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蛭子(えびす)温泉

2013.07.16 (Tue)
あまり怖い話ではないんでここに投下。

もう十年以上前のことになるけど、木曽のほうに2泊3日の予定で釣りに行ったんだよ。
6月に会社の計画年休があって、同僚と二人で俺のハイエースで出かけた。
1日目は日中晴れて釣果もそこそこあったが、夕方から雷雨になって、車中泊であまり眠れなかった。
翌日も雨で、それでもカッパ着て竿を出したけど、つらくなってきて4時頃にはやめた。
天候は回復しそうにないし、もう帰ろうかとも相談したが、
とりあえず街に出て一杯ひっかけからビジネスホテルにでも泊まろう、ということになった。

で、県道を走ってると細い脇道があって、『えびす温泉』という木の案内板が見え、
それがすごく古びた感じで、きっと源泉の宿だろうから行ってみないかという話になった。
脇道に入るとゆるい上り坂になり、道路の舗装がきれて山の中に入っていく。
温泉はガイドに載ってないし、ナビでも出てこないんで少し心細くなってきた。
山の登り口に停めた軽トラに乗り込もうとしているじいさんがいたんで、温泉のことを聞いてみた。
じいさんの話では、一軒宿の温泉があるにはあるが、
経営者の夫婦が年をとり建物も老朽化して、今は親戚や知人くらいしか泊めてないはず。
ただ、風呂は入れるし上等の湯質だとのことだった。

まあここまで来たんだからと進んでいくと、道の上りがきつくなり、
車の窓は閉めてるのに硫黄の臭いがしてきた。山のまだすそのほうだと思うけど、
木が少なくなり白っぽい山肌がむき出しになって、
あちこちから湯気があがってる場所に出て、向こうに温泉宿が見えてきた。
カヤ葺きのいかにも古びた雰囲気の建物で、わざと古風に造られてるんじゃなく、
豪農の家を宿屋に改築したという感じ。
『蛭子温泉 源泉』という一枚板の看板がある。
宿の前は広い空き地になってたんで適当に車を停めて、玄関に向かった。
大きなガラスの4枚戸を開けて、
ロビーも何もないようだったから大声で「ごめんくださーい」と呼ぶと、
ややあって老夫婦が出てきた。
話してみると、宿はもうやってないがせっかくここまで来たんだから泊めてもかまわない、
風呂は入れるが飯はたいしたものは出せない、ということだった。
料金を聞いてみたらびっくりするくらい安かったんで、ちょっと相談して一晩世話になることにした。

その一番奥が俺たちの部屋で、6畳と8畳の二間。その6畳のほうに奥さんが布団を敷いてくれた。
そこに寝転がって、やることもないんで年代物のテレビをつけたが映らない。
電気がきてないわけではないので、電波の調整をしてないみたいだ。
そうこうしているうちに奥さんが夕飯を持ってきてくれた。
肉鍋と山菜のゴマ和えという内容だったが、ビールがついてたんでそこそこ満足した。
飯を食ってしまうといよいよやることがなくて、風呂にいくことにした。
一階に下りて声をかけると主人が顔を出して、浴場のある地下への階段を教えられた。
狭く急な木の階段を下りていくと木戸が一つだけあって、混浴のようだがどうせ俺らしかいない。

木戸を開けて驚いた。
岩窟風呂というのか、全体が大小の岩の組み合わせでできていて、天井が高く照明も薄暗い。
脱衣所はなくて、下に竹籠が置いてあったのでそこに服を入れた。
洗い場もないが風呂自体はかなり広い。
「すごいなここ」
「山の中を掘ったみたいだな。これって宣伝しだいでうけるんじゃないか」
「臭いもすごい、硫黄ガスなんか危なくないかな」
などと話したが、岩の裂け目がところどころにあって風が流れてくる。
湯は白色で熱い。風呂の向こう側1/4くらいが黄土色の湯ノ花で埋まってた。
その表面がぼこっぼこっと盛り上がってはじける。底から温泉がわき出しているようだ。
俺が入り口側、同僚が向かい合う形で奥のほうでつかっていると、いい気持ちになってきた。

すると、同僚の後ろの湯ノ花溜まりが少しずつ盛り上がってきた。
大きなガスの塊かと思って見ていたら、ずぼっという感じで泥人形が立ち上がった。
人の背丈くらいでつるっとした坊主頭。 両目はただの穴で、鼻も口もない。
たらたらと液状の泥が全身からしたたっている。
俺が「あーっ」と大声を出して立ち上がると、「何だよ」と同僚もつられてか立ち上がった。
「うしろ、うしろ」と俺が指さしたときには泥人形は崩れ落ちて、
湯ノ花のしぶきが振り向いた同僚の腰にかかった。
同僚の手を引っぱって風呂から上がり、今見たことを説明したが、
泥が崩れる最後しか見ていなかった同僚は信用しない。

とりあえず風呂から上がり、部屋に戻ってからもう一度風呂の中で見たものの話をした。
「変なこと言うなよ、ただ泥が動いただけだろ。あんないい湯だったのに」と、
やっぱり取り合ってくれない。
そうすると自分でも見間違いのような気がしてきた。それから同僚と少し釣りの話をして寝た。
次の朝は快晴で、同僚は朝風呂にいこうと誘ったが、俺はいかなかった。
「やっぱり何もおかしなことはなかったぜ」と、同僚が戻ってきて言った。
朝飯を食べて、料金を払い、礼を言って宿を出た。
それから渓流に向かったが、その日はびっくりするくらい釣れた。昼過ぎまで釣って帰った。

話はこれだけ。
その後同僚も俺も結婚して今も同じ職場にいるが、同僚の奥さんは3回流産して子供がない。
まあこのこととは関係ないと思うけども。

『陰 謀』ジェームズ・アンソール


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