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仏教書としての『日本書紀』

2019.05.20 (Mon)
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天照大御神と瓊々杵尊

今回はこういうお題でいきます。かなり地味で固い内容になるので、
スルーされたほうがいいかもしれません。「日本神道は宗教としては
特異である」と言われることがあります。一般的な宗教の要件としては、
イエス・キリストのような創始者がおり、聖書のような聖典のあることが
あげられますが、神道にはそのどちらもありません。

それと、守らなくてはならない戒律も、はっきり言葉で定められているという
わけでもないんですね。あえて言えば、『古事記』 『日本書紀』には
日本神話が書かれていますので、これが聖典とみなされることが多いんです。
ただ、『古事記』はともかくとして、自分は、『日本書紀』には
仏教を啓蒙するための書としての意図があると考えています。

もちろん、『日本書紀』の最初は「神代の部」から始まり、
天照大神の孫である「瓊瓊杵尊 ににぎのみこと」が高天原から、
日向の高千穂の峰に天孫降臨します。ここから万世一系で、
現天皇家まで血筋が続いているというのが『日本書紀』の主張です。

これは、一種の「王権神授説」と見てもいいかもしれません。
実際に万世一系で王統がつながっているかどうかはともかく、
政治的に他の豪族の上に立ち、民衆を支配するための理屈が、
日本神道という宗教を軸にして述べられているわけです。

舎人親王像
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では、そういう内容なのに、どうして『日本書紀』が仏教啓蒙的な
側面を持つなどと言うかというと、これはつくられた時代を考えなくては
なりません。『日本書紀』のはじまりは、天武天皇が川島皇子以下
12人に対して歴史書の編纂を命じ、舎人親王らの撰で、
養老4年(720年)に完成したことになっています。

このときは奈良時代で、仏教が精神面を支配する世の中になっていました。
「神仏習合」という言葉がありますが、日本の土着信仰である神道と、
仏教信仰が融合し一つの信仰体系として再構成されたもので、
「本地垂迹説 ほんちすいじゃくせつ」が唱えられました。

本地垂迹による、仏と日本神話の神との対応図
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日本の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた
権現であるとする考え方のことで、例えば、天照大神の本地は、
宇宙神である大日如来とされます。公式には仏が主体で、神道は従。
この考え方は、明治維新にともなう「神仏判然令」まで続くんですね。

また、編纂者である舎人親王も、深く仏教に帰依していました。
ですから、仏教的な視点に立って『日本書紀』をながめることは
きわめて大切なんですが、自分は、どうもこの視点を軽視している
研究者が多いような気がしているんです。

大日如来(天照大神)
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さて、『日本書紀』には「仏教公伝」の様子がくわしく書かれています。
みなさんも社会の授業で勉強したことを記憶しておられるでしょう。
「崇仏論争」では、欽明天皇が百済から伝来した仏像を群臣に見せて、
「これを礼すべきかどうか」と尋ねたのに際し、古くから日本神道の
儀式を司っていた物部尾輿は、「国神が怒ります」と答えます。

これに対し、開明的な蘇我稲目が、「西の諸国はみな仏を礼しており、
日本だけこれに背くことができません」と受容を勧めました。
この後、崇仏派と廃仏派の対立は激化し、ついに蘇我馬子と
物部守屋の間で戦争が起こって、物部氏が滅ぼされることになります。

つまり、はっきりとした形で仏教側の勝利が書かれているわけです。
この過程で、廃仏派は仏像を川に投げ込んだり、3人の尼をとらえて
裸にし、尻をムチで打つなどの激しい廃仏毀釈を行ったことに
なっています。まあ、実際にそういうことがあったかはわかりませんが、
仏を信じなかった物部側が、罰を受けて滅びたととることもできます。

蘇我馬子と物部守屋
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それから聖徳太子の存在ですね。近年、「聖徳太子の事績の多くは、
後世に付加されたものである」とする研究が増えてきています。
有名な「十七条憲法」なども、使われている字句から、
聖徳太子がつくったという事実が疑われているんです。

これは自分もそうだと思います。厩戸皇子という有力皇族がいたのは
間違いないでしょうが、その人物が仏教の守護者的な「聖徳太子」で
あったという伝説がつけ加えられたのは後世のことで、『日本書紀』の
記述も、意図的に聖徳伝説を広めるため書かれたものでしょう。

このように考察すると、『日本書紀』は、一面から見れば、
古代日本がどのようにして仏教を受容してきたかということを
説いているとも言えるんですね。ただし、仏教国となったからといって、
神道を完全に捨て去らなかったのは、
古代日本人の優れた知恵であったとも思います。

戦いの先頭を走った宇佐神宮の神輿
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さてさて、『日本書紀』が完成した720年は、「隼人の乱」という、
九州南部に住む隼人族が朝廷に対して大規模な反乱を起こしています。
戦いは1年以上も続き、数千人という、当時としてはけた外れの
死傷者を出した上で、隼人側の敗北に終わっています。このとき、
大分県宇佐市にある宇佐神宮に「仏」が降臨し、

その指示に従った神宮では、神輿を戦いの場に走らせて勝利に導いたと
されますが、これが神仏習合が深まる大きなきっかけと
なりました。やがて752年、聖武天皇により東大寺大仏の
開眼法要が営まれ、日本は仏教による「鎮護国家」をめざしていくことに
なるわけです。では、今回はこのへんで。

東大寺毘盧遮那仏
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コメント
日本における仏教は、当初は人々に理解されず、八百万の神の一種と捉えられたようですが、神仏習合過程で次第に仏の地位が上がり、日本は仏教国として今に至りますね。
これは、私個人的な感想ですが、日本書紀には、仏教の受容に対して、崇仏派と廃仏派と別れて戦いがあった。または、蘇我氏崇仏派、物部氏廃仏派という位置付けを読者に与えようとしているように感じられます。しかし、実態は物部氏も寺院をたくさん建立していますし、神道に固執していたわけでは無いような気がします。当時、天皇も国教としてどちらを推進するかという政治的な方針を示してはいませんから、天皇を取り巻く側近氏族も明確な方向性を持っていたとは思えない。一時的に、両派に分かれて戦ったとしても、それは政争、権力闘争の一環であり、本来の宗教戦争とは無縁のものと云う気がします。例えば物部守屋の滅亡も、表向きは宗教戦争に見えても、裏にあるのは皇位継承抗争だと思います。それは純粋に国のためになる皇位選択というより、神輿として担いで氏族の優位性を達成しようという欲望の結果であるように見えてしまいます。
形名 | 2019.05.31 18:22 | 編集
コメントありがとうございます
前に天武天皇について書いたんですが
天武天皇は神道、仏教、そして陰陽五行思想に理解が深く
そのすべてを振興する政策を取ってるんですね
日本書紀はその天武の意をくんで書かれたものですので
各宗教についてまんべんなく配慮がされていると思います
bigbossman | 2019.05.31 18:51 | 編集
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