怖い古代史7(将門の首)

2014.05.13 (Tue)
さて怖い話は一休みして、今日は古代史の話。
日本史の歴史区分は平安時代までは広い意味の古代と考えることが多いですので、
平安時代中期に亡くなった平将門も十分、古代の人と言えるでしょう。
将門は桓武5世の孫で、関東で謀反を起こし「新皇」を自称したことで朝敵とされ、
藤原秀郷、平貞盛らにより討伐されました。(940年)

えー当ブログはオカルトがテーマであり、
たいへん興味深い事件ではありますが、
歴史はこれ以上細々したとこに深入りはしません。
「将門の首」・・・
現在でも関東における最大の心霊スポットとも言われる将門首塚の話です。
『太平記』に、さらしものになった将門の首級の話が書かれており、
将門の首は何ヶ月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、
夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。
ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」
と叫び続けたので恐怖しない者はなかった、とあります。

また、将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、
途中で力尽きて地上に落下したとも言われます。この将門の首に関連して、
各地に首塚伝承が出来上がりました。
最も著名なのが東京千代田区大手町の平将門の首塚で、
この首塚には移転などの企画があると事故が起こるとされ、
現在でも畏怖の念を集めています。

関東大震災の後、無知な所員が首塚の上に仮庁舎を建てようとしたところ、
それに関わった者達14人が変死を遂げ、仮庁舎は撤去されたとか、
お笑いの爆笑問題の太田が若手の頃、
番組の取材で将門の首塚を蹴り、仕事がなくなってしまったとか、
首塚の祟りに関しては都市伝説的な様々な逸話が残されていますね。

で、関東からわざわざ京まで運ばれ、首実見の上獄門にさらされた将門の首が
宙を飛んで関東までたち帰ったなどということが実際にあるとは思えません。
ではなぜこのような話が広まったのでしょう。
一つには英雄伝説ということがあるでしょう。
非業の死を遂げ、体と離れた英雄の首を故郷に返してやりたいとする民衆的な願望が
この伝説を作ったとする、まあよくある話です。
ただ、それだけでここまで広まったのかなあ、とも思います。

将門には、これも伝説ですが影武者の話がありますね。
室町時代の『俵藤太物語』(俵藤太は将門を討った藤原秀郷の異名)では
「将門と全く同じ姿の者が六人いた」と書かれており、
同じ時期に書かれた『師門物語』では、「同じ姿の武者が八騎いた」とあります。
茨城県や山梨県などで、将門の七人の影武者伝承の残る寺や山があるそうです。

将門の影武者はまったく本人と同じ顔で、しわや傷までが同じであったとされます。
この七人の影武者伝説の背後には「妙見信仰」があると考えられていますね。
妙見信仰とは、北斗七星・北極星を神格化した妙見菩薩を祀る信仰で、
将門はこの北斗七星を守護として、妖術を使ったとまで書かれたりもしています。

さて、混乱の中で討ちとられた将門の首ですが、実際は討たれたのは影武者であり、
将門はまだ生きて隠れていて、どこかで再起を図っているなどという噂が広まれば、
これは朝廷にとって困ったことになりますね。
ですから、朝廷としては「本物の将門」が「確実に死んだ」
となってもらわねばなりません。
後代の義経や西郷隆盛のように「実は生きている」という噂を避けたい。
そこで、この首にまつわる伝承が作られたとは考えられないでしょうか。

体と離れて首だけで長期間腐りもせず生きていることができる霊力、
これはまさに本物でなくてはできないことだし、
首は関東まで飛び、満足して落ちた・・・
これを弔うことで死が確実なものとして地元にも印象づけられる。
もしこのような意図のもとに、朝廷側により伝説が作られたのだとしたら・・・・w

まあ、実際にはこの伝説がどこの時点で始まったかははっきりしないし、
影武者伝承も眉唾気味のものなので、
あくまで歴史おもしろ話として読んでもらえればというところです。
あと、将門は朝廷を恨んで怨霊化し、
酒呑童子として生まれ変わったとする話もありますね。

『将門首塚』


*横に見えるカエルは左遷などから「無事にカエル」という俗信から奉納されています。


 

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