2枚の妖怪カード

2016.06.09 (Thu)
2枚の妖怪カード

えー、今日は妖怪談義と怖い日本史が混じったような話です。
まともに書くと1冊本ができてしまいそうな内容なんですが、
そうもいかないので、できるだけすっ飛ばしていきます。
興味を持たれた方はWiki等で検索してみてください。

さて、下に妖怪画を2枚掲げましたが、
左は竹原春泉画、『絵本百物語』より「飛縁魔(ひのえんま)」で、
右が竜閑斎画『狂歌百物語』より「小袖手(こそでのて)」です。
ではここでクイズ、ちょっとこじつけを含みますが、
この2作から連想されるものは何でしょう?



・・・答えは「火事」または「大火」でもいいでしょう。
えーと、どっちからいきましょうか。「飛縁魔(ひのえんま)」のほうが、
まだしも話としては穏当かもしれませんね。この絵を見ればわかるとおり、
とくべつ怖ろしいところもない、美しい女性の絵姿なんですが、
これは実は男の心を惑わし、身を滅ぼさせる魔性なんです。

美人が男を滅ぼし国を傾けるというのは、
中国の易姓革命思想からきているんでしょう。
ある王朝が滅ぶとき、その最後の帝には必ず悪女がつきまといます。
夏の桀王と妹喜、商の紂王と妲己、周の幽王と褒姒・・・
要は魔性の女と縁がつくと身が危うくなるよ、というような意味の妖怪です。

で、この「飛縁魔」という語は「丙午(ひのえうま)」と通じています。
丙午の年の生まれの女性は気性が激しく、
縁を持った男性の寿命を縮めるという話がありますが、その出所は、
「天和(てんな)の大火」にかかわりのある「八百屋お七」が、
1666年の丙午年の生まれだから、と言われることが多いようです。
しかし、これは俗説じゃないかと思いますね。
お七は16歳で火あぶりになったとどの資料にも出てきますが、
もし丙午生まれだとすると18歳になってしまうんです。

古代中国の鉄製品にはよく、銘として「五月丙午の日に鍛えた」と彫られていて、
これは陰陽五行説で、火の勢いが盛んになる時期なんです。
当時の江戸の人々はその手のことに大変詳しかったので、
丙午と火事が結びつけられたのかもしれません。

天和の大火は1683年、死者は最大3500名余とされています。
よく誤解されるんですが、この大火をお七が起こしたわけではありません。
『この火事で焼け出された江戸本郷の八百屋の一家は、ある寺に避難したが、
その娘お七は、寺の小姓と恋仲になる。やがて再建された店へと戻ったものの、
お七はもう一度火事が起きたら、またあの寺小姓に会えるかもと、
恋に目がくらんで自宅に放火した。火はすぐに消し止められボヤにとどまったが、
お七は捕縛され、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられた・・・』


という悲しいお話があるんです。ただし、史実としてははっきりせず、
お七という娘が放火の罪で刑に処せられた、あたりまでが確かなところでしょうか。
井原西鶴の浮世草子『好色五人女』などの創作で、
細部が加えられていったと思われます。

さて、次「小袖手」のほうですが、小袖ではなく「振袖火事」というのがあります。
これは、正式には「明暦の大火」といい、1657年ですから天和の大火より、
26年前のことです。こちらは大災害で、江戸の街の大半が焼失し、
江戸城天守閣まで燃え落ちています。死者は3万~10万。
この火事が起きた原因とされるのはかなりオカルトな話で、

『麻生の裕福な質屋の娘、梅乃が本郷の本妙寺に墓参に行ったその帰り、
すれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れし、恋の病で寝込んでしまう。
その寺小姓に連絡したいが身元はわからず、梅乃は晴れ着につくった振袖を
布団にかけて亡くなってしまう。葬儀の日、
両親はせめてもとその振袖を棺にかけてやる。
寺男たちはそれを当然転売するが、買った上野の町娘も病死し、
奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれる。再度、振袖は売られ、
それを買った娘もまた病死、振袖は三たび棺に掛けられ寺に運び込まれてきた。

さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。
住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに狂風が吹きおこり、
裾に火のついた振袖は人が立ちあがったような姿で空に舞い上がると、
火の粉を振りまいて寺を全焼させ、またたく間に江戸市中を焼きつくした。』

こんな内容です。これも寺小姓と町娘の禁断の恋が出てくるあたり、
当時の世相を表してはいるのでしょうが、
史実としてはかなり怪しいと思われます。これ、実は怖い噂があるんですね。

さてさて、上の話で「本妙寺」という寺名が出てきますが、
幕府の調べで、この火事の火元は本妙寺で決着しています。
ところが、それだけの大惨事を起こして、本来なら廃寺にされて当然なのに、
元の場所に再建を許され、しかも前より寺格が上げられたりしてるんです。
それってちょっとありえないですよね。ですから、
本当は武家屋敷(老中・阿部忠秋の屋敷など)が火元なのが、
それだと幕府の権威が失墜してしまうため、
あえて本妙寺が火元を引き受けたというもの。これはありそうな話です。

さらにもっと怖ろしい説として、幕府がわざと放火したというのがあります。
1657年といえば、江戸時代の初期ですが、
街並みは無計画なまま広がっていき、ごちゃごちゃと過密化していました。
そこで都市計画を一新させるためにわざと放火したのではないかということです。
そんな非道なと思われるでしょうが、これ、わりと唱える人が多いんです。

江戸の冬は、北西の風が吹くため放火計画は立てやすかったでしょうし、
翌日いったん鎮火してから、また別の場所で火の手があがっているのも、
怪しいと見ることもできます。さらに火事の後、幕府は大金をかけて
大名・旗本屋敷の配置換えをし、遊郭を移転したり、道幅を広げたりしているんですね。
みなさんはどう思われますでしょうか。






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