、そんときは、
神社で見たことと関係があるとは思わなかったよ。で、それ以来、
弟の元気がなくなった。まあ、もともとそんなにうるさいやつではなかったんだが、
ほとんどしゃべらなくなって、飯もあんまり食わない。両親が心配して、
具合が悪いとこがないか聞いても、「だいじょうぶ」って言うだけだった。

んで、夏休みの終わり頃に弟を連れて学校のプールに行ったんだよ。
そしたら、俺の同学年の友だちが何人か来てて、俺はそいつらと遊んでた。
ほら、プールって全員水から上がる休憩時間ってあるだろ。
そのときに弟を探したが見つからなかった。プールのフェンスの中にはいないみたいで、
外まで出てみたんだ。すると、草むらに海パン姿でしゃがみ込んでいる子がいて、
後ろ姿だが弟だと思った。「お前、そんなとこで何を・・・」近づいてったら、
弟の体の前に1mくらい長く伸びてるものがあった。うーん、赤黒いソーセージというか、
細長くなったひき肉というか、それが小刻みに震えながら動いてて、
その先に黒い小さな生き物の死骸があった。今、考えればモグラだったと思うけど、
夏の日差しで乾いて臭いとかはしなかったな。
その死骸に赤黒いものの先が巻きついてたんだよ。

それを見て、前に行った神社のときのことを思い出した。
「あ、あれと同じか」って。気味悪かったが「おい、何やってる!」
弟の両肩をつかんで振り向かせた。そしたら、ほら、掃除機の線が巻き取られていくだろ。
あれみたいに、長く伸びてたものがしゅるしゅるって弟の口の中に入ってった。
そして弟は、無表情なままで「イギ~~」って言ったんだよ。
気味が悪かったけど弟のことが心配だったんで、プールはやめて家に連れて帰り、
母親にプールであったことを話した。あんまり俺の言うことを信じてるようじゃなかったが、
母親は弟を近くの病院に連れてった。けど、異常は見つからなかったみたいだ。
それから、俺は弟のことが怖くなったんだよ。
あの赤黒い蛇みたいのが弟の体の中に住んでるんだと思ったんだ。
弟の体を乗っ取ってるんだろうって。だから弟にあんまり近づかないようにしてた。

そうは言っても、同じ家に住んでるんだし、2段ベッドで寝てるんだし、
近づかないわけにはいかなかったけどな。その後、しばらく変わったことはなかった。
弟は相変わらず元気がなく、けど、宿題なんかはちゃんとやってた。
で、夏休みが終わって3日目の朝のことだ。俺のいたところは集団登校で、
俺は6年生だから、下の学年のやつら5人ほどを連れて先頭で歩いてたんだ。
その中で後ろのほうにいた弟が、学校まであと5分くらいのとこで、
急に「ギイイイイイイイ」と声を上げた。そして、列から外れて、
学校に隣接してる市の運動公園のほうへ走り出していった。
俺はあっけにとられてたが、5年生の女子に集団登校を頼んで、
弟を追いかけていったんだ。運動公園の野球場のバックネットの後ろを、
弟は手を振りまわしながらすごい速さで駆け抜けてって追いつけない。

「おーい、待てよ」と声をかけても、ふり向きもしないで林に入ってった。
そこ、けっこう深い林だったんだよ。そのときは俺はかなり息を切らしてたが、
弟はまったく平気で木の間をぬいながらどんどん奥へ進んでいき、
やや斜面になったところで立ち止まって、太い松の木の後ろに回り込んだ。
・・・こっから先のことは思い出したくない。弟のいる前に首つり死体があったんだ。
黒っぽいコート着たままの男性の。弟の体がガクガク揺れ、
弟からまたあの赤黒い肉のヒモが飛び出してた。
で、ヒモはぐるぐると首つりの体に巻きつき、死体がぐらっと傾いた。
そこでやっと俺は弟のとこまでいって、後ろから胴をつかんで引っぱった。
とにかく、その場から引き離そうと思ったんだよ。
そのとき、弟の口からずるっと音を立てて、ヒモの後ろのほうが飛び出た。

そこで弟を抱えたまま走って逃げればよかったんだが、目が離せなかった。
ヒモは蛇のように首つり死体をぐるぐると這い上っていき、
うつむいてた男の口の中に入った。で、1m以上あるヒモが全部入り終わったとき、
首つり死体が真っ黒な顔を上げて目を開いたんだよ。そしてこんなことを言った。
「たしかに受け取った。だが遅い。もう死んでしまった」
首つり死体は目を閉じ、首がぎゅーんと伸びて足が地面についた。
そこまでが限界だった。俺は弟を抱えて走り出した。
1度もふり返ったりはしなかったよ。よれよれになって通学路まで出て、
そっからは弟の手を引いて学校までいった。
で、玄関で登校指導してる先生に、林の中の首つり死体のことを話したんだ。
弟はぐったりしてたから、保健室に連れていかれた。

これでだいたい話は終わりだよ。俺が教室にいってると遠くでパトカーの音が聞こえた。
しばらくして、先生方が何人も来て別室に連れてかれ、事情を聞かれたんだ。
見たとおりのことを話したよ。あの肉のヒモのことも。
それから母親が学校に来て俺と弟は家に帰った。
もちろん家でも話を聞かれたし、後で警察にも聞かれた。
何回も同じ話をしたから、そのときのことをこうやって覚えてるんだよ。
いや、警察とかが俺の話を信じたかはわからない。たぶん信じちゃいなかったろう。
これは後でわかったんだが、首つりはたしかにあって、40代のサラリーマンてことだった。
会社の金を使い込んだらしい。弟はショックを受けてた俺よりずっと元気で、
前のような感じに戻ったが、首つりのことは何も覚えてなかった。で、俺はその後、
3ヶ月くらいカウンセラーと心療内科に通わされたんだよ。








『日本書紀』の中の爆弾

2018.01.26 (Fri)
武烈天皇


変な題名だと思われますでしょうが、『日本書紀』のあちこちには爆弾が
埋め込まれてるんです。そこを突っ込んで研究すると、
爆発してすべてが崩壊してしまう破壊兵器です。その中でも最大のものが、
武烈天皇の存在だと自分は考えます。

日本の古代史で、武烈天皇の詳しい研究ってとても少ないんですよね。
武烈天皇の次代は継体天皇で、その研究がたくさんあるのと対照的です。
なぜ研究が少ないかというと、歴史学者のみなさんは意識的、あるいは無意識に、
武烈天皇の存在が爆弾だということを知ってるんだと思います。
それで嫌がってるというか、怖がってるというか。

武烈天皇は第25代天皇、名前は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)。
年代ははっきりとはわかりませんが、次代の継体天皇の治世、
西暦527年に九州で磐井の乱が起きていることを考えれば、
実在するとすると、だいたい500年前後の頃の人だと思われます。
あと、武烈天皇の陵墓は「傍丘磐坏丘北陵」ですが、グーグルアースで見ると、
前方後円形などの古墳ではなく、自然の山のような形をしていますね。

では、日本書紀で武烈天皇がどう書かれているか見てみましょう。
「長好刑理 法令分明 日晏坐朝 幽枉必達 斷獄得情 又 頻造諸惡 不修一善
凡諸酷刑 無不親覽 国內居人 咸皆震怖」

これ、すごい文章です。訳すと「成長すると裁判を好み、法律をよく知っていて、
一日中座って政務を行い、無実の罪は必ず見つけ出すなど、裁判の審理は見事だった。」
ここまで読むかぎりは、司法に明るい立派な天皇のようですが、さらに続けて、
「いろいろな悪事をしきりになさり、良いことは一つもしなかった。
あらゆる残酷な刑罰を行い、すべて自分で確認した。人々はみな天皇を震え恐れた。」
前半の文章と対立するような内容が後半で出てきます。

ただこれ、中国においては、帝王は「徳」(道徳)によって世を治めるという
儒教的な考え方が主流でした。法は、あくまで徳を補助するためのものだったんです。
ですから、法治は徳治よりもレベルが下と見られましたし、
中国歴代皇帝の中で、法で国民を縛った人物の評価は低いんですね。
『日本書紀』は、これを踏襲しているとも考えられます。

では、どんな悪事を武烈天皇は働いたんでしょうか。
・妊婦の腹を生きたまま裂いて、その赤子を見た。・人の生爪をはいで、芋を掘らせた。
・人の頭髪を抜き、木に登らせてその木を切り倒し、落下させて殺した。
・人を池の樋に入れ、外に流れ出てきたところを矛で刺した。
・女を裸にして馬の交合を見せ、陰部の濡れた者は殺し、そうでない者は奴隷にした。
まあこんな感じです。この部分は「暴虐記事」といって、あまりな内容のため、
戦前の『日本書紀』からはカットされていたという話もあります。

さて、前後の記述から、武烈天皇は若くして亡くなった思われ、
子どもがいませんでした。また男子の近親者も周囲にいなかったことになっています。
後継の天皇に困った群臣は、すったもんだの末に、遠く離れた越前の国から
第15代応神天皇の5世の子孫を探し出してきて、次の天皇になるよう要請しました。
それが継体天皇です。継体というのはずっと後代につけられた諡(おくりな)ですが、
「系統を受け継ぐ」といった意味を持っています。

この『日本書紀』の部分は、中国の王朝交代時の記述によく似ていると言われます。
例えば古代中国で、殷(商)から周に代わるときの殷の王は紂(ちゅう)でした。
『史記』には、紂王が愛姫である妲己の歓心を買うため、
毎日、酒池肉林の宴会を催し、炮烙(ほうらく)の刑などの残虐な刑罰を行い、
妊婦の腹を裂いて胎児を見たり、気まぐれで老人の脚を切って骨を調べた、
などといったことも書かれています。そのため、
殷は天から見放されて、周による易姓革命が起こったわけです。

殷(商)の紂王と妲己
ダウンロード

つまり、上記の暴虐記事は、継体天皇の即位を正当化するため、
中国の故事にならってわざと書かれたものではないか、
という疑惑があるんですね。
まあ、そうなのかもしれません。ちなみに『古事記』の武烈天皇の記事は
わずか一行程度で、子どもいないという他に何も書かれていません。

さて、本項の目的は、武烈ー継体の間で王朝交代が起きたかどうかを明らかに
することではなく、『日本書紀』の信憑性を問題視しているんです。
武烈天皇の存在については、次の3つの場合が考えられます。
① 『日本書紀』の武烈天皇の記事はすべて史実である。
② 武烈天皇は架空の存在で、そういう人物はいなかった。
③ 武烈天皇のモデルになる人はいたが、暴虐記事は架空の内容である。

これ、『日本書紀』に書かれている内容をすべて史実とする立場の
研究者には、②でも③でも困りますよね。
だって日本書紀は嘘を書いていることになるわけですから。
②で、武烈天皇がいなかったとすれば、
その父の仁賢天皇の存在も怪しくなります。

天皇の系譜は万世一系でつながっているので、どっか一人でも架空の存在だと
全体が疑われてしまいかねません。③でも同じです。
この部分は信じ難い内容だから架空の記事だろう・・・しかし、どの部分が架空で、
どの部分が事実であるかを仕分ける根拠なんてないですよね。

ですから、戦前は武烈天皇の研究は不敬にあたるとされて進みませんでしたし、
戦後は、上記のようなことから、
あえて触れようとする研究者は多くなかったんです。
ここに触れるのは不発弾を掘り起こすようなもので、
自分の研究の土台である『日本書紀』の信憑性を問われかねないからです。

さてさて、現在の文献史学では、これらのことを踏まえて、
継体天皇以前の研究はたいへん少なくなってきています。
『日本書紀』の記述を根拠として研究を進めても、その信頼性が担保できない、
という考え方が浸透してきているためだと思われます。

ですが、第21代雄略天皇(大泊瀬幼武 おおはつせ わかたける)のように、
埼玉の稲荷山古墳、熊本の江田船山古墳から、
ともに雄略天皇とも考えられる「ワカタケル」という銘の入った鉄剣が
出土している場合もあります。このように、他の文献や考古学的な裏付けが
できそうな場合にかぎり、研究が進められる状況になってきているんです。

関連記事 『日本書紀成立の3事情』






ケツァルコアトル伝説

2018.01.25 (Thu)
ケツァルコアトル神
はんsき

前に「ココリットリって何?」という記事を書きましたが、
その続きみたいな内容です。ただし「伝説」とあるのに留意してください。
まず、ケツァルコアトルというのはメソアメリカ文明で広く信じられていた神です。
アステカ文明ではケツァルコアトル、マヤ文明ではククルカンと呼ばれましたが、
同じ神と考えられています。その姿は羽毛を持つ白い蛇です。
人類に文明を授けた文化神であり農耕神、また風の神、金星の神など、
多様な神格を持っていました。

メソアメリカ文明


メソアメリカは多神教で、この他にもさまざまな神がいるんですが、
ケツァルコアトルのライバルとして登場するのが、テスカトリポカです。
黒いジャガーの姿で描かれ、戦闘、夜、月などを司っていました。
アステカ文明では太陽を信仰して、消滅することがないよう多数の生贄を
捧げていましたが、創世神話ではケツァルコアトルとテスカトリポカが、
交代で太陽を務めたことになっています。

ケツァルコアトルは平和の神ともされ、生贄の儀式を好まず、
人々に人身御供をやめさせたとされます。そのため、
生贄が大好きなテスカトリポカのうらみを買い、呪いのかけられた酒を飲まされ、
大暴れしたあげくに、自分の妹と近親相姦のタブーを犯してしまいます。

そしてアステカの地を追放されてしまうのですが、このとき、
自らの宮殿を焼き払って財宝を埋めた後、「自分は一の葦の年に帰ってくる」
という予言を残し、何羽もの美しい鳥となって空へ舞い上がったと言われます。
一の葦の年はアステカ暦で1519年でした。

ケツァルコアトルの使いとされるケツァール鳥


さて、アステカ帝国はモクテスマ2世の治世。アステカ第9代の君主で、
1502年、テノチティトランにおいて35歳で帝位につきました。
アステカの皇帝はみなそうでしたが、彼もまた優秀な神官でもありました。
その治世は最初のうちは平穏でしたが、1510年頃から、
北の夜空に彗星が現れたり、火山が爆発しテスココの湖が煮えたぎるなどの、
不吉な出来事が起こり、彼を悩ませていました。

そして運命の1519年、一人の男に率いられた軍勢が、キューバを経て
メソアメリカの地へと上陸します。男の名はエルナン・コルテス。
スペイン人のコンキスタドール(征服者)の一人です。
その評判は、母国スペイン以外ではあんまりよくないですね。

エルナン・コルテス


女好き、アステカ帝国を滅ぼした文化破壊者、略奪者、「黄金に飢えた豚」
とまで言われたりします。まあ、これは当たっていなくはないんですが、
コロンブスらがその価値を認めなかったカカオ豆に注目して積極的に持ち帰り、
世界にチョコレートを広めた、などという一面もあるんです。
そして、この時代のスペイン人ならあたり前ですが、
それなりに敬虔なキリスト教徒でもありました。

さて、コルテス軍はアステカと敵対していたトラスカラ王国と戦闘して
これを降伏させ、11月、首都テノチティトランへ到着しました。
これに対し、白い肌のコルテスら一行を、
白い神ケツァルコアトルの化身と考えたモクテスマ2世は、
抵抗することなく、「国をお返しします」と言って歓待し、
神殿を案内して血まみれの祭壇や、生贄の心臓をのせた銀の皿などを見せました。

ところが、コルテスの反応は意外でした。コルテスはモクテスマに生贄のような
野蛮なことはやめるように言い、神殿の祭壇に駆け上ると、
「これは悪魔だ」と叫びながら神像をみな蹴落としてしまったんです。
呆然とするモクテスマに対し、コルテスは神殿に聖母マリアの像を祭るように求め、
モクテスマはただただ困惑するばかりでした。

このあたりは皮肉だなあと思いますね。
長い追放から帰ってきたケツァルコアトル神は、
なぜか、聞いたこともない異国の神を信仰するよう強要してきたんですから。
この後、コルテスの部下がアステカの神官や貴族を虐殺して民衆の反感を買い、
その仲裁を頼まれたモクテスマは、民衆から投げられた無数の石で頭部を負傷して
翌日に死亡。コルテス一行は命からがらテノチティトランを逃げ出します。

アステカでは新しい皇帝クィトラワクを立て、コルテス軍との対決姿勢を強めました。
トラスカラで軍を立て直たコルテスはテノチティトランを包囲。
1521年、病死したクィトラワクに代わって即位していた
皇帝クアウテモクを捕らえ、ここでアステカは滅亡します。そしてこの後、
疫病「ココリットリ」の大流行によって、当時の中央アメリカの
人口の80%にあたる1500万人が命を落とすことになるわけです。

関連記事 『「ココリットリ」って何?』

さてさて、ざっと説明してきましたが、最初に書いたようにこれは伝説です。
「一の葦の年に帰ってくる」という言い伝えによって、
コルテスらがケツァルコアトル神の化身とされ、
そのためにアステカが滅びたという話には大きな疑問符がつきます。
せいぜい初動が遅れた程度だったと思われます。
また、アステカにはケツァルコアトルへの生贄についての記録や遺跡などが多数あり、
生贄に反対する神話が書かれたのはコルテスによる征服後だと推定されています。

最後に、当時のキリスト教は苛烈な一神教であり、
改宗しない異教徒に対して厳しい態度で臨みました。ですから、
ペルーのインカ帝国を滅ぼしたフランシスコ・ピサロなどもそうですが、
征服には、キリスト教の神の勢力版図を広げていこうとする意図があったんですね。
どのみち異教徒は地獄に落ちるんだから、虐待してもかまわないというわけです。

関連記事 『黄金郷伝説』

これと同じ頃、日本にもフランシスコ・ザビエルなどの宣教師が来航していましたが、
多数の日本人子女が、奴隷としてポルトガル商人に
買い取られていったという記録が残っています。
異教の国の全ての領土と富を奪い取り、その住民を終身奴隷にしてもよいという
権利書を、15世紀にローマ教皇ニコラス5世が
ポルトガル王に発行しているんです。ご存知だったでしょうか。

異教徒の地を武力で次々征服し、奴隷貿易にも関わったキリスト教国と、
生贄の心臓を生きたまま抉りとって神に捧げていたアステカ文明と、
どっちがより野蛮で非道だったのか、これはなかなか難しいところです。

関連記事 『パイドパイパー伝説』

じぇかい







幸運の壺の話

2018.01.24 (Wed)
大学の経済学部の3年生です。これ、オレの話じゃなくて、
友人の山口ってやつに起きた出来事なんですよ。まあ、聞いてください。
それでね、もう大学も3年目になるんですけど、オレ、あんまカッコよくないでしょ。
うちの大学は女子学生もけっこういるのに、全然モテないんですよ。
いつまでたっても彼女ができなくて。いやまあ、それはいいんですけどね。
で、友人の山口も同んなじで、すごい背が低くてやっぱモテない。
だからしょうがなく、いつも2人でつるんで行動してました。
ゲームやったり、酒飲んだりですね。いや、金もないんですよ。
だから店に行くなんてこともなくて、お互いの部屋を行き来して焼酎を飲むとかです。
そんな感じで、2週間ほど前、オレが夜に山口のアパートに行ったんですよ。
そしたらドアを開けてすぐの靴だなの上に、見慣れない金ピカの壺があったんです。

そうですね、高さが40cmくらいですかね。
陶器じゃなく金属製でした。それがすごい安っぽい光を放ってまして、
趣味の悪いしろものだったんです。山口は床に寝っ転がってポテチ食ってましたから、
「お前、何だよこの壺」って聞いたんです。そしたら、
「ああ、それ、こないだ朝市いったら骨董屋が店出してて、そこで買った」って。
朝市ってのは、オレらのいる地区の運動公園にテント張って定期的に開かれてるやつで、
野菜なんかが安いんで、オレも山口もよく利用してたんですが、
ときどき骨董屋や古本屋が出たりもしてたんです。
「えー、お前、こんなの見るからにニセモノじゃないか。バッカじゃねえか。
 いくら払ったんだよ?」まあ当然、そう聞きますよね。
山口はニヤニヤ笑って「それがなあ、いくらだと思う?」

「知らんよ」 「1円だよ、1円。しかも、この壺を買ったら箱いっぱいの野菜、
 大根とかジャガイモをただでくれるって言われたんだ」
こりゃ聞き捨てならんと思いました。そんなだったらオレも買いたいし。
「へええ、そりゃすげえ。どんな人が店出してたんだ?」
「それがな、今まで見たことない、なんか品のある爺さんだったな。黒のスーツ着て、
 白いヒゲを伸ばした」 「ふーん」
「そこの店の前を通りかかったら呼び止められて、兄さん、
 1円でいいからこの壺変わんかね、野菜たくさんつけるからって言われて」
「それも妙な話だなあ」でね、壺を手にとってみたんです。そしたら案の定軽くて、
 ブリキかなんかだろうって思いました。山口は、
「それな、爺さんが言うには「幸運の壺」なんだそうだ。

 壺の底に少しだけ水を入れて、出入り口のとこに飾っておくと、
 次々に幸運が舞い込んでくるって」 「信じたのか?」 
「まさか、でも1円なんてタダみたいなもんじゃないか。野菜もらえるんだし」
「でもけっこう大きいし、ジャマくさいだろ。燃えないゴミに出したらどうだ」
「それがな、爺さんは、捨てるのだけは絶対にしないって約束してくれって言ったんだよ」
「それ守ってるわけか?」 「まあな、そんなジャマでもないし」
「水入れてみたのか?」 「いや、まだだ」 「じゃあオレがやってやるよ」
てことで、壺を抱えて流しに持ってって、水道の下に置いて蛇口をひねりました。
「もういいかな」持ち上げてみたら重くなってないし、のぞき込んでも水が溜まってるように
見えなかったんです。「あれ、変だな」でも、底を見ても漏れてるわけでもない。
それでね、かなりの量の水を入れたと思うんですけど、

やっと底に水が溜まるまで長い時間がかかりました。「変だな、これ」
で、その夜は酒飲んでテレビ見て終わりました。それから2日たった午後に、
山口と大学で会ったんです。そしたらね、ピカピカの新品の革ジャン着てたんです。
まあ似合いませんでしたけど。「お前、それすげえな、いくらしたんだよ?」
聞いたら「17万」って答えが返ってきて仰天しました。「よくそんな金が・・・」
「いや、パチンコで大勝ちしたんだよ。1日中出っぱなし。ほら、部屋に壺あったろ、
 お前が水入れたやつ。爺さんに言われてたんだ。壺の中に片手を入れて、
 何回も握るような動作をすると、幸運が舞い込んでくるって。
 だからパチンコ行く前にそれやってみたんだ」 「・・・いや、たまたまだろ」
「まあそうだと思うが、これからもやってみるよ。あれで勝てるんならいくらでもやる」
でね、山口のやつ、それからずっとパチンコ勝ち続けたんですよ。

部屋に行くたびに物が増えてました。オーディオセットとか、コーヒーメイカーとか、
あと服も。さすがにね、ちょっとは幸運の壺の話も信じたくなりますよね。
だから、オレにも壺に手を入れるのやらしてくれないかって言ったんです。そしたら、
「いいけど、オレ以外のやつは効果ないかも。壺売った爺さんが言ってたんだよ。
 あなたは1円のお金を払ったから幸運がきますけど、他の人にはダメですからって」
でもね、強引にやらせてもらいました。で、壺に手を入れたときにゾクッとしたんです。
うーん、冷たいっていうか、あの感覚はなんなのか。変なたとえですけど、
孤独の宇宙に手を突っ込んだ、そんな感じがしたんです。あ、パチンコはダメでした。
大負けしました。でね、「宝くじ買ってみたらどうだ?」って言ったんです。
「当たったらオレにも分けてくれよ。それならいいだろ」そしたら、
「ロト6、もう買ってある」って。で、その週の抽選で30万が当たったんです。

オレは10万分けてもらいました、で、どんどん山口は裕福になってって、
部屋まで引っ越したんです。家賃15万のツインルームに。
でね、山口は「この壺を持ってるかぎり働く必要はないから就職活動はしない。
 あとオレに必要なのは女だ。明日○○を食事に誘ってみる」って言いまして。
この○○ってのは他の学部なんだけど、ミス大学になった超美人で、
モデルとして雑誌の表紙にまでなってる子なんです。もちろんオレも山口も
1度も口なんてきいたことないですよ。高値の花もいいとこです。でねえ、
さすがにそれは無理だろうと思ったんです。だってねえ、金はともかく、
人の心じゃないですか。それがそんなに簡単に・・・
ええ、結果から言うとやっぱダメでした。山口は衆人環視の中で、
手ひどく振られたみたいでした、学内で噂になるほど。

その後山口は2日ほど大学に出てこなかったんで、心配になって部屋に行ってみました。
新しい部屋は、大学生でには絶対住めないような豪華なところで、
入っていくと、トロンとした目をして椅子に座ってましたね。で、オレの顔を見ると、
「オレが間違ってた・・・」って言うんです。「だろ、いくら壺がすげえたって、
 そんなに簡単に女なんてできないから。ましてあんな美人」
すると山口は「違う!」って叫んで「オレに女を見る目がなかったんだ。
 あんなのはちっともいい女じゃない。あんな女、
 足元にもおよばない超絶美女が近くにいたんだ」こんなふうに続けたんですよ。
「どこに?」オレが聞くと、「あの中」って、玄関近くにある壺を指差しまして。
「さっきな、壺に手を入れたら握り返された。んで驚いて手を引っ込めて
 中をのぞいたら、すげえ超超超超超美人がいたんだよ。

 話もした。でな、壺からは出られないから、あなたのほうから来てほしい、
 って言われてな。だから今から行くんだ!」そう叫んで立ち上がり、
オレの見てる前で壺に手を突っ込んだんです。・・・こっからのこと、
信じてもらえますかねえ。山口の突っ込んだ手がぐんと肩まで落ち、
頭が細くなって壺の口に吸い込まれ、体もね、まるで紙を丸めるみたいにして、
棒状になって壺の中に落ち込んだんです。驚きましたが、あわててかけ寄って、
壺の中をのぞき込んでも、黒々とした空間がありるばかりで。
直径15cmほどの壺の口に「おーい」って呼びかけてみました。
そしたらオレの声が反響して、おーい、おーい、おーい・・・
で、それが治まった後、壺の中から「うふふふ」って女の笑い声が聞こえたんですよ。
それで山口は行方不明になっちゃいました。これマズイですよね。

だって、壺に中に吸い込まれたっても、誰も信じちゃくれないじゃないですか。
それからね、壺の中に手を入れたり、耳をあてたりいろいろやっても何の反応もなし。
流しで逆さにひっくり返すと、黒い泥水が少しだけ出てきました。
でね、さんざん考えた末に、その壺を抱えて朝市に行ったんです。
もし山口が言ってた売り主の爺さんがいたら、事情を話してどうすればいいか
聞こうと思って。それで、会場をうろうろしてると、爺さんがいたんですよ。
隅のほうで野菜と骨董の店をやってました。で、オレの抱えてる壺を見るなり、
「はああ、その壺で困っておる、違うかね」って聞いてきたんで、
かいつまんで事情を話しました。すると爺さんは「うーむ、壺の中に入った。
 それは容易ならんの。しかたない、わしが壺を買い戻してもよいが。ただ、
 売った人の金でないとダメだしのう」

「は、どういうことです?」 「山口君とやらの金じゃないといかんのだよ」
でね、そのときにまだ、前に山口にもらった10万円のうち少し残ってたんです。
「あります、山口の金なら持ってますから」 「じゃ、2円で買おう」
てことで、1000円出して998円の釣りをもらい、壺を引き渡しました。爺さんは、
「また戻ってきたか、しょうがない。叱っておくから、山口君はそのうち見つかろう」
半信半疑で部屋に戻りました。それから1日おいて、山口が見つかったんです。
それが大学構内にある排水口の中ですよ。全身泥だらけでずぶ濡れ、
手に真っ黒なワラ束みたいなのを抱えて這い出してきたんだそうです。
今、入院しててまだ正気には戻りません。とりとめのないうわ言を言うばかりですが、
精神科の医師の話では、少しずつ回復はしてきているそうです。
その爺さんですか? それから1度だけ朝市には行きましたが見かけてないです。








「親魏倭王」の周辺

2018.01.23 (Tue)
「親魏倭王」の印影(ただしニセモノ)


今回はまた邪馬台国関連の話ですが、位置論争についてではありません。
ただ、少し専門的な内容なので、興味のない方はスルーがいいかもしれません。
さて、「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼は魏の明帝(第2代皇帝 曹叡 そうえい)から、
西暦238年(239年説もある)金印紫綬を与えられたことになっています。
「制詔 親魏倭王卑弥呼・・・今以汝為親魏倭王 假金印紫綬・・・」

この部分は、皇帝が卑弥呼に与えた制書の全文を引用しているものですが、
ここから、卑弥呼がもらった金印の印面には「親魏倭王」
という文字が彫られていたと推定されています。
「親魏倭王」は魏側からみた卑弥呼の称号です。

文としてみれば「魏と友好関係にある倭国の王」くらいの意味で、
これは、かなりの厚遇を表しています。
近い時代の印で「漢帰義胡長」(銅印)などというのがありますが、
この意味は「漢の国に帰属した胡人の長」で、
「帰義」は「親」よりはだいぶあつかいが低いと考えてもいいと思います。

印の材質は純度の高い金で、紫のひも(綬)がついていました。これにも段階があり、
『漢書』などによると、材質では上から順に「玉・金・銀・銅」
綬の色は「多色・綟(れい 萌黄)・紫・青・黒・黄」。
ですから、金でできた紫の綬の印というのは、かなり位の高いものなんですね。

また、印の大きさにも段階がありましたし、鈕(ちゅう 印のつまみ)の形も、
皇帝は龍、皇后は虎、諸侯は亀・駱駝。中国以外の国に与えられる場合、
北方は羊・馬、西域は駱駝、南方は蛇、東方は亀、
というような細かい決まりがありました。九州で発見された「漢委奴国王」印は、
蛇(螭 みずち)鈕になってますので、当時の中国には、
倭国は南方であるという認識があったのかもしれません。

「漢委奴国王」印


ちなみに、‌印の名称は「璽、章、印」の順。「玉璽(ぎょくじ)」は、
本来は中国皇帝の用いる玉製(主にヒスイ)の璽を指しますが、
とはいえ、後代には日本の天皇の印にも璽という語が独自に使用されました。
漢代には、北方の匈奴に対して「匈奴単于璽(きょうどぜんうのじ)」
が与えられています。これなどは、ほぼ中国皇帝と同格のもので、
いかに当時の匈奴が中国を悩ませていたかがわかります。

さて、ではこの金印、いったい何に使われるためのものだったんでしょうか?
一つには、身分証明証としての役割があります。
この印を持つものが倭国の王であることを証明する機能があったんですね。
ですから、あたり前の話ではありますが、
厳重に保管しておかなくてはならないものでした。

『三国志演義』では、董卓に荒らされた洛陽の復旧にあたっていた孫堅は、
城南の井戸の中から伝国の玉璽を発見します。伝国の玉璽は「皇帝の証」です。
この後、この玉璽をめぐって争いが起き、最終的に孫堅の子の孫権が、
呉の国を起こして皇帝に即位することになります。
まあ、これはフィクションなんでしょうが、
印の持つ身分証明証的な役割をよく表している部分だと思います。

さて、金印の実質的な役割は、「封泥(ふうでい)」に押すことにあります。
現在われわれが使っている判子は、字の部分がとび出るように彫られていますが、
卑弥呼の金印は、逆に字の部分が引っ込んでいるものでした。
(「漢委奴国王」印もそうなっています。)

封泥とは粘土のことで、当時は重要な文書(木簡・竹簡)は、
まとめてひもをかけて巻物状(簡冊)にし、その上に粘土を盛って印を押し、
途中で開けられていないことの保証として用いられてました。
やや専門的になりますが、封泥にはただ粘土を盛りつけるものと、
「検」と呼ばれる木片をくくりつけ、そこに粘土を貼りつけたものの2種があり、
後者は証明書としての役割が重視されていたと思われます。

封泥の用い方


さてさて、また長くなってしまいました。では、この卑弥呼の金印、
はたして日本のどこかにあるのでしょうか。
これは、もしかしたら期待が薄いかもしれません。というのは、本来、
この手の印というのは、中国の王朝が代わると返上しなくてはならないものだからです。
上で「匈奴単于璽」の話を出しましたが、中国が前漢から新に代わるとき、
新を立てた王莽が、前の印を返上させ、「璽」を一段低い「章」に変えようとして、
匈奴と大きなトラブルになっているんです。

ですから、自分は「漢委奴国王」印が日本のどこかに残っている可能性は
かなり低いんじゃないかと思います。もちろん、卑弥呼とその後の倭王が返さなかった
ということも考えられなくはありませんが、『晋書』には、
「泰始初遣使重譯入貢」とあり、266年、倭国から晋への朝貢使節が行ってます。

これはおそらく、卑弥呼の後の倭国王、台与による中国王朝交代に対する朝貢でしょう。
とすれば、このときに「親魏倭王」印は返上され、
新たに「親晋倭王」印?をもらった可能性が高いんじゃないかと思うんですね。
ただ、「親晋倭王」印が発見されたとしても、それはそれでスゴイことですし、
邪馬台国の位置論争に与える影響も大きいでしょう。

あとは、上記の封泥ですね。考古学者の中には、魏からきた中国皇帝の封泥
(または「親魏倭王」印の封泥)が見つかれば、そこが邪馬台国である、
という人もいます。封泥は基本的に、卑弥呼がいた場所で開けられたと
考えられますから、残骸が残ってるかもしれません。
でも、どうでしょう。封泥はあくまで粘土ですので、
そのままではどんどん乾燥して風化してしまうでしょうし、
水に浸かると溶けてしまいます。ですので、自分は難しいだろうなあと思いますね。

清の乾隆帝の玉璽(オークションで約25億7千万円で落札 凍石製 鈕は9匹の龍)







ハリーポッターとキリスト教

2018.01.22 (Mon)


今回はこういうお題でいきます。今はほとんど聞かなくなりましたが、
第2作の『ハリー・ポッターと秘密の部屋』の映画が公開された後くらい、
2002年から2007年頃まで、キリスト教側からの、
ハリー・ポッターシリーズに対する批判・非難がいろいろとありました。

自分はちょうどこの頃アメリカに住んでいたんですが、
ハリー・ポッターに反対していたのは主にカトリックの信者だったと思います。
ご存知のように、アメリカはプロテスタントの勢力が強く、
アメリカの宗教の50%を超えるものの、さまざまな会派に分かれていて
足並みがそろいません。これに対し、カトリックは20%ちょっとくらいですが、
ローマ法王庁を中心に団結しているので、声は大きいんですね。

アメリカ図書館協会から受け入れ禁止書籍として認定されましたし、
狂信的カトリック関係者によって、焚書騒ぎや訴訟が起きたこともありました。
また、ハリー・ポッターの映画に協賛したコカ・コーラに対して、
抗議と不買運動が行われたりもしています。
あと、キリスト教原理主義団体からも非難の声があがりました。
これはプロテスタントではありますが、カルトと言ってよいもので、
一般のプロテスタントの教会では、それほど大きな抗議運動はなかったと思います。

さて、どうして非難が起きたかというと、原因は2つあるのかな、
と自分は考えています。一つは、聖書ではっきりと魔法(呪文を唱えること)
を禁止しているからです。『あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、
占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、
死者に伺いを立てる者などがいてはならない。(申命記)』

キリスト教では、奇跡は神の力によって起きると考えられており、
それ以外の超自然的な出来事は、悪魔のしわざとされます。
魔女や魔法使いはサバトを開いて黒ミサを行い、悪魔を召喚することによって、
魔法の力を授けられる。つまり、魔法=悪魔主義 という図式になっているんですね。
ですから、まだ宗教観の定まっていない子どもたちが、ハリーポッターから、
魔法を賛美するような影響を受けてはならないということなんでしょう。

もう一つ、これは自分の考えなんですが、ハリーポッターによって、
カトリック教会の歴史的な悪行の一つである「魔女狩り」が思い起こされ、
いろいろと都合が悪いからじゃないかと思います。
魔女狩りは、15世紀~18世紀において、
全ヨーロッパで推定4万人から6万人が処刑されたと推定されていますが、
もちろんそのほとんどが無実の人々でした。

さて、ハリーポッターのシリーズはファンタジーです。同じく魔法が出てくる
ファンタジー作品は、トールキンの『指輪物語』をはじめ多数あります。
しかし、それらのほとんどに大きな批判はないのに、
ハリーポッターだけが非難を受けたのはなぜなんでしょう。

これは舞台設定が原因なんでしょうね。ハリーポッターの舞台はこの地球上で、
ナルニア国などの異世界ではありませんし、しかも現代の話です。
それと作者J・K・ローリングの筆力も大きかったと思います。
ローリングの描写が緻密で正確なので、ファンタジーを超えた現実感があり、
魔法の実在を感じさせてしまったためなんじゃないかと思うんです。

ただ、ローリングは、自分の作品がキリスト教界との摩擦を引き起こすことを
予測していたと思われます。ですから、
作品から注意深くキリスト教に関することを取りのぞいています。
頭のいい人ですから、論議を起こすのを避けたかったんでしょう。
ギリシア神話などは取り入れられているのに、キリスト教のにおいのするものは
ほとんど見つかりません。せいぜい「クルーシオ(磔の呪文)」くらいでしょうか。

ハリーポッターの世界は魂の存在を認める世界観です。それは「嘆きのマートル」
などの幽霊がいること、ヴォルデモートが分霊箱を作ったことなどからわかります。
では、その魂は肉体が死んだ後にどこに行くのでしょうか。
『ハリー・ポッターと死の秘宝partⅡ』の最後のほうで、ハリーがいったん死んで?
真っ白なキングズ・クロス駅にいる場面がありました。

そこで、亡くなったダンブルドアや傷ついたヴォルデモートの魂に出会うんですが、
あれはあの世とこの世の中間地点なんだと思われます。
ただ、あの世は神が支配する世界であるとか、
天国や地獄があるなどといったことは作品には出てきません。
このあたりも、ローリングがキリスト教の世界観を避けているのがわかります。

さてさて、前法皇であるベネディクト16世が枢機卿だった時代に、
ハリーポッターを批判する手紙が書かれ、それが公表されました。
ですが、2009年の法王庁のニュースレターには好意的な書評が掲載されましたし、
「子供の頃に想像の世界で、妖精や魔法使いと遊んだ記憶があるのは当たり前のこと」
というコメントも出されました。ハリーポッターの世界的な評価が定まるにつれ、
ヴァチカンも立場を変えざるをえなくなったということなんでしょうね。
では、このへんで。

関連記事 『ハリーポッター魔法の源』








編集部の黒電話の話

2018.01.21 (Sun)
じゃあお話しさせていただきます。去年のことです。
僕は大学を卒業して、ある出版社に入社したんです。わりと大手のほうですが、
名前は伏せてもかまいませんよね。3ヶ月の社内研修があって、
その後にファッション系の雑誌を作ってる編集部に配属になったんです。
ええ、その雑誌は学生時代からよく読んでて、あこがれてたので、
自分から希望してたんです。その希望が通ったんでラッキーだなと思ってました。
それで、その出版社は古い自社ビルがあるんですが、
僕が入った編集部は3階の右側のフロアを使ってるんです。
入ってすぐ、先輩にいろんなことを説明してもらいました。
まあ、パソコンのシステム関係のこととか、セキュリティのこと、
あと編集部内の勤務管理とかいろいろです。

でね、雑誌の編集ってすごいアナログな仕事なんですよ。もちろん、雑誌そのものは
編集ソフトで作りますし、昔と違って原稿はほとんどメールで送られてきます。
記事に使う写真なんかもパソコン内に保存されてますし、
そういう意味ではデジタル化は進んでるんですが、でも、最終的には手作業なんです。
だから、雑誌の締め切りが近づくとすごい忙しくなって、
何日も編集部に泊まりこむことになります。仮眠用のソファがいくつもありますよ。
そのかわり、忙しくないときは出社時間なんかも個人にまかされてて、
先輩方は昼頃に出社してきたりとかしてます。
あ、すみません。話がそれてしまって。それで、先輩の説明の最後にですね、
ロッカーと資料棚の間に置かれてる机に連れていかれたんです。
物が何にも置かれてない木製の机でしたが、その上に黒電話が一台だけあったんです。

あの、何十年前に使ってたダイヤル式の黒電話です。しかも、電話機の上に、
透明なプラスチックでできた箱が被せられてあったんです。
「これはなあ・・・」先輩は少し言葉を濁して、「ごくたまに、そうだな、年に数回だな。
 これに電話がかかってくることがあるんだ。そしたら、俺らがいる場合は
 俺らがとるから気にしないでいればいいが、もし一人のときだったら、
 このプラスチックのケースを持ち上げて受話器をとってくれ。
 で、いいか、こっからが重要なことだが、相手が出て何か言っても絶対 受け答えするな。
絶対だぞ。そのままダイヤルで11を回すんだ。内線で、
 しかるべき部署につながることになってる。そこまでやたら、すぐ電話は切るんだ。
 いいか、わかったな」こんなふうに言われたんです。
先輩はさらに続けて、「どういうことか、訳を聞きたいだろうが、
 
 答えられない。とにかく今 言ったようにしてくれ。
 これは命にかかわる重要なことだって理解してくれればいい」って。
まあ、それは不思議には思いましたよ。ですけど、いつもくだけた調子の先輩が、
そのときは真顔だったんで、大切なことなんだろうとは思ってました。
で、それから少しずつ仕事を任せられるようになっていって、
3ヶ月くらいしたら、服飾メーカーの人と打ち合わせなんかもするようにりました。
仕事は面白かったですし、編集部に泊まり込むのも苦にはなりませんでした。
その間、黒電話は1回も鳴ることはなかったんです。
それでですね、もういっぱしの編集部員になったつもりでいた11月のことです。
まだ校了期間ではなかったんですが、少し面倒な記事を書いてまして、
さっき話した先輩とは別の、山根さんって先輩といっしょに、

夜の11時過ぎまで編集部に残ってたんです。夢中でパソコンを打ち込んでいると、
山根さんが声をかけてきて、「腹減ったからコンビニで夜食買ってくる。お前も行くか?」
って聞いてこられたんで、「いや、いいです」って答えました。
それで、山根さんは出ていって僕一人だけになりました。
でも、他の編集部には残っている人がいっぱいいましたし、
ビルの入口には朝まで警備員が詰めてますから、心細いなんてことはなかったんです。
で、仕事を続けていると、リリリりりリリリ という音が聞こえました。
これは、今の電話の呼び出し音とは明らかに違ってて、
「あ、あの黒電話じゃないか!」ってすぐに思いました。
立ってそちらに向かうと、やはり電話が鳴ってました。先輩に言われたことを思い出し、
プラスチックのケースをよせ、受話器を取ったんです。

ジジジという雑音のような音が聞こえました。そして少しの沈黙があり、
「・・・須田の家内です。須田はおりますでしょうか」という、
年配と思える女性の声が聞こえました。それが、なんとも言いようがない、
暗く沈んだ声だったんです。内線を回さなきゃ、たしか11だったよな。
そのときです、何も話すなと先輩に言われてたんですが、ついうっかり、
「ちょっとお待・・・」までの言葉が口をついて出てしまったんです。
そこで気がついて声を飲み込み、1のダイヤルを二度回してから電話を切りました。
そしてプラケースを戻そうとしたとき、背筋をぞくぞくっとするものが走ったんです。
「暗い」と思いました。蛍光灯はすべてついていましたが、
すごく暗く感じたんです。自分の机に戻ろうとして、もう一度黒電話の机を見たら、
真っ黒い煙のようなものが、机の前にあったんです。

煙はもやもやと渦巻きながらだんだん濃くなって、
人の形になっていくように見えました。「え?」
それから目が離せなくなてしまいました。煙はもう真っ黒い人にしか見えなくなって、
立った状態だったのが、ゆっくりとうずくまり、床に倒れました。
そして転がりだしたんです。のたうち回っていると言えばいいか。
でも、激しくもがいてるように見えるのに、音はしませんでした。
僕は怖くなって後ずさりし、よろよろと自分の机に座りました。
すると、パソコンのキーがカカカカとひとりでに音を立てました。「ええ?」
デイスプレイに「心臓」という言葉が出てたんです。
そのとき、刺すように胸全体が痛くなりました。同時に息が苦しくなったんです。
僕は大きく口を開けて息を吸いましたが、もう座っていられませんでした。

胸を押さえて床を転がりましたが、そのとき、ああ、さっき見た黒い影と同じだ、
って思ったんです。 「おい、どうした!?」山根さんの大声が聞こえましたが、
覚えてるのはそこまでです。次に気がついたときには病院のベッドにいました。
ええ、救急車で搬送され、気を失っている間にカテーテル治療というのを受けたんです。
急な狭心症、心筋梗塞の一歩手前ということでしたが、
それなのに心臓の動脈には硬化などの症状は見られなかったということで、
これは担当の医師の先生方はみな不思議がっていましたね。
病院には、編集局長はじめ編集部の先輩がみな見舞いに来てくれたんですが、
誰も黒電話のことは口に出しませんでしたので、
僕も何も言いませんでした。でも、こうなったのはあの電話のせいで、
それも僕が受け答えしてしまったためだってことはわかってました。

入院は3日ほどで済みましたが、編集局長から「しばらく休んでいいから」と言われ、
1週間後に出社したんです。ええ、あの黒電話はそのままありました。
ただ、それまで作りかけだった雑誌の内容がすべて消えてしまったということで、
大急ぎで作業をやり直している最中でした。パソコンのシステムが落ちて、
データがみな消えてしまってたんです。バックアップはあったんですが、
それもダメで・・・これも自分のせいなんだろうと思いましたが、
文句を言う先輩はいませんでした。ですけど、しばらく身の置き所がなかったですよ。
あと、床や机の上に細かい白い粉が落ちていました。
物をよせて拭き取った跡もあったんですが、取りきれないで残ってたみたいです。
はい、その白い粉が何なのかもわかりません。ただ・・・あの黒電話はホントにヤバイ、
触れてはいけないものだったんだってことはよくわかりました。

話はだいたいこれで終わりです。もちろん何があったかってことは、
自分でこっそり調べましたよ。ネット社会ですからね。検索すればいろいろ出てきます。
かつて会社で、20年以上前に須田って人が仕事中に亡くなってるみたいでした。
そのときは、今 自分がいる雑誌の編集部ではなかったみたいですけど。
で、過労死かどうかで裁判になってたみたいなんですが、
その最中に残された須田さんの奥さんも亡くなってて・・・
これは自殺なのかもしれませんが、そこまではわかりませんでした。
それで、あの電話ですね。もしかしたら須田さんの奥さんからかかってきたもの
じゃないかって思うんです。あれ、たぶん死者の声だったんですよ。
なんで黒電話がそのまま残されてるのかもわからないですけど、
おそらく撤去できないんじゃないかと思います。ええ、こんな話なんですよ。









「クライオニクス」って何?

2018.01.21 (Sun)


現在の医学では治癒困難な病に冒された人々の体を冷凍保存し、
未来の医療技術の進歩に託す「人体冷凍保存(cryonics クライオニクス)」。
すでに世界中では数百人が全身、あるいは脳を含めた人体の一部を
冷凍保存しているが、問題は解凍技術がまだ存在しないことだ。

冷凍保存されている人々は医療技術の進歩だけではなく、
解凍技術の開発も未来の科学者に託しているのである。そんな中、
英紙「Daily Star」が朗報を伝えている。なんと、10年以内に解凍技術が
開発されるかもしれないというのだ!

解凍技術におけるブレークスルーが昨年夏にあった。
これまでの技術では、冷凍した胚(受精卵)を解凍時に均一に温めることができず、
無事に解凍することが困難であったが、冷凍時に「金ナノロッド」と呼ばれる
極小の金属物質を混ぜることで、解凍レーザーの熱が均一に伝わり、
冷凍された胚を素早く温めることが可能になったのだ。
しかし、この技術をもってしても、蘇生した胚は全体の10%に過ぎなかったという。
このような不完全な解凍では、多額を投じて冷凍保存された人々が浮かばれない。

(tokana)

今回はこの話題でいきたいと思います。引用記事にあるとおり、
「クライオニクス」とは人体冷凍保存という意味です。
ただし、より広い定義として、不治の病で亡くなった人、
あるいは老衰死した人でもいいわけですが、
その遺体を冷凍保存して、未来に蘇らせることを指す場合があります。

ちなみに、生きた人をそのまま冷凍保存しようとしても、
現在の技術では、冷凍すれば死んでしまいますので同じことです。
また、生きた状態で人間を人工冬眠させる、いわゆるコールドスリープ
(和製英語)は、クライオニクスとは別の技術と考えられています。

これまでの研究では、精子や卵子を冷凍保存する技術は開発されていますが、
精子などは生命とは言えませんし、あくまで遺伝子などのタンパク質レベルの話です。
あと、カエルや魚などの実験では、冷凍後24時間以内であれば、
蘇生が確認された報告もありますが、これらの生物はもともと寒冷な
地域に生息しているため、体内に天然の不凍液成分を持っていました。
クライオニクスというより、コールドスリープに近いものだったんですね。

さて、では、クライオニクスは将来的に成功するでしょうか?
これ、自分は無理なんじゃないかなあと思います。もしできるとしても、
百年以上の年月がかかってしまう気がしますね。上記のような、
不治の病にかかった人を冷凍保存し、医療技術の進んだ未来で蘇らせるためには、
大きく3つの技術的に克服するべき点があります。
① 冷凍された遺体を解凍すること。
② 死亡している遺体を生き返らせること。
③ 不治の病を治療して健康体に戻すこと。

まあ、②が一番無理だろうというツッコミは当然あるでしょうが、
この際、②と③については問わないことにします(笑)。
これ、①だけでも技術的な困難はたいへんなものです。冷凍することによって、
人間の遺体は壊れてしまいます。なぜかというと、人間の体の約60%は
水分で成り立っているからです。水は凍らせると体積が膨張しますよね。

現在行われているクライオニクスでは、
遺体の血液を不凍液に入れ替えているようです。
しかし、人間の体の水分は、もちろん血液だけではありません。
人間の体は細胞でできていて、一つ一つの細胞の中には、
液体が詰まっていると考えていいと思います。そのすべてを抜き取ろうとする段階で、
まず無理があります。できないと考えるべきでしょう。

実際、クライオニクスを現在研究しているグループも、できないと考えており、
未来における解凍の際に、ナノテクノロジーを使って、
壊れた細胞を分子レベルで修復する技術が完成していることに期待しているようです。
ですが、人間の細胞は約40兆個もあるうえに、心臓や脳、皮膚など、
体の部位ごとに性質も違います。それらをすべて修復できる技術が完成するには、
もしできるとしても、長い長い年月がかかりそうです。

では、一度死んだ人間が未来に蘇ることは絶対に不可能なのでしょうか。
ここは一つ発想を変えてみたらどうでしょう。
遺体の全身を保存するのは、修復に多大な困難がともなうので、
保存するのは脳だけ、ということにすればどうでしょう。
蘇るのは遠い未来でのことですので、もしかしたら、
脳以外の体のパーツは機械に置き換えることができるか、
IPS細胞などで作ったアンドロイド体が完成しているかもしれません。

次に、冷凍というのをやめて、別の方法を考えたらどうでしょう。
冷凍すると細胞が壊れてしまうのですから、
もっと壊れにくい方法はないもんでしょうか。
うーん、そうですね、自分が素人ながら考えるのは、
真空パック、あるいは缶詰、干物、酢漬け(笑)などですね。

現在の食品の真空パックはよくできています。例えばベーコンやハムなどは
賞味期限が1年あるものも珍しくはないですし、缶詰だと、
防災用に備蓄するものでは、賞味期限25年というものまであるようです。
もちろん、真空パックや缶詰の食品が腐らないで長持ちするのは、
パッキングする前に加熱などの殺菌処理を行っているからです。
その上で、真空状態にして外界の腐敗菌などが触れないようにするわけです。

当然ながら、人間の遺体を加熱すれば冷凍する以上に壊れてしまいます。
ですが、自分は、この方面に集中して研究したほうが、
結果として、冷凍よりは保存の効率が高いんじゃないかなあ、
という気もするんですね。みなさんはどう思われますでしょうか。

さてさて、ここまで書いた以外にも方法はあるでしょう。
例えば、ある人の遺伝子だけを保存して、未来にクローンとして蘇らせる。
あるいは、脳の中の記憶や人格などを完全に記号化してコピーし、
遠い将来、人工知能として蘇らせるなどです。
ただ、これだと「亡くなった人物 個人」が蘇ったとは言いにくいでしょうし、
本来の目的とは違うことになってしまうのかもしれません・・・うーん、難しい。
ということで、今回はこのへんで。









ピタゴラスと数秘術

2018.01.20 (Sat)


今回はこのお題でいきます。現代における数秘術(Numerology)とは、
数によって行う占いのことで、生年月日や名前の画数などを
使うものが知られています。この数秘術の一部分は、
自分がやっている占星術にも取り入れられているんです。
古代ギリシアにおいて、あの3平方の定理で有名なピタゴラスによって始められ、
プラトンがその内容を発展させたとも言われています。

『ハリー・ポッター』のシリーズで、ホグワーツで実施される科目の中に、
「数占い(Arithmancy)」というのがあり、ハーマイオニーが、
その内容をとても気に入っているというセリフが出てきていましたが、
この数占いも数秘術から派生したものと思われます。
数秘術はいちおう学問とされますが、宗教や魔術と深いつながりがあります。



さて、ピタゴラスは紀元前6世紀から前5世紀あたりの人で、
その頃日本はまだ弥生時代でした。日本の弥生時代には文字はありませんでしたが、
古代ギリシアは古くから文字と著作が発展していました。
ですが、ピタゴラスについては、その思考や生涯を書いた資料って、
ほとんど残ってないんです。これはわざとそうしていたんですね。
ですから、以下に書くことはあくまでも伝説で、
学問的な根拠はありませんので、そのつもりでお読みください。

ピタゴラスは自分の教団を主催して、数百人の信徒と共同生活を送っていました。
教団は原始共産制をとっていて、入るためにはまず自分の全財産を教団に寄付します。
これは、大事件を起こしたオウム真理教もそうでしたね。
じつはピタゴラス教団って、オウム真理教事件といろいろ共通点があるんです。

まず、教団内で得られた知識は、絶対に外部に漏らしてはいけないとされました。
もし漏らした場合は死刑、船の上から海に突き落として殺したとも言われます。
また、教団の教えを文字に書いて表すことも厳禁でした。
このため、上記したようにピタゴラスの思想はほとんど現代に残っていないんです。
すべては師から弟子に口伝で継承されたんですね。
ピタゴラスの肖像画や彫像のたぐいも、当時のものは一切ありません。

さて、この宇宙は数によって支配されているというのが、
ピタゴラス教団の教えの根源で、「万物は数なり」という言葉で表されます。
何気ない自然の現象も、その裏には数の法則が隠されており、
それを明らかにしていくのが教団の使命と考えられていたんです。

例えば、理性は1、女性は2、理性+女性=1+2=3、3は男性を表します。
逆に言えば、男性から理性を引いたのが女性というわけです。
これはずいぶん失礼な話ですね。そして、3(男性)+2(女性)=5(結婚)
まあ、すべてはこんな感じで数に関連づけて考えられていたようです。

音階を発見したのもピタゴラスである、と言われたりもします。
ギリシアの音楽といえば、竪琴(ハープ)のイメージがありますが、
ピタゴラスは、弦の長さの比が簡単な整数比のときに、
発する音がよく調和することに注目し、音階の概念をつくり出したんだそうです。
ピタゴラス教団では、この世のすべては数であり、
あらゆることが、整数とその比(有理数)で表されると考えていました。

ところが、ピタゴラスの定理において、等しい辺が1である直角二等辺三角形の
斜辺の長さは√2ですよね。(下図)√2は無理数といって、1,41421356・・・
と、分数でも少数でも表すことができない数になってしまいます。
これは教団の根本原理からいって、たいへんにマズイことになるんですね。

皮肉にも、自分が発見した定理により、
教団の思想の根本が否定されてしまうわけですから。
そこで教団では、無理数を発見した弟子を処刑し、
無理数の存在を闇に葬り去ろうとしたということになっています。



さて、ピタゴラス教団は有力者の後援をえて栄えていましたが、
その有力者が政争に巻き込まれて失脚。そこで、かつて教団のテストに
不合格になって恨みを持っていた者に扇動された市民が暴徒化し、
ピタゴラスをはじめ教団員はほとんど殺されて壊滅した・・・
もう一度おことわりしておきますが、これらは後世に広まった伝説で、
実際にあったことかどうかは、はっきりとはしていません。

さてさて、ピタゴラス教団の象徴的なマークは五芒星(pentagram)でした。
これは当時ギリシアで信じられていた、
この世の源ととなる五元素を表しているようです。
五元素とは、「火、空気(風)、水、土、エーテル」などと言われたりしますが、
この他にも様々な説があります。五芒星は後世において魔術の象徴とされましたし、
日本でも「安倍晴明紋」として呪術的な意味を持つものとなっています。
では、今回はこのへんで。

五芒星 と安倍晴明紋(桔梗紋)










偽神(にせがみ)を祀る話

2018.01.19 (Fri)
これ、俺が小学校4年のときの話。今から15年前のことだよ。
当時、山中って子とよく遊んでたんだ。その頃も、子どもの遊びっていったらゲーム
だったんだけど、その山中ってやつは、親が許してくれないってんでゲーム機持ってなくて、
そのかわり、外で遊ぶことをいろいろ知ってたんだ。
例えば、拾った木の棒でノックするみたいにして石を打って、
小川の向こうまで10回のうち何回飛ばせるかとか、そういうやつ。
山中とは、4年生の新しいクラスで知り合ったんだけど、
俺はずっとゲームっ子だったから、そういうのが新鮮で面白かったんだよな。
あと、山中は遊ぶ場所もいろいろ知ってた。例えば、河口に下水が流れ出す出口とか。
3m以上高さのある土管なんだよ。そこに、水が流れてない時間に行って中を探検する。
あと、小山の裾にある配電の鉄塔の下とか。今から考えれば、どっちも学校に知れたら
怒られる場所だったろうけど、そういうのにじつに詳しかったんだ。

だから放課後、2人で自転車で走り回って、町の中のいろんなところに行ったもんだよ。
思い出すと懐かしいな。山中はそれなりにいいやつだった。
人の嫌がるようなことは絶対に言わなかったし、子どもなりにではあったが、
俺にいろいろ気を遣ってくれた。今になって、そういことがわかるんだよ。
ただ、小遣いはいつも持ってなかったから、アイスや飲み物なんかを
おごるのが俺の役目になってたな。ああ、本題に入るよ。
そんときは夏休み中で、俺らの小学校の学区からかなり外れた場所にある神社に行ったんだ。
小さなとこだったよ。神主とかはいなかったんだと思う。社殿の扉も閉まってたし。
なんでそこに行ったかというと、山中が社殿の下の砂地にアリジゴクがいるって言ったからだ。
ほら、神社は高床になってるだろ。その下に潜り込むと、
下が目の細かい褐色の砂になってて、そこにぽつぽつとへこみがあった。
それに手を突っ込んで中央の砂をつかみ、持ち上げると手のひらの中にアリジゴクが入ってる。

いや、殺したりはしなかったよ。ただ観察しただけ。殺したのはアリのほうだな。
それも俺らが殺したんじゃなくて、生きたやつをアリジゴクの穴に入れてやっただけだ。
アリがもがいて逃げようとしてもサラサラ砂が崩れて、どんどん中に落ち込んでいく。
そして真ん中まで落ちると、中からハサミが出てきてガジッとつかまえるんだ。
それをずっと見てた。けど、1時間もするとさすがに飽きてきて、
2人で神社の裏手に回ったんだよ。そこはけっこう深い雑木林になってて、
強い日のあたった境内とは反対に、じめじめした感じで暗かったんだ。
で、どういうわけか社殿の柱に立てかけるようにして、
大きさの違う板が何十枚も重ねられてあったんだよ。うーん、もしかしたら、
神社の何かを作ったときの廃材だったのかもしれない。俺が見たかぎりじゃ、
あんまり面白そうなことはなかったんだが、山中が板の一枚を手にとって、

「なあ、神社を作らないか」って言ったんだ。これも、今考えると摂社ってやつのことを
言ってたんだと思う。ほら、大きな神社の参道沿いには、小さなお社がいくつも並んだり
してるだろ。あれのことだよ。で、俺もそのとき、面白そうだなってすぐ思った。
それで、2人で板を組み上げていったんだよ。もちろん、釘とか持ってたわけじゃないし、
セロテープなんかもないから、たんに板の下のほうを土に埋めて、
その上に屋根になる板を乗せただけだ。山中は三角の神社の屋根の形にしたかったようだったが、
それは上手くいかなかったな。で、俺らの背丈より頭一つくらい小さい社殿ができると、
山中は鳥居を立てるって言い出した。それは無理だろうと思ったが、意外と簡単だった。
林の中から、できるだけ真っ直ぐな木の枝を拾ってきて2本立て、
横木はつるになった植物で結んだんだ。でな、鳥居ができると、
本物の神社みたいな雰囲気になって、俺らはけっこう満足した。

そしたら山中は「これだけじやダメだ。ご本尊をいれなくちゃなんない」って言い出した。
うーん、これも今考えれば言葉が間違ってるよな。ほんとうは御神体だったろう。
それはともかく、2人でご神体になりそうなものを探したが、
そんなのが落ちてるわけはないよな。林の中をうろうろしてたら、
林から田んぼに出るあたりの場所に、小さなお地蔵様があるのを見つけたんだよ。
頭巾もよだれかけも雨ざらしでボロボロになり、長い年月で顔の造作もわからなくなった地蔵様。
それを見て山中が「これにしようぜ」って言い、俺もすぐ賛成した。
そんときは、地蔵様を動かすのが悪いとか思わなかったんだ。でも、それからが大変だった。
だって小さいとはいえ、石の地蔵様なんだから、かなりの重みがある。
俺と山中で頭と足のほうを抱えて、ふうふういいながら俺らの作った神社まで運んだ。
中に立てたら、すごく様になってる気がしたんだよ。

で、さっそく俺が拝もうとしたら、山中は「お供えがなくちゃいかんだろ」って言った。
俺が「んじゃ、パンかなんか買ってくるか」と答えると、「いや、そんなんじゃ喜んでくれん、
 お供えも作ろう」神社の境内のほうに戻ってたんだ。手水場で柄杓に水をくみ、
それを持って社殿の下に潜り込み、砂を水でこねて団子をつくり出したんだよ。
さっそく俺も真似をした。砂なんですぐに崩れてしまって不格好なものになったが、
2人で5.6個の泥団子ができると、山中は「仕上げだ」と言って、
その中に、掘り出したアリジゴクを埋め込んだんだ。それを抱えて社殿の裏に戻り、
俺らの神社の、鳥居と地蔵様の中間あたりに積み上げた。そして手をパンパンと叩いて
お祈りをしたんだよ。え? 何を願ったかとかもう覚えてないが、
おおかたテストの点を上げてくれとかそんなことだったろうよ。でな、それが終わると、
俺も山中も、ひと仕事終えたような充実感があったんだよ。

山中は「これなあ、できれば鈴つけたいよな」って言い出し、「小さいのなら家にあったと思う」
俺が答えて、翌日もそこに来ることにしたんだ。その日はもう2時間くらい別のとこで遊んで、
山中とはわかれた。で、次の日、また山中としめし合わせてその神社に行った。
前の日に作った団子を見たら、積み上げたのが崩れて、団子の一つ一つに小指を突っ込んだような
穴が開いてたんだ。「これ、地蔵様がほじり出して中身を食ったんかな」山中はそう言ったが、
俺はアリジゴクが自力で逃げ出したんじゃないかと思ってた。
で、小さな鈴と簡単なヒモをくっつけたら、ますます神社らしくなったんだ。
ヒモを引いてリンリンとならしたとき、「た・り・な・い」って声が聞こえた。
「え?」と思ってまわりを見ると、山中が「今、何か言ったか?」って俺に聞いてきた。
「いや、なんも」 「足りないって声が聞こえたと思ったんだが」 「俺も」
うーん、どんな声だったかって言われてもなあ。・・・男の声だとは思った。

あと、年寄りの声とかじゃなかった気がする。むしろ子どもの声みたいな。
「んじゃあ、地蔵様が言ったんだろ」山中がそう言ったんで、ちょっとびっくりした。
石の地蔵様がしゃべるはずはないだろ。でも、山中は変だとは感じてないように見えた。
「カエルでも捕まえてきて団子に入れるか?」俺はさすがにそれは嫌だったんで、
「やっぱ菓子とかにしようぜ」それで2人で神社を出て、自転車で駄菓子屋まで行って、
安い菓子の袋を買ってきて供えたんだよ。これは俺が金を出したんだが、
山中はなんだか面白くなさそうな顔をしてたな。で、その日は網と虫かごを持ってきてたんで、
林の中でずっと虫採りをして遊んだ。その後、山中と別れて家に戻るとき、
ちょうど畑から帰ってきた婆ちゃんと家の前で会った。婆ちゃんは、俺の姿を見るなり、
ちょっと怖い顔になって、「お前、どこぞで悪い遊びしてこなんだか。
 肩に黒いもんがのっとる」って言ったんだ。「いや、なんも。虫採り」

俺はそう言って虫かごを見せたら、婆ちゃんは「そうかい。じゃが、そのまんまではいけん」
そう言って、俺の襟首をつまんで無理やり家に入れ、仏壇の前に座らせたんだよ。
で、1時間近く婆ちゃんといっしょに仏壇を拝ませられたんだ。
いや、もちろん嫌だったし、わけもわからなかったけど、やるしかなかった。
婆ちゃんといってもまだ60歳を過ぎたばかりで、毎日畑仕事をしてるから、
子どもの俺よりずっと力が強かったんだよ。それが終わると、
「変な遊びせんで宿題やれ」そう言われて小遣いをもらったんだよ。
次の日もまた山中と神社に行った。山中はにやにやしながら先にたって裏手に回ったが、
俺らの神社の前に子猫の死骸があったんだよ。「うわ」と思った。
子猫の体中、ぼつんぼつんと鉛筆を刺したような穴が開いてたんだよ。
「これ、お前がやったんか?」山中に聞くと、驚いたような顔をして、

「いんや、猫の死骸を拾ってきてお供えしたのは俺だが、こんな穴は開けてないぞ」
ちょっとかすれ気味の声で言ったんだ。それから、猫の死骸を足でひっくり返し、
「ほら、お前が買った菓子の袋はそのまんまだろ。たぶん猫は神様が気に入って食ったんだよ」
そんなことを言ったが、俺は気持ち悪くて、神社への興味がサーッと引いていったんだ。
「なあ、これからプール行かないか」と山中を誘ったら、「ああ、たまにいいか」
山中も乗り気で、お参りしないでその場を離れようとした。そのとき、また、
「た・り・な・い」って声が聞こえたんだよ。前と同じ声だと思った。
俺と山中は同時にあたりを見回したが、人の姿はなかった。俺は自転車まで走っていき、
山中も後に続いた。で、俺らの家の近くまで全速で自転車を漕いで、
お互いプール道具を取ってきてもう一度集合することにした。
けども、それが俺が山中を見た最後になったんだな。

プール道具を載せて自転車で集合場所にしてたバス停に向かうと、
サイレンの音がしてて、たくさん車が停まってた。パトカーと救急車もいた。
ちょうど担架にのせられた人が救急車の後部に運び込まれていくとこで、足だけが見えたが、
それが山中のボロっちいズックだと思ったんだよ。俺はどうすることもできなくて、
プールには行かずに家に帰ったんだ。一人でテレビ見てると、パートに出てた母親が帰ってきて、
「なんか、子どもが事故にあったみたい。近所の人が噂してたけどあんた知ってる?」
って聞いてきたから、俺はプルプルと首を振ったんだ。後でわかったんだが、
事故にあったのはやはり山中で、トラックの後ろを自転車で走ってたら、
積んでた鉄筋が何本も落ちてきて頭に刺さったってことだった。即死だったんだ。
それから夕飯前に婆ちゃんが戻ってきて、俺の顔を見るなり、
「あれほどいけんと言うたやろ」そう言ってまた、仏壇の前に2時間正座させられたんだよ。

ま、これでだいたいの話は終わり。それからしばらくの間、
婆ちゃんは畑に行かず、ずっと俺を監視するようにそばについて宿題をやらされた。
おかげで宿題が新学期までにできたのは、あの夏休みだけだったよ。
あと、学校で山中と一番親しかったのは俺なんだが、葬式には呼ばれなかった。
山中の家は新興宗教に入っていて、その人たちだけで葬式を出したみたいなんだ。
もちろん俺は、婆ちゃんをふくめ神社での話は誰にもしゃべってない。
ここで今話したのが初めてなんだよ。ああ、あの神社なあ。夏休みが終わって少ししてから、
怖かったけど気になって一人で見に行った。裏手に回ってみると、俺らが作った鳥居や、
板の社殿はなくなってたが、地蔵様だけはそこに残されてあった。でな、最初、
すり減って表情もわからなかった地蔵様の顔が、なんだか微笑んでるように見えたんだ。
それで俺は「ああ、足りたんだな」って思ったんだよ。









疫病神としてのスサノオ

2018.01.18 (Thu)
前回、疫病のことを書きましたので、それに関連のある話ですが、
まだ自分の中でうまく整理できてないので、どこまで書けるか自信がないです。
いろいろ間違った内容があるかもしれません。そのつもりでお読みください。
まず、「疫病神」は(やくびょうがみ)と読んで、現在では、
「やっかいなトラブルを起こす人・嫌われ者」のような意味で使われますが、
元来は「疫病(えきびょう)を司る神」という意味だったんです。

スサノオ(素戔男尊)はみなさんご存知だと思います。日本神話の主役の一人ですよね。
黄泉の国から帰ってきたイザナミが川原で禊をしたさい、
左目からアマテラス、右目からツクヨミ、鼻からスサノオが生まれたとされます。
この後、スサノオは姉のアマテラスとトラブルを起こして、さまざまな乱暴を働き、
アマテラスが天の岩戸に隠れるなどのことがあり、スサノオは高天原を追放されます。
そして出雲の地に来て、ヤマタノオロチを退治することになります。

素盞嗚命


ということで、スサノオは日本初の疫病神・嫌われ者だったんですね。
神話学では、このような存在を、「トリックスター( trickster)」
(神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者。
みなを引っかき回すイタズラ者)と言ったりもします。
北欧神話の火の神、ロキなどが、典型的なトリックスターですね。

さて、『日本書紀』には、スサノオが高天原を追い出されたとき、
最初に朝鮮半島の新羅国の「ソシモリ」という地に降りたものの、
「ここにはいたくない」と言って、出雲の国へ船で渡ったという記述があります。
「 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地 吾不欲居
遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯 」


また、スサノオは仏教における祇園精舎の守護神である「牛頭(ごず)天王」と習合、
同一視され、どちらも疫病を司る神と考えられています。
朝鮮語で「ソシモリ」は牛頭または牛首を意味しているという説があり、
これは上記のスサノオが降り立った地と関連があるようです。
つまり、スサノオも牛頭天王も朝鮮半島に関係している可能性があるわけです。

素盞嗚命と牛頭天王の習合がわかる御札


牛頭天王は生まれたときから巨体で頭に2本の角があり、
女は誰も恐れて近づきませんでした。そのため酒びたりの生活を送っていたので、
公卿たちが天王の気持ちを慰めようと狩りに連れ出しました。
そのとき一羽の鳩が来て「あなたの妻にふさわしい女性がいます」と告げます。

そこで、牛頭天王は妻をめとるための旅に出ました。その途中のある村で、
長者である弟の古単将来(こたんしょうらい)の家によって宿を求めたところ、
ケチな古単はこれを断りました。それに対し、
貧乏な兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は、天王を歓待して宿をかし、
粟飯をふるまいました。蘇民の親切に感じ入った天王は、
願いごとがすべてかなう牛玉を蘇民にさずけ、蘇民は金持ちになりました。

やがて、めでたく妻を得た天王は、自分を冷たくあしらった古単へ復讐しようと
眷属を差し向けました。このため古単とその一族はことごとく殺されましたが、
天王は古単の妻だけを、蘇民将来の娘であるために助命し、
「茅の輪をつくって、赤絹の房を下げ『蘇民将来の子孫なり』との護符をつければ、
末代までも災いを逃れることができる」と、災厄から逃れる方策を教えました。

・・・これが有名な蘇民将来説話です。
この話がもとになって、全国の神社で行われる厄除けの
「茅の輪くぐり」が始まったとされ、「蘇民将来子孫也」という札を玄関に貼ることで、
疫病を始めとする、さまざまな災厄から逃れることができると言われています。

蘇民将来札


さて、この牛頭天王を祀っているのは、京都の八坂神社です。
八坂神社の祭神は、現在ではスサノオとその妻のクシナダヒメですが、
明治の神仏分離以前は、牛頭天王とその妻の頗梨采女 (はりさいにょ)
を祭っていました。ここからも、スサノオと牛頭天王が、
同一視されていたことがわかります。

八坂神社のご利益としては縁結びが有名ですが、疫病除けというのもあります。
八坂神社の年中行事として行われている「祇園祭」は、
もともとは、平安時代に疫病で亡くなった人々の霊をなぐさめるための
御霊会(ごりょうえ)として始まりました。やがて平安末期には、
牛頭天王の霊験で疫病神を鎮め退散させるため、花笠や山鉾を出し、
市中を練り歩いて鎮祭するようになったんです。

京都祇園祭


さてさて、古代において、疫病は海の向こうから来ると考えられていました。
これはたんなる迷信ではなく、朝鮮半島からの渡来人が、
それまで日本にはなかった疫病を持ち込んで流行させたといったケースは、
あってもまったく不思議はないと思います。

そこで、同じく朝鮮半島に由来のある「牛頭天王=スサノオ」が、
疫病神として、それを鎮める力を持っていると考えられたのではないか・・・
というのが、ここまでで自分が考えた結論ですが、あんまり自信はありません。
どうも、もう少し勉強が必要な気がします。いやあ、民俗学は難しい。

最後に、疫病とは関係ないですが、興味深い話題を一つご紹介します。
中国の史書である『後漢書』に「安帝の永初元年(107年)、
倭国王 帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた」という記述があります。
「 安帝永初元年 倭國王帥升等 獻生口百六十人 願請見 」

ここに出てくる「帥升」とは、名前なのか職名なのかもはっきりしませんし、
どう読むのかもわからないんですが、古代史家の一部に、
「帥升王=スサノオ」という説を唱えられる方がいるんですね。
ただ、この真偽については、自分にはさっぱりわかりません。








「ココリツトリ」って何?

2018.01.17 (Wed)
今回は科学ニュースでいきます。自分の興味を引いたのはこの話題。
「1545年、メキシコのアステカ帝国で伝染病が大流行し、目や口、
鼻からの出血を伴う高熱と頭痛で人々が次々と倒れ、
3~4日のうちに多くが命を落とした。

現地語で「ココリツトリ(cocoliztli)」と呼ばれるこの疫病により、
1550年までの5年間で全人口の約80%に当たる1500万人が死亡したと
考えられているが、その原因をめぐっては500年近く謎のままだった。
ココリツトリは古代アステカのナワトル語で「悪性の伝染病」を意味する。

しかし、15日に発表された研究結果によると、
このアステカ帝国の大惨事を引き起こした疫病は、天然痘、麻疹(はしか)、
おたふく風邪、インフルエンザなどではなく、
腸チフスに似た「腸熱」だった可能性が高いという。
研究チームは当時の犠牲者の歯から見つけたDNAの証拠を調べた。」
(AFP)

ふむふむ、これ、ずっと長い間論争になってた話ですよね。
自分は世界史はあんまり詳しくないんですが、これくらいは知ってます。
アステカは現在の中央メキシコに15世紀頃にあった文明で、
太陽の消滅をふせぐため、人身御供の神事で、
生きたままの人間の心臓を取り出し、神に捧げていたことで有名です。
オカルト界でも、いっとき、写真に不思議な壺のような形の赤い影が写る
「アステカの祭壇」現象が話題を集めました。

アステカの生贄の儀式


それが、エルナン・コルテスらのスペイン人によって征服されたんですが、
アステカ人の「一の葦の年(1519年)、追放された白い肌の翼ある蛇の神
ケツアルコアトルが戻ってくる」という伝説とピタリと重なっていたという、
世界史の中でもドラマチックな出来事でした。

スペイン人征服者たちは、アステカ人が見たことがなかった馬や銃を用いて
暴虐のかぎりを尽くし、金銀財宝を略奪して徹底的に国を破壊しましたが、
本当の悲劇はその後にやってきました。

疫病の最初の流行が1545年、人口2000万人近かったとされる当時のアステカで、
1500万人が死亡。さらに1576年の2度めの流行で200万人が死亡。
1520年代には天然痘の大流行もあって、ほぼ8割の現地人が死に、
ヨーロッパ人にとってかわられることになりました。こんな短期間で、
ある地域の人種が入れ替わってしまうのは他に類例がありません。

で、天然痘はヨーロッパから持ち込まれたものですが、「ココリツトリ」については
その正体がわからず、ヨーロッパ由来か、それとも、もともと現地にあったものなのか、
病理学者の間で100年以上にもわたる議論が続いていたんです。
それがどうやら「腸熱」という感染症だったということのようです。
もしこれが正しいなら、病原菌はヨーロッパから持ち込まれたという結論になります。
現地人は当然ながら、新しい病原菌に対する免疫を持っておらず、
そのために感染が広がってバタバタと倒れていったんですね。

ドイツ・テュービンゲン大学の研究チームは、
ココリツトリ犠牲者の共同墓地に埋葬されていた遺骨29体からDNAを抽出・分析した
結果、サルモネラ属菌(サルモネラ・エンテリカ)の亜種であるパラチフスC菌
(Paratyphi C)の痕跡を発見したと報告しています。これ以外の、
遺伝子情報がわかっている病原菌やウイルスはいっさい発見されていないとのことです。

うーん、「腸熱」ですか。腸チフスは日本でも戦前から戦後にかけて、
かなりの数が発生していましたが、現在では発症は年間100例程度で、
そのほとんどは東南アジアなどの海外から持ち込まれるもののようです。
40度前後の高熱、鼻血や血便もあり、上記引用に書かれた症状とよく似ていますね。
現在でも、O-157などの感染性腸炎がありますが、
それのひどいものと考えればいいのでしょうか。

さて、こういう別の地域からやってきた感染症というのは怖ろしいもので、
14世紀にヨーロッパで大流行したペストは、シルクロード経由でアジアから持ち込まれ、
当時のヨーロッパ人口のおよそ3分の2にあたる、
2000万から3000万人が死亡したと推定されています。

関連記事 『ペストと薔薇』

また、アメリカ大陸に上陸したコロンブスの一行が現地女性と交わって梅毒に感染し、
その後世界的に大流行したという話もありますが、
この説の真偽については、現在も論争が続いています。
最近でもエボラ出血熱やSARS(サーズ)の騒ぎがあり、
けっして昔の話というわけではないのです。

さて、このような話は日本にもあります。それもかなり深刻な事態でした。
「コロリ」という言葉を聞かれたことがあると思いますが、これはコレラのことです。
「コロリと死ぬ」ということと言葉が掛け合わせられているんでしょう。
1822年(文政5年)の流行は世界的な大流行が日本におよんだもので、
感染ルートは朝鮮半島あるいは琉球からと考えられています。

明治初期の『コレラ絵』


2回目は1858年(安政5年)、これはあいつぐ異国船来航と関係し、
コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられました。
江戸だけで10万人以上が死亡したという話もあります。
1862年(文久2年)には、残留していたコレラ菌により3回目の大流行が発生、
56万人の患者が出たと文献に残っています。

オカルト関係では、このコレラの大流行を件(くだん)が予言したとか、
○○の絵を戸口に貼りつければコレラが防げるとか、いろいろな迷信が広がり、
ニホンオオカミの頭蓋骨がコレラ除けに効くなどという話もあって、
乱獲によりニホンオオカミの絶滅につながったなどとも言われます。
オカルトと疫病って、じつは深い関連があるんです。

さてさて、このようなパンデミック(世界流行・汎発流行)はホラーの一つの分野として、
さまざまな映画や小説、ゲームで取り上げられています。
映画だと『アウトブレイク』 『28日後』 『アイ・アム・レジェンド』
『バイオハザード』のシリーズなどと、多数があげられます。
ゾンビや吸血鬼なんかも、一つの感染症として考えることができるんですね。
では、今回はこのへんで。

映画『アウトブレイク』








ある小学校講師の話

2018.01.16 (Tue)
※ これはパロディというかギャグなので、真面目に読まれるとちょっと困ります。

6月の終わりのことです。病休の講師として、ある小学校に赴任したんです。
そのときのことをお話します。私は、小学校教諭の免許を持っていますが、
結婚を機に退職して、それからずっと主婦をやってたんです。
はい、夫が働かなくてもかまわないと言ってくれましたし、
夫は中学校の教諭なので、部活動を担当して帰りが遅いんです。
それでずっと家で子育てをしてたんですけど、6月に市の教育委員家から電話がきまして、
「どうしても講師がいなくて困っている学校があるから、夏休みまでの1ヶ月で
 いいからお願いできないか」って言われたんです。
それで・・・断りきれなかったんです。というのは、
その電話をかけてきた教育委員会の先生が、前にある小学校で同職していて、
たいへんにお世話になった方だったからです。

私の子どもは2人とも中学生で、どちらも部活に入っていて帰りが遅く、
仕事をしても、私のほうが先に家に戻ってこられるうだろうと思っていました。
あと、教員免許は何かのときのために更新してあったんですが、ブランクが長かったので、
子どもたちの指導には不安はありました。ただ、子育てを経験しましたので、
そういう面では、若い頃よりも子どもたちの気持ちを理解できるかな、
とも感じていたんです。委員会で形だけの面接があって採用が決まり、
市の外れのほうにある小学校を訪れました。そこで、校長先生から、
4年生のクラス担任をしてほしいと言われました。はい、校長先生は退職まぎわとみえる
柔和な方で「無理を言って来てもらって申しわけない」とひじょうに恐縮されていました。
4年生は2クラス、私のクラスは2組、児童数28人で、もう一つのクラスの
男性の担任が学年主任も兼ねていたんです。ええ、その方ともお話しました。

私の前に担任されていた先生は、4月からそのクラスを受け持ったものの5月に病休、
それで臨時講師が来たんですが、その方も1ヶ月ほどで病休されてしまったということでした。
これを聞いて、ちょっと嫌な気になりました。
もしや学級崩壊しているクラスかと思ったんです。でも、学年主任は、
「どんな子どもたちか心配かもしれないけど、ものすごく大人しくて聞き分けのいいクラスです。
 この学校の6年生より手がかからないんじゃないかな。特にクラス委員をしてる
 川上さんって女の子、これがすごくしっかりした子で、
 男子も女子もきちっとまとめてるんですよ」こんなふうにおっしゃったんです。
ですから、私の前に病休が重なったのはたまたまだと思ったんですが・・・
翌日、体育館で全校集会があって、私が校長先生に紹介され、その後に自分のクラスを率いて
退場したんです。子どもたちの印象は、とにかく整然としてるってことです。

列を乱したり私語をする子はおらず、行進のしかたもすごく立派でした。
ただ・・・そのとき、あまり立派すぎて軍隊みたいだなとも感じたんです。
列の先頭は体の小さな女の子で、髪を古風なお下げにした子でした。
その子が小さな声で「全員起立」などと声をかけると、クラス全員がイスを持って立ち上がり、
私の後についてきたんです。前日、クラスの顔写真を見ていたので、
ああ、この子が川上さんなんだなとわかりました。教室に戻って、私が自己紹介するのを、
子どもたちは気をつけの姿勢を崩さず、背筋を伸ばして聞いていました。
新しい担任で子どもたちも緊張しているのだろうと思いましたが、
それにしても、あまりに立派すぎるというか、こんな子どもたちは、
正直見たことがありませんでした。ええ、私が現職だったとき、
これほどのしつけはとてもできてはいなかったです。ですが・・・

3ヶ月の間で3人担任が変わったので、子どもたちの学習はやはり遅れていました。
ですので、さっそく授業に入りましたが、やはり初めての学校ですので、
教材備品がどこにあるかもわからず、とまどうことが多かったんです。
でも、私が困った顔をしていると、すぐに川上さんが私のところにやってきて、
「先生、マグネットはこの引き出しです。地図は社会の準備室にあります」というふうに、
にこっと笑いながら教えてくれたんです。その初日だけで、何度川上さんに「ありがとう」
を言ったか数え切れないくらいでした。数学、社会、音楽などがあったんですが、
子どもたちの授業態度もすごく立派でした。ただ、自分から積極的に手を挙げて発表する
子は少なかったです。「大人しくて手がかからない」主任の言ったとおりだと思いました。
給食が終わり、午後の1時間でその日の授業は終わりでした。
帰りの掃除を子どもたちといっしょにしましたが、

子どもたちの机の中やロッカーは一人残らず整理整頓されていました。
それで、後ろのロッカーの上、学級文庫の隣に、透明なプラスチックの飼育ケースが
あるのに気がつきました。中には土が敷いてあり、紫陽花の葉が何枚も重なっていました。
「これ何? 何か飼ってるの?」近くでほうきを使っている当番の子に聞きました。
そしたら、その子は困ったような顔をし、大きな声で「川上さ~ん!」って呼んだんです。
廊下掃除の担当だった川上さんがすぐに走って教室に入ってきて、
「先生、まだ報告してませんでした。それ、クラス全員で飼ってるカタツムリです。
 これからも飼ってもいいでしょうか?」って聞いてきたんです。
私は「ええ、かまわないですよ。生き物の観察は理科の勉強にもなるし」そう言うと、
川上さんは「わーい、よかったなお前たち!」と、それまで聞いたことがない
乱暴な調子で言い、プラケースを持ち上げて揺さぶったんです。

そのとき、紫陽花の葉がずれて、下から真っ黒なものが出てきたんです。
2匹いました。長さ10cmはあったと思います。大きな真っ黒い殻を背負った、
体も真っ黒なカタツムリでした。「え!」見た瞬間にぞくぞくっと背筋が寒くなりました。
「黒いカタツムリ!?」思わず声に出すと、川上さんは「ここらでは珍しくないんです」と、
いつもの調子に戻って答え、またプラケースに「よかったな○○○○、△△△△」と、
よく聞き取れない言葉で話しかけました。「今、なんて言ったの?」
「右にいるのが ○○○○。左が△△△△ 。この子たちの名前です」
「・・・変わった名前ねえ。何かからとってつけたの?」やはりはっきりとは聞き取れず、
そう尋ねたら、川上さんは微笑みながら「みんなでつけたんです。先生もおぼえてください」
「難しい名前で先生ちょっとおぼえられないかも。紙に書いてくれる」そしたら、
教卓から紙とマジックを取ってきて「むんぐるい ふぐるうなふ」って書いたんです。

「今、右にいるツノの先がちょっと赤いのが むんぐるい です。それと、
 葉っぱの下に隠れちゃったけど、ツノの先が少し黄色いのが ふぐるうなふ 。
 先生おぼえてくださいね。この子たちもクラスの仲間なんですから」
掃除が終わって子どもたちは帰っていきました。私は教室内で採点などをし、
5時頃に職員室に戻りました。主任はすでに局員室に来られていて、
「どうでしたか、子どもたちの印象は?」と聞かれたので、「ええ、おっしゃったように、
 とってもいい子たちでした。川上さん、すごいしっかりした子で、きつい感じじゃないのに、
 他の子がみんな言うことを聞いてました」そう言うと、
「そうでしょう、あの子の両親はこの地域の氏神神社の宮司をしていて、
 子どもだけじゃなく、子どもたちの親のほうもみなお世話になっているんですよ。
 古くからある由緒ある神社で、ほとんどの家庭が氏子になってます」

「子どもたち、教室でカタツムリを飼ってましたけど、珍しいですね。
 真っ黒で見たこともない大きさでした」そしたら、「ああ、あれ、どうやら川上さんの
 家の神社の杜に住んでる珍しい種類のものなんだそうです。なんでも県の天然記念物になるかも
 しれないってことで、地元の大学が調査に来てるみたいで」・・・
それから2週間があっという間に過ぎました。ええ、手のかかることや事件などはなかったんですが、
なかなか子どもたちとはなじめませんでした。だって、あんな小学生はいないですよ。
休み時間でも、走り回って遊ぶことも、大きな声を出すこともなく、
トイレに行く以外は席について次の時間の教科書を読んでるんですから。
そんな4年生はどこの学校にもいません。まったく子どもらしいところがなかったんです。
まあでも、もう講師の期間の半分が過ぎたし、
夏休みまであと2週間がんばろう、と思ってました。

カタツムリは、やはり気味が悪いので、なるべく見ないようにしていました。
カタツムリの世話は、放課後、川上さんが一人でやっていたんですが、あるときプラケースに、
鶏卵を入れようとしてましたので、「あら、そんなの食べるの?」って聞いてみました。
すると川上さんは「えー、先生、カタツムリは紫陽花の葉っぱを食べるって思ってるんでしょ。
 違います。紫陽花の葉は毒があって食べられません。
 ただ、この子らが落ち着くから入れてるだけです。カタツムリって、
 カルシュウムを食べないと殻がつくれないんですよ。だから雨上がりなんかに、
 塀のコンクリートが水に溶けたのを吸ってるんです。この子たちは特に食欲があるから、
 家で中身を吸い出した卵の殻をあげてるんです」そうまくし立てるように言って、
プラケースを抱えて教卓にいる私に近づいてきました。被さっていた葉が落ちて、
15cm以上に成長したカタツムリの一匹が側面にへばりついているのが見えました。

「先生、この子はどっち? この子の名前は何?」川上さんが大声で聞き、
座っている私の目の前にプラケースをつきつけたので、思わずよけてしまいました。
「ああ、ごめんなさい。まだおぼえてないの。ちゃんとおぼえるから、元に戻して!」
すると川上さんの口調が変わり「お前もか!」そう吐き捨てると、
プラケースを教室の後ろに置いて、走って出ていってしまったんです。
・・・それからさらに2週間が過ぎ、明日は修了式、私はそこで退任のあいさつをして
任期は終わりです。夏休みの前でかなり暑くなってきていました。
給食の時間のことです。私は教卓で食べていたんですが、
班ごとに机をくっつけていた子どもたちが、突然、授業時のように並び直しました。
「え、みんな、どうしたの?」子どもたちは食器を前にしたまま背筋を伸ばし、
いっせいに「いあ」と言いました。「え? え?」

前の席に座っていた川上さんが、ひときわ大きな声で「むんぐるい ふぐるうなふ」
子どもたち全員がそれに唱和しました。「むんぐるい ふぐるうなふ いあ いあ」
「むんぐるい ふぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん」
「いあ いあ」 「くとぅるう るるいえ ふたぐん」 「いあ いあ」
すると外が暗くなり、ザーッと土砂降りの雨が落ちてきたんです。
窓を閉めなきゃと、立ち上がろうとしましたが、体が動きませんでした。
教卓のイスに貼りついたようで、手も足も動かすことができなかったんです。
「むんぐるい ふぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん」
子どもたちの意味不明な呪文のような言葉はまだ続いていました。
川上さんが席から立ち上がり、後ろのプラケースを開け、
それから私のほうに近づいてきたんです。手には給食のスプーンを持ち、

その上に一匹の黒ナメクジがのっていました。殻がなくなり、スプーンから
体半分以上はみ出すほど成長していたんです。川上さんが私のそばに立って言いました。
「お前に最後のチャンスを与える。よく見ろ、そしてこれの名前を言え」
子どもとは思えない厳しい口調でした。「・・・わからない、おぼえてない」
川上さんはさも残念そうに「そうか、じゃあ飲め、これを飲めばいい」
すると、自然に私の口が開いたんです。川上さんはゆっくりと私の口に、
スプーンごと黒いナメクジを突っ込んできました。目を閉じることも声を出すのもできません。
目の前でナメクジが大きく体をくねらせました。ツノが口の中にふれるのがわかりました。
「むんぐるい ふぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん」
「いあ いあ」 「いあ いあ」 「いあ いあ」 前のほうの列しかわかりませんでしたが、
子どもたちの口の中に黒いものが蠢いていました。私はそこで気を失ってしまったんです・・・

「先生、どうしましたか? 気分が悪いんですか?」あどけない声が聞こえ、
目を開けると川上さんがそばに立っていました。「いやぁ!」叫んで立ち上がりました。
そこで教室を見回すと、子どもたちが机を給食の配列にしたまま、
黙々と食べているところでした。窓の外はカンカン照りの日差し。
「え? え?」 「先生、お疲れみたいですね。でも明日で学校終わりです」
川上さんが楽しそうな声でそう言い、自分の席に戻っていきました。
思わず自分の胃のあたりを押さえました。・・・今のは夢?
特に気分が悪いということもありませんでした。はい、翌日、修了式があり、
私は子どもたちにお別れをして花束をもらい、その学校での勤務を終えました。
学校から出るとき、クラスの中で川上さんだけが私のところに走ってきて、
「先生、ほんとうにほんとうにさようなら」一言残して去っていったんです・・・









ムーミン問題について

2018.01.15 (Mon)
13日にあった大学入試センター試験では、
地理Bの問題に世界的な人気キャラクターのムーミンが登場した。
ムーミンが北欧のどの国を舞台としたアニメーション作品かを
問う内容で、インターネット上には戸惑いの声も上がった。

スウェーデン、ノルウェー、フィンランドの3カ国の気候や貿易などの比較に続き、
各国のアニメと言語の正しい組み合わせを問う問題。アニメは、スウェーデンの
「ニルスのふしぎな旅」が示され、ムーミンと「小さなバイキングビッケ」
のどちらがフィンランドかを選ぶよう求めた。

ツイッターでは「ムーミンは地理に関係ないのでは」など、
受験生とみられる恨み言が噴出。ムーミン公式サイトは、
「まだまだ知られてないんだな、と反省」とつぶやいた。

代々木ゼミナールの担当者は「もう一つの選択肢のバイキングから
ノルウェーが推測できる。手が込んだ問題だが、
ムーミンを知らなくても答えは導ける」と解説した。
(共同通信)

当ブログでは、時事的な問題は取り上げないことにしていたんですが、
この話は面白かったので今回のお題にしました。
うーん、どうでしょう。自分はこれ、あんまりいい問題じゃないと思いますね。
出題者は洒落っ気を出してこういう問題を作ったのかもしれませんが、
ちょっと空回りしてるんじゃないかという気がします。

ムーミンの作者のトーベ・ヤンソン(女性)はスウェーデン系フィンランド人で、
「ムーミン」の原作はスウェーデン語で最初書かれたようです。
また「小さなバイキングビッケ」(原題は「小さなバイキング」)は、
スウェーデン人がスウェーデン語で書いた話です。

つまり「ニルスのふしぎな旅」 「小さなバイキングビッケ」 「ムーミン」
の3つともスウェーデン語作品なわけです。
「長靴下のピッピ」なども含めて、スウェーデンの児童文学は高名です。
ですから、問題中に事実認識の誤りがあるということになるでしょう。

そもそも北欧の国々は、デンマーク、アイスランドも含めて、
言語・民族・文化などは入り混じっており、
言語文化を文学作品で問う問題は不適当だと思います。
実際、トーベ・ヤンソンはフィンランド語、スウェーデン語どちらもできます。
このあたりは、島国の日本ではなかなかわからない感覚です。

じゃあ受験生に救済措置が必要かというと、そこまでする必要はない気がします。
上の引用で代々木ゼミナールの担当者が言ってるように、
「バイキング」という単語をキーにして、ノルウエーかフィンランドのどちらかを
選ぶとしたら、これはノルウエーしかないですよね。むしろサービス問題なんじゃ
ないでしょうか。これで間違えてはいけません。

さて、ここからはムーミンの話をしていきます。
自分は子どもの頃、ムーミンはカバだと思ってましたが、違うんですね。
「ムーミン・トロール」というのは種族名で、個人の名前はないみたいです。
「ノンノン」というのも日本のアニメ限定でつけられた名前で、
原作では「スノークのお嬢さん」となっていて、この「スノーク」も種族名。
ムーミン族とスノーク族は似ていますが、少し違いがあるみたいです。
もしかしたら頭に髪があるのがスノーク族なのかもしれません。

これ、人類にあてはめて考えると変ですよねえ。
主人公の呼び名は「人間」、父親が「人間パパ」、母親が「人間ママ」・・・
まあ、作者のトーベ・ヤンソンは、それでも物語をスムーズに進めていけるので
別にかまわないということだったんでしょうね。

あとムーミンの後に「トロール」という語がついてますが、
これは主に北欧で信じられている一種の妖精です。エルフやドワーフなどといっしょに
ロールプレイングゲームに出てきますが、馬鹿力の巨体として描かれるケースと、
小さな姿で描かれるケースの両方があるようです。体が大きくても小さくても、
どちらもトカゲのような肉体再生能力を持っている場合が多いんです。

ちなみに「ハリーポッター」では、下の画像のような姿でした。
ただ、ムーミンの場合はこのトロールというのは言葉を借りただけで、
伝承に出てくるトロールとは別物だとトーベ・ヤンソンは述べているようです。
あと、ムーミンってすごく小さいんです。画家でもあるが作者が、
原作の第一作「大きな洪水と小さなトロール」で描いた挿絵では、
ムーミンママが子猫と同じくらいの大きさだったみたいですね。



さてさて、有名なアニメには都市伝説がつきものですが、
ムーミンにもいろんな都市伝説があります。最も有名なのは、ムーミンの舞台は、
世界規模の核戦争によって人間が滅んだ後の世界を描いているというもので、
放射能の影響によってカバがミュータント化した姿がムーミンということです。

そして、人間の中で一人だけ生き残ったのがスナフキン。
彼は、核戦争という人類の過ちの結末を見届ける宿命を背負っている。
ですからキャラクターに暗い陰があって、哲学的なことを言うんですね。
彼がギターで弾く「おさびし山の歌」は人類に対する挽歌なんでしょう。
アニメのムーミンの最後で、ムーミンたちがみな冬眠に入るのは、
核の影響ですべてが死に絶えるのを比喩的に表した描写・・・
ということで、今回はこのへんで。









廃村の夢の話

2018.01.14 (Sun)
これは僕が大学2年のときに起きたことですが、今となってはなんの証拠もないんです。
ですから、もしかしたら全部、たんに夢を見ただけなのかもしれないです。
そのことはあらかじめ断っておきますね。じゃあ話していきます。
6月のある夜ですね、アパートの部屋でレポートを書いてたんですよ。
そしたら急に眠気が襲ってきて、ベッドに倒れるように寝込んじゃいまして。
で、夢を見たんです。ものすごく明るかったんですよ、夢の中が。
真昼の日差しが照りつける中、まっすぐな道を歩いてました。
砂利道だったんですが、道に落ちてる石の一つ一つが、
日に照らされて真っ白になってました。はい、夢の中なのに、
細かいところまではっきりと覚えてたんです。道の両側には草がぼうぼうに伸びてて、
その後ろに畑地、それと数十mおきにぽつんぽつんと民家がありました。

家はどれも木造で、藁葺き屋根ではないけど、
ものすごい古めかしい造りで、今でいう古民家みたいな感じでした。
とにかく、その道を歩いていったんです。それで、夢の中ですごくとまどってたんですよ。
ここはどこなのか、なんでこんなとこにいるのか。
その道をずっと行くとどこに出るのか、まるでわからないんですから。
だからすごく心細いような気持ちで、次に家の前にきたら、
ここがどこなのか聞いてみようと思いました。で、一軒の家の庭に入ってったんです。
庭は、植木なんかも伸び放題で荒れ果ててました。
玄関まできて、呼び鈴も何もなかったので、「ごめんください」と言いながら、
ドンドン戸をたたきました。でも、誰も出てくる気配がなくて、
あきらめて道に戻ろうかとしたとき、戸が開いて人が顔をのぞかせました。

真っ白な髪の背の小さいお婆さんでした。僕が、「あの、すみません。
 変なことを聞きますけど、ここってどこなんでしょうか?」そう尋ねると、
お婆さんは口をむにゃむにゃ動かしてから、「若いもんがまだおったんか。
 みな○○さんに集まってるぞ。早く行かないと船が出る」みたいなことを言ったんです。
みたいなこと、っていうのは、そのお婆さんの方言がすごくきつくて、
僕がそういう意味じゃないかって思ったってことです。
○○さん、というのが何なのかはそのときはわかりませんでした。
お婆さんは、すぐにぴしゃっと戸を閉めてしまったので、しかたなくまた道に戻りました。
そうして、道沿いにある家に同じように行ってみたんですが、
ほとんどの家は誰も出てきませんでした。たまに人が出てくる場合もありましたが、
最初の家のようにお年寄りで、ただ「○○さんに行け」と言われるばかりで・・・

そこで、目が覚めたんです。もちろん自分の部屋のベッドにいたんですが、
起き上がろうとしたときに、ジジジジジという音が聞こえたんですよ。
機械的な音だと思いました、あと、すごく頭がいたかったんです。
手で頭を押さえようとしたんですが、目の前に持ってきた自分の手が透けてたんです。
半透明になってたってことです。で、ジジジジジという音はそっから出てるみたいでした。
手は半透明になり、完全に消え、また半透明に戻って、ふつうに実体のある手に戻る。
それをくり返していましたが、だんだん透明になる回数が減ってきて、
音がなくなり、自分の手に戻ったんです。それとともに頭痛も治まっていきました。
今のは何だったんだ?と思いましたが、わかるわけないですよね。
時計を見たら4時台で、外は暗かったので朝の4時だと思いました。
もう眠気はなかったんで、机の上のレポートを仕上げて大学に行ったんです。

そしたら、大学でたいへんなことがわかったんです。
会った友だちごとに、「お前、昨日 何で休んだんだ?」って聞かれたんですよ。
はい、まる1日以上過ぎてたってことです。一昨日の夜9時ころに眠って、
そのまま1日中眠り続け、翌日の朝の4時に起きたってことです。
あの不可解な夢、それと起きたときに手が消えかけていたことと関係があるんだろうと
思いましたが、それ以上のことはわからなかったです。
ええ、その夜は眠るのが怖かったんですが、特に何も起きませんでした。
それから1ヶ月以上何もなかったんで、その夢のことは忘れかけてたんですが・・・
大学が夏休みに入ったある夜、またあの夢を見たんです。
ものすごく強い日差しの中を、とぼとぼ田舎の砂利道を歩いている夢です。
ただ、前と違うのは、そのときは夢の中で「これは夢だ」ってわかってたことですね。

だから、周囲をよく観察することができたんです。
山に囲まれた盆地のような場所でした。たいした広さはなかったと思います。
その集落をつっきる一本道のようなところに僕はいて、前に向かって歩いている。
電信柱は木にコールタールを塗ったものだったし、ところどころにある看板なども
ひじょうに古めかしい感じがして、昭和の初期?大正時代?
とにかく昔の世界にいるんだと考えるしかなかったです。
で、このときも何軒かの家を訪れてみました。やはり前と同じで、
誰も出てこないか、着物を着たお年寄りが出てきて、「○○さんへ行け」と言われるか、
そのどっちかだったんですが、一軒だけ違ってたんですよ。
そこの家も、まわりと同じ古い民家でしたけど、表札が出てて、
「上川」と書かれてました。これ、僕の母の旧姓と同じだったんです。

「ごめんください」外から声をかけると、ややあって戸が開き、着物を着た5歳くらいの
女の子が出てきたんです。その子は僕が問いかけても何も答えず、
ただ、「はい」と言って後ろにまわしていた手を出し、お手玉を渡してよこしたんです。
あの昔の、布の中に小豆が入ってるやつです。僕が受け取るとその子は、
「あげる」と恥ずかしそうに言ってひっこんでいきました。あとはいくら呼びかけても
出てこなかったんです。そこで目が覚めました。ジジジジジという音がして、
頭が痛くて起き上がれませんでした。おそるおそる目を開けると、
夏だったんで体に何もかけてなかったんですが、自分の体が青白い光に包まれているのが
わかりました。光がゆっくり明滅しながら、ジジジという音を立ててたんです。
20分くらいそのままでいると、頭痛が治まり、光が消えていったんで起き上がり、
テレビをつけました。朝の番組をやってましたが、やはりまる1日眠ってたんですよ。

はい、その眠ってた日はバイトが入ってて、僕が無断で休んだことになってたんです。
これは体調が悪かったってことで、平謝りするしかなかったです。それと、
ベッドの枕元に夢の中でもらったお手玉があったんです。手に取るとかびの臭いがして、
とても古いものなんだと思いました。それからまたしばらく何もなかったんです。
ただ、あれこれ夢の原因をしらべてはみました。実家の母親に電話をかけてみたんですが、
母は子どもの頃から大きな市に住んでて、夢の中の村のことはわからなかったんです。
で、前の夢から1ヶ月ほどたったとき、部屋に電話がかかってきたんです。
固定電話にかかってくるのは珍しかったんですが、出てみると女の人で、
お婆さんのような声でした。その人は上川という名字を名乗り、僕の祖母の妹だって
言ったんです。母方の祖母はもう亡くなっていて、その人とは会ったことはありませんでした。
「あんた△△郷に行ってるだろ。○○さんに呼ばれておる。けども行っちゃだめだよ。

 行かない、ってはっきり言わないとダメだ。それと、私のお手玉を送ってほしい。
 今、住所を教えるから」 こんな内容でした。これをきつい訛で言われたんですが、
夢の中で出てくる方言と同じじゃないかと思いました。それで、その夜また夢を見たんです。
あの田舎道でしたが、だいぶ先に進んでいるみたいで、つきあたりに小さな鳥居があるのが
見えました。近づいていくと、鳥居には額がかかっていて「○○神社」と書いてました。
「ああ、○○さんって、この神社のことだったんだな」ってわかったんです。
鳥居の内、神社の境内には大勢の人が集まっているようでした。僕のほうを何人かが見てて、
「おーい、おーい、早くしろ、早く、船が出る」って呼んだんですよ。
「船?」そのときあたりがふっと暗くなりました。神社の上に木製の大きな船が浮かんだんです。
見えたのは底だけですが、40mもあったんじゃないかと思います。船からははしごが下りてて、
和装の晴れ着を着た人がどんどん乗り込んでいきます。

そのうちの数人が僕のほうを見て、「おーい、早く乗れ乗れ!」って呼びかけてきました。
そのときに電話のことを思い出しました。僕は鳥居のすぐ前まで来てましたが、大きな声で、
「行きません! 僕は行きません!」って叫んだんです。そこで目が覚めました。
はい、このときはジジジという音は聞こえず、体が透けたりということもなかったですし、
日にちが1日とんでることもありませんでした。その日、また母に電話をかけて、
△△郷について聞きました。そしたら、母の母、祖母がそこの村の出身ということでしたが、
大きな災害のために廃村になってて、今は誰も住んでいないはずだと言われました。
○○という神社があるかどうかもわかりませんでした。で、地図で確かめてみたんです。
5万分の1の地図では、集落の中を通る一本道の最後に神社のマークがついてましたね。
お手玉は、祖母の妹という人に郵送して手元には残ってません。それ以来夢は見ていないです。
・・・もし、あの夢の中で船に乗ってたらどこに行ったんでしょうね。それは気になりますよ。









ハリーポッター魔法の源

2018.01.13 (Sat)


当ブログを読んでいただいているみなさんにも、
『ハリーポッター』シリーズのフアンの方は多いと思いますが、
自分も本と映画は全部見ています。そこで今回は、ハリーポッターシリーズに
見られる魔法の源について、少し考察してみたいと思います。

まず、一般的な魔法の力の源としては次のようなことがあげられるでしょう。
① 魔法使い個人が力を持っている。
② 魔法使いの唱える「呪文」そのものが力を持っている。
③ 魔法の力を封じ込めた物質がある。
④ ある一定の儀式をすることで魔力が現れる。
⑤ 神や悪魔など、高位の存在から力を与えられる。

この中で、ハリーポッターの世界観は、基本的に①なんだと思います。
個人が、魔法の「素質」あるいは「才能」を生まれつき持っていて、
それがない者はどうやっても魔法使いにはなれない。
また、魔法の力はある程度まで修業によって高めることができるが、
素質が上のものが同じ修行をした場合にはかなわない。

ハリーポッター世界の魔法使いは、杖がないと魔法が使えない
というわけではないようです。あるインタビューの中で、
作者のJ・K・ローリングはこのように言っています。
「杖を持っている魔法使いは多いけれど、それは杖を使ったほうが楽だから。
杖なしで魔法を使う魔法使いのほうが優秀だし、
洗練されているの。魔法使い全体のトップ1%のなかでも、
特に優れたトップ1%だけが、杖なしでも魔法が使える能力の持ち主。
そして彼らは、ほうきにまたがらなくても空を飛べる。」

また、上級者になると「無言呪文」というのが使えるようになってました。
ですから、真に力のある魔法使いは、
呪文や杖なしでも魔法を発動させることができるんでしょう。
杖も呪文も、あくまで魔法をかけやすくするための小道具で、
魔法の力の実質は魔法使いそのものにあるわけですね。
このあたりは、中国の仙術に似ているかなと思います。
仙術も、仙人になるためには「仙骨」という才能が必要で、これが少ないと
いくら修行を積んでも高位の仙人になるのは難しい、とされるんです。

では、どんな人に魔法の才能・素質があるかというと、
ハリーポッターシリーズでは、「血筋」ということが一つのテーマになっています。
「純潔28家」という言葉が出てきますが、これは先祖代々、
マグル(一般の人間)の血が一滴も混じっていない家系のことで、
マルフォイの一家は、そのことをたいへん誇りに思っていましたね。

ただ、ハリーは両親とも魔法使いですが、完全な純潔家系ではなかったようですし、
ダンブルドアに「ホグワーツ始まって以来、最高の秀才」と言われた
トム・マールヴォロ・リドルは父親がマグルでした。
リドルはそのことを嫌い、ヴォルデモートと自分の名前を変えます。
また、ハーマイオニーは両親ともマグルで、
「穢れた血」と言われていましたが、ホグワーツでは優等生でした。

ここから考えると、純潔の家系、特に先祖に高名な魔法使いのいる家系からは、
優れた魔法使いが出やすい(ハリーとヴォルデモートはともにスリザリンの血を持つ)
が、ごくまれに、突然変異的にハーマイオニーのような子が
生まれる場合もある、ということのようです。

さて、③はどうでしょう。魔法の力を持つ物質は1作目の
『ハリーポッターと賢者の石』の表題になっている石
(あらゆる金属を黄金に変える石。不老不死の薬「命の水」の材料)
なんかがそうかもしれません。あと、魔法薬というのもそれに近いのかも。

いろいろな魔法の力を持つ材料を化学の実験のようにして混ぜ合わせ、
ポリジュースや真実薬など、さまざまな薬を作っていました。
魔女といえば、鍋でコウモリの羽根なんかを、
ぐつぐつ鍋で煮込んでいるイメージが一般的で、
作者のローリングもぜひ作中に取り入れたかったんでしょう。

④はあまり出てきませんね。「組分け儀式」というのがありましたが、
あれは「組分け帽」の力によるものでした。ちなみに組分け帽には、
ホグワーツの創始者4人の脳がコピーされて入っているということのようです。
話は少し違いますが、ホグワーツの様子を見ていると、
日本の学校のように、体育館に整列してやる儀式はないみたいですね。
全員が長テーブルに座って、ごちそうを前にして先生方の話を聞いてる場面が
よく出てきていました。イギリスの学校ってあんな感じなんでしょうか。

⑤については、作者のローリングが意識して出していないのだと考えられます。
神はもちろんですが、それと対立する悪魔もキリスト教的な概念です。
魔女が集まってサバトを開き、そこに来た悪魔から魔法の力をもらう、
という話はイギリスでも広まっていましたが、
その後の魔女狩り裁判なども含め、作品からは切り捨てられています。

これは子ども向けとして物語がスタートしたこともあるでしょうが、
ローリングは、キリスト教勢力との軋轢を避けたかったんでしょうね。
作品を読むと、伝説や迷信は積極的に取り入れていますが、
宗教に関する内容は注意深く排除されているのがわかります。
ということで、今回はこのへんで。









「魏志倭人伝」小考

2018.01.12 (Fri)
※ 邪馬台国問題の比較的上級者向けの内容ですが、
これから邪馬台国を研究してみたいと思われる方にも、
ぜひとも読んでもらいたいです。

「魏志倭人伝 (紹煕本)」


自分は5年ほど前、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の日本史板で
コテハン(固定ハンドル)をやっていて、邪馬台国問題についても
よく議論を戦わせたものですが、九州説を主張する人の中には、
「魏志倭人伝の記述は一字一句、すべてが正しい」などと言う人がいまして、
これにはずいぶん閉口したことを覚えています。

さて、卑弥呼や邪馬台国について書かれている「魏志倭人伝」ですが、
『三国志』という中国の史書の中の一部分で、
正確には「三国志・魏書 東夷伝 倭人の条」というのがよいでしょうか。
WIKiには「『三国志』は、中国・西晋代の陳寿の撰による、
三国時代について書かれた歴史書。後漢の混乱期から、
西晋による三国統一までの時代を扱う。二十四史の一。」
とあります。
撰者は陳寿(ちんじゅ)という人で、中国の西晋の時代、
280年代に完成したと考えられています。

では、この「魏志倭人伝」、どこまで信用できるものなんでしょうか。
自分はこれ、かなり危ういのではないかと考えています。
その理由の一つは、文献資料というもの全体に言えることですが、
ある程度以上の分量の文献資料というのは、必ずと言っていいほど、
何かしらの間違いが含まれているものだからです。

例えば、中国の清の時代1735年に完成した『明史』。
これも二十四史の一つですが、明の時代には豊臣秀吉の朝鮮出兵
(文禄・慶長の役)がありました。そこで『明史』には、
「日本伝 豊臣秀吉の条」が立てられています。
みなさん、これ読まれたことがあるでしょうか。
内容ははっきり言ってムチャクチャ、日本人からみれば噴飯物です。
明からすれば秀吉は戦った相手の親玉なのに、
その記述はまったく正確さを欠いているんですね。

これは何も『明史』だけのことではなく、他の時代の中国の史書でも、
日本について書かれている部分だけ見ても、
はっきりした間違いがいくつもあるんです。
それは、日本の文献資料でも同じです。例えば江戸時代に起きたある事件を、
目の前で見ていた人が文章化した資料でさえ、他の文献と比較すると、
やはり多くの齟齬が見つかるんです。ということで、ある文献について、
「書かれていることはすべて正しい」とするのは、最初から無理なんですよ。

まして「魏志倭人伝」の場合、撰者の陳寿が日本に来たわけでもありませんし、
内容のほとんどは伝聞、あるいは別資料を引き写したものです。
当時の日本(倭国)は辺境であり、中国人に知識はありませんでした。
現代のような正確な地図もない時代です。ですから、当然、
その情報には多くの誤謬が含まれているはずです。そしてそのことが、
邪馬台国の問題を複雑にし、これまでに多くの論争を生んできたんですね。

さて、もう一つ。現在目にすることができる『三国志』は、
「百衲本(ひゃくのうぼん)二十四史」に納められているものが一般的で、
これは、宋代(1190年代)に刊行された「紹煕本」が元になっています。
陳寿が『三国志』を書いてから900年もの年月がたっているものです。
この間、『三国志』は代を重ねて多くの人に筆写され続けてきました。

ですから、もともと陳寿が書いたものからは、
かなり内容が変わってしまっているんです。
「古本(こほん)三国志」というものがあります。これはごく古い時代の
『三国志』の写本の一部分で、現在までに6編ほど見つかっています。その中に、
「吐魯番(トルバン)出土 三国志 巻五七(呉書一二)虞翻伝・陸績伝・張温伝残卷」
というのがあり、陳寿が書いた直後の晋代の写本と見られています。

姚李農氏という学者が、これを現代 目にするものと比較した研究がありまして、
それによると、全1192字中、画数の同じでない文字が416字。
全体の1/3を越えます。また、用語から見て、
「紹煕本」と異なるものが40句にのぼる・・・となっているんです。
どう思われますか? これは一部分の話ではありますが、
全体としてみても、この傾向はあまり変わらないと考えられます。
ですから、みなさんが目にする「魏志倭人伝」も、陳寿が書いたものからすると、
1/3は画数の違う漢字が使われている可能性があるんです。

これはしょうがないことです。長い年月の間には、
文章の用字や語法が違ってくるのは当然です。
日本だって、江戸時代と平安時代の文章はかなり違いますよね。
さらに、誤写ということもあります。実際「魏志倭人伝」には、
誤写を疑われる部分が何ヶ所かあります。

さてさて、ということで、「魏志倭人伝」の内容が正確かどうかには、
大きな疑問符がつきます。ですが、邪馬台国について書かれた同時代資料は
ほとんどこれだけなので、他の資料と比較検討することもできません。
そこで、邪馬台国問題では考古学資料が重視されるようになってきているんです。

でも、考古学重視というふうに書くと、
「考古学の出土物に、ここが邪馬台国と書いているわけじゃないだろ!
文献をないがしろにするな、邪馬台国は文献史学の問題だ、ムキー!!」
と怒る人が、特に九州説の中にはたくさんいまして、
困ったもんだなあと自分は思っているんです。

三国志を書く陳寿の像(中国 四川省 南充)








「インキュバス現象」て何?

2018.01.12 (Fri)


18世紀後半~119世紀前半にかけて活躍したロマン派の画家、
ヨハン・ハインリヒ・フュースリの代表作のひとつ「ナイトメア」(上図)は、
ぐっすり眠っている女性の胸に小さな悪魔が乗っている不気味でホラーな絵画だ。
昔から決して少なくない数の人々が「夜中に不意に目覚めると、
自分の胸の上に誰かが馬乗りなっていて凄まじい恐怖を感じた」
と訴える報告が残されており、そうしたホラーな「心霊現象」は、
この絵にちなみ「インキュバス(悪夢)現象」と呼ばれている。

このインキュバス現象について、最近になって科学的な調査が行なわれている。
オランダ・ライデン大学の研究チームは、過去の13の論文における計1800人もの
症例を分析し、このインキュバス現象が現代でもこれまで考えられていた以上に
広い地域でみられる現象であることを報告している。
そして、精神科医はインキュバス現象を訴える患者の話をより真剣に聞き、
治療に向けて取り組まなければならないとしている。

インキュバス現象に見舞われた患者は往々にして「襲われる」
という表現を使うのだが、これは多くの場合、睡眠麻痺(sleep paralysis)
を発症している間に起る現象だという。睡眠麻痺は、
睡眠フェイズの不調和に起因する症状で、入眠時と起床時に起きやすい。

(tocana)

今回は久々に科学ニュースからの話題です。どっから書いていきましょうか。
まず、インキュバスとは何か、ということですが、これは西洋の悪魔の一種です。
「淫魔」などとも言われますね。眠っている女性のもとにやってくるのが、
男性型のインキュバス、男性のもとにくるのが女性の姿のサッキュバスです。
どちらも、眠っている人から見て姿形の美しい、その人の理想どおりの異性であり、
誘惑を避けるのは極めて難しいと言われます。

これ、自分は、大もとはギリシア神話あたりから来てるんじゃないかと思います。
性におおらかだった古代ギリシアでは、神話の主神ゼウスは好色で、
白鳥とか金色の雨に化けて人間の女の寝室に忍び込み、
半神半人の子どもを産ませたりしていますよね。

それがキリスト教が支配する世の中になって、純潔や禁欲が美徳とされるようになり、
性欲は悪魔がもたらすものだ、みたいな考え方が生まれてきました。
それで、インキュバスのようなものが創り出されたんじゃないかと思います。
ただ、自分は引用のようなことを「インキュバス現象」と呼ぶのは賛成しかねます。

以下、その理由を説明します。
このような現象は、引用にあるとおり「睡眠麻痺」状態のときに起きやすいのです。
睡眠麻痺が起きるのはレム催眠状態にあるときと言われています。
レム催眠(Rapid eye movement)は、簡単に言えば、
脳が起きていて体は眠っている状態です。
まぶたを閉じていても、その下で眼球が活発に動いているんですね。
この反対がノンレム睡眠(Non-rapid eye movement sleep)で、
脳は眠っていますが、筋肉の活動は休止していません。

レム睡眠時には呼吸が停止してしまうことがあり、強い息苦しさを感じたり、
胸部に圧迫感を覚えることがあります。そして、
そのような不条理な状態を説明するため、
脳が「自分を押さえつけている人」などの幻覚・夢を作り出すこともあり、
これは日本で俗に言う「金縛り」現象のことを指しています。

みなさんは金縛りになったことがありますでしょうか。
自分は何度か経験していますが、金縛りのときにエロいことを考えられますか?
これはさすがに無理なんじゃないかと思います。呼吸が止まって胸が苦しくなり、
死を意識したときに、まず最初にくるのは恐怖の感情ではないでしょうか。
そういう意味から、自分は「インキュバス現象」というのは、
この状態を言い表すのにはあまりふさわしくないんじゃないかと思うんです。

さて、恐怖の感情が起きた場合、人間は恐怖の対象となるものを自分の
潜在意識の中から引っ張り出してきますが、その恐怖の具体的な対象というのは、
世界のそれぞれの国の文化によって当然違ってきます。
これが日本の金縛りの場合は、鎧かぶと姿の落武者など、
幽霊として現れることが多いんですね。
日本では、幽霊はそれだけポピュラーな存在であるわけです。

それがアメリカだと、宇宙人という場合が多いんです。アメリカ人を対象にした
映画会社20世紀フォックス社のアンケートによれば、半数近いアメリカ人が、
異星人やそれに準ずる物の存在を信じており、そのうちのほとんどが、
「異星人は定期的に地球を監視するために訪れている」ことも信じるとなっています。
またさらに、そのうち20%の人々が「異星人が地球人を誘拐する」と考えています。

ここで出てくるのが「アブダクション(Abduction)」という概念です。
これは拉致、誘拐などと訳される言葉ですが、「眠っていたらいつの間にか
宇宙人の円盤の中に連れ込まれていた。不思議な機械で体を調べられ、
体内に何かを埋め込まれた。そして気がついたら、自分のベッドに戻ってた」
こういう体験談がたくさんあります。米大手シンクタンク、
ローパー世論調査センターの調べでは、30年間で約370万人ものアメリカ人が、
宇宙人による誘拐を経験しているのだそうです。

これ、すごい数ですよね。ところが日本ではこの手の話はあまり聞きません。
また、イスラム教圏のアラブ地域で睡眠麻痺が起きた場合は、
胸の上にのしかかってくるのは、「ジン(jinn)」
という精霊として知覚されているようです。
『アラビアンナイト』に出てくるランプの精というのもジンの一種ですよね。

中国では、睡眠麻痺は「鬼壓身」あるいは「鬼壓床」。
アイスランドでは、睡眠麻痺は通常「マラが来た」と呼ばれ、
マラは古いアイスランド語で雌馬のこと。
ニューギニアでは、この現象は「スク・ニンミヨ」として知られ、
これは神聖な樹木が、人間のエキスを吸い取ろうとしている状態。
メキシコでは、睡眠麻痺は「セ・メ・スビオ・エル・ムエルト」と呼ばれ、
これは「死人が乗り移った」ことを意味している・・・

とまあ、書いていけばキリがないんです。世界の各国で、
自分たちの文化の中で「怖いもの」が睡眠麻痺状態の中で現れてくるんですね。
ですから、睡眠麻痺はその地域の「文化的な恐怖」を具現化させる
スクリーンのような役割を果たしていると言えるのではないかと考えます。
これは自分のようなオカルトを研究している者には、たいへん興味深いことです。

さてさて、睡眠麻痺は不安・恐怖による睡眠障害や、統合失調症に類似した
精神病である妄想障害につながる可能性があるという研究があります。
それだけでなく、健康な人が睡眠中に突然亡くなる、
突然死症候群にも関連があると言われたりもしています。

もしこれが事実だとしたら怖い話ですよねえ。
自分の意識の中から引っぱり出した、自分が最も怖ろしいと考えるものに
襲われた状態で亡くなってしまうわけですから。
睡眠麻痺は主に睡眠リズムの乱れによって起こり、睡眠時間の不足、
逆に睡眠時間のとり過ぎが、睡眠のリズムを狂わせる原因となるようです。
ということで、みなさんも十分にお気をつけください。

Alien abduction - Grey








病院のヌイグルミの話

2018.01.11 (Thu)
看護師をしています。よろしくお願いします。
今は大学病院に勤めてますが、その前は長期療養型の個人病院にいたんです。
そのときにあった話です。そこはいわゆる老人病棟でして、
ほとんどの患者さんは終末期、寝たきりで動けない方が多かったんです。
ですから、看護師よりも介護スタッフの多いところでした。
ええ、亡くなる患者さんも多かったですよ。ほとんど毎日のようにありました。
なので、私たちも人の死に鈍感になってしまうところがあって。
ほら、普通の病院だと、患者さんの病気が治り、元気になって退院されるのが
やりがいになると思うんです。けど、老人病棟だと、
どうしても、患者さんが亡くなるのがゴールみたいな形になってしまうんです。
ああ、すみません。怖い話でしたよね。

あるとき病棟の予算でヌイグルミを3つ買ったんです。
ええ、寝たきりの患者さんたちのなぐさめになるんじゃないかって、
院長先生が予算をつけてくださったんです。
ヌイグルミは同じ黒いクマのが2匹と、黒い犬が1匹でした。
黒にしたのは、汚れが目立たないようにするためですが、もちろん
衛生には気を遣って、病棟の洗濯機でしょっちゅう洗ってましたよ。
名前もつけてたんです。黒クマは「ぷー」と「うー」。犬は「モグ」です。
どれも首にリボンが巻いてあって、そこにマジックで名前を書いてました。
私たち看護師が持って病棟を回り、ほしいという患者さんにお貸しするんです。
最初のうちは上手くいってると思ってました。
みなさん、ヌイグルミを見ると、ぱっと顔に表情が戻るんです。

私たちには聞こえないような声で、あれこれヌイグルミに話しかけてる方も
いましたし、一種のセラピーになっていたと思うんです。ですが・・・
私が気がついたのは3ヶ月めくらいです。クマのヌイグルミのうちの「うー」のほう。
それを借りた患者さんの容態が急変するんです。
うーを枕元に置くその患者さんは3日くらいで亡くなってしまうんです。
もちろん偶然だと思ってました。ほら、クマのは2つあるじゃないですか。
私はどっちがどっちだか気にしたことはなかったんです。
けど、あるとき患者さんが亡くなったとき、テレビ台の上によせてたヌイグルミの
リボンをたまたま見ると、それは「うー」だったんです。
それから3ヶ月くらいの間で、私が立ちあった患者さんの死のときに、
いつも近くにあったのは「うー」だったんですよ。

「ぷー」も「モグ」も亡くなった患者が借りていたことはありました。
でも、この子たちの場合は、1ヶ月以上借りてた方もいますし、
病状が改善されて退院していった患者さんもいるんですよ。それが「うー」を借りると、
まず1週間以内には亡くなってしまうんです。さすがに気味が悪いですよね。
ええ、気がついていたのは私だけじゃありません。
口に出して言ったりはしませんでしたが、ほとんどの看護師が気づいてたと思います。
それで、ヌイグルミが来て半年ほどたったとき、
病棟主任が「うー」をナースステーションのロッカーにしまい込んだんです。
ええ、後でそのことを聞きまして、ほっとした気になりました。
ヌイグルミは残りの2つで回ることになりましたが、
それからはおかしなことは何も起きなかったと思います。

4月になって、院内での人事異動がありました。
外来の医師が急に辞めることになり、代わりの先生が見つからないため、
その科はしばらく休止することになったんです。
それで、そこの科の看護師が入院病棟のほうへ回されて来ました。
山田さんっていう40歳過ぎの先輩看護師でした。
私は、人数が増えてシフトが楽になると思ってたんですが、
その山田さんがなかなかたいへんな人で・・・
看護師の仕事は2種類あって、外来は楽なんです。毎日仕事は定時で、
夜勤などのシフトもありません。ですから、結婚して子育てするようになると、
病棟から外来におりることが多いんです。
山田さんの場合は、お子さんは手のかからない歳になってましたが、

同居している旦那さんのお母さんが足が悪いらしく、家でちょとした介護のような
ことをしているらしく、病棟のほうに回されたことで文句たらたらだったんです。
早く外来に戻してほしいって、いつも師長さんに訴えていました。
まあ、そこまではわかるんですが、患者さんのあつかいがひどくて・・・
ええ、患者さんの中には認知症の方もいますので、拘束する場合もあるんですが、
そういうとき山田さんはすごく手荒くて、口調もきつかったですし、
患者さんの中には、山田さんの顔を見ただけでおびえた様子をする方が
出てくるくらいでした。それで、これは私が悪かったんですが、
山田さんと夜勤になったとき、もののはずみで
「うー」のことを話してしまったんです。ええ、「うー」を借りた患者さんが
すぐ亡くなってしまうので、隔離してしまってあることをです。

そしたら山田さんは「へー」と興味深そうな顔をし、
「うー」を入れてあるロッカーを開け、「なんだ、かわいい顔のクマさんじゃない。
 これ、しまいっぱなしにしてるんだったら、私ちょっと借りていっていいかな」
そう言って、自分のバッグに入れてうちに持って帰ってちゃったんです。
はい、何が起きたかというと、それから4日後、山田さんの義母さんが亡くなったんです。
心臓の病気で急逝されたということでした。それで1週間ほど休まれた後、
山田さんは晴れ晴れとした顔で出勤してきて、バッグから出した「うー」の
頭をなでながら、ロッカーに戻すところを見ちゃったんです・・・
ええ、私は山田さんの義母さんが亡くなったことと、「うー」とは、
絶対に関係があると思ってました。でも、そんなことは誰にも言えないですよね。
2週間ほど後のことです。私と山田さん、それともう一人、3人で夜勤の日がありました。

3人体制のときは一人1時間ずつ仮眠できることになってました。
その夜は特に容態が急変される患者さんもなく、
山田さんが最初に仮眠室に行ったんですが、時間前にぷんぷんに怒って出てきたんです。
「これ、あんたたちが置いたの?何の嫌がらせ?!」手に黒いヌイグルミを持ってました。
私ともう一人が顔を見合わせてると、「あんたたちじゃなきゃ誰がやるのよ、
 こんなのベッドに入れてたら死んじゃうじゃない!」
・・・「うー」なんだと思いましたが、私たちがそんなことをするはずはなく、
山田さんは怒り狂ったまま、「うー」を医療用のハサミでジョギジョギに切り刻むと、
廊下にあるゴミ箱に放り込んじゃったんです。その日以来、
山田さんの元気がなくなりました。いつも怒り気味だったのが陰気になったっていうか。
でも、そのほうが私たちは仕事はしやすかったですけど。

それから2週間ほどして、また山田さんと夜勤になる日がありました。
そのころには、山田さんはほとんど必要以外の口を聞くことがなくなり、
体格がいいほうだったんですが、すっかり痩せてしまってたんです。
山田さんが最初に仮眠に入り、交代の時間になったので私が仮眠室へと向かいました。
ドアを開けると、部屋の中が青白い光に包まれてました。
仮眠用のベッドに寝ている山田さんの胸の上で、何かが光りながら回っていたんです。
「え?」 その空中でゆっくりと回るものは、ヌイグルミのクマの体でしたが、
頭が青白く光る老人の顔になっていたんです。
私が呆然と見ていると、老人・・・お婆さんの顔をは歯をむき出した怒りの表情になり、
「うーっつ」といううなり声が聞こえてきたように思いました。
私は後ずさりしながら、手を伸ばして部屋の電灯のスイッチを入れました。

そのとき、宙に浮かんでいたものはかき消すように見えなくなり、
山田さんは半身を起こして「・・・え、え、もう交代の時間?」と言ったんです。
はい、もちろん私が見たもののことは山田さんには言ってないです。
おそらく、私が何か見間違いをしたんだと思います。というか、
そうでも思わないと仕事を続けていくなんてできないじゃないですか。
山田さんはそれからますますやせ細って、検診で膵臓がんが見つかったんです。
系列の病院に入院したものの手術はできず、抗がん剤の副作用で苦しんだあげくに
亡くなったという話を聞きました。これで終わりです。
その後は特におかしなことはなかったと思います。私はその後、
結婚を機に病院をかわり、その病院には足を踏み入れていません。ですから、
「ぷー」や「モグ」がどうなったかも、ここでお話することはできないんですよ。









逆転日本列島はあったか?

2018.01.10 (Wed)


今回も邪馬台国関連の話題です。長くなりそうなので、
興味のない方はスルーをお勧めします。
上掲の図は「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」
と言いまして、1402年に李氏朝鮮で作られた地図(の写本)ですが、
さらにそれを、わかりやすくするために自分が切り抜いてあります。
地図の右、巨大な朝鮮半島の下に描かれているのが日本列島で、
これは行基図と呼ばれる日本で作られた地図が挿入されていると考えられます。

この日本図を見ますと、まず北海道がないですよね。北海道がないのは、
樺太などと同様に、日本の一部と考えられていなかったためでしょうが、
何だか向きが変だと思いませんか。九州島が一番北にあり、
東北地方が南側になっています。向きが90度回転しているわけです。
この事実は学者たちの興味を引き、
邪馬台国の位置をめぐる論争のタネの一つとなってきました。

「魏志倭人伝」によれば、「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」
邪馬台国は北部九州から南に進んだところにあるはずですが、
畿内説の場合、畿内は北部九州からは東の方角になります。
ここで、畿内説をとる学者の中には、古代の中国人には、九州を最北として、
日本列島は南に伸びているという認識があったのではないか、
という説を述べる人がいるんです。

ただし、この「混一疆理歴代国都之図」は他にも写本がありまして、
他の3つには正しい位置の日本列島が描かれています。
上掲のものだけが例外ということです。
「なんだ、じゃあこれだけ何かの理由で間違えてるんだろう」
と思われるかもしれません。まあ、自分もそう思わないこともないんですが、
それとは別に、古代の中国の日本列島の地理認識が
おかしかったのではないかと考えられる点が、いろいろとあるんです。

そのことを明らかにしたのが、京都大学の地理学者・室賀信夫氏でした。
氏は古地図のコレクターでもありまして、中国の古地図を丹念に分析し、
古代中国には九州を最北とする日本の地理観があっただろうと結論づけました。
下の図をごらんください。



これは「古今華夷区域総要図(ここんかいくいきそうようず)」と言われ、
11世紀はじめに宋でつくられた地図とされています。
日本列島は大陸の東に散らばる島々として描かれていて、
北に「倭奴」とあるのがわかります。「倭奴」は後漢に朝貢した「倭の奴国」で、
北部九州の現在の博多周辺と考えられます。
その南に「日本」があり、これは当時平安京があった京都のこと。
さらにその南の「毛人」は「毛野の国」、群馬県と栃木県南部あたりを
指しているかもしれません。また、その南側に「琉球」 「蝦夷」が続いています。

このあたりは中国人の地理観の混乱を物語っているんですが、
北から南に、「九州→近畿→関東→(琉球)→蝦夷(東北)」
となっていることに注目してください。この地図はほんの一例で、
このような地理観で描かれたものはまだ他に何枚もあり、
それらを元にして、室賀氏は、古代中国には九州を北にして、
南に伸びた日本列島の認識があったと結論づけているんです。

自分も論文を読みましたが、室賀氏の論証はたいへん説得力があります。
もし室賀氏の考えが正しいとすれば、魏から邪馬台国へ向かう使者は
南に進んでいって畿内に着いた、という先入観が当時の中国にあった、
ということも考えられなくはないと思います。

さて、北京の中国社会科学院・日本研究所所長に高 洪氏という人がいて、
「邪馬台国の位置めぐる諸問題」という論文を中国語と日本語で出しています。
上の話とは少し違うんですが、この論文の中で高 洪氏は、
邪馬台国は大和であったという結論を述べ、
魏からの使者が方角を間違えたのは、古代の中国には「天円地方」
という宇宙観があったためと説明しているんですね。

「天円地方」とは、地面は平らで四角形をしており、
天空は円形のドーム状とみるような宇宙のとらえ方です。
魏からの使いは、初めて日本の地に来て、天測しながら進んでいったものの、
その宇宙観のために方角を間違えてしまったのだという論旨でした。
ちなみに、自分が知っている中国人歴史学者、考古学者のほとんどが
邪馬台国畿内説をとっています。

さてさて、ここまでは あくまで地理観の問題でしたが、
以下はオカルト的な内容になります。邪馬台国の時代には、
実際に日本列島の向きが今とは違っていた!と主張する人物がいます。
サイエンス・エンターティナーを自称する、超常現象研究家・飛鳥昭雄氏です。

このことは、『邪馬台国の謎と逆転日本列島』
という氏の著書に詳しく書かれていて、
魏使が北部九州に上陸し、そのまま海を南に進んでいくと
大阪湾に着くという話なんですが、みなさん、これどう思われますか?

2000万年前とかの話じゃなく、邪馬台国はわずか1800年ほど昔の国です。
地球物理学的には、そんな短い時間に日本列島の向きがぐるっと変わるなんて
考えられないですよね。いくらなんでもトンデモだと思うんですが、
飛鳥氏がこのような主張をするのは、氏がモルモン教の信徒であるからと
考えられます。モルモン教はキリスト教原理主義の教団です。

モルモン教などのキリスト教原理主義団体で、旧約聖書の記述から、
約6000年前が天地創造と考えられているのは、
前に当ブログで「創造論って何?」という項目で書いたとおりです。
ですので、飛鳥氏から見れば、2000年もたたない間に
巨大な地殻変動があっても別に不思議ではないんだろうと思います。

この他にも、氏の著書には、恐竜と人間が共存していたなどの、
モルモン教の教義を色濃く反映した内容があちこちに見られるんです。
まあ、面白読み物としてはそれでもいいのかもしれませんが、
このあたりのことは頭に入れてほうがいいと思いますね。

関連記事 『「創造論」って何?』









若者のオカルト離れ?

2018.01.09 (Tue)
UFOやUMAを信じない今の若者は「ロマンがない」先日、匿名掲示板2ちゃんねるに、
「なぜ最近の若者はUFOもUMAも心霊も信じなくなってしまったのか?」
というスレッドが登場した。

本文には短く「ロマンなさすぎですやん」の文字。このスレッドを立てた人物は、
最近の若者たちがロマンがないものだから、
未知の飛行物体や未確認生物の実在を端から信じていないと考えているようだ。

(以下略 にこにこニュース)

今回はこのお題でいきます。「若者の○○離れ」といったニュースを、
最近はひんぱんに見かけるようになりましたが、
これもその一つなんでしょうか。2ちゃんねる(5ちゃんねる)のスレッドでは、
統計結果などは示されてはいませんでしたが、
これ、自分は、あるかないかと言えば、あると思います。

原因はいくつか考えられますが、ネット社会になっても、
依然として強い影響力を持っている地上波テレビのオカルト番組の内容が、
あまりに低レベルだというのもその原因の一つに挙げられるでしょう。
例えば心霊系の番組だと、心霊写真や動画が流されると、
女性タレントがまず悲鳴をあげ、さらに男性芸人がツッコミを入れて混ぜっ返す。
さらに、うさん臭い霊能者が怪しげなコメントを加える。
まあ、こういう作りになっているものが多いですよね。

でもこれ、わざとああいう風に低劣に作っている面があるんです。
もし視聴者から抗議の電話などが入ったときに、
「ああ、あれはシャレなんです。バラエティなんですよ」
「えーこんなのマジで見てる人なんていないでしょ」
みたいなスタンスで答えられるように、最初から企画されているんでしょうね。

昔は、「あなたの知らない世界」の新倉イワオ氏や、
「木曜スペシャル」の矢追純一氏のように、その世界の権威とされる人が、
かなりガチに見える態度で語っていたもんですが、
今はそういう形の番組作りはどこもしてないですからねえ。
たま出版社長の韮澤潤一郎なんかは完全なギャグ要員ですし。

予算の問題もあると思われます。マジな心霊番組を作るには、
かなりのお金がかかるんです。心霊スポットやワケアリ物件、幽霊屋敷などに、
様々な科学測定機材をそろえて多人数のスタッフで何日も泊まり込み、
それで、何かしらの結果が出る可能性はごくわずかです。

これに対し、視聴者からの投稿画像やネットで拾ったビデオなどを流すだけなら、
ほとんどお金はかからないですからねえ。
NHKがBSでやってる『幻解!超常ファイル』はなかなかいい番組だと思いますが、
民放では、視聴率がそれほど期待できないものに、
とてもあんなふうにお金はかけられないと思います。

その他にも、UFOやUMAなどは、画像、動画が素人でも簡単に加工できるように
なったことが大きいと思います。youtubeには毎日たくさんのその手の動画がupされ、
その量に比例して、信頼性が低くなっていくようです。
自分も、パソコンにフォトショップを入れてますが、
1時間くらいかければ、知り合いに見せると「うわー怖!」
と言われるくらいのものは簡単に作れてしまうんです。

あとは、前にも少し書きましたが、日本の特殊事情があります。
昔はオカルトと言われていたものの一部が、スピリチュアルと名前を変えて
浸透してきているんですね。日本人で熱心に宗教を信じる人は、
世界の他の国に比べれば少ないと思います。
むしろ宗教に一種の警戒感を抱いている人が多い。

ただ、占星術をやる自分が言うのもなんですが、
占いとかお守り、ラッキーアイテムみたいなのを好む人は多いですよね。
あるいはパワースポットやパワーストーンなども。
スピリチュアルは、宗教ではないということが一つの売りになっていると思います。
既存の宗教とも新興宗教ともまた違う自然の摂理のようなものという形で、
オカルトにとって代わるように勢力を拡げていっています。

あとは、異世界とか、タイムトラベルとか、世界線の移動、平行世界など、
どちらかと言えばSFに近い分野が好まれるようになりました。
アニメやラノベなんかは「異世界もの」がすごく多いですよね。
フアンの人が、異世界をガチで信じているということもないんでしょうが、
異世界ものには癒やしの効果もありますし、
オカルトに代わるものとしての役割を果たしているような気もします。

さてさて、そういうことで、もしかしたら日本では、
オカルトはその役目を終えつつあるのかもしれません。
ですが、この風潮は、ホンモノのオカルトが選り分けられるよい機会である
とも自分は考えています。たくさんのニセモノが排除され、ホンモノだけが残る。
本物のオカルトは間違いなくありますから。








死児を撮る話

2018.01.08 (Mon)
去年の9月の連休のことです。友だちと女2人で温泉に行ったんです。
・・・じつは、その1ヶ月ほど前に彼と別れてしまいまして。
それで、高校のときの友だちをさそって愚痴でも聞いてもらおうと思ってました。
友だちは、奈美って名前にしておきますね。高校のときは同じバスケ部で、
すごく明るい子だったんです。だから、いっしょにいたら少しは気が晴れるかと思って。
それで、旅行を決めたのが3週間ほど前だったので、
近場の有名な温泉地は、どこも予約でいっぱいだったんです。
そしたら奈美が、「県内でもまったく有名じゃないし、宿もボロいんだけど、
 お湯だけはいい温泉があるのを知ってる」って言い出しまして。
そこは田舎で、ネットなどにも載ってないようなところでした。
奈美に電話をかけてもらうと、宿泊できるということだったんです。

それで、土日を一泊二日の予定で予約を入れたんです。
当日は私の車で行きましたが、3時間半ほどかかりました。
国道から県道に入って、さらに山の中の道をずっと走りました。
温泉の住所はカーナビに入れてたんですが、途中でナビが効かなくなって、
あとは奈美の記憶を頼りにして宿を探したんです。
「奈美、よくこんな場所知ってたわね」そう言ったら、
「小学校4年生まで、そこの村に住んでた」ということでした。
車は山を一つ越えて、下りたところに小さな盆地のような集落がありました。
「ああ、ここ、この場所。覚えてる、懐かしいなあ」奈美がはしゃいで言いましたが、
そこは店一つないような田舎の町だったんです。ええ、それから30分ばかり走って、
山の下にある温泉宿に行き着きました。

建物は古いけど造りはかなり立派でした。「ああ、ここね、昔の名主の家だったみたいだよ」
60代くらいの女将さんが出てきて部屋に通されました。
畳も障子も日に焼けていましたが、12畳の立派な部屋でした。
そのとき女将さんに聞いた話では、連休中なのに泊まってるのは私たちだけということで、
旅館として生計を立てているわけではなく、たくさんある部屋が傷まないよう、
口コミの紹介を通じて、わずかなお客さんに来てもらっているということでした。
さっそく温泉に入りました。露天風呂はなかったんですが、
かなりの広さの石組みの浴槽で、ふだんは混浴らしかったのですが、
お客さんは私たちしかいなかったので、なんの気兼ねもありませんでした。
乳白色のお湯はかすかに硫黄のにおいがして、完全な掛け流しでした。
お湯はややぬるめだったものの、すごくいいお湯でした。

ああ、すみません。旅行の話ばっかりになってしまって。その夜一泊し、
翌朝また温泉に入って、すごくのんびりした気持ちになりました。
奈美があれこれと励ましてくれたので、失恋した痛手もかなり癒えたような気がしたんです。
朝食をとった後、奈美が女将さんに、「裏の山、たしか登れましたよね」って聞きました。
「あ、はい。国有林ですが、登山路はついております。低い山ですから、
 1時間もかからず頂上に出ますし、たしか休み屋のようなものがあったはずです。
 ですが、高い木ばっかり生えてて、見晴らしなどはよくないですよ」
女将さんにはこう言われましたが、女2人の気軽な旅行で、
普段着にスニーカーを履いてましたので、お昼までには戻る予定で山に登ってみたんです。
登山路はせまかったですが、ところどころに木の段があり、
傾斜も急ではなく、登山というより軽いハイキング程度のものでした。

頂上には無人のあずま屋があり、そこに座って持ってきた飲み物を飲みました。
登山路は頂上で終わりではなく、下る道がまだずっと続いていました。
「ねえ、ここ下りてくと、どこに出るの?」奈美に聞きましたら、
「うーん、たぶん別の集落があると思うんだけど、そこって廃村だったような気もする」
「ここまで30分しかかかってないよね。少し下まで行ってみない」
その道を5分ほど下りたところで、ふっと日差しが暗くなりました。
急に天気が変わって、雨がぽつぽつと落ちてきたんです。
2人とも雨具などは持ってきてませんでした。小走りで引き返そうとしましたが、
雨は止む気配はなく、2人ともあきらめて濡れながら歩いていました。
そのとき、横手の林から「おーい、あんたら」と叫びながら人が出てきたんです。
50代くらいにみえる背の低い男の人でした。「はい?」私が答えると、

「あんたらカメラは持ってるか?」私も奈美もスマホを持ってましたし、
私はその他にデジカメも持ってましたので、「ええ、持ってますけど」そう言うと、
「お願いがあるんだ。写真撮ってほしいものがある。金は払うから」
私と奈美は顔を見合わせましたが、雨がますます激しくなってきて、
傘を貸してくれるということだったので、とりあえず行ってみることにしました。
林の中の細い道を下に少し下りた斜面に、ボロボロの家がありました。
「ああ、ここだよ、さあ」私と奈美がその家に入ると、ぷうんとお線香のにおいがしました。
男の人は「じつはなあ、ついさっきうちの子どもが死んだんだ。
 医者にはもう連絡してるから、そろそろ来てくれるはずだ。でなあ、頼みなんだが、
 その子はほとんど写真とかないんだよ。うちには写真機もないし・・・」
 だから今、なんとかあんたらで撮ってくれんかと思って」

私と奈美はまた顔を見合わせました。そんな気味の悪いことはできないと思ったんですが、
もう家の中に入ってましたし、外はザーザー振りの雨になっていました。
それだけじゃなく、稲光がして遠くで雷が鳴り出したんです。
「・・・・」私たちが黙っていると、男の人は財布から1万円札を出し、
「こんけあればいいだろ、後で住所書くから、写真はそこに送ってけれ」
それで私は、もうすぐ医者さんも来るんだしと思って覚悟を決め、お札は受け取らず、
「わかりました。じゃあ」バッグからデジカメを取り出し、
男の人に奈美といっしょについていきました。廊下を通ってフスマを開けると、
大きな仏壇があり、その前に小ぶりの布団が敷いてあって、
小学校低学年くらいの子どもが寝かされていたんです。顔に白布がかかってました。
「さ、頼んますよ」男の人が布をめくり、はっと奈美が息を飲む音が聞こえました。

女の子でした。固く目をつぶり、真っ白な顔で生気がありませんでした。
私は枕元に立ち、上から見下ろすようにして何枚か、さらに横から何枚か、
その子に向けてデジカメのシャッターを切りました。
ファインダーごしに見る女の子の顔はすごく整っていて、
ああ、こんな年で死ぬなんてと思うと、かわいそうで涙が出そうになってきました。
合計10枚ほど撮ると、男の人は「じゃあ、今、住所書いて持ってくるから」
そう言って部屋から出ていきました。そのとき奈美を見ると、
フスマのほうを向いて小刻みに震えてたんです。私が「かわいそうだけど、怖くないよ」
そう言うと、奈美は「・・・それ、人間じゃない」って絞り出すような声で叫んだんです。
「え?」もう一度女の子のほうを向くと、さっきまで固く閉じられていた目が、
ぱっちりと開いてたんです。「死んだよー」女の子がか細い声で言いました。

「きゃーっ!!」私は悲鳴を上げ、奈美といっしょに転がるようにして部屋の外に出ました。
そのまま廊下を突っ切ってスニーカーをつっかけ、家の外に出ました。
そのとき、まばゆい光で目の前が真っ白になり、少し遅れてドーンという轟音が響いたんです。
「あー!!!」私と奈美は叫びました。・・・そして、気がついたら、
私たちはまばらな林の中に立ってたんです。ええ、雷どころか雨も降ってませんでした。
体もまったく濡れてなかったんです。とにかく、少しでもその場を離れようと、
登山路に出て息を切らして走りました。頂上のあずま屋を過ぎたあたりで2人とも走れなくなり、
立ち止まって膝に手をあててあえぎました。「・・・何だったの、あれ?」
私がとぎれとぎれに言うと、奈美が「キツネじゃないかな。写真を撮ったの、
 金色の毛をした動物だったよ」奈美がそう答えたんです。
「キツネ???」 「化かされたんだよ私たち、・・・たぶん」

奈美が言うには、あの家の中に入ったときからずっと獣臭いにおいがしてた、
布団に寝かされていたのは小さな金色の毛の動物で、それを見てから、
私が写真を撮っているあいだ中、怖くてずっと目を閉じていたってことでした。
ええ、デジカメは手に持ったままでしたので、おそるおそるモニターを見ました。
・・・写っているのは草の上に横たわった動物だったんです。宿について、
女将さんに山の家のことを聞いてみましたが、そんなものはないと思うと言われただけでした。
ただ・・・化かされたというのとはちょっと違うかもしれないです。というのは、
私のジーンズのポケットからくしゃくしゃの1万円札が出てきて、それ本物だったんです。
後になって木の葉に変わるなんてこともありませんでした。
ですから、今、困ってるんです。はい、プリントした写真をどうすればいいのか。
もう一度あの山に行って置いてくればいいんでしょうか。でも、それも怖いし・・・









宮沢賢治と相対性理論

2018.01.07 (Sun)
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今回はこのお題でいきます。みなさん、宮沢賢治とは何か?と聞かれたら、
どうお答えになるでしょうか。童話作家? 詩人?
それはそうなんですが、作品が世に広まるのは賢治の死後のことで、
生前に受け取った原稿料は、童話『雪渡り』による5円だけというのは有名な話です。

賢治は1896年(明治29年)生まれ、 1933年(昭和8年)没という
37年の短い生涯でしたが、熱心な日蓮宗の宗教者、教育者、
農村改革者、肥料設計技師・・・いくつもの顔を持っていました。
その中には、科学者とまではいえないでしょうが、
当時の最先端科学を深く理解していた科学愛好家としての顔もありました。

まあ、これは当然といえば当然の話で、賢治は盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)
に首席で入学。学部で一人だけ授業料を免除される特待生となり、
研究生として学校に残り、卒業時に助教授に推薦されたものの、
これを辞退しています。当時の理系の大エリートだったわけです。

さて、賢治は子どもの頃から鉱物採集が好きで「石コ賢さん」と呼ばれていました。
賢治は、日本でのオニグルミの化石の第一発見者でもあるんです。
ですから、作品には鉱物や化石をモチーフとした話がたいへん多いんですね。
『楢ノ木大学士の野宿』は、蛋白石(オパール)の採取のため、
河原に野宿する大学生の話ですし、『銀河鉄道の夜』では、
主人公らは、大学士が牛の祖先の化石を発掘する現場を見学したりしています。

尋常小学校教科書と鉱物標本


では、物理学方面はどうだったでしょうか。これ、自分は、
賢治は相対性理論をかなり深いところまで理解していたのではないかと思います。
現代であれば、理系の大学を卒業した者が相対論を理解しているのはあたり前ですが、
今とは時代が違います。特殊相対性理論がアインシュタインによって発表されたのが
1905年、賢治が9歳のときで、一般相対性理論発表は1915年、
賢治が19歳、盛岡高等農林学校に入学した年です。当時、相対論は、
世界で理解している者は数えるほどと言われる難解な理論でした。

賢治が相対論を理解していたと考えられる部分は、作品のあちこちに見られます。
まず、詩集の『春と修羅』の有名な序文ですが、後半部分に「因果の時空的制約」 
「心象や時間それ自身の性質として 第四次延長のなかで主張されます」
といった言葉が出てきます。

この「第四次延長」というのは、おそらく、相対性理論でいう
「4次元連続体(four-dimensional continuum)」
を賢治なりの言葉で訳したものだと思われます。
この概念はアインシュタインによって、初めて言い出されたものです。

ただ、賢治があたったのが相対性理論の英語の論文なのか、
ドイツ語論文なのかは、浅学の自分にはよくわかりません。
ちなみに、『春と修羅』が書かれたのは、詩集に「1922.4.8」
という注記があるようですので、これが確かだとしたら、
一般相対性理論発表から7年後ということになります。

また、菜食主義をテーマにした『ビジテリアン大祭』では、
登場人物が「文学より見たる理論化学とか、相対性学説の難点とか・・・」
と述べています。「相対性学説」も「相対性理論(theory of relativity)」
の訳語だと考えられます。さらに、賢治のメモ書きで、
「アインシュタイン先生、ルメトール先生」
と書かれたものが見つかっているんですね。

ルメトールというのは、アインシュタインの理論に基づいて宇宙膨張論を提唱した
宇宙物理学者です。この理論は当時の最先端のものでした。
ルメトールはまた正式なカトリック司祭でもあり、
キリスト教神学の、神による天地創造を背景として、
ビッグバン理論を推し進めた人なんですが、このあたりは、
同じく宗教を信ずるものとして、賢治が共感していたのではないかという気がします。
賢治の中でも、宗教と科学は矛盾するものではなかったのです。

さて、アインシュタインは1879年生まれ、1955年没。
賢治より先に生まれ、賢治の後に亡くなっているわけですが、
ほとんど同じ時代を生きていると言ってよいと思います。
では、賢治との接点はなかったんでしょうか。

アインシュタインの来日は1922年(大正11年)、
11月17日のことです。日本各地で過密スケジュールの講演を行い、
12月2日に仙台へと来ました。このとき、駅に歓迎の群衆が押し寄せ、
アインシュタインが「命の危険を感じた」と書いているほどです。

どうでしょう。12月3日の仙台講演の聴衆の中に賢治はいなかったんでしょうか。
大正11年といえば、賢治は岩手県立花巻農学校の教員。
この年の11月27日、妹のトシが結核のために死亡、
29日に葬儀が行われています。あの「あめゆじゅとてちてけんじゃ」の
『永訣の朝』の詩が書かれた年だったんです。

これについて、いろいろ調べてみたんですが、賢治が盛岡から仙台へと、
アインシュタインの講演を聞きに行ったという証拠は見つかりませんでした。
おそらく、愛する妹の死の直後で、それどころではなかったんでしょう。
アインシュタインの来日は日本中の話題となり、連日、新聞報道されていたので、
当然、賢治も知っていたと思われます。
もし講演に行ってれば、何か書き残していたかもしれませんね。
タイミングが悪かったと言うしかないようです・・・

さてさて、自分は賢治の作品の魅力は、一つにはファンタジックな幻想が、
科学理論によって裏打ちされている部分にあると考えています。
もちろんそれだけではありませんが、今回は、一般的な賢治論では
あまり言われることのない部分に焦点をあてて本項を書いてみました。
興味を持っていただけましたら幸いです。

来日したアインシュタイン
早稲田大学来訪時のアインシュタイン夫妻2







日本に「殉葬」はあったか?

2018.01.07 (Sun)
前回、埴輪の起源の話を書きましたが、それに関連した話です。
ただねえ、これってすごく難しいテーマなんですよ。
これがもし「日本に殉死はあったか?」というテーマだったらことは簡単です。
答えは「多数の例がある」の一言で済んでしまいます。
森鴎外の『阿部一族』に見るように、武家社会では殉死が近世まで続いてましたし、
明治になっても、乃木大将夫妻が明治天皇に殉じています。

殉死された乃木大将夫妻


じゃあ、それでいいんじゃないの。なんで「殉葬」にこだわるの?
と思われた方も多いでしょうが、これ、邪馬台国問題に関係があるんですね。
『三国志・魏書 東夷伝 倭人の条』通称「魏志倭人伝」には、
邪馬台国の女王卑弥呼の死のいきさつについて、次のように記されています。
「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢百餘人」
いちおうこのように読み下します。
「卑弥呼以って死す 大いに冢(ちょう)を作る 径百余歩 徇葬する者奴婢百余人」

この部分は一字一句に議論がありまして、「以」を「もって」とするか「よって」
にするか、あるいは「すでに」と読むかで意味が違ってきます。
また「歩」という当時の中国の単位の長さや、「径」とは円の直径なのか、
「冢」とは何かということなどについても、いろいろ自説を述べる人がいるんです。

ともかく、卑弥呼の大きな墓を作り、奴婢100人あまりを殉葬(徇葬)した、
という意味のことが書かれているのは間違いないでしょう。
ただし、厳密には、殉葬者が卑弥呼と同じ墓にいっしょに葬られているのか
ということまではわからないのではないかと思います。

さて、邪馬台国の位置問題は、大きく九州説と畿内説に分かれますが、
九州説には「100人の殉葬跡のあるものが見つかれば、それが卑弥呼の墓だ」
と考える人が多いようですし、畿内説では、
「殉葬者100人というのは中国式の誇張表現ではないか。
 蛮夷の国の野蛮な風習として、ことさら強調しているとも考えられる」
と述べる人もいます。

なぜ畿内説にこのような意見があるのかというと、日本ではこれまで、
たくさんの弥生墳丘墓や古墳が発掘されてきましたが、
はっきりした人間の殉葬の跡があるものは、いまだに確認がされていないんですね。
そのことについて、九州説では「火山国である日本の土壌は酸性土であるため、
土中の骨は残りにくい」などと言う人がいます。

これは一理ある意見ではあるんですが、殉葬者の遺体にただ土をかけていった
などならともかく、棺に入れられていたのであれば、見つけることは可能です。
あと、考古学は穴の跡を見つけるのは得意です。
古代の建物の柱穴を写真で見られたことがあるのではないかと思いますが、
もし穴を掘ってその中に殉死者の遺体を入れたのであれば、
その跡を見つけられる可能性はかなりあるはずです。

縄文時代の土坑(狩猟のための陥穴)


実際、古墳時代の5世紀に馬を殉葬した例はいくつか見つかっています。
ただ、古墳の周濠(古墳のまわりの堀状の部分)
にそのまま殉死者の遺体を投げ入れたといったようなケースだと、
見つけるのはまず難しいでしょうね。あと、「追葬」という問題もあります。
これは、墓の被葬者が死んで何年、何十年か後に、
近親者などが死んだのを同じ墓に埋葬することですが、
時間差があって埋められたのかどうかは、なかなかわかりにくいんですね。

馬の殉葬とみられる例


さて、ここで話を変えて、殉死には「自ら望んで死んだ」場合と、
「強制的に殉死させられた」場合とがあります。後者は殺人殉葬などとも言います。
『三国志・魏書 東夷伝 扶餘伝』には、「殺人徇葬多者百数」という語が出てきます。
もちろん、この中間というか、自ら望んではいないが周囲のプレッシャーのために
殉死せざるをえなかった、などの例もあるとは思います。

邪馬台国の場合、倭人伝に書かれている殉葬がもしほんとうにあったとして、
このどちらであったかはわかりません。
奴隷的身分の者が、強制的に首を切って殺されたのかもしれないですし、
卑弥呼の宗教的な権威に心服していたので、
自ら従容として死におもむいたのかもしれないです。

さてさて、そろそろまとめたいと思います。
日本に殉葬はあったのか?というテーマの答えについて、
どっちかを答えなくてはならないなら、これは、あっただろうと言うしかないですね。
弥生時代の墳丘墓や、古墳時代の古墳には、土は盛られているものの、
発掘しても中には何も見つからないというものもあり、
もしかしたら、それは殉葬者のためのものであった可能性もあるでしょう。

また、自分は何度か古墳の発掘調査の手伝いをしたことがありますが、
墳丘上で用途不明な穴の跡が見つかったケースもあるんです。
それは単に古墳造営で出たゴミを埋めたものだったのかもしれないですが、
そのとき自分は、殉葬という言葉がちらと頭をよぎったのを覚えています。

ただし、殉葬があったとして、中国の殷(商)・周の時代に見られるような
大規模なことは行われていなかったのだろうと考えます。
ですから、邪馬台国の「徇葬者奴婢百餘人」については、
やはり中国的な誇張表現の可能性を考えているんです。
まあでも、今後、大規模な殉葬の跡がある墓が見つかったなんてことも
絶対にないとは言えませんからねえ。

関連記事 『相撲と埴輪の起源』

中国、殷墟の奴隷殉葬坑
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相撲と埴輪の起源

2018.01.06 (Sat)
野見宿禰と当麻蹴速


最近、古代史の話が続いてますが、今回もその手の内容です。
お題は相撲に関してで、自分はけっこう好きです。
子どもの頃はよくTVで見てたんですが、
最近は忙しくてなかなか観戦する機会がないですね。
ただ、一昨年、病気をして長期入院した際には、場所中は毎日見ていました。

大相撲界は、昨年は残念な話題で終わってしまいました。
横綱 日馬富士による暴行事件です。日馬富士は、現代の力士としては軽量でしたが、
抜群の運動神経と足腰の強さで、好きな力士の一人でした。
それだけに今回の事件は残念です。引退となってしまいましたが、
日本国籍を取得していなかったので、協会に残ることはできないようです。

さて、『日本書紀』には相撲の起源として、こんな話が出てきます。
第11代垂仁天皇の世のことです。「奈良の葛城市に当麻蹴速(たいまのけはや)
という勇士が住んでいて相撲が強かった。(ここで相撲は「捔力」と出てきます。)
そして「われは闘う相手を求めている。強い相手と生死を競って勝負してみたい。」
と言う。これを伝え聞いた垂仁天皇は、臣下にその相手を探させると、
出雲の国に野見宿禰(のみのすくね)という強者がいることがわかった。
天皇は宿禰を呼び出して対決させ、勝負は野見宿禰が勝って蹴速は死んだ。
その褒美として、蹴速が持っていた大和の土地が宿禰に与えられた。」

これを読むかぎり、かなり凄惨な決闘が行われたようです。
ルールも現代の相撲とは違っていたようで、闘いの様子はこう書かれています。
「二人相對立 各舉足相蹶 則蹶折當摩蹶速之脇骨 亦蹈折其腰而殺之」
短いですが、古代の格闘の様子がわかる貴重な部分だと思います。
まず2人は相対して互いに蹴り合います。そして宿禰が蹴速の脇腹の骨を蹴り折り、
さらに腰を踏み折って殺してしまうんです。

格闘技は大きく組技系と打撃系に分けられ、相撲は一般的に組技系と考えられますが、
この描写は、完全な打撃系格闘技のキックボクシングのようです。
現在の相撲にも蹴り技(蹴返し、蹴たぐり)はあるものの、
まわしより上は普通蹴りませんし、拳打ちは反則になります。(平手で叩くのはOK)
あと、相手を土俵の外に出すと勝ちというルールもないようですし、
宿禰は倒れた蹴速の腰を踏み折っているので、
足の裏以外が土についたら負けということもなかったようです。

かなり原始的なルールだったんですね。(というかルールの概念もなかった?)
今の相撲は、これに比較すれば競技者の安全を考慮した規定になってますし、
観客のために、勝敗がわかりやすくなっています。
ところで、夢枕獏氏の格闘小説『餓狼伝』に「すくね流」という、
天皇家に関わる武術の流派が出てくるんですが、
この野見宿禰がその名の元になっているでしょうかね。

さて、地元の蹴速が、出雲の国から来たよそ者の宿禰に負けてしまったわけですが、
垂仁天皇は野見宿禰の強さを認めて家来として召し抱えます。
やがて、天皇の弟の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなり古墳に葬られました。
このときに『日本書紀』に怖い話が出てくるんです。

「天皇が弟を墓に葬り、生前に仕えていた人々を生きながら墓のまわりに
足を埋めて立たせた。その者たちは何日もたっても死なず、
昼も夜も苦しさに泣きうめいた。そしてついに死んだ死体を、
カラスや犬が集まってきて食った。天皇はこの一部始終を見て、
「なんと悲しいことではないか。古くから行われてきたことといっても、
これからはもう殉死はやめよう」と言った。

やがて、天皇のお后である日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなり、
天皇は「今度の葬送はどうしよう。」と臣下に尋ねた。そのとき野見宿禰が進み出て、
生きた人間の代わりに、土を焼いた人物や馬などを墓に立てることを勧めた。
そこで宿禰の故郷の出雲から職人を呼び寄せ、それらを作らせた。
天皇は宿禰の功績を厚く賞して「土師(はじ)」の姓をたまわった。」

ふむふむ、なるほど。ところで、「土偶(どぐう)」という言葉がありますが、
埴輪と土偶ってどう違うんでしょうか? どちらも土を焼いて作られたものですが、
土偶は縄文時代からあり、いろんな場所から発見されます。これに対し、
埴輪は、古墳時代に前方後円墳などの古墳の上に
立てられたものにかぎって使われる言葉なんです。

で、上記の話ですが、考古学的には大いに問題があります。
まず、垂仁天皇陵とされる古墳よりも
先に作られた古墳から埴輪が発見されていること。もう一つ、
これまで発掘された古墳には、明確な殉葬の跡があるものが一つもないことです。
ですので、この話はあくまで埴輪ができた起源説話として
後世に作られたのではないか、と考えられているんですね。

埴輪(今城塚古墳)


さてさて、この手のことを書くときりがないので、また長くなってしまいました。
「土師」というのは「土で物を作る師」という意味で、また野見宿禰の「野見」は、
石を加工する工具「ノミ」と関係があるとも言われています。もしかしたら、
野見宿禰は、出雲で石工のような仕事をして体力をつけたのかもしれません。
土師氏は長く古墳造営や葬送儀礼を司っていましたが、
桓武天皇の時代に、大江氏・菅原氏・秋篠氏に分かれました。

ですから、平安時代の菅原道真も土師氏の系統であったわけです。
学問の神様といわれ、文才で出世していった道真が、先祖をたどると、
相撲の始祖とされる武人、野見宿禰に行き着くというのは面白いなあと自分は思います。
ちなみに、野見宿禰と当麻蹴速が相撲を取った場所は、
現在の奈良県桜井市の穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)とされ、
両人とも相撲の神として祀られています。

関連記事 『日本に「殉葬」はあったか?』

穴師坐兵主神社








肉の家の話

2018.01.05 (Fri)
これ、俺が小学校から中学校にかけてのことだから、今から30年ちかく前の話だよ。
その頃、俺は田舎に住んでて、小学校は学年2クラスしかなかった。
その小学校はすでに廃校になってる。でな、同じ学年に種村ってやつがいたんだ。
家もわりと近くだったから、ふつうは幼なじみとして遊んでるはずだけど、
俺がそいつといっしょに遊んだ記憶は小学校以前から中学校まで一切ないんだ。
まあ、体が弱かったから、学校に行く以外は外に出ないで家にこもってたんだと思う。
他のやつらには、種村だから「たねぼん」って呼ばれてた。
体が小さくて髪が坊ちゃん刈りだったから、イメージぴったりだったな。
で、すげえ無口なやつだったんだ。小学校6年間でたしか4回同じクラスになったが、
口を聞いたのは数えるほどしかないよ。自分からは絶対に話しかけてはこなくて、
俺が何かしゃべっても、「ああ」とか「うん」とか言うだけ。

他のクラスメートとも同じだったよ。要するに、いるかいないかわからないような
やつだったわけ。勉強はふつうにできたけど、
体育は体が弱いせいか見学してることが多かったな。
あと、給食を食べなかった。いつも家から弁当を持ってきてたんだ。
肉アレルギーだってことだった。どんな肉も一切ダメで米と野菜しか食べられない。
ああ、弁当の中身は見たことがあるよ。野菜の煮物やプロッコリーなんかが、
きれいに詰められてた。それを弁当のフタで隠すようにして、
いつも恥ずかしそうに食べてたっけ。でな、中学生になったんだが、
中学は町に一つで、3つの小学校から生徒が集まってくる。
俺のいた小学校はその中で一番小さかったから、
中1のときは知らないやつが多くてかなり緊張したのを覚えてる。

まあでも、俺はバスケ部に入って、友達もできてだんだんに慣れてったけどな。
で、2年のクラスでたねぼんといっしょになったんだよ。
相変わらず体が小さくて、小学校中学年といってもとおりそうだった。
あと無口なのも変わってなかった。そんなだから、あからさまにいじめられてなくても、
何かにつけて軽んじられて、掃除のときなんかは嫌な仕事を押しつけられたりしてた。
昼は小学校のときと同じで一人だけ弁当だったよ。それと、今思い出したが、
給食当番の仕事がなぜか免除されてたんだよな。もしかしたら、
盛りつけをするときなんかの肉のにおいなんかもダメだったのかもしれない。
でな、秋に体育祭があって、そのときはクラス全員が弁当で外で食べたんだ。
たねぼんは木の下で、いつものように一人で食べてたんだが、
ほら、弁当のときはおかずを交換したりってのをやるじゃない。

で、クラスの不良っぽいやつが何人か、たねぼんのところに行って、
一人が、たねぼんの弁当の中身と自分のウインナーを交換しようとしたんだよ。
まあ、たねぼんが肉を食えないのを知ってての嫌がらせだよな。
これも今にして思えば、そのときはたねぼんが珍しくクラス対抗の全員リレーに出て、
走るのが遅くてかなり遅れ、俺らのクラスがビリになったのを怒ってたのかもしれない。
たねぼんは、そいつが爪楊枝に刺したウインナーを見て、ただ黙って首を振って。
それでそいつがますます怒って、たねぼんのアゴをつかんで、
口に無理やりウインナーを押し込んだらしいんだ。
いや、俺は見てたわけじゃない。後でそいつからここまでの話を聞いたんだよ。
「うわ~~~」という悲鳴が上がって、そっち見たら、たねぼんが草の上に倒れてたんだよ。
それが、仰向けの状態で、ブリッジするみたいに体がエビ反りになっててな。

「うわー、うわー」って大きな声で叫んでたんだ。
それからビョンと跳び上がり、たねぼんは四つん這いになって走り出した。
ありえないような速さでな。まるで犬が走ってるみたいだった。
みなが驚いて見ている中、たねぼんはグランド中を四つん這いのままジグザグに走り回って、
先生方も止めることができなかったんだよ。たねぼんは俺の近くも通ったが、
そのとき、口を大きく開けてよだれを垂らしてた。
あと、目がどっちも白目になってたような気がする。で、たねぼんは5分近くも走り続け、
無理やりウインナーを食わせたやつのに近づいて、首に噛みついたんだよ。
さすがに先生方が集まってきて引き離したから、
そいつは血も出なかったし、たいしたことはなかったんだ。
引きはがされたたねぼんは、横向きに倒れて、体をひくひくと痙攣させてたな。

俺が近寄って見にいくと、たねぼんの顔から手から、服から出てるところが
すごい蕁麻疹が出てぼこぼこに腫れてるのがわかった。そのうちに救急車が来て、
たねぼんは病院に運ばれていったんだよ。翌日、担任から話があって、
たねぼんはひどいアレルギーでしばらく休むってことだったんだ。
で、それから3日くらいして、担任から、たねぼんの家にたまったプリントを
届けるように言われた。どうやら入院はしておらず、自宅にいるみたいだった。
俺が一番家が近いということだったが、家の場所がわからなかった。
その日は部活がなくて帰ったのが4時ころ。家にはじいちゃんしかいなかったから、
じいちゃんにたねぼんの家の場所を聞いた。じいちゃんは「種村・・・さんか。
 そのうちは裏山の中腹にあるが、お前何しに行く? 学校のプリントを届ける?
 ・・・そうか、じゃあそれ渡したらすぐに戻ってくるんだぞ」

こんな調子で、なんだか俺が行くのを心配してる感じがしたんだ。
「種村さんて、仕事何をしてるの?」こう聞いてみたら、じいちゃんは、
「昔は馬をたくさん飼ってたが、今は何してるかわからん。
 まだ家の前には大きな馬小屋が残ってたはずだがな」そんなふうに言ってたな。
で、裏山の坂をのぼって、言われたとおりに横手の道に入ったら、
古くて大きな屋敷があったんだよ。高い塀についてるでかい門のインターホンを押したら、
しばらく雑音があって、「・・・誰ですか?」って子どもの声がした。
たねぼんの声だと思った。用件を言うと「開いてるから入ってき」
戸を引いたら、きしみながら開いた。それで一歩中に入ると、すごい生臭い臭いがした。
動物の臭いとも似てるようだが違う。俺は吐き気をこらえながら玄関まで歩いてったんだ。
右手のほうに、馬小屋らしいかなり大きな建物があった。

で、急にその馬小屋の戸の片側少しだけ開いて、小さな人が出てきたんだ。
たねぼん・・・だと思ったが、顔も手も包帯でぐるぐる巻きになってた。
そいつは、ややくぐもってるものの、たねぼんの声で、
「プリントがあるならよこし。もうすぐ、お父さんが帰ってくるから
 早く戻ってけれ」早口でそう言ったんだよ。かなり暗くなってきてたし、
俺も気味悪くなって、プリントの入った封筒を手渡して戻ろうとした。
そのとき、ギュリン、ギュリン、ギュリンという機械の音が馬小屋の中から聞こえてきた。
「あ、いけない」たねぼんはそう言うと小屋に戻っていこうとしたが、
小屋の戸口の低いところから何かが頭をのぞかせたんだ。
人間・・・・なのかどうかわからなかった。髪はまばらで、
体育祭のときのたねぼんのように、顔中が親指くらいのできもので覆われてた。

その生き物が出てきたら、生臭い臭いがいっそう強くなった気がした。
地面から50cmくらいの高さだったから、這った状態で戸口から頭を出したんだと思う。
たねぼんはそれの頭を「こらあ!!」と叫んで蹴りつけたが、
小さな体には似合わない力がこもってた。そいつは「ギャン!」と鳴いて引っ込み、
たねぼんは俺のほうを見もしないで小屋に入ってったんだ。
中でギャリン、ギャリンという機械の音が激しくなり、
俺は小走りになりながら門から走り出た。すると、
坂道を1台のトラックが上ってくるのが見えたんだ。せまい道だったので、
山側によけたら、トラック・・・今にして思えば冷凍車だな。
それがすぐ横を通り過ぎていったが、車体の横に小さく「種村畜業」って書いてあった。
まあ、これでほとんどの話は終わりだよ。

たねぼんはそのまま学校には復帰せず、2週間くらいたって、
担任が転校しましたって言った。まあ、いてもいなくても影響のない存在だったから、
たねぼんにウインナーを食わせたやつらも平然としてたな。
でな、それから1年ちかくたった中3の夏休み、
ふと思い立って、たねぼんの家に行ってみたんだよ。
塀と門と母屋は取り壊されて平地になってたが、なぜか馬小屋だけは残ってた。
ああ、あの生臭い臭いはもうなかったな。馬小屋の戸は鍵がかかってて、
入ることはできなかった。板戸の隙間からのぞいてみても、
中は真っ暗で何も見えなかったよ。うーん、あの奇妙な生き物は人間だったんだろうか。
今となってもなんとも言えないなあ。もしかしたら何かの動物を見間違えたのかもしれん。
とにかく、こんなことがあって、気味の悪い思い出として残ってるんだよ。