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濡女

2014.04.24 (Thu)
小学校5年生のときの話です。担任は箱崎という若い男の先生で、
学校には朝ギリギリに来るし、しょっちゅう休むしで、
今思えば管理職には評判のよくない困りものの先生だったかもしれません。
でも生徒にはわりと人気があったんです。
午後の算数や社会の時間なんかに、生徒が疲れた様子をしてるなと見てとると、
授業を早めに切り上げていろんなお話をしてくれました。
内容は、先生が若いころ放浪したというアメリカのことや、
趣味の単独キャンプのことが多かったですが、怖い話というのもありました。

その日も8時間目の算数の時間に、居眠りしている生徒を見つけた先生は、
「ああやめだ、やめだ」と言って大げさな身振りで机に教科書を放り投げました。
クラスのみなはそれを見て「おしっ」と思いました。
先生の関係ない話はこういう形で始まることが多かったからです。
案の定お話が始まりましたが、先生が「電気消せ」と言ったので、
ますます期待が高まりました。怖い話だとわかったからです。
・・・その日してくれたのは、「ぬれ女」という話でした。

細部はよくおぼえていませんが、
小学5年生のある男の子が雨の降る日の帰りに道を急いでいると、
自分の家が見えているあと数十mというところで、
ぬれ女に会ってしまい、獲られてしまうという内容だったと思います。
みなはあまり怖がっていない様子でしたが、
なぜか自分はそのときスゴく恐ろしく感じました。
自分の家のすぐ近くというのが怖さのツボにハマったのかもしれません。
男子の一人で「ぬれ女に獲られるとどうなるんですか」と聞いたやつがいました。

先生はちょっと困った顔をしていましたが、
「うーん、魂を獲られて極楽にいけなくなるんじゃないかな。昔のこの手の話
 というのは仏教を広めるために作られたものが多いからね」と答えました。
それから真顔になって、「まあこんなことが実際にあるわけはないし、
 むしろ今なら変質者なんかのほうがずっと危険だ。この前防犯教室で
 勉強したように、何かあったら大声で近くの大人に助けを求めるんだよ」
と言いました。このあたりは、後で子どもから学校の様子を聞くであろう
保護者への言い訳だったのかもしれません。

下校時、朝はカンカンに晴れていたので傘を持ってこなかたんですが、
学校を出たあたりから急に暗くなり、遠くのほうで雷の音がし始めました。
5分ほどいくとポツリと額に雨粒があたりました。
「あーなんだよ」と思いましたが、どうしようもないのでそのまま歩き続けました。
親は共稼ぎなので迎えにきたりしてくれることはありません。
頭の中をさっきのぬれ女の話がよぎりました。なんだか先生が
あの話をしたために雨が降ってきた、そんな気さえしてきたのです。

とはいっても、まだ午後4時前です。
車通りも人通りも多く、危険があればいくらでも助けてくれる人はいます。
家まで、急げばあと10分もかからない、そう思って小走りになると、
それを待っていたかのように雨が強くなりました。あっという間に、
道路にできた水たまりで、ズックに水がしみ入るのもかまわず駆け続けていると、
激しい雨音に混じって「◯◯!」と自分の名を呼ぶ声が聞こえました。
顔を上げると家まであと少しのところに来ていて、
数m離れた前の方に姉が赤い傘を持って立っていました。

「ねえちゃんか?」と聞くと「あたり前じゃない」と答えました。
でも変だな、と思ったんです。姉は今でこそ建設会社に就職して普通ですが、
この当時は、中学校での友だち関係のトラブルから不登校になって、
ずっと部屋に引きこもっていたんです。
自分を迎えにくるなんてことをするはずがない、と思いました。
姉が近寄ってきたので、身を固くしました。
「今、そこのスーパーでマンガを買ってきたとこ、今日が発売日なん。傘に入る?」
と聞いてきたので、「どうせ濡れてるし、あと少しだからいい」と答えました。

姉は「あっそ」と答えて自分が駆け抜けるのをやりすごし、後からついてきました。
姉は不登校になって何もしなくなりましたが、
少女マンガ雑誌だけはかかさず買ってたので、
これはホンモノかもしれない、と思いました。スーパーの袋も持ってましたし。
もう家の壁が見えています。あとは走り込めばいいだけ。
そのとき耳元で「ぬれ女って知ってる?」という声がし、前に進めなくなりました。
ランセルの肩掛けの根元をつかまれているようでした。
おそるおそるふり向くと、傘を深くさして顔が見えないようにしたそれが立っていました。

「お前を獲るよ」と姉のような、そうでないような声で言い、それは傘を上げました。
人の頭より太い巨大なヘビの顔でした。鱗に濡れた黒髪がからみついていました。
叫ぼうとしましたが声が出ません。そのとき、ボフッとそれの傘に何かがあたり、
ガーンとすごい音を立てて地面に落ちました。
重い金属製の文鎮でした。ランドセルをつかんでいた力がゆるみ、
バシャンという音とともに側溝のフタが何枚もはね上がりました。
背後には何もおらず、赤い傘とスーパーの袋が濡れた地面に転がっているだけでした。
上を見あげると家の自分の部屋の窓から今度こそホンモノの姉が、
きつい顔をしてこちらをにらみつけていました。

後に姉から話を聞いたところでは、「部屋でぼんやりしていると急に胸騒ぎがして、
 窓から外を見るとお前に大きなヘビが巻きついていた。
とっさに手近にあった文鎮をヘビに向かって投げた」ということでした。
ぬれ女が何だったかはわかりません。傘とスーパーの袋はそのまま残っていて、
中には少女マンガ雑誌と卵が2パック入っていました。
姉は傘は自分のものだと言いましたが、気味が悪いので、
袋の中身とともにそのまま捨てられました。
・・・姉はこの後ほどなくして登校するようになりましたが、
元の快活な姿に戻るまでしばらくかかりました。これ以来、
ぬれ女らしきものを見たということは一度もありません。これで終わります。

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佐脇嵩之『百怪図巻』より「ぬれ女」






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