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日本書紀成立の3事情

2017.12.29 (Fri)
※ 日本史についてのかなり硬い内容ですので、興味を持たれない方はスルーされた
ほうがいいかもしれません。



今回も古代史関連の内容です。これは前回のアマテラスの話とは違って、
自分の独自の考えがかなり含まれていますので、そのつもりでお読みください。
『日本書紀』についてWikiを見ますと、こんなふうに書かれています。
「『日本書紀』は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、
六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。
神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。
系図1巻が付属したが失われた。」


さて、できるだけかいつまんで書きます。
お題に「3事情」と入れてますが、成立事情はもっと他にもあると思いますが、
その中から特に3つにしぼって考察するということです。3事情とは、
① 南九州の隼人と呼ばれる人々に対する配慮。
② 天武朝の正当性を国内に知らしめる。
③ 中国(唐)に対し、天智朝とは別政権であることを強調する。

まず①について。『日本書紀』が成立した時期は、九州で「隼人の乱」と呼ばれる
激しい戦乱が起きていました。これ、あまり知らない人が多いんですが、
1000人以上の死者が出ています。当時の南九州は、
大和朝廷による中央集権を嫌い、班田収授の法を受け入れませんでした。
これに対し、朝廷側はいろいろな懐柔策を試みたものの、
結局は戦闘となり、戦いは1年半近くにわたって隼人側の敗北で終結しました。

このことを踏まえ、『日本書紀』の天孫降臨から神武天皇までの部分は、
南九州に配慮した内容になっています。それが「日向三代」と呼ばれる部分ですね。
天孫ニニギが宮崎県と鹿児島県の県境に位置する高千穂の峰に降臨し、
ホオリ(山幸彦)ーウガヤフキアエズと代がつながって、
ウガヤフキアエズの子である神武天皇が大和に向けて東征に出発します。
当時辺境であったと考えられる南九州が、なぜ天孫降臨の場所として選ばれたのか? 

自分はこの隼人の乱の影響が大きかったためと考えています。
じつは天皇家の故地は南九州であったとすることで、
戦乱の目がくすぶっていた南九州を懐柔し、日本をまとめようとしたのでしょう。
中村明蔵、鹿児島国際大教授は、これについて次のように述べています。
「隼人の神話を取り込んだうえで、隼人を朝廷に服属させることを正当化するための
造作を加えたものが記紀の日向神話。そこには記紀編さん時の、
南九州、南島の領域化という朝廷の政治的関心、意図が強く反映している。」

②について。みなさんは「壬申の乱」をご存知ですよね。
天武天皇元年(672年)に起こった古代日本最大の内乱です。
天智天皇が崩御した後、その子で皇太子の大友皇子と、天智天皇の弟の大海人皇子
との間で戦闘が起き、大海人皇子が勝利して天武天皇として即位します。

このとき、『日本書紀』の記述では、大海人皇子側が初期の戦闘に負け、
ちりぢりになった軍兵を集めていると、将軍の一人が神懸りとなり、
事代主の神がのり移って「神武天皇陵に、馬および種々の兵器をたてまつれ」
と神意を告げたことになっています。そこで大海人皇子は神武陵に数々の供え物をし、
戦況を打開して勝利することになります。

このあたりの記述は、まさに天武天皇こそが、
初代の天皇である神武の系譜を継ぐものであることを示しているわけです。
つまり、『日本書紀』には、天武天皇が正統の皇統であることを
国内に知らしめる役割があったんですね。『日本書紀』の天武紀の冒頭には、
「天命開別天皇同母弟也 幼曰大海人皇子 生而有岐㠜之姿 及壯雄抜神武 能天文遁甲」
とあり、天武天皇を神武天皇になぞらえようとする意図がはっきりうかがえます。

③について。天智2年(663年)、朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で、
倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争が起こりました。
これを「白村江の戦い」と言うのはご存知だと思います。
戦闘は日本軍の大敗北に終わり、百済は滅亡し、天智天皇は唐の国内侵攻をおそれ、
対馬や大宰府に水城、西日本各地に朝鮮式山城を造り、九州に防人を配備し、
667年に都を難波から内陸の近江京へ移して日本国内の守りを固めました。

それから壬申の乱を経て、天武天皇の時代になったわけですが、
天武朝としては、完成した『日本書紀』を唐に見せることを考えていました。
その意図の一つとして、唐に反抗して白村江で戦った天智朝と、
現政権は別物であることを強調したかったのだと思います。

『日本書紀』の天武紀には、大海人皇子が、まだ天智天皇が存命の際、
大友皇子に即位をゆずって吉野山に入り出家したという記述が出てきますが、
このとき群臣の一人は「或曰、虎着翼放之」(虎に翼をつけて放つ)と評しています。
これは、韓非子や周書などの中国の書物に見られる表現で、
ここでははっきりと中国の易姓革命が意識されています。
つまり、天智朝と天武朝は別物なんだということを唐に向けて強調したいわけです。
また、このことをきっかけに、国号を「倭」から「日本」へと変更することになります。

中国の史書である『旧唐書』には「日本伝」と「倭国伝」の両方が立てられ、
当時の中国は「日本」と「倭国」の関係についてよく理解していない様子が見られます。
また、日本から唐に来たものに質問をしても、その態度は尊大で問いに答えず、
彼らの言うことが、どこまで真実を伝えているのか疑わしいと記されています。
このあたりのことは、日本からの遣唐使が
わざと天智朝と天武朝の関係をあいまいにしているのであり、
そしてそのねらいは成功していると自分は考えます。

さてさて、やはり長くなってしまいました。『日本書紀』は勝者である天武朝側
が書いた歴史書です。日本国内においては、
天武朝が正統な天皇系譜を受け継ぐものであることを諸豪族に知らしめ、
対外的には、天智朝と天武朝は易姓革命で入れ替わった別政権であるように思わせる。
隼人対策も合わせ、この3つの大きな意図によって書かれたのが『日本書紀』だと、
自分は考えているんです。

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