FC2ブログ

宮沢賢治と相対性理論

2018.01.07 (Sun)
名称未設定 1ewf

今回はこのお題でいきます。みなさん、宮沢賢治とは何か?と聞かれたら、
どうお答えになるでしょうか。童話作家? 詩人?
それはそうなんですが、作品が世に広まるのは賢治の死後のことで、
生前に受け取った原稿料は、童話『雪渡り』による5円だけというのは有名な話です。

賢治は1896年(明治29年)生まれ、 1933年(昭和8年)没という
37年の短い生涯でしたが、熱心な日蓮宗の宗教者、教育者、
農村改革者、肥料設計技師・・・いくつもの顔を持っていました。
その中には、科学者とまではいえないでしょうが、
当時の最先端科学を深く理解していた科学愛好家としての顔もありました。

まあ、これは当然といえば当然の話で、賢治は盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)
に首席で入学。学部で一人だけ授業料を免除される特待生となり、
研究生として学校に残り、卒業時に助教授に推薦されたものの、
これを辞退しています。当時の理系の大エリートだったわけです。

さて、賢治は子どもの頃から鉱物採集が好きで「石コ賢さん」と呼ばれていました。
賢治は、日本でのオニグルミの化石の第一発見者でもあるんです。
ですから、作品には鉱物や化石をモチーフとした話がたいへん多いんですね。
『楢ノ木大学士の野宿』は、蛋白石(オパール)の採取のため、
河原に野宿する大学生の話ですし、『銀河鉄道の夜』では、
主人公らは、大学士が牛の祖先の化石を発掘する現場を見学したりしています。

尋常小学校教科書と鉱物標本


では、物理学方面はどうだったでしょうか。これ、自分は、
賢治は相対性理論をかなり深いところまで理解していたのではないかと思います。
現代であれば、理系の大学を卒業した者が相対論を理解しているのはあたり前ですが、
今とは時代が違います。特殊相対性理論がアインシュタインによって発表されたのが
1905年、賢治が9歳のときで、一般相対性理論発表は1915年、
賢治が19歳、盛岡高等農林学校に入学した年です。当時、相対論は、
世界で理解している者は数えるほどと言われる難解な理論でした。

賢治が相対論を理解していたと考えられる部分は、作品のあちこちに見られます。
まず、詩集の『春と修羅』の有名な序文ですが、後半部分に「因果の時空的制約」 
「心象や時間それ自身の性質として 第四次延長のなかで主張されます」
といった言葉が出てきます。

この「第四次延長」というのは、おそらく、相対性理論でいう
「4次元連続体(four-dimensional continuum)」
を賢治なりの言葉で訳したものだと思われます。
この概念はアインシュタインによって、初めて言い出されたものです。

ただ、賢治があたったのが相対性理論の英語の論文なのか、
ドイツ語論文なのかは、浅学の自分にはよくわかりません。
ちなみに、『春と修羅』が書かれたのは、詩集に「1922.4.8」
という注記があるようですので、これが確かだとしたら、
一般相対性理論発表から7年後ということになります。

また、菜食主義をテーマにした『ビジテリアン大祭』では、
登場人物が「文学より見たる理論化学とか、相対性学説の難点とか・・・」
と述べています。「相対性学説」も「相対性理論(theory of relativity)」
の訳語だと考えられます。さらに、賢治のメモ書きで、
「アインシュタイン先生、ルメートル先生」
と書かれたものが見つかっているんですね。

ルメートルというのは、アインシュタインの理論に基づいて宇宙膨張論を提唱した
宇宙物理学者です。この理論は当時の最先端のものでした。
ルメートルはまた正式なカトリック司祭でもあり、
キリスト教神学の、神による天地創造を背景として、
ビッグバン理論を推し進めた人なんですが、このあたりは、
同じく宗教を信ずるものとして、賢治が共感していたのではないかという気がします。
賢治の中でも、宗教と科学は矛盾するものではなかったのです。

さて、アインシュタインは1879年生まれ、1955年没。
賢治より先に生まれ、賢治の後に亡くなっているわけですが、
ほとんど同じ時代を生きていると言ってよいと思います。
では、賢治との接点はなかったんでしょうか。

アインシュタインの来日は1922年(大正11年)、
11月17日のことです。日本各地で過密スケジュールの講演を行い、
12月2日に仙台へと来ました。このとき、駅に歓迎の群衆が押し寄せ、
アインシュタインが「命の危険を感じた」と書いているほどです。

どうでしょう。12月3日の仙台講演の聴衆の中に賢治はいなかったんでしょうか。
大正11年といえば、賢治は岩手県立花巻農学校の教員。
この年の11月27日、妹のトシが結核のために死亡、
29日に葬儀が行われています。あの「あめゆじゅとてちてけんじゃ」の
『永訣の朝』の詩が書かれた年だったんです。

これについて、いろいろ調べてみたんですが、賢治が盛岡から仙台へと、
アインシュタインの講演を聞きに行ったという証拠は見つかりませんでした。
おそらく、愛する妹の死の直後で、それどころではなかったんでしょう。
アインシュタインの来日は日本中の話題となり、連日、新聞報道されていたので、
当然、賢治も知っていたと思われます。
もし講演に行ってれば、何か書き残していたかもしれませんね。
タイミングが悪かったと言うしかないようです・・・

さてさて、自分は賢治の作品の魅力は、一つにはファンタジックな幻想が、
科学理論によって裏打ちされている部分にあると考えています。
もちろんそれだけではありませんが、今回は、一般的な賢治論では
あまり言われることのない部分に焦点をあてて本項を書いてみました。
興味を持っていただけましたら幸いです。

来日したアインシュタイン
早稲田大学来訪時のアインシュタイン夫妻2






関連記事
スポンサーサイト




トラックバックURL
http://scoby.blog.fc2.com/tb.php/1327-32cadc77
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する