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アーカイブ 小野妹子の冒険

2019.06.19 (Wed)
今回はこういうお題でいきます。けっこう日本史の専門的な内容なので、
なるべくわかりやすく書いていくつもりですが、
あまり興味のない方はスルー推奨かもしれません。
表題の小野妹子は、第2回の遣隋使として中国に赴いた人物ですが、
生没年もよくわからない謎の人なんですね。もちろん男性です。

さて、西暦600年(推古8年)、『隋書』倭国伝に、隋の初代皇帝、
高祖文帝のもとに、倭国からの使者が訪れたとあります。この使者が
妹子かどうかははっきりしていません。このとき、倭国はまだ
国際外交にうとかったようで、使者は国書を持参していませんでした。
そのせいか、『日本書紀』にはこのことは出てきません。

小野妹子
dser (1)

そこで文帝は、使者にいろいろ質問し、倭王の姓が「阿毎 あま」
名が「多利思北(比)孤 たらしひこ」、号が「阿輩雞彌 おほきみ=大王」
であることを聞き取りました。また、使者は倭国の政治について、
「倭王は天を兄とし、太陽を弟としている。だから、まだ天が明けないうちに
政務につき、弟である太陽が昇ったら、弟にまかせて政務をやめる」と答えます。

「あまのたらしひこ」は、「天垂彦 天から降臨した男性」という意味と考えられます。
また、政治形態については、内容が本当なら夜明けの時間しか仕事をしないことに
なるので、文帝は、「此大無義理 まったく理屈に合わない」とあきれて、
改めるように使者を教え諭します。まあ当然ですよね。

またこのとき、使者は、倭王の妻は「雞彌 きみ=君?」、
皇太子は「利(和)歌彌多弗利 わかみたふり」、王の後宮には女が6~700人いる
などのことを述べています。さらに7年後の607年(推古15年)、
また倭国からの使者が訪れますが、隋の皇帝は、
悪名高い第2代の煬帝にかわっていました。

遣唐使船 大陸への渡航は命がけでした
dser (5)

このときの使者が、小野妹子だと考えられます。で、妹子が持参したのが、
あの有名な、「日出處天子 致書日沒處天子 無恙 日の出ずる所の天子、
日の没する処の天子に書を致す つつがなきや」で始まる国書なんですね。
この文章は、当時、推古天皇の摂政であった聖徳太子が書いたものと
言われてきましたが、それに確たる証拠があるわけでもありません。

これを見た煬帝は、「蠻夷書有無禮者 勿復以聞 蛮夷の書に無礼があれば、
二度と私に見せるな」と激怒します。ただ、煬帝が怒ったのは、
中国を「日の沈む所」と書いていたからではなく、倭国の王が自称として、
煬帝と同格の天子という語を使っていたためです。
基本的に、中国では天子(皇帝)は一人だけであり、蛮夷である倭国の王は、
中国の冊封体制の下にあるべきと考えていたんですね。

しかしまあ、怒りはしたものの国書には答えねばならず、
煬帝は、裴世清(はいせいせい)という外交官吏に国書を持たせ、
妹子にはおそらく訓令書のようなものを持たせて倭国へ送り帰します。
訓令書の内容は、倭国の無礼をとがめ、天子ではなく王なのだということを
厳しく説いたものだったろうと考えられます。ここまでは『隋書』からの話。

旧壱万円紙幣の聖徳太子
dser (4)

さて、この続きが『日本書紀』に出てきます。裴世清一行とともに
倭国に帰りついた妹子は、朝廷において、自分が持参してきた訓令書は、
百済の国で盗まれてしまったと述べます。これは大失態なので、
妹子には流罪の刑が与えられますが、なぜか直後に赦され、
さらに昇進までしてるんですね。

ですから、この部分は、妹子が持ってきた訓令書の内容があまりにも
倭国にとって都合の悪いものだったので、推古天皇も、大臣の蘇我馬子も、
聖徳太子もみながナアナアで、盗まれて失くなってしまったことにしたのだろう、
というのが通説になってますね。倭国側では、
見なかったことにすればいいわけです。

裴世清は大歓待され、朝廷の庭に連れてこられて、そこに隋からの答礼品を
ずらりと並べ、煬帝の国書を読み上げることになります。
その内容が『日本書紀』に引用されているんですが、冒頭が、
「皇帝問倭 皇帝は倭の皇に問う」です。この部分は内容が改竄されていて、
本当は、「皇帝問倭」だったのではないかとする説があります。

推古天皇 大変な美人であったと『日本書紀』に出てきます
dser (3)

自分もその見解には同意です。この後、裴世清は饗応を受け、
小野妹子とともに中国に帰ることとなりますが、ここまでを読まれて、
何か違和感を感じませんでしょうか。このときの天皇は、第33代推古天皇
(炊屋姫 かしきやひめ)で、日本の歴史上、初めての女帝です。

ですから、女帝が珍しい中国では、そのことを知っていたら、
『隋書』の中で特筆されるはずですが、倭王が女だとは一言も出てきません。
さらに、最初で書いた使者の言葉をもう一度ごらんになって下さい。
「倭王は天垂彦、天から降臨した男性」となっていて、妻もいます。

あまりに不自然ですよね。このため、日本史上の謎の部分として、いくつもの説が
立てられているんです。一つは、「天皇が女であることを日本側が極力隠そうとした。
裴世清は、御簾ごしに推古天皇と対面したので、その姿を見ていない」
とするものです。まあ、絶対ありえなくもないでしょう。

蘇我馬子


次は、「聖徳太子が前面に出て、王としてふるまっていた」というもの。
これもありそうな話ですが、『日本書紀』のその部分には、聖徳太子の名前がまったく
出てきてないんですよね。それがちょっと困ります。最後の説は、
「推古天皇はお飾りで、叔父である蘇我馬子が実質的な大王として君臨していた」
とするものです。ただ、蘇我馬子は「天から降臨した」天皇家の者ではありません。

さてさて、ということで、みなさんはどう思われますでしょうか。
どの説も一長一短があるんですが、自分の考えは、
どれかを選べと言われたら、最後の蘇我馬子天皇説ですね。
ともかく、このあたりは日本史のかなり面白い部分で、『日本書紀』には、
いろいろ考えるヒントが隠されているんです。では、今回はこのへんで。

dser (2)




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