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江戸の糞尿事情

2019.08.23 (Fri)


今回はこういうお題でいきます。カテゴリは日本史ですね。汚い話に
なりますので、苦手な方はスルーされてください。さて、かっぽれ節に
こういうのがあります。「♪沖の暗いに白帆が見える」、この後は
「あれは紀の国みかん船~」と続いて、豪商、紀伊国屋文左衛門が嵐の海に
船を出し、みかんを運んで財をなしたときのエピソードが歌われています。

で、これをもじった江戸小咄があるんですね。ある客が吉原へ行って
遊女と同衾した朝方、その遊女が布団の中でオナラをしてしまって臭い。
客は寝ているようだが、気づかれないように臭いを逃がそうと、
足袋をはいた足で布団の裾を持ち上げた。

すると、寝ていると思っていた客が目を開けてそれを見ていたので、
困った遊女は照れかくしに、「♪沖の暗いに白帆が見える」と歌います。
足袋を白帆に見立てたわけですが、すぐさま客のほうが、
「ほんに肥桶(こえたご)積んだのが」と返すんです。
臭いですが、なかなか粋な話だと思います。

江戸時代の汚穢舟と肥桶
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さて、糞尿を入れた桶が肥桶で、どうしてわざわざ舟に積んでいるかと
いうと、これは肥料にするために近郊の農地に運ぶんですね。
江戸時代には、紙、金属、布などすべてのものが
徹底的にリサイクルされていたのはご存知だと思います。

例えば着物は、ぼろぼろになって着られなくなると、赤ん坊のおむつや
雑巾にしました。それにも使えなくなると、細く切って編み、
下駄の鼻緒や紐にし、その後も捨てることはせず、
焼いて灰にして、回ってくる灰の回収業者に売りました。

糞尿もまた例外ではなく、ほぼすべてが回収されていたんです。
江戸の人口は、当時としては世界トップレベルで、
大量の糞尿が出ていました。ヨーロッパでは、これが道にまき散らされ
たので、それをよけるためにハイヒールができたなどと言われますが、

長屋の共同便所
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日本では、完全に回収され、主に野菜栽培の肥料として使われました。
現在、有機栽培の無農薬野菜は高価ですが、昔はそれが普通だったんです。
農業に使われていた肥料は、干鰯(ほしか)、油粕(あぶらかす)、
下肥(しもごえ)の3種が金肥と言われ、その中で下肥(人糞)は
安価で肥料分が多かったので、農家に人気がありました。

江戸初期の農学者、宮崎安貞の『農業全書』には、「草肥を細かく切った
ものに下肥をかけ、天日乾燥させたものを畑に用いる」とあり、
発酵させて使っていたんですね。自分は茨城出身で、昔はそこらに
肥溜があり、冬になって凍ると上に乗ったりしていたなんて話を
聞きましたが、さすがに実際に見たことはありません。

宮崎安貞
da (1)

で、この下肥、厳密なランクづけがあったんです。もっとも上等で、
高値で取引されたのが「勤番」、これは大名屋敷などから出たもの。
次が「町肥」、江戸市中の長屋など町人のものです。3番めが
「辻肥」といって、四つ辻などに設置された公衆トイレからのもの。
最も下等が「お屋敷」、牢屋敷から出たものです。

もちろんこのさらに上に、江戸城から出たものがあり、葛西出身の農民、
権四郎という人物がそれに目をつけ、「江戸城御用下掃除人」の役を
いただいて独占し、舟でお堀を経由して江戸近郊の農村に運んで
大きな財をなしたということです。ちなみに、「勤番」の値段は、
「町肥」の5倍程度とされていました。

やはり、食べているものが武士と町人では違うんでしょうね。
町肥の値段は大人1人の1年分が、時期によっても違いますが
だいたい二分くらいで、これは一両の4分の1にあたり、
現在のお金にして5万円以上にはなると思います。

肥取り屋には女性もいた
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さて、「肥取りへ 尻が増えたと 大家言い」という川柳があります。
長屋の住人が共同便所で出した下肥は、肥取りと呼ばれる
専門業者が取りに来て、ついでに掃除もしていくんですが、
その支払はすべて長屋の大家がもらう決まりになっていました。

ですから、もしその長屋に10人が住んでいたとすると、50万円の
収入になります。江戸時代の大家は、その長屋の持ち主ではなく
地主から給料で雇われた者ですので、貴重な現金収入になりました。
「店中(たなじゅう)の 尻で大家は 餅をつき」意味はわかりますよね。
長屋の店子の肥を売ったお金が、正月の餅代になるということです。

ただし、大家は正月は店子の面々に餅を配らなくてはなりませんでした。
「とんだ 可愛お供え 大家くれ」長屋の家々に大家が餅を配ったが、
金がなかったせいで小さいものになってしまったという意味でしょう。
落語では「大家といえば親も同然」というセリフが出てきますし、
そんな感じで、何くれとなく住人の世話を焼いていたんです。

江戸の長屋の構造
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さてさて、最初の話に戻って、隅田川などから張り巡らされた運河には、
肥桶を乗せた舟がつねに行き来していて、「汚穢舟(おわいぶね)」
と呼ばれていましたが、さすがに汚い名前なので、
いつしか権四郎の出身地からとって「葛西舟」と呼ばれるようになり、
遊女が白足袋を立てて布団を持ち上げるところへ つながっていきます。

ということで、江戸の町には上水道はありましたが、さすがに下水までは
整備されておらず、そのかわりに完璧な回収システムができあがっていました。
いろいろ調べてみるとわかるんですが、このことだけでなく、
江戸の暮らしは、世界の同時期の他の都市と比較して、
先進的な部分が多かったんですね。では、今回はこのへんで。

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