お伊勢参りあれこれ

2016.04.18 (Mon)
今日は怖い話ではありません。昔、某掲示板の日本史板で、
自分と、ある名無しの人とで、かなり長い論争になったことがありまして、
まあしょっちゅうあるんですが、そのときの論題は、
「江戸時代の封建農民は天皇について知っていたか?」というものでした。
自分は「知っていた」と主張し、いろんな事例を上げたんですが、
その中の一つがお伊勢参りだったんです。ご存知のとおり、
伊勢神宮は内宮、外宮に分かれていて、内宮の御祭神は天照大神、
現天皇家の祖先神なわけです。どんな辺地の農民だって伊勢参りは知ってたでしょうし、
そうすれば当然、その子孫である天皇についての知識もあったと思いますよね。

さて、江戸時代は農民の移動は厳しく制限されていました。
また「入り鉄砲、出女」という語を聞かれたことがあると思いますが、
女性の移動も警戒されていました。ですが、お伊勢参り、
また、その他の参詣・参拝についての制限は緩かったのです。
これは旅に出る動機が信仰心から出たものであれば、封建の世の中であっても、
名分を重んじる武士社会としては止めるわけにはいかないんですね。
ただし、費用がかかることですので、やはり誰でも行けるというわけではなく、
講(お金を積み立てて順繰りに受け取る)などを行って、
代表者が出かけていくということが多かったようです。

ここで興味深い話題を一つ。犬がお伊勢参りをすると言えば、
みなさん信じられるでしょうか。このような犬のことを「おかげ犬」と言い、
「おかげ」は、後述する「お蔭参り」から来ています。
どうしても伊勢参拝をしたい人がいたとして、しかし仕事の都合で自身は出かけられない。
そういう場合、飼っていた犬をお伊勢参りに出すわけです。
もちろん、犬が一人で伊勢神宮まで行けるわけがありませんから、
道中、見ず知らずのまわりの人が世話してくれるんですね。

まず犬の首に穴あき銅銭をひもに通して巻きつけたり、
竹筒に入れて背中に背負わせたりします。さらに帳面もいっしょにつけておく。
そうすると、各宿場や各村の人が「ああ、おかげ犬が来た」ということで、
銅銭をとって餌を与えてくれる。で、その収支を帳面に書きつけるわけです。
これは餌代をとらない人も多かったようですし、中には犬が重そうなのを見て、
銭を小粒銀に両替してやるという人もいました。そして宿場の中を引いていって、
次の宿場との境まで送り届けてやるわけです。

安藤広重『東海道五十三次』のおかげ犬


これもなかなかすごい話ですよね。ふつうに考えれば、
犬から銭を取り上げる悪人などもいそうですが、さすがにお伊勢参りの犬ですから、
そのような不届きなことをすれば神罰がたちまち下りそうでもあります。
奇特な犬だということで多くの人は大事にあつかったんでしょうね。
かなりの犬が無事成功し、参拝の証を伊勢神宮からもらって帰路についたのです。
最も遠い場所からとしては、青森県の黒石市の犬というのが記録に残っています。

また、福島県須賀川の秋田犬シロは、おかげ犬として務めを果たし、
御札をいただいて家まで帰り着いたので、これは感心な犬だということで、
死後は立派な犬塚を立てて菩提寺に葬られました。
しかしこれどのくらいの時間がかかったものでしょう。
江戸から伊勢神宮まで、人間の足で当時だと15日間くらいでしたから、
犬が東北から迷いながらいくのであれば、往復で数ヶ月もかかったに違いありません。

なでられて「ぼのぼの」のようになったシロの犬塚


それと、おかげ犬が出るのは、お蔭参りの混乱期が多かったのです。
お伊勢参りの中で、特に大規模に流行したものをお蔭参りと言います。
ほぼ60年周期で起っているようで、1650年、1705年、1771年、
1830年のものが知られていますが、小規模なものは他にもありました。
お蔭参りは抜け参りとも言われていて、
これは、奉公人は店の主人に断らなくてもよかったし、子どもは親に告げずに、
ふっと家業を抜けて出てもよかった、ということからきているようです。

それだと旅の費用はどうするのかと思われるでしょうが、
お蔭参りの流行時期には、各宿場の人が旅人に米や銭を振る舞ったために、
ほとんど無銭で旅行することができたようです。
これ、60年周期というのがよくできていますよね。
当時は人生50年と言われていましたが、幼少期に亡くならなければ、
それなりに長生きする人はいましたし、だいたい一生に一度はお蔭参りにあたる。
さらに60年に一度くらいであれば、旅人のおかげで栄えていた宿場町にも、
施しをする余裕ができているわけです。

お蔭参りが流行するきっかけとしては「天から御札が降った」というのが多いですが、
これはまさかそんなことはないので、人間が仕掛けたものでしょう。
伊勢神宮には御師(おし)がいて、これは一般的には神社に所属する社僧のことですが、
普段は全国に散らばって暦を配ったり、
参拝者の集団の案内や宿泊、遊興の世話をしていたようです。
御札を降らせたことについて、この御師たちに、
一番の疑いがかけられるのはしかたないでしょう。

さてさて、最後に「ええじゃないか運動」について。
江戸最末の1867年に発生しました。その前のお蔭参り流行が1830年ですから、
60年周期からは外れているのですが、近畿、四国、東海地方などで発生し
「天から御札が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広まるとともに、
民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら、
集団で町々を巡って熱狂的に踊ったというものです。
伊勢神宮だけではなく、各地で信仰されている寺社の御札が降ったようで、
どこが始まりか特定するのは難しいようです。

狂信的に踊り狂うというのが特徴で、「ええじゃないか」
の歌詞は各地でバリエーションがありますが、卑猥な内容のものも多かったようです。
これはまあ、時代が明治維新直前のことで、閉塞感の高まりと、
外国からの圧迫の中で、民衆の不満が爆発したと見るのがいいのでしょうが、
謀略説というのもあります。京都が最初で、御札をまいたのは倒幕の志士。
理由は、全国の移動を行いやすくし、
民衆の狂乱にまぎれて運動をやりやすくするためということです。

これが真相ということではないんですが、文部省編『維新史』には、
「王政復古の計画は極秘を要するをもって、品川弥二郎が神符降下の奇瑞を発案し、
その喧囂(けんごう 大騒ぎ)に乗じて計画を進めた」
という内容が出てきています。品川弥二郎は長州藩出身で、松下村塾の吉田松陰門下。
薩長同盟成立に尽力し、英国公使館焼き討ちなどを実行しています。
維新後は要職を歴任し、功績によって子爵にまでなりました。
「トコトンヤレ節」(宮さん宮さん)はこの人の作詞といわれる才人ですので、
あってもおかしくない気はしますね。

ええじゃないか





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