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祐天上人と生類憐れみの令

2018.07.18 (Wed)
歌舞伎で上演された「累が淵」


今回は「怖い日本史」のカテゴリの話です。けっこうこみ入った内容になるかも
しれません。まず、祐天(ゆうてん)上人とはどんな人物なんでしょうか?
祐天上人は、江戸初期の17世紀に活躍した僧侶で、当時、厄払いや
怨霊退散などの加持祈祷を行うのは密教の僧というのが普通でしたが、
祐天上人は阿弥陀仏を信仰する浄土宗の僧なんですね。

祐天上人は、怨霊に悩まされていた者たちを救済しながら全国を巡り歩き、
念仏の力で悪霊を消滅させたと言い伝えられています。
まあ、江戸時代のスーパー霊能者みたいなものです。
また、彼は難産で苦しむ女たちのもとで念仏を唱え、安産に導いたとも言われます。
このことは後で関係してくるので、覚えておいてください。

祐天上人


さて、祐天上人が解決した最大の怨霊事件として有名なのが、
「累ヶ淵」の事件です。累ヶ淵は、茨城県常総市羽生町の鬼怒川沿岸に
あったとされる地名で、事件の内容はオカルトフアンなら
ご存知とは思いますが、いちおう簡単に説明させてください。

その村に、与右衛門という百姓と、その後妻のお杉の夫婦がありました。
お杉には連れ子の娘、助(すけ)がいましたが、生まれつき顔が醜く、
足が不自由であったため、与右衛門は助を嫌っていました。
このため、夫婦仲がうまくいかず、助が邪魔になった与右衛門は、
淵に投げ捨てて殺してしまいます。

翌年、与右衛門とお杉は女児をもうけて累(るい)と名づけましたが、
累は助にそっくりの醜さであったため、村人は助の祟りと噂し、その子は、
「助がかさねて生まれてきたのだ」と「るい」ではなく「かさね」と呼ばれました。
その後、与右衛門とお杉はあいついで病死します。

孤児になり村人に育てられた累は、流れ者の谷五郎を看病し、村人に勧められて
夫婦になります。しかし、つねづね累の醜さを疎ましく思っていた谷五郎は、
別の女と仲良くなり、累を川に突き落として殺してしまいます。
はからずも、これは助が死んだのと同じ場所でした。

その後、谷五郎は後妻を迎えますが、すぐに病気で死んでしまい、
なんとその数は5人にもなります。やっと6人目の後妻、きよとの間に、
菊という娘が生まれましたが、菊は成長するにつれて狂乱するようになります。
菊は、自分は累であると名のり、谷五郎の悪事を訴えて暴れます。

これを、たまたま近くに滞在していた祐天上人が聞きつけ、
苦難の末に累の怨霊を退散させますが、菊の状態はすぐ元に戻ってしまいました。
そして今度は、自分は助であると名のります。土地の古老から事の次第を聞いた
祐天上人は、累と助、両名に戒名を授け、念仏の力で成仏させることになります。

初代 三遊亭圓朝


この話は江戸にまで伝わり、歌舞伎として上演され、また、明治になって、
初代 三遊亭圓朝が、怪談噺 『真景累ヶ淵』を作り上げて世に広まりました。
この内容がどこまで事実なのかははっきりとしませんが、
間引きや子どもを売ることが普通にあった閉鎖的な農村の中で、
起きてもおかしくない出来事と考えられたんでしょう。

徳川綱吉


さて、話変わって、生類憐れみの令はご存知でしょう。幕府の第5代将軍
徳川綱吉が制定したもので、「天下の悪法」とまで言われます。ただ、
いろいろ誤解もあって、「生類憐れみの令」という名前の法令はないんです。
綱吉が出した一連の関係法令をまとめてこう呼んでいるんですね。

で、綱吉は祐天上人に帰依していました。これは、綱吉には跡継ぎの子ができず、
綱吉の生母の桂昌院が、上で書いた、難産に苦しむ妊婦を祐天上人が
何人も助けたことを聞きつけて、江戸城に招いて法話を聞くようになったんです。
そこで、祐天上人は綱吉に対し、ご政道へのアドバイスも行ったようです。

綱吉といえば、「犬公方」と呼ばれ、過度に犬などの生き物を大切にしたことで
知られますが、一連の生類憐れみの令の中で最初に出されたのは、
人間の捨て子に対するものでした。当時、捨て子が都市でも農村でも
横行しており、それを禁止し、保護するためのものだったんです。
それがだんだんに、他の生類にも広がってエスカレートしていったわけです。

4万匹の捨て犬を収容したとされる中野の犬屋敷


この背景には、祐天上人からの影響があるのかもしれません。
また、「累が淵」の事件も、祐天上人への綱吉の帰依が厚かったことから、
生類憐れみの令とからめて子捨て、子殺しの話が作られ、
全国に広まっていったのかもしれないんですね。

大樹寺の位牌 中央が綱吉


さてさて、最後に、徳川綱吉身長124cm説をご紹介して終わりにします。
現在の愛知県にある徳川家の菩提寺、大樹寺(だいじゅじ)には、
徳川歴代将軍の位牌がありますが、この位牌は将軍が亡くなった時の身長と
同じサイズで作られているとされていて、綱吉のものは124cmです。
これはさすがに、いくら江戸時代の平均身長が低いといっても異常で、
もし本当にそうなら、低身長症が疑われます。

ただしこれ、綱吉の墓が発掘されているわけではないので、
はっきりしたことはわかりません。綱吉は母親の桂昌院にべったりのマザコンだった
という話もあり、そういったさまざまなコンプレックスから、
生類憐れみの令が出されたというのは、自分はあってもおかしくない気がしますね。
では、今回はこのへんで。






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