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新田義貞と3本の刀

2018.10.28 (Sun)
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今回はこういうお題でいきます。日本史のカテゴリですね。
あんまり怖い話にはならないと思います。さて、新田義貞は、『太平記』に
登場する武将の中で、楠木正成、足利尊氏と並ぶ3本の柱の一人ですが、
他の2人に比べるとマイナーというか、歴史的評価もあまり高くないですよね。

『太平記』は戦前、天皇に忠義をつらぬく物語として皇国史観に利用され、
その反動から、戦後はあまり読まれなくなりました。
中学校の古典教材に『平家物語』は出てきても、『太平記』が出てこないのは、
『平家物語』のほうが文章が優れてるためだと思いますが、
そのあたりの事情もあるんじゃないでしょうか。

足利尊氏
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その分、実証的な歴史研究が進み、戦前は悪逆非道呼ばわりされていた
足利尊氏が、武士階級の利益の代弁者としてやむなく戦わざるを得なかったとか、
忠義の鏡とされた楠木正成は、「悪党」という、商業にも関わった
反体制的な集団の一員であった、などというように再評価されてきています。

ただ、新田義貞についてはあまり評価は変わらないんですね。
もちろんヒーローの一人ではありますが、育ちのよいぼんぼんだったとか、
戦いが下手だったのに、源氏の正嫡だったために総大将にされたとか、
そういう内容が多いんです。

まあこれは、鎌倉幕府を滅ぼすまでは破竹の勢いだったのが、
その後の足利高氏との戦いではいいところがなく、
湊川で楠木正成を自害させてしまったことや、最期も、流れ矢にあたるという
あっけないものだったことから、そう言われてもしかたがない面があるでしょう。

さて、この新田義貞ですが、3本の名刀を持っていたとされます。
ただし、どれも史実かどうかは疑わしい話です。まず一本目の刀は、
前にも記事に書いていますが、「鬼切安綱」と呼ばれるものです。
これは新田が、戦いに出た最初から持っていたと見られます。

鬼切安綱は、もとは坂上田村麻呂が伊勢神宮に奉納したものを、
源頼光がもらい受け、さらに配下の四天王の一人である渡辺綱に与え、
それが八幡太郎義家から新田家に伝わり、代々家宝として受け継いできたとされます。
渡辺綱がこの刀で、酒呑童子の一の家来、茨木童子の腕を斬り落とした話は有名で、
そこから「鬼切」の名前がついたわけです。

茨木童子と戦う渡辺綱
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この刀は、藤島の戦いで新田の首を上げた斯波高経の手に渡り、
足利尊氏がその刀を求めたところ、高経は偽物を渡し、
あとで尊氏がそのことを知ってたいそう悔しがった、という話が残っていますね。
高経の後は最上家に渡り、現在は北野天満宮に奉納されているようです。

もう一本の刀は「鬼丸国綱」、新田が、倒した鎌倉幕府の北条家から
奪い取ったものです。この刀にも鬼に関わるエピソードがあり、
鎌倉幕府の初代執権、北条時政が毎晩夢の中で小鬼に苦しめられており、
その後、別の夢に白ひげの老人が現れて、「私は太刀国綱である。刀身が錆びて
鞘から抜け出せないので、小鬼を退治したければ錆をぬぐってくれ」と言った。

時政がそのとおりにして、寝所の壁に立てかけておくと、夜中に倒れて
刀身が鞘からするすると抜け出し、近くにおいてあった火鉢の足を斬った。
見るとそれは銀で作られた鬼の形をしており、それ以来、
夢の中で子鬼に苦しめられることがなくなった、という話があります。

鬼丸国綱
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あと、二刀流といえば宮本武蔵が有名ですが、『太平記』には、
新田義貞は戦いに際し、この「安綱」 「国綱」の2本を両手に振り回して、
飛んでくる矢をすべてなぎ払った、と出てきます。国綱のほうは、
上記の斯波高経から尊氏の手に渡り、足利家で代々伝えられた後、
織田信長、豊臣秀吉を経て、現在は天皇家の御物になっています。

さて、最後の1本。これが最も有名でしょうが、どんな刀なのか、
名前もわからないんですね。1333年、鎌倉に大群を率いて迫った新田義貞は、
三方が山で囲まれる天然の要害である鎌倉を攻めあぐね、
海側から入ろうとしましたが、なかなか潮が引かない。
そこで、稲村ヶ崎において、腰に差していた黄金拵(こしらえ)の太刀を

龍神に祈りを捧げて海中に投じると、たちまちに潮が引いて進軍することができ、
この翌日の戦いで、鎌倉幕府と北条氏一門は滅亡することになります。
これは、『太平記』中の前半のハイライトシーンですが、
海に投じられた刀については、よくわかってないんですね。
安綱や国綱ではないことは確かです。

鎌倉 稲村ヶ崎
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まあ、史実ではないのだから、わからないのは当然と言われればそれまでですが、
それも夢のない話ですので、少し考えてみると、まず黄金拵というのは
鞘や柄のことで、刀身そのものが金でできていたわけではないでしょう。
金はやわらかく刃もつけにくいので、実用にはなりません。

それと、絵などには通常の太刀が描かれることが多いですが、それだと、
その後の戦いに困りますよね。脇差、あるいは懐刀のようなものじゃなかった
でしょうか。たしか、NHKの大河ドラマ『太平記』でも、
短い刀として考証されていたような記憶があります。

さてさて、ということで、なかなかスポットのあたりにくい新田義貞に
ついて書いてみました。もし、南朝側の総大将が、源氏の嫡流の新田ではなく、
身分の低い楠木正成になっていたら、その後の歴史は変わっていたかもしれません。
では、今回はこのへんで。





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コメント
 こんばんは、野崎でございます。

 過去ログ見てたら気になる記事があったもので……

 義貞公、群馬県民にとっては「かるたのお陰で名前は知ってるけど何したのかは知らない偉人」の一人なんです。
 居館の址は現在反町薬師になっていて、正月は初詣や厄除けで近隣の人々が集まり、境内には毎年数軒の屋台が出るのですが。
 その反町の裏手には妖しさ満点の看板を出してる占い師さんがいるんですが、気さくで話しやすい人でした。まあ、親しみやすさというのも商売道具なのかもですが(笑)

 ちなみに、他には田山花袋、内村鑑三、新島襄などの人々がかるたの読み札になっていますが、教科書に載るような知名度の高い人はいないという……。
 今群馬のかるたを作るなら、小栗忠順や相沢忠洋、冑を着けた古墳人(仮名)はきっと外せないでしょうね。

 では、失礼します。
野崎昭彦 | 2018.11.12 23:19 | 編集
コメントありがとうございます
「新田義貞は地味」と本文で書きましたが
戦前はそうでもなかったんです
刀を海に投じたエピソードはよく知られていました
ですが、皇国史観を助長した書で史実でもないということで
戦後になって「太平記」が排斥され
読まれなくなったことが大きいと思います
bigbossman | 2018.11.13 08:07 | 編集
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