FC2ブログ

記紀と考古学、弟橘姫

2020.07.07 (Tue)
hdhgh (3)
三浦半島の海蝕洞窟

今回はこういうお題でいきます。以前書いた「怖い古代史」に
加筆した内容です。けっこう専門的な話になるので、
興味のない方はスルーされたほうがいいかもしれません。
さて、何から書いていきましょうかねえ。

日本の古代史と言うと、西日本を中心としたイメージを持たれて
いる方が多いんじゃないかと思います。これはしかたないことで、
記紀の記述が西日本に偏っているからです。そもそも神武天皇は
南九州を出発し、瀬戸内の各地に立ち寄りながら熊野から
奈良に入り、日本の初代天皇として即位します。

ですがこれ、あくまで文献から見た場合で、考古学的には、
弥生時代から古墳時代前期にかけての東海、関東、東北の状況は、
地元研究者の努力によってかなり明らかになってきています。
あと、纒向遺跡の発掘調査から、最近は近江や東海の重要性が
強く言われるようになってきました。

弟橘姫の像
hdhgh (6)

さて、みなさんは倭健命はご存知でしょう。『古事記』では
日本武尊と書かれていますが、正史である『日本書紀』のほうの
表記を使いますね。当ブログでは、他の記事でもだいたい
そうしています。倭健命は、第12代景行天皇の皇子で、
第14代仲哀天皇の父にあたります。

幼い時分に誤って兄を殺したことで父天皇に恐れられ、
大和朝廷の勢力拡大のため全国に派遣されます。まず九州に赴き、
川上梟帥(熊襲建)を討伐。さらに古事記では、出雲の出雲建も
殺してしまいます。それが終わると今度は東国遠征です。
東海から相模、上総、陸奥国へと渡って大活躍しますが、

女装して川上梟帥を殺す倭健命
hdhgh (5)

その帰路、近江の伊吹山の神との戦いで敗れ、30歳で亡くなります。
全国をまたにかけた大遠征で、まさに超人的ですが、一人の人間が
これをやるのは不可能でしょう。そこで、倭健命は初期大和朝廷で
全国に散らばって王権拡大に努めた皇子たちを象徴した人格で
あるとの説が出されていて、自分も妥当な解釈だと思います。

さて、倭健命には何人かの妃がいましたが、弟橘姫もその一人で、
表現はよくないですが現地妻みたいなものです。上総(千葉県)の
浦賀水道で、倭健命は走水海を船で渡ろうとしますが、
海の神をあなどって罵ったため、海は大荒れに荒れ、
このままでは転覆をまぬがれそうもありません。

そこで、いつか倭健命につき従っていた弟橘姫が、自ら申し出て
海に入水。すると暴風はすぐに止み、無事に船を陸につけることが
できました。弟橘姫の伝説は周辺で言い伝えられ、姫を祀る神社
としては、神奈川県の走水神社などがあります。

現在の浦賀水道の航路
hdhgh (4)

さて、ここからは考古学の内容です。このエピソードの
舞台となった三浦半島には海に面した海蝕洞窟が多数あります。
そこでは、弥生時代から古墳時代の遺物が発掘されており、
シカやイルカの骨などが多いんですね。これは「卜骨」
(占いに使用された骨)と見られています。

その海蝕洞窟の一つから弥生時代中期(紀元前後)のバラバラに
なった人骨が出土し、近年、東京大学による再調査が行われました。
幼児1体を含む成人男女各5体、計11体の遺骨が出土しましたが、
これは死後に自然にバラバラになったのではなく、
骨に損傷痕(刃物による傷)がついていました。

出土した人骨の傷痕
hdhgh (1)

その解体の手順を研究してみたところ、シカやイノシシを
解体するのと同じだったんですね。それが、幼児をのぞく10体に
対して行われていた。つまりこの弥生人たちは、何らかの儀式の
ために解体されたのではないかとみられてるんです。

さらには、呪術的な「食人」の風習があったのではないかとの     
推測も出ていますが、損傷痕だけではそこまで言うことはできない
でしょう。このような海にごく近い場所で行われる儀式は、
航海の安全にかかわるものである可能性があると思われます。

入水する弟橘姫
hdhgh (7)

古くから三浦半島では、航海にかかわる何らかの儀式、生贄が
行われており、その話は古代においても知られていて、
弟橘姫の入水のエピソードとして記紀に取り入れられたと
考えても、そこまで強引な解釈とは言えない気がしますね。

自分は当ブログにおいて、記紀の古い時代の記述はそのまま
信じるのは困難といった内容を何度か書いていますが、
すべてが架空の物語ということではなく、考古学の研究成果と
リンクしているのではないかと考えられる部分も多いんです。

奈良県桜井市 磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)
hdhgh (8)

例えば、上で少し話が出てきた纒向遺跡ですが、遺跡のある場所が、
記紀に出てくる崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の都地である
磯城瑞籬宮、纏向珠城宮、纏向日代宮と、偶然とは考えにくいほど
合致してるんです。ですから、何らかの、それなりに確かな
伝承をもとにして書かれている可能性があります。

さてさて、このあたりが古代史研究の面白いところで、文献の
記述と考古学的成果が合致すると興奮します。どちらか
片方では、古代史の闇を照らすには不十分なのかもしれません。
同志社大の教授だった考古学者の森浩一氏は、早くから文献と
考古学の統合を唱えておられました。では、今回はこのへんで。

hdhgh (2)




関連記事
スポンサーサイト




トラックバックURL
http://scoby.blog.fc2.com/tb.php/2582-e4e5d75f
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する