箸墓古墳と倭迹迹日百襲姫

2017.10.08 (Sun)
まず箸墓古墳の名称ですが、これは箸中山古墳と書かれることもあります。
史学界では、例えば昔「応神天皇陵」と言われていた古墳について、
そこに葬られているのが応神天皇かどうかの確証はないのだから、
誤解を招きやすいと、地名をとって「誉田御廟山古墳」と呼ぶようになりました。
ただ、箸墓古墳については、箸墓という名称が一般化しており、
またそれは被葬者を直接表すものではないので、
本項では「箸墓古墳」のほうを用いていきたいと思います。

概要を説明しますと、奈良県桜井市箸中にある前方後円墳で、墳丘長278m、
高さ30mです。前方部が途中から撥(ばち)型に大きく開く墳形で、
これは早期に造られた古墳の特徴です。後円部直径が約150m、
後円部は四段に築造され、幅10m前後の周濠と、
幅数10m前後の外堤の一部が発掘で見つかっています。
造られた年代については、周濠の底から布留0式と呼ばれる土器が発見されており、
研究者によって、240年~320年頃と幅のある意見が述べられています。
箸墓古墳は纏向遺跡の中にあります。

さて、ここに葬られているのが誰かというと、『古事記』『日本書紀』で、
倭迹迹日百襲姫(やまとととひ ももそひめ)という女性であるとされます。
第7代孝霊天皇の皇女で、巫女的なことを行っていたと描かれてますね。
まあエピソードを中心にいきましょう。『古事記』には事績はほとんど載っておらず、
『日本書紀』のほうに詳しい記述があります。

崇神天皇の世、四道将軍の1人、大彦命が北陸への派遣途中で、
「天皇はもうすぐ死ぬのも知らずに女遊びしているよ」と、
不吉な歌を歌う少女に出会ったため、大彦命は引き返して天皇にこのことを報告した。
そして天皇の大叔母である百襲姫の占いによって武埴安彦とその妻の謀反が発覚し、
安彦は滅ぼされた。
』これなんかは、百襲姫のシャーマン的性格をよく表している話です。
ただ、この手のは中国に類話があるんですよね。

百襲姫は三輪山の神である大物主と結婚した。大物主は夜に姫の元に通って来るので、
顔がよく見えない。百襲姫は我慢できず、「顔が見たい」と強引に迫った。
すると大物主は「朝になっても帰らずに櫛箱の中に入っている。見ても驚くなよ」
と答えた。朝になり、櫛箱をのぞいてみると、そこには小さな蛇がいた。
それを見て百襲姫が驚くと、蛇は一瞬で若者に変わった。
蛇は大物主だった。大物主は恥をかかされたと怒って三輪山へと帰って行った。
百襲姫は後悔し恥じ、箸で女性器をついて自殺してしまった。


これが百襲姫が亡くなったときのエピソードです。三輪山の神である大物主と結婚した
というのは、その祭祀を専門に司ったことの比喩でしょうか。
「箸で女性器をついて自殺」という部分は、古墳が箸墓と呼ばれる由来なんですが、
百襲姫の当時、竹を2つに折ってピンセット状にしたトングのようなのはありましたが、
はっきりした箸の発掘例はないんですよね。後代に作られた逸話である可能性があります。
また、土器を古墳上に並べていたことから、元は「土師墓(はじはか)」と言ったのが、
箸墓に変化したという説もあります。「女性器をついて亡くなった」の部分は、
子孫がいないことを強調している、と説明する人もいます。

墓は昼は人が作り、夜は神が作った。昼は大坂山の石を運んでつくった。
山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。時の人は歌った。
「大坂に 継ぎ登れる 石むらを 手ごしに越さば 越しかてむかも」

『日本書紀』で、古墳の造営について書かれた記述はこれが最初で、
その後にもほとんどありません。纏向遺跡には、箸墓古墳に先立つ100m級の
前方後円墳が数基ありますが、最初の巨大古墳と考えられる箸墓の
被葬者が女性であるとされることには、何か特別な意味があるような気がします。
これらのことから、倭迹迹日百襲姫を『魏志倭人伝』に登場する
邪馬台国の女王、卑弥呼に比定する研究者も多いのです。

では、こっからはQ&A方式で自分の考えを述べます。

Q:倭迹迹日百襲姫は実在の人物ですか?

A;記紀のこのあたりの人物の実在性を問うのは難しいと思います。百襲姫の父である
孝霊天皇は欠史八代と呼ばれる一人であり、実在の人物ではないとする研究者もいます。
百襲姫よりも後代の日本武尊(やまとたける)は全国を股にかけて活躍していますが、
これを、大和王権の初期に多くいた全国に派遣された皇子的人物の象徴、
と見る研究者は多いのです。百襲姫もまた、
巫女的性格の皇族女性を象徴的に表した人物である可能性があります。
結論として、実在の人物とするには問題が大きいと考えます。

Q;倭迹迹日百襲姫は邪馬台国の卑弥呼ですか?

A;その可能性はあります。というか、邪馬台国と卑弥呼の記憶が残っていて、
その記憶を元にして百襲姫の人物像が作られた、
というのなら十分ありえる気がします。ここでは詳しく書きませんが、
卑弥呼と百襲姫は、占いや神託を行った宗教的指導者である点、
その他にも似ている部分が多いと思うのです。

Q;箸墓古墳は卑弥呼の墓ですか? 

A;これも難しい質問です。卑弥呼の死後、男の王が立ちましたが、
国中がこれに従わず混乱して人がたくさん死んだため、 
台与という13歳の女王が立てられています。箸墓は、
年代的にはその台与の墓である可能性もあると考えます。

現代の日本では卑弥呼の名が有名で、台与はその陰に隠れてしまっている
感がありますが、もしかしたら、当時の人の評価は、
最終的に国の混乱を収めた台与のほうが上だったかもしれないのです。
もちろん、卑弥呼の墓である可能性は否定しません。年代も、
築造にかなりの年月がかかったのなら、なんとか届くのではないでしょうか。
箸墓の発掘がのぞまれますが、これは宮内庁指定の陵墓参考地となっているため、
不可能な現状にあります。

Q; 纏向遺跡は『魏志倭人伝』の邪馬台国ですか?

A;はい、そう思います。だだし、纏向遺跡は邪馬台国の宗教的・政治的な中心地であり、
邪馬台国自体は、大阪、四国東部、吉備、近江、東海などにまたがる
広範な地域ではなかったかと考えています。

※ この問題については、考えていることの十分の一も書けないですね。
  またそのうち続きをやります。

箸墓古墳から三輪山を望む

 
 
 



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