FC2ブログ

真言立川流と後醍醐天皇

2019.06.20 (Thu)
アーカイブ147

今回は怖い日本史のカテゴリに入る内容です。
立川流(たちかわりゅう)は、オカルトフアンならご存知だと思いますが、
真言系密教の一流派で、淫祠邪教の代名詞のようにあつかわれています。
ちなみに、字は同じですが立川流(たてかわりゅう)と読むと、
故 立川談志師匠が創設した落語団体のことになります。

どっから話していきましょうか。まず、立川流の教義および儀式ですが、
これははっきりわかってはいません。というのは、立川流は徹底的に弾圧され、
独自の経典などは焚書ですべて失われているからです。
現在 残っているのは、みな弾圧した側から見た後代の文書です。

立川流 曼荼羅
gsgsgsgsk (1)

ということで、ここから書く内容は、きわめて不確かで、
後世の脚色が入ったものとしてお考えください。まず、立川流では、
男女の交合を、悟りを得るための最大の儀式としていたとされます。
これは、一般的な仏教で言われる女犯戒(にょぼんかい)にいきなり反してますね。

なぜ、立川流がこのような教義を押し立てるようになったか。
ルーツは2つあると考えられます。まず一つめは、古代インド哲学にある性愛術、
『カーマスートラ』などからの影響。もう一つは、
東洋に古くから伝わる陰陽思想でしょう。
どちらも、根源的な仏教とはあまり関係のないものです。

インド カジュラーホの性愛寺院
gsgsgsgsk (4)

女が陰、男が陽、この2つが揃ってこそ物事は完全なものになる。
だから女犯戒は間違っているというわけです。
これは立川流独自の『理趣経』の解釈とされています。また、立川流では、
邪神とされるダキニ天を拝し、「髑髏本尊」を祀ったという話も知られています。

まず、選りすぐった髑髏を探し出してきて加工する。これを祭壇に据えて、
夜ごとに香を焚き、真言を千回唱える。さらに、毎日山海の珍味を備えて、
その前で僧侶とパートナーの女が昼夜生活をともにし、交合の際の愛液をぬる。
そうして、8年の歳月を経て髑髏本尊が完成する。

こうしてできた髑髏は、人の望みをかなえたり、将来を予言したりするとされます。
また、8年間をともに暮らした男女は、その修業の過程で、
2人とも解脱して悟りをえることができる。つまり、髑髏本尊を作ることは、
目的でもあり、また手段でもあるということなんですね。

ただし、上に書いたように、これらのことが本当に立川流で行われていたかは
わかりません。そうではないだろう、という意見の研究者も多いんです。
立川流は後代、創作物などで興味本位にあつかわれることが多く、
そこでたくさんの不確かな逸話がつけ加わってしまいました。

さて、立川流を大成したのが、14世紀、南北朝時代の僧、
文観(もんかん)です。この名前は、文殊菩薩と観音菩薩の両者から
一字をとってつけたという大仰なものです。
もとは一介の修行僧で、大和や播磨の国で真言律を学んでいました。

その後、文観は師の紹介で後醍醐天皇に取り入り、護持僧として重用されます。
後醍醐天皇は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての
第96代天皇にして、南朝の初代天皇。下に肖像画を掲げましたが、
両手に法具を持った密教者としての姿に描かれていますね。

密教法具を持つ後醍醐天皇
gsgsgsgsk (5)

また、後醍醐天皇に、地方の悪党であった楠木正成を紹介したのも文観
とされますが、これはどうやら間違いのないところのようです。
楠木正成は後醍醐天皇を助けて大活躍し、新田義貞などと並んで、
『太平記』中の一大ヒーローとなります。

楠木正成
gsgsgsgsk (3)

さて、鎌倉幕府に不満を抱いていた後醍醐天皇は、
中宮安産を祈願する祈祷をすると見せかけ、
じつは鎌倉幕府を調伏するための儀式を行いました。この中心となったのが
文観ですが、ことは幕府に露見し、文観は硫黄島に流されてしまいます。
しかし、元弘の変で鎌倉幕府が滅亡すると、京都に戻り、
密教の中心であった東寺の長者、大僧正になります。

これは異例の出世であり、当時の仏教界では反発が強かったんですね。
1335年、突如、高野山の真言僧たちが山を下り、
立川流の僧の多くを殺害、経典をすべて焼き捨てるなどの大弾圧を加えました。
このとき、文観も東寺長者の地位を追われ、甲斐の国へ流されてしまいます。

加持祈祷をする文観
gsgsgsgsk (6)

この弾圧は、建武の新政中に起きたことで、
権力を掌握していたはずの後醍醐天皇にも、立川流が弾圧されて消滅するのを
止めることができなかったんです。このあたり、複雑な事情があるんだろうと
想像できますが、明らかになってはいません。

さて、この後の文観は、足利尊氏に追われて吉野へ逃れた後醍醐天皇に
つき従い、南北朝時代を生きて80歳で没することになります。
また、後醍醐天皇は1339年、満50歳で吉野で亡くなりますが、
『太平記』によれば、このとき、左手に経典、右手に剣を持ち、
自らの身体を使って北朝を呪いながら死んだとされています。

さてさて、立川流の実体はどのようなものだったのか?
なぜ弾圧されて滅んだのか? これらのことは歴史上の謎で、
自分もこつこつ調べてはいるんですが、やはり資料不足でよくわからない
んですね。ということで、今回はこのへんで。

gsgsgsgsk (2)




関連記事
スポンサーサイト

トラックバックURL
http://scoby.blog.fc2.com/tb.php/2030-26fe3b2b
トラックバック
コメント
文字通りとおりすがったら面白ネタやってるのでw
6/10のネタとも被りますが天皇即位の秘儀式のほとんどは立川流荼枳尼天法にある輪王灌頂法に基づく物ですよ。南朝由来でしょう。
特に天皇崩御の際に行われる先帝の亡骸と一夜を共にする真床襲衾は通常の同名儀礼と異なり食人儀式であった可能性が高いと考えております。
とおりすがり | 2019.07.01 19:06 | 編集
コメントありがとうございます
そうですね、現在の天皇家の儀式は古代の神道を
正確に再現したものではありません
古代の神道の形は文字にも残ってないし
各祝詞は比較的新しいものですし、よくわからないんですね
bigbossman | 2019.07.01 20:45 | 編集
管理者にだけ表示を許可する