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幽霊はなぜ祟るか

2015.05.30 (Sat)
だいぶ前になりますが「幽霊はなぜ怖いか」という記事を書きまして、
関連記事 『幽霊はなぜ怖いのか』
けっこう反響をいただいたのですが、
それとやや関連があるものの、基本的には違う話です。
日本の有名な幽霊譚は祟りの話ですよね。
関連記事 『日本四大怪談』

『四谷怪談』『累ヶ淵』『播州(番町)皿屋敷』と、中国に原典がある
『牡丹燈篭』をのぞけば、日本の幽霊はすさまじい祟りを発揮します。
ですから、子どもの頃からそういう怪談を聞かされていると、
「幽霊=祟るもの=怖い」 
という回路ができてしまっているという人もいるかもしれませんね。
さて、ではなぜ幽霊は祟ることが多いのでしょうか。
これは、欧米と比較することで見えてくるものがあるような気がします。

どっから話しましょうか。「R.I.P」という言葉をご存じでしょうか。
英語だと「Rest In Peace」で、元のラテン語は「Requiescat In Pace」でしたか。
亡くなった有名人が出てくるyoutube動画の、
コメント欄に書かれていることが多いですし、墓標に刻まれていたりもします。
これは日本語では「安らかに眠れ」と訳されるのが普通ですが、
rest という単語は休息、安息という意味があります。
では、亡くなった人はいつまで休息していればいいかというと、
これはキリスト教の場合、最後の審判までということになります。

これの解釈は宗派によって様々ですが、
基本的には「世界の終わりにイエス・キリストが再臨し、
あらゆる死者をよみがえらせて裁きを行い、
永遠の生命を与えられる者と地獄に墜ちる者とに分けるという」こんな感じです。
つまりR.I.Pは、最後の審判がくるまで休んでいなさいということなんですね。
カトリックの場合だと、最後の審判で肉体が復活して魂と結び合わされるとされ、
昔の魔女裁判でジャンヌ・ダルクなどが火あぶりになったのは、
肉体を失わせ、復活できないようにするためであったとも言われます。
アメリカで土葬がまだまだ一般的で、ゾンビ映画にとって好都合なのも、
土地が広いせいもありますが、このためもあるのです。

さて、欧米の幽霊話では、霊媒が意図的に呼び出す場合は別として、
死者が祟ったり、生者にとり憑いたりするものはきわめて少ないのです。
なぜかというと、人の魂を裁くのは神の専権事項だからです。
それはもちろん、昔のチャールズ・ブロンソンの映画(古い)のように、
家族を殺された男が銃をとって現実的に復讐したりということはありますし、
罪を犯した者は法廷で裁かれて罰を受けるわけですが、
人間の魂を裁くのは神にしかできないことなのです。

何回か話を出しましたが、『ゴーストーニューヨークの幻』という映画では、
悪人が死ぬと黒い影のようなものが出てきて、
そいつの魂をどっかに引きずりこんでいきますが、
これは後に神による裁きを受けることになるためです。
こういう観念が欧米人にはあり、人間が他の人間に、
霊的に復讐するという発想はしにくいのだと考えています。

これに対して、日本では裁くのは神ではなく、
「世間」であると個人的にとらえています。この世間というのは、
檀家制度や支配層、村落共同社会といった諸々のことです。
『四谷怪談』のお岩さんにしても、『累ヶ淵』の累にしても、
手ひどい仕打ちを受けてイジメ殺されたという経緯があり、
周囲の人々に「ああ、あの人なら化けて出てもしかたがない」
という共通認識があった場合、霊障事件は発生するのです。
これは被害者への同情と言ってもいいかもしれません。
あるいは加害者に対する社会的な罰とも。

幽霊は「恨めしや」と言うから幽霊であったわけですね。
ですから、江戸時代頃に「暗がりで生首が飛んでいるのを見た」
といった場合でも、すぐさま「それは幽霊だ」とはなりませんでした。
狐狸のしわざかもしれないし、妖怪なのかもしれません。
その生首がどこの誰かもわからない場合は特にそうです。
また、上記のような考え方から、身にやましいことがない人は、
幽霊を怖れる必要もなかったわけです。

ところが現代ではこの考え方がすっかり廃れてしまいました。
「何ともわからない白い霧状のもの」「黒い人型の影」
「誰の物ともしれない腕」こんなのも怪談では幽霊として扱われたりしますし、
恨みがないはずの人でも霊として姿を見せたりします。
これは、狐狸が化かす、妖怪が跋扈する、
といったことが信じられなくなったせいもあるでしょう。

有名な怪談で「かつての事故現場で幽霊が現れ、運転者を崖から落とそうとする。
運転者がなんとか踏みとどまると、もう少しだったのに、と言って消えてしまう」
というのがありますが、これなどは伝統的な幽霊譚からは外れています。
元の事故の原因はわかりませんが、故人の不注意だったのかもしれないし、
そうでなかったとしても、関係のない人を無差別に襲うのは、
通り魔殺人と変わりがないですよね。『牡丹燈篭』の話はこれに近く、
霊に見初められたという理由だけでとり殺されてしまいます。

ということで、現代の怪談はなんでもありの状況になっています。
さらに、オカルトではない「危ない人が危ない行動をとる」ような話まで
怪談に分類されてきているんです。
これは書きやすいとも言えますし、逆に書きにくいとも言えます。
両面があるので難しいところなんですが、
自分が思うのは、昔の怪談作者、例えば鶴屋南北などが、
現代の怪談を見たらどういう感想を持つだろうかということ。
それともう一つ。現代の怪談好きの人は、
ほとんど身にやましいことがない人ばかりでしょうが、
本当に幽霊を信じて怖がっているんだろうか、ということなんです。







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