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拝み屋とコオロギの話

2018.08.27 (Mon)
もうだいぶ昔のことになります。昭和20年代も後半の頃。
さすがに闇市はなくなり、バラック小屋もどんどんと建て替えが進んでいた
時代の話です。私はそのとき11歳でした。
あることがあって、地方都市に住んでいた祖母のもとに引き取られていたんです。
そのあたりの半年間は、小学校にも行ってませんでした。
当時、祖母はまだ60代だったと思いますが、腰は曲がり、
髪は真っ白でした。いつも同じ着物を着て、風呂にもほとんど入ってなかった
はずですが、体からは強いお香のにおいがしていました。
小さな顔は、髪は白いのにほとんどしわがなく、
目には強い光があって、見つめられると怖かったのを覚えています。
祖母は、その町の拝み屋をしていたんです。

ええ、当時はみな貧しく、病気になっても簡単に医者に行くことはできませんでした。
また、医者に行ったとしても、治らない病気が多かったんです。
やっと結核の特効薬のストレプトマイシンが日本に入り始めた頃、
と言えばおわかりいただけるでしょうか。ですから、
まだまだ拝み屋の需要はあったんです。私が祖母の家にいた間、
2日に一人は、拝み屋のお客さんが来ていたように記憶しています。
一番多い頼み事は、子どもの疳の虫を封じることでした。
ああ、疳の虫と言っても、ご存じない方もおられるでしょう。
これは乳児の夜泣き、ひきつけ、かんしゃくなどの異常行動を総称した言葉で、
今はなんというのでしょうか。とにかく、赤ちゃんを連れてこられる方が
多かったんです。祖母が虫を封じる場面は何度か見ました。

赤ちゃんの手のひらを取って、祖母がそこに筆で何かを書くんです。
その頃はわかりませんでしたが、今思えば梵字だったんじゃないでしょうか。
それから、その手を粗塩でもみ洗いします。すると、小さな指の先から、
白く長い虫が何匹も出てくるんです。祖母はそれを細く切った和紙で
すべて取り、そのままくるんで、祭壇で燃やすんです。
ええ、祖母の家には、ひと部屋の半分ほども使った、
白木に白布をかけた祭壇が祀られてあったんです。
その他、大人の病気の相談に来られる方もいましたが、祖母は、
「わしには病気は治せんよ」と決まって答えていました。
それでも、手を引かれるようにして、病人のいる家に連れて行かれることもありました。
ただ、拝み屋なんて迷信だ、という風潮も強くなってきていて、

祖母に頼みにくるお客さんは、祖母と同年代のお年寄りの方が多かったです。
あと、失せ物探しというのもありました。指輪とか証券、土地の権利書などが
紛失した、しまい忘れした、そういうとき祖母のところに来られるんです。
そういう場合は、祖母はお客さんを後ろに座らせて、
祭壇の前で長いこと祈祷をします。それから、失せ物のありかを和紙に書き、
「ここを探してみるとよい」そう言ってお客さんに渡すんです。
祖母は、事前にお金を受け取ることはありませんでした。
疳の虫が治まった、あるいは失せ物が見つかった。そういうときだけ、
お客さんが封筒に入れたお金をもってこられるんです。
お金ではなく、箱いっぱいの野菜などというときもありましたね。
まだまだ食糧事情が悪かったので、それはそれで有難かったのですけども。

それと、特別なお客さんが来たときには、私は「外で遊んでおいで」と
祖母に言われ、小銭をもらって家の外に出されることもありました。
ただ、学校に行ってないものですから、遊ぶ友だちもおらず、
とぼとぼと町の中を歩き回っていただけでした。
ただ、私は子どもながら、その特別なお客さんが何を頼み来るのか、
気になってはいたんです。あるときです。私は縁側で昼寝をしていました。
顔にあたる風が心地よく、うつらうつらしていると、
お客さんが来た気配がしました。祖母はお客さんを招き入れると、
私の様子を見にきましたが、私が寝ているとみて起こさず、
そのままお客さんと話を始めたんです。私はそれを、聞くともなく、
断片的に耳にしてしまいました。

「悪いやつに騙された、命より大事な金をみなとられた」 「親戚だと思って
 信用していたのに」 「憎い、憎い、殺しても飽き足らない」
「なんとか報いを受けさせてほしい」こんな言葉が聞こえてきました。
祖母はそれらの話をすべて聞いてから、「ようわかった、やるだけやってみよか」
そう答え、お客さんは帰っていったようでした。
それから祖母は私のところに来ると、枕元で、「お前、起きておるな。
 ちょうどよい、わしも近頃は体がしんどうて、手伝いがいると思ちょった」
そう言って私を起こし、外に出ていっしょに裏山の方へ向かったんです。
祖母の家から200mほども離れていたでしょうか。
山に入る道がある脇手に、防空壕があったんです。当時は、まだ戦時中の
防空壕がそこかしこに残っていて、その中で暮らしている人もいました。

せまい入り口を体をかがめて入ると、9月でしたけれど、中はむっとする暑さで、
奥のほうに、ムシロが何枚も重ねられていました。そして小さなものが
その前に散らばっていたんです。祖母は「コオロギだよ。怖がらなくていい。
 かわいいものさ」そう言い、ムシロの一枚をはがしました。
すると、中にはびっしりと小さなコオロギが・・・
産卵床と言うんだそうですね。コオロギはある程度の温度があれば、
1年中卵を産んで繁殖することができるそうです。
祖母は無数のコオロギの子がうごめく前に座り込み、「見ててごらん」
そう言って、少し大きくなったコオロギの一匹一匹の背中を、
指の腹でさわり始めたんです。「お祖母ちゃん、何をしてるの?」
「魂を調べてるのさ、頼まれた御仁と似ている魂をな」

どういう意味かわかりませんでした。「おおこれか」 祖母は懐から小さな箱を出して
一匹のコオロギを入れ、私の手を引いて来た道を戻りました。
それから、「よく見ておくがよいよ」そう言って、
箱に入ったコオロギを祭壇に供え、長い間祈祷をしていましたが、
「よろしいか、取ってもよろしいか。そうか、有り難い」大きな声を出すと、
祭壇にあった懐刀をとって鞘から抜き、コオロギの箱を開けて
中を突き刺したんです。そのときに、家の中のというか、私がいる世界の
空気が変わったように感じました。なんというか、暗闇で急にマッチの火が
消えたみたいな。においもしたんです。まさにマッチを消したときにする
硫黄のにおいを何倍にも強くしたような。それから数日して、
前のお客さんがやってきて、祖母に厚い紙包みを置いていったんです。

その日以来、私はコオロギの世話を手伝わせられるようになりました。
ムシロを外して産卵床に空気を入れ、霧吹きで水をかけ、
鶏の餌と細かく刻んだ野菜くずを与える仕事です。
無数の小さなコオロギがうごめく様子は、何度見ても気味が悪く、
今でも夢に出てくることがあるほどです。・・・これで、話は終わるつもりでしたが、
もうここまで言ったのだから、最後まで話してしまおうと思います。
最初のほうで、私はある事情で祖母の家に引き取られたと言いましたが、
母が私を置いて家を出ていったんです。父は出征して、長いこと生死不明でした。
戦争が終わっても安否はわからず、大陸に出ていましたので、ソ連の捕虜になった
可能性もありました。ずっと母と私が留守を守っていたのですが、苦しい生活でした。
それが、父が死んだという信頼できる情報が入ってきた翌日、

母はふらっと家を出てそれっきり、姿を消してしまいました。残された私は、
父の母、祖母に引き取られて暮らすことになったというわけなんです。
ある日、祖母といっしょにコオロギの世話をしていたときです。
ムシロを外して水をかけていると、中くらいの大きさのコオロギが一匹、
跳ねて私の腕に乗りました。私は「キャッ」と言って腕を振り、
コオロギは祖母の首筋に落ちたんです。そのとき、シャッと祖母の腕がすごい速さで
動いて、コオロギを指の間に捕まえると、「見つけた、見つけたぞ」
私の目の前にコオロギをつまんだ指を突き出し、「これは、お前の母親だ」
憎々しくそう言って、跡形もなくなるくらい強くはさみつぶしたんです。しばらくして、
母が死んだ、という知らせが入ってきました。その頃は進駐軍ではなくなっていましたが、
アメリカ軍基地の近くで、それはそれはひどい死に方をしたということでした。






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