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「肝試し」の歴史

2020.08.10 (Mon)
アーカイブ356

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今回はこういうお題でいきますが、歴史というほどたいそうな内容でも
ありません。さて、「肝試し」は怪談を書く上での重要な
素材の一つですね。学校の合宿などでやる場合もありますし、
心霊スポットと言われる廃墟などに探索に行くのも、一種の肝試しです。

ここで、肝試しの「肝」って何でしょう。字からすると「肝臓」を指している
ようにも思えますが、古典での使い方を見れば、内蔵全体や心臓、
心などを表してる場合もあり、一様ではありません。
まあこれは、しかたのないことでしょうね。

五臓六腑などと言いますが、1774年に杉田玄白らが、『解体新書』を
翻訳するまで、日本では、人間の内臓がどうなってるかは
よくわかっておらず、医師などでも、経験に基づいた
治療しかできなかったんですね。ですから、
「肝」という言葉の意味内容が混乱するのもいたしかたありません。

五臓 陰陽五行説からきたもの
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とはいえ、慣用句には「肝が太い」 「肝が冷える」などがあり、「肝」は、
その人物の勇気や豪胆さをつかさどる体内の臓器と考えられてきました。
「肝試し」が最初に文献に現れるのは『今昔物語』ですかね。
源頼光四天王の一人であった平季武(たいらのすえたけ)が、
真夜中に産女(うぶめ)が出るという川を渡る話が載っています。

たくさんの武士が、ある夜、詰所に集まっていろいろ話をしていると、
ある侍が、川の渡し場に産女という怪しのものが出て、
「これを抱いてくれ」と赤ん坊を渡してよこすという話をし始めます。
皆が「こんな夜中にはとても見に行けない」と言い合っていると、
武勇自慢の季武が、「俺が行ってみせる」と言います。

平季武と産女
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あまりに季武が「できる、できる」と言うので、ついに皆と賭けをすることになり、
武士たちは鎧兜や弓矢、馬などを賭けの品としてその場に積み上げます。
季武は、「確かに行ってきた証拠として、俺の鏑矢を向こう岸に差してくる。
明日の朝行って、見てくればよかろう」こう言い放って出発します。

季武が渡し場まで来て川に馬を乗り入れると、いつしか近くに
不気味な女がいて、「これを抱いてくれ」と泣いている赤ん坊をさし出すので、
「承知した」と赤ん坊を袖の中に入れて馬の足を速めると、
女が後ろから走ってついてきて、「さあ、もう赤ん坊を返してくれ」と叫ぶ。

「いいや返さん」季武は女を振り切って詰所まで戻り、「どうだ、
産女の赤ん坊を取ってきたぞ」と言います。ですが、袖の中を見ると、
いつのまにかたくさんの木の葉に変わっていた・・・皆が季武の勇気を褒めたたえ、
季武は、「当然のこと」と賭物を取らずに返した。こんな話が載っていますね。

まあ、季武は武士ですし、武士階級というのは貴族に代わって戦いを受け持つ
ためにできたものなので、「武勇」という言葉があるように、勇気を示すのは
きわめて大切なことでした。かといって平時に戦いをするわけにいかず、
肝試しの習慣は、そんな中からできあがっていったのかもしれません。

藤原道長
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また、貴族であっても、肝試しをする場合もありました。『大鏡』には、
花山天皇の時代、みなが夜に集まって、これまでに体験した怖ろしい話をしていると、
天皇が、「こんな夜中に宮殿内を回ってくることはできるだろうか」と言い、
藤原3兄弟に肝試しを命じます。この言葉を聞いて兄2人は顔色を変えて
震えだしましたが、末の藤原道長だけは「やってみせます」と言う。

結局、3人ともが肝試しに出たが、2人の兄はすぐに逃げ帰ってしまい、
道長一人だけが大極殿まで行き、実際に来た証拠として、
柱を小刀で削り取り持ち帰った。翌朝、それを柱の傷と
比べてみるとぴったり合っていた・・・こんな話が出てきます。
ただ、これが実際にあったことかどうかは何とも言えないですね。

後に名をあげる人物には、若いころから優れていたことを示すための、
こういうエピソードはつきものです。余談ですが、道長は深く仏教に
帰依していて、62歳で亡くなる際には、阿弥陀堂にこもり、阿弥陀仏像と
自分の手を5色の糸でつなぎ、西方浄土への往生を願いながら、
僧侶たちの読経の中で息を引きとったと言われます。

平忠盛と怪しい法師
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あとはそうですね。肝試しとはちょっと違いますが、平清盛の父、忠盛が
北面の武士だった時代。夜中に愛人の祇園女御のもとへ行こうとする白河法皇の
警護につき従っていると、前方にぼうっと光る怪しい化け物がいて、
頭に多数のトゲが生え、しかも手に小槌のようなものを持っている。
(「一寸法師」にみるように、当時、槌は鬼が持つ武器と考えられていました。)

他の武士たちが怖れ騒ぐ中、忠盛だけが冷静に前に進み出て、
その者をとらえてみると、辻の灯籠に油を注ぐ法師だったことがわかります。
法皇は、弓で射殺してしまわなかった忠盛の勇気を褒め、
褒美として祇園女御を与えます。そうして生まれたのが平清盛。
つまり、清盛は法皇の子だったということになります。この話も、どこまで本当か
わかりませんが、成長した清盛が異例の出世を続けていったのは事実です。

最後に、これも肝試しとは少し違うんですが、水戸黄門として知られる徳川光圀が、
若い頃に辻斬りをした話。酔って友人と歩いていた光圀は、「人を殺す
勇気があるかどうか」で言い合いになり、神社の床下に刀を抜いて潜っていき、
そこで寝ていた浮浪者を刺し殺したという記録が残ってますね。非道な話ですが、
これは実際にあったことのようで、今でいうホームレス狩りに近いものです。

徳川光圀
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さてさて、今回はエピソードのご紹介で終わってしまいました。ということで、
現在、面白半分に行われている肝試しとは違って、昔の武士にとって、
胆力を示すことは、そのまま出世につながるケースが多かったんですね。
逆に言えば、臆病者とされるのは、武士の存在意義にかかわる、
たいへんな恥辱だったわけです。では、今回はこのへんで。




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