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妖怪談義7(人魚)

2014.01.20 (Mon)
これもかなりの難題です。人魚というと下半身が魚で、上半身が若い女性である
マーメイドを思い浮かべる人が多いと思うんですが、これははっきり西洋の人魚ですよね。
しかしこの西洋の人魚も、ギリシャ神話の頃からいたように思われがちですが、
実はそう古いものではないようです。
Wikiには『マーメイドの外観イメージは、
16・17世紀頃のイングランド民話を起源とするものであり、
それより古いケルトの伝承では、人間と人魚の間に
肉体的な外見上の違いはなかったとされている。』
とあります。

日本の古代の人魚のイメージははっきりとわかってはいません。
『日本書紀』の推古27年(619年)の記事に近江の国と摂津の国で、
人魚らしきものが捕えられた記述がありますが、近江の国のほうは河で、
摂津の国では堀江で捕まえたと書かれていて、
必ずしも海のものとはいえないようです。
「非魚非人不知所名」(人ではなく魚でもなく名を知らない)と出ています。

また、鎌倉時代の『古今著聞集』には、
『伊勢の国の別保へ、平忠盛が出かけたときのことである。
地元の漁民が、ある日奇怪な大魚を三頭網にかけた。
頭は人のようで、歯は細かく魚そのもの、口は猿のようで突き出ていた。
頭部以外は魚の形をしており、尾は担いでもなお地面を引きずるほどの長さだった。
その魚は大きく叫び、その声はまるで人の泣き声のようだ。』

こんな記述が出てきますが、顔だけが人のようで、
それ以外は魚という外観に描かれています。

日本では江戸時代に、猿と鯉や鮭を組み合わせた人魚のミイラなる工芸品?があり、
(それ以外に竜なども)ヨーロッパに輸出されていましたが、
これに見る上半身人間、下半身魚というイメージはヨーロッパからきたものであり、
それ以前は人と魚がどちらともつかず入り混じった、
禍々しいものという感じで捉えられていたようです。
『人魚姫』などに見るロマンチックな要素はかけらもありません。

さて、人魚の話を調べると必ず出てくるのが「八百比丘尼」です。
『若狭の漁村に暮らす平凡な少女が、
父親が持ち帰った人魚の肉をそれと知らずに食べてしまい、
まったく歳をとらなくなります。そのため周囲から気味悪がられ、出家して比丘尼となり、
死に行く定めの人々に、安らかな彼岸への引導を渡すようになります。
人々は、自分の死に際し、比丘尼の永遠の生の哀しさを感じ取り、
安らかに死出の旅へと向かうことができます。
やがて比丘尼は八百年のときを経て故郷へ帰り、肉体は風化します。』

八百比丘尼の伝承は全国各地にありますが、まとめるとこんな感じになりますか。

比丘尼とあるとおり、これは仏教説話です。
仏教説話であるからこそ多くの地に広まったとも言えるでしょう。
仏教の説く「諸行無常」つまりすべてのものは移り変わるという摂理に反する、
不老不死という存在の空しさ、苦しさを説いているわけですね。

ところで、不老不死を一つの目標とする宗教が道教です。
道教における道(タオ)とは、宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指すもので、
具体的には、不老不死の霊薬である丹を錬り、
仙骨を伸ばして仙人となることを究極の理想とします。長命を得ることで、
宇宙の真理を体得する機会を得ることができると考えるわけですね。

この八百比丘尼伝説を道教と結びつけた話はあまり読んだ記憶がないのですが、
一種の対立概念として考えることもできそうです。
人であることから解脱し成仏することを理想とする仏教と、人の理性を信じ、
長命を得てさらにそれを磨き宇宙と同一化しようとする道教、
この相違点、類似点を考えてみるとなかなか面白いです。  

最後に、人魚のもつイメージは悲劇的ですよね。アンデルセン作品もそうですが、
小川未明の『赤い蝋燭と人魚』も怖くて悲しいです。

『人魚のミイラ』あのムンクも資料としました(嘘) 





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