霊信仰について

2014.10.15 (Wed)
前々回(10/14)に書いた神道の話が拍手が多かったですので、
それに関連したことを書いてみます。
やや固い話になるかもしれません。
ですが、ここは基本的にはオカルトブログですので、できるだけ専門用語は避け、
内容もきちんきちんと根拠を付与して書くことはしません。
そのつもりでお読みください。
「霊信仰」という題にしましたが、
古代日本の宗教の歴史と考えていただいてもかまいません。
それから、現在はマルクス史観はまるで流行らなくなりましたが、
宗教の発生と進展は、人類における社会階級の歴史と切り離すことはできませんので、
この視点も含んでいます。

まず埋葬ということを考えてみましょう。
世界的には猿人・原人段階での埋葬例は確認されていません。
ネアンデルタール人(約10万年前)には死者の埋葬の例が多々確認されますが、
これをして死者が別の世界に行くという考えが生まれていたとは言えないようです。
亡くなった肉親に対し、その遺骸が獣などに傷つけられるのが忍びないという
心境によって行われたのかもしれないのです。
ただし、ネアンデルタール人では、女よりも男の埋葬例が圧倒的に多く、
単に遺骸を隠すということだけではなかったとする見解のほうが優勢です。
日本では、数は少ないですが旧石器時代の埋葬例が確認されています。
また縄文時代には屈葬という、手足を曲げた形での埋葬例が多くありました。
縄文時代においても、リーダーや宗教的指導者?と思われる特別な人が特別な形で
埋葬されている例は見られますが、これは弥生時代になってよりはっきりしてきました。

弥生時代には北部九州で甕棺と呼ばれる葬制が流行しましたが、
人によって副葬品の多寡の違いが出てきます。
さらに墓地は集落の一般民と有力者層の場所が分けられるようになります。
弥生終盤になると、
古墳と言われる土盛をした巨大な墓が近畿地方を中心に出現します。
このように、埋葬の歴史は社会階層の分化をはっきり表しているといえます。
もちろん縄文時代から、何らかの形の宗教があったと考えられています。
それが弥生時代、古墳時代と進むにつれて、より明確な形で現れてきたのです。
(ここまで前置き)

神道の話で少し触れましたが、日本の古代は(というか世界の多くの地では)
アニミズムと呼ばれる信仰があったと考えられています。
これは汎霊説とも呼ばれ、生物、無機物、自然の事象を問わず、
すべてのものの中に霊が宿っているとする考え方です。
原初の頃には、そこに人間と他のものの霊との高低の区別はなかったものと思われます。
むしろ雷などの強力な自然現象(ギリシア神話のゼウス等)
あるいは力のある猛獣(熊、狼等)は、
人間の霊よりも上に見られていたのかもしれません。

さて、弥生時代には水稲耕作が大陸よりもたらされ、
かなり早いといえる期間で列島各地に広まりました。
しかし当時の水稲耕作は、天候に左右される不安定なものであり、
また農業技術的にも単位あたりの収穫量は現在とは比べものになりませんでした。
水争いにより集落間での戦争も起こりました。
各地で損傷を受けた弥生時代の遺骸が発掘されています。
弥生時代の全食料における米の比率は半分以下であり、
依然として縄文から続く狩猟採集物は重要であったとする研究もあります。
このような中において、数ある精霊の中でも特に
「穀物霊(穀霊)」が重視されるようになってきました。
このことは様々な発掘例で見ることができます。

さらに、埋葬の話で書きましたが、家族、集落の構成員の緊密度が増すにつれて、
血筋、氏族の元となる祖先の霊ということが強く意識されるようになってきました。
これを「祖先霊(祖霊)」と言うことにします。
これもまたアニミズムの精霊の中では特別視されたのです。
霊と霊は交信できると考えられていたようです。
穀物の豊作を祈る場合も、直接穀霊に働きかけると同時に、
祖霊にお願いして、穀物の霊に影響を与えてもらうという考え方が生まれました。
「祖先に祈ることによって豊作になる」という形で、
穀霊と祖霊の信仰が結びついたのだと思われます。
現在の各地のお祭りでも、この考え方は生きているのではないでしょうか。

一方、集落の中では生産の余剰が生まれることにより、
身分の分化がいっそう進み、
高貴な血筋を持つと考えられる層が生まれました。
魏志倭人伝と呼ばれる「三国志魏書 東夷伝」(3世紀)は、
このように列島の状況を伝えています。
「下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、
 あるいは蹲りあるいは跪き、両手は地に拠り、これが恭敬を為す。
 対応の声を噫という、比するに然諾の如し」

簡単に言えば、下戸(一般民)が大人(支配者層)に道で出会ったら、
草むらに平伏して恭順の意を示すということです。
この内容ががどこまで真実を伝えているかはわかりませんが、
それ以外の知見からも、それなりの身分差はあったように考えられます。

この首長層の中でも特に偉大であった人物に対して、
「首長霊信仰」というものが生まれたとする見解が多くなってきています。
偉大な首長は、集落全体から見ることができる巨大な前方後円墳に葬られ、
集落全体の守り神のような存在となったのです。
もちろん首長霊に祈ることで、穀霊にも強く働きかけることができます。
古墳上からは「共食儀礼」と呼ばれる儀式の遺構が発見されます。
これは、そこで有力者が会して食事を共にすることで、
亡くなった偉大な首長の力を受け継ぐことを目的とした儀式であった、
と考えられています。

このことは「偉大な首長の力を受け継いで支配権を与えられた」とも言えるでしょう。
素朴なものから発した穀霊、祖霊の信仰ですが、ここに至って、
民衆を支配するための一つの装置となった、
と考えることができるのではないでしょうか。
列島の各地でこのような力を持った大王が誕生し、
それらが統合されていって、最終的には今の天皇家につながるものと考えられます。
とすれば、当時の天皇が国の祭祀を統べる長であったのは当然の帰却なわけですね。
現在の新嘗祭などの行事が、
穀霊に感謝する形をとっているのもそうした理由からです。

ここまでは霊信仰のおおまかな流れについて論じてきましたが、
いくつか個々の信仰の例を見てみましょう。
弥生時代には近畿・東海地方を中心として銅鐸信仰と呼ばれるものがありました。
(それ以西には、銅剣・銅矛などの信仰があった)
銅鐸は、居住地からかなり離れた山中に埋められていることが多く、
埋めた状態で保管し、毎年掘り出して儀式に用いられていたとする見方もあります。
銅鐸には水に関連した紋様があることも多く、
耕作に関連した水の信仰であったのではないかとも言われます。
銅鐸には、シカ、鳥、トンボ、カエルなどの絵画が彫られていることも多いです。
銅鐸は弥生末のある時期にいっせいに姿を消し、古墳が作られ始めます。
これは銅鐸圏が他所からきた勢力に征服された証左だとする考えもありますが、
考古学的には受け入れられていません。やはり上記したように、
精霊信仰が首長霊の信仰に切り替わっていったと見るべきだと思います。

また鳥信仰と呼ばれるものもあります。
鳥形木製品(鳥竿)、鳥形埴輪の出土、絵画土器の鳥装シャーマン、古墳壁画に見る
古代船の舳先に止まっている鳥・・・様々な遺物に鳥のモチーフが登場します。
これにはいくつかの説が出ていますが、「鳥は、死者の魂を天上に運んでいく」
という解釈が有力なのではないかと思っています。
人の死によって、霊魂は別の国へと旅だっていくのです。
極楽でも地獄でもない、日本神話に見られる「根の国」のようなところへです。
これは「常世の国」「ニライカナイ」などとも通ずる概念でしょう。
それが仏教の影響を受ける前の日本の死生観だったような気がします。

『鳥形木製品』弥生時代


『銅鐸絵画』クリックで拡大




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