FC2ブログ

放生会と古代日本

2020.06.07 (Sun)
c  c (2)
筥崎宮の放生会 お祭りになっています

今回はこういうお題でいきます。地味な日本史の内容になるので
スルーされたほうがいいかもしれません。さて、放生会は
「ほうじょうえ」と読み、「捕獲した魚や鳥獣を野に放し、
殺生を戒め、功徳を積む宗教儀式」とネット辞書に出てきます。
放生会で放されるのは、鳥、川魚、亀、海水魚とさまざまです。

放生会は、中国の仏教界で行われるようになったのが日本にも
伝わり、天武天皇が自身の病気平癒を願って、677年、
諸国へ詔を下して放生を行わさせたとなっています。
ただし、これはその時かぎりのもので、儀式として定着したのは、
724年、現大分県の宇佐神宮で行われたものが最初とされます。

で、この放生会、じつは日本史にとって大きな意味があったんですね。
まず、なぜこのときに放生会が行われたのか。8世紀初頭に起きた
「隼人の乱」の鎮魂のためです。隼人の乱については、前に
少しだけ書きましたが、もう一度おさらいしてみましょう。

放生される亀の浮世絵
c  c (3)

7世紀、大和朝廷はちゃくちゃくと全国の支配を進めていましたが、
その支配に抵抗した人々も各地にいました。南九州の阿多・大隅
(現在の鹿児島県本土部分)に居住した隼人族もそのうちの
一つです。大和朝廷は律令制を全国に敷こうとしたんですが、
律令制の班田収授は稲作を中心とした制度で、

シラス土壌の広がる九州南部には合わなかったんですね。
隼人が大和朝廷に帰属したのは7世紀の終わり頃と考えられますが、
たびたび叛乱を起こしています。大きいのは713年にありましたが、
720年、大宰府から朝廷へ大隅国国司が隼人に殺されたという
報告が入ります。隼人側は数千人の兵を集め、

隼人のイメージ 顔に黥があったとも言われます
c  c (6)

7ヶ所の城に立て籠もった。これに対し朝廷側は万葉歌人として
有名な大伴旅人を大将軍とし、九州各地から1万人以上の兵を集めて
進軍、城を次々と陥落させていきます。こう書くと戦国時代の
籠城戦をイメージされるかもしれませんが、この時代は、
城と言っても砦レベルのものです。

戦いは1年半にもわたりましたが、翌721年、隼人の全面敗北で
終わり、隼人側の戦死者と捕虜は、合わせて1400人と
伝えられています。この反乱の影響は大きく、
班田収授の法の適用は延期され、大和朝廷は隼人の地への
移民政策を進めていくことになります。

宇佐神宮 この下に邪馬台国の卑弥呼の墓があるという話も
c  c (4)

さて、日本神話には南九州を舞台にしたものが多いですよね。
海幸彦・山幸彦の話がそうですし、その子孫である神武天皇は
南九州の日向を出発して東征を行い、大和の地に入って
初代天皇となります。つまり、天皇家の祖先は南九州から来た。

なぜそうなのか。それが事実だからだという意見もありますが、
自分は、隼人の乱勃発と同じ720年に完成した『日本書紀』に
南九州の神話が取り込まれたのは、「まつろわぬ隼人」を
懐柔するための朝廷側の配慮だと考えています。・・・これに
深入りすると終わらなくなるので、放生会の話を進めます。

神武東征のルート
c  c (8)

この放生会を最初に行ったのが宇佐神宮ですが、じつは兵を出して
朝廷側について戦ってるんです。また、宇佐神宮の主祭神である
八幡神が「自ら隼人征伐に赴く」と託宣されたので、輿に乗せて
戦場まで運んだのが、日本におけるお神輿の始まりとも言われます。

このとき、宇佐神宮の主力になったのが辛島氏という渡来系の
氏族、また隼人側についた鹿児島神宮の勢力も同じ辛島氏。
同族内での争いという側面もあったんです。で、すべてが終わり、
亡くなった隼人族の鎮魂のために始めたのが放生会です。
宇佐神宮では巻貝を、鹿児島神宮では海水魚を放生するようです。

僧形八幡像
c  c (5)

さて、この事件の影響は大きく2つあります。一つは神仏習合が
進んだこと。放生会の殺生戒は仏教の教義ですよね。
それが神社で行われたのは、八幡神があまりの殺生をしてしまった
ことを悔い、仏教に救いを求めたためとされます。これを契機として、
宇佐では神仏習合という先進的な思想が生まれたんです。

八幡神とは、一般的には応神天皇のこととされますが、
実体は定かではなく、九州土着の神や渡来系の神が入り混じった
複雑なものです。全国の武家から武運の神としての信仰を集め、
仏教のほうでは八幡大菩薩と称されます。本地垂迹説が広まると、
僧の姿で表されるようになり、これを「僧形八幡」と言います。

もう一つは、宇佐神宮が大和朝廷の中で大きな権威を持ったこと。
何を言いたいのかおわかりでしょう。後年に起きた道鏡事件です。
称徳天皇(孝謙天皇)の寵愛を受けた僧、弓削道鏡が769年、
天皇位を得ようとしたとき、和気清麻呂が宇佐神宮に赴いて、
「皇族でない者は天皇位にはつけない」という神託を持ち帰ります。

10円紙幣の和気清麻呂
c  c (1)

これで天皇の不興を買った清麻呂は、別部穢麻呂と改名させられ
大隅国に流されます。やがて翌年、孝謙天皇が崩御すると、
道鏡は下野国の薬師寺別当へ左遷となり、日本史上の天皇家の
危機は回避されることになりました。戦前はこの功が評価されて、
和気清麻呂の10円紙幣なんかがあったんですよね。

さてさて、ということで、放生会が始まった周辺事情を
ざっと見てきましたが、日本古代史の、じつに重要な論点を含んだ
ものなんです。個人的に興味があり、このあたりのことは
かなり深く調べてるんですが、オカルトブログとしては概略だけに
とどめておきます。では、今回はこのへんで。

c  c (7)





天皇キリスト教徒化計画

2020.05.30 (Sat)
xfhnx (4)
宮中祭祀

今回はこういうお題でいきます。かなり地味な日本史の話題に
なりますので、スルーされたほうがいいかもしれません。
さて、今上陛下の宗教は何か? こう聞かれたら、みなさんは
どう答えられますでしょうか。おそらくですが、大部分の方は
神道と回答されるんじゃないでしょうか。

それで正解です。今上陛下も宮中祭祀をされています。
これは、天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的に
おこなう祭祀で、皇居宮中三殿で行われる祭祀には、
天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭と、
掌典長らが祭典を行い、天皇が御拝する小祭があります。

ただ、太平洋戦争の敗戦後、新憲法やその他の法律には、
宮中祭祀についての明文はなく、現在の宮中祭祀は、
皇室の内廷費によって処理されています。ですので、
多くの憲法学者は現在の宮中祭祀を、
「天皇家が私的に行う儀式」と解釈しています。

歴代天皇の仏塔
xfhnx (5)

これは以前に記事に書いてますが、そもそも天皇家は
天武天皇以後1000年以上の長きにわたって、熱心な仏教徒
だったんです。御所には仏壇があり、位牌があり、戒名があり、
仏塔式の墓所があり、葬儀をはじめとするさまざまな儀式は、
仏式で行われていたんです。

天皇家が日本神道に回帰したのは明治新以降のことです。
明治新政府は、国の柱として国家神道を打ち立て、
天皇を現人神としてその中心に据えました。では、天皇家と
キリスト教の関係はどうだったんでしょうか。

フランシスコ・ザビエル
xfhnx (6)

天皇家を、つまり日本をキリスト教国にしようとする試みは
過去に2度あったと考えられます。そのどちらもが、
日本史上の大転換期でした。最初に企てた人物は、
スペイン生まれのイエズス会士、フランシスコ・ザビエルです。

1548年、ザビエルは洗礼を受けたばかりのヤジロウ他
2人の日本人とともにインドのゴアをジャンク船で出発、
日本に向かいます。ちなみにヤジロウについては興味深い
オカルト話を過去記事にまとめていますので、
興味を持たれた方は参照してください。

その船内で、ザビエルはヤジロウに日本の政治情勢について
尋ねます。ヤジロウは「日本には2人の王がおり、第一の王
(天皇)がすべての権限を持っているが、あらゆることを
第二の王(将軍)に任せている」と答えるんですね。
ただ、ヤジロウは九州出身の倭寇であり、京都に行ったことは

ザビエルが面会を試みた後奈良天皇
xfhnx (2)

ありませんでした。これを聞いたザビエルは、おそらく、
ヨーロッパのローマ教皇と各国王の関係を連想したんでしょう。
まずは京都に行って天皇に会い、キリスト教への改宗を
勧めようと考えました。しかし、実際に踏んだ京都の地は、
長く続く戦乱で荒れ果てており、面会の請願を出したものの、

当時の後奈良天皇、征夷大将軍・足利義輝にも会うことが
かないませんでした。これは、そのとき献上の品を持ってきて
なかったためとされます。この後もいろいろとあり、失意のうちに
日本での布教を断念したザビエルは、日本文化に大きな影響を
与えている中国への布教を、まず最初にしなくてはならないと考えます。

日本最初の正式なキリスト教徒ヤジロウとザビエル
キャプチャふぇffrgrっgr

しかし、中国(明)への入国前に病没してしまうんですね。
46歳でした。この後、織田信長はキリスト教の布教を許可した
ものの、秀吉がバテレン追放令を出します。徳川時代に入って
島原の乱が起き、江戸幕府はキリスト教国の来航とを禁ずる
ことになります。まあ、このあたりのことはご存知でしょう。

さて、2回目は太平洋戦争の敗戦後です。連合国軍最高司令官
ダグラス・マッカーサーは昭和20年、天皇と面会し、
日本統合のため、天皇制の存続を決めます。翌昭和21年、
昭和天皇は国民に向けて「人間宣言」と呼ばれるメッセージを
出します。これはGHQの意向をくんだものです。

昭和天皇とマッカーサーの有名な会見時の写真
xfhnx (3)

この前後、ローマ法王庁やマッカーサーが、昭和天皇を
キリスト教に改宗させようとした動きがあったとされます。
ただ、これは秘中の秘なので、資料がほとんど残っていません。
ですから、現状では陰謀論の域を出ないんですが、自分は
そういう策動そのものはあったと考えています。

同じ年、昭和天皇はアメリカ教育施設団団長ジョージ・スタッダード
との会見で、自ら「皇太子(今上上皇)の家庭教師として、
教養あるクリスチャンの婦人を紹介していただきたい」と
依頼したとされます。「クリスチャンの」とつくところが
ちょっとただごとではないですよね。

今上上皇とヴァイニング婦人
xfhnx (7)

まあ、これは日本と皇室が、天皇制を存続させようとする工作
だったとする意見もあります。しかし実際に、厳格なキリスト教の
宗派であるクエーカー教徒のヴァイニング婦人が家庭教師に
ついて英語を教えることになるんです。また、ヴァイニング婦人は
皇太子が学ぶ学習院でも講義を行っています。

さてさて、ヴァイニング婦人は、今上上皇陛下にキリスト教的
価値観に基づく平和主義と温かい家庭主義を教えたとされます。
婦人は勲三等宝冠章を受章し、アメリカに帰国しますが、
後年、ベトナム戦争反対のデモに参加して、ワシントンの
国会議事堂前で逮捕されてるんですね。では、今回はこのへんで。

xfhnx (1)





『新著聞集』の怖い話

2020.05.06 (Wed)
fbfb (5)

今回は趣向を変えて、古典のご紹介をします。当ブログでは、
自分の好みで平安時代の『今昔物語』を取り上げることが多いですが、
表題の『新著聞集』は江戸中期の随筆、説話集で、
紀州藩の学者、神谷養勇軒が藩主の命令で編集したもののようです。
377話が収録されていますが、必ずしも怖い話だけではありません。

一話の分量は掌編程度のものが多く、『今昔物語』よりは全体的に
短いです。長い間言い伝え続けられてきた話の、
エッセンスだけを抜き出したような感じですね。
あと『今昔物語』と比較して、やや仏教色は薄いかなと思います。
さて、何話くらいご紹介できますでしょうか。

・人肉を喰らう僧の話
増上寺塔中の徳水院に、あるとき、埋葬のために死者が運ばれてきた。
沐浴・剃髪も頼まれたので、一人の僧が髪を剃ったが、
どうしたことか失敗して、頭の肉を一寸ばかり剃り落としてしまった。
僧は狼狽し、その場にいる施主に見つかったらまずいと、とっさに
自分の口に入れて隠した。ところが、その味が何ともいえず

美味だったので、ついにそのまま噛んで食べてしまった。
以来、人肉の風味が片時も忘れられなくなった。我慢できずに寺の裏の
墓地に忍び込んで土を掘り返し、埋葬した屍体の肉を喰らうことが
毎晩になった。住職の僧は墓地が荒らされるのを不審に思って、
夜更けまで隠れて見張っていたところ、狐か犬の仕業と思っていたのが、

さにあらず、わが寺の僧だったので、呆れつつもぞっと背筋が寒くなった。
翌日こっそり本人を呼んで子細を尋ねると、僧は涙を流し、「まことに何の
因果でしょうか。どんなに心を押さえても押さえかね、あのような所業
に及んでしまうのです」と懺悔した。「このうえは、人との交わりを断ちます」
と言って暇を乞い、寺を立ち去ったという。元禄年間のことである。

鳥山石燕の「野寺坊」
fbfb (6)

これは有名な話ですね。この僧はおそらく、幼少時からしっかり
戒律を守り、飲酒や肉食を行ったことはなかったんでしょう。
それがたまたま、しくじって死人の頭の肉片を削いでしまった。
隠そうと口に含むと、えも言われぬ味のため、思わず咀嚼して飲み込み、
ついには死肉を喰う鬼と化した。

人肉食の話なわけですが、ほぼ同じ頃に書かれた上田秋成の『雨月物語』には、
「青頭巾」という話が出てきます。ある僧が、自分についていた稚児が
死んでしまい、悲しみのあまり遺体に添い寝していたが、ついに気が狂い、
やがてその死肉を食らい、骨をなめ、食い尽くしてしまった。それからは
山に籠もり、夜になると人肉を喰らいに村の墓所に下りてくるようになった。

「応声虫」
fbfb (7)

・応声虫の話
京都の油小路二条上町の屏風屋、長右衛門の子で長三郎という12歳の
少年が、元禄16年、5月上旬にひどい熱を出した。いつまでも治らず、
中旬になると腹に腫れものができたが、人の顔に見える。
その口が開き、本人とは違った野太い声で「食い物をくれ」と言う。
ためしに口に入れてみると何でも食べる。

食い物を減らすと高熱を出し、罵りの言葉を吐き散らした。
かわるがわる医者がやってきたものの、どうにもできなかったが、
7月になって、高名な菱玄隆という医師が訪れ、「このような病状は
日本ではまだ知られていないが、外国の本にはあることです」
そう言って、さまざまな薬種を腫れ物の口に入れ、

嫌がって食わないもの6,7種を丸薬とし、「どのような悪口を言おうと
飲ませて下さい」と、これは本人の口から服用させた。すると2日もたつと、
腫れ物の声が枯れ始め、物も食わなくなり、10日ばかりで肛門から
1尺1寸(35cmほど)の、額に一本角がある雨龍のようなものが
出てきたので、それを即座に打ち殺してしまった。

回虫
fbfb (2)

これは中国の書物に見られる「応声虫 おうせいちゅう」というものでしょう。
それが腹に人面疽をつくって、そこから食物を取る。腹の中から虫が声を
出すという症状を受け、中国では「自分の意見をもたず付和雷同した
意見のみを言う者」を応声虫とからかって呼んだとも言われます。
おそらく、実在の寄生虫である回虫からきた話だと考えられます。

・猫又の話
江戸の増上寺の脇寺の徳水院に、長いこと飼われていた赤猫がいた。
あるとき梁の上で鼠を追い回していたが、どうしたことか下に落ちた。
猫は何とか着地したが、そのとき「南無三宝!(助けて)」と大きな声を出した。
人々がそれを聞いて、「さては猫又になったか。それにしても下手くそな
化け方だ」と囃すと、いつのまにか姿を消してしまった。元禄年間のことだ。

踊る猫又たち
fbfb (3)

最初の話と同じ徳水院が舞台です。江戸時代のお寺では猫を飼っている
ことが多く、これはお供えの品や灯明、経典を鼠にかじれられないため。
猫の寿命は長くても15年でしょうが、それを超えて生きると
「猫又」という妖怪になると信じられていました。

猫又は山奥に住んでいる場合が多いですが、家猫も齢をとるとなります。
しっぽが二又に分かれてくるんですが、猫はそれを隠します。
人語を解し、また自分でもしゃべれるようになり、とっさのときに
ボロが出てしまう。そうなったら、寺の和尚はその猫に手ぬぐい一本を
与えて暇を出します。手ぬぐいは頭にかぶって踊るためのものです。

六道輪廻図
fbfb (1)

・牛の前世の話
京都の河原町の牛屋で、あるとき牛が主人の夢の中に現れ、「明日は
私を休ませてください。明後日には死ぬのです。死んだら〇〇の寺に
葬って下さい。じつは私はその寺の三代前の住職だったのですが、
生前の悪行のため牛の身に生まれ変わったのです」と告げた。
起きて不思議に思い、女房にその話をすると、
「じつは私もまったく同じ夢を見た」と言う。翌日は牛を休ませ、

その次の日、夢のとおりに牛は死んでしまった。〇〇の寺に葬らなければ
いけないが、どうやって説明しようか困っていると、なんと
その寺から一人の僧がやってきて、「私は〇〇寺の今の住職ですが、
牛の死骸をいただきたい」と言う。驚いてわけを聞くと、やはり夫婦と
同じ夢を見ていたので、「それでは」と牛の死骸を渡してやったという。

これはよくある転生譚ですね。住職にまでなったにもかかわらず、
何らかの罪を犯して畜生道に落ちていたんでしょう。これらの記事の
文章は自分が意訳したものです。この他にも、女の嫉妬がからんだ
怖い話などもありますので、興味を持たれた方はネットに現代語訳が
出てるので一読してみてください。では、今回はこのへんで。

fbfb (4)




敵討ちの話

2020.05.02 (Sat)
xxxxxd (3)
「伊賀越えの仇討ち」

今回は敵討ちの話で、仇討ちとも言います。テレビの
時代劇では、敵討ちがからむ筋立ては定番ですよね。
主人公の武士が巡礼の姉弟と出会う。若い身空で何か事情が
ありげなので探ってみると、敵持ちであることがわかる。
武士は助太刀を申し出るものの、

見ず知らずの人ということで断られる。その後3人は
江戸に出て、さらに調べると敵は武士身分を捨てて商人となり、
ある藩の江戸屋敷に出入りしている。そしてそこで、
抜け荷などのさらなる悪巧みが行われていることが
判明する・・・陳腐きわまりないと言えばそうですが、

こういうワンパターンこそが時代劇フアンの心をつかむんです。
さて、敵討ちは日本では古来からあったとされますが、
制度として定められたのは江戸時代からです。
鎌倉時代、1232年の御成敗式目では敵討ちは禁止でした。
これについては後述します。

xxxxxd (1)

喧嘩は両成敗であり、成敗するのは当該者の主君の役目でした。
ただ、敵(かたき)が他の領地に逃亡してしまうこともままあり、
そこまでは主君の警察権はおよびません。
このような事例は多数あったようで、しかたなく敵討ちが
制度化されたという側面があるんです。

さて、敵と呼べるのは、自分の父母や兄等尊属の親族が
殺害された場合だけで、卑属(妻子や弟妹等)に対するものは
認められていません。また、家来が主君の敵を討つということも
一般的ではありませんでした。このことにも後でふれます。
手続きとしては、主君がまず敵討ちの認可状を出します。

xxxxxd (6)

多くの場合、敵は他国に逃げているので、藩を越えて移動するには、
江戸の場合は町奉行に申し出、勘定奉行、寺社奉行を含めた吟味で
認められれば公儀御帳に帳付け(記載)が行われます。
で、見事敵を討った後は、役人に捕縛されるか自ら奉行所に出頭、
そこで帳付けに氏名があった場合は無罪放免です。

地方の藩の多くでは、敵討ちがなされない場合は家督を継ぐことが
できなかったので、家は困窮し、敵討ちに出た者は親類などの
援助で旅を続けました。見事敵を討てばお家再興となりますが、
そうでない場合、郷里に帰ることはできません。まあそれでも、
日本は島国で外国へ逃げるまではできなかったので、

こういう制度も成り立っていたんでしょう。あと、敵討ちは
処罰ではなく決闘という面が強く、相手にも自己防衛が
認められていました。そこで討手を倒せば返討ちですね。
また、討たれた側の関係者がさらに復讐をする重敵討は、
どちらが死んだ場合でも禁止です。きりがないですからね。

富士・鷹・なすび
xxxxxd (7)

さて、みなさんは今年の初夢は何だったでしょうか。
見ると縁起がよい夢として「一富士、二鷹、三なすび」などと
言われますが、これは日本三大仇討ちを指しているという
説があります。三大仇討ちは、「赤穂浪士の討ち入り」
「曽我兄弟の仇討ち」 「伊賀越えの仇討ち(鍵屋の辻の決闘)」

富士は曽我兄弟の話の舞台になった富士の裾野の巻狩り、
鷹は浅野家の家紋、なすびは伊賀国の名物からきているのだという
ことになっています。うーん、どうなんでしょう。
自分には真偽のほどはよくわかりません。

元禄赤穂事件
xxxxxd (4)

さて、この中で「赤穂浪士の討ち入り」は、主君の敵というより、
浅野内匠頭の遺恨を家来が果たすという形で、幕府側から見れば
私闘であり喧嘩、浅野家遺臣側から見れば吉良家との合戦という
ことになります。ですから芝居や映画では大石内蔵助は陣太鼓を
打ちますし(史実ではないようです)、浪士はみな切腹となります。
ただ、これを敵討ちとみなすかどうかの論争は続きました。

「曽我兄弟の仇討ち」は、五郎と十郎の曽我兄弟が、1993年、
父の仇、工藤祐経を寝所で討つんですが、相手が酔いつぶれて遊女と
寝ていたところなので、あまり正々堂々とはしていません。祐経を
殺した後、兄はその場で討たれ、弟はなんと源頼朝の屋敷に
押し入り、そこで捕らえられて斬首となります。

曽我兄弟
xxxxxd (8)

御成敗式目の条文はこれを前例として敵討ちを禁じてるんです。
この事件、なぜ弟が頼朝の屋敷に入ったのか。じつは黒幕がいて
頼朝暗殺を指示していたという話があります。黒幕は、頼朝の弟、
蒲冠者範頼、あるいは北条家とされ、事実、この事件を契機として
範頼は失脚し、伊豆の修善寺で殺されてしまうんです。

最後、1634年の「伊賀越えの仇討ち」は、異例ずくめです。
まず弟の敵討ちであったこと。これは上記した敵討ちの基準に合致
しないんですが、藩主から内々の命を受けた上意討ちでもあったため。
兄の数馬は姉婿で郡山藩剣術指南役の荒木又右衛門に助太刀を依頼します。
この決闘、講談などでは又右衛門の36人斬りなどと言われますが、

荒木又右衛門
xxxxxd (5)

又右衛門が実際に倒したのは2名だけです。敵に数馬が手傷を
負わせるまで待って、又右衛門がとどめを刺しました。この4年後、
又右衛門は鳥取藩に移籍した直後に急死してしまうんですが、
あまりに唐突だったため、毒殺説や、死んだことにして身柄を
隠匿した説などが出されています。

さてさて、この他、長谷川伸の『日本敵討ち異相』を読めば、
農民の敵討ちの事例も出てきます。敵討ちは面目を重んじる武士だけの
ものでしたが、実行した農民は孝行者と称賛され、罪には
ならなかったようです。ということで、大急ぎで敵討ちについて
ふり返ってみました。では、今回はこのへんで。

xxxxxd (2)




義民伝説の周辺事情

2020.03.31 (Tue)
CCCCC (1)

今回はこういうお題でいきます。怖い日本史のカテゴリですが、
すごい地味な内容で、たぶんツマラナイと思います。
さて、どっから話していきましょうか。江戸時代初期、
堀田正盛という大名がいました。けして高い身分ではなかったのが、
義祖母である春日局が乳母をつとめた徳川家光が3代将軍になると、

異例の出世を重ね、下総佐倉藩の初代藩主となります。佐倉藩は
10万石程度ですが、江戸に近く参勤交代も楽です。
で、この正盛、家光の死の後すぐ殉死してるんですね。これは
おそらく、家光と衆道関係にあったためでしょう。そこで、
長男であった堀田正信が家督を継ぐことになります。

堀田正信
CCCCC (6)

ここからは伝説です。正信は藩主になったものの、後ろ盾であった
家光はすでに亡く、春日局も大奥を出てしまいます。
何もかも一人で裁量しなければならなくなったわけですが、
正信にはその器量はありませんでした。農民に対しては増税、増税、
年貢の取り立ても厳しく、藩内は暗くよどんでいきました。

名主たちが集まって話し合い、藩には何度も訴状を出して
困窮を訴えましたが、正信は聞く耳を持たず、そこで名主の一人であった
佐倉惣五郎は、直接江戸の老中に密書を送ったんですね。しかし、
一月たっても何の音沙汰もなし。ついに惣五郎は直訴の覚悟を決め、
一人江戸へと旅立ちます。1653年のことです。そして機をうかがい、

歌舞伎になった惣五郎


4代将軍、家綱が上野へ参詣する途上に潜み、訴状を掲げて
籠の前に走り出ます。直訴は死罪の定めですが、家綱は刀を抜いた
護衛を止め、訴状を取り上げます。かくして企ては成功し、
惣五郎にはお咎めなし。佐倉藩に年貢減免の命が幕府から
下されました・・・まあ、ありえない話ですがあくまで伝説ですので。

面目を失った正信は激怒、戻ってきた惣五郎の目の前で
4人の男児を惨殺。惣五郎夫妻は磔の刑としたんです。
それから、堀田家に怪異が起き始めます。正信の寝所に磔された姿の
惣五郎が現れ、とうとうと恨みを述べる。しかしお付きの小姓らには
見えません。正信は精神的に追い詰められ錯乱します。

佐倉惣五郎
CCCCC (2)

惣五郎の死から7年後、正信は江戸城内にて幕政を批判、
その内容は「幕府の失敗のために旗本・御家人、農民が窮乏しており、
自分は領地を返上する」というものでした。これは史実で、
正信は参勤交代を待たずに佐倉へ帰城してしまいます。切腹に
あたいする大きな罪でしたが、老中らは乱心のためとします。

堀田家は自ら述べたとおり領地を没収され、正信は信州の同族に
お預けとなります。うーん、寛大な処分で、何か裏がある気がします。
その後も、狂気の正信は何かと事件を起こしますが、処分から20年後、
将軍家綱の死にともない、正信はハサミで喉を突いて自害します。
お預けの身で切腹が認められなかったからですね。

ということで、惣五郎の死から27年がたって祟りが完了したと
見ればいいんでしょうか。それから90年たち、再興された堀田家は
再び佐倉の藩主となります。このあたりも何か事情がありそうに
思いますが、調べてもよくわかりませんでした。

将門口の宮神社(口の明神)
CCCCC (4)

1752年、佐倉藩藩主、堀田正亮は、惣五郎の百回忌にあたり、
「口の明神」という神社を創建し、惣五郎の魂を祀っています。
これも史実で、口の明神の御祭神は平将門と佐倉惣五郎。
つまり怨霊鎮めの社と見て間違いはないのではないかと思います。

これでだいたい伝説は終わりです。神社創建で、佐倉藩が
惣五郎伝説を認めた形になったので、その後、義民伝説は芝居や講談、
読本で取り上げられて江戸市中に広まったんですね。
さて、残り字数は少ないですが、少し考証してみます。

まず、惣五郎は実在の人物か? これ、以前は架空説があったんですが、
1715年に成立した『総葉概録』には、佐倉城下近辺に「総五」という
農民がいて、何らかの罪を得て処刑されたこと。冤罪であると主張して
城主を罵りながら死んだこと。堀田家の改易がその祟りと
噂されたことが記されています。

田中正造
CCCCC (5)

ただ、総五が一揆を企てたり、まして将軍に直訴をしたという資料は
残っていません。いくらなんでも直訴は無理だと思います。
警備が厳しくてできなかったでしょうし、もしそういうことが
あったら、必ず資料として書かれたものが残っているはずです。

総五が罪を得た理由にはさまざまな説があります。千葉氏の再興問題、
隠し田摘発、利根川治水工事・・・しかし確証となる資料は
見つかっていません。惣五郎の訴状なるものが残っていますが、
これは明らかに後代につくられたものです。

直訴する田中正造
CCCCC (7)

さてさて、ここまで見てきたように、惣五郎伝説は言葉どおり伝説の
域を出ないんですが、後代に影響を与えました。1901年、
衆議院議員を辞職した田中正造は、帝国議会開院式から帰る
明治天皇の馬車に、足尾鉱毒事件について直訴。警備の警官に
取り押さえられますが、狂人がよろめいただけとされ、

即日釈放されて罪にはなりませんでした。ちなみに直訴状は
幸徳秋水が書いたもので、その内容は新聞に取り上げられ、東京市中は
大騒ぎになり号外も出ました。直訴の前に正造の盟友石川半山は、
「君はただ佐倉惣五郎たるのみ」と励ましたと伝えられています。
では、今回はこのへんで。

※ 千葉県の郷土史などを研究されている方で、何かご教示いただければ幸いです。

CCCCC (3)