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「狗子仏性」って何?

2019.08.17 (Sat)
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今回はこういうお題でいきます。かなり地味な仏教の話になりますので、
興味をお持ちでない方は読むのをスルーされたほうがいいかも
しれません。さて、「狗子仏性(くしぶっしょう)」とは、
禅宗の公案の一つで、その中でも特に有名なものですね。

禅宗が座禅を中心に修行するのは、ご存知だと思います。
曹洞宗は、「黙照禅(もくしょうぜん)」といって、一切の思考を廃し、
一心に座禅にうち込みます。ただこれ、何も考えないというのは
ものすごく難しいですよね。さまざまな雑念が次々にわきあがってくるのが
普通だと思うんですが、それを消すことが修行になるわけです。

禅宗のもう一方、臨済宗では「看話禅(かんなぜん)」を行います。
これは師から公案(問題)を与えられ、座禅をしながらそれについて
ひらすら答えを考えるという形です。で、答えが出ればいいという
わけじゃないんですね。寺の作務を行いつつ、座って公案を考える。

「狗子仏性」
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多いときには、日に数度も老師のもとに呼び出されて解答を求められます。
思考のかぎりをつくして答えを言っても、「それはダメだ」と老師に
あしらわれて追い返されてしまいます。その過程全体が修行であって、
ただ正解に到達すればいいということではありません。

さて、「狗子仏性」の公案について。このようなものです。
「 一人の僧が趙州和尚に問うた。狗子に還って仏性有りや無しや
(犬にも仏性があるでしょうか?)。趙州和尚は、無と答えた。 」

たったこれだけです。一般的に、公案は短いものが多いんです。

趙州和尚
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趙州和尚は、中国の唐の時代に実在した僧侶で、
120歳まで生きたとされます。ですから、
この公案ができたのはそれほど古い時代ではありません。
「狗子(くし)」は犬のことです。よく「犬の子」と誤解されるんですが、
そうではなく、人や物を表す接尾語の「子」です。

次に「仏性(ぶっしょう)」のほうですが、これはきわめて難しい。
「人間一人ひとりが持つ、仏としての本質、仏になるための原因」とでも
言えばいいでしょうか。ここからは、仏性について説明していきます。
仏教の開祖、お釈迦様は、人間は誰しも成仏できると考えていました。
ですから、弟子たちを悟りに導こうと、あれこれ苦心しています。

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ところが、お釈迦様の死後100年ほどして、仏教は20ほどの宗派に
分裂します。これを「部派仏教」の時代といいます。
ある宗派では、お釈迦様の個人崇拝が始まり、「自分たちにはとても
お釈迦様と同じ悟りは不可能である」と考えるようになります。

そこで、仏のひとつ下の位である「阿羅漢(あらはん)」をめざすんですね。
ただし、阿羅漢になるには出家して厳しい修行を積まなくてはなりません。
誰でもできることではないんです。こうして「上座部(小乗)仏教」
ができあがっていきます。自分自身だけが救われるための仏教です。

羅漢像、正式には阿羅漢の像
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これに対し、誰にでも仏になれる可能性がある、と説くのが
「大乗仏教」で、大乗は「大きな乗り物」という意味です。
成仏のための修行は、出家しなくても、生業に従事しながらでもできる。
これを「如来蔵思想」と言います。如来は仏のことで、
人間はその身体の中に仏がもともと潜んでいる。

このことを重視したのが、平安時代に最澄や空海が唐から持ち帰った
密教です(最澄は天台宗、空海は真言宗)。密教では、加持祈祷により、
自分の中の仏が宇宙神である大日如来とつながり、生きながらにして
仏になる(即身成仏)ことができるとしました。高野山では、
空海はまだ生きていて、毎日食事が奥の院に運ばれると言われますね。

真言密教の「即身成仏」
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ただ、これには深い知識が必要で、やはり誰にでもできることではありません。
そこで鎌倉新仏教において、インドから中国に渡った達磨大師が始めた
禅宗では座禅、浄土宗系では念仏、日蓮宗なら題目を唱える
という具合に、そこらの農民でも、野良仕事などの日々の生活の中で          
修行できる方法を取り入れていったんです。

といっても、座禅にはまとまった時間が必要で、禅宗は主に武士階級が
学びました。こうした流れの中で、『涅槃経』というお経では、
如来蔵思想を仏性という言葉で表現していて、日本では仏性という
語のほうが一般的になり、各宗派で用いられるようになりました。

さて、「狗子仏性」の話に戻って、犬には仏性はないんでしょうか?
上記の『涅槃経』には、「一切衆生悉有(しつう)仏性」という一句があり、
「人間をふくめて、すべての生き物は仏性を持っている」という意味です。
あれ、おかしいですね。趙州和尚の解答は「無」なので、
このお経の趣旨に反していることになります。

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そこで、この公案を与えられた僧は、必死になって考えるわけです。
ある意味、逆説的な問題なんですね。解答の一つとして、
この「無」は「有る・無い」の無ではなく、東洋思想的な「絶対無」
を指しているのだとするものがあります。

まあ、それも一つの答えではありますが、最初に述べたように、看話禅の
修行では、その過程が重視されます。どれだけ苦しんで弟子が
取り組んだかを老師は観ます。禅宗は「不立文字(ふりゅうもじ)」が基本で、
文字に書かれた模範解答ではなく、心と心の感応を重視しているんです。
長くなりました、では、今回はこのへんで。




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