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義民伝説の周辺事情

2020.03.31 (Tue)
CCCCC (1)

今回はこういうお題でいきます。怖い日本史のカテゴリですが、
すごい地味な内容で、たぶんツマラナイと思います。
さて、どっから話していきましょうか。江戸時代初期、
堀田正盛という大名がいました。けして高い身分ではなかったのが、
義祖母である春日局が乳母をつとめた徳川家光が3代将軍になると、

異例の出世を重ね、下総佐倉藩の初代藩主となります。佐倉藩は
10万石程度ですが、江戸に近く参勤交代も楽です。
で、この正盛、家光の死の後すぐ殉死してるんですね。これは
おそらく、家光と衆道関係にあったためでしょう。そこで、
長男であった堀田正信が家督を継ぐことになります。

堀田正信
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ここからは伝説です。正信は藩主になったものの、後ろ盾であった
家光はすでに亡く、春日局も大奥を出てしまいます。
何もかも一人で裁量しなければならなくなったわけですが、
正信にはその器量はありませんでした。農民に対しては増税、増税、
年貢の取り立ても厳しく、藩内は暗くよどんでいきました。

名主たちが集まって話し合い、藩には何度も訴状を出して
困窮を訴えましたが、正信は聞く耳を持たず、そこで名主の一人であった
佐倉惣五郎は、直接江戸の老中に密書を送ったんですね。しかし、
一月たっても何の音沙汰もなし。ついに惣五郎は直訴の覚悟を決め、
一人江戸へと旅立ちます。1653年のことです。そして機をうかがい、

歌舞伎になった惣五郎


4代将軍、家綱が上野へ参詣する途上に潜み、訴状を掲げて
籠の前に走り出ます。直訴は死罪の定めですが、家綱は刀を抜いた
護衛を止め、訴状を取り上げます。かくして企ては成功し、
惣五郎にはお咎めなし。佐倉藩に年貢減免の命が幕府から
下されました・・・まあ、ありえない話ですがあくまで伝説ですので。

面目を失った正信は激怒、戻ってきた惣五郎の目の前で
4人の男児を惨殺。惣五郎夫妻は磔の刑としたんです。
それから、堀田家に怪異が起き始めます。正信の寝所に磔された姿の
惣五郎が現れ、とうとうと恨みを述べる。しかしお付きの小姓らには
見えません。正信は精神的に追い詰められ錯乱します。

佐倉惣五郎
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惣五郎の死から7年後、正信は江戸城内にて幕政を批判、
その内容は「幕府の失敗のために旗本・御家人、農民が窮乏しており、
自分は領地を返上する」というものでした。これは史実で、
正信は参勤交代を待たずに佐倉へ帰城してしまいます。切腹に
あたいする大きな罪でしたが、老中らは乱心のためとします。

堀田家は自ら述べたとおり領地を没収され、正信は信州の同族に
お預けとなります。うーん、寛大な処分で、何か裏がある気がします。
その後も、狂気の正信は何かと事件を起こしますが、処分から20年後、
将軍家綱の死にともない、正信はハサミで喉を突いて自害します。
お預けの身で切腹が認められなかったからですね。

ということで、惣五郎の死から27年がたって祟りが完了したと
見ればいいんでしょうか。それから90年たち、再興された堀田家は
再び佐倉の藩主となります。このあたりも何か事情がありそうに
思いますが、調べてもよくわかりませんでした。

将門口の宮神社(口の明神)
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1752年、佐倉藩藩主、堀田正亮は、惣五郎の百回忌にあたり、
「口の明神」という神社を創建し、惣五郎の魂を祀っています。
これも史実で、口の明神の御祭神は平将門と佐倉惣五郎。
つまり怨霊鎮めの社と見て間違いはないのではないかと思います。

これでだいたい伝説は終わりです。神社創建で、佐倉藩が
惣五郎伝説を認めた形になったので、その後、義民伝説は芝居や講談、
読本で取り上げられて江戸市中に広まったんですね。
さて、残り字数は少ないですが、少し考証してみます。

まず、惣五郎は実在の人物か? これ、以前は架空説があったんですが、
1715年に成立した『総葉概録』には、佐倉城下近辺に「総五」という
農民がいて、何らかの罪を得て処刑されたこと。冤罪であると主張して
城主を罵りながら死んだこと。堀田家の改易がその祟りと
噂されたことが記されています。

田中正造
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ただ、総五が一揆を企てたり、まして将軍に直訴をしたという資料は
残っていません。いくらなんでも直訴は無理だと思います。
警備が厳しくてできなかったでしょうし、もしそういうことが
あったら、必ず資料として書かれたものが残っているはずです。

総五が罪を得た理由にはさまざまな説があります。千葉氏の再興問題、
隠し田摘発、利根川治水工事・・・しかし確証となる資料は
見つかっていません。惣五郎の訴状なるものが残っていますが、
これは明らかに後代につくられたものです。

直訴する田中正造
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さてさて、ここまで見てきたように、惣五郎伝説は言葉どおり伝説の
域を出ないんですが、後代に影響を与えました。1901年、
衆議院議員を辞職した田中正造は、帝国議会開院式から帰る
明治天皇の馬車に、足尾鉱毒事件について直訴。警備の警官に
取り押さえられますが、狂人がよろめいただけとされ、

即日釈放されて罪にはなりませんでした。ちなみに直訴状は
幸徳秋水が書いたもので、その内容は新聞に取り上げられ、東京市中は
大騒ぎになり号外も出ました。直訴の前に正造の盟友石川半山は、
「君はただ佐倉惣五郎たるのみ」と励ましたと伝えられています。
では、今回はこのへんで。

※ 千葉県の郷土史などを研究されている方で、何かご教示いただければ幸いです。

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