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日本に「殉葬」はあったか?

2018.01.07 (Sun)
前回、埴輪の起源の話を書きましたが、それに関連した話です。
ただねえ、これってすごく難しいテーマなんですよ。
これがもし「日本に殉死はあったか?」というテーマだったらことは簡単です。
答えは「多数の例がある」の一言で済んでしまいます。
森鴎外の『阿部一族』に見るように、武家社会では殉死が近世まで続いてましたし、
明治になっても、乃木大将夫妻が明治天皇に殉じています。

殉死された乃木大将夫妻


じゃあ、それでいいんじゃないの。なんで「殉葬」にこだわるの?
と思われた方も多いでしょうが、これ、邪馬台国問題に関係があるんですね。
『三国志・魏書 東夷伝 倭人の条』通称「魏志倭人伝」には、
邪馬台国の女王卑弥呼の死のいきさつについて、次のように記されています。
「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢百餘人」
いちおうこのように読み下します。
「卑弥呼以って死す 大いに冢(ちょう)を作る 径百余歩 徇葬する者奴婢百余人」

この部分は一字一句に議論がありまして、「以」を「もって」とするか「よって」
にするか、あるいは「すでに」と読むかで意味が違ってきます。
また「歩」という当時の中国の単位の長さや、「径」とは円の直径なのか、
「冢」とは何かということなどについても、いろいろ自説を述べる人がいるんです。

ともかく、卑弥呼の大きな墓を作り、奴婢100人あまりを殉葬(徇葬)した、
という意味のことが書かれているのは間違いないでしょう。
ただし、厳密には、殉葬者が卑弥呼と同じ墓にいっしょに葬られているのか
ということまではわからないのではないかと思います。

さて、邪馬台国の位置問題は、大きく九州説と畿内説に分かれますが、
九州説には「100人の殉葬跡のあるものが見つかれば、それが卑弥呼の墓だ」
と考える人が多いようですし、畿内説では、
「殉葬者100人というのは中国式の誇張表現ではないか。
 蛮夷の国の野蛮な風習として、ことさら強調しているとも考えられる」
と述べる人もいます。

なぜ畿内説にこのような意見があるのかというと、日本ではこれまで、
たくさんの弥生墳丘墓や古墳が発掘されてきましたが、
はっきりした人間の殉葬の跡があるものは、いまだに確認がされていないんですね。
そのことについて、九州説では「火山国である日本の土壌は酸性土であるため、
土中の骨は残りにくい」などと言う人がいます。

これは一理ある意見ではあるんですが、殉葬者の遺体にただ土をかけていった
などならともかく、棺に入れられていたのであれば、見つけることは可能です。
あと、考古学は穴の跡を見つけるのは得意です。
古代の建物の柱穴を写真で見られたことがあるのではないかと思いますが、
もし穴を掘ってその中に殉死者の遺体を入れたのであれば、
その跡を見つけられる可能性はかなりあるはずです。

縄文時代の土坑(狩猟のための陥穴)


実際、古墳時代の5世紀に馬を殉葬した例はいくつか見つかっています。
ただ、古墳の周濠(古墳のまわりの堀状の部分)
にそのまま殉死者の遺体を投げ入れたといったようなケースだと、
見つけるのはまず難しいでしょうね。あと、「追葬」という問題もあります。
これは、墓の被葬者が死んで何年、何十年か後に、
近親者などが死んだのを同じ墓に埋葬することですが、
時間差があって埋められたのかどうかは、なかなかわかりにくいんですね。

馬の殉葬とみられる例


さて、ここで話を変えて、殉死には「自ら望んで死んだ」場合と、
「強制的に殉死させられた」場合とがあります。後者は殺人殉葬などとも言います。
『三国志・魏書 東夷伝 扶餘伝』には、「殺人徇葬多者百数」という語が出てきます。
もちろん、この中間というか、自ら望んではいないが周囲のプレッシャーのために
殉死せざるをえなかった、などの例もあるとは思います。

邪馬台国の場合、倭人伝に書かれている殉葬がもしほんとうにあったとして、
このどちらであったかはわかりません。
奴隷的身分の者が、強制的に首を切って殺されたのかもしれないですし、
卑弥呼の宗教的な権威に心服していたので、
自ら従容として死におもむいたのかもしれないです。

さてさて、そろそろまとめたいと思います。
日本に殉葬はあったのか?というテーマの答えについて、
どっちかを答えなくてはならないなら、これは、あっただろうと言うしかないですね。
弥生時代の墳丘墓や、古墳時代の古墳には、土は盛られているものの、
発掘しても中には何も見つからないというものもあり、
もしかしたら、それは殉葬者のためのものであった可能性もあるでしょう。

また、自分は何度か古墳の発掘調査の手伝いをしたことがありますが、
墳丘上で用途不明な穴の跡が見つかったケースもあるんです。
それは単に古墳造営で出たゴミを埋めたものだったのかもしれないですが、
そのとき自分は、殉葬という言葉がちらと頭をよぎったのを覚えています。

ただし、殉葬があったとして、中国の殷(商)・周の時代に見られるような
大規模なことは行われていなかったのだろうと考えます。
ですから、邪馬台国の「徇葬者奴婢百餘人」については、
やはり中国的な誇張表現の可能性を考えているんです。
まあでも、今後、大規模な殉葬の跡がある墓が見つかったなんてことも
絶対にないとは言えませんからねえ。

関連記事 『相撲と埴輪の起源』

中国、殷墟の奴隷殉葬坑
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