怖い古代史3(橿原宮)

2013.12.27 (Fri)
そうですね、今回は橿原遺跡の話でもしましょうか。
『古事記』によれば、初代神武天皇は日向の高千穂を出発して
あちこちに逗留しながら東上し、熊野をまわって大和に入り、
アマテラスやタカムスヒ神の力を借りて荒ぶる土地神を倒し、
畝火の橿原宮において天皇に即位します。

これが辛酉の歳のことであり、このまま西暦に換算すると紀元前660年となり、
縄文晩期から弥生時代の初期にあたります。
なぜこのように古い時期に神武天皇の即位が設定されたかについては、
有名な那珂通世の「辛酉革命説」がありますが、ここでは詳しくはふれません。

この神武東征については、何らかの史実を反映したものであるとする説から、
後代の応神天皇の事績をなぞらえたものであるとする説、
8世紀の隼人の反乱に配慮した記述であろうとする説などがあり、
真相は定かではありません。また、この神武東遷は、
『三国志』で有名な邪馬台国の東遷と係わりがあると説く人もいます。

さて、即位の地橿原には「橿原遺跡」という遺跡があります。
昭和13年から始まった紀元2600年記念事業にともなって
神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から、
縄文時代後期~晩期の大集落跡と樫の巨木の根が発掘されました。

これらの遺物をアメリカのミシガン大学においてc14年代の測定をしたところ、
当時から2600年±200年という結果が出たと書かれている資料もあります。
これは神武即位年として伝承される前660年を含む可能性があり、
神武東征はこの遺跡と関連するのではないかとみる向きもあります。
(樋口清之『日本古典の信憑性-神武天皇紀と考古学』)

橿原遺跡からは各種の土器や石器が出土しました。
土器の特徴としては東日本の影響を強く受けていることであり、
青森の亀ヶ岡式土器そのものや、亀ヶ岡式土器と地元の土器の
融合した形式のものも出ています。縄文時代全般を通して、
東日本が人口その他で優位であったことを考えれば、
これはけっして不思議ではありません。

さらに精巧な石刀・石剣の出土もあり、
これらは実用品ではなく呪術的な儀式に使用されたものと考えられています。
そして橿原遺跡を特徴づける最大の出土物は、橿原式土偶といわれるもので、
人体の腹部をへこませて表現し、ひとつながりの消化器官が示されています。
この、消化器官が口から腹部を通って下がっている表現から、
当時の人々が解剖学的知識を持っていたのではないかという見解があります。

さて、ここで話は一気に飛躍しますので、眉唾で聞いてください。
神武天皇の次代は子の綏靖天皇(すいぜいてんのう)なのですが、
綏靖天皇は、いわゆる欠史八代(実際には存在しなかった天皇)
であるとする学説もあります。さらにはこの天皇には、
ちょっと信じがたい奇妙な伝承があるのです。

南北朝時代の神道の説話集である『神道集』には、
『第二代綏靖天皇は毎日朝夕に人間を七人ずつ食らったため、
臣下は自らが生き残れるか恐れおののくとともに天皇が長生きする事によって、
多くの人民が滅んでしまうのではないかと心配しました。
そこである臣下が天皇に対し「近いうちに火の雨が降る」と申し上げ、
国内にも同様の触れを出して人々を避難させ、
天皇に本当のことであると信じさせてから、
頑丈な柱で出られないようにした岩屋に天皇をさそいこんで幽閉しました。
これにより、天皇の代理の人物が国を統治しようやく国は平和になりました。』

このように書かれています。

『神道集』は14世紀の書物であり、
とうていこのような史実があったとは考えられませんが、
かといって綏靖天皇をここまで貶める必要性もあるとは思えないのです。
この説話がどこから出てきたのかずっと興味を持っていました。

綏靖天皇は腹違いの兄を殺して天皇になったという事跡がありますが、
そのような勇猛さは他にもいろいろ出てきますし、
食人の話はまた違うような気がします。そこで思い当たったのが、
上記した橿原式土偶です。なぜ呪術に用いる土偶に、
消化器をつけなくてはならなかったのでしょうか。
亡くなった人の腹を割いて解剖学的な知識を得ていたのでしょうか・・・
綏靖天皇の説話とは何か関係があるのでしょうか・・・
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『橿原遺跡の出土物』橿原考古学研究所





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