FC2ブログ

首を取る話

2019.11.15 (Fri)
アーカイブ183

dhdhd (5)

今回はこういうお題でいきます。カテゴリは日本史ですね。
みなさんは、「首狩り族」という言葉を聞くとどう思われますでしょうか。
ああ、未開の地の野蛮な風習だと感じられるかもしれません。
ですが、日本には古来から敵の首を取る作法がありました。

ただ、首狩り族などの場合とはちょっと違います。首狩りは、
ほとんどが宗教的な意味を持っていて、人間の頭部に霊的な力が宿るという
信仰によるものです。それに対し、日本の場合は主に、
討ち取った相手を確認・識別するために行われました。

「首級を上げる」という言葉がありますが、これは、中国の戦国時代、
秦の国の法で、敵の首を一つ取ると兵士の階級が
1つ上がったことからきています。この風習が日本に伝わったのだと
考えられますが、じゃあいつから始まったか
というと、古代の戦争の様子はあまりよくわかってないんですね。

吉野ケ里遺跡の首なし人骨
dhdhd (3)

九州の吉野ケ里遺跡などでは、弥生時代の戦闘で死んだ首なし人骨が
発掘されていますが、これはおそらく、上記の首狩りに近いものでしょう。
また、処刑として首を斬ることも古くからありました。
『日本紀略』では、802年、東北遠征に赴いた坂上田村麻呂が、
蝦夷のアテルイとモレを捕虜にして、近畿地方まで連れてきました。

田村麻呂はこの両名の助命を願いましたが、平安貴族の反対にあって、
河内の国で首を落とされています。この場合は明らかに処刑ですね。
940年、関東で乱を起こした平将門は、藤原秀郷らの連合軍に破れて
首を取られ、その首が長期間かけて京都まで運ばれました。

獄門にされた平将門の首


これは、将門に影武者がいたこともあり、朝廷が確実に死んだことを
確認したかったからです。将門の首は京都で晒されることになりますが、
これが歴史上で、獄門が行われた初の事例なんですね。この様子が
恐ろしかったためか、後代に、将門怨霊説がささやかれることになります。

晒されていた将門の首は突如宙に飛び上がり、故郷の関東をめざして
消えていったとするものです。その首が落ちたとされる場所はいくつもあり、
東京の千代田区にある首塚は、騒がすと祟りがあるとされています。
荒俣宏氏の小説、『帝都物語』の影響もあって、
将門は日本最大の怨霊とまで言われるようになりました。

さて、源平の合戦の頃には、首を取ることが作法として始まっていたようです。
『平家物語』では、一ノ谷の戦いで、熊谷次郎直実が、波打ち際で平家の
武者を組み伏せ、鎧の様子から高貴な武将であると見て首を取ろうとしたが、
顔を見ると自分の息子ほどの若さ。逃してやろうとしても、
味方が近くまで来ており、泣く泣く首を斬ったという話が出てきます。

平敦盛と熊谷直実
dhdhd (4)

この武将は、首実検で、清盛の甥の平敦盛15歳とわかり、遺体の腰に
「青葉の笛」が挿されてあったことから、その風雅の心に感じて、
源氏方もみな泣いたとされます。あと、斎藤実盛という人物が、
木曾義仲追討のための北陸の戦いで討ち死にしますが、
首実検で首を洗うと、墨が流れ白髪頭が現れました。
老齢とあなどられることがないよう、髪を黒く染めていたんですね。

また、平泉で討ち取られた源義経の首も、酒に浸して鎌倉に送られました。
道中、43日間もかかったため、腐敗して判別がつかなかったと考えられます。
ここから、義経が東北を北へ落ちのびた、北海道へ渡った、
大陸でジンギスカンになった、などの話が出てくるわけです。

さて、鎌倉時代の元寇では、日本軍は多くの蒙古兵の首を討ち取りましたが、
これは敵の首が即、恩賞につながったからです。
1467年には応仁の乱が起こり、戦国時代が始まりました。
このとき以来、農民出身の者も雑兵として戦闘に参加するようになったため、
軍規が厳しくなり、首実検の作法も固まっていきました。

戦国時代の首取りの様子 首を取っている人がさらに取られている
dhdhd (6)

取られた首は、武家の婦女によって死化粧が施されました。
これは、見るに堪えない無念の形相の首が多かったためとも言われます。
武将の首は髪を結い直し、お歯黒もつけました。このとき、
「諸悪本末無明 當機実検直 義何處有南北」という呪文?
を唱えると、その首は祟らないとされたようです。

これ、いまいち意味がわからない文章ですね。「諸悪は本来、無明である。
機にあたり直に首実検する。義は南北のいずこにありや。」 うーん、
善悪ではなく、運が悪くて死んだんだよ、くらいの意味でしょうか。当時、
戦場での死者は祟らないなどとも言われましたが、実際には怨霊は
怖れられていて、取った首を自分の城に持ち込むのはよくないとされました。

ですから、首実検は近くのお寺などを借りて行われたんですね。実検が
終わった首は、獄門にさらされる場合も、相手方に返される場合もありました。
雑兵の首などは捨てられたようですが、そのときも祟りがないよう、
北の方角に持っていきました。これは「北」を「にげる」と読むためです。

これは展示物で、本物ではありません
dhdhd (2)

織田信長は、討ち取った浅井久政・長政父子と朝倉義景の3つの
頭蓋骨を磨いて、箔を貼ったものを酒宴で披露しましたが、これは極めて異例で、
仏法を信じず、霊を怖れることがなかった信長の性情がよく表れた話です。
秀吉の朝鮮出兵では、日本軍は多くの朝鮮、明兵の首を取りましたが、
日本への輸送が困難なため、かわりに鼻や耳を削いで箱に詰めて送りました。

さてさて、大急ぎで「首を取る」歴史をふり返ってみました。
武士の歴史は残忍なものですが、切腹なども含めて、
様式化され 美化されていきました。坂口安吾の小説、『桜の森の満開の下』は、
斬られた生首の持つ魔力に魅入られた女の話です。では、今回はこのへんで。

dhdhd (1)





関連記事
スポンサーサイト




トラックバックURL
http://scoby.blog.fc2.com/tb.php/2218-8985a68b
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する