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扇子

2015.08.30 (Sun)
私が中学1年生のときの話です。父は商社のサラリーマンで、出張が多く、
半年ほど東南アジアを回っているときもありました。
母は、自宅の和室を使って茶道教室を開いていましたが、
謝礼は実費程度のもので、十数人、生徒さんがおりました。
そのときはまだ妹がいなかったので、一人っ子で甘えてばかりいた記憶があります。
10月のある日曜日のことです。そのときは珍しく、
父は会社関係の人たちと釣りに出かけていました。
私は部屋でのんびり過ごしていたんですが、10時過ぎになって、
母が部屋にきて「ちょっと出かけるから、一緒に来なさい」と言いました。
そのとき、びしっと和服を着ていましたので、
これはきっと外で食事をするんだろうと思って、ウキウキしてついていきました。

ところが母の車は、駅前通りを過ぎて、高速に入っちゃったんです。
「ねえ、どこへ行くの」そう聞いたら、「〇〇市のお寺」って言われて驚きました。
それは同郷の両親の実家がある市で、9月のお彼岸のときに行ったばかりだったんです。
「またお墓参り?」と聞いたんですが、母は答えてくれませんでした。
それで私はずっと、車のモニターでアニメのDVDを見てたんです。
〇〇市までは2時間ほどかかりました。高速を降りてすぐのファミレスに入って、
昼ごはんを食べました。もっと高級なところに行くのかと思ってたので、
ちょっとがっかりでしたが、その後向かった先が、お寺はお寺でも、
いつも行っているお墓のあるところとは別で、初めて行くところでした。
「えー、ここ何?」って聞いたんですが、それには母は答えず、
「ご住職にきちんとあいさつしなさい」そう言って、玄関口の呼び鈴を押しました。

出てきたのは、たぶん60歳ぐらいの作務衣姿のお坊さんで、母と私がおじぎをして、
かなり広い和室に通されました。おそらくお葬式のときの控え室になるようなところです。
座卓が4つ縦に並べられていまして、その床の間に近いほうに座りました。
そこで、お茶とお菓子をいただいたんですが、母とお坊さんが長話を始めると、
私は正座してた脚がしびれてつらくなりました。
しばらくしてお坊さんが「じゃあ、持ってきますので」と言って出ていき、
すぐに木の箱を持って戻ってきました。
それで、母とお坊さんが向かい合う形で座って箱を開けました。
私ものぞき込んだんですが、中には古くなって黄ばんだ写真が、
そうですね、200枚以上乱雑に入っていました。
ほとんどがモノクロの写真で、見たことがない家族を写したものでした。

ええ、出てくる人が同じだったんです。品のよさそうな和服のおばあさん。
その人が祖母だと思いました。それと今どき見ない丸い黒縁のメガネをかけたお父さん、
お母さんはきれいな人で、お父さんよりかなり若く見えました。
それと、ちょうどそのときの私と同じくらいの女の子。
いえ、私とは顔が似ているということはなかたっと思います。
髪型も、その子はテレビのサザエさんのワカメちゃんみたいなおかっぱでしたし。
そうですね、今になって考えると、戦前、昭和一桁くらいのものだったと思います。
その写真の中で、女の子が写っている写真を一枚一枚、テーブルに敷いた和紙の上に取り出し、
母がその写真の上に右手の人差指をのせたんです。
ほとんどの写真に対して、母は「これは大丈夫です」と言いましたが、
「これはちょっと」とか「障りが残ってます」こう答えた写真は脇に寄せられました。

そういうのは10枚に一枚くらいでした。
私は、足がしびれたのと飽きてきたのとで、母の袖を引いて、
「お母さん、お庭見てきてもいい」と小声で聞いたんです。
それが聞こえたのか、お坊さんが「いいですよ。いってらっしゃい」そう言ってくださったので、
なかば這うようにして部屋を出て、廊下に座り込んで親指を引っ張ったりしました。
それから玄関を出て、本堂のまわりをぐるっと回ってみました。
いつも父母と行くお寺とは違って、どこにもお墓がなかったんです。
それと、本堂の入り口の上のほうに、大きな亀や龍の彫刻がついてて、
そういうのを見たりして時間をつぶしました。
いえ、怖いという気持ちはなかったです。さんさんと陽光が降り注いでいましたし。
30分くらい外にいて戻ってみると、あらかた写真は仕分けされていました。

二つになっていた写真の山の、少ないほうをお坊さんが和紙に包み、
「ではよろしいですね。こちらはご供養に回しますよ」
懐に入れて立ち上がり、部屋を出て行きました。母は一仕事終えたみたいに肩で息をついていて、
「今の写真は何?」って聞きたかったんですが、そうできませんでした。
これについては、今になっても何であんなことをしたのかわかりません。
私を連れていった意味も。外で日が陰ったのか、急に障子が暗くなりました。
そのとき気配を感じたんです。横を見ると、座卓が縦に4つ並んだうちの、
私から近いほう2つ目の座布団の横に、海藻のようなものが落ちていました。
もじゃもじゃで、黒っぽい緑色の。「何かな」と思って見つめていると、
それがだんだん上に浮き上がってきました。「え?」海藻の下には、
白いぶよぶよしたやわらかいもの。

あの、傷口にずっと絆創膏を貼っておくと、下の皮膚がふやけますよね。
ちょうどあんな色で、かぼちゃみたいな形の。だんだん上に出てくるにつれて、
二つ黒い眼窩があるのがわかりました。「人の頭? それが畳から生えてる?」
私は固まってしまったんですが、放心したような状態の母の袖をなんとか引っ張りました。
「あ、あれ!」母がそちらを見て、ビクンと体が震えました。
私の体をつかんで後ろに下げるようにし、自分は正座の姿勢のまま、
それのほうに出たんです。それはもう口のあたりまで浮き上がっていて、
やはり真っ黒く開いた鼻の穴、それと厚く腫れた唇。
唇はかっと開いて、やはり黒い口と、ぼろぼろになった歯が見えました。
「いやー、何あれ!!」私は叫び声を上げてしまいましたが、母が私を手で制して、
ゆっくりした動作で数寄屋袋を引き寄せ、中から茶道の扇子を取り出しました。

それはもう肩まで畳から出て、こちらに向かって腕を伸ばしていましたが、
母は自分の前の畳に扇子を横一文字に置いたんです。
それが「おああああ~~」というような声をあげると、
母は静かに、しかし強く首を振りました。
そのとき、血相を変えてお坊さんが部屋に走りこんできました。
するとそれは、上半身だけで畳にうつ伏せになり、そのまますっと消えたんです。
母が、数珠を持った手を前に伸ばしたお坊さんに向かって「まだ許されていないようです」
こんなことを言いましたが、なんとなく恥ずかしそうな響きを感じました。
怖いことはこれだけでした。その後は寺を後にして車で家に戻っただけ。
帰りの車中で、よほどさっき畳から出てきたもののことを聞こうと思ったんですが、
できませんでした。母の背中から、全身で質問を拒否してることがわかりましたから。

車を降りるときに、「今日のことはお父さんには内緒」母が言いました。
その後も、何度もこの日のことを思い出して、その度に母に質問しようと考え、
いざとなって言い出せなくなってやめる。そのくり返しでした。
あのことを聞いたら、せっかく幸せにやっている家族の関係が、
崩れてしまいそうに思えたんですよ。
畳から出てきたものは、写真の家族の誰とも似ているとは思いませんでした。
というか、あまりにも白くふやけてふくらんでいたので、
もし写真の誰かだとしても見分けられるとは思えないです。
・・・その後、震災があって、私も長く水に漬かっていたご遺体を、
いくどか目撃したんですが、それと同じ状態だと思いました。
これでほとんど話は終わりなんですが・・・

今年になって、私に妹ができることになりました。
生まれてくるわけではなくて、出張中の父が、インドネシアの孤児の女の子を、
養子に迎えることに決めたんです。2012年のスマトラ沖地震で両親を失った子どもです。
私たちも東日本大震災を経験して、幸い家族に被害はありませんでしたが、
人事とは思えなかったということです。母も手放しで賛成しています。
父の同僚のアメリカ人たちにも、現地の子を養子として育てている人は多いんだそうです。
その子は人身売買の組織から取り戻されたばかりということでした。
今、そのための手続きを、NPOにお願いして進めているところなんです。
それで、父からはその子の写真を見せてもらったんですが、
あのお寺で見た写真の女の子によく似てるんです。でも、時代も違うし、
日本人とインドネシア人だし・・・ どういうことなのか不思議でなりません。








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