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マヨヒガの話

2020.06.15 (Mon)
今晩は、森田ともうします、会社役員を退職し、現在は無職です。
よろしくお願いします。これね、私の母の話なんです。今から12年前に
82歳で亡くなりました。母は大正の終わりに岩手県の造酒屋で
生まれまして、4女だったということです。その他に男の子どもが6人、
つまり10人きょうだいということですね。少子化の今では
考えられませんが、当時はそういう家はちょくちょくあったと
いうことで、6,7人なら珍しくなかった。それと母の生家は、
今は残念がら没落してしまいましたが、昔はたいへん裕福で、
母が小さいときにはずっと、子守のねえやがついていたそうです。
そのねえやに小学校に入る前、マヨヒガの話を聞いたということでした。
ま、この場のみなさんなら、マヨヒガは当然ご存じですよね。

民俗学者の柳田國男が『遠野物語』で紹介した東北、北関東方面に伝わる
伝承のことで、柳田氏の作は岩手県が舞台。カタカナで表記したのも
柳田氏です。山の中で迷ってしまった者が、いつの間にか見たことのない
大きな黒い門の屋敷の前に出た。道を聞こうとして呼びながら入って
いったが誰も出てこない。広い庭にはたくさんの鶏が走り回り、
牛小屋、馬小屋も満杯。それなのに人の姿は見あたらず、
玄関から上がると、広間の部屋にたくさんのお膳が並べてあり、
奥の座敷の囲炉裏の鉄瓶には湯が煮えたぎってる。ここでその者は
怖くなり、どれも極上の品なのに、家の物は何一つ持ち出さずに外へ出た。
ほどなくして道が見つかり、村へ帰り着くことができた。
こんなお話です。その後、この者は川に流れてきた赤い椀を

拾って裕福になります。それで、これね、母がねえやに聞いたと
言いましたが、それをまた子ども時分の私に話してくれたんです。
つけくわえて母自身の体験も。母が尋常小学校に入った年、
そのねえやはもう実家に戻っていましたが、
疫痢で亡くなったという話を使用人から聞いたそうです。
ですが、まだ子どもでもあり、また身分も違うため、母が
葬式などに出ることはなかったそうです。ただ、ねえやともう
二度とは会えないということはわかったと言ってましたね。
それで、その年の冬休み明けに学校が始まって、母は小学校まで、
朝は使用人に手を引かれて行きましたが、帰りは一人で
戻ってきていたそうです。家と学校は目と鼻の近さで、

数分しかかからなかったんです。学校の裏から雪の積もった
道を歩いていた。すると急に空が真っ暗になったんだそうです。
今の小学校1年生ですからね、そんな遅い時間に終わるはずもない。
それは一瞬のことで、またもとの明るさに戻りましたが、
見たことのない大きなお屋敷の前にいたんだそうです。
わけがわからず不安になった母は、しばらくその門の前に
立ち尽くしていました。そしたら、ギッギッと音を立てて
門がひとりでに開き始め、母は、人が出てきたら酒屋の者だと
言えば送り届けてもらえるだろうと中に入ってみた。ところが、
玄関をはじめすべての戸は開いてるが人の姿はない。
真冬なのにその家の中は暖かで、座敷の火鉢にはみな

カンカンに炭が熾(おこ)っている。「あのう、もし」母が大声で
叫んでもやはり何の反応もない。もう出ようかと考えながら
襖を開けると、やや小ぶりの座敷で文机が出ており、
そこになんと、死んだと聞いたねえやがいて、一心に習字を
してたんだそうです。懐かしく思った母はねえやの名前を呼んだものの、
母のほうを見ることもしない。母の存在に気づいてないように
思えたということです。母はまた怖くなりました。死んだねえやが
ここにいるのなら、これはあの世なのではないか。子どもながら、
そう考えあたったんですね。そのときにねえやが書いていた
字からもそう思ったと言ってました。はい、ねえやは一枚の半紙が
真っ黒になるほどくり返し、「いきてえ」と書いていたんです。

「生きたい」ということなんでしょう。母はそろそろと後じさり、
来たとおり戻って門から外へ出た。するとまた空が暗くなり明るくなると、
母は自分の屋敷の塀に向かって手をついた状態でいたんだそうです。
このことは仲のよかった年の近い姉妹には話しましたが、
両親、つまり私の祖父母には黙っていたそうです。それから・・・
ご存知のように戦争がありまして、戦後、母の生家は酒造以外の
事業に手を出して没落しました。母はそれでも女学校を出してもらって
いたので小学校の教員となり、そこで年上の教師だった
父に見初められて結婚しました。そして私と弟が生まれたんです。
父は厳格な人でしたが、50代で病に倒れ、現役の教員のまま
亡くなりました。その頃には私はもう仙台に出て就職していました。

すみませんね、母の一代記のようなことを長々と話しまして。
ここからは身内の恥のようなものですが、今からはずいぶん
以前のことです。母は実家のある市で一人暮らしをしてました。
弟もそこを離れていたので。で、あるとき、買い物に出る途中、
転倒して大腿骨を骨折してしまったんです。救急車で運ばれて
すぐ手術を受け、私や弟も呼ばれました。当時は、お年寄りの
大腿骨骨折は命の危険があったんです。なんとか手術は成功しましたが、
長いリハビリ期間があり、もとのように歩くことができなくなりました。
それで、私は妻と話し合い、母を仙台の自宅に引き取ったんです。
1階の和室を母用とし、そこに住んでもらいました。
妻とはトラブルになることもなく、仲よく暮らしていたと

思います。母は男2人の子どもでしたが、私は女の子2人で、
長女が母にとっては初孫にあたるんです。それで、次女のほうですが、
中学2年のときに不登校になってしまったんです。
私と妻で何度も学校に行きましたが、学校側ではイジメはなく、
友人間の関係のトラブル、感情の行き違いからだという説明でした。
次女は自分の部屋に引きこもって出てこなくなりました。
ええ、一切誰とも話をしないんです。食事も妻がつくって部屋の前に
置いておくだけ。無理に連れ出そうとすれば大暴れするので、
カウンセラーなどとの面会もできませんでした。
娘は母とは気が合ってよく話していたんですが、それも、
いくら母が部屋のドアの前で呼びかけても、とりつくしまもない。

そんな状態が1年近く続いたんです。それであるとき、
足のリハビリのために夕方 短い散歩に出ていた母が、
「驚いた、マヨヒガを見たよ。地元の県じゃないのに、こんな街中
 なのにマヨヒガがあるなんて」こんなことを言いだしたんです。
それを聞いて、ぎょっとしました。マヨヒガなんてあるはずもなく、
母に認知症の兆候が出たんじゃないかと考えたんです。
娘がそんな状態なのに、母まで手がっかるようになったら・・・
「へええ、中に入れた?」そんなことはおくびにも出さす
聞いてみましたら、「いや、黒い門は昔見たとおりだったけど、
 固く閉まっていて入れなかった」そういう話だったんです。
でも、その後の母の言動はしっかりしていて、

ボケたという様子はありませんでした。それから1ヶ月後くらいですか。
夕方の散歩から母が戻らなかったんです。8時を過ぎて警察に連絡しました。
事件かもしれないということで、広範囲に探していただいたんですが
その日は見つからず、翌日になって家からやや離れた廃屋の中に倒れて
亡くなってるのが発見されたんです。心臓発作でした。その廃屋は十数年も
放置され、玄関の鍵が壊れてましたが、なぜ母が入ったのかわからない。
それと不思議なことに、倒れていた部屋に真新しい習字道具と紙があり、
「〇〇が学校に戻れますように」と筆で書いてあったことです。母の字です。
母の遺体が家に運ばれてきたとき、娘が部屋から出てきました。
そして母に取りすがって泣いたんです。葬式にも出ましたし、その後
学校に戻れるまで、長くはかかりませんでした。まあ、こんな話なんです。





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