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二度衆の話

2015.08.23 (Sun)
ここで話を始めてよろしいんですか? ああ、すみませんな。
見てのとおりの婆なもので、しきたりやら作法がようわかりませんもので。
好きなように話せばよい? そうですか、では。
これは、とうに死んだうちの婆様から子ども時分に聞いた話で。
しかもわたしは、あのころの婆様よりも歳上になっていますので、記憶違いやら、
よくわからないところがあっても勘弁してくださいませ。
婆様は明治の、ええ40年台の生まれで、88歳で亡くなりました。
その婆様がまだ数え歳、8歳のときのことですよ。
婆様は、東北の山間の村の生まれで、さして広い村でもないのに、
谷ごとにいくつかの集落に分かれておりまして、婆様が生まれた集落は、
世帯数で20ほど、合計100人と少しの人口であったそうです。

そこの集落には二度衆というものがおりまして、これは家系の話なのです。
約20世帯のうち、3軒が二度衆の家だったのです。
ああ、差別ということも関係があります。
山間の地でしたので、田畑もわずかなものでしたが、田植え稲刈りなどのときには、
二度衆のところにも手伝いには入ります。
ただし、二度衆は村の氏神神社の境内には入れませんで、年大祭のときも、
その3軒だけは戸口を閉ざし、家の中を真っ暗にしておりまして。
それと、二度衆の家とは婚姻ができなかったのだそうです。
ですから、二度衆は二度衆どうしで縁組をして。
もともと人の多い村ではなかったですので、それは二度衆の血は細るばかりで。
あのようなことがなくとも、遅かれ早かれ血は絶えてしまったことでしょう。

いえいえ、二度衆といっても、見た目はなにも変わりはしません。
男衆が多少気が荒かったくらいのものだったそうです。
他の村人ともっとも異なるのは、葬式のときだったのですよ。
当時すでに、火葬は政府から奨励されておりまして、村にも小さな焼き場はありましたが、
これが火力が弱くて、遺骸が焼け残ろことが多かったのです。
それで、一般の村衆のところでは多くがまだ土葬でした。
山の斜面に埋めておりましたが、そのような畑地にならない土地ならいくらもありましたから。
ところが、二度衆の場合は必ず火葬にしなければならない定めでした。
それも焼き場の窯ではなく、薪をつみ上げまして、完全に白い灰になるまで焼くのです。
死んだ翌日の朝まで。これは何が何でも守らなければならない定めだったのですよ。
それで、婆様が8歳の年に、一軒の二度衆の家の娘が亡くなりました。

肺結核です。当時は大変多く、また治癒率も低かったので死病と言われていたものです。
まだ数えの17歳だったそうです。それはそれは、
子どもだった婆様の目から見ても、きれいな方だったということです。
でな、亡くなった知らせが入りますと、村の主だったもの総出で、
そこの家をお訪れ、遺骸を棺桶に詰めて荷車で寺まで運び入れまして。
その頃には村の衆により、小高くなった寺の敷地の下の窪地に薪がうず高くつまれておりまして、
ええ、夜明けと同時に死んだ娘を焼くことになっていたのです。
婆様は子どもでしたから、娘の通夜には10時頃まで親と一緒にいて、
その後、家に戻って寝たそうです。事件はその夜半にかけてあったんですよ。
娘の遺骸は、寺の奥の間に寝かされて村の衆がかわるがわる見張りに立っていたのですが、
もうすぐ焼き方が始まるという朝の3時過ぎ、姿が見えなくなってしまったのです。

理由はすぐに思いあたったそうです。そのときに見張り番をしておった村の若い衆も、
一緒に姿を消しておりましたから。その男は二十歳をいくつか過ぎたばかりで、
死んだ娘に懸想している、という噂があったのですよ。
まあ、今から考えればなんとも気の毒な話で、
お互いに想い合っていたとしても、村のしきたりで祝言はできず。
かといって手に手を取って逃げ出しても、当人らはいいかもしれませんが、
残された家族は家族で村八分のきつい目に合わせられる。
ですから、薄情なような話ですが、娘が結核にかかったのは、
一つの天の配剤と、村の衆の多くが思っておったそうです
すぐに寺の周囲を探しましたが、男があらかじめ支度してあったものか、
姿かたちもなし。ま、そこらここらに深い藪のある土地だったそうですから。

おろおろしている和尚を尻目に、集落の長が集まって、
山狩りの隊を組織しまして。ええ、そこいらは集団で猟をする、
鉄砲を持った方が大勢おられるところでしたから。
ただ、二度衆の場合は、獣に対する巻狩りのようなことは通用しません。
生きたものではないのですから。本能的な行動はしないのです。
息もしなければ、草で手足を切っても、転げて脚を折っても痛くもないのです。
しかし、そのときは生きた村の男も一緒に行動しておりましたから、
その男を追えば、娘の遺骸も見つけられるだろうと考えたわけです。
ところが、そのあてはすぐに外れてしまいました。
娘が死んだ翌日の夕方には、逃げた男の死体が村外れの湿地で見つかったのです。
ものすごい力で引っ張られたらしく、男の四肢の関節は外れ、首がなくなっていたそうです。

夜間はどこの家も、厳重に戸締まりをして寝ずに過ごした翌日、
次の手が打たれました。死んだ娘の両親。
・・・といっても母親はとうに亡くなっておりまして、父親だけですが、
大急ぎでこしらえた木の檻に入れられまして。
いやこれは、本人は納得ずくの行動でありましたでしょう。
山のとば口まで運ばれ、そこで檻の中から大声で娘の名を呼ぶわけです。
まわりをぐるりと鉄砲を構えたマタギ衆が囲みまして。
朝から娘の名を叫び続け、声も枯れ果てた過ぎ、山から娘が下りてまいりまして。
白い経帷子は血泥で汚れ、肌は青紫に近く変色し、片手には男の首を下げておったそうです。
もうおわかりでしょう。二度衆とは二度生きるという意味です。
それも二度目は人ではないものとして。

娘の足取りはしっかりしたもので、生前、死病で長く寝込んでいたとは、
とうてい思えないものでした。周囲のマタギ衆の銃口にも、
動じる風はなかたっということです。そこらへんの判断はできなくなっていたのでしょう。
娘は傷んだ魚のような両眼を見開き、檻に近づいていきまして。
そのときの父親の心境はいかばかりでしたか。
マタギの頭の合図で、鉄砲衆が囲んだ距離を詰め、ライフル銃が一斉に火を吹いて、
娘はその頭部のおおかたを失ってその場に倒れたのです。
マタギの何人かが散弾銃に持ち替え、近寄って娘の体を撃ちましたが、
その必要はなかったようです。三度目はないことになっていたのです。
和尚がおそるおそる近づいて経を唱えだし、傍らに放り出された男の首は回収されました。
まあ、このようなお話なのです。

これはもちろん、子どもだった祖母が目撃したことではありませんので、
大きくなって周囲の者から聞き知ったものだと思われます。
ですから、中には事実と異なっている部分もあるでしょう。
さらには、また聞きのまた聞きですからねえ。これは10歳ころ、夜寝つけなかったわたしが、
婆様に寝物語をせがんだ末に、ぽつりぽつりと離してくださったものなのです。
どうして子どものわたしに、このような怖ろしい話をなさったのかわかりませんが、
もしかしたら、その時代のこと、その娘のことが、
風化して忘れ去られるのが惜しいような気もあったかもしれません。
村のその後ですか? ええと、その娘の父親と年下の弟は、
何年か後にやはり結核にかかって亡くなったそうです。
その家は絶えてしまったわけでございますね。

残る二軒の二度衆の家ですが、太平洋戦争が始まってすぐに、
息子たちは招集され、そのまま帰ってはきませんでした。
娘らも、憲兵隊が村まで来まして、連れ去ったということです。これも行方は知れません。
ですから、それらの家も絶えてしまったのだと思われます。
それどころか、戦争の末期に、兵隊が大勢村を訪れてきて、
婆様たちは強制的に近くの村に移住させられてしまったのですよ。
なんでも、戦局を大きく好転させることができる可能性のある鉱物、毒石が、
集落の奥の山にあるかもしれないという話だったようです。
しかし、それは見つからな方かったのでしょう。戦争は負けてしまいましたからね。
・・・このような話で謝礼がいただけるのはありがたいことです。
孫たちに好きなものを買ってやることができます。では、これで。







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