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土着系3題

2013.08.08 (Thu)
経文

落人の伝説って各地にあるんだろうな。
一番メジャーなのはやはり義経だろうと思うが、
現在住んでる四国の某地方にも落人伝説とそれにまつわる怖話がある。
落人は源平合戦のときに壇ノ浦に沈んだといわれる幼少の天皇なのだが、
実は生きていて自分らの地方を過ぎ、
さらに海を渡って南方に向かっていったという言い伝えだ。
天皇と一行が集落の菩提寺に泊まったときに、
礼として書き溜めておいた経文を当時の住職に下した。
そのようないわれのあるものがいまだに寺に残っているのだが、
経文はところどころ虫食いになって穴が開いている。

これは紙魚に食われたわけではなく、
一字を小刀で切り取ったような四角い穴があちこちに開いているものだ。
どういうことかというと、まともな薬も医師もなかった時代に、
病人が出た家の者が住職のところにやってくると、
うやうやしく経文から一字を切り取って与えたというのだ。
そして病人は念仏を唱えながらその字を飲み込むわけだ。
現代の医学で考えるとブラセボ以外の効果はないと思われるが、
それでも治る人もいたのだろう。

それで怖話だが、江戸初期頃ではないかと思われるが、
ある漁民の家に病人が出た。漁師の高齢の母親で、
寺から経字を切ってもらって飲ませたもののいっこうによくなる様子もない。
ところで経文には切ってはならない字というのがあり、
それは経を書いたとされる天皇の名である二文字だ。
ただしこれは後代の諡なんだけどね。
この二字だけは、切り取るとたちどころによくないことが起きる、
という伝えが長い年月のうちにできていたようなんだ。

ところが、母親が明日をもしれぬ容態となった漁師は万一にとの望みをかけ、
寺の庫裏に忍しのび込んで、わざとその二文字だけを切ってきたという。
そして母親に飲ませた。すると、にわかに具合が良くなってきたように思える。
漁師は喜んで、母親をむしろを下げてへだてた納戸に寝かせておいた。
その晩のこと、ばしゃん、ばしゃんという水音で漁師は目を覚ました。
音は母親のいる納戸のほうから聞こえるようだ。

そこで起き上がってむしろをまくりあっと驚いた。
せまい納戸の中は水びたしで母親の姿はなく、六尺をこす、
白いイカともタコとも判別のつかない生き物がのたうっていたのだそうだ。
その生き物は少し明かりがさしたのに気づいてか、
呆然としていた漁師を押しのけると、のたくりながら
海へと向かっていったという。母親の姿はどこにも見つからなかった。

疫病神

うちの母方の実家が檀家になってるお寺の話。
このお寺はそれほど大きくもないし有名でもないんだけど、
母が住んでた村の住民は三分の二以上がそのお寺の檀家になっていた。
残りの三分の一は被差別集落の人たちで、
その人たちのための別の寺があったようだ。
ただ太平洋戦争後は過疎化が進んで、
集落の人はほとんどちりじりにどこかに行ってしまい、
そっちのお寺はもうなくなっているらしい。

その実家のお寺には入ってはいけない場所、禁域がある。
子供の頃、母の里帰りについていったときに見て話を聞いた。
そこは寺の本堂の裏側を数百mほどいった、ちょっとした崖になっている下の方で、
上から見下ろすと何ということもなく熊笹の茂みが広がっており、
大きな石を掘った祠があるだけ。
崖の上は木の柵で降りられないようになってて、
柵の内側に四つ大きくて立派な墓がある。
この四つの墓はそのお寺の昔の歴代住職のもので、
崖下から忌みものが村に戻っていかないように守っているんだそうだ。

江戸時代に村外から広まってきた流行り病でばたばたと人が亡くなり、
あまりに数が多いのと屍体から感染することを怖れたために、
疫病で亡くなった人は家族が大八車にのせて、
この崖まで運んできてそのまま下に転げ落としたという。
上から木っ端と松明を投げ落としたものの湿気のせいかあまり燃えず、
夏の時分でもあり半焼け半腐りの屍体が積み重なってひどい臭いだったようだ。
その後ある程度疫病がおさまってから残った村人で法要を開き、
高価な油をふりかけて屍体を焼き、
その上に祠を掘った丸石を転がし落とした跡なのだそうだ。

また、そのときにまだ健在だった実家の祖母から「疫馬」の話も聞いた。
これは祖母が子供の頃まで旧暦の8月25日に村で行われていた行事で、
回り当番の衆以外には、だれも見てはならないものだった。
ただし今にもそのやり方は伝わっていて、
村史などには書かれていないが、まだ覚えている年寄りが何人かいる。
夕方から夜にかけて村の大通りを男数人が担いだ皮をはいだ太い丸太が、
村外れの山道のほうに向かってゆく。

祭りのようなにぎやかなかけ声もなく男たちは無言だ。
丸太には裸の男の子供をかたどった紙貼人形がまたがる形で乗せられている。
裸の体はところどころ斑点のように赤く塗られていて、
これは疫病にかかった人の姿を表している。
村の家々では固く戸を閉ざしてこれが通るのを見てはならない。

そして村の境界まで来ると「疫神様出て行ってくれ、本物の馬に乗っていってくれ」
というような内容のことを皆で唱え、その人形を山道のほうに放り出す。
そのあと丸太を担いだ男たちは川に入って身を清め、
丸太を氏神の神社に奉納する。これは人形(ひとがた)を用いているが、
疫病が流行っていた当時はまだ息がある子供の病人を丸太に乗せて
いったのだそうだ。神社の神官の主導で行われたらしいが、
お寺と神社の役割の違いのようなものが伺えて興味深い。

引っぱる

漫画家の水木しげるが書いた「のんのんばあ」の話に、
「引っぱる」というのが出てくるが、数十年前まで俺の住んでいた地方でも
これに似たことがあったんで書いてみる。
当時自分はまだ小学生だった。
「引っぱる」というのは今まさに死んでいく人間は、
その死のまぎわに生きた人を道づれにして,
冥土に旅立ってゆくことができるというような話。

うちは四国の山奥の集落だったんだが、
当時90過ぎのひいばあさんが肺炎になった。
ひいばあさんくらいの年代は意地の強い人が多くて、
前日まで腰を曲げて畑に出ていた年寄りが、
明くる日ぱたっと倒れて亡くなってしまうなどということがよくあったらしい。
長く寝たきりになって家族の世話を受けるという人は不思議と少なかったという。
当時は自宅療養と往診が当たり前で、
入院先で亡くなるということも年寄りでは珍しかった。

ひいばあさんも肺炎と診断されてから1週間もたたずに死んでしまったが、
寝ついたという話を聞いて、近隣のばあさん連中がわらわらと訪ねてくる。
それも夜陰にまぎれるという感じで、
ばあさんらは普段は夕飯を食うともうひっこんで寝てしまうんだが、
夜の9時過ぎ頃に見舞いと称して野菜などを持ってきては、
病人の枕元で長いこと話し込んでいく。

ひいばあさんは熱も咳もあって話ができるような容態ではないんだけど、
それもかまわず病人に向かって「下の郷の◯◯婆を引っぱってくれ」
のようなことをくどくどと頼み込む。
そ◯◯婆にどんなひどい仕打ちをされたかなどのこともいっしょに。
これらの声はひいばあさんが寝かされてる部屋から逐一聞こえてくるんだが、
頼む方はそういうことも気にしてられないというくらい熱心だった。

その頃はまだ一家を仕切っていた自分のじいさんは、
あまりいい顔はしてなかったが、
ここらの集落の風習みたいなもんだから仕方がないという感じだった。
ひいばあさんの葬式を出して3ヶ月以内に、
集落の年寄りが2人亡くなった。そのうちの1人は間違いなく、
ひいばあさんが引っぱってくれと頼まれていた対象だった。
ただしその人は70過ぎだったんでたまたまなのかもしれず、
引っぱりの効果かどうかは何とも言えない。




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