『日本書紀』の中の爆弾

2018.01.26 (Fri)
武烈天皇


変な題名だと思われますでしょうが、『日本書紀』のあちこちには爆弾が
埋め込まれてるんです。そこを突っ込んで研究すると、
爆発してすべてが崩壊してしまう破壊兵器です。その中でも最大のものが、
武烈天皇の存在だと自分は考えます。

日本の古代史で、武烈天皇の詳しい研究ってとても少ないんですよね。
武烈天皇の次代は継体天皇で、その研究がたくさんあるのと対照的です。
なぜ研究が少ないかというと、歴史学者のみなさんは意識的、あるいは無意識に、
武烈天皇の存在が爆弾だということを知ってるんだと思います。
それで嫌がってるというか、怖がってるというか。

武烈天皇は第25代天皇、名前は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)。
年代ははっきりとはわかりませんが、次代の継体天皇の治世、
西暦527年に九州で磐井の乱が起きていることを考えれば、
実在するとすると、だいたい500年前後の頃の人だと思われます。
あと、武烈天皇の陵墓は「傍丘磐坏丘北陵」ですが、グーグルアースで見ると、
前方後円形などの古墳ではなく、自然の山のような形をしていますね。

では、日本書紀で武烈天皇がどう書かれているか見てみましょう。
「長好刑理 法令分明 日晏坐朝 幽枉必達 斷獄得情 又 頻造諸惡 不修一善
凡諸酷刑 無不親覽 国內居人 咸皆震怖」

これ、すごい文章です。訳すと「成長すると裁判を好み、法律をよく知っていて、
一日中座って政務を行い、無実の罪は必ず見つけ出すなど、裁判の審理は見事だった。」
ここまで読むかぎりは、司法に明るい立派な天皇のようですが、さらに続けて、
「いろいろな悪事をしきりになさり、良いことは一つもしなかった。
あらゆる残酷な刑罰を行い、すべて自分で確認した。人々はみな天皇を震え恐れた。」
前半の文章と対立するような内容が後半で出てきます。

ただこれ、中国においては、帝王は「徳」(道徳)によって世を治めるという
儒教的な考え方が主流でした。法は、あくまで徳を補助するためのものだったんです。
ですから、法治は徳治よりもレベルが下と見られましたし、
中国歴代皇帝の中で、法で国民を縛った人物の評価は低いんですね。
『日本書紀』は、これを踏襲しているとも考えられます。

では、どんな悪事を武烈天皇は働いたんでしょうか。
・妊婦の腹を生きたまま裂いて、その赤子を見た。・人の生爪をはいで、芋を掘らせた。
・人の頭髪を抜き、木に登らせてその木を切り倒し、落下させて殺した。
・人を池の樋に入れ、外に流れ出てきたところを矛で刺した。
・女を裸にして馬の交合を見せ、陰部の濡れた者は殺し、そうでない者は奴隷にした。
まあこんな感じです。この部分は「暴虐記事」といって、あまりな内容のため、
戦前の『日本書紀』からはカットされていたという話もあります。

さて、前後の記述から、武烈天皇は若くして亡くなった思われ、
子どもがいませんでした。また男子の近親者も周囲にいなかったことになっています。
後継の天皇に困った群臣は、すったもんだの末に、遠く離れた越前の国から
第15代応神天皇の5世の子孫を探し出してきて、次の天皇になるよう要請しました。
それが継体天皇です。継体というのはずっと後代につけられた諡(おくりな)ですが、
「系統を受け継ぐ」といった意味を持っています。

この『日本書紀』の部分は、中国の王朝交代時の記述によく似ていると言われます。
例えば古代中国で、殷(商)から周に代わるときの殷の王は紂(ちゅう)でした。
『史記』には、紂王が愛姫である妲己の歓心を買うため、
毎日、酒池肉林の宴会を催し、炮烙(ほうらく)の刑などの残虐な刑罰を行い、
妊婦の腹を裂いて胎児を見たり、気まぐれで老人の脚を切って骨を調べた、
などといったことも書かれています。そのため、
殷は天から見放されて、周による易姓革命が起こったわけです。

殷(商)の紂王と妲己
ダウンロード

つまり、上記の暴虐記事は、継体天皇の即位を正当化するため、
中国の故事にならってわざと書かれたものではないか、
という疑惑があるんですね。
まあ、そうなのかもしれません。ちなみに『古事記』の武烈天皇の記事は
わずか一行程度で、子どもいないという他に何も書かれていません。

さて、本項の目的は、武烈ー継体の間で王朝交代が起きたかどうかを明らかに
することではなく、『日本書紀』の信憑性を問題視しているんです。
武烈天皇の存在については、次の3つの場合が考えられます。
① 『日本書紀』の武烈天皇の記事はすべて史実である。
② 武烈天皇は架空の存在で、そういう人物はいなかった。
③ 武烈天皇のモデルになる人はいたが、暴虐記事は架空の内容である。

これ、『日本書紀』に書かれている内容をすべて史実とする立場の
研究者には、②でも③でも困りますよね。
だって日本書紀は嘘を書いていることになるわけですから。
②で、武烈天皇がいなかったとすれば、
その父の仁賢天皇の存在も怪しくなります。

天皇の系譜は万世一系でつながっているので、どっか一人でも架空の存在だと
全体が疑われてしまいかねません。③でも同じです。
この部分は信じ難い内容だから架空の記事だろう・・・しかし、どの部分が架空で、
どの部分が事実であるかを仕分ける根拠なんてないですよね。

ですから、戦前は武烈天皇の研究は不敬にあたるとされて進みませんでしたし、
戦後は、上記のようなことから、
あえて触れようとする研究者は多くなかったんです。
ここに触れるのは不発弾を掘り起こすようなもので、
自分の研究の土台である『日本書紀』の信憑性を問われかねないからです。

さてさて、現在の文献史学では、これらのことを踏まえて、
継体天皇以前の研究はたいへん少なくなってきています。
『日本書紀』の記述を根拠として研究を進めても、その信頼性が担保できない、
という考え方が浸透してきているためだと思われます。

ですが、第21代雄略天皇(大泊瀬幼武 おおはつせ わかたける)のように、
埼玉の稲荷山古墳、熊本の江田船山古墳から、
ともに雄略天皇とも考えられる「ワカタケル」という銘の入った鉄剣が
出土している場合もあります。このように、他の文献や考古学的な裏付けが
できそうな場合にかぎり、研究が進められる状況になってきているんです。

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