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神功皇后の謎(序論)

2019.11.23 (Sat)
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今回はこういうお題でいきます。序論と書いてますが、
本論はやりません(笑)。それを書こうとすると、このブログが
古代史一色になってしまいます。ほんのさわりだけお話します、
という意味での序論なんです。神功皇后には、実在、非実在説が
ありますが、それを超えたところで、きわめて謎に満ちた存在です。

・神功皇后の事績
『古事記』と『日本書紀』で記述の違いがありますので、ここは
『日本書紀』のほうを主にして話を進めます。神功皇后は
第14代仲哀天皇の后で、天皇に随伴して熊襲征伐におもむきますが、
九州で神がかりし、熊襲ではなく朝鮮半島を攻めよと天皇に進言します。
しかし天皇はこれを聞かず、神の怒りにふれて病死。

このとき皇后は子を身ごもってましたが、熊襲を討った後、海を越えて
新羅へ攻め込み、百済、高麗をも服属させます。俗にいう三韓征伐ですね。
帰国して応神天皇を出産。忍熊皇子らが反乱を起こすものの
これを平定、以後70年にわたって摂政として政治を行います。
ごくごく大ざっぱに書くとこんな感じです。100歳まで生きたと
計算できます。さて、こっからは箇条書きで謎を見ていきましょう。

神功皇后の1円札
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・『日本書紀』は干支2まわり(120年)年代操作されているか?
神功皇后はもし実在したとして、さまざまな根拠から、
300年代の人だと考えられるんですが、
『日本書紀』は200年代の人として記述しています。誰が見ても
この部分は不自然で、年代操作説は古く江戸時代からあります。

これは、中国史書に出てくる邪馬台国の女王、卑弥呼および台与を
『日本書紀』の撰者が神功皇后に比定しているためであり、
それで年代操作がなされている、と説明されることが多いですね。
登場する人物の寿命が異様に長かったりなどですが、
自分は年代操作自体は、おおむね間違いないと思っています。

五社神古墳(伝 神功皇后陵)奈良県奈良市山陵町
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・熊襲征伐で討った田油津媛(たぶらつひめ)とは?
仲哀天皇が始めた熊襲征伐を、神功皇后がやり遂げるわけですが、福岡の
山門郡にいたとされる土蜘蛛族の女王、田油津媛を討ち取っています。
田油津媛は邪馬台国卑弥呼の後継者とする説もあり、神宮皇后自身が
卑弥呼に擬されてもいるわけで、このあたり不思議な感じがします。

老松神社 福岡県みやま市 周辺に田油津媛の墓と言われる古墳がある
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・三韓征伐はあったのか?
『日本書紀』の記述はおとぎ話のようです。神功皇后が船を出すと、
潮が満ち、大魚がたくさん集まってきて背中に倭国の船団を乗せ、
新羅の王城まで押し寄せます。これを見た新羅の王はおそれおののき、
戦わずして降伏し、皇后の馬飼になると言って朝貢を約束します。
まったく具体的ではないんですね。

ただ、朝鮮の正史である『三国史記』には、倭国がたびたび朝鮮半島に
侵攻し、新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが記されて
いますし、高句麗の広開土王碑には、391年、倭国が新羅、百済を
臣従させたと出てきます。ですから、倭国からの遠征が頻回に
行われていたのは間違いないところです。

七支刀
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・七支刀にはどういう意味があるのか?
奈良県天理市の石上神宮に伝来した古代の鉄剣で、『日本書紀』には、
百済の肖古王から「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが皇后に献上
されたと出てきます。(七子鏡は現在アメリカ、ボストン美術館にあり、
その経緯はたいへん面白いので、いつか記事に書きたいと考えてます。)

その銘文から、百済王が倭王に届けたのは間違いないんですが、
両国の関係については議論があります。常識的な解釈としては、
高句麗の圧迫を受けていた百済が、倭との同盟を求めたしるしと
考えられると思いますが、中国王朝の東晋が倭に授けたもので、
百済はその仲介をしただけという説もあります。

・忍熊王はどういう人物なのか?
仲哀天皇の王子で、血統的には正統な天皇後継者ですが、神功皇后が
産んだ子(応神天皇)に皇位が移るのをおそれ、兄の麛坂(かごさか)王と
ともに皇后に対する乱を起こしますが、敗れて川に身を投げて
死亡します。(麛坂王は占い中に猪に食われて死亡?!)

神功皇后と武内宿禰(たけしうちのすくね) この2人の関係も謎の一つ
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忍熊王らは、それまでのヤマト王権の基盤を受けつぎ、奈良県北部の
佐紀古墳群周辺に勢力を張っていたが、戦いに敗れたことにより、
神功皇后、応神天皇らによってヤマト王権の中心が大阪に移った
とする意見があります。実際、これはそう見るしかないんですね。

あと、考古学的には、この忍熊王らの反乱とほぼ同時期に、
九州、関東、丹後などで政変が起きていることがわかっていて、
全国を巻き込んだ大きな体制の変化があったとみる意見もあります。
応神天皇は、じつは朝鮮半島出身の渡来人であるという話もあり、
自分は、この部分の謎が最も興味深いと思ってます。

武内宿禰と応神天皇
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・応神勢力と西都原との関係は?
男狭穂塚(おさほずか)古墳は、宮崎県西都市にある全長176mの
帆立貝形古墳で、5世紀前半のものとみられ、被葬者は諸説あるものの、
応神天皇に臣従した、この地出身の諸県君牛諸井(もろかたのきみ
うしもろい)とする説が最も有力で、自分もそう考えてます。

また、隣接する女狭穂塚(めさほずか)古墳(176m)の被葬者は、
仁徳天皇の妃になった牛諸井の娘、髪長姫にあてる説があります。
で、前述した忍熊王の反乱のあたりで、この地の勢力が
生目(いきめ)地方から西都原に移ってるんですよね。生目といえば、
イクメイリヒコ(垂仁天皇)が思い起こされます。

男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳
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さてさて、ほんとうにざっと列挙しただけなんですが、
これほどたくさんの謎が詰まっているのが神功皇后です。
明らかに古代日本の画期となる出来事があったはずですが、
イマイチ研究が進んでいない印象があります。たんなる実在、
非実在の論では片づけられないんですね。では、このへんで。

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