陰陽剣と光明子

2018.03.24 (Sat)
今回も剣の話でいきたいと思います。まず、陰陽思想について説明します。
古代中国では、この世の始まりは混沌であったとされます。
Wikiには、「混沌の中から光に満ちた明るい澄んだ気、すなわち陽の気が
上昇して天となり、重く濁った暗黒の気、すなわち陰の気が下降して地となった。
この二気の働きによって万物の事象を理解し、
また将来までも予測しようというのが陰陽思想である。」
こう説明されています。

ここで注意しなくてはならないのは、ゾロアスター教のように、
陽が善、陰が悪というわけではないことです。
また、陽が優れていて、陰が劣っているということでもありません。
光があるところに必ず影ができるように、陰と陽の2つがあってこそ、
物事は完全になるのであり、陰と陽はたがいに補完する関係なわけです。

陽にあたるのは、「光・明・剛・火・夏・昼・動物・男」など。
また、陰は「闇・暗・柔・水・冬・夜・植物・女」などです。
陰陽2つの気が調和して、はじめて自然の秩序が保たれることになります。
陰陽は「太極」の図として象徴的に表されます。

太極図
へうしあおう (1)

さて、この陰陽思想は早くから日本に取り入れられ、
易(えき 占い)にもちいられました。安倍晴明などが活躍した陰陽道も、
もともとはここから来ているんですね。
で、剣の世界にも、陰陽思想はあるんです。

古代中国では、陰剣と陽剣がセットになっているものがいくつか知られていて、
「太阿(たいあ) ・龍泉(りゅうせん)」 「干将(かんしょう) ・莫耶(ばくや)」
の剣などがあります。陰陽剣はまた、雌剣、雄剣とも言います。
陰陽の剣は、お互いに呼びあい響きあうため、
2本そろって保管されるべきものです。

これは時代小説ですが、林不忘の書いた『丹下左膳』には、
「乾雲(けんうん)・坤竜(こんりゅう)」という2本の刀が出てきて、セットで
保管しておく分には問題ないが、ばらばらになると、
互いに求め合って血を呼ぶという設定になっていました。

干将莫耶の剣 イメージ


さて、話変わって、お題にある光明子とは光明皇后のことです。藤原氏の出身。
奈良の大仏開眼で有名な聖武天皇が皇太子の時代に結婚し、
やがて、王族以外での初めての皇后となります。仏教に深く帰依し、
貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」
を設置して、慈善を行ったことで知られていますね。

これは伝説でしょうが、光明皇后は、病人の治療のため法華寺に建てた
「からふろ」で、千人の民の汚れを拭うという願を立てました。
ところが、千人目は皮膚から膿を出すハンセン病者で、
皇后に膿を口で吸い出してくれるよう求めます。
意を決した皇后が病人の膿を口で吸い出すと、たちまち病人は、
光り輝く阿閦如来(あしゅくにょらい)の姿に変わったという話が残っています。

さて、この光明皇后が、756年、夫である聖武天皇の死後、
愛用の品や珍しい文物などを東大寺に奉献したのが、正倉院御物の始まりです。
日本の宝といえる品々が多数収められているのはご存知だと思います。
このときにつくられた、正倉院の御物の目録である「国家珍宝帳」には、
「除物」という付箋がつけられたものが7点あり、
後に、何らかの理由で正倉院から持ち出されたという意味です。

「国家珍宝帳」


これらは失われた宝なんですが、千数百年の間、一つも見つかりませんでした。
明治40年(1907年)になって、大仏の右膝下に掘られた穴から、
銀の壺、真珠などとともに、金銀でしつらえた2振りの見事な太刀が出土しました。
これがおそらく、正倉院から消えた聖武天皇の御物だと推測されたんですが、
当時は、はっきりした確証はなかったんですね。

金銀荘太刀 「陰寳剱」 「陽寳剱」


それが、2010年、補修のためのX線検査をしたところ、
剣の一本に「陰剱」、もう一本に「陽剱」という文字が刻まれていることがわかり、
聖武天皇の刀でまず間違いなしということになったわけです。
しかし、まだ謎が残ります。埋めたのは光明皇后でしょうが、
なぜ、いったん正倉院に収めたものを持ち出して、そうしたのか?

bdんsかいうえ

聖武天皇が亡くなって2年後、光明皇后は体調を崩し、
さらにその2年後に、60歳で病没するんですが、これを埋めた頃には、
おそらく自分の死期を悟っていたんだろうと思われます。
陽剣を夫の聖武天皇、陰剣を自分とみなし、なるべく大仏の近くにあって、
ともに成仏することを願ったのではないかと考えられます。

もう一つ、聖武天皇の死後、すぐに皇位継承をめぐって橘奈良麻呂の変が起き、
聖武天皇の跡を継いだ、娘の孝謙天皇には子どもがいませんでした。
これも、光明皇后にとって、たいへん気がかりだったことでしょう。
この後、さらに世が乱れることを予測し、大仏の膝下で、
自ら国の護りになろうと考えたのかもしれません。

さてさて、この光明皇后の心配は的中し、皇后の死後、藤原氏の権勢は
かげりをみせ始め、孝謙天皇は、一介の祈祷僧 道鏡にたぶらかされ、
それを排除しようとして、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱が起きることになります。
そしてその過程で、文武、聖武と続いた天武系の血筋は絶えてしまうんですね。

ということで、大仏殿から出土した陰陽剣は、
これだけの歴史をわれわれに物語ってくれます。
映画評論家の水野晴郎氏ではありませんが、考古学って面白いなあと思います。
では、今回はこのへんで。

聖武天皇と光明皇后
がなhしあう





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