瓜生島伝説

2016.04.08 (Fri)
『昔、別府湾に瓜生島という島があった。
島の神社には木彫りの蛭子(エビス)様を祀っており、
「島民が一人でも仲違いをすれば島中の神仏の怒りに触れ島は海中に沈む。
そのときには蛭子様の顔が真っ赤になる」という言い伝えがあった。
だから島の人々は信心を深く仲良く暮らしていた。

しかし文禄5年、加藤良斎という医者が「そんな言い伝えは迷信である」として、
蛭子様の顔を丹粉で真っ赤に塗ってしまった。島民がこのことを憂えていると、
やがて改元があり、はたして1ヶ月後の慶長元年から地震が頻発するようになった。
そして白馬に乗った老人が現れ、「今すぐに逃げよ」と触れ回った直後、
巨大な地震と大津波が起き、島は何一つ残さず海に沈んでしまった。』


これがいわゆる「瓜生島伝説」ですね。TVアニメの『まんが日本昔ばなし』の
1エピソードとして、「瓜生島とえびすさま」という題で放映されていますので、
ご存知の方も多いと思われます。ただし、アニメの中では蛭子様の顔を塗るのは、
大人の医者ではなく、悪太郎という島の鼻つまみ者の少年になっていました。
この瓜生島ですが、さまざまな謎を秘めていて、
「日本のアトランティス」と言われたりもします。

さて、どのような謎があるかというと、まず、この昔話は真実か?
ということですが、それはさすがにありえないですよね。
この話にはさまざまなバリエーションがあって、
島民の恋物語がからんだバーションも存在しますし、
他県にも類似の話が点在しています。京極夏彦氏が『後巷説百物語 赤えいの魚』
で取り上げていましたが、舞台は秋田県の男鹿半島沖になっていました。
(ただし秋田県の伝承としてはないようですので、京極氏が話を改変したんでしょう。)

これ、元ネタは中国の古書からきていまして、
『捜神記』などの書物に、実際に湖に沈んだとされる中国の町の話が載っています。
その町に住む信心深い老婆が毎日城門を見にくる。
不審に思って問いただした役人が「この門が赤くなると町が沈む」という老婆の話を聞き、
イタズラ心を起こして門を犬の血で塗ると、直後に町が本当に沈んでしまったという。
これが翻案され、日本の『今昔物語集』では、門が卒塔婆に変わっていました。
瓜生島が沈んだとされるはるか以前から存在する話なんですね。
前に「うつろ舟」の項で書いたように、日本の説話、古伝承には、
元が中国の話であったものがたくさんあるのです。 関連記事 『うつろ舟小考』

次、この地震はあったのか? これはあったようです。1596年、
関ヶ原の戦いの数年前のことですが、『理科年表』には別府湾直下型の地震で、
マグニチュード7.0。津波は高さ4mで、
湾内2kmにわたって被害を受けたとなっています。
これは当時日本に来ていたルイス・フロイスなどの外国人も書き残しており、
間違いのない事実として地質学的な調査でも裏付けられています。

では、瓜生島はあったのか? ここが最も謎な部分で、諸説が入り乱れているのですが、
そもそも「瓜生島」という地名が出てくるのは、
この地震から100年以上後の書物なんですね。
1699年の『豊府聞書』という本なんですが、現存せず、
その写本と思われる『豊府記聞』というのに出てきます。
その他の後代の情報も加えると、瓜生島は大分市の沖合500mほどの別府湾内にあり、
周囲12kmほどの島で人口5000人程度。町の通りは3筋もあり、
上記の蛭子神社の他、寺院や島津家の居館も置かれたということになっています。
地震のときには島の8割が流失し、犠牲者は708人。
島の領主は被災者に衣服や米、金銭などを与えた・・・

ここまで詳しく書かれているのですから、実際に島があったと思いたいところです。
下に載せたように詳細な地図まで存在しているのです・・・が、
それにしても、それほど栄えていたのなら、地震の100年後に書かれた書物以前に、
瓜生島の名前が出てこないのは、どう考えても不自然です。
それと、後代の書物には「瓜生島は沖ノ浜とも呼ばれていた」
というただし書きが出てくるのです。

瓜生島の地図、幕末頃のもの


では沖ノ浜はあったのか? これは間違いなくありました。
前述のルイス・フロイスがイエズス会に送った書簡には、
「沖ノ浜はたくさんの船で賑わっており、秀吉の船が徴税のために来ていた。」
などと出ています。また、同じイエズス会のフランシスコ・ザビエルは、
この沖ノ浜の地で宿泊もしているんです。それと、地震で沖ノ浜が被害を受けて以後も、
その地に住んでいた人が移住した場所が沖ノ浜町としてずっと残っていたようです。
沖ノ浜はポルトガル船も来航する当時、東九州一の港だったんですね。

この沖ノ浜が瓜生島であったのは間違いないところでしょう。
では、沖ノ浜は島であったのか? これについては地質学的な調査は否定的です。
海底は深く、島があったとは考えられない。
ただし、海底斜面に土砂が厚く堆積した跡が見つかりました。
これは島ではなく、陸地部分が崩壊したものと見てよいようです。

とすれば、沖ノ浜は海岸から続く砂州のような地形ではなかったかと思われます。
それが別府湾直下型の地震と津波により、地盤の液状化現象が起き、
崩れるようにして海に飲み込まれていった・・・
どうやらこのあたりが真相ではないかと考えられるんですね。

さてさて、自分なんかは瓜生島の実在ということより、
伝承がどう変化していったかのほうに、より興味があります。
これは一種のミームなんだと思います。この手の話というのは、より大げさに、
そしてよりロマンのある方向へと、話が伝わっていく過程で改変されていくものです。
100年後の資料にはじめて「島」として出てくるのは、
ほぼ往時を知る関係者がいなくなる時期でもあります。
海岸沿いの砂州地形が流されたというより、たいへんに栄えていた島が、
一夜にして沈んだとするほうが、伝承としてドラマチックですよね。
さらに、中国の古伝承が実際にあった蛭子神社の話としてつけ加えられた、
ということなんでしょう。

『まんが日本昔ばなし』より




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