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皇位簒奪の話

2018.08.19 (Sun)
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「平成」が終了するまで、あと8ヶ月ほどですか。
次の元号は何になるんでしょうね。平成31年4月30日で平成が終わり、
5月1日から新元号になるということで、混乱もありそうです。
今回は「皇位簒奪 こういさんだつ」についてのお話です。

さて、「皇位簒奪」とは、Wikiによれば、「本来、皇位継承資格がない者が
天皇の地位(皇位)を奪取すること。あるいは継承資格の優先順位の低い者が、
より高い者から皇位を奪取する事。ないしそれを批判的に表現した語」
と出てきます。ただ、皇族同士が皇位を争った場合は、
自分の感覚では、皇位簒奪とは言い難い気がします。

実際には、この語は「天皇家の血筋でない者が皇位につこうとした」場合に
使われることが多いんじゃないでしょうか。では、そういうケースがどのくらい
あったかというと、けっこうな数の人物があげられます。
ですが、その中には議論が分かれているものも多いんですね。

ところで、みなさんは皇統譜というのを信じておられるでしょうか。
初代の神武天皇から始まり、今上陛下が第125代天皇となるというもので、
自分は祖父から、戦前は「神武、綏靖、安寧、懿徳・・・」という
皇統譜を学校で暗記させられたという話を聞いたことがあります。

で、これについて、自分は古代の系譜は信じられないと考えています。
考古学的には、日本の古代において、ある一つの血統がずっと尊重されてきた
という形跡が見られないんです。例えば、天皇の跡を継ぐのは皇太子ですが、
(天皇や皇太子は後代の言葉ですが) 幼くして亡くなる場合もありますよね。

ですが、古代において、大々的に埋葬された高貴な血筋の
子どもの古墳というのは見つかっていません。
その他、さまざまな根拠から、古い時期の日本の大王は、
有力豪族による持ち回りだったんじゃないかと考えます。
これ、自分だけではなく、そう指摘する研究者は多いんです。

では、現在の天皇家につながる皇統がいつごろ生まれたのか?
はっきりとはわかりませんが、継体天皇以降ではないかと考える歴史家が多いですね。
少なくとも、第29代欽明天皇から今上陛下まで男系の血統が続いているのは
間違いないと思います。ただし、南北朝時代には皇統は混乱します。

さて、欽明天皇以後、皇位簒奪をねらったとされる人物の一番目は、
「蘇我入鹿」ですね。戦前の歴史教科書では、大悪人として取り上げられていました。
入鹿は崇峻天皇を弑逆していますし、天皇にしか許されない儀式を行ったという
話もあります。何よりも、『日本書紀』が書かれて、天皇家の血統の特別性が
周知される以前の人物であることが大きいでしょう。

蘇我入鹿
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入鹿は乙巳の変で中大兄皇子(天智天皇)や中臣鎌足に殺されますが、
血まみれの姿で皇極天皇に助けを求めた入鹿が、「私に何の罪があるか、お裁き下さい」
と言ったのに対し、中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」
と奏上し、それを聞いた天皇は御簾の奥へと下がられたことになっています。

次は「弓削道鏡」でしょう。一介の祈祷僧が、孝謙天皇(称徳天皇)の看病禅師として
宮中に入って寵愛を得、太政大臣、法王にまでなり、さらに孝謙天皇が、
次代の皇位を道鏡に譲ろうとしたところ、和気清麻呂が「天皇家以外の血筋を
皇位につけてはならない」という宇佐神宮の神託を持ち帰り、

功臣 和気清麻呂の十円紙幣 顔のモデルは木戸孝允とされる
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その野望は潰えたということになっています。ただ、道鏡本人に天皇になろうとする
意志があったかどうかははっきりしません。それと、道鏡は巨根で孝謙天皇を
たぶらかしたという話も有名ですが、2人が出会ったとき、
道鏡は60歳を過ぎていましたので、自分はこれは怪しいんじゃないかと思います。
伝説の域を出ないんじゃないでしょうか。

次は「平将門」。関東で反乱を起こし、自らを「新皇」と称し、
独自に文武百官を任命するなどのことをしています。ただ、この時代に、
将門が京都まで攻め上って天皇家を滅ぼすのは物理的に無理でした。実際、
短期間で、同じ関東勢力によって討たれてしまいます。オカルト的には、平将門は
日本でも特別な力を持った怨霊として『帝都物語』などに登場しますね。

将門の首塚
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さて、この他にも「足利義満」「織田信長」などの名前が上がることが多いんですが、
両名とも、天皇位に就こうとする意志を公的に表明したという資料は
残っていません。「そうであったとすれば面白い」という
色メガネ的な部分もあるんだと思います。

関連記事 『邪馬台詩と足利義満』

さてさて、ここまでざっと見てきましたが、自分は、天皇家が長きに渡って
続いた最大の原因は、天皇は武力統率者ではなく、祭祀者であったためと考えています。
日本の歴史をふり返って、天皇は直属の軍隊を持っていませんでした。
反乱が起きた場合などは、臣下に勅を下してそれを収めさせたんですね。
その形が「征夷大将軍」となって、鎌倉から江戸時代まで続きました。

もしこれが、直属の軍隊が正面からぶつかったとすれば、
天皇家の軍が負けると、天皇も殺されてしまっていたかもしれません。
ヨーロッパはそういうケースが多いんです。
もう一つ、天皇は祭祀者であり、天皇家が滅ぶと日本も同時に滅亡するといった
神格化の影響も大きかっただろうと思います。天皇家に弓を引けば、
自動的に「朝敵・賊軍」となってしまい、いかなる大義も失われてしまうんですね。

なぜこういう形になったかの原因はいろいろと考えられますが、
一番は、隣国と地続きではない島国だったせいじゃないでしょうか。
外国勢力、異民族に、徹底的に攻め滅ぼされることがなかったから。
では、今回はこのへんで。

錦の御旗をおし立てて進む長州軍
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コメント
>日本の古代において、ある一つの血統がずっと尊重されてきたという形跡が見られないんです

そんなことは、ありません。論語にも東夷は「血統を大切にする」と孔子がうらやんでいますし。
日本民族であると考えられる西アジアのヒッタイト(ひむかい人)も周りの異民族から「血統を大切にする」といわれていました。戦後のGHQに忖度した御用学者に影響されすぎているのでは?
反論 | 2019.05.16 01:32 | 編集
コメントありがとうございます
自分は、記紀の欽明天皇以前の系譜は
雄略天皇(ワカタケル)のような考古学的傍証があるもの以外は
真に受けてはいませんので
それをもとに何かを説くことはしてません

bigbossman | 2019.05.16 02:06 | 編集
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