飲酒と怨霊

2016.06.30 (Thu)
今日はかなり地味目の話です。読売の科学ニュースを見ていましたら、
日本史に関する内容が出ていて、これはかなり珍しいことです。
『関ヶ原の戦い(1600年)で戦国武将・小早川秀秋(1582~1602年)
が西軍から東軍に寝返った際、決断が遅れたのは過度の飲酒で肝硬変から発症した
肝性脳症による判断力低下の可能性があるとするユニークな説を、
兵庫県姫路市御立東の脳神経外科医、若林利光さん(63)が、
秀秋の当時の病状などを記した史料からまとめた。

戦いで西軍側の秀秋は寝返りを誘われていたがなかなか動かず、
東軍を率いた徳川家康が怒り出すほどだったとされる。戦闘開始から約4時間後、
西軍・大谷吉継を襲ったのをきっかけに西軍の武将が次々に寝返り、
東軍勝利につながった。若林さんは、安土桃山時代から江戸時代初めに活躍し、
秀秋も診た医師・曲直瀬玄朔の診療録「医学天正記」の記述に注目。
秀秋について「酒疸一身黄 心下堅満而痛 不飲食渇甚」
(大量の飲酒による黄だん、みぞおち付近の内臓が硬く痛みがあり、
飲食できずのどの渇きが激しい)の記述から、肝硬変と考えられるという。

飲酒後に嘔吐し、赤い尿が出たともあり、肝性脳症を併発するほど
悪化していた可能性が高いと判断。同脳症では指示への反応や判断が遅くなるため、
若林さんは「関ヶ原での決断の遅れの要因では」と推察する。
国立国際医療研究センター肝炎情報センター(千葉県市川市)も、大量の飲酒は、
肝硬変の原因の一つで「記述にある症状からは肝硬変が疑われる」という。』

(YOMIYRI ONLINE)

これは関ヶ原の戦いのときの話ですね。戦いが始まったのは朝の8時ころでしたが、
午前中はずっと石田三成率いる西軍が有利に戦いを進めていました。
小早川秀秋はこのとき若干19歳で、3才のとき、
実子のいない秀吉の養子として引き取られ、豊臣姓を与えられています。
その後、小早川家を養子相続し、若くして岡山藩主となりました。
このように豊臣家に対する大きな恩顧があったため、西軍に与したのは当然ですが、
実は内々に裏切りを勧められていました。

1万5千の軍を率い山の上に布陣していたため、もし小早川が裏切れば、
これは戦況に重大な影響をあたえるだろうと考えられていましたが、
小早川は西軍の一陣として働くわけでもなく、裏切り行動に出るわけでもなく、
ずっと軍を動かしません。このときのことが、
上記のニュースでは、肝性脳症によって判断がにぶり、
どちらとも決断できずにいたと推察しているわけですね。
しかしこれ、400年も前の人を解剖して調べるわけにもいかず、
確実といえる証拠は出ない話でしょう。

ただし、肝硬変か重い肝臓病であったことは事実のようで、
その原因として、過度の飲酒が取り沙汰されています。
幼少時は聡明であったものの、15歳前から飲酒を覚え、
取り巻き連中と連夜の酒盛りを続けていたということです。
この若さで肝硬変が疑われているので、たいへんな量を飲んでいたのでしょう。

いつまでも動かない小早川軍にしびれを切らした家康は、
秀秋の陣へ鉄砲を撃ちかけ、裏切りの催促をしたという話があったのですが、
これは最近、陣の地理的な条件や当時の鉄砲の音量から、
否定されることが多くなってきました。しかし家康から、
なんらかの指示はあったものと思われます。昼ころにはついに決断し、
松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかりました。
西軍の中心的人物として少人数ながら奮戦していた大谷吉継は、
これによって自刃しています。

さて、この小早川秀秋は2年後、21歳の若さで病没するのですが、
幽霊話があります。吉継が関ヶ原の合戦において自害する際、
秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹し、
この祟りによって狂乱して死亡に至ったという逸話があるんです。
それと、現代の怪談にも見られる「開かずの間」の話もくっついています。

関が原後の秀秋はいっそう飲酒の度が進み、飲む度に狂乱しました。
そして上記の大谷吉継の亡霊が見えると言って、
刀を振り回して暴れたということになっていますが、
このあたりはどこまで本当かはわかりません。
ただ、秀秋に後ろめたい思いがあったと考えるのは自然で、
アルコール依存症による妄想としてそれが出てきたのかもしれません。

さて、小早川には杉原重政という重臣がいまして、
つねづね主君の行動をいさめていたのですが、いっときの感情に支配され、
秀秋は近習の村山越中に、上意討ちとして重政を殺すように命じます。
しかしこれ、すぐに後悔して小姓に村山を止めるように言ったのですが、
小姓が両人を探しているうち、杉原は天守の一画で斬り殺されてしまいます。

そして秀秋には、吉継の亡霊の他に、この杉原の亡霊も見えるようになり、
衰弱に拍車がかかってとうとう亡くなってしまいます。
跡継ぎがいなかったため小早川家は改易です。上記のニュースにある肝性脳症、
それとアルコール依存症のダブルパンチで、
幻覚が見えていたのかもしれませんね。

さてさて、岡山城はもともと宇喜多秀家の居城でしたが、
宇喜多が流罪された後に秀秋が入り、かなりの改築をしています。
杉原が殺された天守の部屋は、いくら畳替えしても血の跡が浮き上がり、
部屋に足を踏み入れた者が何人も変死したという話もあります。
このため、その部屋はとうとう封印され、開かずの間になってしまいました。

このように、怪談のテーマの一つである開かずの間も、昔からある話なんですね。
教訓としては、もちろん過度の飲酒は慎みましょうということなんですが、
裏切りもよくはないですね。きちんと旗色鮮明にして事にあたるべきでしょう。
そうでないと勝っても喜びは少ないし、自責の念から、
このような結果になってしまわないともかぎらないですから。

戦災前の岡山城と小早川秀秋






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