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影女と自由意志

2018.03.04 (Sun)
今回も妖怪談義です。取り上げるのは「影女 かげおんな」。
これは、もしかしたら小難しい話になるかもしれません。スルー推奨かな。
まず、石燕の絵を見てみましょう。画面左上に三日月があります。
そして庭に松の木があり、その影が障子に映っていますが、
その影の左側が、女が逆立ちしているように見えます。



それと、室内には竹か籐の花かごがあり、野の花らしきものが挿してあります。
畳の上には、弓と矢が2本置かれてますね。うーん、弦月のことを「弓張月」
とも言うので、弓と月が関係しているのは間違いないでしょう。
花かごも何かの意味があるんでしょうが、自分にはわかりません。

全体として、俳人・宝井其角の有名な、「名月や 畳の上に 松の影」
という俳句を思わせるような情景ですが、其角の句は満月のときのものです。
其角は石燕より50年ほど前の人なので、
石燕もこの句は知っていたでしょうが、直接の関係はなさそうですね。

さて、詞書が難しい。「もののけある家には 月かげに女のかげ 
障子などにうつると云(いう) 荘子にも 罔両(もうりょう)と
景(けい)と問答せし事あり 景は人のかげ也 
罔両は景のそばにある微陰なり」
うーん、なるべく簡単に説明します。

まず、最初の部分、「もののけが出るという家には、月の光で、
女の影が障子などに映るといわれる。」ここまでは問題ないですよね。
後半は、「莊子という書物に、罔両(もうりょう)と景(けい)が
問答したことが出ている。景は人の影であり、
罔両は景のまわりにある微かな陰である。」

莊子は中国の、紀元前3世紀頃の、無為自然を説いた思想家ですが、
その著書の『莊子』には、「胡蝶の夢」などの逆説的な寓話が多数含まれ、
古代の中国思想の奥深さを感じとることができます。
『莊子』齊物論篇に、罔両と景の以下のような問答が出てきます。
罔両は、石燕が書いているとおり、影の端のほうの淡い部分のことです。

「 罔兩問景曰 景子行 今子止 景子坐 今子起 何其無特操與 
 景曰 吾有待而然者邪 吾所待 又有待而然者邪 
 吾待蛇蚹 蜩翼邪 惡識所以然 惡識所以不然 」

罔「おい影よ、お前は動いていると思えば止まり、
  立ってるかと思えば座っている。どうしてそうバタバタしているんだ?」

影「いや、私は本体の人間の行動によって動いているだけです。
  私は、蛇の鱗や蝉の羽のようなもの。ただ本体につき従っているだけで、
  自由な意志というものはありませんよ。だから、バタバタしていると
  言われても、ただ、あるがままに存在しているだけなんですよ。」

これは、「自由意志」というものを東洋哲学的にあつかった話で、
「影には自由意志はない。ただ本体の動きにしたがっているだけだ。
では、影の本体であるわれわれには、ほんとうに自由な意志はあるのだろうか?」
みたいな莊子の問いかけが含まれている、と解釈されています。

ああ、やっぱり小難しくなってしまいました。もちろん、
博学の石燕は、この問答のすべてを知っていて影女を描いたんでしょう。
例えば、もののけが出るとされる家に行って、びくびくしながら一晩を過ごす。
すると自分の心が知らず知らずのうちに周囲の環境に影響され、
ただの松の影も女の姿に見えてしまうかもしれません。

「あなたは今、影女を見ているが、影女は影だから本体があるはずだ。
しかし、怪異というのは、怖いと思う自分の心がつくり出すものなのだから、
今見ている影女は、じつは、あなたの心そのものなのではないのか。」
こんなことを、石燕はこの絵で言いたいんじゃないでしょうか。

「苅萱道心」


さてさて、影の怪異というのは、怪談の一つのパターンとしてあります。
例えば、自分の影が本体の自分とは違った動きをすれば、これは怖いでしょう。
日本の影の怪談としては、「苅萱(かるかや)道心」の説話が有名ですね。
ある侍が、妻と妾を同居させていたが、2人は仲よく一緒に暮らしていた。

その夜も、妻と妾が笑いながら碁を打っていたが、灯火で障子に映った
2人の髪の毛の影が、お互いに蛇となってからみ合い、争っていた。
これを見た侍は、嫉妬というものの怖ろしさに心底ぞっとして、
妻と妾を捨て、出家して高野山に上ってしまった、というお話です。

しかし、じつはこの影も、妻と妾を一つ屋に同居させていた侍の、
心の中にある罪悪感がつくりだしたものなのかもしれないんですね。
ということで、今回はこのへんで。








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