聖徳太子をめぐる話

2016.04.04 (Mon)
今日は怖い話ではありません。聖徳太子の周辺事情ですね。
自分なんかは、昔の聖徳太子の肖像が載った一万円札をなんとか覚えてる世代ですが、
この後、聖徳太子の周辺には「虚構説」「怨霊説」が出てきました。

「虚構説」はわからないことはないです。そもそも「聖徳太子」というのが、
後世のおくり名で、それが出てきたのは死後100年以上もたってからです。
それと『日本書紀』は、仏教が隆盛している時代に成立しましたので、
聖徳太子の事績が、仏教の守護者のようにして書かれているのもうなずけます。
さらに後代の仏教関係の書物と太子信仰が、
太子に聖人伝説をどんどんつけ加えていったということなんですね。
有名な「和をもって貴しとなす」始まる十七条憲法も、使われている用語から、
後世の(おそらく日本書紀編者の)偽作であるとする疑いが強くなってきています。

しかしながら、虚構説をとる論者の中でも「厩戸豊聡耳(うまやどのとよさとみみ)皇子」
の存在までを否定している人は少ないのです。
当時そのような皇族が実在していた、ということまで否定してしまうと、
日本書紀(のその時代の記述)はまったく信用できない、
と言っているのと同じことですから、これは度胸がいります。
ただし、聖徳太子と蘇我馬子は同一人物で、崇峻天皇を弑逆した極悪人、
朝敵とされる蘇我馬子の、仏教守護などの功績面を別人格として記載している、
という説は存在します。聖徳太子=蘇我馬子 説ですね。

さて、日本書紀によれば、聖徳太子は574年、用明天皇の第二皇子として生まれ、
推古天皇のもと蘇我馬子と協調して政治を行い、遣隋使を派遣し、
大陸の制度をとり入れて冠位十二階を制定。
天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図り、法隆寺を建立するなど、
仏教を厚く信仰し興隆につとめた・・・こんな生涯だったようです。
若い頃は、有力皇族としてさまざまな改革をするとともに、物部ー蘇我戦争にも出陣し、
隋には「日出ずる処の天子・・・」で始まる国書を送って煬帝を激怒させます。
後半生は仏教への傾倒を深め、引きこもって仏典の世界にのめり込むようになり、
「世間虚仮、唯仏是真」(世間は空疎で、仏の世界のみが真)と言ったと伝えられます。

「厩戸」というのは、聖徳太子が馬小屋の前で産まれたという意味ですが、
これをキリスト誕生時の逸話が日本に伝来して重なったものだ、と説く説もあります。
西洋ではキリスト教徒の迫害も終わり、国教化する国が増えていた時代ですし、
中国にも景教として伝わっていたので、絶対にありえないという話ではないでしょう。
また「豊聡耳」とは、10人が一斉に口を開いて陳情をしたが、
聖徳太子はすべてを聞き分けて、的確な裁定を与えたという逸話からきていますが、
まあ記憶力のよい、聡明な人物であったということなんでしょうね。

「怨霊説」のほうは、前に「猿丸太夫」の項で取り上げた梅原 猛氏が、
『隠された十字架』を書いて有名になりました。概要は、聖徳太子は暗殺され、
その鎮魂のために建てられたのが法隆寺である、とするものです。
確かに、日本書紀の聖徳太子の死の記述は尋常ではありません。
推古天皇30年(622年)、聖徳太子は急病で倒れ、看病していた妃の膳大郎女と、
一日違いで相次いで亡くなったとされています。
これは伝染病によるものと解釈するのが定説ですが、怪しいと言えば怪しいですよね。
日本書紀は勝者の歴史ですから、隠された事実があっても不思議ではありません。
関連記事 『猿丸太夫について』

梅原氏は、聖徳太子が怨霊と考えられる理由として、
1、個人で神々に祀られるのは、一般に政治的敗者が多い。
2、かつそのとき、彼らは無罪にして殺害されたものである。
3、罪無くして殺害された者が、病気や天災・飢饉によって時の支配者を苦しめる。
4、時の権力者はその祟りを鎮め自己の政権を安泰にするために、祟りの霊を手厚く葬る。
5,それとともに、祟りの神の徳を褒め讃え、良き名をその霊に追贈する。
Wikiより
これらのことを説いています。一般論的には妥当であると思われますが、
聖徳太子に関する場合は否定的に見られています。
 
怨霊(御霊)信仰が始まったのは奈良時代末期からで、
聖徳太子の頃にはまだなかったであろうとする意見が主流で、
さらに御霊は個人が神と化したものであるので、神社ならともかく、
仏教寺院に封印されるのはおかしいのではないかとする考え方もあります。
あと、子孫が絶えてしまって供養するものがいなくなった霊は怨霊化する、
という説もあるのですが、山背大兄皇子が一族とともに滅ぼされたのは事実としても、
日本書紀には山背大兄皇子が聖徳太子の子であったとする記述はなく、
後代の書物にしか出てこないのです。

さてさて、長くなってきましたので、そろそろしめます。
『隠された十字架』の書名は、夢殿の本尊である「救世観音像」を指しています。
この仏像は長く秘仏とされ、法隆寺の僧侶をはじめ誰も見ることができなかったのですが、
明治に入って、イギリス人お雇い学者のアーネスト・フェノロサが、
法隆寺の僧侶たちに観音像の開帳を迫り、長い押し問答の末、
ついに分厚い布の下から、仏像が姿を現したのです。

この行為をして、フェノロサはバチあたりだと見る向きがありますが、
これはそうではありません。当時の日本は廃仏毀釈の嵐の最中で、
貴重な仏教関係の資料がどんどん失われつつありましたが、
それらの保護を強く訴えた人なんですね。ですから、日本仏教美術界の恩人、
と評価されることが多いのです。「国宝」という概念を日本に教えたのもこの人です。

このフェノロサの記述によれば、救世観音像は背中の部分が中空になっていたとされ、
これをして梅原氏は「前面からは人間に見えるが、実は人間ではない」
「人間としての太子でなく、怨霊としての太子を表現」したと解説しています。
また光背部分が釘で直接、観音像に打ちつけられているのも、
「釘をうつのは呪詛の行為であり、殺意の表現なのである」としていますが、
現在、これはどちらも否定されています。

背後が中空というのはフェノロサの誤記で、
救世観音像は一木造りですし、光背が留められているのも釘ではなく金具で、
時代が近い他の仏像にも見られるものです。
ですから梅原説は最大の根拠を失ってしまっているわけですね。

では怨霊説が完全に否定されたのかというと、そうでもなく、
1990年、法隆寺本尊の銅像3体のうち、中央の釈迦如来像の台座の内側に、
「相見丂陵面楽識心陵了時者」と墨書されているのが見つかりました。これは、
「その識心が陵にとどまることを願うならば、陵面に相まみえよ」と読むことができます。
つまり、陵に葬られた者が出てこないようにしたいなら、しっかりお祈りしなさい、
みたいな意味にもとれるんですね。下座の上面には「辛巳年八月九日作」の墨書もあり、
この辛巳年は621年、聖徳太子死去の前年である可能性が高いのです。
これ、よく考えるとなかなか怖い言葉ですよね。

法隆寺 救世観音像
はんskしえううyr




関連記事
スポンサーサイト

トラックバックURL
http://scoby.blog.fc2.com/tb.php/1082-d4deebc7
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する